2018年5月23日水曜日

「許せん」について考えた

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アメフトのタックル問題を見ていて、「許せん」ということについて考えた。

大学フットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に悪質なタックルを食らわせ、全治三週間のけがを負わせた。
日大の選手は他にも悪質なファウルをくりかえしており、チームぐるみのプレイなのではないかと疑念が上がった。
けがをした関学の選手は警察に被害届を出し、タックルをした日大の選手は記者会見を開き、被害者への謝罪をするとともに監督やコーチから「つぶしてこい」などの指示があったことを告発した。

というのが今の状況だ。

さて、ニュースやSNSの反応を見ていると、野次馬の大半は日大の選手については「許す」ことに決めたらしい。
自らの過ちを認めた上で何度も謝罪の言葉を口にし、監督やコーチからの指示があったと述べたことで、彼の評価はマイナスからむしろプラスに傾いているようにも見える。
「むしろ彼も被害者だ」「権力に立ち向かう立派な人物」「不正に立ち向かうために声を上げた勇敢な青年」みたいな扱いまで受けている。

ふしぎだ、と思う。
彼は謝罪はしたが、報道を見るかぎりではけがをさせられた選手が「許す」と言った様子もないし、もちろんけががなくなったわけでもない。

つまり「悪質なタックルをして相手チームの選手をけがさせた直後」と「謝罪会見を開いた後」で、彼がやったこと、与えた損害については何も変わっていない。刑事罰も受けていなければ、被害者に対する賠償もしていない。
また、事件に至った経緯を彼は説明したが、あくまで一方の見解でしかなく、監督やコーチが口をつぐんでいるため真相はほとんど何も明らかになっていないに等しい。

けれど野次馬の大半はもう「許した」らしい。


勘違いしてほしくないのだが、日大の選手を許すなと言いたいわけじゃない。
ただ「なぜ許すんだろう」、「以前は何が許せなかったんだろう」、「そもそも許さんとか許すとかいう資格が我々にあるのか」と疑問に思っただけだ。



何に対して「許せん」のか


いろんなことが世間を賑わせているが、その多くは「許せん」「許せる」の話に還元できる。

謝ってしまえば、意外と世間はたいがいのことは許す。
そもそも自分が被害を受けたわけではなく、ただ野次馬として悪いやつを叩いて溜飲を下げたいだけだから。
だから悪いことをしたやつでも「私が悪かったです」と頭を下げていくばくかのペナルティを受け入れれば許す。胸がすっとするから。

幼い子どもを見ていると、よく「思いどおりにならないこと」に対して怒っている。
うまく靴下が履けない、とか、こっちに行きたいのにみんながあっちに行った、とか。

大人になるとそのへんのことを「やりかたを変えれば何とかなること」「どうにもならないこと」に分けて考えることができるようになる。
「うまくピアノが弾けない」という「どうにもならないこと」に対して、「練習しよう」とか「お金を出してうまい人に弾いてもらおう」とか「あきらめよう」とかいくつかの対策を立てられるようになるので、大人は子どもほど怒らない(子どものように怒る大人もいるけど)。

テレビを観ている我々が「許せん」と思うのは「思いどおりになりそうなこと」だけだ。
多くの命を奪った地震に対して「地震許せん」とは思わない。地震はどうにもできないことだから。発生を防ぐこともできないしナマズが謝ってくれるわけでもない。
その代わり、十分な対策をしていなかった行政機関とか原発建設を進めていた政治家とかは「思いどおりになるかもしれない」から「許せん」と思う。

我が国の政治家の不祥事に対しては、辞職するとか頭を下げるとかしてくれるかもしれないから(素直に認める可能性はきわめて低いけど)「許せん」と思う。でも外国の政治家がどんな暴挙に出ても、日本で怒っている人の言葉に耳を貸してくれなさそうだから「許せん」とは思わない。
北朝鮮がミサイルをぶっぱなしているときに「やめてほしいなー」と言う人はいても、「金正恩許せん」とか「金正恩辞めろ!」とか言ってる人はほとんどいなかった。地震と同じように「どうにもならない困った現象」扱いだった。

我々の「許せん」という感情は、うまく靴下が履けなくて怒っている二歳児の気持ちに近い。



「許せん」は相対的なもの


アメフトタックル問題を見ていると、「許せん」は相対的なものなのだと気づく。

日大の選手が悪役から一転「命じられて不本意な悪事に手を染めてしまったかわいそうな被害者」、あるいは「不正を告発した勇気あるヒーロー」にまで扱いが変わったのは、日大の監督、コーチ、大学側の態度が不誠実だからだろう。

もし問題が発生した直後に監督が「すべて私が指示したことです。不適切な指示でした。被害者にお詫びし、経緯を明らかにした上で刑事罰、民事訴訟、世間からの非難をすべてを受け入れます」と頭を下げていたらどうだっただろう。
きっと、選手の評価はここまで上がっていなかったにちがいない。謝罪会見をしたとしても「監督から指示されたとはいえ悪質なプレイに手を染めた卑怯者」ぐらいの扱いは受けていただろう。
天秤のように、監督が評価を下げたことで選手の評価が上がったのだ。
大相撲の暴行問題でも、「暴行をした日馬富士が悪い」と言ってる人はほとんどいなくなった。「許せん」やつが相撲協会に移ったからだ。

つまり我々は一度にいろんなやつを「許せん」とは思えない。
「もっと許せん」やつが現れたとき、比較的誠実な対応をしているやつは「許せん」から外れる(許したわけではない)。

「許せん」は脳のメモリーを食うから、新しい「許せん」が出てくると以前の「許せん」は思考の外に追いやるのである。



「許せん」を回避するために


アメフトタックル問題を見ていると、「世間に許してもらう」方法が見えてくる。
  1. 過ちは受け入れ、頭を下げる
  2. いくらかのペナルティは受け入れる
  3. もっと「許せん」やつをつくる
特に大事なのは「3. もっと「許せん」やつをつくる」だ。
これさえあれば、1. と2. はなくてもいいぐらいだ。現に、日大アメフト部の監督やコーチの対応がまずかったために、選手が謝罪会見をする前から彼に同情的な意見は多く見られた。

政治家が身を守るために「許せんやつ」を用意しておく、というのはどうだろう。
閣僚が不正や失言で非難を浴びたら「許せんやつ」がもっとひどいことをやらかすのだ。一年生議員が誰が見ても明らかな差別的発言をする、とか。
スケープゴートが現れれば、一度に何人も「許せん」ことのできない我々はより軽いほうを許してしまう。
政権は保身のために検討したほうがいいかもしれない。もうやっているかもしれないが。


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