2023年7月14日金曜日

【読書感想文】二宮 敦人『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 / ハンター試験をくぐりぬけ

最後の秘境 東京藝大

天才たちのカオスな日常

二宮 敦人

内容(e-honより)
やはり彼らは、只者ではなかった。入試倍率は東大のなんと約3倍。しかし卒業後は行方不明者多発との噂も流れる東京藝術大学。楽器のせいで体が歪んで一人前という器楽科のある音楽学部、四十時間ぶっ続けで絵を描いて幸せという日本画科のある美術学部。各学部学科生たちへのインタビューから見えてくるのはカオスか、桃源郷か?天才たちの日常に迫る、前人未到、抱腹絶倒の藝大探訪記。


 日本最難関の大学は東大ではない。東大入試の倍率は3~4倍。一方、東京藝大の倍率は学科にもよるが高ければ数十倍。入ることの難しさでいえば、圧倒的に東京藝大のほうが上である。しかも芸術的才能を開花させるには、勉学よりも遺伝・家庭環境・どれだけ早くから始めたかがものをいう。大人になって一念発起して数年間必死に勉強をして東大に入れることはあっても、大人になって必死にピアノを練習しても東京藝大には入れないだろう。

 宝塚音楽学校と並んで、日本で最も入るのが難しい学校と言っていいだろう。

 そんな、とにかくすごい大学。が、その中身はベールに包まれている。いやべつに包んでいるわけではないだろうが、ほとんどの人には縁のない世界だ。

 もちろんぼくにもまったく縁がない。そもそも芸術と縁がない。ド音痴だし、美術館にもほとんど行ったことがない。藝大生がどんな生活を送っているのか、まったく想像もつかない。美大や音大といっても『のだめカンタービレ』『はちみつとクローバー』程度の知識しかない。漠然と「変わった人が多いんだろうな」とおもうだけだ。




 そんな、変人が集う芸術系大学の中の最高峰・東京藝大の卒業生・在学生・教授へのインタビューを通して藝大生の生態を明らかにしたルポルタージュ。ものすごくおもしろい。


 藝大は大きく音校と美校に分かれているのだが、その二者は似ているようでまったく別物だそうだ。

 一方、音校卒業生の柳澤さんが教えてくれた、学生時代の話。
「私、月に仕送り五十万もらってたなあ」
「え、五十万?」
「音校は何かとお金がかかるのよ。学科にもよるけど。例えば演奏会のたびにドレスがいるでしょ。ちゃんとしたドレスなら数十万はするし、レンタルでも数万。それからパーティー、これもきちんとした格好でいかないとダメ」
 音楽業界関係者のパーティーは頻繁にあるそう。そこで顔を売れば、仕事に繋がるかもしれないのだ。

 うひゃあ。こんな人がごろごろしているのだそう。

 音楽センスに恵まれていて、本人も音楽が好きで、必死で努力して、でもそれだけでは入れない世界なのだ。家に経済的余裕があって、かつ毎月五十万円出してくれないと入れない。かつ、三歳ぐらいからずっと一流のレッスンを受けさせてくれる家でないと。

 しかしこれはこれでたいへんよなあ。生まれたときから音楽家になることが義務付けられているようなもんだもんなあ。皇室に生まれるのとあんまり変わらない。




 多くの天才が集う場所だけあって、藝大は入試も独特。

「人を描きなさい。(時間:二日間)」
 平成二十四年度の絵画科油画専攻、第二次実技試験問題である。二日間ぶっ続けではなく、昼食休憩の時間もあるため、試験時間は実質十二時間ほどだが、それでも長い。

 十二時間かけて人を描く……。とんでもない難問だ。ぼくなんか一時間ももたないや。

 勉強のほうでも、一流校は意外と問題がシンプルなんだよね。東大入試の数学の問題なんか、問題文は二~三行だったりするもんね。




 入試にはみんな画材を持ち込むので、スーツケースで会場入りしたりするらしい。それにもかかわらず……。

「入試当日は、エレベーターが使えないんです。そして困ったことに、油画の試験は絵画棟の五階とか六階で行われるんですよ」
 試験会場まで階段で上らなくてはならないのだ。さらに美校の教室は大きなサイズの絵を描いたり展示したりできるように、一階分の天井高が通常のビルの二階分ほどある。試験会場が六階であれば、実質十二階分、重い画材を担いで上ることになってしまう。
「試験当日、集合場所に集まるじゃないですか。すると試験官の方が現れて、「では、ついて来てください」と言うんです。それからいきなり、軽快に階段を上り始める。いきなりみんなで耐久レースですよ。ひいひい言いながら階段を上る、上る。女の子とか途中でへたり込んでしまったり……運動不足の人は顔真っ赤にしてますね。途中で離脱してしまう人もいると思います。『ハンター試験」って呼ばれてますね」

 重い画材を抱えて階段を上がる……。まさにハンター試験だ。あの体力自慢デブが自信をこっぱみじんに砕かれたやつね。




 入試、授業、学祭、卒業後の進路。どれもふつうの大学とはまったくちがっていておもしろい。藝大に入りたいとはおもわないけど(当然ぼくなんか入れてくれないだろうけど)、学祭ぐらいは行ってみたくなったな。


 本を読む愉しさのひとつが、自分とはまったくちがう異なる人生を追体験できることなんだけど、この本はまさにその愉しさを存分に味わえる本だった。こんな生き方もあるのか、と自分の視野がちょっとだけ広がった気がする。


【関連記事】

【読書感想文】自由な校風は死んだ / 杉本 恭子『京大的文化事典 ~自由とカオスの生態系~』

【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』



 その他の読書感想文はこちら


2023年7月5日水曜日

【読書感想文】鳥羽 和久『君は君の人生の主役になれ』 / 十代は手に取らない十代向けの本

君は君の人生の主役になれ

鳥羽 和久

内容(e-honより)
学校や親が重くてしんどい人へ。先生・友達・家族、そして、勉強・恋愛・お金…。いま悩める十代に必要なのは、君自身が紡ぐ哲学だ。

 学習塾も運営している著者から十代へのメッセージ。


 いきなりだけど、この手の説教本は嫌いだ。えらそうに人生訓を説くような本を読む人の気が知れない。でもビジネス書のコーナーなんかにはその手の本がたくさんあるから、好きな人もいるのだろう。

 説教本が嫌いなのになんで読んだかというと、当事者じゃないからだ。ぼくが十代だったらぜったいにこの本は手に取らなかった。なんで金払っておっさんの説教を聞かなきゃいけないんだ、と。

 でも今のぼくはすっかりおっさん。「おっさんが十代に向けた説教」はまるっきりの他人事だ。だから平気。自分以外に向けられた説教は素直に聞ける。

 ということで読んでみた。




「なぜ友達を大切にしないといけないのでしょう」というテーマを教師から与えられて討論をはじめた子どもたちに著者がかけた言葉。

 みんなは「友達は大切だ」という前提で話をしていて、中には面白い意見も出たけど、でも、本当にここにいる全員が「友達は大切だ」って思って話してるのかな? 今日、みんなは「どうして友達は大切か」をテーマに話しているけど、例えば、僕はそもそも友達が大切だとは思っていない、そういう子が一人くらいいても何の不思議もないと思うし、それが別に間違った考えだなんて思わないんだよね。
 私がそう言い終えると、ガラガラッと何かが崩れる音が聞こえた気がするくらい、教室内の雰囲気が一変しました。そして一分近く沈黙が続いた後、ある男の子が意を決したように立ち上がって、「僕は友達はあまり大切だとは思いません。自分の時間の方が大切です。友達がいなくても僕は楽しいです」と声を震わせながら発言しました。私は、わー、すごい子が現れた! と思いました。
 でも、驚いたことに、そのあと彼に続いて同じようなことを言う子が次々と現れたんです。わたしも、僕も、友達は別に大切じゃない……。そして、わずかその五分後には、教室全体が「友達は必ずしも大切ではない」という空気で満たされてしまいました。私は大いに戸惑いました。こんなはずじゃなかった……と思わず頭を抱えてしまいました。

 はっはっは。

 そうだよなあ。「友達は大切だ」も「友達を大切とおもう必要はない」も自分の頭で考えた意見じゃないんだよなあ。子どもたちはその場の空気を読んでいるだけで。前半は教師の、そして後半は著者を喜ばせる発言をしているだけ。

 まあでもそうなるよね。子どもにとっての正解は「自分で考えたこと」じゃなくて「そこにいる大人が喜ぶこと」だもんね。特に学校という空間ではそうなるだろうね。

 でもそれをもって「最近の子どもたちは~」なんて言うのは愚の骨頂で、古今東西子どもというのはそういうものだ。むしろ、自分の中に確固たる信念を持っている子どものほうが気持ち悪い。周囲の大人の顔色をうかがって、求められる正解を学ぶのが成長というものだ(学んだ結果に正解を出そうとする子もいれば、正解を学んだうえであえて不正解を出そうとする子もいるが)。




 学校になじめない子について。

 学校でうまくいかない子がいるとき、彼らの資質や適性に問題があると判断するのは早計です。うまくいかない理由は、学校のシステムの問題、クラスの環境の問題に起因することがほとんどで、後付けでその子の「弱さ」が発見されることが多々あるのです。変わるべきは本人ではなく学校側なのに、学校が頑なに非を認めることなく生徒側にその原因を押しつけるせいで、いつの間にか親までうちの子の方に問題があると考えるようになることも多々あるのです。
 でも、学校でうまくいかないというのは、いかに「弱さ」に見えようとも一種の意思表示なんです。彼らは辛いと感じたり不調を訴えたりすることでレジリエンスを発揮しようとしているのであり、つまり、学校のいびつさや人間関係の冷たさに対して全身で抵抗しているのです。だから、私は彼らの抵抗を全面的に支えたいと思うのです。彼らが十全に戦うことができるように、その砦をいっしょに築きたいと思うのです。

 ん-。

 ま、そうかもしれないけどさ。学校でうまくいかないのは、生徒のほうじゃなくて学校に問題があるのかもしれないけどさ。

 でも、それを言ったとしても学校でうまくいかない子の苦しみが和らぐかというとそんなことはないんじゃないかなあ。

 ぼくは仕事をするということがすごく苦手で、新卒入社した会社をすぐにやめて無職になってつらい思いをしたけど、そんなときに「君が悪いんじゃなくて社会が悪いんだよ」って言葉をかけられたとしても、ぼくの抱えている苦しみはどうにもならなかったとおもう。「社会が悪いから働かなくていいんだよ」って言って五億円くれるんなら苦しみが緩和されたかもしれないけど。


 ただ「問題は学校の側にある」と考えるのは、現に学校になじめない子にとっては救いにならないかもしれないけど、親がそう考えるのは間接的に子どもの救いになるかもしれないな。




 親としては、いろいろと反省する点もあった。

 小受の勉強で難しいさんすうの問題が解けてうれしくなった年長組のSくんは「さんすう、好きー!」とお母さんに言いました。お母さんもうれしくなって、「解けたのすごいねーお母さんもうれしーこれからもがんばろうねー!」と言います。そしてSくんは「がんばる!!」と満面の笑みで応えます。
 そのわずか一か月後にお母さんがSくんに吐いた言葉は、「あなた、さんすうが好きだからがんばるって言ってたよね?」でした。こうしてSくんの「好き」は死んでしまいました。子どもの「好き」を質に取ることほど残酷なことはないのに、それを平気でやってしまう親はたくさんいるのです。

 これはぼくもやってしまうな……。

 子どもの「好き」を質に取る、か。たしかになー。

 親としては、子どもの「好き」を伸ばしたい一心なんだよね。だから「あなたがやりたいって言ったんじゃない」とやってしまう。

 自分のことを考えてみればわかるんだけど、好きだからといって四六時中やりたいわけではない。ぼくは本を読むのが好きだけど、毎日必ず三時間読みなさいと言われたらイヤになってしまう。

 好きだからって一生懸命に取り組まなくてもいいし、サボったっていい。自分のことだとそうおもえるんだけど、子どものことになるとついつい「あなたがやりたいって言ったんだからやりなさい!」になっちゃうんだよなあ……。気をつけねば。


 このように、世の中のほとんどの親は子どもをコントロールしたいという欲望から逃れることはできません。だからこそ、いくら小手先の技術でそれを回避しようとしても、きまって欲望が回帰してしまいます。
 そして、そのコントロールの仕方はほんとうにえげつないんです。親は「あなたが○○しなければ、私はあなたのことを愛さない」というふるまいによって、あなたの存在のすべてを賭けた愛情を質に取ることで、あなたをコントロールしながら育ててきたのですから。
 そんな中で、あなたは親との関係を通して、自分がやりたくないことをやらされたり、逆にやりたいことをダメだと言われる経験を得ることで自我を目覚めさせ、良くも悪くもあなたの価値観の根幹を形成してきたのです。つまり、あなたの主体性の形成には、親が幾重にも畳み掛ける否定の働きが不可欠だったのです。
 この意味において、親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります。それによって、ときに存在を危うくされながらも、あなたはあなたになったのですから。

 ぼく自身、親から「勉強しなさい!」なんて直接的な説教をされずに育ったので娘に対しても言わないようにしている。でも、「勉強しなさい!」とは言わないけど、娘が勉強したら喜んで、勉強をしてほしいのに娘がしないときは冷たく接したりしている。それって結局「勉強しなさい!」って言うのと同じだよなあ。コントロールの方法が違うだけで、コントロールしようとしていることには変わりがない。

“親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります”という言葉は真実だとおもう。そうだよね。親の愛って呪いだよね。愛されているということは「あなたはこう生きなさい」っていう呪いをずっとかけられつづけるということでもある。

 ぼく自身、すっかりおっさんになった今でも「こういうことしたら父母は眉をひそめるだろうな」という考えが頭をよぎることがある。呪いは深い。


【関連記事】

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

【読書感想文】男から見ても女は生きづらい / 雨宮 処凛『「女子」という呪い』



 その他の読書感想文はこちら


2023年6月28日水曜日

【読書感想文】曽根 圭介『腸詰小僧 曽根圭介短編集』 / 予想通りのどんでん返し

腸詰小僧

曽根圭介短編集

曽根 圭介

内容(e-honより)
社会復帰したシリアルキラー“腸詰小僧”の独占インタビューに成功した西嶋の元を被害者の父が訪れ、本人に会わせろと迫る。一方、警察官をしている弟が浮気相手を妊娠させてしまったと泣きついてきた。追い詰められていく西嶋は…。(表題作)ジコチューな小悪人たちが、あっけらかんと起こす事件。まさかのどんでん返しに舌を巻くミステリー傑作集!


 ミステリ短編集。

 曽根圭介氏らしい、猟奇的、暴力的な題材を扱ったものが多い。


 七篇どれもそこそこのクオリティなのだが、まとめて読むと少々飽きてしまう。似たパターンが多いのだ。

 もう少し具体的にいうと、Aという人物のストーリーとBという人物のストーリーが交互に展開して、AとBをつなぐ一本のストーリーが見えてきた……とおもったら最後にひとひねりあってAとBがまっすぐにつながらない、というパターン。


『解決屋』では、解決屋という名目で殺人を代行する男と、売春宿で働く少年が描かれる。

『天誅』では、父親からの性的虐待に遭っている同級生を救おうとする少年と、性犯罪者を追う刑事が交互に書かれる。

『成敗』では、悪事をはたらく人物に私刑を与える快楽にとりつかれてしまう男と、前妻への復讐のために闇サイトで知り合った人物に前妻の拉致を依頼する男が交代で書かれる。

『母の務め』では、殺人犯として死刑を求刑された息子の減刑を望む母親と、職場の女性を殺してしまい死体処理に悩む男のストーリーが交互に展開。


 もちろん〝ひとひねり〟の手法はそれぞれちがうのだけど、さすがにこれだけ似たパターンが続くと「これはすんなりつながらないな」と展開がある程度読めてしまって辟易してしまう。




 その他『腸詰小僧』『父の手法』『留守番』を含め、どの短篇も読者を裏切るどんでん返しが効いているのだけど、どんでん返しが七回続くとさすがにうんざりする。どうせどんでん返すんでしょ、ほらどんでん返したー! とおもうだけで裏切りでもなんでもない。予想通りのどんでん返し、と言ったところか。

 七篇中一篇か二篇にそういう話があれば「まさかこう来るとは!」と感心したんだろうけどな。


 ところで曽根圭介さんの作品は、初期のころのブラックSFサスペンスみたいなやつが好きだったんだけど、もう書くのやめちゃったのかなあ。

 ミステリに寄っちゃったなあ。この人に限らず、そういう作家は多い。SFやブラックコメディなんかは書くのに体力を使うのかな。そしてミステリのほうが売れるからミステリばかりになってしまうのかもしれない。



【関連記事】

【読書感想文】曽根 圭介『鼻』

【読書感想文】曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



 その他の読書感想文はこちら


2023年6月27日火曜日

眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ

 「わたし、眼が大きいんで人よりごみが眼に入りやすくて困るんですよ~」
って言ってる人がいたんだけど、嘘つけ! それはただの「眼が大きい」自慢だろ!


 なぜなら、そいつはたしかに眼が大きいんだけど、そいつは「眼が大きい人間のごみが眼に入りやすさ」しか知らないはずだ。

 眼が小さい人間の人生を送ったことがないんだから、人よりごみが入りやすいかどうかはわからないはずだ!!


 それを言っていいのは、眼を大きくする美容整形手術をしたやつだけだ!



2023年6月26日月曜日

【読書感想文】志村 幸雄『笑う科学 イグ・ノーベル賞 』 / 役に立たない研究の価値

笑う科学 イグ・ノーベル賞

志村 幸雄

内容(e-honより)
「裏ノーベル賞」の異名を持つ「イグ・ノーベル賞」が隠れたブームとなっている。その人気を語る上で欠かせないのが「パロディ性」。「カラオケの発明」がなぜ“平和賞”なのかといえば、「人々が互いに寛容になることを教えた」から。さらに、芳香成分のバニラが牛糞由来と聞けば誰しも目を丸くするだろう。本書はイグ・ノーベル賞で世界をリードする日本人受賞者の取材をもとに、「まず人を笑わせ、そして考えさせる」研究を徹底分析。

 昨年、『イグ・ノーベル賞の世界展』という展覧会に行ってきた。




 イグ・ノーベル賞はノーベル賞へのパロディとして誕生した。「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に贈られる賞だ。

 日本はイグ・ノーベル賞大国で、過去に30回近く日本の研究がイグ・ノーベル賞を受賞している。『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したことに対して』心理学賞が贈られ、『床に置かれたバナナの皮を人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究に対して』物理学賞が贈られ、『火災など緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度発見と、これを利用したわさび警報装置の開発』により化学賞が贈られるなどしている。

 その他、さまざまな独創的な研究に対してイグ・ノーベル賞が贈られているが、共通しているのはいずれも「研究した人は大まじめ」ということだ。まじめに変なことを研究している。その姿勢を評価するのがイグ・ノーベル賞である。


「そんなこと何の役に立つの?」「そんなこと勉強したって社会に出たら何の役にも立たないからやめろよ」と言う人がいる。そういう人間が人の役に立つ研究をできたためしがない。役に立たない研究の価値を理解しない人が、役に立つ研究などできるはずがないのだ。

 実際、ほとんどの偉大な発明は偶然から生まれている。エジソンは最初から蓄音機を発明しようと思って学んでいたわけではない。何の役に立つかはわからないけど学ぶことがおもしろいから学んでいたら、たまたま役に立つ発明につながっただけだ。

『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させる』ことはそれ自体何の役にも立たないだろうが、この研究が別の研究の役に立つ可能性はある。その研究がほかの研究の役に立ち、それを生かした別の研究が世界を変える大発明になるかもしれない。


 イグ・ノーベル賞はノーベル賞のパロディではあるが、科学に対する向き合い方はノーベル賞に負けず劣らず真摯なものだ。アンドレ・ガイムという物理学者は、イグ・ノーベル賞を受賞し、その10年後に本物のノーベル賞を受賞している。

「たまたま役に立ったかか立たなかったか」の結果が異なるだけで、アプローチ自体はノーベル賞もイグ・ノーベル賞も大して変わらないのだ。

 日本の研究力低下はずっと叫ばれているが、日本人がイグ・ノーベル賞を受賞できなくなったときはいよいよ日本もおしまいかもしれない。




 そんなイグ・ノーベル賞について説明した本。

 といっても『イグ・ノーベル賞の世界展』ですでに同賞についての基礎知識は身につけていたので、あんまり新しい情報はなかったな(ま、この本が2009年刊行だしね)。


 知らなかったのは、誰でもイグ・ノーベル賞を申請できること。

 もっとも、ノミネートといっても、ノーベル賞の場合と違って、申請できる人物の資格は「不要」で、誰でも意の向くままに申請が可能である。また、ノーベル賞の場合は他薦だけで決められるが、イグ・ノーベル賞の場合は自薦が認められ、そのため全体に占める自薦の比率は一〇~二〇%に達している。ただし、自薦での受賞事例は二〇〇四年まででたった一件というから、あくまで他薦主導で、それだけ客観的な判断・評価が加味されていると受け止められる。ノミネートの「数」だけでなく、「質」にも配慮がなされているあたりに人気上昇の秘密が潜んでいそうだ。

 へえ。じゃあぼくでも「これはイグ・ノーベル賞に値する!」とおもえば推薦できるんだ。

 自薦でもいいが自薦での受賞はほとんど例がない、というのがおもしろいね。そうだよね。大まじめに研究している人に授賞するからおもしろいんだもんね。

「おれの研究はユーモアがあって独創的だからイグ・ノーベル賞にぴったりだ!」って人の研究はまずまちがいなくつまらないもんね。自薦で受賞にいたった一件が気になるな。


 この本ではイグ・ノーベル賞を受賞した日本人の研究についていくつか紹介しているけど、どっちかっていったら海外の例を紹介してほしかったな。日本の受賞例はすでに有名なものが多いし(たまごっちとかバウリンガルとかカラオケとか)、海外のほうが突飛なものが多いので。


【関連記事】

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

【読書感想文】川の水をすべて凍らせるには / ランドール・マンロー『ハウ・トゥー バカバカしくて役に立たない暮らしの科学』



 その他の読書感想文はこちら