2025年7月23日水曜日

ダブルインパクト2025の感想


 日テレ主催ということでぜんぜん期待せずに観たのだが、はたして日テレの悪いところが全面に出た大会だった。

 いや、ネタはおもしろかったんだけどね。でもとにかく大会の思想がなかった。今のシステムでは世に出ることのないこういう芸人を発掘したいとか、こんなネタが評価されないのはおかしいから評価する場をつくろうとか、そういう意義はまるでない大会だった。漫才の大会もコントの大会もあって、両方できる芸人は両方に参加して、それぞれで結果を残している。そんな中でこの大会を開催する意義はなんだったんだろう。「二刀流」って言いたかっただけなんだろうなあ。

 で、案の定M-1でもキングオブコントでもいいところまで行っているニッポンの社長とロングコートダディが上位。他の大会の劣化コピーになってしまっている。大会のセットや審査方式なんかも全部どこかで見たことあるような感じ。

 ただの劣化コピーならいいんだけど、良くないのが開催時期。キングオブコントの2ヶ月前、M-1予選が始まる時期に開催。下位互換のくせに生意気だ。邪魔するなよー。

 ということで、各コンビがM-1やキングオブコントの決勝で披露できなかった捨てネタを持ってくることになるのも必然。キングオブコントのほうは準決勝を観ていないけど、ほとんどのコンビがM-1予選でかけてたネタを披露してたよね。それはそれでネタ供養の場として有意義なんだけど、大会としては1ランク下であることを突きつけられてしまってる。M-1やキングオブコントでだめだったから来年のダブルインパクトに持っていけばいいや、ってすべり止めの大会になってしまいそう。


 ま、観てる側としては思想がなくても大会のランクが低くてもおもしろかったらいいんだけど、だったら審査に時間をかけないでもっとたくさんのネタを見せてほしい。「みんな2ネタずつ披露して、最後におもしろかったところに投票」ぐらいでいいんじゃないの? 重みがないのに、重みがある大会のシステムだけ真似しなくていいからさ。


 ということで大会の向いている方向には疑問が残るけど、これからも続いてほしいとはおもうよ。

 良かったところ。

  • すべてのコンビが2ネタ披露してくれるとこ

 キングオブコントから失われたものが復活したのがうれしい。でも漫才とコントの順番を選べるようにしたのはどうなんだろう。7組中6組がコントを先にしていたけど、そりゃそうなるよなあ。

「コントのほうが準備に時間がかかるので後がコントだと余裕がない」「漫才のほうがネタかぶりに対応したり、番組中に起こったことなどをアドリブで盛り込んだり融通が利く」と考えると、今後もコント先漫才後が多くなりそうな気がする。

  • 無駄なものが少なかった

 これまでの人生をふりかえるような長いVTRとか観覧ゲストとか。これでいいんだよ、これで。


 以下、ネタに関する感想。

かもめんたる

 コントも漫才もどっちも気持ち悪くてよかった。

「女性の部分に話しかけている」というなんともいえない(今の時代だと「気持ち悪いな!」と言いづらいけどやっぱり気持ち悪い)設定のコント。完全に否定するのではなく、とまどいながら徐々に受け入れていくのが演劇的。ただし丁寧に心の機微を描くには時間が短すぎた。心境の変化が急すぎたな。

 個人的には漫才のほうが好み。忘れていたけどぼくも「おじさんはおばさんをかわいく見えるのか?」って疑問におもってたなあ。でも誰にも言ったことはないし、自分自身でも忘れていた。絶妙な問いの立て方だ。

 槙尾さんがほとんどあいづち役でう大さんの独演会になっていたのは漫才としては物足りない面もあるが、でもそれこそがリアルなかもめんたるなので、ここを崩すかどうかはむずかしいところ。かもめんたるの関係性を知っているものからすると、槙尾さんがガンガンつっこんでたらそっちのほうが嘘っぽいわけで。

 他のコンビがほとんどコントに近い漫才をやっていた中、いちばん本格的な漫才を見せてくれた点はもっと評価されてもいいとおもった。


スタミナパン

 漫才は、麻婆さんがコントに入ってボケ続け、トシダさんが半歩だけコントに入って半分外からつっこむというめずらしいスタイル。半歩外に出ていることで、強いつっこみが可能になる(だって完全にコントに入って彼氏が彼女にキレまくってたらなんでデートしてるんだってことになるでしょ)。一方、半歩中に入っていることでストーリーを進めやすくなる。かなりむずかしいことをかんたんそうにしている。このスタイルでスタミナパンの漫才はまだまだ進化しそう。

 コントははじめて見たけど「ベルが三つある」という設定は良かったものの、その設定ならまだまだやれることはあったんじゃないかともおもう。違う音のベルがあったらどうなるんだろうとか、他の客はどうしてるんだろうとか、いろいろ考えたくなる設定ではある。


コットン

 コントはさすが。「バイト代わってくれません?」はわりと使い古されたネタだけど、確かな演技力と、母さんとか靴紐とかの積み重ねで魅せてくれる。裏の裏をかく「どうせ買い物につきあってくれでしょ?」「はい」とか。

 漫才はひどかったなあ。コットンの悪いところが出てたなあ。己の魂を出すんじゃなくて、他の芸人を表面だけなぞった感じ。2年目芸人みたいな漫才だった。今後はコントに専念でいいんじゃないかな。


セルライトスパ

 夜行バスを舞台にしたコント。派手すぎる展開に持っていかずに抑えたおもしろさをかもしだす、セルライトスパらしいコント。バスの座席だけで完結する狭い舞台なのに、前後の時間も感じられる上質な芝居だった。あの後この二人は仲良くなるのかなとか考えてしまうなあ。

 漫才も「得意分野で勝負しろ」というテーマの通り、自分たちの持ち味を十分に発揮していた。いちいち説明しないところがコント師っぽい。大須賀さんの魅力は昔から変わらないけど、肥後さんの異常性が強く出るようになったのはコンビとしていい変化。


ロングコートダディ

 謎の組織でコードネームをつけられるという大喜利色の強いコント。ただし名前の羅列ではなく、ダサいコードネームから、言いにくい名前、学習しない男、みんな対応しているのにやっぱり一人だけ学習しない男など、笑いのポイントが微妙に変化しているのがニクい。最後のは、映画のタイトルだとわからなかった人もいたのでは(一緒に観ていた妻はわからなかった)。けど説明しないところがオシャレだしなあ。

 漫才のほうは、だるまさんがころんだ2、おにごっこ5などの新しい遊びを披露するというネタ。ロングコートダディらしさもありつつ、ビジュアル的なおもしろさもあり、後半に盛り上がりもあり、ほんといいネタ。M-1予選でもやってたけど、なんでこれで決勝に上げなかったんだ。

 人間味を出さなくてもおもしろい漫才はできることを示してくれた。


ニッポンの社長

 コントは、「電流を浴びることによって扉を開けることができる」という設定が明らかになって時点でだいたいの展開が見える。そして予想通りの展開。なのに笑ってしまう。わかっていても笑わせる、ニッポンの社長の力強さが存分に出ていた。

 以前にも書いたけど、ケツさんってどんな目に遭わされてもちっともかわいそうに見えないんだよね。ずっとちょっと憎らしい。すごい才能だ。

 漫才は、コントよりもスケールダウンしていた印象。三つのシチュエーションがあり、そのたびに暴力性がリセットされてしまうからか。ただ「なー!?」の言い方であそこまで笑いをとるパワーはさすが。


ななまがり

 コントも漫才も徹頭徹尾くだらないネタ。ぶっとんだ発想ではあるがちょっとものたりない。何度もななまがりのネタを観てきた身としてはもうこれぐらいでは驚かない。逆にオーソドックスな漫才やコントをやってきたほうが衝撃を受けるかも。



 ということで、優勝はニッポンの社長。まあ優勝はどうでもいい。関西コント保安協会のニッポンの社長、ロングコートダディ、セルライトスパがトップ3を占めたのがめでたい。

 おもしろかったけど、「この大会でしか観られないもの」は感じとれなかったなあ。今後もあまり期待はできない。

 個人的には「他の大会で披露できなかったネタの受け皿」としての価値は見いだしているんだけど、それでも続けてやろうという気概があの放送局にあるかどうか。どうもあの局は芸人へのリスペクトを感じないんだよなあ……。


【関連記事】

M-1グランプリ2024の感想

キングオブコント2024の感想

M-1グランプリ2023の感想

キングオブコント2023の感想


2025年7月22日火曜日

そんじょそこらの人として生きる

 最近ふとおもう。

 昔の自分はおもしろいことを言おうとしてたなあ、と。


 逆に言えば、最近の自分はおもしろいことを言おうとしていない。

 たとえば、同僚から「脚痛いわ~」と言われたとき。


ぼく「どうしたんですか?」

同僚「昨日マラソン大会に出たんですよ」

ぼく「へえ。何km走ったんですか?」

同僚「フルマラソンです」

ぼく「フルマラソン? すごいですねー。普段から練習してるんですか?」


みたいな会話をする。ごくふつうのやりとりだ。順調に会話が進んでいく。


 でも若い頃はこうはいかなかった。

「昨日マラソン大会出たんですよ」と言われたら「1時間何分?」とか「なんで走らされたん?」とか「五輪選考会?」とか、“おもしろいこと”を言おうとしていた。いや、実際におもしろいかどうかはわかんないけど、とにかく“ふつうの人が言わなさそうなこと”を言っていた。いわゆる“ボケる”という行為だ。

 もちろん誰かれ構わずボケていたわけではなく気心の知れた相手に対してだけだが、とにかく「隙あらば笑いをとってやろう」と身構えていた。

 いや身構えていたというのは正確ではないな。なぜならべつに「笑いをとってやろう」と意気込んでいたわけではなく、デフォルトが「ふざける」で、これといったボケが思いつかないときだけ「ふつうに返答する」を選択していたから。それぐらいおもしろいことを言おうとするのがふつうだった。

 とにかく、おもしろい人間だとおもわれたかったのだ。そんじょそこらの人とはちがうとおもわれたかったのだ。



 そんなぼくも四十代になった。

 昨今では「ごくふつうの受け答え」が標準になった。聞かれたことに正面から答える。いちいちボケない。相手が望んでいるであろうリアクションをとる。

 よほど絶妙なタイミングでおもしろいことをおもいついたら口にすることはあるけど、基本は「どうってことのない返答」だ。とにかく、波風を立てないことが最優先。

 べつにおもしろい人とおもわれなくていい。そんじょそこらの人でいい。オレはチームの主役でなくていい。

 我執がなくなっているのを自分でも感じる。

 四十歳を過ぎて、この先自分が「特別な人」になる可能性がほぼなくなったから。

 結婚して、中年になって、もうモテる必要がなくなったから。

 子どもが生まれて、自分の人生が自分のためのものでなくなったから。


「そんじょそこらの人」として生きることにしてしまえば、人生はずいぶん生きやすい。

 なんせおもしろいことを言おうとしないのだからウケるタイミングを見計らう必要もない。スベることもない。「あいつおもしろいことを言おうとしてウケなかったな」とおもわれることもない。


 でも自分の変化に気づいてふっと寂しくなることもある。

 ふだんからおもしろいことを言おうとしなければ、反応速度も落ちる。だいぶん後になってから「さっきああ言えばウケただろうな」と気づくこともある。

 若い頃のぼくが今の自分を見たら、きっと「つまんないおっさん」とおもうだろうな。今のぼくには返す言葉もない。「そう、つまんないおっさんなんだよ」とつまんない返答をするだけだ。



【関連記事】

自分の人生の主役じゃなくなるということ

おまえの人生はないのかよ


2025年7月18日金曜日

【読書感想文】黒井 克行『男の引き際』 / なぜ老害は身を引けないのか

男の引き際

黒井 克行

内容(e-honより)
一生のうちに同じ局面は二度とやってこない。たった一度の判断が、評価を大きく左右する。それが「引き際」だ。では、引き際を見事に飾れた人と誤った人は、何が違ったのだろうか。完全燃焼できるまで頑張る、一つのことを成し遂げたことでけじめをつける、過去の実績とは全く関係ない世界に新たに挑戦する―。六タイプ九人の引き際にまつわる物語をひもときながら、男にとって引き際とは何かを探る。

 2004年刊行。

 様々な分野で一流と呼ばれた人たちの“引き際”を書く。

 新書ブーム時に出された本だからだろう、正直あまり質は高くない。ばらばらなエピソードをむりやり一冊にまとめたという感じがする。一応“引き際”というテーマがあるが、全盛期の活躍にもけっこうページが割かれている。

 また、八百長疑惑をかけられてプロ野球界から永久追放された選手(池永正明)とか、それは引き際もクソもねえだろという人の項もある。

 あとボランティア活動に注力したくて検察官を辞めた堀田力とか、オリンピック選手育成のために仕事をやめた小出義雄とかも、それは引き際じゃなくてただの転身だろ、というのもある。新たにやりたいことが見つかったから辞めることに対して「引き際」という言葉を使うのはふさわしくないだろ。

 テーマはおもしろそうだったのに、内容がだいぶズレてしまっている。


 引き際が大事なのって組織の長なんだよね。時代の変化についていけない人、現場をわかっていないがトップに居座っていたら下はやりづらいし、組織は硬直化するし、やる気のない若手は外に出ていくし、ろくなことがない。現在の日産の凋落なんかを見ていると、上層部の引き際が悪いと大きな組織でもかんたんに傾いてしまうのだということがよくわかる。

 だからそういう話を読みたかったのだが、出てくるのはスポーツ選手とか芸能人とか。そういう個人事業主は好きにしたらいいんだよ。失敗したって迷惑を被るのは自分なんだし。実力の世界なんだから、能力が衰えてきたら待遇も悪くなるはずでしょ。

 個人事業主の項は削って、組織のえらいさんにスポットを当てた話をもっと読みたかた。




 おもしろかったのは、島原市長だった鐘ヶ江管一氏の項。

 雲仙普賢岳噴火が起こり、復興に尽力し「ヒゲの市長」として一躍有名になった。

 市長を3期務め、周囲からも続投を期待されていたが、市長選に対立候補(かつて自信の支援者だった人物)が出馬したことで引き際を考えるようになる。

 鐘ヶ江は悩んだ。選挙の行方に不安を抱いていたわけではない。このまま普通に戦っても、四選される自信は十分にあった。彼の悩みは自分の当落ではなく、選挙が行われることで行政に空白ができることだった。そしてもう一つ、町を二分してしまうことだ。無投票四選しか考えていなかった鐘ヶ江は、また新たな決断を迫られていたのだ。
 「住民とは賠償問題をめぐり、侃々諤々の議論をすることもありました。自然災害は自主救済が原則ですので、怒りのもって行き場が大変にむずかしい。住民が納得できないこともよくわかっていました。私は市の財政事情や国や県の支援体制を、市長室に押しかけてくる住民と膝を交えて時には怒鳴り合いながら話し合いました。警戒区域の設定時も、予想どおり反対してくる人がいました。その中に、本多議員の選対にまわった私の支援者もいたのです。みなそれぞれの思惑があります。正直なところ、町は一枚岩となって災害復興へ向かっているとはいえませんでした。でも、徐々にではありますが、時間をかけてじっくり議論していく中でいい方向に向かってきていたんです。
 それがここで選挙をやったらどうなるか? 今までやってきた努力がリセットされてしまいかねません。選挙の行われる十二月は、首長として陳情のために積極的に動き回らなければならない時期でもあるんです。だからこそ絶対に、選挙運動によって、復興の妨げとなる空白期間をつくってはいけなかったんです。立候補すべきかどうか、誰にも相談せず一週間悩み、眠れない状態が続きました」

 そして鐘ヶ江氏は市政の安定のため、不出馬を決意する。

 まあこれは本人の弁だからかっこつけてる面もあるだろうが、たとえかっこつけでもこれを言って、実際に身を引ける現職政治家がどれぐらいいるだろうか?


 成功した人ほど、潔く身を引くのはむずかしい。自分の能力に対する自信もあるだろうし、だから余計に若手が頼りなく見える。周囲も持ち上げてくれるので「おれはまだまだいける」という気になってしまう。

 若いときはみんな「年寄りは老害になる前に早く引退したほうがいい」とおもっているけど、いざ自分が年寄りになると権力者の座に居座ってしまう。かつて新進気鋭の若手として、古い体質に風穴を開けてきた人が、年を取って古い体質の象徴のようになってしまう。なんとも悲しいことだ。


 人の評価を分けるものは何だろうか。
 これまで、引き際が潔かった人たちを見てきたが、彼らに共通するのは、迷いがないことではないだろうか。長い一生の中で、何かを成し遂げるには、並大抵の苦労ではないだろう。苦労が多ければ多いほど、自負も大きくなり、後に続く人たちが不甲斐なく見える。すると、今の地位に未練が生まれ、権力に執着し、周りが見えなくなって独善に陥る……。
「自分はそんなことない、引き際ぐらいちゃんと見極められる」と思うかもしれないが、もしかしたら、そう思った時点で、すでに引き際を飾るタイミングとしては遅いのかもしれない。
 多くの晩節を見ていると、そんな気がしてならない。
 権力の座にいる人たちは、特に晩年の過ごし方が難しいようだ。苦労して上りつめた地位だからこそ、なかなかそこから下りられないのもわかる気がする。もちろん、居心地もいいのであろう。ただ、居座るのもほどほどにして、驕ることなく権力と付き合っていくことができれば、歴史に名を残せるかもしれない。が、その居心地のよさに甘んじておぼれてしまうと、ただの人以下になりかねない。この権力という魔物に取り憑かれ、翻弄される人は、昔も今も変わりなくいるように思う。
 特に、二ケタの当選回数を誇る政治家ともなると、腰がだいぶ重たくなってしまうらしい。なかなか地盤の選挙区から離れられず、後に控える人に道を譲ってくれない。老害などと後ろ指をさされる頃には、開き直り、聞く耳を持たなくなってしまい、せっかくそれまで築いてきた業績が泣いてしまう。

 ホンダ創業者であり一代で会社を大きくした本田宗一郎氏が六十代で社長職を退いているのを見ると、つくづくすごいことだとおもう。

 きっとまだやれたのだろうが、それでは後進が育たない。「今ばたばたしていることが落ち着いたら引退しよう」とおもっていても、「すべてが落ち着いて安心して引き継げる時期」なんて永遠に来ない。

 組織のトップに立つ者の最後にして最大の仕事は「後継者を育てて椅子を譲る」だ。そして最もむずかしい死後でもある。


【関連記事】

年寄りは嫌い、若い子は条件付きで好き

ぜったいに老害になる



 その他の読書感想文はこちら


2025年7月14日月曜日

【読書感想文】永 六輔『芸人その世界』

芸人その世界

永 六輔

内容(e-honより)
芸の世界に憧れ、芸人たちの哀歓に満ちた生き方にかぎりない感興を覚え、持ち前の旺盛なる好奇心で、観たり、聞いたり、読んだりして集めた芸人の世界の可笑しくも哀しいエピソードとプロフィル800話。膨大なコレクションから精選された文章は、一流の役者や映画俳優の知られざる側面を紹介するとともに、日々研鑚の崇高な精神と、危うく愉快な彼らの愛すべき人間性を垣間見せる。著者自身が「<その世界>シリーズは僕の青春であった」と述懐する珠玉の一冊。

 1975(昭和50)年刊行。膨大な資料をもとに、芸人(落語家、役者、歌舞伎役者、講談師、歌手、曲芸師など広義の芸人)たちの逸話を紹介する本。

 巻末に非常に多くの参考資料があるのだが、そうはいっても一次資料自体がどこまで信用できるのか怪しい。だって芸人のエピソードだからね。多分に話を盛っている可能性がある。というかその可能性が高い。明治の芸人の話とか、だいぶ尾ひれがついてるだろうし。芸人のエピソードの又聞きの又聞き、みたいな逸話が多いので話半分に楽しむのが良さそうだ。



 一個一個のエピソードは信憑性が低いけど、数百数千のエピソードを読んでいると、昔の芸人の空気は十分伝わってくる。

 つくづくおもうのは、芸人ってヤクザな世界だったんだなあということ。芸能界というのはまっとうに生きていない人たちが集まる場所だったんだとしみじみおもう。

 浅草オペラ全盛時代。
 金竜館の楽屋口に貼ってあった注意書。
 「犬、猫、刑事入るべからず」
 楽屋はアナーキストのたまり場でもあった。
 中村芝鶴の文章に、
「演劇界は地獄の世界です。強きを助け弱きを挫く権力者の横行、謀略、偽善、虚勢、嫉妬、羨望、虚栄、淫猥、全て完備している世界です。そしてその中で働く者は忍従と屈辱、飢餓、精神錯乱に耐えながら、飽きることなく生涯を生き続ける不思議な世界であります」
 芸人が初めて税金をとられたのが明治八年、人間扱いをされたというので芸人は課税を感謝した。
 落語の桂文治はこの課税の名誉にこたえんものと紋つきの羽織袴に身を正し、玄関に高張提灯をかかげて税金を払いに出かけたという。

 現在の芸能界は、やれコンプラ順守だの、やれ不祥事による謹慎だのとよくニュースになるが、ほんの半世紀前までは「世の中の常識や法律や人権なんて知ったこっちゃねえぜ」という世界だったんだろう。法を破り、周囲に迷惑をかけまくり、人々が眉をひそめるようなことをやり、反省するどころか居直って武勇伝として吹聴する。いかれた人間たちが集まる場所。

 半世紀どころか、二十年前でも、いや今でも、そういう風潮は芸能界の一部には残っているのだろう。ときどき「芸能界の常識は世間の非常識」が明るみになって大きなニュースになる。


 芸能界がならず者の集まりだった時代と、まっとうな人間が集まる時代。どっちが正しいかと言ったらどう考えても後者だ。

 でも、まっとうに生きられない人間があらゆる場から追放されてしまう世の中もそれはそれで不健全な気がする。

 貯金ができない人間、朝起きられない人間、酒やギャンブルや女遊びをやめられない人間、嘘をついてしまう人間、軽犯罪をしてしまう人間。そういう連中が犯罪でない手段で稼いだり、ときには脚光を浴びたりする場があってもいいんじゃないだろうか。


 最近、お笑い芸人でも大卒で活躍する人が増えているという。大学のお笑いサークルで学び、研究を重ねて芸を研鑽し、さらには大学で培った人脈を活かしたりもしながらメディアで活躍するわけだ。

 YouTuberだとかラッパーもやはり高学歴の人の参入・活躍が目立つという話を聞く。どんな分野であれ、頭がよく、継続的に努力ができ、さらには家庭環境にめぐまれていて芸に打ち込む時間が長い人のほうが成功しやすいのだろう。

 なんだか夢のない話だなあ。大卒で芸人を目指すのが悪いことではないけれど。


 メジャーではなかったカウンターカルチャーの分野にもエリートたちが踏みこんでいき、文句のつけようのない「公正な競争」を勝ち抜いて、非エリートたちを放逐してしまう。

 そうなると、持たざる者はどこで戦えばいいのか。ほんとにアウトローの世界に行くしかなくなるのか。


【関連記事】

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

【読書感想文】永 六輔『無名人名語録』



 その他の読書感想文はこちら


2025年7月11日金曜日

【読書感想文】マッシミリアーノ・スガイ『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』 / 褒めるときは日本のスイーツのように

イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ

マッシミリアーノ・スガイ

内容(Amazonより)
noteで驚異の95万PVを記録した「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」が話題の日伊通訳者による、初著書!
日本の伝統料理からB級グルメ、チェーン店、コンビニスイーツ、冷凍食品まで。
イタリア・ピエモンテから彗星のごとくやってきた食いしん坊マッシが日本で出会った絶品グルメとその感動体験をまとめた、日本の食文化への情熱とアモーレ満載のエッセイ!
イタリア人フーディーの舌を唸らせ、胸を打ったのは、日本の意外なあの食べ物だった!?
日本人もぶっとんじゃう、斬新な視点や考察、日伊の異文化トリビアも満載。
読めば、私たちがいつも当たり前のように食べているあの料理が、何倍もおいしく感動的に感じられるはず!
ニッポングルメ再発見の旅へ、いざ参らん!

 イタリアで生まれ育った後、日本に移住した著者による日本の食エッセイ。

 こういう「外国人から見た日本エッセイ」は、なじみのある題材でありながら毎回新鮮な視点に気づかせてくれるのでおもしろい。

 コリン・ジョイス『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』も、M.K.シャルマ『喪失の国、日本』も、高野 秀行『異国トーキョー漂流記』 も、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』も、みんなおもしろかった。

 「外国人から見た日本エッセイ」にハズレなし。



 おでんについて。

 まず「おでんください」と言ったのに「どれにします?」と言われて困った、という話が新鮮。

 たしかに、おでんって料理名のようでありながら、じっさいのところは「麺類」「鍋料理」みたいな、広めのジャンル名だよね。

 たとえばラーメンであれば、種類はいろいろあれど、少なくとも麺はぜったいにある。麺がないとラーメンとは呼べない。でもおでんには、「これがないとおでんじゃない!」って食材が存在しない。大根、玉子、こんにゃくなど定番の食材はあるけど、必須ではない。「すみません、今大根切らしてるんですよ~」でもおでんは成立する。「麺を切らしてるんですけど、ラーメン提供できます」とはならない。

 そんなことに改めて気づかされる。

 そしてそれぞれの具に対する観察眼が鋭い。

 まずは大根。その日までに食べた大根は白くて一口サイズだったのに、お皿に入っているのは濃い茶色で、大きくて箸で切りながら少しずつ食べるもの。ごぼう天を頼んだら、ごぼうが見当たらない。なんと練り物の中に隠されていたのだ。お次は、薦められたはんぺん。噛んだ瞬間、(ここからは申し訳ない表現になるが)その食感に驚きすぎて、すぐに口から出してしまった。故郷では感じたことのない柔らかさで、困惑した。少しずつチャレンジしたら、意外にすぐに慣れて、おいしく味わって食べることができた。今ではおでんを食べるとき、お皿にはんぺんが乗ってない日はない。
 よくわからないまま注文したものの中には、思わず驚きの声が出るほど不思議なものも。昔の日本の財布のように見えたのは「餅巾着」だった。中身を出すためにかんぴょうの結び目を解こうと頑張っていたら、お店の大将に笑われた。なんと袋ごと食べるらしい。袋だと思っていたのは油揚げという食材で、豆腐の仲間だと言うではないか!おでんが一体なんなのか、ますますわからなくなり、僕はまんまと“おでんラビリンス”に迷い込んでしまっていた。
 さらに僕を迷宮に迷い込ませたのが、「結びしらたき」。パスタ文化を持つイタリアから来た僕には、そもそも「麺を結ぶ」という発想がない。1個丸ごとを口に入れたら、噛み切るのが大変で死ぬかと思った。
 ここまで勇気を出しながら頑張って食べたおでんは、どれもおいしくて面白かった。これ以上、僕を驚かすものは出てこないだろうと思っていたが、最後に、最強の敵が出てきた。「こんにゃく」だ。こんにゃくの驚きを言葉にするのは難しい。今まで出会ったことも、見たことも、考えたこともない味と食感だった。この最強の敵に苦戦して、結局、この日は食べきれずに負けてしまった。あの日の悔しさをバネに、そのあと何回もチャレンジして、今はおいしく食べられる。

 言われてみれば、おでんってよくわからないものだらけだよね。日本人だってあたりまえのように食べてるけど、ごぼ天とかはんぺんとか巾着とかかんぴょうとかがんもどきとかはんぺんとか、外国人から「これ何?」と訊かれたら説明に窮してしまうものばかりだ。




 つくづく感心するのは、マッシさんの柔軟性。この人ほんとにイタリア人? とおもうぐらい、日本の料理を受け入れている。
  最初に出会ったパスタには非常にカルチャーショックを受けて、食べる勇気が出るまで時間がかかった。スパゲッティーにしょうゆ、のり、大根おろしという今までの僕の人生では存在しなかった組み合わせのソースだ。「イタリアにないものをパスタに入れておいしいの?」と思ってしまった。
 オリーブオイルの代わりにしょうゆ、チーズの代わりにのりと大根おろしという発想は、イタリア人にはない。和食によく出てくる食材や味がパスタにも使えるなんて。半信半疑だったけど、なんとか勇気を出してみようと思い、よく混ぜてから食べてみた。
 一口食べて、目ん玉が飛び出た。頭で考えていた「ありえない」というイメージから、「なんじゃこりゃ!おいしすぎ!」という気持ちになるまで、あっという間だった。涙が止まらない。感動しかない。しょうゆとのりと大根おろしは最高の組み合わせだということを、日本人はみんな知っているのか?パスタに合いすぎて、もっと早くに出会っていればよかった。塩辛さとパスタの食感はすばらしいマリアージュだった。パスタの国から来ている僕は、新しいパスタのアレンジに驚いて、日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれないと思い始めた。

 和食や日本のスイーツはもちろん、パスタやピッツァのようなイタリア発祥の料理ですら、日本のものを絶賛する。これができる人はなかなかいない。

 ぼくも食に関しては好奇心旺盛なほうだとおもうけど、それでも海外で和食が“魔改造”されてたら、「うーん、これはこれで悪くないけど、でもこれはオリジナルとは別料理だよね……」とか言ってしまうとおもう。カリフォルニアロールもまだ寿司とは認めてないし。

 和風パスタをここまで絶賛できるイタリア人がどれぐらいいるだろうか(リップサービスも多分に含まれているんだろうけど)。日本人ですら気が引けて「日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれない」なんて言えないぞ。




 カフェの役割について。
  僕が感じる、イタリアと日本の「カフェ文化」の大きな違いは、カフェが存在する目的だ。イタリアではコーヒーを飲むために行く場所、日本ではカフェでの時間を過ごしたいから行く場所。簡単に言うと、日本ではカフェで勉強、仕事、読書、おしゃべりする人がほとんどだけど、イタリアではこのような光景がほとんどない。しゃべっていても飲み終わったらすぐに出る。「カフェ」という同じ場所なのに、国柄とその文化の違いがあらわれている。
 コーヒーの種類や飲み方の種類も日本の方が多くて、イタリアでは考えられないアメリカン、ブレンドコーヒー、豆乳系の飲み物などがとてもおいしい。イタリア人にわかってもらいたくて、そのよさを説明しても、エスプレッソから生まれた飲み物でないと、カルチャーショックというよりカルチャーのシャッターが閉まる。通訳者として言葉の通訳よりも、文化の通訳の方がいっそう難しいときもあるのだ。
 日本のカフェに行って驚いたのは、注文したコーヒーの情報までもが出てくること。例えば、どこの国のどんな豆か、そしてどんな味かまでわかる。このようなサービスはイタリアでは見たことがなくて、仮に店員さんに聞いても、答えられるかどうか怪しいところだ。

 へえ。たしかに日本のカフェって、最大の目的はコーヒーじゃないよね。たいていの場合、打ち合わせをしたいとか、自習をしたいとか、疲れたから座って休みたいとか、時間をつぶしたいとかの理由で行くものであって、正直言うと別にコーヒーじゃなくてもいい。極端なことを言えば「コーヒーを置いてないカフェ」があっても客は入るだろう。

 ぼくがイタリアに旅行に行ったときにカフェに入ったことがあるけど、驚いたのは「立って飲んでいる人」がいたことだ。

 日本だったら「コーヒーのないカフェ」は成立しても「座席のないカフェ」はなかなか成り立たないだろう(コーヒースタンドはあるけど少ない)。座るためにカフェに行くと言ってもいいぐらいだ。

 立ち喰いそばに行くのはとにかく腹を満たしたい人、立ち呑み屋に行くのはとにかく酒を飲みたい人。イタリアでカフェに行くのはとにかくコーヒーを飲みたい人なのだ。



 冒頭で、「外国人から見た日本エッセイにハズレなし」と書いたけど、この本はハズレではないけどアタリというほどでもなかった。

 マッシさんが絶賛しすぎなんだよな。とにかく日本の全料理を褒める。手放しで褒める。日本人として悪い気はしないけど、ここまで褒められると「ちょっと大げさすぎるな」という気がしてくる。

 褒めるのにも緩急が必要なんだよな。「あれもすばらしい、これも最高、ここは完璧!」と言われるよりも「あそこはちょっと好きになれないけどでもこういうところはすごくいいとおもうよ!」と言われたほうが真実味があってうれしい。

 そう、甘さを抑えることでかえって甘さを引き立たせる日本のスイーツのように。


【関連記事】

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』 / 野球はベースボールではない



 その他の読書感想文はこちら