2023年7月19日水曜日

【読書感想文】『大人のための社会科 未来を語るために』 / 電気代が高騰すれば経済成長

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大人のための社会科

未来を語るために

井手 英策 宇野 重規 坂井 豊貴 松沢 裕作

内容(e-honより)
気鋭の社会科学者が、多数決、勤労、信頼、ニーズ、歴史認識、希望など12のキーワードから日本社会を解きほぐす。社会をよくしたい、すべての人のための「教科書」。


 社会科学者たちによる、日本社会を解きほぐすための本。「教科書」とついているが教科書のように初学者向けの内容ではなく、ふつうに社会科学の本だった。



 GDPについて。

 GDPの最大の特徴の一つは、あらゆるサービスの付加価値を、中立的に足し合わせることです。どのようなサービスも差別しないので、そのなかにはもちろん医薬も含まれます。だから花粉がよく飛散する年に、誰かが花粉症を発症して抗アレルギー薬を消費するようになったら、それはGDPを上げる効果をもちます。
 こうした「ネガティブな消費」にかんする付加価値をもGDPは含んでいます。係争が起きたときの訴訟費用、ボールが窓ガラスに当たり割れたときの修復費用、あるいは成績不良で留年したとき余分にかかる学費。いずれもネガティブな消費といってよいでしょう。このようにマイナスをゼロにするのも、あるいはゼロをプラスにするのも、「変化分」が等しければ、付加価値としては等しくなります。
 花粉症を発症した人が薬を飲むことで発症以前と同じ生活ができるようになるのは、付加価値の発生であり、GDPの向上につながります。しかし患者にとってはそんな付加価値など要しない発症以前の状態のほうが、好ましかったはずです。

 なるほどなあ。「経済成長」という言葉は主にGDPの伸びをもとに語られるけど、必ずしもGDPが増えれば市民の生活がよくなるというわけではないのだなあ。最近は電気代やガソリン代が値上がりしていて、結果的にGDPも伸びているわけだけど、あたりまえだけど電気代が上がったって暮らしはよくならない。物価上昇分以上に賃金が上がらなければむしろ悪くなる。

 そう考えると、経済成長ってなんなんだという気になってくる。経済成長は選挙の争点にもなったりするけど、国民みんな壮大な詐欺にあってるんじゃないか。

「経済成長」という呼び方がもうウソをはらんでいるよね。「経済膨張」ぐらいがいいんじゃないの。



 日本は高福祉の国というイメージもあるが、国民の意識はむしろ逆で、日本は「自己責任」という感覚が強い国なんだそうだ。

 もう少し具体的にみてみましょう。私たちは、子育てや教育、病気や老後への備え、そして住宅といったさまざまなニーズを、政府などの公共部門=おおやけに頼らず満たしてきました。たとえば、専業主婦が子育てやお年寄りの介護を担ってきたこと、あるいは企業が任意で行う福利厚生である法定外福利費が大きかったことを考えてみてください。さらにいえば、私たちは、これらのニーズを満たすために、政府に税を払うことではなく、自分たち自身で貯蓄することを選んできたのです。
 日本の財政の特徴は、ヨーロッパであれば「パブリック」なものと考えられたニーズを、自分自身の勤労・貯蓄と分離したプライベートである家族・コミュニティ・企業などの助け合い、つまり自助と共助に委ねた点にありました。こう考えますと、依然として自己責任に支えられた日本の財政をどうするのか、人々に共通の「パブリック」なニーズを今後どうするのかという問題に加えて、たんなる欧米の制度のものまねではなく、「生活の場」「生産の場」、そしてパブリックな「保障の場」の関係をどう立て直していくのかが問われることになります。

 教育はともかく、住宅や医療や介護については「個人の問題」という意識が強い。「あなたが住む家なんだから、購入費や家賃を負担するのはあなたでしょ」とおもうし、「あなたの介護が必要になったらそれをするのはあなたの家族」と考える。

 あまりに深く根付いている意識なので疑うこともないけど、改めて考えたら個人に還元すべき問題なのだろうか。住居は誰にとっても必要なものなのだから学校や道路や警察と同じようにすべて税金で負担したっていいんじゃないだろうか。医療や介護だって、誰だって必要となるものなんだから全額税金でまかなったっていい。

 ううむ。考えれば考えるほど、なんで個人で負担してるんだろ? という気になってきた。

 そりゃあ、超高級マンションに住みたい人は自己負担で買えばいいけど「最低限度の生活が送れればそれでいい」って人には格安で住居を提供したっていいよね。学生とかさ。今でも県営住宅とかはあるけど圧倒的に数が足りない。

 病院や介護施設だって、警察や消防と同じで「お世話にならずに済むならそれに越したことはないけどどれだけ気を付けてても必要になることはある施設」なんだから個人負担はもっと少なくていい。老人だけ負担率を低くする、みたいなわけのわからない制度じゃなく、一律数パーセントの負担にしたらいい(タダにしちゃうと必要ないのに行く人が出かねないのでちょっとはお金をとったほうがいい)。



 ジョン・フォン・ノイマン(コンピュータの生みの親)が生み出したコンピュータが優れていたのは、かんたんな仕組みでミスを起こりにくくしたからだという。

 コンピュータといえどもミスは起こる。だが「ひとつの計算を複数の回路でおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、ミスが起こる確率は激減する。

 たとえば100回に1回ミスを起こす回路がある。ミスを起こす確率は1%だ。
 だが「3つの回路でそれぞれ計算をおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、3つのうち2つ以上が同時にミスをする確率は

(1/100)^2 × 99/100 × ₂C₃ + (1/100)^3 ≒ 0.03%

となる(だよね?)。回路の数をもっと増やせば、ミスが起こる確率は限りなく0に近づく。

 多数決は、基本的にこれと同じ考え方だ。

 ここで人間を電気回路に、集団をコンピュータに見立ててみましょう。するといまと同様の理屈により、個々の人間が「イエス・ノーどちらにすべきか」について正しく判断ができずとも、彼らのうち多数派の判断は正しい確率が高まる、ということになります。さて、これは多数決を安易に礼賛する話ではありません。むしろそれは多数決の「正しい使い方」とでもいうべきものを教え、安易な利用を牽制するものです。三人の有権者が多数決で意思決定する状況を例に考えてみましょう。

〈ボスがいてはだめ〉 三人のなかに一人「ボス」がいて、他の二人はこのボスと同じ投票をするとしましょう。このときボス以外の二人はボスのコピーなので、実質的な有権者はボス一人しかいません。電気回路を一本しか使わないコンピュータと同じで、よくエラーを起こします。これは過半数グループのなかのボスが存在しても同じです。二人の有権者のうち一方がボスだとすると、ボス一人の意見が多数決を経て集団の意思決定となるからです。

〈流されてはだめ〉 人々がその場の何となくの空気や、扇動に流されてはいけません。これは電気回路たちが、外部ショックで同じ方向にエラーを起こすようなことだからです。このときも複数の電気回路を用いるメリットが出ません。

〈情報が間違っているとだめ〉 有権者がひどく間違った情報をもっていてはなりません。これはごく当たり前のことで、「A」と伝えるべき電気回路に、最初から「notA」が入力されていてはなりません。

 こう考えていくと、多数決に求められる有権者の像とは次のようなものです。ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされない。自律して熟慮する個人といってよいでしょう。こうして考えていくと、多数決を正しく使うのが決して容易ではないとわかります。

 ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされずに完全に独立した意思に基づいて投票行動をおこなう市民……。ま、いないよね。どこにも。

 ということで多数決は理論上は有用な手段なのかもしれないけど、現実的には「影響力のでかい人間のおもいつきで決める」のと大差ない。まったくもって民主的じゃない手段なんだよね。

 だったら他の方法がいいのかというとそれぞれ一長一短があるから決定的な方法はないんだけど、問題は「多数決で選ぶ」=「民主的に選ぶ」と誤解されていることだよね。多数決、小選挙区制という歪んだルールのゲームを制しただけなのにおこがましくも「自分たちは民意で選ばれた」と勘違いしてるバカ政治家もいるしね。

「多数決は便宜的に用いている手段であってまったく民意を反映していない」という認識が広がれば、もうちょっとマシな政治ができるようになるのかもしれないね。


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