2021年11月5日金曜日

【読書感想文】鷺沢 萠『私はそれを我慢できない』

このエントリーをはてなブックマークに追加

私はそれを我慢できない

鷺沢 萠

内容(e-honより)
名前くらい覚えてくれぃ!私はワシザワでもモエでもないぞとプンスカぶりぶり。はたまた、トイレが長いと友人に立腹するが、私が短かすぎるだけなのか!?深夜ドライブに行けばガス欠で、営業中のスタンドが見つからない…。あれってひどすぎ!?それってあんまり!?というトホホな事態、ムムムな状況に直面し続けるサギサワに、思わず同感、やがて納得、おまけに爆笑のエッセイ集。

 

 1995年刊行のエッセイ集ということで、古くさい。
 いやまあ三十年近くたてば古びるのはしかたないが、それにしても古くさい。

 冒頭のエッセイの書きだしにもう「古っ」と叫んでしまった。

 基本的に、どちらかといえば「せっかち」な部類の人間なので、などというソフトな言い方をすると、友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそうなので正直に言うと、私は物凄くせっかちな人間なので、のんびりゆったり構えている人を見るとイライラする、ということはある。いや、はっきり言えば私が世界中でいちばん嫌いなのはノロノロしていることである。
 前言撤回。ノロノロしていること以上に嫌いなことを思い出した。それは「待つこと」。だから人を待たせてもゼンゼン平気、何とも思っちゃいないわーん、という感じの人を見ると、イライラを通り越して、傘の柄が折れるまで背中をぶっ叩いてせかしてやりたい、という衝動に駆られる。まあ、つまり「イラチ」なんですな。

 このダサさよ。読んでいるこっちが恥ずかしくなる。

 文体が絶望的に古くさい。
 椎名誠と町田康の文章をたして10で割ったような文体。

 椎名誠氏とか東海林さだお氏の文章が〝昭和軽薄体〟と呼ばれた。たしかにそうした文章は今読むと古い。しかしなつかしさは感じても、ダサいとは感じない。それは、自身の思想を最も効果的に表現するために試行錯誤の末に生みだしたものだからだろう。だから彼らの思想を表現する手段は、あの文体しかない。

 本物は古びない。
 町田康氏の文章は、何十年たっても「町田康の文章」だ。

 しかし鷺沢氏の文体は、そうではない。手っ取り早く「おもしろおかしいエッセイ風に仕上げるためのスパイス」として、〝友人たちの「どの口が言うたんじゃ、こら」というツッコミが四方八方から入りそう〟なんて言い回しを使っている。
 己の内面からにじみ出てくる文体ではなく「そのときの流行りの文体をうわっつらだけ真似た文体」。

 中身と皮があっていないから、すぐ腐ってしまうのだ。




 気恥ずかしくなるほどダサい文章だけど、読んでいるとそのダサさも愛おしくなってくる。ああ、こんなのがおもしろおかしいとおもわれていたんだなあ、と当時のカルチャーが見えてくる気がする。


 文体だけでなく、書いている内容も「時代なあ」と感じる。

 あの頃のエッセイってこんなんだったよなあ。
「私の友だちが言ったケッサクな一言」や「身の周りの腹立つ出来事」といった、微小な出来事を、大した工夫もせずにそのまま提示する。
「こんなことがあってむかついたんですけどー!」みたいな、ひねりもオチもないお話。美容院で場を埋めるためだけに交わされる会話ぐらいの情報。

 自慢と自虐をほどよくブレンドしてひねりのない悪口を加えただけで「人気女流作家の歯に衣着せぬ爆笑エッセイ」になった時代の産物。


 端的に言ってしまえばつまらないんだけど、そのつまらなさがなつかしい。
 今ってさ、情報量が増えた結果、おもしろい話が氾濫してるじゃない。Twitterなんか見ていると、毎日どこかの誰かが発信したおもしろい話が流れてくる。
「100万日に1度しか遭遇しないおもしろい出来事」があったとして、ユーザーが1000万人いれば毎日10個はそういう話が投稿されることになる。おもしろい話はたくさん拡散されるから、ぼくらは毎日毎日「めちゃくちゃめずらしい出来事」「とんでもなくおもしろい発想」を目にすることになる。

 それはもちろんいいことなんだけど、ちょっと疲れることでもある。
 だからたまに〝ぜんぜんおもしろくないエッセイ〟を読むと、ほっとする。ああよかった。自分だけが退屈な日常を送っているわけじゃないんだ。他の人もたいしておもしろくないことをおもしろがって生きているんだ、と安堵する。

 あんまりおもしろくない文章なのがありがたい。ほんと、皮肉じゃなくて。

 こういう文章って後世に残らないから、逆に価値がある。


 あと、ネット上ではちょっと危険な発言をするとすぐに炎上してしまうこともあって、優等生的な意見ばかりが目に付くようになった。
 二十年前は「こんなことは身の周りの人には言えないからウェブ掲示板にでも書こう」だったのに、今は逆に「こんなことを書くと炎上しそうだからオフラインだけで言おう」になった。

 だから、こうした平凡なエッセイで「それはちょっとまずいんじゃないの」ということを読むと無性にうれしくなる。

 時代のちがいもあるんだけど、『私はそれを我慢できない』には、
「阪神大震災発生直後に、被災地に住んでいる人を心配して電話をかけまくる」
とか
「ドライブしてたらガソリンが足りなくなったので消防署にガソリン分けてくださいとお願いしにいく」
とか
「夜中の12時に窓を開けて電話でおしゃべりしてたら近所のおっさんに怒鳴られた。心が狭い」
とか、今読むと「いやこれはダメでしょ」と言いたくなるエピソードがいっぱい出てくる。

 しかも著者はぜんぜん悪いこととおもってない書きぶりなんだよね。変わっていないようで、時代とともに人々の価値観は変わってるんだなあ。




「三日坊主」について。

 三日坊主ということばとは、関わったことがほんとうにない。なぜなら私は、年のはじめにあたって「今年の抱負」を語ったり、別に年のはじめじゃなくても「○月○日までに必ず○枚書きあげるぞ」と心に誓ったり、別にそういう真面目なことじゃなくても「○月までに○キロ痩せるぞ」と決心したり、ということをまるでしない人間だからである。ほんとにまるでしない。全然しない。一切しない。ハハハハハ。
 あ、またもや三日坊主で終わっちゃった、どうしよう、あたしってホントにだらしない、オレってホントに駄目な奴……、などと思うのは、そのことに少しでも罪悪感をおぼえるからこそである。

 これ、ぼくも同じだ。

 中学一年生の一学期。進研ゼミからのアドバイスに「定期テスト対策。まずは一週間の計画を立てよう!」なんて書いてあったからぼくもやってみたんだけど、すぐにああこりゃムリだと気が付いた。

 まったく守れないのだ。一日たりとも計画通りにできたことがない。

 それ以降、計画なんてものを立てたことがない。定期テストも、高校受験も、大学入試も、大学のレポートも、卒論も、社会人になってからも、計画なぞ立てていない。
 さすがに仕事では「計画を提出せよ」と言われたこともあるが、それっぽいものを提出しただけでまったく守っていない。あんなもの上司だって見ちゃいないのだ。

 それでもなんとかなっている。「目の前のタスクをとにかくこなす」だけで、受験も卒論も仕事もなんとかなった。

 計画なんて守れる人だけ立てればいいのであって、守れない人は立てないほうがいい。時間の無駄だし、ストレスの要因になるだけだから。


【関連記事】

【読書感想文】作家になるしかなかった人 / 鈴木 光司・花村 萬月・姫野 カオルコ・馳 星周 『作家ってどうよ?』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿