助数詞はややこしい。
助数詞というのはものを数える単位だ。「匹」とか「枚」とか「個」とか。
うちの長女は七歳なのでもうそれなりに日本語は使いこなせるが、それでも助数詞はよくまちがえる。
「ハトが一匹」とか「靴が一個」とか言ってしまう。
日本語を学習する外国人も苦労するだろう。
ぼくも中国語を学んでいたとき、量詞(やはりものを数える単位)をおぼえるのに苦労した。中国語の量詞は日本語の助数詞と同じようでちょっとちがう。
水やお茶を「一杯」と数えるのは同じだが、「本」は本や雑誌を数える単位だったり、手紙は「通」ではなく「封」だったり、いろいろややこしい。
そもそも助数詞は何のために必要なんだろう。
英語にはほとんどない。「two dogs」「three dogs」だ。
(「a sheet of paper」とか「a cup of tea」などの言い回しはあるが)
べつになくても困らないからないのだろう。。
幼児はなんでも「一こ、二こ、三こ」で数えるけど、それでいいんじゃないだろうか。
犬も本も人も家も「一こ、二こ、三こ」でいいんじゃないだろうか(家はカナで書けば「一こ、二こ、三こ」だけど)。
助数詞を使うメリットはなんだろうか。
考えられるのは、省略できるということである。
スプーンとコップとテーブルクロスがあるとき、「それ一本とって」といえばスプーンのことだとわかる。「一個とって」ならコップ、「一枚とって」ならテーブルクロスだとわかる。
英語なら「one spoon」と言わなくてはいけない。
こういうとき、助数詞はちょっとだけ便利だ。
とはいえ。
こういう状況はあまり多くない。
スプーンとフォークとナイフとお箸があるとき「それ一本とって」ではどれのことかわからない。
覚える苦労と、メリットが釣りあわない気がする。
なにより助数詞がややこしいのは、法則がないことだ。
いや、一応法則はある。
細長いものは「本」、薄っぺらいものは「枚」、書物の類は「冊」、小さい動物は「匹」、大きい動物は「頭」、鳥は「羽」というように。
だけど例外も多い。
ウサギは「羽」、イカは「杯」、タンスは「棹」、蚕は「頭」……。例外はいっぱいある。
また、同じものなのに状況によって数え方が変わったりする。
イカ・タコは生きてるときは「匹」で食べ物としたら「杯」、魚も「匹」と「尾」、家は「軒」だったり「戸」だったり「棟」だったり。
「1試合にホームラン3発」とはいっても「年間30発のホームラン」とはいわない。この場合は「30本」になる。そもそもホームランがなんで「本」なのかさっぱりわからない。細長くないし。
さらには複数を表す単位もある。
「お箸一膳」とか「靴一足」とか「寿司一貫」とか言われるたびに、それってひとつ? それとも一セットのこと? と迷ってしまう。
なんとかならんもんか。
せめて人は「一人」、日にちは「一日」、月(暦)は「一月」、年は「一年」、株式は「一株」、米俵は「一俵」、戦いは「一戦」、瓶は「一瓶」、箱は「一箱」、畳は「一畳」、イニングは「一イニング」みたいにシンプルにできないものか。
しかし「そのものの名前を使って数える」ものはごくわずかだ。上に挙げたものぐらいしかおもいつかない。
以前読んだ『カルチャロミクス』という本に、英語の不規則動詞はどんどん減っていっていると書いてあった。
昔は動詞の活用の仕方はばらばらだった。
だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができた。こっちのほうが覚えるのが断然楽なので、次第に動詞の活用は規則活用に変わっていった。特に使用頻度の高くない動詞は忘れられやすいので、規則動詞になっていったらしい。
だから今も残っている不規則動詞は、[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、基本的には使用頻度の高いものばかりだ。
文法は(ほんのちょっとずつではあるけど)単純になっていくのだ。
だから何百年後かの日本語は、助数詞がずっと少なくなっているにちがいない。
犬もクジラも鳥も魚も人間も「匹」、椅子も机も鏡も「台」か「個」、シャツもズボンも着物も帽子も靴も「枚」。
そんな感じで単純化していくにちがいない。
とおもっているのは、ぼく一匹だけではないはず。
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