2021年11月4日木曜日

「ボールをよく見て」式の教育

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 子どもたちとボールを使って遊んでいると、〝運動神経〟の差が歴然としていることに驚く。


 八歳の娘にテニスラケットを買い、何度か練習した。土日は六時半に起きて公園で一時間ぐらい練習をした。通算で四時間ぐらいは練習しただろう。娘も少しずつではあるがうまくなってきた。

 休みの日に、娘と、その友だちYちゃんとテニスをした。Yちゃんはテニス初体験。ラケットを握るのもはじめてだ。はじめはラケットにボールを当てることもできなかったYちゃんだが、やっているうちにどんどんコツをつかんで上達していく。

 二十分もすると、Yちゃんはもう娘よりもうまくなっていた。

 四時間二十分練習をした娘よりも、二十分やっただけのYちゃんのほうがうまい。さらにその差はその後どんどん開いていく。

 努力を才能があっさりと追い抜いてゆく。うーん、残酷だ。




 ぼくも、決して運動神経のいい子どもではなかった。
 かけっこは中の下ぐらい。サッカークラブに入っていたが、13人しかいないチームなのにときどきレギュラー落ちするレベル。
 マラソンだけは得意だったがあれは上手とか下手とかいうものではなくほとんど肺活量によって決まる。

 運動神経が良くはないが、スポーツは苦手ではない。特に今は。
 テニスでも野球でもサッカーでも、同世代のおじさん100人をランダムに集めたら上から38番目ぐらいにはなれる自信がある。得意ですと胸を張れるほどではないが苦手でもない。
 なぜなら、経験があるから。
 高校時代、毎日放課後友人たちと野球やサッカーに明け暮れていたから。
 多くの経験に支えられ、一通りのスポーツは人並み以上にはできるようになった。

 とはいえそれは「運動神経の良くない人たちには(経験の差で)勝てるようになった」というレベルで、運動神経の良い人にはどんなに努力してもかなわない。




 持って生まれた〝運動神経〟の差は、確実にある。

 ボールの軌道を読む力とか、見た動きを自分の身体で再現する能力とか。人によって生まれもったものがぜんぜん違う。
 こちらが努力して向こうが努力しなければその差を埋めることはできるかもしれないが、両者とも努力をすれば差は拡大する一方だ。


 ところで、スポーツをしていて
「ボールをよく見て」
というアドバイスをされたことはないだろうか。
 ぼくは千回ぐらいある。

 このアドバイスは〝できる人〟のアドバイスだ。

〝できる人〟は、これだけでできちゃうのだ。ボールをよく見れば、軌道と速度がわかり、瞬時にボールが落ちてくる位置がわかるのだ。そしてその位置に手なり足なりラケットを差しだして、正確にミートさせることができるのだ。

 できない人はそうではない。ボールをよく見たところで、その後の軌道がわからない。わからないからどこに移動すればいいかわからない。仮にわかったところで、自分の身体を適切な位置に運ぶことができない。

 もちろん経験によってある程度できるようにはなるが、10回やればできるようになる人もいれば、10,000回やらないと身につかない人もいる。


 長嶋茂雄氏が「スーッと来た球をガーンと打て」などとわけのわからんアドバイスをしたことは有名だ(真偽は知らん)。
 あそこまで極端なのはめずらしいとしても、運動神経の良くない人間からすると「ボールをよく見て打て」もそれとどっこいどっこいのアドバイスだ。

 物理学者からしたら「初速度と角度さえわかれば、滞空時間も到達高度も到達距離もかんたんにわかるじゃないか(空気抵抗はないものとする)」とおもうかもしれないが、素人にはわからない。それといっしょ。




「ボールをよく見て」的なアドバイスはあらゆる分野にあふれている。

 美術教師には「対象をよく見て、見たままを描きましょう」と言われた。

 音楽教師には「お手本をよく聞いて、お手本通りに歌いましょう」と言われた。

 彼らにはそれができるのだ。見たまま描けば上手な絵になり、聞いたままに歌えば上手に歌える。

 体育教師も美術教師も音楽教師も、それぞれの教科が生まれつき得意だった人だ。みんな労せずして〝できる人〟だ。見たまま聞いたままに再現することのできる人だ。

 だからほとんどの教師には、「よく見てもできない人」の指導方法がわからない。




 以前、中国人に日本語を少しだけ教えたことがある。
 彼らの多くは「ぎゃ、ぎゅ、ぎょ」の音を出すのが苦手である。中国語にない音だからだ。
「『ぎゃ、ぎゅ、ぎょ』と言って」と言うと、「や、ゆ、よ」と言う。そして「あってるでしょ? どこがちがうの?」と首をかしげる。

 日本人からすると「ぎゃ」と「や」なんてまったく別の音である。混同することなんて考えられない。

 同様に、日本人はLとRの聞き分けが苦手だが、英語圏の人間からすると「LとRが聞き分けられない」なんて信じられないことだろう。

 英語圏の人が「LとRのちがいを説明してください」と言われても困るだろう。
「ちがいも何もまったく別物じゃないか。聞いたとおりに表せばいいだけだよ」という気になるだろう。

「ボールをよく見て」も同じだ。




 ぼくは運動神経は良くないし、音痴だし、絵もうまくない。
 でも幸いにして学校の勉強は得意だった。

 もちろん努力もしたが、持って生まれた〝センス〟もあったのだろう。生まれつき運動神経がいい人のように、ちょっとの努力で教わることの大半を理解できた。

 中学生ぐらいで気が付いた。自分は勉強が得意だな、と。
 同じ時間勉強しても、身につく量が他人よりもずっと多いようだ、と。


「勉強のセンスがない人」は存在する。
 彼らは人より努力しても、人並み以下にしか勉強ができない。
 運動神経の良くない人がどれだけ努力してもオリンピック選手になれないのと同じように。

 それはしかたがない。そういうものなのだから。
 身長の高い低いが本人の努力とあまり関係ないのと同じで、そういうふうにできているのだからしかたがない。

 残酷なのは、学校という場がまるで「生まれもった差はなく、できる/できないは努力によってのみ決まる」であるかのような〝ウソ〟を前提に設計されていることだ。

 だから「しっかり話を聴きなさい」「よく考えなさい」「ボールをよく見なさい」「お手本の通りにやりなさい」式の、「できる人にしか通用しない」指導方法がいつまでたってもなくならない。


 能力差に応じてグループ分けをすることと、能力差があってもみんなを同じスタートラインに立たせて同じルールで同じゴールに向かって走らせること。

 どっちが残酷なんだろうね。


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