2022年5月9日月曜日

【読書感想文】藤岡 換太郎『山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門』/標高でランク付けするのはずるい

山はどうしてできるのか

ダイナミックな地球科学入門

藤岡 換太郎

内容(e-honより)
あたりまえのように「そこにある」山は、いつ、どのようにしてできたのか―。あなたはこの問いに正しく答えられますか?実は「山ができる理由」は古来から、地質学者たちの大きな論争のテーマでした。山の成因には、地球科学のエッセンスがぎっしりと詰まっているのです。本書を読めば、なにげなく踏んでいる大地の見え方が変わってくることでしょう。

 同じ著者の『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』がめっぽうおもしろかったので読んでみたのだが、これは難解だったなあ……。『海はどうしてできたのか』はテンポよく読めたのに、『山はどうしてできるのか』はまるで教科書を読んでいるようだった。同じ人が書いているとはおもえないぐらいにちがう。ぼくが地学苦手だったから、ってのもあるけど。

 特に中盤は、「山はどうしてできるのか」ではなく「山はどうしてできるのか、と昔は考えられていたのか」の話が延々と続く。これがつまらない。地学を体系立てて学びたい人にはいいかもしれないが、「ざっとわかればいいや」ぐらいの人間にとっては「今では否定されている昔の誤った学説」なんかどうでもいいんだよー。




 世界で一番高い山は?

 そう、エベレスト(チョモランマ)だ。標高8,849m。標高というのは、海から見た高さだ。

 ただし、他の測り方をすれば世界一はエベレストではない。

 海で一番高い山は、海面から上にまで達している島です。島はひょっこりひょうたん島のように浮いているのではなくて海底から隆起しているからです。なかでも火山島は、多くが水深5000mの深海から聳え立っていますので、海面すれすれに顔を出しているような小さな島でも、山として見ればその高さは5000mになるわけです。ハワイ島のマウナケアは標高4205mですが周辺の海底が約5000mなので約9000mの高さになることは準備運動の章で述べました。これが地球上では一番高い山になります。太平洋には少なくとも4000の海山があることが20世紀までに確認されています。その後の測量によってもっと増えているでしょうから、現在では1万近い海山があると考えられます。
 ニュートンらが観測によって明らかにした地球の形は、実は球体ではなく、回転楕円体という形をしています。赤道半径(東西の半径)と極半径(南北の半径)を比べると、赤道半径のほうが20㎞ほど長いのです。つまり、地球はほんの少しだけ横長の楕円体をしているわけです。
 したがって、地球の中心からの距離で山の高さを決めると、赤道に近い山ほど高くなります。この方法による世界最高峰は赤道直下、南米のエクアドルにあるチンボラソ山になります。標高は6310mですが、北緯28度のエベレストよりも地球の中心からの距離が2㎞以上も上回るため、世界一の高さになるのです。エベレストは31番目に成り下がり、世界で474番目とされている富士山は44番目に浮上します。

 ふもとからの高さを測るなら、周辺の海底から9,000mも突き出ているマウナケアが世界一、地球の中心からの直線距離ではチンボラソ山が世界一位になる。

 ぼくがマウナケアやチンボラソの関係者なら「エベレストはずるい!」と言い張っているところだ。


 前々から山を「標高(海抜)」でランク付けするのはずるいとおもってたんだよなあ。富士山は標高3,776mだけど、富士山に登る人はみんな海から登りはじめるわけじゃない。登山口から登りはじめる。富士山の登山口はいくつかあるけど、そこがすでに標高2,000~3,000mぐらいだ。そこから登って「3,776mの山を制覇したぞ!」ってのはインチキだ。それが許されるのならマラソンのゴール手前からスタートしてゴールテープを切ってもいいことになる。

 ぼくは神戸にある六甲山に登ったことがある。標高931mだ。だが六甲山は海のすぐそばだ。ぼくが登りはじめた阪急芦屋川駅は海と高さがあまり変わらない場所。つまり900mぐらいの高さを登ったことになる。一方、標高1,100mの登山口から標高2,000mの山に登っても、登った高さは同じだ。なのに後者のほうがすごいとおもわれる。登山業界では「〇m級の山を制覇した!」という言い方がまかりとおっている。

 そりゃあ高度が高ければ空気が薄くなったり寒くなったりもするだろうけど、それにしたって、自分の足で登ったわけでもない高さを勘定に入れるのはずるい。




 石の名前とかプレートの名前とかむずかしいことはよくわからなかったけど、山がどのようにできるか(というか地球上でプレートがどのように動くか)についてはなんとなく理解できた。

 我々はつい世界の地形が普遍的なものだと考えてしまうけれど、地球の一生から考えると今の大陸や山の形はほんのひとときのもので、大陸の形も山の形も刻々(長いスパンで見たときの刻々)と変わるのだ。

 ヒマラヤ山脈だってかつては海だったそうだ。

 いま地球上にある大陸は、超大陸が分裂と集合を繰り返し、地球の表面を何周も巡って現在の位置にモザイクの1つのピースとしてはめ込まれた寄木細工です。日本列島も、より規模が小さな寄木細工です。
 それは地球スケールで考えても、実は同じことがいえます。「はやぶさ」が訪ねた「イトカワ」という小さな星がありますが、イトカワのような星が寄せ集まって約46億年前にできたのが地球なのです。日本の国歌である「君が代」には「さざれ石」という言葉が出てきます。さざれ石とは礫岩、つまり岩や石のかけらが寄せ集まった岩のことです。日本列島は大きく見れば一つの礫岩なので、この歌は日本のことをよく表現しているといえます。そしてその考え方は大陸、ひいては地球のスケールにまで広げても同じなのではないかと思われます。大陸も、地球も、より大きな規模で見れば分裂と集合を繰り返す寄せ集めの「さざれ石」にすぎないのです。

 日本列島はひとつのさざれ石、地球全体もひとつのさざれ石。いくつかの小石が集まって大きな石を作っているだけ。

 なんともスケールの大きな話だ。

 想像すらおいつかないぐらいの大きなスケールの話を読むのは、凝り固まった頭をほぐしてくれるようでなかなか気持ちがいい。


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【読書感想文】藤岡 換太郎『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』



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2022年5月6日金曜日

たったひとりの例外もなく

 

「親が本好きなら子どもも本好きになるというのはウソ。ソースは私。うちは両親とも本好きで家に大量の本があったが、私はまったく読まないまま成長した」

という内容のツイートを見た。そしてそれがそこそこ広まっていた。


「親が本好きなら子どもも本好きになる。ひとりの例外もない」なら、たしかにウソだろう。

 だが、「親が本好きなら子どもも本好きになる傾向がある」なら数件の反例をもって否定することはできない。



 世の中には「AすればBになる!」といった記事やテレビ番組があふれている。

 その意味はたいてい「AすればBになることが多い」である。

 特に医療や教育に関しては「Aすれば100%Bになる」なんてほぼありえない。ありえるとしたら「青酸カリを大量に摂取すると100%人は死ぬ」とか「毎日20時間ゲームをしている子は100%東大に合格できない」とかの極端な話だけだ。

 でも「AすればBになる可能性が少し上がる」だと見出しにキャッチーさがないから、あえて言い切る。ほとんどの人は「こういう説もあるのね」と適当に聞き流す。


 ところが、冒頭のツイートをした人は「AすればBになる!」を文字通りの意味で受け取ってしまったようだ。

 だから「親が読書好きなら子どもも読書好きになる」という記事だか番組だかを見て、「私はそうじゃなかった。例外がひとつでもあるからAならばBとは言えない!」と考えてしまった。

 この考えは、論理学的には正しい。「AならばB」は、たったひとつの反例「AなのにBでない」を挙げれば覆せる。

 ただ、この人は修辞技法というものを理解していない。



 人に物事を伝えるためには、ときに正確さを犠牲にする必要がある。

 たとえば隠喩。「その夜のぼくらは迷子の子犬だった」

 たとえば擬人法。「夜の闇が彼の姿を包んだ」

 たとえば誇張法。「死んでも君を離さない」

 どれも正しくない。でも伝わる。「じっさいにはあと数分したら君を離してしまうけれど今はいつまでも君を離したくないという気持ちを持っている」というよりも「死んでも君を離さない」のほうが簡潔に、切実に、伝わる。


 我々が一般に使う表現は、論理学的な正しさとはまた別のところにあるのだ。

 だから「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」という記事を見ても、たいていの人は「たったひとつの例外もないんだな。親が読書好きなのに本好きにならなかった子どもは世界中にひとりもいないんだな」とはおもわない。

「親が本を読んでいる姿を自然に見せることで子どもが本好きになる確率が有意に上がるんだろうな。もちろんいくばくかの例外はあるだろうけど」と受け取る。


 修辞技法の使い方、受け取り方は学校ではあまり教わらない。様々な文学表現に触れるうちに、自然と身につけるものだ。

 だから、冒頭のツイートをした人が「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」を文字通りの意味にしか解釈できなかったのはある意味しかたのないことかもしれない。なにしろ彼は本をまったく本を読まないそうなのだから。

 結局、何が言いたいかというと、やっぱり読書って大事なんだなあってこと。本を読まないと修辞技法を理解できない!(反証は受けつけません)



2022年5月2日月曜日

【読書感想文】渡辺 容子『左手に告げるなかれ』/自己満足比喩につぐ比喩

左手に告げるなかれ

渡辺 容子

内容(e-honより)
「右手を見せてくれ」。スーパーで万引犯を捕捉する女性保安士・八木薔子のもとを訪れた刑事が尋ねる。3年前に別れた不倫相手の妻が殺害されたのだ。夫の不貞相手として多額の慰謝料をむしり取られた彼女にかかった殺人容疑。彼女の腕にある傷痕は何を意味するのか!?第42回江戸川乱歩賞受賞の本格長編推理。

 ああ、江戸川乱歩賞っぽいなあ。というのが読んだ感想。

 知らない人のために解説しておくと、江戸川乱歩賞ってのはミステリ小説の新人賞なんだけど、賞金が破格の1000万(2022年からは賞金500万円)ということもあってめちゃくちゃレベルが高い。文学新人賞の中では最高難易度の賞だ。たぶん芥川賞よりもとるのが難しい。文学界のM-1グランプリだ。

 というわけで、江戸川乱歩賞受賞作というのはただおもしろいだけでなく、「構成がよくできている」「題材が新しい」「丁寧な取材がされている」などあらゆる面ですぐれていないと受賞できない。そのため受賞作は数年かけて書かれていることもザラである。たとえば 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』 によると、岡嶋二人が乱歩賞に応募をはじめてから受賞までには七年かかったそうだ。もちろん七年かけても受賞できない人が大半なのだが。


『左手に告げるなかれ』も、乱歩賞受賞作の例に漏れず細部までよくできたミステリだ。

 主人公はスーパーの保安士。いわゆる万引きGメンだ。社内不倫が原因で大手企業を退職することになった過去を持つ。
 あるとき、主人公のもとにかつての不倫相手の妻が殺されたことを知る。そして自分に容疑がかかっていることも。身の潔白を証明するために調査に乗りだした主人公。
 すると同じく事件を探っていた探偵から、被害者女性以外にも殺人事件が多発していたことを聞かされる。被害者に共通しているのは、急成長中のコンビニチェーンのスーパーバイザーであること。はたしてコンビニチェーンと事件にどうつながりがあるのか。そして現場に残されたメッセージ「みぎ手」と、被害者たちが口にしていた「四時間を潰すために戦う」という謎の言葉の意味とは……。

「万引きGメン」「不倫の過去」「コンビニチェーンの強引な手法」「連続殺人事件」「ダイイングメッセージ」「訳あり風の探偵」「アリバイトリック」と、これでもかと要素をつめこんだ作品。それでいて煩雑にならずスピード感のあるミステリにしあげているのだから、乱歩賞受賞も納得の作品。




 万引きGメンやコンビニ業界に関する知識(1996年刊行なので今となっては古いが)、意外な犯人、主人公をとりかこむ濃いキャラクター、しゃれたタイトルなどどれをとってもよくできている。

 が、この小説は嫌いだなあ……。


 その理由はただひとつ。「気の利いた言い回しをしようとしているのがうっとうしい」ことだ。

 村上春樹くずれというか、ハードボイルド作品の登場人物くずれというか。

 私は黙って宙を睨みつけていた。あの出来事についての感慨なら、段ボールの箱にアン・クラインの衣類といっしょくたにして放りこみ、三年前、ゴミ集積所に出したつもりでいた。思い出はすべて廃棄したはずなのだ。なのに、刑事の口にそれを並べ立てられた途端、目薬を注いだ直後のように、目の前の光景がぼんやり霞んで見えてくる。犬丸の顔が、ゴミ袋の中身を探っては「不燃物を入れてはいけない」と文句をつけてくる、近所の老婦人そっくりに見えてきてしまう。
 思い出は不燃物です、燃やせば危険ですから、自分で処理しなくてはいけません……。

 これでもかといわんばかりの比喩の羅列。

 これだけの文章に、「感慨をゴミに例える」「霞んだ視界を目薬を注いだ直後に例える」「刑事の顔を老婦人に例える」と三種類の比喩が使われている。そしてだめ押しのように、「感慨をゴミに例える」をしつこくもう一度。暗喩、直喩、直喩、暗喩。

 ああ、うんざりだ。鼻につくなんてレベルじゃない。強烈な悪臭を放っている(釣られてこっちまで比喩を使ってしまった)。

 比喩って本来、わかりやすくするためのものなんだよ。文字だけで伝えるために、比喩によってイメージを喚起させる。でもこの人は「どやっ、気の利いた言い回しでっしゃろ?」と己の才気を見せつけるために比喩を多用している。わかりやすくさせることなんてこれっぽっちも考えていない。この文章から比喩を消したほうがどれだけわかりやすくなるか。

 過剰な比喩だけでなく、ウィットとアイロニーたっぷりの台詞も気持ち悪い。しかも、ひとりやふたりではなく、ほとんどの登場人物がハードボイルド作品みたいな台詞を吐く。全員が全員「うまいこと言える自分」に酔っているのだ(もちろんほんとに自分に酔いしれているのは作者なんだけど)。

 比喩とかウィットに富んだ台詞って中毒性があるから、使ってると比喩を使うことが目的になっちゃうんだろうね。


 作者がどや顔をするためだけに濫用された比喩や言い回しをなくせば、三分の二ぐらいの分量になってぐっと読みやすくなったとおもうんだけどね。


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【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2022年4月28日木曜日

有頂天とはこのことだ


 どういういきさつか忘れたけど、小学三年生のとき、家に一輪車が届いた。たしか親戚にもらったんだとおもう。

 で、ぼくは乗ってみた。あたりまえだが乗れない。何度も何度も乗ってみた。親も兄弟も知人も一輪車には乗れないから、乗り方を教えてくれる人なんていない。今だったらYouTubeとかで検索すればすぐに乗り方レクチャー動画が出てくるんだろうが、当時はそんなものない。ぼくは何度もこけてこけてこけて、ようやく乗れるようになった。内くるぶしが傷だらけになったのをおぼえている。


 ぼくが一輪車にすいすい乗れるようになった頃、ほんとにたまたま、小学校がベルマークで一輪車を二十台ぐらい購入した。そして、体育の時間に一輪車に乗ってみることになった。

 もちろん誰も一輪車には乗れない。先生だって乗り方を知らない。乗れるのはぼくひとり。クラスどころか全校生徒の中でぼくひとりだけだった。

「有頂天」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。

 優越感の極み。クラスの誰もができずに悪戦苦闘していることを、自分ひとりだけがたやすくできる。スポーツ万能のあいつも、けんかの強いあいつも、体操教室に通ってるあいつも、みんな必死の形相で一輪車から落ちないようにみっともなく鉄棒にしがみついているのに、ぼくだけが悠々と一輪車を乗りこなしている。進むのも曲がるのもできちゃう。

 おれはヒーローだ!


……と当時はおもっていたんだけど、今おもうとどう考えてもただの「鼻持ちならない嫌なやつ」だよな。ヒーローでもなんでもなくて。

 そして、ぼくが優越感を感じられたのはほんと数週間だけで、あっという間にクラス全員が一輪車に乗れるようになり、さらにはぼくもできなかった「バック」「アイドリング」といった技をできるようになるやつも現れ、ぼくの優越感は一瞬にして崩壊したのだった。

「鼻っ柱をへし折られる」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。


2022年4月27日水曜日

【読書感想文】『参上!ズッコケ忍者軍団』『ズッコケ妖怪大図鑑』『ズッコケ三人組の推理教室』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第七弾。といっても今回からは「読み返し」ではなく「はじめて読む」作品も。

 今回は28・23・19作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら


『参上!ズッコケ忍者軍団』(1993年)

 カブトムシ捕りの穴場スポットに、隣の小学校の連中が基地を作り、エアガンやガスガンで戦争ごっこをしている。下級生が脅されたことに憤慨したハチベエたちは仲間を集めて喧嘩をしかけにいくが返り討ちに遭って恥をかかされてしまう。そこで復讐を果たすため、忍者軍団を結成して戦術を練る……というストーリー。

 うーん。これは、子どもの頃に読んでいたらもっと純粋に楽しめたんだろうなあ。ズッコケ三人組総選挙でも二位に輝いている人気作品だし。でもおっさんの目で読むと「そんなことしちゃだめだろ」「やめといたほうがいいって」と言いたくなることばかり。ぼくも老いたなあ。

 エアガンで撃たれたから仕返し、というのはわかる。「ロケット花火で攻撃」はまあいいだろう。エアガンで撃たれたならそれぐらいしてもいいとおもう。「トウガラシ爆弾で目つぶし」も、ぎりぎり許容範囲内だ。
 でも「パチンコで投石」「木刀で戦う」とかを読むと、「いやいやこれはしゃれにならんでしょ」とおもってしまう。一生残る傷を負わせたり、下手したら命にかかわるけがを負わせることになりかねない。そんなことになったらお互い悲惨だ。まして「敵の食糧に下剤を混入する」までいくと、子どもの喧嘩だからでは済まされない。警察沙汰だ。

 と、ついつい眉をひそめてしまう。子どものときに読んでいたらただひたすら痛快な物語だったんだろうけど、親の立場になると純粋に楽しめない。


 己の力を過信して敵をみくびったせいで、ろくに調査もシミュレーションもせずに楽観的なデータだけを見て敗退するってのは旧日本軍っぽくておもしろかったけど、そこを除けばストーリー全体が予定調和っぽい。 

 たとえば、くノ一の存在。中盤でクラスの美少女三人組が忍者の仲間になるのだが、このくだりはあまりに不自然。六年生の女子(それもクラスでイケてる側の子らで、私立中学を受験する子)が、男子たちが忍者ごっこで戦争をすると聞いて「わたしたちも仲間に入れて」なんて言うかね?
 この子たち、「塾の帰りに夜の書店に行ってちょっとエッチな女性週刊誌を立ち読みする」なんて描写もあるのに、そんな子が忍者ごっこをするとはおもえない。
 願望がすぎる。六年生の女子なんて、男子とは五歳ぐらい精神年齢に開きがあるけどなあ。

 初期の作品『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』『とびだせズッコケ事件記者』あたりでは、女子は明確に男子の(特にハチベエの)敵として書かれていたのだが、時代の変化もあるんだろうけど、ずいぶん書き方が変わったなあ。女の子の読者に迎合したのかなあ。あのくだりはリアリティがなかった。


 また、敵の描写も薄っぺらい。喧嘩に負けて恥をかかされたので復讐を誓うという構図は『花のズッコケ児童会長』と同じだが、『児童会長』のほうは相手には相手の正義があったのに対し『忍者軍団』のほうは敵は単純な悪者として存在する。彼らには彼らの言い分だったり心境の変化があったとおもうのだが、ほとんど表現されていない(最後にちらっと匂わせる程度)。
 まあ、人間の心情に思いをめぐらせることなくただ倒すべき存在として認識するのが戦争なのだから、ある意味で正しい書き方なのかもしれないが。とはいえ隣町の小学校と戦争しました、勝ちました、やったね、という書き方は文学的じゃないなあ。

 この隣町の小学校、夏休みにみんなで秘密基地に集まってカレーを作ってたべたり、中学生に勉強を教えてもらったり、めちゃくちゃ楽しそうなんだよなあ。隣の学校の子をエアガンで脅して追い払ったのは良くないけど、よく考えたらそれ以外はそこまで悪いことをしていない。緒戦は、ハチベエたちが仕掛けてきたから防衛しただけだし。まあハカセとモーちゃんの服を脱がせたのはやりすぎだけど、基地をぶっこわされるのはかわいそうだ。

 ズッコケシリーズって「クラスのイケてない子らが知恵と勇気で活躍する」話が多いけど、『忍者軍団』に関しては逆で「両親共働きで夏休みに退屈している子らが男だけで集まって秘密基地を作ったり飯盒炊爨したりで楽しくやっていたら、女の子と仲良くしている隣の学校のグループがやってきてめちゃくちゃにされてしまった話」なんだよな。

 どうしても、三人組たちよりも隣町の小学校側に肩入れしてしまう。むしろこっちを主人公にしたSIDE-Bストーリーが読みたいぜ。



『ズッコケ妖怪大図鑑』(1991年)

 雪の上に残った奇妙な獣の足跡、奇妙な物音、女の幻……。ハカセとモーちゃんの住む市営アパート近辺で次々と怪奇現象が起こる。真相を究明するためアパートの旧館を訪れた三人組とモーちゃんの姉さんは、巨大な火の玉に遭遇する。
 アパートが建っていた土地の歴史を調べていたハカセは、はるか昔にこの地にいた「権九郎」なる存在にたどりつく……。

『心霊学入門』『恐怖体験』などに続く怪異譚。
 おばけだの幽霊だのはまったく怖くないので怪談が好きではないのだが、この『妖怪大図鑑』は薄気味悪くてけっこう好きだ。この物語は「妖怪が出ました、怖い目に遭いました、退治しました」でおしまいではなく、〝妖怪を呼び起こした人間たち〟が描かれるからだ。しかも彼らは根っからの悪人というわけではなく、妬みやプライドを持ったごくごくふつうの老人たち。あまり裕福でなく、おそらくコミュニティとのつながりも薄い老人たちが、別の住人を逆恨みして妖怪の力を借りる……という構造になっている。

 これは不気味だ。たしかに「近所にいる、裕福でなさそうな老人たち」ってなんとなく不気味なんだよね。じっとこちらを観察してきたり、始終不機嫌だったり、やたら他人のことに干渉したり、悪意を漂わせている人もいる。この「不機嫌な老人たち」を悪意の元凶に持ってきたのはじつにいい。

 そして、三人組たちの活躍により騒動の原因である妖怪は退治されるわけだが、妖怪を呼び起こして地域住民たちを攻撃させた老人たちは何の罰も受けることなく、この地域に残りつづける。

 攻撃された住人たちの一部は転居を余儀なくされ、原因をつくった老人たちは怨念を抱えたまますぐ近所に住みつづける。おお、おそろしい。この後味の悪さ、ぼくはけっこう好きだ。


 伝え聞いた話が多いのでスピード感がないとか、モーちゃんの存在感がなさすぎるとかの問題はあるが、怪談系の話の中では好きな部類に入る作品。『大当たりズッコケ占い百科』もそうだけど、死んだ人の話よりも生きている人間の悪意のほうがずっと怖いぜ。

 好きなシーンは、市立図書館でハカセと宅和先生が話すくだり。宅和先生、教え子と対等に歴史の話ができてすごくうれしかっただろうなあ。



『ズッコケ三人組の推理教室』(1989年)

 シャーロック・ホームズの魅力にとりつかれたハカセたち。何か事件はないかと探していたら、クラスの美少女・荒井陽子の飼い猫がいなくなったという話を聞きつける。猫はまもなく見つかったが、見つけ主から高額な謝礼を暗に要求されたという。さらにモーちゃんの母親の知人もやはりネコの失踪にからんで謝礼を支払ったことが判明。一連の事件の真相を探るため、三人組は荒井陽子といっしょに捜査を開始する……。


 ぼくはズッコケシリーズを一作目から二十二作目までは所有していたし何度も読み返していたのでけっこう細かいところまでおぼえているのだが、なぜかこの作品だけは記憶がおぼろ。ところどころ読んだ記憶はあるから、図書室とかで借りて読んだのかなあ。

 この作品の特筆すべきは、なんといっても荒井陽子の存在。序盤から終盤まで三人組と行動をともにしていて、もはや四人組といってもいいぐらいの活躍を見せている。
『うわさのズッコケ株式会社』でも中森晋助が仲間に加わっているが、基本的に三人組についてくるだけで、物語を牽引することはなかった。この作品における荒井陽子の活躍はかなり異色だ。

 ズッコケシリーズって少年の話だったのが、1989年の『ズッコケ三人組の推理教室』、1989年『大当たりズッコケ占い百科』、そして1990年『ズッコケTV本番中』このあたりから急速に女子の登場シーンが増えてくる(まあ『占い百科』における女子は陰湿で怖い存在として描かれてるけど)。

 男女雇用機会均等法が施行されたのが1985年。中学校で男女ともに技術・家庭科を学ぶようになったのが1990年(知らない人も多いとおもうけどそれまでは技術は男子だけ、家庭科は女子だけだった)。1980年代後半は男女平等が声高らかに叫ばれるようになった時代だったのだ。ズッコケも時代の流れをしっかりとらえていたのだろう。


 ストーリーは児童文学のド定番、探偵ものだ。ひょんなことから事件に巻きこまれた子どもたちが知恵を出しあって犯罪事件を解決する話。『ぼくらはズッコケ探偵団』『こちらズッコケ探偵事務所』とほぼ同じ構成だ。ただ、『探偵団』は殺人事件・ひき逃げ事件、『探偵事務所』が誘拐・窃盗事件だったのに比べれば、こちらはペットの誘拐事件と犯罪のスケールは小さくなっている。その分身近に感じられるので、ぼくとしてはこっちのほうが好きだ。殺人や児童誘拐だと「警察に任せろよ」とおもってしまうけど、ペットの誘拐ぐらいだったら警察も本気で取り組まないだろうから小学生が捜査することに説得力がある。

 事件発生から、新たな謎が浮かびあがり、小さな手掛かりから徐々に犯人に接近し、最後は緊張感のある捕物帳。
 ハカセの推理、ハチベエの行動力、陽子の冷静さと社交性、モーちゃんの落ち着きと機転により犯人逮捕につながり、バランスもいい。全体的にうまくまとまっていて、お手本のような子ども向け探偵小説だ。

 気になったのは、猫誘拐犯が無罪放免されたこと。同情の余地はあるとはいえ、猫を誘拐して百万円以上を騙しとったのにあっさり許してしまっていいものか。
 被害者たちが猫をさらわれ、かつ十万円をとられたのに目をつぶってやるのも理解できない。せめて金は返させろよ。これで許してやったら、こいつら場所を変えてまたやりかねないぞ。


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