狂気の科学者たち
アレックス・バーザ (著) プレシ 南日子 (訳)
「ユニークな実験」を集めた本。以前読んだトレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』に比べると、似ているようでこちらはずいぶん散漫な印象。
なぜなら、『世にも奇妙な人体実験の歴史』は、「結果的に誤ってはいたが科学の発展のために(あるいは自分の知的好奇心のために)人体実験をおこなった科学者たち」のエピソードばかりを集めていたのに対し、
『狂気の科学者たち』は
「(現代の常識からすると)狂ってるとしかおもえない実験」
「実験結果が捏造された実験」
「何の役に立つのかわからないが科学的には正しい実験」
「手法がユニークなだけでまっとうで有用な実験」
などが十把ひとからげに取り扱われているからだ。
たとえば、よく知られる「吊り橋効果」の実験とか(吊り橋のようなスリルを感じる場所で声をかけられると異性に好意を抱きやすい)。
ぜんぜん「狂気の科学者」じゃない。
こういうまっとうな実験と、「死者をよみがえらせることに成功したと発表したがその後まったく結果を再現できなかった実験」を同列に扱っちゃだめだよ。
独創的なアイデアを持った研究者、科学のためなら人の命も犠牲にするマッド・サイエンティスト、功名心で実験結果を捏造するインチキ科学者。それらをぜんぶひっくるめて「狂気の科学者たち」と呼ぶのはさすがに乱暴すぎる。
まあこれは著者のせいじゃなくて邦題がひどいんだよね。原題は『Elephants on Acid』(この本の中に出てくるLSDを投与されたゾウのこと)で、ぜんぜん『狂気の科学者たち』というくくりじゃないからね。
誰だこのひどい邦題をつけたやつは。
題はともかく、中身はおもしろかった。
オスの七面鳥が、メスのどんなところに性的欲望を駆り立てられているのかという実験。
なんと。頭だけで昂奮するのだ。
しかし我々人間も七面鳥のことを笑えない。
人間だって顔だけで異性のことを判断することはよくある。「顔は好みだけど身体は魅力的じゃない異性」と「顔はまったく好みじゃないけど身体は魅力的な異性」だったらたいていの人は前者を選ぶんじゃないだろうか。健康な子孫を残すということを考えれば後者のほうが良さそうだけど。
子猿が母親の愛情をどのような形で欲するかを調べた実験。
子猿は、「ミルクを出すが固く冷たい母猿の模型」よりも「ミルクを出さないがやわらかくあたたかい母猿の模型」を好み、ミルクを飲むとき以外は後者のそばにいたそうだ。
これは読んでいてつらくなる。
以前読んだ、黒川 祥子 『誕生日を知らない女の子』という本に、こんなエピソードがあった。
ずっと実母から虐待を受けて育った子どもが、ファミリーホーム(里親のようなもの)に引き取られ、少しずつ周囲と溶け込めるようになった。だが実母が軽い気持ちで言った「うちにおいで」という言葉を聞いてから、その子は周囲を攻撃するようになり、自ら居場所をなくして実母のもとに帰っていった。
母親のもとに戻れば不幸になることは火を見るより明らか。だが今の法制度では実親が引き取ることを希望したら誰も止めることはできない。
実母のもとに戻った子どもは再び虐待され、学校にも行けず、やがてまた別の里親のもとに引き取られて病院に通うことになったという。
どんなに暴力的で子どもに危害を加える母親であっても、子どもは母親を選んでしまうのだ。ヒトでもサルでも。
だからこそ、害をなす親からは強制的に子どもを引き離すようにできる法律が必要だよなあ。愛が強いからこそ。
あと第9章『ハイド氏の作り方』はすごくおもしろかった。
この章だけで一冊の本にしてもいいぐらい読みごたえがあった。
有名なミルグラム実験(白衣を着た人に命令されたら、ごくふつうの人でも他人に危害を加えるようになるという実験)や、スタンフォード監獄実験(被験者をランダムに看守役と囚人役に分けたら看守役が囚人役に対して威圧的・攻撃的な行動をとるようになったという実験)など、どうやったら人間が残虐な行動に手を染めるようになるかという実験が多数紹介されている。
読んでいて感じるのは、環境さえ整えば人間はいともかんたんに悪人になれるということ。ナチス党員や紅衛兵や山岳ベース事件メンバーがことさらに凶悪だったわけではなく、環境によってはほとんど誰でも他人に暴力を振るうようになるのだということ。
中学校の教師や部活の顧問に暴力を振るう人間が多いのも、教員採用試験が暴力志向性のある人間を積極的に採用しているわけではなく、立場が彼らを暴力に走らせるからだ。
スタンフォード監獄実験のような実験は危険だとして今はやれないらしいが、今も全世界の学校で同じようなことをやってるよね。
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