伊藤 亜紗 中島 岳志 若松 英輔
國分 功一郎 磯崎 憲一郎
「利他」をキーワードに五人の執筆陣が論考をめぐらせた本だが……。
正直、それぞれが好き勝手に書いているだけなので本としてのまとまりはない。しかも後半の執筆者になるにつれてどんどん話は抽象的・哲学的になってゆく。まあそりゃそうか。「利他」を語るなら、哲学の話になるのは必然か。
とはいえ「コロナ禍によって世界が危機に直面するなか……」なんて説明文だから、もうちょっと即時性のある内容かとおもったぜ。
伊藤亜紗さんの文章がいちばんおもしろかった。
よく「相手の立場に立って考えましょう」なんていうけど、あれは良くない。もちろん優しさにつながる面もあるけど、同時に他人の行動を縛るためにも使われる。
「自分があなたの立場に立ったらそんなことはしない。だからあなたもやめるべき!」という方向に容易に進んでしまう。「自分が障害者だったら他人に迷惑をかけないように暮らす。だから障害者はつつましく生きるべきだ!」となってしまう。
想像力や共感は、他人の行動を制限するためにも使われるのだ。
〝想像力のある人〟が、「自分が車椅子ユーザーだったら電車に乗る前に駅員に連絡をする。だから連絡をせずに駅員に迷惑をかける車椅子ユーザーは非常識だ!」と叫ぶのだ。
その想像はせいぜい「短期的に車椅子に乗ることになったら」ぐらいで、「一生車椅子に乗って生活する」ことまでは想像できていないことがほとんどなんだけど。
親切にするとき、見返りを求めてしまう。べつに金銭的なものだけでなく「喜んでもらう」「感謝される」ことを当然のものとおもってしまう。
被災地に入ったボランティアが、被災者の気持ちを無視して親切心を押しつけようとする、なんて話をよく聞く。利他的にふるまうときこそ他人に迷惑をかけやすいのだ。
ダン・アリエリー『ずる 噓とごまかしの行動経済学』という本に書いてあったが、人は、自分が利益を得るときよりも他人が利益を得るときのほうが不正をしやすいそうだ。
私利私欲のために不正をはたらくのは良心のブレーキがかかりやすいが、「チームのため」「会社のため」「国のため」とおもうと、言い訳がしやすくなる分不正に走りやすくなる。金儲けのために殺人はできない人でも、「国のため」と言い聞かせれば戦争で人を殺せるわけだしね。
虐殺や残酷なリンチはたいてい〝崇高な目的〟のためにおこなわれる。
募金活動をしている人が通行人の妨げになっている。
よりよい未来をつくるはずの人が選挙カーで大音量で自分の名前を連呼する。
〝モラル・ライセンシング〟 という言葉がある。
何かよいことをすると、いい気分になり、悪いことをしたってかまわないと思ってしまうという現象を指す言葉だ。
「自分はいいことをしている」とおもっている場合は要注意だ。
國分功一郎さんの文章より。
ほう。この考えはおもしろい。
「私の意志でやりました」というのは、潔いように感じる。
だけどそれは、本当の原因を隠蔽する行為でもある。
もちろん原因なんてひとつじゃないし、やろうとおもえばいくらでもさかのぼれる。最後は「人間が誕生したことが悪い」にまで行きついてしまう。
だから現実問題としてはどこかで因果関係を切断する必要がある。それが「意志」だ。
あいつが良からぬことをしようとした。だからあいつが悪い。それ以上はさかのぼる必要がない。
これはすごくわかりやすい考えだが、危険でもある。もっと奥深くにある原因にたどりつくことができず、また同じ過ちをくりかすことにつながる。
官僚が文書を改竄した。悪いことだ。
だが、その官僚の「意志」でやったということになれば、責任を問われるのはその官僚まで。彼に指示した上司も、その上司の上司も、さらには「こんな文書があるとまずいことになるな」と忖度させた総理大臣も、責任をとる必要はなくなる。
「意志」は潔いことではなく、責任放棄、思考停止のための手段なのかもしれない。
その他の読書感想文は
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