2024年7月4日木曜日

【読書感想文】鎌田 浩毅『富士山噴火と南海トラフ 海が揺さぶる陸のマグマ』 / 火山灰はガラス

富士山噴火と南海トラフ

海が揺さぶる陸のマグマ

鎌田 浩毅

内容(e-honより)
「3・11」以降の日本列島は、「大地変動の時代」に突入してしまった。富士山にも、火山学者たちが密かにおそれる、ある重大な「異変」が起こった可能性が高い。2030年代に高い確率で発生する、南海トラフ巨大地震の衝撃が加われば、300年間蓄積したマグマが一気に噴き出しかねない。火山学の第一人者による、渾身の予測と提言。


 タイトルの「南海トラフ」部分は、羊頭狗肉とまではいかないがちょっと釣りタイトル。南海トラフ地震のことは「近いうちに起きることが確実視されている」程度しか書かれておらず、ほぼ富士山噴火の話。

 まあ著者は火山学者なので、専門外の地震について語らないのは誠実な態度ではあるんだけど。だったらタイトルにつけるのはずるいな。そっちのほうが売れるから出版社の人がやったんだろうけど。



 富士山噴火と聞いても我々はあの雄大な富士山の姿しか見ていないからあまりぴんとこないけど、実は富士山は激しく活動している山で、わかっているだけでも過去2200年間で42回は噴火しているそうだ。平均すると50年に1回ぐらいは噴火する計算。もちろん等間隔で噴火するわけじゃないけど。

 そんなペースで噴火している富士山だから、300年噴火していない現在は「きわめてめずらしい状況」にあるわけだ。そう考えるといつ噴火してもおかしくない気がしてくる。


 富士山は大きな山だけに、そこに溜めこんでいるマグマも多く、もし噴火したら、火山灰、溶岩流、噴石、火山弾などさまざまなものを放出し、さらにそれによって火砕流や泥流といった現象を引き起こして広い範囲に被害を与えると見られている。

 たとえば火山灰にしても、ぼくなんかは「ああ桜島周辺だと風向きによっては洗濯物が干せないっていうね。火山灰が舞ったら不便だろうね」ぐらいにしかおもってなかったのだが、そんなものではないらしい。

 基本的には、火山灰はマグマから軽石を経由して大量に生産される。このようにしてできる火山灰の正体は、ガラスの破片である。 「ガラス」というと普通は、窓ガラスやガラスのコップを思い浮かべるだろう。実はガラスとは、物質がきちんとした結晶構造をもたない状態のことをいう。ガラスは結晶に比べるとずっと脆く、細かく割れると鋭い破片になるのである。
 マグマが急に冷やされて固まると、ガラスの状態になる。もしマグマが非常にゆっくりと冷えると、ガラスではなく結晶ばかりの塊になる。マグマが急冷したときだけ、ガラスになるのだ。
 つまり、噴火の際に火山灰が噴出するということは、①マグマが引きちぎられて空中へ放り出されたあと、②急速に冷えてガラスの破片になること、を意味する。そのため火山灰には、鋭い破面をもったガラスが含まれるのである。これらが肺の中に吸入されると、先に述べた珪肺という症状を起こすのである。
 さて、これで火山灰が「燃えかす」ではないことが理解していただけただろう。
 岩石の細かいかけらである火山灰は、水に溶けることもなく、いつまでも消えることがない。乾燥すれば何週間も舞いあがり、雨が降るとまるでセメントのように固まってしまう。城の壁に使われている漆喰のように硬化するのである。

 火山灰という言葉からさらさらした粉のようなものをイメージしていたのだが、その正体はガラスなのだ。細かいガラスが広範囲に撒きちらされるわけで、それはさぞかし困ったことになるだろう。

 重みもある(雨を吸えばさらに重みは増す)から屋根に積もれば家屋を壊し、排水管を詰まらせ、農作物を枯らす。さらに細かいので首都圏にまで飛んでいき、細かいので機械・コンピュータの中にまで入りこんで故障させる。

 そうなるとどこまで被害が拡大するかわからない。

 さらに「南海トラフ地震が引き金となって富士山が噴火する」という可能性も十分にあり、そうなると震災に加えて大規模な停電や通信障害も起こる可能性があり、地震被害がさらに拡大することになる。


 ふうむ。たいへんだ。そんな大惨事が数十年のうちにほぼ確実に起こるのだ。

 ただ救いなのは、噴火は地震とちがって数十日前には発生がわかること。

 わが国では活火山を所掌する気象庁と、各大学をはじめとして、国立研究開発法人である防災科学技術研究所、国土地理院、産業技術総合研究所などが約50の活火山に観測網を展開し、そこで得られたデータは気象庁によって24時間監視されている。
 そうした観測結果をもとに、われわれ地球科学を研究する者は「火山学的には富士山は100パーセント噴火する」と説明している。しかし、最初の噴火予兆である低周波地震がいつ始まるかを前もって言うことは、現代の科学技術でもまったく不可能である。
 たしかに低周波地震の発生から噴火までには数週間~1ヵ月ほどの時間を要することは予測しているが、「噴火の数週間~1ヵ月前」というスタートは、明日かもしれないし、かなり先の数年後かもしれないわけである。だが少なくとも、スタートしてから数週間~1ヵ月ほどの時間的な猶予はあるので、その間に可能なかぎり準備と対策を講じるべきだと言っているのである。
 噴火予知は地震予知と比べると、実用化に近い段階にまでは進歩してきた。しかし、一般市民が知りたい「何月何日に噴火するか」に答えることは、残念ながら現在の火山学ではできない。仮に「何月何日に噴火する」といった風評がメディアやインターネットなどで流れても、科学的根拠はまったくないので信用しないでいただきたい。

 数週間あれば避難もできるしある程度は手を打てる。

 となると、やっぱり怖いのは、同じように「ここ数十年でほぼ確実に起こる」と言われている南海トラフ地震のほう。地震も予知できるようになってほしいものだ。せめて数時間前でもいいから。


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2024年6月28日金曜日

小ネタ19

和製

 和製って人にしか使わないよね。工業製品だと「日本製ドライヤー」なのに、スポーツ選手などに使われるのは「和製ストライカー」「和製大砲(長距離打者の意味)」だ。

 また「和製メッシ」「和製イニエスタ」のように外国の人物の名前がつけられることもある。

「和製メッシ」は、製品ではないからほんとは和製ではない。もちろんメッシでもない。


狛犬ポジション

 電車の扉横のポジション(俗に言う“狛犬ポジション”)が好きな人は多い。そんなに混んでないときは好きにすればいいのだが、満員電車だとあそこに陣取ったまま一歩も動こうとしない人はたいへん迷惑だ。駅に止まったときはあのポジションの人がいったん外に出てくれるとスムーズに乗客が乗降できるのだが、あのポジションの人はまず動こうとしない。動いたら、べつの狛犬ポジション好きに取られるからだ。

 みんなが「この人がいったん外に出てくれたらスムーズに人が流れるのにな」とおもってても、狛犬ポジションの人は「私は関係ありませんよ」という顔をしている。京都の「いけず石」のようだ。

 狛犬ポジションに陣取る人を減らすためには、あそこの乗り心地を悪くするのがいい。

 といっても、人を不快にするためにエネルギーを使うのはよくない。どうせなら「他のお客さんの役に立つように、けれど狛犬ポジションの人は負担が増えるように」するのがいい。

 たとえば狛犬ポジションの人からは路線図が見えるようにしておき、「停車駅について知りたい人は扉横に立っている人にお尋ねください」という車内アナウンスを流す。じっさいに尋ねる人は少ないだろうが、「知らない人に質問されるかも」とおもうだけで立ちたくなくなる人は多いだろう。

 これはなんの根拠もないが、狛犬ポジションに立つ人は、知らない人に話しかけられるのを嫌う度合いが人より強いんじゃないかとおもう。


いけず石

「いけず石」について説明しておこう。

 車が自宅の敷地に入ってこないように、敷地の角に設置される石のことだ。石というよりちょっとした岩ぐらいのサイズ。主に京都で見られる(「いけず」は京都弁で「意地悪」)。

 都市部、とくに古都ということで、京都市内の家はたいてい狭い。塀や囲いなどない場合が多い。道路も狭く歩道がないことが多いので、家の外壁のすぐ近くを自動車が走ることになる。そのため「いけず石」が設置されることになったのだろう。

 しかし「自宅を壊されたくない」とおもうのは誰しもあたりまえに持っている気持ちだ。なのに「自宅を壊されたくないから自宅の敷地内に石を置く」ことを「いけず」と呼ぶなんてひどい。何にも悪くしてないのに。

「あの人は泥棒に入られないように家に鍵かけて番犬飼ってはるわ。いけずやわあ」と言うようなものだ。泥棒側の意見だ。



2024年6月26日水曜日

【読書感想文】架神 恭介 至道 流星『リアル人生ゲーム完全攻略本』 / 平等な社会は地獄

リアル人生ゲーム完全攻略本

架神 恭介 至道 流星

内容(筑摩書房ホームページより)
「人生はクソゲーだ!」しかし、本書のような攻略本があれば、話は別。各種職業の特色から、様々なイベントの対処法まで、全てを網羅した究極のマニュアル本!

 

 「人生」というゲームを作った神々が、ユーザー(人間)たちのクレームに答えるため、「人生」マニュアルを作ったところ、ユーザー(人間)たちが勝手にルールの隙間をつく攻略本をつくりだした……という設定の本。 

 前半は、ゲームデザイナーである神が、その上司からの指示に答える形で「人生」のマニュアルを書くパート。後半は人間による攻略本パート。圧倒的に前半のマニュアルパート(架神恭介著)のほうがおもしろい。

 一方の攻略本パート(至道流星著)は退屈。「人生」の攻略本という設定なのに、ほとんど設定を無視して、21世紀の日本における経済の話ばかり。新書半分の分量で経済を語っているので当然ながら内容も薄い。ま、ちくまプリマ―新書(中高生向けレーベル)なので浅い話に終始してしまうのもしかたない面もあるが……。



 前半の「創造主でありゲーム運営元である神から見た『人生』ゲーム」のパートはおもしろかった。

 俺の作ったゲーム『人生』は、かつてない自由度の高さと、斬新なゲーム体験を提供する自信の最新作だ。
 社内で企画が通ったのは46億年前。企画者でありプロデューサーであった俺は直ちにデータセンターに連絡して「地球」サーバをレンタルした。種族「アウストラロピテクス」や種族「ネアンデルタール人」でのβテストを経た後(βテストにご参加頂いた皆さんありがとうございます)、満を持して種族「ホモ・サピエンス」を実装。約25万年前に正式稼働し、それから紆余曲折を経ながらもプレイヤー人口を着実に増やしてきたのだった。

 ギャグみたいな設定なのに、意外と設定がつくりこまれていて、こんなふうに細かい知識がちりばめられているのがいい。『聖☆おにいさん』のようなおもしろさがある。

 そうか、ネアンデルタール人はβテスト参加者だったのか。だからβテスト終了と同時にネアンデルタール人は地球から退場して、一部はホモ・サピエンスとの混血という形で残ったのね。


「この寿命ってのさ、かなり重要なリソースじゃん? なんでこういう重要なところをランダムにしちゃうの? ていうか、全体的にスタート時点でのランダム要素多すぎじゃない? 容姿とか資産とかさ。その点の苦情もいっぱい来てるんだよ?」
「いやいやいや、部長」
 部長のあまりにも浅薄なゲーム評に、俺は冷笑を浮かべて答えた。
「部長、ゲームにはランダム要素が重要なんですよ? 良いプレイングをした人が勝てるゲームってのは、公平なようでいて息が詰まるんです。こういうランダム要素が適度に介在することで、プレイヤーはゲームをより気軽に楽しめるんです」
 何もかも公平にしてしまえば勝ち負けは完全に実力勝負になってしまう。そうなると、もう弱いプレイヤーはひたすら負け続けるだけだ。目先の公平さだけでなく、こういう深いところまで考えて俺はゲームをデザインしているのだが、ハッ、所詮、部長のコチコチ頭では分からんか。

 これはなかなかいいことを言っている。

 そうそう、何もかも公平な世の中なんてつまらない。というかやっていられない。

 最近「親ガチャ」なんて言葉が流行ってて、どんな親から生まれるかで人生がある程度決まってしまう、という使われ方をしている。はっきりいって「親ガチャ」を言い訳にするのはあまり好きではないのだが(恵まれた人が「親ガチャがあたりだっただけです」と謙虚にふるまうのならいいんだけど)、しかし「親ガチャ」があるのは事実だ。金持ちで、教養を持っている親から生まれた子は、人生においてかなり有利なスタートを切ることができる。

 ただ。

 だったら、人生ゲーム(ボードゲームの)みたいに「全員同じ金額を持って、同じ能力を持って、同じスタート地点からスタート。とれる選択肢も、イベントが発生する確率も全員まったく同じ」という人生だったらどうか。

 あいつの学校の成績が悪いのも、ぼくが運動ができないのも、あの子の年収が低いのも、君が異性にモテないのも、すべて「努力不足」になる。「おまえが不幸なのはすべておまえのせいだ。自己責任なんだから甘んじて受け入れろ」となる。

 それこそ地獄だ。悪いことがあっても「親ガチャがはずれだった」と嘆くことのできる人生のほうがどれだけマシか。


 不平等がはっきりしている社会は悲惨、完全に平等な社会もまた悲惨。

 だが現実はもっと悲惨なのだ。なぜなら、ほんとは不平等なのに、「誰にでも成功するチャンスはあります」と言われているのだから。

 マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』に「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ」とあった。

 アメリカなんて、ごくわずかな富裕層が社会の富の大半を占有している、ものすごく不平等な社会だ(日本もそれに近いし、どんどん近づいている)。昔なら革命が起こってもおかしくない。

 だが革命が起こらないのは「誰もが平等だ。誰にでもチャンスはある」という嘘がまかりとおっているからだ。ま、厳密には嘘ではなく、50%のチャンスを持っている人と0.001%のチャンスを持っている人がいるわけなんだけど。身分制社会のように「100%逆転不可能」にしてしまうと、武力革命を起こすしかなくなるからね。


 というわけで、人生は不公平だし、格差はあってもいいけど、必要なのはそれをちゃんと伝えることだよね。学校とかで「人間誰しも平等です」なんて嘘をつくのをやめてさ。


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2024年6月25日火曜日

【読書感想文】『清原和博 告白』 / ぼくのスーパースター

清原和博 告白

内容(e-honより)
僕は、一体どこでまちがってしまったのだろう―。怪物の名をほしいままにした甲子園のヒーローは、なぜ覚醒剤という悪魔の手に堕ちたのか。栄光と転落の半生と自らの罪、そして鬱病、薬物依存との闘い。執行猶予中、一年間にわたりすべてを赤裸々に明かした「告白」。これは、どうしようもない、人間らしさの記録である。


 著者名が清原和博となっているが、これはウソ。Numberの記者が清原和博氏にインタビューしたものをまとめたもので、インタビュー中にライターが受けた印象などもしっかりと書かれているのでゴーストライターというわけでもない。自伝ではなくインタビューをまとめたものなので、著者名を清原和博とするのは明らかに誤りだとおもうのだが……。自伝っぽく見せたほうが売れるとおもってこんな嘘をついたのかな。

 赤裸々な告白、というのを売りにしているのに、その本自体を嘘で売りだすってどういうことよ。

 いい本だっただけに、ちゃんと著者名を出して刊行してほしかった。


 今いちばん有名な野球選手は大谷翔平だろう。野球に興味のない人でもまず知っている。うちの小学生の娘が唯一知っている野球選手が大谷翔平だ。

 その前はイチローだった。その前は……野茂かな。メジャーリーグ(当時はみんな大リーグと言っていた)に挑戦したとき。そしてその前は、清原和博じゃないかな(今気づいたんだけどみんなパ・リーグ出身者だ)。

 ぼくがプロ野球に興味を持つきっかけになったのはキヨハラ選手だった。清原和博選手ではない。コロコロコミックに連載していた漫画『かっとばせ!キヨハラくん』である。

『かっとばせ!キヨハラくん』から野球に興味を持ったぼく(とその友人)は、ルールブックを読んで野球のルールを覚え、公園で野球をするようになり、テレビでプロ野球の試合を観戦し、新聞のスポーツ欄を隅々まで読むようになった。

 入口がそうだったから清原和博選手のファンだった(ジャイアンツに行くまでは)。当時はテレビでパ・リーグの試合なんてまったくといっていいほど放送していなかったため、実際の清原選手の活躍を観るのは日本シリーズぐらいだったにもかかわらず。


 清原和博は、まちがいなくスーパースターだった。甲子園で今も記録に残る華々しい活躍を見せ(ただし当時は甲子園球場にラッキーゾーンがあった)、ドラフトで悲劇のヒーローになり、プロ野球に入って1年目から活躍。1986年に記録した、打率.304、31本塁打、78打点は、高卒新人記録として今も破られていない。さらなる活躍をして球界を代表する打者になることを誰もが予想していた。

 が、彼の栄光は徐々に陰りを見せる。当初は王貞治以上のペースでホームランを打っていたが、徐々に落ち込む。1997年に巨人に移籍するも期待されていたほどの活躍はできず、怪我にも苦しみ、2005年戦力外通告。翌年オリックスに移籍したが膝の怪我が治らぬまま2008年に現役引退。結局、ホームラン王も打点王も一度も獲得することはなく、“無冠の帝王”と呼ばれた。

 現役引退後は野球解説者やテレビタレントとして活動していたのだが、やがて覚醒剤に手を出す。家族は家を出ていき、それがさらに覚醒剤の使用量を増やすことに。そしてとうとう2016年、覚醒剤取締法違反で逮捕。野球界からも実質的に追放されることとなった。絵にかいたような“転落人生”だ。


 他人事であれば「絵にかいたような転落人生」で済むのだが、こうして本人による独白を読むと、胸が痛くなってくる。

 清原和博という人は野球の才能にはめぐまれていたけど、それを除けばごくごくふつうの人だったんだろうなと本を読んでいておもう。ということは、もしも清原和博と同じ人生を歩んだなら、多くの人が心を折られてしまうんじゃないだろうか。


 高校時代の回想。

 あの時の僕を、周りのみんながどう感じていたかわからないですけど、自分がやるべきことを決めたらやるだけ。練習の苦しさよりもそれを上回る悔しさを感じていたので不思議と辛いとは思わなかったです。考えてみると、僕が欲しかったのは技術的なものより「俺はこれだけやったんだ」という自分に対する自信だったような気がします。そして、それが3年生最後の夏につながっていったと思うんです。負けて、負けて、泣いて、泣いて。それで辛さも忘れるほど練習する。悔しさや苦しさの後にいいことがあると思うようになったのは石田さんや智男のような投手とって、負けたからかもしれません。

 日本一のバッターと呼ばれても、絶対の自信を持つことはできず、不安と闘う。

 世間一般的には恵まれた野球人生を歩んできた天才バッター、豪放磊落な番長キャラとして認知されていたが、実際のところは不安と闘いつづけたごくふつうの人間だった。


 一度は約束を反故にされた巨人への未練を捨てきれず、巨人に移籍。

 だがそこには松井秀喜という、打者としても精神面でも一流の後輩打者がいて、「松井を敬遠して清原と勝負」という場面も増え、自信を喪失してゆく。

 そして清原選手は“肉体改造”のため筋トレに励む。

 それでも、どんどん飛距離は伸びていきましたし、明らかに打球速度も、スイングスピードも違うというのは体感できました。ただ、目に見える筋肉がついて、肉体的に強くなったこともそうですが、あのトレーニングをして一番大きかったのはメンタルだったのかなという気がするんです。俺はこれだけやったんだ、と。自分が食べたいものも我慢して、きつい思いをしてトレーニングしていることを支えに打席に入っているようなところがありました。逆にそれがなければ、ああいう状況の中で、自分を保って打席に立つことはできなかったのかもしれません。
 「グリーニー」と呼ばれる緑色の薬を初めて知ったのは確かその頃で、最初は外国人選手が飲んでいるのを見たからだったと思います。聞けば、疲れが取れて、集中力が高まる興奮剤ということでした。当時は禁止されてもいなかったので、自分も服用しました。確かに最初は効いたのかもしれません。連戦でも疲れを感じないとか。ただ、途中からはどういう効果があるのか、疲れがなくなっているのかどうかもわからなくなってきました。その頃は、野球の試合でいいパフォーマンスができるなら、何だって取り入れようと思っていましたから。グリーニーもその中の一つでした。

 ぼくの知人にも身体を鍛えている人がいるけど(ダイエットとか健康のためじゃなくてマッチョになるため)、みんな総じて繊細だ。自信がないから筋肉にすがるのだろう。ばかでかい車やバイクに乗る人もそうだが、強い鎧がないと不安で仕方ないのだろう。ちなみにぼくにとっての鎧は知識であったり読書であったりする。


 清原選手は、年齢を重ねて成績が落ちてきた。部外者からすると「スポーツ選手が歳をとったらパフォーマンスが落ちるのはあたりまえじゃん。そういうもんだから次のステージを考えるしかないよね」とおもうんだけど、当事者からするとそうかんたんに受け入れられるものじゃないのかな。

 年齢による衰えをとりかえすためにとにかく筋肉をつける、って素人のぼくから見てもそれはちがうだろとおもうんだけど、持っていたものを失いつつある人からするとそんなに平静ではいられないのだろう。「俺はこれだけやったんだという自信が欲しくてバットを振っていた」高校時代と、あんまりメンタルは変わっていなかったのかもな。


 治療や手術を重ねても膝の怪我を治せなかった清原選手は、とうとうかつての輝きを取り戻せないまま現役を引退。

 引退後も喪失感は消えず、酒を飲み、そして覚醒剤に手を出してしまう。

 最初に覚醒剤を使った時、本当にそれはもう軽い気持ちでした。心境としては、自分が何者なのかわからなくて、そういう嫌いな自分から逃げたくて、酒を飲んで、その挙句にやったような気がします。酒が入っていたので、その勢いで使った感じでした。それでも、覚醒剤というのは、1回手を出しただけで支配されてしまうんです......。
 しかも、覚醒剤をやることで、僕がずっと感じていた、心にぽっかりと空いた穴が埋まったかと言えば、そうではなくて、もうそれは単なる現実逃避でした。薬の効果で一時的には嫌な自分を忘れることができただけでした。 僕は、そこから闇の世界に入っていきました。
 ひとつだけ言っておきたいのは、僕は決して野球と同じものを、ホームランと同じものを覚醒剤に求めたわけではないということです。野球とは全く別物で……、ただ、その......、目の前にいる嫌な自分から、一瞬、逃げるためだけのものでした。

 一流スポーツ選手や成功したミュージシャンなど、強い達成感や恍惚感を味わった人は、その反動で鬱病になりやすいという。ふつうの人がとても味わえないような昂奮を知ってしまうと、なかなか他のことでは埋められないのだろう。


 この独白を読んでいておもうのは、清原和博という人間は、とにかく純粋でまっすぐな人だったのだろう。とにかくホームランを打ちたかった。人より遠くへボールを飛ばしたかった。そして観客を喜ばせたかった。

 王貞治、イチロー、松井秀喜、大谷翔平といったスター選手は、自分を厳しく律し、なるべくメンタルを安定させ、常に高いパフォーマンスを出してきた。

 だが清原和博はそういう選手ではない。サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター通算打点(36打点)、オールスターMVP(7回)の最多記録を持っており、日本シリーズにも強い。「ここ一番」にめっぽう強く、その分、勝敗に関係ないような場面では成績が落ちた。期待されればされるほどバットで応える、そんな人間くさい選手だった。きっと野球が大好きだったのだろう。

 そんな純粋な人間であるがゆえに、加齢、怪我、引退によってホームランが打てなくなると、その喜びをとりかえすことができなくなった。金銭や名誉が目的であれば他の手段で手に入れることができたかもしれないが、「大きなホームランが打ちたい」という欲求は、もうどうやっても叶えることはできない。

 決して得られないホームランを求めつづけ、ホームランによって人生を狂わされてしまった男。

 その人間くささこそが清原和博の欠点であり、魅力でもあったんだよなあ。仮にぼくが恵まれた身体と運動神経を持って生まれたとしてもイチローや大谷翔平にはなれないだろうけど、ひょっとしたら清原和博のような人生を歩んだかもしれないとおもわせる何かがあるんだよなあ。いろいろあったけど、今でもぼくにとってはスーパースターだ。


2024年6月19日水曜日

【読書感想文】小林 初枝『こんな差別が』 / 正義のために闘う人が家族を不幸にする

こんな差別が

小林 初枝

内容(本書裏表紙より)
なぜ差別はなくならないのか
人は、どうしようもなく他人をさげすまなければ生きていけないものなのだろうか。被差別部落に生まれ育ち、差別とたたかって二十年、著者は、今なお、町で、村で、学校で、さまざまな差別を感じている。人びとの心の奥、くらしの中に、深くひそむ差別や偏見を、丹念に掘り起こしたこの本は、人間が作った差別を、人間の手でなくしたいと、訴えてやまない。


 高校司書、主婦をやりながら被差別部落の解放運動に取り組んでいる著者によるエッセイ。1980年刊行。


 ぼくは学校で部落差別について教わったが、住んでいた場所が戦後に開発された住宅地だったこともあり、小中学生時代に直接部落差別を見聞きしたことはなかった。なにしろみんなよそから移り住んだ人だったしね。あの人は以前どこに住んでいた、なんて気にすることもなかった。

 ちょっと身近に感じたのは二回。一度目は高校生のとき。大阪から引っ越してきた友人が「あの××って地域は部落やろ?」と言ったのだ。その××という場所には皮革工場があり、街全体に独特のにおいが漂っていた。ぼくも「あのへんはくさいし汚いな」とはおもっていたが、それと学校で習った部落差別を結びつけて考えたことがなかった。友人から言われてはじめて「ああ、〝部落〟ってのはああいう場所のことか」とおもったものだ。といっても知ったところで何も変わらなかった。××に住んでいる知人がいなかったからかもしれない。

 二度目は大学生のとき。ぼくが「△△にマンション借りた」と伝えると、また別の友人から「そのへんは部落地域で交通事故とか起こすとややこしいことになるから気をつけろよ」と忠告された。その友人とは長い付き合いだったがそういうことを口にする人間ではなかったので、こいつがそんなこと言うんだと驚いた記憶がある。そのマンションには一年住んだがべつにご近所トラブルのようなものはなかった(風通しが悪くて室内に湿気がこもったのには閉口したが)。

 ということで、部落差別については学校の道徳の時間に習った程度の知識しかなく、その道徳の授業についても具体的な事例などはほとんど挙げることなく「住んでいる地域で不当な扱いを受けることがありました。それは良くないことなのでみなさんはやめましょう」ぐらいの抽象的な話しかなかった(具体的に言うとまずいことがいろいろあるからだろう)。

 だから部落差別といってもぼくにとってはどうもナチスのホロコーストとか黒人奴隷とかと同じで、いつかどこかで起こったらしい遠い世界の野蛮な出来事、ぐらいの感覚しか持てないのが正直なところだ。


 この本の著者は被差別部落出身、それも1930年代生まれということで、ごりごりの差別を受けて生きてきたようだ。

 さすがに戦後は様々な法律ができてあからさまな差別は減ったようだが、それでも1970年代の人々の意識の中ではずいぶん生き残っていたようだ。


 知人男性から結婚相手を紹介してほしいと頼まれた著者が、知り合いの女性がいいのではないかと思い、その女性の母親に見合いの話を持ちかける。すると母親は「うちは部落ですけど、相手の男性は了解しているのでしょうか」と心配したという話。

 私は娘の母親の気持ちを、その男性に率直に伝えました。すると、
「エッ、部落の娘ですか。ひと走り行って来ると出たので、もしやという予感がしたんですが………やっぱり……」
「だって、あなたの条件のなかに、部落外の娘に限るなんてなかったでしょう。第一私に嫁さんを世話してくれというからにゃ、部落の娘くらい十分承知の上かと思ってました」
「もちろん、おれは部落の娘だろうと何だろうと、何とも思いませんよ。でも、家族親戚とのつながりがありますからねえ。憲法では、結婚は両性の合意のみによって成立するとうたわれていますが、あれは一種のプログラム規定なんですな。結婚するということは、親、兄弟、身内、社会とのつながりがあるなかにあって、両性の合意のみで解決しないものがあることは、あなた自身もよくご存じのはずでしょうに。紹介してくれた女性がすばらしい人らしいだけに、苦労させるのは気の毒ですしね。おれはいいにしても、正直のところ、おれ自身、周囲の障害を乗り越えられる自信がありません。お騒がせいたしましたが、水に流してくださいな」

 この「自分は気にしないけど周りがなんというか……」という口実、この本に再三出てくる。これこそが差別のいちばん根深い問題だよね。自分は差別をしていると自覚をしていない差別主義者。


 上野千鶴子『女の子はどう生きるか』という本に、女性が不当に差別されているという話をさんざんしている傍らで、上野千鶴子はこんなことを書いていた。

 東大男子は東大女子が苦手です。なぜって、自分と同じぐらいかそれ以上優秀かもしれないから。なぜ男子は女子が優秀だと困るんでしょう?これも答えはかんたんです。「オレサマ」になれないからです。その点、他大女子は、「東大生、すごいわねえ」と目にハートを浮かべて「オレサマ」を見あげてくれるでしょう。
 こういう男性を、オッサン、と呼びます。そのとおり、東大男子は若いうちからオッサンなんです(ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません。自己チューでオレサマ度が高く、オンナコドモや立場の弱いひとを差別する、想像力がなくて鈍感力の高いひとを言います。年齢も性別も問いません。女のひとのなかにも、たまにいます)。おばあちゃんはまわりにオッサンばかり見てきたから、お姉ちゃんに「オッサン受け」するには東大へ行くと不利だよ、とアドバイスするのでしょう。

 女性差別はいけないといいつつ、東大生男子やオッサンはどれだけ偏見の目で見ても、差別してもかまわないとおもっている。「ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません」と書けば差別じゃない、でも「オバサンはバカだ。ここでいうオバサンとは中高年女性のことではありません」は差別だとおもう人間。

 こういう人間がいちばん厄介だ。「おれは〇〇人が嫌いだ!」なんてやつのほうがずっとマシだ。変わる余地がある。

 自分は差別主義者ではない。周りの人間がそうなのだ。こうおもってる人間がいるかぎり差別はなくならない。


  この本、いろんな“差別を受けた話”が出てくるのだが、これはひどいなとおもうこともあれば、「それって……どうなの?」と言いたくなる話も多い。


 たとえば、お店に行ったら、店主から△△さんと呼ばれた。縁もゆかりもない苗字なので、なぜそんな苗字で呼ぶのですかと尋ねると、「お客さんはどこそこの人でしょう、あそこには△△という苗字が多いのでまちがえました。すみません」と謝られた、という話。

 失礼だな、とはおもう。当て推量で人の名前を呼ぶなんて。

 ただそれって大騒ぎするような差別なんだろうか。「大阪人なの? じゃあやっぱり家にたこ焼き機ある?」レベルの話なんじゃないだろうか。

 それで気を害する人もいるかもしれないけどさ。でもこのエピソードだけでは部落差別かどうかよくわかんないんだよね。その店主は被差別部落じゃない地域の人に対しても同じような態度をとっているのかもしれないし。


 この本を読むと、数十年前に比べると今は部落差別は根絶とまではいかなくても、ずっと減ったなとおもう。

 今でも部落差別をする人はいる。それでも、少なくともぼくの周りではそういう話をする人はいない。触れないようにしているわけではなく、ほんとにまったく気にしていない。結婚相手の家がそういう地域かどうかなんて、気にする人のほうが少ないだろう。地方にいけばわからないけど。

 ただ。

 著者のように部落解放運動をしてきた人たちのおかげだ……とはあんまりおもえないんだよね、ぼくは。

 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』には、人々が信じるのが天動説から地動説に代わったのは学説の正しさが証明されたからではなく、古い常識を持っていた人たちが死んで、新しく学者になった若い人たちに入れ替わったからだと書いている。

 そういうことなんだよね。口うるさく言われたからって人の考えはそうは変わらない。逆に意固地になってしまうこともある。人々の意識が変わるのは、世代交代によるものが圧倒的に多いのだろう。部落差別なんてアホらしいぜ、という教育を受けてきた世代が多数派になれば自然と社会の意識は変わる。


 この本を読んでいてぼくがいちばん胸を痛めたのは、著者の息子の心情に思いを馳せて。

 私はここで、生徒たちに部落を教えてはならないといっているのではありません。「隔離病舎」や「焼き場」を取り除いてほしいとは、部落の人びとの強い要望であったこと、それも百年以上の後に、やっと部落の人びとの願いがかなえられたという歴史上の重さを考えたら、十五年もの間を空白にしている先生方の同和教育が、あまりにもうらがなしく私には思えるのです。
 私はさっそく中学校の社会科の先生に電話をして、事情を知りたいと思ったのですが、息子が強く反対しました。
「お母さんがこの調子で、小学校へ連絡したり、雑誌になんか書いたから、ボクは小学校の先生にらまれちゃって、ずーっといやな思いをしてきた。今、町で行き会って、ボクがあいさつして気持ちよく返事を返してくれる先生は何人もいやあしない。お願いだから、中学だけはソッとしておいてくれないか」
「あんたのいうことが、お母さんにわからないでもない。でもね。親の憎さを子どもにまで及ぼす先生のほうが、お母さんにいわせりゃ了見がせますぎるのさ。小学校の先生がそうだったからって、中学校の先生がそうとも限らないよ。それにね、中学校には、お母さんが教わった先生がまだたくさんいて、お母さんのことはわりに理解していてくれると思うし、社会科の先生だって、お母さんの高校の卒業生で、みんなよく知り合っているからきっとわかってくれると思う。おそらく先生方は気づかないだけなんだよ。よしんば、あんたがそのことで先生ににらまれたとしても、あんたひとりだろう。先生方が気づかないで残されている差別の現実を取り除くほうが、広い観点からすればたいせつなことではないだろうか。今回はお母さんにまかせてほしい」
 息子は不承不承ながらやっと承諾しました。息子も成長したというか、世間の風を感じるようになり、かつてのような一筋縄ではいかなくなりました。

 ああ、この息子さん、かわいそうになあ。グレなきゃいいけど。

 この件に限らず、ずっとお母さんのせいで嫌な思いをしてきたのだろう。部落差別のせいじゃない。お母さんのせいだ。

 この本には「息子が私立中学校に行きたいと言いだした。理由を聞くと、お母さんがしょっちゅう学校とぶつかるから、周囲から変わった目で見られている、だから自分のことを知っている人がいない中学校に行きたいという。どうせ受からないだろうが、チャレンジして試験に落ちたらあきらめもつくだろうと受験させてみたら、合格してしまった。だが母親が平等のために部落解放運動をしているのに我が子だけ市立中学校に行かせているなんて知られたら、周囲から非難されるに決まっている。だからどうにかこうにか息子を説き伏せて地元の公立中学校に通わせることにしぶしぶ納得させた」というとんでもないエピソードが出てくる。

 とんでもない毒親だとおもうのだが、著者はちっとも反省することなく「正義の運動のためにあくまで闘う私。家族にもそれを理解させたい」という調子で書いているのだ。

「息子も成長したというか、世間の風を感じるようになり、かつてのような一筋縄ではいかなくなりました。」という記述からも、自分に悪いことがあるとは微塵もおもっていないことがうかがえる。


 部落解放運動に身を投じることがまちがっているとは言わないけれど、嫌がっている息子まで巻き込むことはほとんど虐待だろう。やっていることが正しくても、それを他人に強要することは正しくない。部落の人々を幸せにしようとする人が、自分の家族を不幸にしている。

 正義のために行動する(と信じている人)ってこういうことを平気でやるよね。自分は正しいことをやっている、だから周囲の無関係なは迷惑を被ってもかまわないとおもっている。

 以前、歩道橋で盲導犬のための募金をしている団体が、通路いっぱいに広がって歩行者の通行を妨げていた。注意されてもまったくおかまいなし。正義のための行動とおもえば他人への迷惑など気にもならないのだろう。

“正義”はおそろしい。どんなにひどいこともできてしまう。たいていの戦争も正義によって引き起こされる。あの民族は我々を攻撃しようとしているから正義のために立ち向かおう! と。

 正しいことといちばんいい結果を生むことはまた違うんだけど、“正しい”人には理解できないんだよね。自分はこんなに正しいのになぜ非難されるのか! と。

 ぼくは接客業をしていたとき、様々な失敗を通して「自分が正しいときこそ気を付けなければならない」と学んだ。自分のミスで客に迷惑をかけてしまったときはかんたんだ。正直に謝ればいい。怒られても大きなクレームにはならない。むずかしいのは、客側がまちがっていたり、不正をはたらいたりしたとき。ストレートに「あなたまちがってますよ!」とやると、けっこうな割合で後々大きな問題になる。自分が正しいときは制御がききづらくなっちゃうんだよね。

「自分は差別もするし不正義もおこなう」ということを常々己に言い聞かせなくちゃね。


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