2022年6月30日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『ガール』 / 2003年ってこんなに古くさかったっけ

ガール

奥田 英朗

内容(e-honより)
わたし、まだオッケーかな。ガールでいることを、そろそろやめたほうがいいのかな。滝川由紀子、32歳。仕事も順調、おしゃれも楽しい。でも、ふとした時に、ブルーになっちゃう(表題作)。ほか、働く女子の気持ちをありえないほど描き込み、話題騒然となった短編集。あなたと彼女のことが、よくわかります。


 2003~2005年に雑誌に発表された、働く女性を主人公にした短篇五篇を収録。

 えっ……。2003年ってこんなにも古かったの……。あたりまえのようにおこなわれるセクハラやパワハラ、上司へのごますり、派閥争い、出世競争、連日の残業、アフターファイブの飲み会、カラオケ、ディスコ……。

 これはどうなんだろう。奥田英朗氏の感覚が古くて、〝昔のニッポンの会社〟を二十一世紀に書いてしまったのか。それともこの頃の会社ってこんなんだったのか。

 ううむ、まるで百年前の話のようにおもえてしまう。


 裕子とは話が弾んだ。別のプロジェクトについてもアイデアが開陳され、裕子の積極性に驚かされた。将来の夢まで語った。得意の英語を生かして海外事業部に行きたいらしい。
「なんなら外資系に移籍しちゃえばいいのに。給料も高いし」聖子は、転職を勧めるようなことを冗談半分で言った。
「あ、それ、女性上司の発想」裕子がおかしそうに言う。「前の部署でその話をしたら、我慢してたらそのうち回ってくるからって諭されたんです」
 なるほど、男は職種ではなく会社が第一なのだろう。部下に転職を勧める上司なんて聞いたことがない。

 いやわりといるけど……。同僚や上司や部下と「転職しないんですか?」とか「いずれ転職するだろうけど……」といった話をしたことは何度もある。今となっては「女性上司の発想」ではなく「数十年前の発想」だ。


 ぼくは2005年に大学を卒業しているから、この時代の会社のこともまったく知らないわけではない。就活をしたり、先輩の話を聞いたりもしていた。

 そういえば、2000年代初頭ってまだまだこんな時代だったかもしれない。一言でいうなら「昭和」。

 そりゃあ今でも派閥争いをしたり、出世競争をしたり、連日のように飲み会や接待をしたり、セクハラやパワハラが横行している会社もあるだろう。完全になくなったわけではない。でも、少なくとも多くの人にとっては〝古くてダサいもの〟という認識を持たられている。

「いやあ、毎日接待で飲み会でね」という話を聞いて「サラリーマンはそうでなくっちゃ」とおもう人は、三十代以下では少数派だろう。多くの人の感覚は「大変だね」「気の毒に」「そんな会社やめたら?」「まさかそれが自慢になるとおもってんの?」「生産性の低いことやって給料もらえてよろしおすなあ」だ。


『ガール』に出てくる会社や人は、ことごとく古い。二十年もたっていないのに、まるで五十年前の価値観を持っているように見える。

「女性社員は職場の花だから若いほどいい」「妻が夫より稼ぐなんて」「女が会社で生きるには、男に負けないぐらい気が強いか、かわいくて男に甘えて生きるか」みたいな感覚を持っている。男も女も。

 上司の男が部下の女性に「おっ、この後デートか?」みたいなことを言って、言われたほうが「もう! 課長それセクハラですよ」なんて言ってる。「それセクハラですよ」は「不問にしますよ」と同義だ。言われた女は「恥ずかしそうにする」か「冗談めかして怒ったふりをする」かの選択肢しかなかったのだ。「無視する」とか「冷ややかな目を向ける」とか「もっと上に通報する」とかはそもそもありえなかった時代。

 こういうのを読むと、世の中って変わっていないようで変わっているんだなあと感じる。




 どの短篇も、会社や社会に巣くう女性に対する抑圧に立ち向かう主人公、という構図になっているのだが、この図式自体が古く感じてしまう。

 2022年も、一般的に女は男よりも働きにくい。そのことに変わりはないけど、でもいくぶん緩和されてはいる。「女性社員は職場の花だから若いほどいい」「男は家事や育児を置いてでも仕事に打ちこめ」という考えの人だってまだまだいるけど少数派だし、まして大っぴらに公言する人はもっと少ない。

 今だったら、あからさまな女性差別をする会社があったら「闘って変えていかないと!」よりも「そんな会社は見切りつけて転職したほうがいいよ」になる。もっとまともな会社はいっぱいあるし、そもそも「生涯一社」のほうがめずらしいし。

 でもこうやって「そんなセクハラ・パワハラが横行してる会社なんてごく一部だから、さっさと辞めちゃえばいいじゃん」と言えるのは、今の時代だからだ。自分が社会人になった2005年頃の雰囲気を思い返してみると、とてもそんなことは言えなかった。まだまだ「同じ会社に長く勤めて一人前」という風潮が強かったし、転職者に対する風当たりも強かった。「新卒入社した会社に定年まで勤めあげる」という神話がまだ生きていたし、不況だったこともあってブラック企業でもやめづらかった。必然的に、パワハラにもセクハラにも薄給にも長時間労働にも耐えなければならなかった。


 くりかえしになるけど、世の中はちゃんと変わっている。

『ガール』に出てくるような、自分のできる範囲で闘っていた人たちがいたからこそ変わってきたのだろう(あと古い価値案を持った年寄りが会社から退場していったから)。

 日本は貧しくなったし労働者のおかれている状況は厳しくなったけど、それでもぼくは「三十年前の会社で働きたいか」と言われたらノーと答える。

 給料少なくても、残業なくて飲み会断れて休みの日まで拘束されない会社のほうがいいや。


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2022年6月29日水曜日

若い人に薦めたい名著百冊


そんなものはない!


 いや、ほんとはあるけど、「若いうちにこれだけは読んどいたほうがいいよ」と言ってもうっとうしがられるだけだから言わない!

 読書にかぎらず音楽でもアニメでも映画でも、年寄りの「若いうちにこれだけは抑えとけ」は聞く価値なし。

 だいたい、そういうやつが挙げるものって古いんだよね。

 自分が若い頃に読んで感銘を受けたものだから、今の基準からすると古い。当時はセンセーショナルだったかもしれないけど、今は似たジャンルでもっとレベルの高いものが登場している。年寄りがそれを知らないだけ。


 若い人が知らないってことは、かつては最高峰にいたけど今の基準ではそんなにすごくないってことだ。

 カール・ルイス。ぼくが子どもの頃にその名を知らない人はいなかった。陸上100メートル走世界記録保持者だった人だ。

 でも今の小学生はまず知らない。とっくに世界一じゃなくなってるから。

 それでいい。今の小学生に「カール・ルイスという人がいて、そりゃあ速かったんだよ。短距離走をやるんなら彼ぐらいは知っておいたほうがいい。彼の走りをよく見て勉強してごらん」と説くのは無意味だ。今トップの人の走りを見て真似したらいい。


 そもそも「若い人に薦めたい」とか「十代のうちに読んでおきたい」とかいうあたりが、時代についていけてない人の発言丸出しだ。

 ほんとにいいものなら年齢関係なく勧めたらいい。それができないのは、自分が新しいものを取り入れられていないから。

 えらそうにしたい。でも自分よりも詳しい人がいっぱいいるから、恥ずかしくて知識をひけらかせない。

 そうだ! 若いやつを狙おう! 同じ時間を生きたすごいやつにはかなわないけど、生きている時間が短いやつにはえらそうにできる! だってあいつらが生まれる前の古い作品をこっちは知ってるんだもの! 仮に向こうが知っていたとしても「でも当時はすごかったんだよ。今の子にはわからないだろうけど、時代の空気にうまく乗ったというか……」みたいに言えばこっちの浅薄さをごまかせるし!


 思い返してほしい。自分が若い頃、「若いうちにこれだけは読んどいたほうがいい」と言われて素直に読んだだろうか。読んだとして、勧めてきた人と同じくらいの衝撃を受けただろうか? せいぜい「ふーん、昔はこんなものがありがたがられていたのか」ぐらいじゃなかったか?


2022年6月28日火曜日

未来から来た子ども

 三歳の次女。

 時間の概念がよくわかっていない。まあこの年頃の子はそんなもんだ。

 未来のことはどんなに先でも「明日」だし、過去のことは半年前であっても「昨日」だ。またお昼寝の前のことも「昨日」になる。〝寝た後〟の出来事がすべて「明日」で、〝起きる前〟が昨日になるようだ。

 ただし数はかぞえられるので、「あと五日たったらプールに行くよ」は伝わらないが、「あと五回保育園に行ったらプールに行くよ」は理解できる。


 そんな次女だが、最近未来の話をするようになった。

 ただそれがちょっと変わっていて、「大きくなったら〇〇になる」ではなく、「大きかったときは〇〇をしてた」と過去形で未来を語るのだ。

 さらにそれに空想が入り混じる。まったく知らない子の名前を急に挙げて「ラルラちゃんは(自分の名)ちゃんの六歳のときの友達」とか、テレビに映った家を見て「(自分の名)ちゃんがお仕事をしてたときはここに住んでたんやで!」と言ったりする。

 まるで未来から来た人みたいな話し方をするのでなかなかおもしろい。


 こういうことは子どものある時期だけのことで、ちゃんと書きとめておかないとすぐに忘れてしまう。

 ぼくが老人になったときにも、このことを覚えてたんやで!



2022年6月27日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組の大運動会』『ズッコケ三人組のミステリーツアー』『ズッコケ三人組と学校の怪談』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十弾。

 今回は27・29・30作目の感想。

 ちなみにぼくが小学生のときに読んだのは26作目の『ズッコケ三人組対怪盗X』までで、今作以降はすべて大人になってはじめて読む作品だ。


『ズッコケ三人組の大運動会』(1993年)

 運動だけは得意なハチベエ。これまで運動会の徒競走では毎回一等だったが、足の速い転校生というおもわぬライバル出現。ライバルに勝つためひそかに特訓をはじめる。そんなとき、組体操の練習中に転校生がケガをするというアクシデントが発生し、ハカセがわざとケガをさせたのではないかと疑われる……。


 運動会かあ、このテーマでは派手な展開にはならないだろうなあとあまり期待せずに読んだのだが、いやいやどうしてこれはこれで悪くない。

 はっきりいって運動会は地味な題材だ。小学生からしたら大イベントだが、それはそのときだけの話で、大人になってみるとほとんど記憶に残っていない。なぜなら、運動会はやることがすべて決められているから。先生が決めたタイムスケジュール通りに先生が決めた通りの動きをするだけ。創意工夫などまったく発揮する余地はない。これでは思い出に残るはずがない。

 そりゃあ競争だから勝てばうれしいし負ければくやしいが、そこまで引きずるようなものではない。その日の晩になればもう忘れている。小学校の運動会なんて、ほとんど生まれもった素質で決まるのだから。速いやつは速いし、遅いやつは遅い。ただそれだけ。素質とその日の運で勝敗が決まるのだから、ドラマ性は低い。

 しかしながら『ズッコケ三人組の大運動会』では、「足は速いが人づきあいがうまくない転校生」「その子のあこがれのお兄ちゃん」といった配役を用意し、さらに運動会での活躍ははなから諦めていたハカセやモーちゃんが努力して結果を残すという意外な展開を見せることで、なかなかドラマチックなストーリーに仕立てている。

 ズッコケシリーズは、無人島に漂着したり、山賊に拉致されたりといった派手な事件が起こる話もいいが、学校新聞を作ったり、児童会長選挙の活動をしたり、文化祭で劇をしたり、放送委員でテレビ番組を作ったりといった「どこの小学校でもやっていること」を描いているときこそ光り輝くようにおもう。心理描写がうまいんだよね。描きすぎてなくて、想像の余地が大きい。

『ズッコケ三人組の大運動会』では、運動が苦手なハカセやモーちゃんが良いコーチに出会って努力することで(当人たちにとっては)すばらしい結果を残すのだが、だからといって努力は大事だよ努力をしよう、みたいな安易な結論に着地しないのがいい。

 運動会が終わっても早朝トレーニングを続けようと誘われたモーちゃんが「トレーニングで足が速くなるのもいいけど朝布団で寝る時間も捨てがたい」とおもいなやむラストシーンはなんともリアルだ。そうそう、ズッコケはこうでなくっちゃ。



『ズッコケ三人組のミステリーツアー』(1994年)

 旅行会社に招待されてミステリーツアーに参加することになった三人組。ツアーの参加者は、ハカセとモーちゃん以外は十年前の旅行にも参加したメンバーばかり。さらに十年前の旅行中に参加者が死亡していたことが明らかに。そして今回の旅行でも殺人事件が発生。はたして犯人は……。

 これはかなりのハズレ回。この時期の作品は迷走感が漂っている。『ズッコケ三人組のミステリーツアー』の刊行が1994年。『金田一少年の事件簿』の連載開始が1992年、『名探偵コナン』の連載開始が1994年ということで、子ども向けミステリが流行っていた時期。まんまと流行りに乗っかった形だ。ポプラ社の悪いところが出ているなあ。

 この作品、あからさまに『金田一少年の事件簿』によく似ている。旅行に参加した先で殺人事件に巻きこまれるところや、過去の事件との因縁が明らかになるところなど。さすがに連続殺人ではないけれど。

 真似だけならいいけど、問題は真似たところがことごとく失敗しているところだ。

 まず登場人物が多いのにキャラクターが立っていない。児童文学の分量では、十数人のキャラクターをしっかり説明しきれない。そして設定に無理がある。「道中で人が死んだツアー」に参加した人を十年後に招待して、再び来てくれる人がどれだけいるだろう? ターゲットが来なかったらどうする気だったんだろう? 初日に参加者が睡眠薬を飲まされているけど、その日は何も起きていない。あの睡眠薬が何のためだったのかまったく説明されない。

 そして最大の難点は、三人組の活躍がほとんど見られないことだ。ハチベエは一応目撃者の役目を果たすからいいとして、ハカセは一応推理するけどその推理は警察の捜査にはまったく生かされない。警察が捜査して警察が犯人を突き止めているのでハカセはいてもいなくても同じだ。そしてモーちゃんにいたってはただ旅館でいっぱいご飯を食べただけ。

 児童向けミステリとしては悪くない出来かもしれないが、これをズッコケシリーズで書く必然性がまったくない。

 どうも、困ったらミステリとホラーに逃げる(そしてその回はおもしろくない)傾向があるな。


『ズッコケ三人組と学校の怪談』(1994年)

 隣の小学校には「学校の七不思議」があるのに花山第二小学校には存在しないことに不満を感じた六年一組の面々が、「学校の八不思議」をでっちあげてうわさを広める。しかし、自分たちのつくった怪談通りの出来事が本当に起こりはじめ……。


 ほらきた、困ったときのミステリとホラー。ちょうどこの頃『学校の怪談』って小説が小学生の間で流行ってたんだよね。

 流行りに安易に乗っかっちゃってるだけあって、導入がめちゃくちゃ雑。あっという間に男子も女子も集まって「おれたちで学校の怪談をつくろうぜ!」と意気投合しちゃう。で、あっという間に「学校の八不思議」が完成する。とにかく早く「話をつくったとおりに怪異現象が起こる」という展開に持ちこみたくてたまらないという意図が見え見えだ。『児童会長』『株式会社』『文化祭事件』あたりでは丁寧に話を運んでいたのになあ。どうしちゃったの、那須先生。

 ストーリーとしても、徐々にふしぎな事件が起こって、派手な怪奇現象が起こり、なんとか解決したとおもったら最後に不安にさせることが……という怪談のよくあるパターン。ううむ、怖い話が好きな子どもだと楽しめるかもしれないけど、大人が読むとこれといって特筆すべきことはないかなあ。

 ズッコケシリーズ初期のホラーだと『心理学入門』や『恐怖体験』あたりは、ポルターガイスト現象について長々と説明したり、江戸時代のそれらしい話を作りあげたり、(それがおもしろいかどうかはおいといて)作者もおもしろがって書いていた感じがあるけど、今作はどうも「こういうの書いときゃ子どもはこわがるんでしょ」って意識が透けて見えてしまう。はっきりいうとなめてかかっているというか。

 ズッコケシリーズ初期作品の魅力って、大人が真剣に書いていたことなんだよね。伝わらなくてもいいから書きたいものを書くぜ、って姿勢が伝わってきたもん。北京原人の骨の話とか、株式会社の制度とか、大統領選挙のうんちくとか、天皇家とは別の一族をまつりあげて国家転覆を目指す一族の話とか、子どもの理解なんか度外視して書いているフシがある。もちろん子どもにとってはそんなとこおもしろくないから読み飛ばすんだけど、「今の自分にはわからないけど知識のある人にとっては大事だしおもしろいことなんだろうな」ってのは伝わるんだよね。

 そういうのが中期以降はどんどん少なくなってきたようにおもう。変装の名人の大怪盗に、忍者軍団に、殺人ツアーに、学校の怪談……。この頃の作品は〝こどもだまし〟がすぎるなあ。那須正幹先生自身の子どもが大きくなってきて、小学生のリアルな感覚がつかめなくなってきてたのかな。


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2022年6月24日金曜日

【読書感想文】小野寺 史宜『ひと』 / はなさかじいさん系おとぎ話

ひと

小野寺 史宜

内容(e-honより)
女手ひとつで僕を東京の私大に進ませてくれた母が急死した。僕、柏木聖輔は二十歳の秋、たった独りになった。大学は中退を選び、就職先のあてもない。そんなある日、空腹に負けて吸い寄せられた砂町銀座商店街の惣菜屋で、最後に残った五十円のコロッケを見知らぬお婆さんに譲ったことから、不思議な縁が生まれていく。本屋大賞から生まれたベストセラー、待望の文庫化。

 高校生のときに父親が事故死し、つい最近実家の母親が孤独死してしまった主人公。若干二十歳で天涯孤独となり、大学は中退。そんな折、ふとした縁を機に商店街のお総菜屋で働くことになる。亡き父や母に思いを馳せながら、次第に己の進む方向を見極めようとする……。


 『ひと』というタイトルが表すように、人について丁寧に書いている。主人公はもちろん、亡き父母、周囲の人々、ちょっとした脇役までとにかく丁寧に人となりを書いている(解説文を読むまで気づかなかったが、すべての登場人物にフルネームが与えられているそうだ)。

 そう、丁寧。丁寧な小説。それはいいことでもあり、悪いことでもある。

 たとえば、主人公と女ともだちがお酒を飲みながら交わす会話。

「いや、感動するようなことは言ってないよ。ダメダメな人が言いそうなことじゃん」
「でもたまのダメダメはいいよね」
「うん」
「じゃ、わたし、ダメダメの代表格、チキン南蛮を頼んじゃっていい?」
「いいね。頼もう。チキン南蛮。あと、この炙り焼っていうのもいっちゃおう」
「それ、わたしも気になってた。肉肉肉肉。鶏鶏鶏鶏。牛と豚にくらべたら罪悪感を薄めてくれちゃうから、鶏はほんと女子泣かせだよ」

 どうよこのクソつまらない会話。こういうのがだらだら書かれている。会話文がほとんどはしょられていない。だから内容のない会話をひたすら読まされる。

 いや、たしかにリアルなんだよね。酒の席の会話ってぜんぜん頭を使ってないからこの程度のうすっぺらさだけど、それを文章で読まされるのはなかなかつらい。実直ではあるが、ケレン味がない。

 ほら、まじめないい人の話ってつまらないじゃない。会話をしていてもずっと凪。悪口もゴシップも嘘も自慢も冗談もない会話。そんな、まじめでつまらないいい人を小説にしたような作品。

 リアルだったらいいってもんでもないな、丁寧だったらいいってもんでもないな。




 いい小説だとおもうんだよ。小説にハッピーなものだけを求めている人にとっては。

 ただ、ぼくみたいなへそまがりな人間向きではないってだけで。


 なーんかね。おとぎ話みたいだったんだよな。

 優しくて、謙虚で、まじめで、性的なこととかまったく考えない若者が主人公で、つらい目にあったりもするんだけどそれでもやさぐれることなく一生懸命生きていたら、その努力をちゃんと見てくれている人がいて、きっちり報われるというお話。『かさじぞう』とか『はなさかじいさん』みたいなお話。


 最近知った言葉に〝公正世界仮説〟というものがある。正しいことをしている人は必ず報われる、悪いことをしている人はいつか必ずしっぺ返しを食らう、と人は考えてしまいがちだというもの。

 そりゃあ世の中は公正だとおもっていたほうが楽だ。というか、そう信じていないと「やってらんねえよ」と言いたくなる。この世の中は。でも、そんな世の中でもぼくらはそこそこまじめにやっていかなくちゃいけない。悪いやつがふんぞりかえっていたり、優しくて謙虚でまじめな者が不幸な目に遭ったりするけど、だからといって『はなさかじいさん』の世界に引っ越すことはできない。

 だからせめてフィクションの中ぐらいは勧善懲悪の単純な世界であってほしい。その気持ちもわかる。正しい主人公が報われて「正義は勝つ!」ってなる物語は読んでいて気持ちいいよ。こんなに優しい(と自分ではおもっている)のに現実世界では報われないボクが転生して別世界で大活躍できたら、そりゃあ楽しいだろうよ。

 でもなあ。それで満足してしまっていいのか、ともおもうんだよね。ポルノをポルノとおもって消化する分にはぜんぜんいいんだけど、この小説を読んで「心があたたかくなりました」とか「勇気が出ました」とかいう人には大丈夫か? と言いたくなる。大きなお世話なんですけど。


「正義は勝つ」は、容易に「勝たなかったあいつは正義じゃなかったんだ」「おれは勝ったから正義なんだ」になっちゃうから、すごく危険な思想なんだよね。

 この小説は「正義は勝つ」感が強くてちょっと気持ち悪いな、と感じちゃった。ごめんね、ほんとに丁寧でいい小説なんだけどね。けっこうおもしろく読めたし。メッセージが個人的に嫌いだっただけで。


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