2018年5月5日土曜日

国の終活、村の終活

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日本の産業は今後縮小する一方だろうが、日本が世界に勝てる分野がひとつだけある。
それは「衰退」だ。

いまだに「高齢化社会」なんて言葉を使ってる人がいるが、そんな時代は20年以上前に終わった。日本は1995年に高齢者の割合が14%を超え、高齢化社会から高齢社会になった。さらに2005年には21%を突破して超高齢社会になった。現在は30%も超えて、世界ダントツの高齢大国だ。

有史以来どの社会も経験したことのない局面を迎えている。しかしこれは危機であると同時にチャンスでもある。
遅かれ早かれ他国も同じ状況に陥るわけで、そのときには衰退先進国である日本の経験が大いに参考になる。

戦争や疫病で全滅した国はあっても、老衰によって滅びた国はこれまでにない。国家がどうやって自然死するか、ここに全世界が注目する。たぶん。



近年「終活」という言葉が使われている。自分の死に方を設計し、残された者たちに迷惑をかけないよう望ましい死を選択する行為だ。
日本という国もそろそろ終活を考えねばならない時代にきている。

人間でもそうだが、無理な延命をしてもろくなことがない。
たとえば後先考えずに大量の移民を受け入れれば一時的に高齢者の割合は減るだろうが、移民もいずれは歳をとるわけで、根本的な解決にはならないどころかさらに大きな問題を引き起こす。副作用の強い薬を飲むようなものだ。

あわててじたばたするのは見苦しい。ひっそり静かに死んでいけば残された国々も「惜しい国を亡くした」と悼んでくれる。諸外国の記憶の中で永遠に「美しい国」でいられるのだ。死人は美化されるからね。



国が死ぬ前に、国内の多くの自治体が老衰で死んでいく。死にゆく自治体を観察することで、国家としての理想の死に方がおのずと見えてくることだろう。

今後、死んでゆく村がどんどん出てくる。若者を呼ぼうなんて考えてはいけない。どうせ来ないから。それより「死ぬ村」をアピールしたほうがいい。
延命なんてせずに、逆に明確に期限を切るのだ。「この村はあと一年で死にます」と。そうすることで死を迎えた村は最期の輝きを放つことができる。

人間だって「あの人、余命三か月だって」と言われれば「じゃあ今のうちに会いにいっておこう」となる。愛する人々と別れの挨拶も交わし、心残りの少ない終末を迎えられる。
いつ死ぬかわからないままチューブにつながれて何年も経てば、会いに来てくれる人はいなくなるわ、金はかかるわ、家族の負担は増えて「こんなこと願ってはいけないけど早く死んでくれれば……」と思われるわ、ろくなことがない。助かる見込みがないならさっさと死んでしまうにかぎる。

高齢者ばかりの村は「村おこし」ならぬ「村看取り」を考えないといけない。



どうやって死ぬか。

ぼくは、「ダムの底に沈む」がいちばんの理想だと思う。終末の時がわかりやすいし、思い出は美しいまま建造物と一緒に水底に閉じこめられるし、他の町の役には立つし。

ただもう時代的に新たなダムは必要とされないので、残念ながら「ダムの底に沈む」プランは実現不可能だ。

彗星が落ちてきて村ごと消滅という『君の名は』方式も、心が入れ替わった三年後の世界のイケメンによって村人が救われるのであれば美しいプランだが、これも現実的ではない。

海外の大型建造物なんかはダイナマイトで爆破解体される。あれはすごくわかりやすくていい。
悲しいけれど、「ああ我々が愛した〇〇はもうなくなったんだ」とはっきりと目に見えるから、いつまでも引きずらずに気持ちを切り替えられる。村も爆死がいい。

人でも建物でも村でも、死ぬときはとにかく「はっきりと死んだとわかる形」にしたほうがいい。
人間の場合だと脈がなくなるとか呼吸が止まるとかいくつかのサインがあって、「死の要件」を満たすことで死が確定する。医師の「〇時〇分、ご臨終です」という宣告があるおかげで死を受け入れる準備ができる。

死の要件がないと、「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」なんて言いながらいつまでも死を認められなくて、ずっとベッドに寝かせてるうちにどんどん腐ってきて、もうドロドロになってるのに「もう死んでるとは思うけど一応もうちょっと置いとくか。何かに使えるかもしれないし……」なんて鼻をつまみながら片付けができない人みたいなことを言って、そんで白骨化して引っ越しとかのタイミングでようやく「さすがにもう片付けてもいいよね」と処分することになる。そんなカッちゃん見たくない。

今のままだと、同じことが全国の村々で起こる。死を受け入れられない村がカッちゃんのように腐敗してゆくことになる。
早めに「町の死」を定義づけなければ。
「三十歳以下の住民が十人を下回ったら死」とか「子どもがいなくなったら死」とか「税収が○○円を下回ったら死」とかの客観的な指標が必要だ(たぶんもう死んでる村もあるだろう)。
基準を満たしたら死亡。住んでいる人が何を言おうが問答無用でおしまい。一年たったら臨終宣告をして、ダイナマイトで役場を吹っ飛ばして行政サービスは一切打ち切り。その村は「」になる。墓村、墓町、墓市。これぞゴーストタウン。


現憲法には「居住移転の自由」と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が定められているから、村に住民がたったひとりになったとしても、最後の人が出ていかないかぎりは行政サービスを提供しつづけなければならない。
これは現実的でない。
そろそろ町が死ねるように憲法改正をしたほうがいいかもしれない。



村を死なすのは寂しい気もするけど、死を受け入れないことには次に進めない。
死にかけの村よりも死んだ村のほうが愛される。


世の中には廃墟マニアもいるから、「墓」になった町に住みたい人だっているだろう。
一切の行政サービスを拒否して孤高に生きたい、いや孤高に死にたいという人だっているだろう。

そういう変わり者が集まれば、一度死んだ村に再び人が集まって息を吹き返すかもしれない。一度ゴーストタウンになった村が甦る。これぞ超魔界村。


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