2019年7月10日水曜日

塾に行かせない理由


まがりなりにも人の親をやっている。
上の子は来年小学生。早いものだ。

保護者同士で話していると、小学校受験だ塾だといった話題も耳にする。
受験対策の塾に行っている子(月謝が五万円以上もするという。ひええ)、公文に通っている子、英語を習っている子。
みんないろんな教育を受けている。まだ小学校入学前なのに。

一方、うちの娘がしている習い事はプールとピアノ。勉強系はやらせていない。
他のお父さんお母さんから「受験させないんですか?」「いっしょの塾に行かせませんか?」と言われて「いやーうちはいいですわー」とへらへら答える。

しかし心の中ではこうおもっている。
「なんも考えてないわけじゃない。娘のためをおもった結果、塾に行かせないんです!」



塾に行かせていないのは、ぼくなりにいろんな本を読んだ(個人的な体験に基づく自称教育書ではなくデータに基づく本ね)結果、今の時期に塾に行かせて勉強させるのはデメリットのほうが多いと考えたからだ。

いくつかの本を読んで得た知見は、
  • 知能は遺伝によって大部分が決まる。
  • 幼少期の知性は教育によって大きく変わる。しかし思春期になると先天的な要因のほうがずっと大きくなる(つまり幼少期に与えた教育の効果は長続きしない)
  • 親が直接的に子に及ぼす影響はわずか。しかし親以外の環境の影響は受ける。
ということだ。

遺伝は今さらどうにもならないことなので、ここをあれこれ悩んでも仕方がない。
「ぼくと妻の子なんだから賢いはず!」と無根拠に信じこむしかない。

「親が勉強させる」はすぐ通用しなくなると知った。
幼少期は言われるがままにやってくれるかもしれないが、成長するにしたがって親の言いなりにならなくなる(もし親の言いなりで動く人間のままだとしたら勉強ができない以上にヤバい)。

だから、ぼくが子どもに対して求めるものはただひとつ。

「自発的に学習する人間になってほしい」

これが大目標。
自発的に学習する人間になれば、どんな学校に行っても、どんな仕事についても、どんな環境におかれてもそれなりにうまくやっていける。
「勉強ができる」はその結果であって、目的ではない




「自発的に学習する人間になってほしい」
この目標を達成するために必要なものは、ぼくの考えでは大きく三つ。

読解力」「論理的思考力」そして「知的好奇心」だ。

読解力

読解力はすべての基本だ。
情報の伝達は文字を通しておこなわれるのが基本。少なくともあと百年は変わらないだろう。本の役割は小さくなるかもしれないが、文字はまだまだなくならない。
「人から教えてもらう学習」には限界がある。能動的に学ぶためには読解力は必要不可欠だ。

論理的思考力

たとえば「AならばBは自明である。だからといってBならばAとはいえない」。こんなレベルの論理でも、わかっていない人は世の中には存外多い。
どれだけ文字を読んでも、論理的にものを考えられなければどうしようもない。

知的好奇心

勉強が苦行だとおもっている人のなんと多いことか。
何度も書いているが、勉強は本来たのしいものだとぼくは信じている。
わからなかったことがわかるようになる、こんなにおもしろいことはない。全人類に共通する悦びだ。
でも世にはびこる「勉強は苦しくてつらいもの」という言説のせいで嫌いになってしまう人は多い。
娘には、学ぶことを好きになってほしいと常々おもっている。


大目標達成のためにやっていること

まず読書。
月に一回ぐらいは本屋に行って、本を何冊か買ってあげる。
隔週で図書館に行って十数冊の児童書を借りる。
で、毎晩寝る前に読んであげる。それ以外でも読んでくれと頼まれたらなるべく読んであげる。
ぼく自身もよく本を読んでいるので、娘も本を好きになった(親が読まないのに子が読むわけがない)。
ひとりで本を読んでいることもよくある。

それからパズル。
ぼくは子どものころ、ずっとペンシルパズルをやっていた。クロスワードとか数独とか、ああいうやつね。『ニコリ』という雑誌を定期購読していた。『ニコリ』は日本唯一といっていいパズル総合誌だ。
ありがたいことにニコリには子ども向けコースがある(こどもニコリ)。
これを申しこんだ。娘は楽しくやっている。

他に、どうぶつしょうぎ、トランプ、バックギャモンなど、テーブルゲームをよくやっている。論理的思考力が鍛えられそうだし、なにより、いっしょに遊んでいるぼくが楽しいから。


なにより大事なことだが、読書もパズルもゲームも強制しない。
「本読む?」「パズルしない?」と誘うことはあるが、断られたら引き下がる。
買う本、借りる本は娘に決めさせる。「これおもしろそうじゃない?」と提案はするが、娘が「やめとく」といったらそれ以上は勧めない。
ぼくが「つまんなさそう」とおもっても、娘が読みたいといった本は買ってあげる。

他人に何かを嫌いにさせるのはかんたんだ。強制すればいい。
「毎日ゲームを二時間以上やること。どんなに忙しくても気が乗らなくても途中でやめてはいけない」というルールを決められたら、ゲームを見るのもイヤになるだろう。

だから、学ぶことを娘に対して決して強制しない。
「パズルしてもいいよ」とは言うが「パズルしなきゃダメ」とは言わない。

おもえば、ぼくの両親もそうしてくれていた。
母はぼくの手の届くところにいろんな本を置いていたし、父は「おもしろそうだったから」といってパズルやクイズの本を買ってきてくれた(『ニコリ』ともそうやって出会った)。
だが読書やパズルを強制されたことはない。
おかげでぼくは読書とパズルが好きになり、ついでに勉強も好きになった。
幼少期から塾に通わされていたら、勉強を好きにはなっていたかどうか。

ひとくちに塾といってもいろんな方針の塾があるのは知っている。
決して押しつけないやりかたをとっているところもあるだろう。

でも、その考えがすべての講師に徹底されているかどうか。
まじめな講師ほど「月謝をもらっているんだからちゃんとやらせないと!」とおもってしまうのではないだろうか。

それに、娘が「今日は塾に行きたくない」と言いだしたとき。
「じゃあ行かなくていいよ」とぼくが言えるかどうか。
月謝が月に五万円、ということは一回一万円以上、行かなかったらそれが無駄になる……。とそろばんをはじいてしまわないだろうか。
とても自信がない。



今のところ、娘は学ぶことが好きだ。
「本読みたい」「パズルやってもいい?」と言ってくる。図書館に行くのも本屋に行くのも好きだ。そしてなにより、新しい場所にいくこと、やったことのないものが大好きだ。

どうかこのまま勉強を好きでいてほしい、そのために全力でサポートしてやりたい。
それが「娘を塾に通わせない理由」だ。


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2019年7月9日火曜日

【読書感想文】ビミョーな間柄の親戚 / 新津 きよみ『孤独症の女』

孤独症の女

新津 きよみ

内容(e-honより)
甥の翔が生まれたとき、目元が由希によく似ていると言われた。似ていたのは顔だけでなく、幼い翔は絵の才能があった。画家になることが夢だった由希は、その夢を託すように彼に絵の指導を始めた。いつしかその思いは過剰なものとなるが、成長する翔の時間は他のものに奪われていく。焦燥を隠しきれない由希は―(「愛甥」)。全七篇、様々な家族のカタチを描く珠玉の作品集。

姑、異母兄弟、義理の兄、兄嫁、別居中の夫など「ビミョーな間柄の親戚」との関係を描いた短篇七篇を収録。


ぼくもいい歳になったし結婚したことで「ビミョーな間柄の親戚」が増えた。
義父母、義妹、義妹の夫、義兄、義兄のおとうさん、義兄のおとうさんが再婚した相手(つまり義兄の義母)、いとこの夫、いとこの子(従甥(じゅうせい)/従姪(じゅうてつ)っていうんだって。なんか怖い響きだよね)……。

配偶者は自分で選ぶけど、その親戚までは選んで親戚になったわけじゃない。妻の妹の夫、なんてほぼ他人だ。
だけど親戚の集まりや法事などで顔を合わせる機会はけっこうある。むげにもできない。
けれど年齢も職業もぜんぜんちがうし共通の趣味もない。
ちょっとした話はしなければならないが共通の話題もない。「お正月休みはいつまで?」とか「お子さん大きくなりましたよねえ」「いやまだまだわがままな子どもですよ」とか毒にも薬にもならぬ話題でなんとかやりくりをする。大人ってたいへんだ。

幸いうちの親戚はみんな常識人だし(たぶん)、そもそもお互いそんなに濃密な付き合いをしないようにしているので「間が持たなくて気づまり」ぐらいで済んでいるが、「金に困っている親戚」とか「良からぬことを生業にしている親戚」とか「やたらとなれなれしくしてくる親戚」とかがいると、苦労もそんなもんでは済まないだろう。

誰しも「この人と結婚していいだろうか」と悩むだろうが、ぼくに言わせれば結婚がうまくいくかどうかなんて運でしかないとおもう。
結婚してから豹変する人は(たいていの場合悪くなる)いくらでもいるし、それを事前に見抜くのはほぼ不可能だろう。
結婚相手ですらわからないのだから、結婚相手の親戚がマトモな人かどうかなんてわかるわけがない。完全に博打だ。

無作為に選んだような相手と、家族同然の付き合いをしたりお金の交渉をしたりしなければならないわけだから、当然そこにはサスペンスやホラーのドラマが生まれる。
小説としていい題材だとおもう。




中でもいちばんおもしろかったのは『愛甥』。

顔も才能も自分に似た甥に対して、果たせなかった夢を投影する独身の伯母。甥に期待するあまり両親の教育方針に疑問を持ち……。

正直早い段階でオチは読めたが、それでもよくできた小説だとおもう。
叶えられなかった過去の夢を投影する先として、甥という存在はすごく絶妙だ。

ぼくにも姪と甥がいるが、すごくかわいい。
自分の子に感じるのとはまたちがった愛おしさがある。

姪や甥に対しては、ただかわいがるだけでいい。将来をおもって厳しく叱ったりしなくていい。たまに会うだけなので好きなだけかわいがってやればいい。会うたびにお年玉やプレゼントをあげて、いっしょに遊んでやる。甥姪がおかあさんに怒られていたらなぐさめてやる。多少のわがままも笑って許してやる。
甘やかすので、向こうもこちらになついてくる。なおのことかわいい。

甥や姪は遺伝子的にはけっこう近い。四分の一は自分と同じ遺伝子を持っている計算になる。孫と同じだ。
働きバチは子どもを産むことができないが、妹のために働く。妹や姪が出産することで自分の遺伝子を残すことができるからだ。
甥や姪がかわいいのは、遺伝子を残す上でもあたりまえのことだ。

わが子であればふだんから見ている分、欠点も見える。
けれどたまに会う甥や姪はいいところしか見えない。ぼくが彼らに「優しいおじさん」の顔しか見せないのと同じで。
だから余計に期待を抱いてしまうのかもしれない。


遠くから応援する程度であれば過度な期待に害はないかもしれないが、なまじっか距離が近ければその期待は甥姪を苦しめる刃になるかもしれない。

「おじ/おば」と「甥/姪」の関係って、家族であり他人であり上下関係であり横の関係であり、じつは愛憎紙一重な間柄かもしれない。


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2019年7月8日月曜日

【読書感想文】己の中に潜むクズ人間 / 西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

二度はゆけぬ町の地図

西村 賢太 

内容(e-honより)
中卒で家を出て以来、住み処を転々とし、日当仕事で糊口を凌いでいた17歳の北町貫多に一条の光が射した。夢想の日々と決別し、正式に女性とつきあうことになったのだ。人並みの男女交際をなし得るため、労働意欲に火のついた貫多は、月払いの酒屋の仕事に就く。だが、やがて貫多は店主の好意に反し前借り、遅刻、無断欠勤におよび…。夢想と買淫、逆恨みと後悔の青春の日々を描く私小説集。

この人の本ははじめて読んだ。気になってはいたんだけどね。芥川賞受賞式での「風俗」発言とか、テレビに出ても少しも賢く見えるようにとりつくろわないところとか。

小説ではあるがほぼ実話だそうだ。
主人公の「北町寛多」はその字面からして明らかに「西村賢太」だ。
すごくおもしろかった。
身内の恥を切り売りするのが小説家の商売だとどこかで読んだことがあるが、それにしてもよくぞここまで己の醜いところをさらけだせるものだと感心する。

たとえば『潰走』における、家賃を払わない寛多と大家である老人のやりとり。
「とにかく、六千円あるならば、まずはそれを内金として払って下さい。こっちはあんたにあの部屋を、無代提供してるわけじゃないんですよ」
 もはや貫多も、これ以上この老人からの必要以上の恥辱に晒されるのには耐えられず、目に涙をためながら、仕方なく有り金をそっくり差し出した。
 するとそれを取り上げた老家主は、さらに残金はいつ入れるのかと、手をゆるめることなく追及してくる。そしてこれも、一週間後に、と答えたのを強引に三日後までとされてしまい、尚かつそれについては念書まで提出することを約させられることとなった。
 貫多が吐きたい気持ちを抑え、持ち主憎さで、もはやけったくそ悪いだけのかのアパートの自室に戻ったときは、毛布と僅かな衣類が転がっているきりの四畳半には、すでに暗闇の匂いが広がっていた。
 電気をつけてポケットに残ったジャラ銭をかぞえ終わると、ふいとあの老家主に対して殺意が湧いてきた。そしてその思いはすぐと我が身に返り、中学時分にだって、したことはあれ、決してされたことはなかったあのカツアゲを、あんな老人からやってのけられ不様に震えてた自分を、実際蹴殺してやりたい衝動に駆られてきた。
自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱く。ひでえ。ラスコリーニコフかよ。

この北町寛多、クズすぎて同情できるところが少しもない。
家賃を滞納したのも稼ぎを風俗や酒に使ったせいだし、大家に対してもその場しのぎの言い訳ばかり並べている。誰が見ても10対0で寛多が悪い。
にもかかわらず、その後も家賃を督促する大家のことを「悲しい生きもの」だの「余りの非常識」だの「嘗めきった態度」だの「乞食ジジイ」だの、さんざんにこけおろしている。クズ中のクズだ。

しかし。
見ないようにしているだけでぼくの中にも北町寛多は存在する。
周囲の人間を全員自分より下に見て、己の怠惰さが招いた苦境を他人のせいにして不運と嘆く人格は、たしかにぼくの中に生きている。己の不幸は他人のせい、他人の不幸はそいつのせい。己の欲望や怠惰になんのかんのと理由をつけて正当化。

この本を読んでいると、見たくもない鏡をつきつけられているようでなかなかつらい。おまえは寛多を嗤えるのかい、と。

ぼくは今でも身勝手な人間だが、特に二十歳くらいのときはもっとひどかった。
自分以外はみんなバカだとおもってた。それを公言してはいなかったが、きっと言動からはにじみ出ていただろう。

傲岸不遜、けれども他者に対しては潔癖さを求める。
北町寛多はまさしく過去のぼくの姿だ(もしかしたら今の姿かもしれない)。



全篇味わい深かったが、特に『春は青いバスに乗って』はよかった。

ずいぶんメルヘンチックなタイトルだとおもって読んでみると、著者(じゃなかった北町寛多)が警官をぶんなぐって警察のお世話になったときの話だった。

つまり青いバスとは、あの金網のついた警察の護送車のことなのだ。そういや青いな。
――ところで慣れと云うのは恐ろしいもので、当初一秒でも早くここから出たかった私も、それから三日も経てると、これでもう少し煙草が吸え、たまに面会人でも来てくれれば、それ程留置場と云うのも悪くない気分になっていた。留置場と云うより少し規則の厳しい寮にいるような錯覚が起きるときもあり、横になってひたすら雑誌に目を落としているときなぞ、ふいに自分が入院生活でも送ってるかの思いがした。現に健康面でも、毎日飲酒していた私がここに来て一週間足らず、その間、当然ながら一滴の摂取もないだけでえらく体にキレがあり、頭も妙に爽快である。かようなブロイラーじみた日々は、本来ならぶくぶくと太りそうなものだが、後日ここを出た直後に体重を測ったら、逆に八キロ近く落ちていた。
 こうなると留置場も、どうも私にとってはある意味天国で、その環境は少なくとも自己を見つめ直したり、罪を隠い改めるような余地なぞ全く生まれぬ場所であるようだった。ただ、ここに入るには家族親類、友人がいなければ絶対に不利である。面会や差入れのない惨めさや不便さが解消され、それに性絵面で、せめて便所の謎の両側にもう少し目隠しがあれば(そう云えばここへ入って一週間、少なからぬ心労でついぞその気にもならなかったが、下腹部の疼きはそろそろ臨界に近い雰囲気もあった。それであえて借りる本に成人雑誌は選ばないようにしたが、ここに二箇月近く収容されながらそれをすすんで手にし、平然と眺めている広岡たちは、この点をどう解消しているのだろうか)、ここは一種の保養所みたいなものだし、これなら何度入ってもいいとさえ思えてくる。
幸いにしてぼくはまだ留置所に入ったことはないが、留置所の環境が「ある意味天国」というのは容易に想像がつく。

なにしろ決断しなくていいのだから。決断しなくていいことほど楽なことはない。
決められた時間に決まったことだけやって、先のことは何も考えずに生きていく。これぞ天国の生活だ。だってそうでしょ? 天国の住人たちが「これから先どうやって生きていこう」「ずっとこんな生活を続けていていいんだろうか」って思い悩む?

学校生活というのも、留置所の生活に近いとおもう。
言われたことだけやっていればいい。いくつかのルールがあってそれさえ守っていればそこそこ快適な生活が保障される。ただしルールを逸脱した場合は厳しい罰が課せられるが、決断をしたくない人間にとってはいたって気楽なものだ。

ぼくは学校生活を楽しいとおもっていた人間なので、留置所や刑務所に入ってもそこそこうまく適応できるだろうという気がする。
もっと今のところは入る気ないけど。

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2019年7月5日金曜日

【読書感想文】政治の世界の不透明さ / 曽根 圭介『黒い波紋』

黒い波紋

曽根 圭介

内容(e-honより)
元刑事・加瀬将造(38)は、借金取りから逃げ回るロクデナシの日々を送る。ある日、子どもの頃に家を出ていった父親が、孤独死したとの知らせを受ける。加瀬は父親が住んでいたボロアパートを訪ね、金目のものがないかと探すと、偽名で借りた私書箱の契約書があり、何者かが毎月30万円を送金していることを知る。さらに天井裏には古いVHSのビデオテープが隠されていた。再生した映像に映っていたのは…。

曽根圭介作品を読むのは六冊目。
……なのだが、これは期待外れだった。

中盤まではおもしろかったんだけどな。

死んだ父親の遺品を整理していたら、「毎月三十万円を誰かから送金されていた」記録の残る通帳と、犯罪行為を記録したビデオテープを発見する。
で、それらをもとに話が進んでいくので「なるほどこの三十万円とビデオテープの出所が最後につながるのね」と思いながら読んでいたら……。

つながらないんかい! まったくの別案件かい!
途中で国会議員、革命家グループ、右翼団体、冤罪事件などいろんな要素が出てくるのだが、それらもほとんどつながらないまま終わってしまう。
えええ……。
「最後で明らかになる意外な真相」みたいな感じをすごい出してたのに……。

曽根圭介作品、文章はさほどうまくないけどプロットはしっかりしていてそこが好きだったんだけどな。
これは風呂敷の畳みかたがへただったなあ。



この小説内では殺人、脅迫、暴力などが描かれるが、そのへんの描写はべつにこわくない。
おそろしいのは「政治の世界」だ。
もちろんこの作品はフィクションだが、「政治の世界ならこれぐらいのことがまかりとおってもおかしくないな」とおもわせる説得力がある。

ぼくもそうだけど、政治家と個人的にかかわったことのない人にとって政治家稼業ってまったく得体が知れない世界じゃないですか? 政治家という人物はよく見るのに、裏で何をやっているかまったく知れない。
その不透明さは、もしかしたらヤクザ以上かもしれない。

『黒い波紋』はそういう怖さを書こうとした作品だったのかもしれない。
そうだとしたらすごくおもしろい試みなんだけど、それにしては余計な要素が多すぎるんだよなあ。

いろんな要素をちりばめすぎて散漫な印象になっちゃったな。


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2019年7月4日木曜日

【読書感想文】家庭料理のプロ / 中原 一歩『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』

小林カツ代伝

私が死んでもレシピは残る

中原 一歩

内容(e-honより)
“家庭料理のカリスマ”と称された天性の舌はどのように培われたのか。その波瀾万丈の生涯を、伝説のレシピと共に描く決定版評伝。

「家庭料理のプロ」としてテレビ番組出演やレシピ本の執筆をしていた小林カツ代さんの評伝。

正直、評伝としてはものたりない。
だって小林カツ代さんを必要以上にもちあげているんだもの。
欠点や失敗や過ちも書くことで人間が立体的に浮かびあがってくるものなのに、『小林カツ代伝』ではほめちぎってばかり。
著者は小林カツ代さんと生前から親しくしていたそうで、文章の端々から遠慮が感じられる。
近しい人だからこそマイナス面も見てきたはずなので、そこに踏みこんでほしかったな。

カツ代さんが亡くなったのが2013年、この本の慣行が2017年。評伝を書くには早すぎたのかもしれない。

大崎善生さんが書いた団鬼六の評伝なんて、団鬼六のクズっぷりもありのままに記していて、それがかえって清濁併せ呑む団鬼六の懐の深さを魅力的に伝えていた。
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』

故人を侮辱しろとはいわないけれど、好きだからこそ書ける欠点もあるとおもうんだけどな。


あと一章『料理の鉄人』はいらなかったな。少なくとも冒頭に持ってくる内容ではなかったようにおもう。
このエピソードからは小林カツ代さんの人間性は伝わってこない。
「あの『料理の鉄人』に出て鉄人に勝ったんだぞ!」ってのが勲章になるような世界に生きてた人じゃないでしょ。



構成はともかく、小林カツ代さんという人の生涯はおもしろかった。

料理を職業にするぐらいだから小さいころから料理好きだったのかとおもいきや、なんと結婚するまで味噌汁はダシをとるということすら知らなかったらしい。

結婚後も料理とは関係のない仕事をしていたが、テレビ番組に「料理のコーナーをつくってほしい」と投書をしたことから運命が決まる。
ディレクターから「だったらあなたがやってみてはどうか」と言われ、まったくの素人でありながらテレビの生放送で料理を披露。それが好評を博して次々に料理の仕事が舞いこみ、ついには百冊以上の料理本を出すほどの人気料理研究家に……。

これぞとんとん拍子、と驚くようなサクセスストーリー。
もちろん幸運に恵まれたこともあるが、それ以上に幼少期からおいしいものを食べて育ってきたことで培われた「味の才能」を持っていたことが成功の要因なのだろう。

しかし、カツ代さんがその番組を観ていなければ、投書をしていなければ、ディレクターが出演を依頼しなければ、小林カツ代という稀代の家庭料理人の才能が花開くことはなかった。
もしも小林カツ代さんが数多のレシピを発表することがなければ、現代の日本人の食卓もけっこうちがったものになっていたかもしれないなあ。

女性の社会進出も今より遅れていたかもしれない。



カツ代さんは、家庭料理のプロとして生きていた人だった
 カツ代はプロの料理と家庭料理には、決定的な違いがあることを、天ぷらを例にあげてよく説明していた。
「家庭料理の場合、作り手も食べ手であるということです。だから、台所に立つ作り手も、食卓を囲む家族の一員として、熱々の揚げたての天ぷらを一緒に食べるにはどうすればよいかを考えなくてはならない。これが料理研究家の仕事なんです」
 確かに、お店ではカウンター越しにプロの料理人が天ぷらを揚げ、その熱々が客に振る舞われる。しかし、家庭ではそうはいかない。それに一般家庭の台所で天ぷらなど「揚げ物」を作ることは、手間暇と共に技術が必要で、家庭では敬遠されてきた。
 そこでカツ代が考えたのが「少量の油で一気に揚げる」という手法だった。しかし、これは「たっぷりの油で、少しずつ揚げる」という従来の天ぷらの常識とは真逆の手法だった。
「それまでは、親の手作りが一番尊いという信念がありました。けれども、子育てをする中で、さまざまな境遇の母親に出会い、必ずしもそうでないことを知ったのでしょう。おいしい料理を作ることは大切だが、それよりも、おいしく食べることのほうが何倍も大切だということを、先生自身が学んだのだと思います」
 つまり、時間に追われた状況の中で、手を抜けるところは抜かないと、とても毎日の食事を作り続けることはできない。カツ代のレシピが、当時、出版されていたそのほかの料理本と比べて画期的だったのは、例えば「ドゥミグラスソース」「トマトジュース」の缶詰など既成の食品を、何の言い訳もなく堂々と使ったことだ。また、ある時はスーパーで売っている焼き鳥を買ってきて、温かいご飯の上にのせて焼き鳥丼にする提案もいとわなかった。「全てが手作り」が当たり前の時代である。当然、「母の手作り話」を信仰する輩からは批判も多かったようだが、そうでもしなければ、日々の料理を作り続けることができない、働きながら子どもを育てる切羽詰まった女性たちに、カツ代のやり方は全面的に受け入れられる。ただ、お味噌汁くらいは、一から出汁をとって、野菜を補うため具だくさんにするといい、という提案も忘れなかった。

たしかに天ぷら屋さんに行くと、板前さんがちょっとずつ揚げてアツアツを食べさせてくれる。
もちろん天ぷら屋さんの天ぷらはおいしいけど、家庭で同じことはできない。そんなことしてたらはじめに揚げたものが冷めてしまうし、なによりめんどくさい。

家庭で求められる料理の条件は
「短時間でできる」「他のおかずと同時進行で作れる」「冷めてもおいしい」「つくりおきができる」「レンジであたためなおしてもおいしい」「材料を残さない」
などで、お店の料理とはまったくべつものなんだよなあ。

毎回毎回全力でおいしいものを作らなければならないシェフや板前と、365日食べても飽きないものを作らなければならない主婦は、短距離選手とマラソンランナーぐらいぜんぜんちがう能力が求められるんだろうね。



 カツ代は生前、こんな言葉を残している。
「お金を払って食べるプロの料理は、最初の一口目から飛び切りおいしくなくてはならない。一方、家庭料理は違う。家族全員で食事を終えたとき、ああ、おいしかった。この献立、今度はいつ食べられるかなって、家族に思ってもらえる必要がある。家庭料理のおいしさは、リピートなんです」
 何度も何度も家族にリクエストされて、そのレシピは、その家の味となって家族の舌に記憶されるというわけだ。

これ、土井善晴さんも同じようなことを書いていたなあ。
家庭の料理はそんなにおいしくなくていい、と。
 ご飯や味噌汁、切り干しやひじきのような、身体に良いと言われる日常の食べ物にはインパクトがないので、テレビの食番組などに登場することもないでしょう。もし、切り干しやひじきを食べて「おいしいっ!」と驚いていたら、わざとらしいと疑います。そんなびっくりするような切り干しはないからです。若い人が「普通においしい」という言葉使いをするのを聞いたことがありますが、それは正しいと思います。普通のおいしさとは暮らしの安心につながる静かな味です。切り干しのおいしさは、「普通においしい」のです。
 お料理した人にとって、「おいしいね」と行ってもらうことは喜びでしょう。でもその「おいしい」にもいろいろあるということです。家庭にあるべきおいしいものは、穏やかで、地味なもの。よく母親の作る料理を「家族は何も言ってくれない」と言いますが、それはすでに普通においしいと言っていることなのです。なんの違和感もない、安心している姿だと思います。
(土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』)

ぜんぜん関係ないけど、ぼくはこうやって毎日のようにブログを書いているが、書いているうちにどんどん楽に書けるようになってきた。
昔は「おもしろい文章を書きたい」「センスが光る名文を」と身構えながら書いていたが、書けば書くほどそんなものは自分には書けないとわかった。
プロの作家だったらそれじゃダメなんだろうけど、ぼくは文章で飯を食っているわけじゃない。
うまくなくてもおもしろくなくても、好きなように書けばいいのだ。

家庭で料理をする人は、お金をとれるような格別においしい料理を毎日作っているわけじゃない。
まずくなければ大丈夫。そこそこ栄養がとれてそこそこ経済的であればいい。手を抜く日があってもいい。

趣味のブログもそんなスタンスでいいのだ、と最近はおもうようになった。
そこそこまずくない文章が書ければそれでいい。
毎回おもしろい必要はない。珍奇なテーマや斬新な視点がなくてもかまわない。
ふつうのことをふつうの視点でふつうの文章で書けばそれでいい。
家庭料理のような文章を書いていこう。


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土井 善晴 『一汁一菜でよいという提案』



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