吃音
伝えられないもどかしさ
近藤 雄生
自信も吃音に悩み、数多くの吃音者を取材した著者によるノンフィクション。
吃音。昔の言い方だと「どもり」(今でも言う人いるけど)。
当事者、または近親者に吃音の人がいる人でなければ、「そういうものがある」ということは知っていてもそれ以上のことはほとんど知らないだろう。
ぼくもそうだった。
ずっと後になって重松清『きよしこ』を読んだ。かつて吃音に悩まされた重松清さんが、幼少期の自分自身をモデルに書いた小説だ。小学校のクラスに吃音の女の子がいた。ぼくは「おまえのしゃべりかた変だよ」と言った。
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) March 9, 2019
指摘することでなおると思っていたのだ。
ずっと後になって吃音症のことを本で読んで、あの子に申し訳ないことをしたと思った。
差別について教えるから差別が生まれるという人がいるが、ぼくはそうは思わない。
そして吃音という障害のことを知った。それまでは単なる「くせ」だとおもっていた。本人が気を付ければ治せるものだと。
その少し後に、ぼくが子どものころ「おまえのしゃべりかた変だよ」と言った女の子とたまたま再会した。彼女の話し方はもうそんなに問題がなさそうだった(完全に治ったのかどうかは知らない)。
ぼくは「子どものころしゃべりかたが変って言ってごめんな」と謝った。すると彼女は「そんなこといろんな人に言われすぎたからひとりひとりのことまでおぼえてへんで」と笑った。
それは「気にせんでええで」の意味だったのだろうか。それとも「いまさら謝られたところでなんにもならんで」の意味だったのだろうか。
ぼくはその言葉で彼女の負っている傷の深さを改めて知った気がした。
著者自身、かつて吃音に悩まされていたそうだ。
自分の名前を名乗る、電話に出る、ファストフード店で「てりやきバーガー」と注文する。
他の人にとっては何の苦労もないことが大きな負担なしにはできない。
そんな状態で生きていくのはたいへんだろう。
また厄介なのは、こういうことが「誰にでも起こりうる」ことだ。
吃音を持たない人でも、緊張して人前で言葉が出てこなくなったり、人見知りから話しかけられなかったり、あわてて言葉がつっかえたりする。
そういう「誰しもたまには経験すること」とよく似た症状だからこそ、なかなか理解されない。
「落ちついて話せば大丈夫だよ」「最初はみんな緊張するけど、慣れれば平気だよ」と考えてしまう人も多いだろう。
車椅子に乗っている人に「落ちついて歩けばちゃんと歩けるって」「最初はうまく歩けなくても慣れたら大丈夫」なんて声をかける人はいないだろうが、吃音の場合は「気の持ちよう」ぐらいに考えられてしまうのだ。
ぼくが「吃音」のことを知ったのも大学生のときだ。
大人になってからも知らない人も多いにちがいない。
そのせいで、落ちつきのないやつ、愚鈍なやつ、コミュニケーション下手なやつとおもわれてしまう。
ここにこそ吃音の苦しみがあるんじゃないかとぼくはおもう。
この本の著者は今では吃音症状がなくなったそうだが、これといったきっかけがあったわけではないそうだ。
この治療があったとか、この出来事を境にとかではなく、気づいたら治っていたんだそうだ。
なんだかよくわからないけど治ることもあるし、逆にこれといった理由もなく症状が悪化することもある。大人になれば治る人もいるし、そうでない人もいる。
わからないって、苦しいだろうなあ。
この本には吃音を克服した人、吃音の子を持つ母親の苦悩、吃音を苦に自殺を選んだ人、吃音者のために奮闘する人など、さまざまなケースが紹介されている。
同時に、社会的な変化や医学的な見解についても書かれている。
これ一冊読めば吃音者のおかれた状況がおおよそわかる。バランスのいい本だ。
つまり、全員にあてはまる根本的な治療法はないということだ。
吃音を気づかれにくくするとか、症状を軽くするとか、気にしないようにするとか、「吃音でありながらもなんとかうまくやっていく方法」はあっても、きれいさっぱり治す特効薬のような方法は(今のところは)ないらしい。
これから研究が進めば原因や治療法も確立されていくのかもしれないけど、とりあえず今すぐに効果があるのは「できるだけ多くの人が吃音という障害に対して正しい理解を持つこと」なんじゃないかな。
視力が悪いとかと同じように
「そういうものとして付き合っていくしかないよね」
という認識を、吃音者、非吃音者ともに持つようになれば吃音者もちょっとは生きやすくなるんじゃないかな。
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