2022年10月31日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ脅威の大震災』『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』『ズッコケ海底大陸の秘密』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十三弾。

 今回は37・38・39作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ脅威の大震災』(1998年)

 三人組の住むミドリ市付近で、漁獲量が急減する、海の魚が川に上ってくる、鳥が集団移動する、変わった形の雲が観測されるなど次々に不気味な異変が起こる。そしてついにミドリ市を襲う大地震が発生。ハチベエの家は燃えて父親が骨折、ハカセの住むアパートは倒壊、モーちゃんは百貨店で地震に襲われる。三人とも無事だったが、避難所暮らしを余儀なくされる……。


 ドキュメンタリータッチで描かれた異色の作品。特に前半は地震の前触れや被害状況を説明するのにたっぷりページが割かれて、三人組の物語というより群像劇。

 震災というテーマをエンタテインメントにするわけにはいかないのはわかるが、それにしても書くのが早すぎたんじゃないだろうか。阪神大震災が1995年。その三年後に発表された作品なので、まだ震災の記憶が生々しすぎたのでは。もう少し時間をおけば、作者の中でも読者の中でも記憶が整理されて、楽しめる物語になったんじゃないかな。まだ消化不十分のままアウトプットしちゃった感じだな。

 地震の予兆にはじまり、地震の生々しい描写、震災直後の街の様子(ただし死者や重傷者は描かれない)、避難所での暮らし、避難生活におけるトラブル、被災者間での格差や軋轢などを丹念に書いている。よく取材して書いたのだろう。が、その結果、新聞記事みたいな内容になってしまった。「書かなきゃいけないこと」をぎゅうぎゅうに詰めこんだ結果、遊びがない。特に前半。

 この作品に意味がないとは言わないが『ズッコケ三人組』でなくてもよかったとおもう。ここまでリアリティを持たせるのなら、いっそ舞台を神戸にしてドキュメンタリーにすればよかったのに。


 良かった部分は、子どもたちが避難所での暮らしを楽しんでいるところ。そうそう、いっちゃ悪いけど、小学生にとっては震災って心躍るイベントなんだよね。もちろん近しい人が無事だからこそ、だけど。

 奇しくも、ぼくも三人組と同じ小学六年生のときに阪神大震災を体験した。といっても我が家はガスが数ヶ月止まったぐらいの被害だったが。

 阪神大震災の記憶

 親はたいへんそうにしていたが、ぼくにしてみれば震災後の日々はちょっとしたキャンプぐらいのイベントだった。ガスが止まったことで日々の料理が変わり、風呂に入れなくなり、エアコンが使えなくなったので家族みんなで狭い部屋に固まって過ごした。多少の不便は強いられたが、しょせんは小学生。財産とか地震保険とか家のメンテナンスとかこれからの暮らしとかの心配はまったくしなくていい。

 だから、地震後に子どもたちが活き活きと働くところを描いているところは真実味があっていい。三人組はハチベエの店の再建を手伝ったり、避難所のトイレを掃除したり、自主的に学校を片付けたり、たいへんながらもとても楽しそうだ。小学生にとって大きな天災は、「人から必要とされる喜び」を感じられるチャンスなのだ。

 避難所生活に慣れてくる後半以降は、冒険感があってなかなかわくわくさせる。震災そのものよりも、避難所生活や復興のほうに重点を置いた話を読みたかったな。




『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』(1998年)

 三人組の活躍で逮捕寸前まで追い詰められた怪盗Xは逃走し、仲間たちを脱走させた。さらにXは催眠術を使って三人組に骨董品を盗み出させた。そして百貨店で開催される世界の宝石展で盗みをはたらくと予告。三人組は警察や百貨店の店長と協力してXの犯行を阻止するために奮闘する……。


 ズッコケシリーズは50作あるが、基本的にすべて独立した話だ。『ズッコケ脅威の大震災』でミドリ市は壊滅的な被害を受けたが、他の作品ではみんな平和に暮らしている。別次元で起こっている話といってもいい。そうでないと、彼らは六年生の夏休みの間に漂流して無人島で暮らし(『探検隊』)、モーちゃんの親戚の家に行き(『財宝調査隊』)、ハカセの祖父母の家に行き(『恐怖体験』)、山で遭難し(『山岳救助隊』)、隣の小学校の連中と戦争し(『忍者軍団』)、ハワイに旅行した(『ハワイに行く』ことになってしまう。

 と、そんなパラレルワールドだらけのズッコケシリーズではじめての続編がこの『ズッコケ怪盗Xの再挑戦』だ。『ズッコケ三人組対怪盗X』と同じ世界線の話である。この年(1998年)に映画『ズッコケ三人組 怪盗X物語』が公開されたので、それにあわせて続編を書いたようだ(しかし映画公開が7月でこの本の刊行が12月なので遅すぎる気もするが)。


 映画公開にあわせて発表された続編、ということでイヤな予感がしていたのだが、まんまと的中。ひどい出来栄えだった。

 冒頭のXの部下を脱走させるところはいいとして、壺を盗みだすところやデパートの宝石を盗みだすところは読むに堪えない。まず催眠術を使って三人組を思い通りに動かす、ってのが無茶苦茶だ。いやもうそれができるなら何でもありじゃない。催眠術が出てくる作品嫌いなんだよね。それもう「犯人は実は超能力を使えるんです!」ってのといっしょだから。推理ものでそれをやっちゃおしまいだ(宮部みゆき『魔術はささやく』も大嫌い)。あ、西澤保彦作品みたいに先に超能力を明かしておくのならオッケーだよ。

 っていうかXが催眠術が使えるならなぜこれまでは使わなかったのか。そもそも「催眠術を使って小学生を動かし、壺を盗ませる」ってのが意味不明。そんな都合のいい催眠術が使えるなら、壺の持ち主に催眠術をかけろよ。

 さらにひどいことに、壺にしても宝石にしても「催眠術を使わなくてもXには盗むチャンスがあった」んだよね。まったく無駄かつアンフェアな催眠術が出てくる時点でこの作品は失敗だ。

 ラストの「ハチベエがルアーを投げてXから札束を取り返すシーン」こそ見ごたえがあったものの、そこに至るまでの流れはたんなる偶然。結局、ハカセは推理力を発揮することもなく、モーちゃんは例によって何の活躍もなく、終了。

 推理物の常として、大怪盗を登場させてしまうとそっちが主役になってしまうんだよね。「主人公たちは怪盗をあと一歩までは追い詰めるが結局は逃がしてしまう」になってしまうので。

 そしてこの巻では怪盗X自身の魅力もまるで感じられない。『ズッコケ三人組対怪盗X』では、X一味は倒産した会社の元社員らしいという過去が垣間見えたのだが、今作はそういう背景も一切なし。ほとんど読み応えのない作品だった。



『ズッコケ海底大陸の秘密』(1999年)

 ハチベエのおじさんの家に泊まりに来た三人は、ひとりのダイバーが行方不明になったという話を聞き、ダイバーの娘の恵といっしょに捜索をすることに。捜索中に謎の生物に出会って気を失った四人が連れてこられたのは、なんと海底人の住む世界だった……。


『あやうしズッコケ探検隊』で登場したタカラ町のおじさんが再登場。『探検隊』といい今作といい預かった子どもたちが行方不明になってしまう展開で、おじさんとおばさんがなんとも気の毒だ(自分が親になったのでどうしてもおじさん側に感情移入してしまう)。

 読んだ感想は「なんか大長編ドラえもんみたいだな」。ひょんなことから別の文明に遭遇し、彼らと人類との意外な過去が明らかになる。そして環境破壊をする人類に警告を鳴らしつつ、一応平和的に解決……。完全に、説教くさくてつまらなかった頃の大長編ドラえもんだ。

 導入はわりと良かったんだけどね。無駄に細かい釣りの描写、行方不明になったダイバー、謎の大金持ちの別荘、と丁寧にお膳立てをした上で満を持して海底人登場!

 ここ数作はずっと狭いスケールの話が続いていたので、『ズッコケ宇宙大旅行』以来じつに14年ぶりの未知との遭遇系ストーリーだ! とわくわくした。けど……。

 中盤以降のズッコケシリーズのつまらなさって「三人組が巻きこまれるだけで活躍しない」ことに原因があるんだよな。そしてこの作品もその例に漏れない。

 海底人に出会ってからは、案内されて海底大陸を見学し、海底大陸での快適な暮らしを提供され、海底人たちの歴史を教えられ、わけもわからぬまま地上に戻される。その間ずっと受け身。ずっとなりゆきに身を任せている。ここ数作はほんとにこのパターンが多い。『ミステリーツアー』も『死神人形』も『ハワイに行く』も『怪盗Xの再挑戦』も、ただただめずらしい出来事に巻き込まれただけで後は流れに乗っているだけ。もううんざりだ!

『ズッコケ海底大陸の秘密』は、話の展開としては『ズッコケ山賊修業中』と似ている。しかし『山賊修業中』では山賊の連中と喧嘩をしたり、脱走したり、その間の心中描写があったりで退屈させない。それに比べて『海底大陸の秘密』はそれらが何にもない。ハカセの心中だけはわずかに描写されるが、他のメンバーは機械的に動いているだけ。

 やれ環境破壊だやれ原発だって説教もしゃらくさいし(そういう教訓めいたことがないのがズッコケシリーズの魅力だったのに)、導入は良かっただけに肩透かしを食らった気分だ。

「かつて地上で栄えた種族が、遺伝子操作によって海底で生活できる種族を作りあげた」ってほら話はわりと好きだったけどな。ただそれがストーリーとあんまり関連なかったな。


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2022年10月28日金曜日

美人局

 美人局。

 びじんのつぼね、ではなく「つつもたせ」と読む。でも春日局は「かすがのつぼね」が正解。


 それはそうと、すごい名前だよね。美人局って。

 要は犯罪者じゃん。弱みを握らせて恐喝するっていう。それを「美人局」と呼ぶ。「美人」は褒め言葉だし、「局」は位の高い人につける敬称。犯罪者なのに褒めそやしすぎじゃないか?

 なんだか、美人局という名前をつけた人の「あわよくば騙されてみたい。でへへ」という気持ちが透けて見える。


 犯罪者を「褒め言葉」+「肩書」で呼ぶシリーズを他にも考えてみた。

  • 男前を活かして結婚詐欺師をするやつは「二枚目関白」
  • 頭脳をはたらかせて詐欺をはたらくやつは「切れ者上皇」
  • ひったくり犯は「俊足金メダリスト」
  • 知名度だけを生かして代議士になったロクデナシは「タレント議員」
 あ、最後のやつはそのままか(しかも必ずしも犯罪者とはかぎらない)。


2022年10月27日木曜日

スケボーのがらがら

 人は千差万別だからなかなか意見が一致することはないけれど「公共スケボーがみっともない」ってことだけは万人が共感するところだろう。多様性の時代とはいえ、これだけは未来永劫変わらない。

 公共スケボーってみっともないじゃない。公園とか駅の通路とかではしゃいでる連中がいるけど、まあ例外なくみっともない。スケボーのやつらに比べたら、コスプレイヤーの写真を撮ろうと地面に這いつくばって望遠カメラを構えている連中が高貴に見えるぐらい。

 またふしぎなのは、スケボーがうまければうまいほどみっともないってこと。

 スポーツでもダンスでも歌でも、ふつうはうまければかっこいいじゃない。なのに公共スケボーとゲーセンのダンスゲームだけは逆。うまいやつほどみっともない。

「わっ、公園であんな大技決めてる。なんてかっこわるいの」
「駅の通路であんなにうまくなってるってことはこの場所で相当練習したにちがいないわ。恥の概念を母親の胎内に忘れて生まれてきたのかしら」
ってなるじゃない。

 まだへたなやつのほうが見てられる。ぶざまにころんで傷をつくりながらスケボーをやってるやつのほうが、ひたむきさがあるだけまだマシ。うまいやつは「本人がおもっているオレかっこいいっしょ」と「周囲から見えるみっともなさ」のギャップが大きい分、見ていられない。


 なんでスケボーってあんなにかっちょわるいんだろう、同じようなことやってるスノーボードはそうでもないのにって考えたんだけど、ひょっとしてあの「がらがら」のせいじゃない?

 ほら、スケボーってがらがら鳴るじゃない。公園でやってる連中、ずっとがらがらがらがらがらがらがらがらいわせてるじゃない。がらがらがらーってすべってきて、がらがらっとジャンプして、がっらーんと着地して、またがらがらがらーとすべっていく。

 あの音こそがみっともなさの根源じゃないだろうか。

 考えてもみてよ。モデルがランウォークを歩くとき、ばたばたばたって音を立てて歩いてたら。ノーベル賞受賞者が発表する間ずっとずずずずずって鼻をすすってたら。戦闘ロボが怪人をやっつける間ずっとギーギーガチャガチャガチャーンって音がしてたら。

 かっちょわるい。

 そうなのだ。音を立てて行動をする人は例外なくかっちょわるいのだ。だから食事中に音を立てるのはマナー違反とされているのだ。

 優雅な動作って音を立てないじゃない。上手な人のバレエなんか、すーっと移動して、ふわっと舞うように跳んで、まるで羽が降りてきたかのように音もなく着地する。がらがらのスケボーとは大違いだ。


 そういえば、駅でスーツケースを引きずって歩いている連中もみんな下品だ。空港だとスーツケース用に平らな地面になってるけど、駅はそうじゃない。だからちょっとした段差や視覚障害者用ブロックに引っかかってがらがらがらがら鳴っていて聞き苦しい。

 スケボーにしてもスーツケースにしても、もうちょっと耳あたりのいい音にできないのかね。もしもスケボーの音色が美しかったなら、きっと今頃は皇族などがたしなむ上流階級スポーツになっていただろうに。



2022年10月26日水曜日

【読書感想文】サエキ けんぞう『スパムメール大賞』 / どう見ても犬じゃないですよね?

スパムメール大賞

サエキ けんぞう

内容(e-honより)
パソコンの受信メール箱を埋め尽くすスパムメール。だが、じっくり読むと奇想天外な面白さのメールが隠れているのだ。「訳アリ人妻のご奉仕」「禁煙中で口寂しいからフ×ラしたい」「あなたは30億円で落札されました」など抱腹絶倒のスパムメールの数々を紹介、激しい突っ込みコメントを入れながら、メール文化の根源に迫る。

 今から二十年近く前、スパムメールがよく届いた。

 LINEもSNSもなかった時代。遠くの人とメッセージを交わす方法はメールしかなかった。なので多くの人はプライベートで一日に何通ものメールをやりとりしていた。多い人だと、一日に何十通、もしかしたら百通以上送っていたかもしれない。

 そんな時代だったから、あの手この手で人を騙してやろうとする業者や個人も、メールを使っていた。それがスパムメールだ。メールフィルタ機能もしょぼかったので、スパムメールは頻繁に届いた。「スパムが多いのでメールアドレス変えました」なんて人も多かった。

 最初は「素敵な出会いが貴方を待っている★」みたいな単純な手口だったが、業者の手口も洗練(?)されてきて、次々に新しいスパムメールが開発されていった。

 そんなスパムメール全盛期の2004~2006年に、著者が積極的に怪しいサイトにメールを登録したり、届いたスパムメールに返信したりして、数々のスパムメールを集めたのが本書だ。



 試みはおもしろいし、掲載されているスパムメールもおもしろいものも多い(ただし企画の性質上、下ネタ多め)。

 ただ、それに対する著者のツッコミがつまらない。まあこれは単純に文体が古いってのもあるけど……。

 古びやすい文章とそうでない文章があって、著者の文章は典型的な前者。いかにも2000年代前半の文章って感じで、今読むとうすら寒い。まあこれは十数年たってから読んだぼくが悪いんだけど……。



 ぼくはマーケティングの仕事をしているのだが、スパムメールはなかなかマーケティングの勉強になる。スパムメール業者だってみんながバカじゃないから(バカも多いだろうけど)、あれこれ作戦を立てて、反響を見て、うまくいったものをさらに改良して送信しているのだろう。いってみれば数々のPDCAサイクルをくぐり抜けてきたものが、我々の手元に届くのだ。

 そこには「どうすれば人はひきつけられるのか?」というマーケティングの永遠のテーマに対する答えがある。

 なかでもすごいのは〝逆援助〟だ。

 そんなスパムメールは、いよいよ2005年、恋愛革命を起こすことになります。
 まず、男が女性を誘う時代に終止符を打ったのです。
 それまでの恋愛は、男が女をしとめるものでした。たとえソープランドのような場所であっても、男の側から女性を選ぶ。そんな恋のあり方は、狩で生きてきた石器時代から続いてきた営みだったかもしれません。
 しかし、スパムメールの中で、女性は堂々と男を「捕らえ」はじめました。最初は恥ずかしそうに、しかしじょじょに大胆に。
 ついには女性が男を「買う」ことも常識になってしまったのです。スパムメールが持つ最大のコンセプト「逆援助交際」は、堂々と2005年大々的なデビューをしました。

 出会い系スパムメールの最終目的は「男に金を使わせる」ことだ。そのためにはどうしたらいいか。

 ふつうに考えれば「うちのサイトに登録すれば素敵な女性と出会えますよ」とか「まずは1ヶ月無料でお試しください」とアピールするだろう。商品の魅力を伝える、試用期間を利用して加入させる。いずれも王道のマーケティング手法だ。王道であるがゆえに、誰でもおもいつく。

 そこへいくと「あなたにお金を払いたい女性がいます」というスパムメールはすごい。常人にはまずおもいつかない。

 エロいことをさせてくれる上にお金までくれるという。まさに逆転の発想だ。送られたほうからすると「両方叶うならこんなにすばらしいことはないし、どっちかだけでもラッキーだ。両方叶わなかったとしても、何も失うわけじゃないしな」とおもえる。還付金詐欺と並ぶ、なんともずるがしこい発明だ。

 まあクリックはさせても、そこからお金を払わせるまでにもっていくのがまたむずかしいんだろうけど……。


 他にも「パソコンメールの調子が悪くなって送信はできるが受信ができなくなったから、連絡手段を考えました。出会い系サイトの掲示板を使うことにしましょう」という手口や、まちがいメールをよそおって「本来なら有料の出会い系サイトを無料で使う裏技を発見した!」といってサイトに誘導する手法、「部署移動させられた腹いせに会社に損害を与えたいのでこのサイトでがっぽり得してください」という文面など、よく考えられているなあと感心するスパムメールも多い(だましたらダメよ)。

 そうかとおもうと、本気でだます気があるのかとおもうようなメールも。

Subject:ズバリ言うわよ!アンタ、地獄に落ちるわよ!

アンタ、夏の恋は最悪でしょう!ズバリ、このままじゃ、ろくな恋しないわね。出会えないサイトばっかり、登録してるのは、分かってるのよ!アンタのやってる事はね、サクラにお金払ってるのよ!アンタ、頭いいのにサクラも知らないの?中途半端なサイトに登録しても、返信が無いだけ!断言するわ、アンタはサクラに弄ばれる!まあ、紆余曲折はあるけど…このサイトだけ、見ておきなさい。セフレできるわよ!セフレができなきゃ、アンタが悪い!一長一短にはいかず、乱気流するわね。

 このメールを受け取った人が登録しようとおもうか?

 もうやけくそになっているとしかおもえない。スパムメール業者も組織化されて、モチベーションの低い従業員が適当に送るようになったのかもしれない。


 そんなばかばかしいメールの中でも、特に手が込んでいるのがこれ。 

 初めまして。見知らぬ人間からいきなりのメールの到来、すわ何事かといぶかしんでいるかと思われます。
 当方、米田寅美という婆で御座います。
 主人は既に他界しており、息子夫婦も四年前に事故にて失い、今は息子夫婦の残した孫娘と朗らかな日々を過ごしております。やつがれと同年代で嗜む者が多い盆栽にもゲートボールにも興味が無く、「趣味は専らインターネットでのエロ画像の収集であります。
 早速ですが今回メールさせて頂いた本題に入ります。
 折り入ってお願いがあるのですが、孫娘と交尾して頂けないでしょうか。孫娘は、身内であるやつがれの贔屓目抜きでも別嬪だと思っているのですが、如何せん奥手で内気な性格が禍して、二庶0回の誕生日を迎えた今でも処女なんです。処女膜、在中です。若かりし時分のやつがれは、孫娘と同じ年齢の頃には何署もの殿方と交尾を夜な夜な繰り返し、「淫獣」の通り名を轟かせ、快楽に満ち溢れた人生を謳歌していたものです。
 孫にも交尾の悦びを覚えさせたい、少なくともやつがれの血を引きし者として、根は淫乱であろう事は想像に難くないのですが、切っ掛けに恵まれてないのが不幸で。孫の許可も既に得た上で、こうして交尾していただける殿方を探しているんですが、お願いできないでしょうか?謝礼金も用意出来ますので。
 それでは、御返事お待ちしております。長文失礼致しました。

BGM:太陽とシスコムーン「ガタメキラ」
YONEDA the Tiger Beauty拝

  無駄におもしろい。設定もすごいし、それにあわせた(といっても大げさすぎるが)文体も作っている。「エロとネットが大好きな、行動力のありすぎる婆さん」の姿がありありと浮かんでくる。

 メールなのにBGMまで設定して、YONEDA the Tiger Beauty(寅美なのでTiger Beauty)という署名まで凝っている。

 もはやこれは文学と言っていい。



 最後に、ぼくがいちばん開封したくなったメール。

Subject:どう見ても犬じゃないですよね?

祖父の部屋にいるこの生き物って何だか分かりますか?
祖父はワンちゃんを拾ってきたんだよと言ってるのですが、どう見ても犬じゃないですよね? これ、日本にいて大丈夫な生き物でしょうか?
写真をアップしておきましたので、この生き物が何なのか教えていただけないでしょうか?
犬はこんなに簡単に後ろ足のみで立ち上がったりしませんよね?

 気になる~!


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2022年10月25日火曜日

【読書感想文】浜田 寿美男『自白の心理学』 / 自白を証拠とするなかれ

自白の心理学

浜田 寿美男

内容(e-honより)
身に覚えのない犯罪を自白する。そんなことはありうるのだろうか?しかもいったんなされた自白は、司法の場で限りない重みを持つ。心理学の立場から冤罪事件に関わってきた著者が、甲山事件、仁保事件など、自白が大きな争点になった事件の取調べ過程を細かに分析し、「自分に不利なうそ」をつくに至る心のメカニズムを検証する。

 冤罪は起こる。何度も何度も起こっている。考えたくないけど。

 死刑判決が出るような大きな事件でも何度か起こっているし、小さい刑も含めればその何十倍も起こっている。冤罪だったと判明しているだけでも何件もあるのだから、判明していない(当事者しか真相を知らない)冤罪事件はもっともっとあるのだろう。

 冤罪を生む要因はいくつもある。そのひとつが「嘘の自白」だ。


 犯人が「私はやってない」と嘘をつくのはわかる。でも、犯人でもない人が「私がやりました」と自白することは理解できない。我が子が真犯人なのでかばうために……とかならまだ理解できないこともないが(共感はできない)、それ以外で嘘の自白をするとは考えられない。

「人間は己にとって不利になる嘘をつかない」という思いこみがあるからだ。だから、自白をしたらそれは無条件で正しいと思いこんでしまう。一度嘘の自白をしてしまうと、その後の取り調べや裁判でひっくり返すことはむずかしい。

 だが、人間は往々にして嘘の自白をしてしまう。己にとって不利になる嘘をつく。

【自白の心理学』は、過去に起こった様々な「嘘の自白」の事例をもとに、なぜ嘘の自白をしてしまうかを探った本。




 嘘の自白をしてしまう理由として、ふつうまず考えるのが「拷問によって無理やり言わされた」だろう。

 たしかに戦後すぐぐらいまでは取り調べで拷問がふつうにおこなわれていたらしい。この本にも取調室での拷問の例が挙げられている。ただ、戦前の小林多喜二のように命にかかわるような拷問は戦後はほとんどなくなった(はずだ)。社会の眼が厳しくなったこともあって、殴る蹴るの拷問は今ではほとんどおこなわれていない、とおもいたい。まあ出入国在留管理庁の連中はどうかわからないが……。

 だが、拷問をされなくても、嘘の自白をしてしまうことは往々にしてあるらしい。

 もちろん拷問による自白も、被疑者の精神的な脆弱さ、あるいは一時的な変調による自白も、ケースとしてはありうる。しかし個々の冤罪事件を洗ってみると、こうした理由で説明できる例はむしろ少ない。現実には、拷問もなく、被疑者当人に知的な問題もなく、さらには一時的にせよ精神的な変調をきたした形跡もないのに自白して、のちにそれが虚偽だったと判明する事例のほうが、はるかに一般的なのである。
 うその否認は自然、うその自白は例外的という素朴な思いこみでみれば、よほど特別な事情がないかぎりは、自白を真実のものとして信用することになる。日々、事実認定の仕事に迫られている裁判官や検察官の意識も、大半はその域を出ない。うその自白を見破ることができず、冤罪をとめどなくくりかえす原因の一つがここにある。
 うその自白は自分の利益にならないどころか、逆に自分を悲惨な状況に追いこむ。そのことがわかっていて、それでも人はそのうそに陥ってしまう。容易には信じがたいことかもしれないが、それはおよそ例外とはいえない人間の現実なのである。このうその自白の謎を解き明かすことが、本書の課題である。

 考えてみれば、逮捕→取り調べだけでもふつうの人からしたら十分拷問に近い行為だ。

 国家権力によって拘束される、自由で行動することが許されない、取調官以外と連絡をとることができない、身に覚えのないことをおまえがやったんだと言われる、どれだけ弁明しても信じてもらえない、おまえのせいで多くの人に迷惑がかかるとなじられる。そしてこのストレスフルな拘留が何日も続く。

 どれひとつとっても、日常生活ではまず味わうことのない強いストレスとなる。それをたてつづけに食らうのである。真犯人ならある程度心の準備もできるだろうが、無実の人間からするといきなり別世界に放りこまれるようなものだ。まともな判断ができる人のほうが少数派だろう。


 特に軽犯罪だったら「何か月もがんばって、自分の言うことをまったく信用しようとしない取調官と向き合うよりも、嘘でもいいから自白をしてここから逃げだしたい」とおもってもまったくふしぎはない。

「逮捕された状態で何日も拘束されて取り調べを受ける。どれだけ無実を訴えても認めてもらえる保証はない」と
「無実の罪を認めて有罪となる。家に帰れるし、執行猶予もつくから刑務所に入ることもない」だったら、後者のほうが得と考えてもぜんぜんふしぎはない。

 だいたい証拠不十分で放免されたとしても、何も得るものはないわけだもんな。長く拘留されて、周囲の人には「逮捕されたやつ」とレッテルを貼られ、多くのものを失うことはあっても何も得られない。無実の人間からすると、逮捕されただけでどっちに転んでも大損だ。




 日本には推定無罪の原則というものがあり、逮捕されたとしても刑が確定するまでは無罪の人として扱われる。……というタテマエなのだが、じっさいはというとまったく守られていない。

 警察や報道機関は逮捕された時点で実名を公表するし(身内には甘いけど)、世間も「逮捕されたってことはあいつは悪いやつだ」と扱う。

 特にひどいのが取り調べにあたる警察。

 疑惑が確信へと走り出す。そして確信はその権力性とあいまって、証拠を引き寄せ、いわば自己成就する。この流れを遮る歯止めはなかったのだろうか。少なくとも警察や検察は捜査の専門機関であって、素人集団とはわけがちがう。世間の信頼はそこにあるはずである。しかし捜査の現実はしばしばこの期待を裏切る。
 被疑者は無実かもしれないという可能性を少しでも考えていれば、自白のうそをあばくことはできる。ところがわが国の刑事取調べにおいて推定無罪は名ばかりで、取調官は被疑者を犯人として断固たる態度で調べるというのが常態になっている。実際、警察官向けのあるテキストには、こう書かれている。
 頑強に否認する被疑者に対し、「もしかすると白ではないか」との疑念をもって取調べてはならない。(増井清彦『犯罪捜査一〇一問』立花書房、二〇〇〇年)

 ひっでえ……。

 推定無罪を守る気なし。これじゃあ、冤罪が生まれるのも当然だ。個々の警察官の問題ではなく、組織そのものの問題だ。


 日本は刑事事件の検挙率が高いそうだ。治安がいいということでもあるが、裏を返せば「証拠不十分でも検挙されてる」ことなのかもしれない。

 そして証拠不十分の場合に重大な決め手となるのが自白だ。「自白は証拠の王」なんて言葉もあるという。

 しかし、『自白の心理学』を読むと、自白のみを証拠として採用するのはすごく危険だとおもう。特に、本人が後から否定した自白に関しては証拠として採用すべきじゃないとおもうな。




 甲山事件という事件がある。1974年に障害者施設で2人の園児が死亡した事件だ。そこで勤務した保育士が逮捕されたのだが、不起訴となる。後に再逮捕され、殺人罪で起訴。

 証拠が不十分であること、事故である可能性が高いことにより一審で無罪判決。検察側は控訴するものの、高裁では控訴棄却。最終的に無罪が確定するまで、なんと25年かかった。

 無罪の人間が25年も争ったという事件だ。


 起訴の決め手となったのが、保育士の自白だ。保育士は警察官から犯人だと決めつけられ、長期に渡る過酷な取り調べの結果、自白をしている。

 だが。

 どうにか思い出そうと必死になって、ほとんど強迫的な意識にかられている姿が、供述調書の行間から浮かび上がってくる。そして逮捕から一週間がたった四月一四日の供述調書には、こんな奇妙な供述まで出てくる。
 この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどS君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします。
 子どもたちは清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がS君を連れ出したのを見ている子どもがあれば、それは本当のことだと思います。
「空白の一五分」を追及されて、記憶がすっかり混乱しているうえに、女児の目撃供述を突きつけられて、自分で自分のことが信じられなくなっていることがわかる。

「この一五分間ぐらいの間の記憶はどうしても思い出せないのです」「私が無意識のあいだにS君を殺してしまったような気がいたします」

 これを有効な自白証拠とみなすのは誰が見ても無理があるだろう。言わされている感がすごい。この言葉だけでも、どれほど無茶な取り調べがおこなわれたかが想像できる。

 否認してがんばっても無実だとわかってもらえる可能性はない、それどころかこのままだと取調べの場から逃れられないし、いつまで警察に留め置かれるかわからない、そうだとすれば否認しつづけるほうがよほど危険にも見える。ここで、否認することの利益が不利益に、自白することの不利益が利益に逆転する。
 あるいは被疑者は、自分を責めている当の取調官にむかって救いを求める気持ちにすらなる。このことも一般には知られていない事実である。どんなに弁解しても耳を貸してくれない取調官に苛立ちを覚えながら、それでもなお対決するのは容易でない。それどころか理不尽で、嫌悪感をすら覚えるその相手に、自分の処遇が握られているのである。その相手に迎合し、またときおり見せる温情に不本意にすがってしまうことがあったとして、それを責められるだろうか。敵とすべき相手に籠絡されるなんて、という人がいるかもしれない。しかしそんなふうにいえるのは第三者の後知恵でしかない。無実の被疑者にとって取調官は敵ではなく、良くも悪くも自分の処遇を左右する絶対的な支配者なのである。

 警察の世話になったことのない善良な市民であるほど、こんな取り調べに太刀打ちすることはできないだろう。

 万一冤罪で逮捕されたら、完全黙秘、優秀な弁護士に依頼するぐらいしかできることはなさそうだ。




 この本には袴田事件についても書かれている。袴田事件は、なんと50年以上も争われている事件だ(現在も未決着)。

 もちろんぼくには、死刑判決を受けた袴田さんが真犯人なのかどうかは知るすべもない。

 ただ、この本を読む限り、少なくとも拷問の末に袴田さんが口にした自白はまったく信用に足るものではないことだけはわかる。矛盾だらけなのだ。


 問題は、取り調べ官がむりやり自白させることもそうだけど、裁判所がその自白を証拠として採用しちゃうことだよな。

 裁判で語った内容より密室の取調室で言わされたことが優先されるなら、なんのための裁判なんだってことにならないか?




「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」という言葉がある。

 まったくもって同感だ。「1人の無辜」は自分かもしれないのだ。「10人の殺人犯が捕まらない世界」よりも「10人の殺人犯が捕まるけど自分が冤罪で逮捕されるかもしれない世界」のほうが悪いに決まっている。

 にもかかわらず、冤罪は生みだされつづけている。


 これはもう警察官の努力の問題じゃない。ミスは必ず起こる、という前提に立った制度設計をしていないことが原因だ。

 取り調べを録画・録音するだけでだいぶ冤罪は防げるはずなのに。


 最近知ったんだけど、過去に紅林麻雄という警察官がいた。この人はとんでもないやつで、「拷問王」と呼ばれるほど苛烈な取り調べで知られ、数々の冤罪事件を生んだそうだ。

 で、この男がどんな刑罰を受けたのかというと、何にも受けていない。左遷されただけ。違法な拷問をくりかえし、何人もの善良な市民の人生を狂わせた。それなのに逮捕すらされていない。

 はっきりいって、殺人犯よりこの男のほうが数倍凶悪だ。

 こういう輩を放置して、取り調べの録画・録音もいっこうに導入しようとしないのだから、警察は冤罪を防ぎたくないのだとおもわれてもしかたないよなあ。冤罪をゼロにしちゃったら検挙率が下がって成績が下がるもんなあ。


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