2021年2月2日火曜日

反抗期は親の問題

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 子育てをしていて、自分の変化に怖くなる瞬間がある。

 うちの子は七歳と二歳。
 生意気盛りではあるが、まだまだ立場は親のほうが上だ。圧倒的に。
 えらそうにするつもりはないし子どもの意見も尊重したいとはおもっているが、それでも意見が衝突すれば最後は親の意見が通ることになる。

 子どもが「おかしちょうだい」と言い、親が「ごはんの前だからダメ」と言う。不満そうにはするが、最後は必ず親の意見が通る。「みかんで我慢しなさい」ぐらいの妥協をすることはあるが、そのへんの采配は親次第だ。
 子ども側には要求を伝える権利はあるが決定権はない。教師と生徒、社長と平社員のような関係だ。

 そういう関係を続けていると、親はついつい独善的になってしまう。
 冷静に考えると「子どもの言い分もわかるな」とか「自分が前に言ったことと矛盾してたな」とおもうことでも、ついつい貫き通してしまう。
 ああ、言いすぎたな、こっちにも落ち度はあったな、と反省したりもするが先に子どものほうが「ごめんね」と謝ってくる。そうなると「うん、まあ、わかってくれたらいいんだよ」と変に鷹揚な感じを見せてしまう。60:40でこっちのほうが悪いのに「こっちにも10%ぐらいは非があった」みたいな態度をとってしまう。
 大喧嘩をしても最後は子どもが謝るし、その一分後にはケロッとして「おとうさんおんぶしてー」と甘えてくる。だからついついこっちも「おとうさんはえらい」という態度をとってしまう。

 これはよくない。
 このままだと、巷に跋扈している「えらそうなおっさん」になってしまう。

 じっさい、えらそうにするのは快感だ。子どもを叱って、子どもが謝罪をしたときは気持ちがいい。いいことをした、という気になる。
 もしかしたら麻薬を吸ったときと同じ物質が脳内に出ているかもしれない。麻薬吸ったことないからわからんけど。


 今は子どもの立場が弱いので、ぼくが不機嫌にふるまっても、理不尽な叱り方をしても、「ごめんね」と謝ってくる。
 どんなに社長が理不尽なことを言ってきても、(生命とか法律とかに触れないかぎり)最後は平社員が折れるしかないのと同じだ。

 でも、子どもが成長して自我が強くなれば、激しくぶつかることになる。
 いわゆる反抗期だ。
 反抗期なんて名前がついているので子ども側の問題のような気がするが、じつは親側の問題じゃないだろうか。「親がえらそうにしていたら、いつの間にか子どもが強くなって立ち向かってくるようになった」のが反抗期の実態じゃないのか。
 親が「子どもは自分の言うことを聞くもの」「意見が衝突しても最後は子どもが折れる」という意識のままでいるから衝突するのでは。

「会社の後輩に対してえらそうにしていたら、後輩が出世して自分よりも上の役職になってしまい、にもかかわらず昔と同じようにえらそうな口を叩いたら冷遇された」みたいな話だ。どう考えても悪いのは「状況が変わったのに昔と同じ力関係だとおもっている先輩社員」のほうだが、古くからの認識を改めることはなかなかむずかしい。


「自分の上司になったかつての後輩にえらそうな口を聞いてしまうおっちゃん」にならない方法はかんたんだ。
 はじめからえらそうにしなければいい。後輩であっても年下であっても部下であっても敬意を払った接し方をすればいい。

 だからぼくは娘を「さん」付けで呼ぶ。これは今に始まったことではなく、生まれたときから。
 娘はぼくとは別の人間だ。いつかは必ず親元を離れてゆく。人生の先輩としてアドバイスぐらいはするけど、最終的に道を選ぶのは娘でなくてはならない。子どもの人生はおれのもの、とおもってはいけない。
 だからぼくは戒めとして、娘を「さん」付けで呼ぶことを自らに課した。呼び捨てや「ちゃん」付けでは、目下の者として扱ってしまうから。

 娘への「さん」付けは今も続いている。だがそれでも、ついついえらそうにふるまってしまう。親だから子どもにあれこれ教える立場にあるのは当然だが、だからといって親のほうが子どもよりえらいわけではない。そのことをついつい忘れてしまう。

 だからときどきこうして立ち止まって自分に言い聞かせる。娘はおまえのものじゃないぞ。いつか追い抜かれる存在だぞ、と。



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