2020年4月16日木曜日

【読書感想文】吃音は「気の持ちよう」じゃない / 近藤 雄生『吃音 ~伝えられないもどかしさ~』

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吃音

伝えられないもどかしさ

近藤 雄生

内容(e-honより)
国内に100万人―それぞれを孤独に追いやる「どもる」ことの軋轢とは。頭の中に伝えたい言葉ははっきりとあるのに、相手に伝える前に詰まってしまう―それが吃音だ。店での注文や電話の着信に怯え、コミュニケーションがうまくいかないことで、離職、家庭の危機、時に自殺にまで追い込まれることさえある。自らも悩んだ著者が、80人以上に丹念に話を聞き、当事者の現実に迫るノンフィクション!
自信も吃音に悩み、数多くの吃音者を取材した著者によるノンフィクション。

吃音。昔の言い方だと「どもり」(今でも言う人いるけど)。
当事者、または近親者に吃音の人がいる人でなければ、「そういうものがある」ということは知っていてもそれ以上のことはほとんど知らないだろう。
ぼくもそうだった。

ずっと後になって重松清『きよしこ』を読んだ。かつて吃音に悩まされた重松清さんが、幼少期の自分自身をモデルに書いた小説だ。
そして吃音という障害のことを知った。それまでは単なる「くせ」だとおもっていた。本人が気を付ければ治せるものだと。

その少し後に、ぼくが子どものころ「おまえのしゃべりかた変だよ」と言った女の子とたまたま再会した。彼女の話し方はもうそんなに問題がなさそうだった(完全に治ったのかどうかは知らない)。
ぼくは「子どものころしゃべりかたが変って言ってごめんな」と謝った。すると彼女は「そんなこといろんな人に言われすぎたからひとりひとりのことまでおぼえてへんで」と笑った。
それは「気にせんでええで」の意味だったのだろうか。それとも「いまさら謝られたところでなんにもならんで」の意味だったのだろうか。

ぼくはその言葉で彼女の負っている傷の深さを改めて知った気がした。



著者自身、かつて吃音に悩まされていたそうだ。
 特に自分の名前のように、他の語に言い換えることができない言葉を言おうとするとそうなった。だから電話や自己紹介がうまくできない。電話の鳴る音が怖くなり、初対面の人と会う状況が恐ろしくなった。病院や美容室の受付で口頭で名乗らなければならない場面では、たとえばバッグの中から何かを探すふりをして視線を下げて、「あれ……」などと言いつつタイミングを探り、焦りと息苦しさと格闘しながら、言えると思った瞬間を見計らって名前を告げた。また、ファストフード店に行って「てりやきバーガー」を買いたいと思うと、「て」が言えなくなるために、注文する段階になって「えっと、あの……」などと時間を稼ぎながら、ぱっと言えそうな言葉を探す。そして、たまたま音やタイミングが合い、言えそうだと思った語を、たとえば「チーズバーガー」という語を、それを食べたくなくとも発することになるのである。言い終わると常に全身が疲労感に襲われた。
 大学受験の直前には、その重圧のためか症状は悪化した。私は面接試験で名前や受験番号を言うことはできないだろうと自覚した。結局受けたのは面接のないところだけだったので、吃音が理由ではなく純粋に学力の問題ではあったけれど、全滅し、その後浪人生活が始まると、精神的にも不安定になり、駆け込むようにして心療内科のカウンセリングに通い出した。しかし何も変わらなかった。
自分の名前を名乗る、電話に出る、ファストフード店で「てりやきバーガー」と注文する。
他の人にとっては何の苦労もないことが大きな負担なしにはできない。
そんな状態で生きていくのはたいへんだろう。

また厄介なのは、こういうことが「誰にでも起こりうる」ことだ。
吃音を持たない人でも、緊張して人前で言葉が出てこなくなったり、人見知りから話しかけられなかったり、あわてて言葉がつっかえたりする。
そういう「誰しもたまには経験すること」とよく似た症状だからこそ、なかなか理解されない。
「落ちついて話せば大丈夫だよ」「最初はみんな緊張するけど、慣れれば平気だよ」と考えてしまう人も多いだろう。

車椅子に乗っている人に「落ちついて歩けばちゃんと歩けるって」「最初はうまく歩けなくても慣れたら大丈夫」なんて声をかける人はいないだろうが、吃音の場合は「気の持ちよう」ぐらいに考えられてしまうのだ。

ぼくが「吃音」のことを知ったのも大学生のときだ。
大人になってからも知らない人も多いにちがいない。

そのせいで、落ちつきのないやつ、愚鈍なやつ、コミュニケーション下手なやつとおもわれてしまう。
ここにこそ吃音の苦しみがあるんじゃないかとぼくはおもう。
 吃音には、二つの特徴的な点がある。
 その一つは、「曖昧さ」だ。
 これまで触れてきたように、原因も治療法もわからない、治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。
 そうした曖昧さを抱えるゆえに、当事者は、吃音とどう向き合えばいいか、気持ちを固めるのが難しい。改善できるかもしれないという期待は希望を生むが、達成されない時には逆に大きな失望に変わる。また、常に症状があるわけではないことは、周囲の理解を得るのを難しくする。
この本の著者は今では吃音症状がなくなったそうだが、これといったきっかけがあったわけではないそうだ。
この治療があったとか、この出来事を境にとかではなく、気づいたら治っていたんだそうだ。
なんだかよくわからないけど治ることもあるし、逆にこれといった理由もなく症状が悪化することもある。大人になれば治る人もいるし、そうでない人もいる。

わからないって、苦しいだろうなあ。



この本には吃音を克服した人、吃音の子を持つ母親の苦悩、吃音を苦に自殺を選んだ人、吃音者のために奮闘する人など、さまざまなケースが紹介されている。

同時に、社会的な変化や医学的な見解についても書かれている。
これ一冊読めば吃音者のおかれた状況がおおよそわかる。バランスのいい本だ。
 現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に、
 ・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
 ・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
 ・認知行動療法(心理的・情緒的な側面から症状を緩和する)
 ・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)
 がある。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタルリハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。
 若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。
つまり、全員にあてはまる根本的な治療法はないということだ。
吃音を気づかれにくくするとか、症状を軽くするとか、気にしないようにするとか、「吃音でありながらもなんとかうまくやっていく方法」はあっても、きれいさっぱり治す特効薬のような方法は(今のところは)ないらしい。

これから研究が進めば原因や治療法も確立されていくのかもしれないけど、とりあえず今すぐに効果があるのは「できるだけ多くの人が吃音という障害に対して正しい理解を持つこと」なんじゃないかな。

視力が悪いとかと同じように
「そういうものとして付き合っていくしかないよね」
という認識を、吃音者、非吃音者ともに持つようになれば吃音者もちょっとは生きやすくなるんじゃないかな。


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