こないだ娘の保育園で発表会があった。
後日、教室の壁に園児たちの絵が飾ってあった。
それぞれが発表会の絵を描いたものらしい。
ほとんどの子の絵は、こんな構図だった。
A |
それを舞台下から保護者が観ている。
ぼくが描くとしても、こんな構図にするとおもう。
でもSくんという男の子だけ、まったくちがう構図の絵を描いていた。
B |
手前に自分たちがいて、奥に保護者を描いている。
おおっ、と感心した。
感心した理由はふたつ。
ひとつは、Sくんが目にしたとおりの構図で絵を描いていたこと。
舞台の上にいた園児たちには、Bの光景が見えていたはず。
見えたものを見えたままに描くことは案外むずかしい。
前髪が長い人だと視界に自分の前髪が入っているが、「見えたままをそのまま描いてください」と言われても、まず自分の前髪は描かない。
無意識のうちに消してしまうのだ。
逆に、見えていないものを描いてしまうこともある。
馬を見る。自分のいる位置からは脚が三本しか見えない。
けれどその馬を描くときは、無意識のうちに見えていない脚を補完して四本脚の馬を描いてしまう。
「馬は四本脚」という常識が、見えたとおり三本脚の馬を描くことを妨げるのだ。
見たままのことを描くことはむずかしい。脳が勝手に補完修正してしまうから。
だから、見たとおりの構図で絵を描いたSくんに感心した。
子どもならではの視点かもしれない。
(とはいえSくんには見えていなかったはずの"自分"も描いているのでその点は見たままじゃないが)
ぼくが感心したもうひとつの理由は、
他の子たちが客観的な視点を持ちあわせているということ。
Aの構図の絵を描こうとおもったら、「自分がどう見ているか」だけでなく「自分がどう見られているか」という意識を持たなくてはいけない。
五歳児がそんな意識を持っているとは、おもってもいなかった。
うちの娘を見ていても「常に世界は自分を中心にまわっているんだろうなあ」とおもっていたので、「他者の視点」を持っているということが驚きだった。
大人でも「他者の視点」が欠けている人は多い。
後ろから人が来ているにもかかわらず電車に乗ったところで立ちどまる人や、階段をのぼりきったところで立ちどまってきょろきょろする人は、「他者の視点で自分を見る」という意識がまったくないのだろう(少なくともその瞬間は)。
へえ。ちゃんと客観的に自分の姿を見られるんだ。
五歳児が子どもであることに感心して、同時に五歳児が大人であることにも感心した。
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