2023年7月5日水曜日

【読書感想文】鳥羽 和久『君は君の人生の主役になれ』 / 十代は手に取らない十代向けの本

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君は君の人生の主役になれ

鳥羽 和久

内容(e-honより)
学校や親が重くてしんどい人へ。先生・友達・家族、そして、勉強・恋愛・お金…。いま悩める十代に必要なのは、君自身が紡ぐ哲学だ。

 学習塾も運営している著者から十代へのメッセージ。


 いきなりだけど、この手の説教本は嫌いだ。えらそうに人生訓を説くような本を読む人の気が知れない。でもビジネス書のコーナーなんかにはその手の本がたくさんあるから、好きな人もいるのだろう。

 説教本が嫌いなのになんで読んだかというと、当事者じゃないからだ。ぼくが十代だったらぜったいにこの本は手に取らなかった。なんで金払っておっさんの説教を聞かなきゃいけないんだ、と。

 でも今のぼくはすっかりおっさん。「おっさんが十代に向けた説教」はまるっきりの他人事だ。だから平気。自分以外に向けられた説教は素直に聞ける。

 ということで読んでみた。




「なぜ友達を大切にしないといけないのでしょう」というテーマを教師から与えられて討論をはじめた子どもたちに著者がかけた言葉。

 みんなは「友達は大切だ」という前提で話をしていて、中には面白い意見も出たけど、でも、本当にここにいる全員が「友達は大切だ」って思って話してるのかな? 今日、みんなは「どうして友達は大切か」をテーマに話しているけど、例えば、僕はそもそも友達が大切だとは思っていない、そういう子が一人くらいいても何の不思議もないと思うし、それが別に間違った考えだなんて思わないんだよね。
 私がそう言い終えると、ガラガラッと何かが崩れる音が聞こえた気がするくらい、教室内の雰囲気が一変しました。そして一分近く沈黙が続いた後、ある男の子が意を決したように立ち上がって、「僕は友達はあまり大切だとは思いません。自分の時間の方が大切です。友達がいなくても僕は楽しいです」と声を震わせながら発言しました。私は、わー、すごい子が現れた! と思いました。
 でも、驚いたことに、そのあと彼に続いて同じようなことを言う子が次々と現れたんです。わたしも、僕も、友達は別に大切じゃない……。そして、わずかその五分後には、教室全体が「友達は必ずしも大切ではない」という空気で満たされてしまいました。私は大いに戸惑いました。こんなはずじゃなかった……と思わず頭を抱えてしまいました。

 はっはっは。

 そうだよなあ。「友達は大切だ」も「友達を大切とおもう必要はない」も自分の頭で考えた意見じゃないんだよなあ。子どもたちはその場の空気を読んでいるだけで。前半は教師の、そして後半は著者を喜ばせる発言をしているだけ。

 まあでもそうなるよね。子どもにとっての正解は「自分で考えたこと」じゃなくて「そこにいる大人が喜ぶこと」だもんね。特に学校という空間ではそうなるだろうね。

 でもそれをもって「最近の子どもたちは~」なんて言うのは愚の骨頂で、古今東西子どもというのはそういうものだ。むしろ、自分の中に確固たる信念を持っている子どものほうが気持ち悪い。周囲の大人の顔色をうかがって、求められる正解を学ぶのが成長というものだ(学んだ結果に正解を出そうとする子もいれば、正解を学んだうえであえて不正解を出そうとする子もいるが)。




 学校になじめない子について。

 学校でうまくいかない子がいるとき、彼らの資質や適性に問題があると判断するのは早計です。うまくいかない理由は、学校のシステムの問題、クラスの環境の問題に起因することがほとんどで、後付けでその子の「弱さ」が発見されることが多々あるのです。変わるべきは本人ではなく学校側なのに、学校が頑なに非を認めることなく生徒側にその原因を押しつけるせいで、いつの間にか親までうちの子の方に問題があると考えるようになることも多々あるのです。
 でも、学校でうまくいかないというのは、いかに「弱さ」に見えようとも一種の意思表示なんです。彼らは辛いと感じたり不調を訴えたりすることでレジリエンスを発揮しようとしているのであり、つまり、学校のいびつさや人間関係の冷たさに対して全身で抵抗しているのです。だから、私は彼らの抵抗を全面的に支えたいと思うのです。彼らが十全に戦うことができるように、その砦をいっしょに築きたいと思うのです。

 ん-。

 ま、そうかもしれないけどさ。学校でうまくいかないのは、生徒のほうじゃなくて学校に問題があるのかもしれないけどさ。

 でも、それを言ったとしても学校でうまくいかない子の苦しみが和らぐかというとそんなことはないんじゃないかなあ。

 ぼくは仕事をするということがすごく苦手で、新卒入社した会社をすぐにやめて無職になってつらい思いをしたけど、そんなときに「君が悪いんじゃなくて社会が悪いんだよ」って言葉をかけられたとしても、ぼくの抱えている苦しみはどうにもならなかったとおもう。「社会が悪いから働かなくていいんだよ」って言って五億円くれるんなら苦しみが緩和されたかもしれないけど。


 ただ「問題は学校の側にある」と考えるのは、現に学校になじめない子にとっては救いにならないかもしれないけど、親がそう考えるのは間接的に子どもの救いになるかもしれないな。




 親としては、いろいろと反省する点もあった。

 小受の勉強で難しいさんすうの問題が解けてうれしくなった年長組のSくんは「さんすう、好きー!」とお母さんに言いました。お母さんもうれしくなって、「解けたのすごいねーお母さんもうれしーこれからもがんばろうねー!」と言います。そしてSくんは「がんばる!!」と満面の笑みで応えます。
 そのわずか一か月後にお母さんがSくんに吐いた言葉は、「あなた、さんすうが好きだからがんばるって言ってたよね?」でした。こうしてSくんの「好き」は死んでしまいました。子どもの「好き」を質に取ることほど残酷なことはないのに、それを平気でやってしまう親はたくさんいるのです。

 これはぼくもやってしまうな……。

 子どもの「好き」を質に取る、か。たしかになー。

 親としては、子どもの「好き」を伸ばしたい一心なんだよね。だから「あなたがやりたいって言ったんじゃない」とやってしまう。

 自分のことを考えてみればわかるんだけど、好きだからといって四六時中やりたいわけではない。ぼくは本を読むのが好きだけど、毎日必ず三時間読みなさいと言われたらイヤになってしまう。

 好きだからって一生懸命に取り組まなくてもいいし、サボったっていい。自分のことだとそうおもえるんだけど、子どものことになるとついつい「あなたがやりたいって言ったんだからやりなさい!」になっちゃうんだよなあ……。気をつけねば。


 このように、世の中のほとんどの親は子どもをコントロールしたいという欲望から逃れることはできません。だからこそ、いくら小手先の技術でそれを回避しようとしても、きまって欲望が回帰してしまいます。
 そして、そのコントロールの仕方はほんとうにえげつないんです。親は「あなたが○○しなければ、私はあなたのことを愛さない」というふるまいによって、あなたの存在のすべてを賭けた愛情を質に取ることで、あなたをコントロールしながら育ててきたのですから。
 そんな中で、あなたは親との関係を通して、自分がやりたくないことをやらされたり、逆にやりたいことをダメだと言われる経験を得ることで自我を目覚めさせ、良くも悪くもあなたの価値観の根幹を形成してきたのです。つまり、あなたの主体性の形成には、親が幾重にも畳み掛ける否定の働きが不可欠だったのです。
 この意味において、親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります。それによって、ときに存在を危うくされながらも、あなたはあなたになったのですから。

 ぼく自身、親から「勉強しなさい!」なんて直接的な説教をされずに育ったので娘に対しても言わないようにしている。でも、「勉強しなさい!」とは言わないけど、娘が勉強したら喜んで、勉強をしてほしいのに娘がしないときは冷たく接したりしている。それって結局「勉強しなさい!」って言うのと同じだよなあ。コントロールの方法が違うだけで、コントロールしようとしていることには変わりがない。

“親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります”という言葉は真実だとおもう。そうだよね。親の愛って呪いだよね。愛されているということは「あなたはこう生きなさい」っていう呪いをずっとかけられつづけるということでもある。

 ぼく自身、すっかりおっさんになった今でも「こういうことしたら父母は眉をひそめるだろうな」という考えが頭をよぎることがある。呪いは深い。


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