君は君の人生の主役になれ
鳥羽 和久
学習塾も運営している著者から十代へのメッセージ。
いきなりだけど、この手の説教本は嫌いだ。えらそうに人生訓を説くような本を読む人の気が知れない。でもビジネス書のコーナーなんかにはその手の本がたくさんあるから、好きな人もいるのだろう。
説教本が嫌いなのになんで読んだかというと、当事者じゃないからだ。ぼくが十代だったらぜったいにこの本は手に取らなかった。なんで金払っておっさんの説教を聞かなきゃいけないんだ、と。
でも今のぼくはすっかりおっさん。「おっさんが十代に向けた説教」はまるっきりの他人事だ。だから平気。自分以外に向けられた説教は素直に聞ける。
ということで読んでみた。
「なぜ友達を大切にしないといけないのでしょう」というテーマを教師から与えられて討論をはじめた子どもたちに著者がかけた言葉。
はっはっは。
そうだよなあ。「友達は大切だ」も「友達を大切とおもう必要はない」も自分の頭で考えた意見じゃないんだよなあ。子どもたちはその場の空気を読んでいるだけで。前半は教師の、そして後半は著者を喜ばせる発言をしているだけ。
まあでもそうなるよね。子どもにとっての正解は「自分で考えたこと」じゃなくて「そこにいる大人が喜ぶこと」だもんね。特に学校という空間ではそうなるだろうね。
でもそれをもって「最近の子どもたちは~」なんて言うのは愚の骨頂で、古今東西子どもというのはそういうものだ。むしろ、自分の中に確固たる信念を持っている子どものほうが気持ち悪い。周囲の大人の顔色をうかがって、求められる正解を学ぶのが成長というものだ(学んだ結果に正解を出そうとする子もいれば、正解を学んだうえであえて不正解を出そうとする子もいるが)。
学校になじめない子について。
ん-。
ま、そうかもしれないけどさ。学校でうまくいかないのは、生徒のほうじゃなくて学校に問題があるのかもしれないけどさ。
でも、それを言ったとしても学校でうまくいかない子の苦しみが和らぐかというとそんなことはないんじゃないかなあ。
ぼくは仕事をするということがすごく苦手で、新卒入社した会社をすぐにやめて無職になってつらい思いをしたけど、そんなときに「君が悪いんじゃなくて社会が悪いんだよ」って言葉をかけられたとしても、ぼくの抱えている苦しみはどうにもならなかったとおもう。「社会が悪いから働かなくていいんだよ」って言って五億円くれるんなら苦しみが緩和されたかもしれないけど。
ただ「問題は学校の側にある」と考えるのは、現に学校になじめない子にとっては救いにならないかもしれないけど、親がそう考えるのは間接的に子どもの救いになるかもしれないな。
親としては、いろいろと反省する点もあった。
これはぼくもやってしまうな……。
子どもの「好き」を質に取る、か。たしかになー。
親としては、子どもの「好き」を伸ばしたい一心なんだよね。だから「あなたがやりたいって言ったんじゃない」とやってしまう。
自分のことを考えてみればわかるんだけど、好きだからといって四六時中やりたいわけではない。ぼくは本を読むのが好きだけど、毎日必ず三時間読みなさいと言われたらイヤになってしまう。
好きだからって一生懸命に取り組まなくてもいいし、サボったっていい。自分のことだとそうおもえるんだけど、子どものことになるとついつい「あなたがやりたいって言ったんだからやりなさい!」になっちゃうんだよなあ……。気をつけねば。
ぼく自身、親から「勉強しなさい!」なんて直接的な説教をされずに育ったので娘に対しても言わないようにしている。でも、「勉強しなさい!」とは言わないけど、娘が勉強したら喜んで、勉強をしてほしいのに娘がしないときは冷たく接したりしている。それって結局「勉強しなさい!」って言うのと同じだよなあ。コントロールの方法が違うだけで、コントロールしようとしていることには変わりがない。
“親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります”という言葉は真実だとおもう。そうだよね。親の愛って呪いだよね。愛されているということは「あなたはこう生きなさい」っていう呪いをずっとかけられつづけるということでもある。
ぼく自身、すっかりおっさんになった今でも「こういうことしたら父母は眉をひそめるだろうな」という考えが頭をよぎることがある。呪いは深い。
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