2022年5月6日金曜日

たったひとりの例外もなく

 

「親が本好きなら子どもも本好きになるというのはウソ。ソースは私。うちは両親とも本好きで家に大量の本があったが、私はまったく読まないまま成長した」

という内容のツイートを見た。そしてそれがそこそこ広まっていた。


「親が本好きなら子どもも本好きになる。ひとりの例外もない」なら、たしかにウソだろう。

 だが、「親が本好きなら子どもも本好きになる傾向がある」なら数件の反例をもって否定することはできない。



 世の中には「AすればBになる!」といった記事やテレビ番組があふれている。

 その意味はたいてい「AすればBになることが多い」である。

 特に医療や教育に関しては「Aすれば100%Bになる」なんてほぼありえない。ありえるとしたら「青酸カリを大量に摂取すると100%人は死ぬ」とか「毎日20時間ゲームをしている子は100%東大に合格できない」とかの極端な話だけだ。

 でも「AすればBになる可能性が少し上がる」だと見出しにキャッチーさがないから、あえて言い切る。ほとんどの人は「こういう説もあるのね」と適当に聞き流す。


 ところが、冒頭のツイートをした人は「AすればBになる!」を文字通りの意味で受け取ってしまったようだ。

 だから「親が読書好きなら子どもも読書好きになる」という記事だか番組だかを見て、「私はそうじゃなかった。例外がひとつでもあるからAならばBとは言えない!」と考えてしまった。

 この考えは、論理学的には正しい。「AならばB」は、たったひとつの反例「AなのにBでない」を挙げれば覆せる。

 ただ、この人は修辞技法というものを理解していない。



 人に物事を伝えるためには、ときに正確さを犠牲にする必要がある。

 たとえば隠喩。「その夜のぼくらは迷子の子犬だった」

 たとえば擬人法。「夜の闇が彼の姿を包んだ」

 たとえば誇張法。「死んでも君を離さない」

 どれも正しくない。でも伝わる。「じっさいにはあと数分したら君を離してしまうけれど今はいつまでも君を離したくないという気持ちを持っている」というよりも「死んでも君を離さない」のほうが簡潔に、切実に、伝わる。


 我々が一般に使う表現は、論理学的な正しさとはまた別のところにあるのだ。

 だから「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」という記事を見ても、たいていの人は「たったひとつの例外もないんだな。親が読書好きなのに本好きにならなかった子どもは世界中にひとりもいないんだな」とはおもわない。

「親が本を読んでいる姿を自然に見せることで子どもが本好きになる確率が有意に上がるんだろうな。もちろんいくばくかの例外はあるだろうけど」と受け取る。


 修辞技法の使い方、受け取り方は学校ではあまり教わらない。様々な文学表現に触れるうちに、自然と身につけるものだ。

 だから、冒頭のツイートをした人が「親が本を読む家庭では子どもも本好きになる!」を文字通りの意味にしか解釈できなかったのはある意味しかたのないことかもしれない。なにしろ彼は本をまったく本を読まないそうなのだから。

 結局、何が言いたいかというと、やっぱり読書って大事なんだなあってこと。本を読まないと修辞技法を理解できない!(反証は受けつけません)



2022年5月2日月曜日

【読書感想文】渡辺 容子『左手に告げるなかれ』/自己満足比喩につぐ比喩

左手に告げるなかれ

渡辺 容子

内容(e-honより)
「右手を見せてくれ」。スーパーで万引犯を捕捉する女性保安士・八木薔子のもとを訪れた刑事が尋ねる。3年前に別れた不倫相手の妻が殺害されたのだ。夫の不貞相手として多額の慰謝料をむしり取られた彼女にかかった殺人容疑。彼女の腕にある傷痕は何を意味するのか!?第42回江戸川乱歩賞受賞の本格長編推理。

 ああ、江戸川乱歩賞っぽいなあ。というのが読んだ感想。

 知らない人のために解説しておくと、江戸川乱歩賞ってのはミステリ小説の新人賞なんだけど、賞金が破格の1000万(2022年からは賞金500万円)ということもあってめちゃくちゃレベルが高い。文学新人賞の中では最高難易度の賞だ。たぶん芥川賞よりもとるのが難しい。文学界のM-1グランプリだ。

 というわけで、江戸川乱歩賞受賞作というのはただおもしろいだけでなく、「構成がよくできている」「題材が新しい」「丁寧な取材がされている」などあらゆる面ですぐれていないと受賞できない。そのため受賞作は数年かけて書かれていることもザラである。たとえば 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』 によると、岡嶋二人が乱歩賞に応募をはじめてから受賞までには七年かかったそうだ。もちろん七年かけても受賞できない人が大半なのだが。


『左手に告げるなかれ』も、乱歩賞受賞作の例に漏れず細部までよくできたミステリだ。

 主人公はスーパーの保安士。いわゆる万引きGメンだ。社内不倫が原因で大手企業を退職することになった過去を持つ。
 あるとき、主人公のもとにかつての不倫相手の妻が殺されたことを知る。そして自分に容疑がかかっていることも。身の潔白を証明するために調査に乗りだした主人公。
 すると同じく事件を探っていた探偵から、被害者女性以外にも殺人事件が多発していたことを聞かされる。被害者に共通しているのは、急成長中のコンビニチェーンのスーパーバイザーであること。はたしてコンビニチェーンと事件にどうつながりがあるのか。そして現場に残されたメッセージ「みぎ手」と、被害者たちが口にしていた「四時間を潰すために戦う」という謎の言葉の意味とは……。

「万引きGメン」「不倫の過去」「コンビニチェーンの強引な手法」「連続殺人事件」「ダイイングメッセージ」「訳あり風の探偵」「アリバイトリック」と、これでもかと要素をつめこんだ作品。それでいて煩雑にならずスピード感のあるミステリにしあげているのだから、乱歩賞受賞も納得の作品。




 万引きGメンやコンビニ業界に関する知識(1996年刊行なので今となっては古いが)、意外な犯人、主人公をとりかこむ濃いキャラクター、しゃれたタイトルなどどれをとってもよくできている。

 が、この小説は嫌いだなあ……。


 その理由はただひとつ。「気の利いた言い回しをしようとしているのがうっとうしい」ことだ。

 村上春樹くずれというか、ハードボイルド作品の登場人物くずれというか。

 私は黙って宙を睨みつけていた。あの出来事についての感慨なら、段ボールの箱にアン・クラインの衣類といっしょくたにして放りこみ、三年前、ゴミ集積所に出したつもりでいた。思い出はすべて廃棄したはずなのだ。なのに、刑事の口にそれを並べ立てられた途端、目薬を注いだ直後のように、目の前の光景がぼんやり霞んで見えてくる。犬丸の顔が、ゴミ袋の中身を探っては「不燃物を入れてはいけない」と文句をつけてくる、近所の老婦人そっくりに見えてきてしまう。
 思い出は不燃物です、燃やせば危険ですから、自分で処理しなくてはいけません……。

 これでもかといわんばかりの比喩の羅列。

 これだけの文章に、「感慨をゴミに例える」「霞んだ視界を目薬を注いだ直後に例える」「刑事の顔を老婦人に例える」と三種類の比喩が使われている。そしてだめ押しのように、「感慨をゴミに例える」をしつこくもう一度。暗喩、直喩、直喩、暗喩。

 ああ、うんざりだ。鼻につくなんてレベルじゃない。強烈な悪臭を放っている(釣られてこっちまで比喩を使ってしまった)。

 比喩って本来、わかりやすくするためのものなんだよ。文字だけで伝えるために、比喩によってイメージを喚起させる。でもこの人は「どやっ、気の利いた言い回しでっしゃろ?」と己の才気を見せつけるために比喩を多用している。わかりやすくさせることなんてこれっぽっちも考えていない。この文章から比喩を消したほうがどれだけわかりやすくなるか。

 過剰な比喩だけでなく、ウィットとアイロニーたっぷりの台詞も気持ち悪い。しかも、ひとりやふたりではなく、ほとんどの登場人物がハードボイルド作品みたいな台詞を吐く。全員が全員「うまいこと言える自分」に酔っているのだ(もちろんほんとに自分に酔いしれているのは作者なんだけど)。

 比喩とかウィットに富んだ台詞って中毒性があるから、使ってると比喩を使うことが目的になっちゃうんだろうね。


 作者がどや顔をするためだけに濫用された比喩や言い回しをなくせば、三分の二ぐらいの分量になってぐっと読みやすくなったとおもうんだけどね。


【関連記事】

【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2022年4月28日木曜日

有頂天とはこのことだ


 どういういきさつか忘れたけど、小学三年生のとき、家に一輪車が届いた。たしか親戚にもらったんだとおもう。

 で、ぼくは乗ってみた。あたりまえだが乗れない。何度も何度も乗ってみた。親も兄弟も知人も一輪車には乗れないから、乗り方を教えてくれる人なんていない。今だったらYouTubeとかで検索すればすぐに乗り方レクチャー動画が出てくるんだろうが、当時はそんなものない。ぼくは何度もこけてこけてこけて、ようやく乗れるようになった。内くるぶしが傷だらけになったのをおぼえている。


 ぼくが一輪車にすいすい乗れるようになった頃、ほんとにたまたま、小学校がベルマークで一輪車を二十台ぐらい購入した。そして、体育の時間に一輪車に乗ってみることになった。

 もちろん誰も一輪車には乗れない。先生だって乗り方を知らない。乗れるのはぼくひとり。クラスどころか全校生徒の中でぼくひとりだけだった。

「有頂天」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。

 優越感の極み。クラスの誰もができずに悪戦苦闘していることを、自分ひとりだけがたやすくできる。スポーツ万能のあいつも、けんかの強いあいつも、体操教室に通ってるあいつも、みんな必死の形相で一輪車から落ちないようにみっともなく鉄棒にしがみついているのに、ぼくだけが悠々と一輪車を乗りこなしている。進むのも曲がるのもできちゃう。

 おれはヒーローだ!


……と当時はおもっていたんだけど、今おもうとどう考えてもただの「鼻持ちならない嫌なやつ」だよな。ヒーローでもなんでもなくて。

 そして、ぼくが優越感を感じられたのはほんと数週間だけで、あっという間にクラス全員が一輪車に乗れるようになり、さらにはぼくもできなかった「バック」「アイドリング」といった技をできるようになるやつも現れ、ぼくの優越感は一瞬にして崩壊したのだった。

「鼻っ柱をへし折られる」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。


2022年4月27日水曜日

【読書感想文】『参上!ズッコケ忍者軍団』『ズッコケ妖怪大図鑑』『ズッコケ三人組の推理教室』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第七弾。といっても今回からは「読み返し」ではなく「はじめて読む」作品も。

 今回は28・23・19作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら


『参上!ズッコケ忍者軍団』(1993年)

 カブトムシ捕りの穴場スポットに、隣の小学校の連中が基地を作り、エアガンやガスガンで戦争ごっこをしている。下級生が脅されたことに憤慨したハチベエたちは仲間を集めて喧嘩をしかけにいくが返り討ちに遭って恥をかかされてしまう。そこで復讐を果たすため、忍者軍団を結成して戦術を練る……というストーリー。

 うーん。これは、子どもの頃に読んでいたらもっと純粋に楽しめたんだろうなあ。ズッコケ三人組総選挙でも二位に輝いている人気作品だし。でもおっさんの目で読むと「そんなことしちゃだめだろ」「やめといたほうがいいって」と言いたくなることばかり。ぼくも老いたなあ。

 エアガンで撃たれたから仕返し、というのはわかる。「ロケット花火で攻撃」はまあいいだろう。エアガンで撃たれたならそれぐらいしてもいいとおもう。「トウガラシ爆弾で目つぶし」も、ぎりぎり許容範囲内だ。
 でも「パチンコで投石」「木刀で戦う」とかを読むと、「いやいやこれはしゃれにならんでしょ」とおもってしまう。一生残る傷を負わせたり、下手したら命にかかわるけがを負わせることになりかねない。そんなことになったらお互い悲惨だ。まして「敵の食糧に下剤を混入する」までいくと、子どもの喧嘩だからでは済まされない。警察沙汰だ。

 と、ついつい眉をひそめてしまう。子どものときに読んでいたらただひたすら痛快な物語だったんだろうけど、親の立場になると純粋に楽しめない。


 己の力を過信して敵をみくびったせいで、ろくに調査もシミュレーションもせずに楽観的なデータだけを見て敗退するってのは旧日本軍っぽくておもしろかったけど、そこを除けばストーリー全体が予定調和っぽい。 

 たとえば、くノ一の存在。中盤でクラスの美少女三人組が忍者の仲間になるのだが、このくだりはあまりに不自然。六年生の女子(それもクラスでイケてる側の子らで、私立中学を受験する子)が、男子たちが忍者ごっこで戦争をすると聞いて「わたしたちも仲間に入れて」なんて言うかね?
 この子たち、「塾の帰りに夜の書店に行ってちょっとエッチな女性週刊誌を立ち読みする」なんて描写もあるのに、そんな子が忍者ごっこをするとはおもえない。
 願望がすぎる。六年生の女子なんて、男子とは五歳ぐらい精神年齢に開きがあるけどなあ。

 初期の作品『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』『とびだせズッコケ事件記者』あたりでは、女子は明確に男子の(特にハチベエの)敵として書かれていたのだが、時代の変化もあるんだろうけど、ずいぶん書き方が変わったなあ。女の子の読者に迎合したのかなあ。あのくだりはリアリティがなかった。


 また、敵の描写も薄っぺらい。喧嘩に負けて恥をかかされたので復讐を誓うという構図は『花のズッコケ児童会長』と同じだが、『児童会長』のほうは相手には相手の正義があったのに対し『忍者軍団』のほうは敵は単純な悪者として存在する。彼らには彼らの言い分だったり心境の変化があったとおもうのだが、ほとんど表現されていない(最後にちらっと匂わせる程度)。
 まあ、人間の心情に思いをめぐらせることなくただ倒すべき存在として認識するのが戦争なのだから、ある意味で正しい書き方なのかもしれないが。とはいえ隣町の小学校と戦争しました、勝ちました、やったね、という書き方は文学的じゃないなあ。

 この隣町の小学校、夏休みにみんなで秘密基地に集まってカレーを作ってたべたり、中学生に勉強を教えてもらったり、めちゃくちゃ楽しそうなんだよなあ。隣の学校の子をエアガンで脅して追い払ったのは良くないけど、よく考えたらそれ以外はそこまで悪いことをしていない。緒戦は、ハチベエたちが仕掛けてきたから防衛しただけだし。まあハカセとモーちゃんの服を脱がせたのはやりすぎだけど、基地をぶっこわされるのはかわいそうだ。

 ズッコケシリーズって「クラスのイケてない子らが知恵と勇気で活躍する」話が多いけど、『忍者軍団』に関しては逆で「両親共働きで夏休みに退屈している子らが男だけで集まって秘密基地を作ったり飯盒炊爨したりで楽しくやっていたら、女の子と仲良くしている隣の学校のグループがやってきてめちゃくちゃにされてしまった話」なんだよな。

 どうしても、三人組たちよりも隣町の小学校側に肩入れしてしまう。むしろこっちを主人公にしたSIDE-Bストーリーが読みたいぜ。



『ズッコケ妖怪大図鑑』(1991年)

 雪の上に残った奇妙な獣の足跡、奇妙な物音、女の幻……。ハカセとモーちゃんの住む市営アパート近辺で次々と怪奇現象が起こる。真相を究明するためアパートの旧館を訪れた三人組とモーちゃんの姉さんは、巨大な火の玉に遭遇する。
 アパートが建っていた土地の歴史を調べていたハカセは、はるか昔にこの地にいた「権九郎」なる存在にたどりつく……。

『心霊学入門』『恐怖体験』などに続く怪異譚。
 おばけだの幽霊だのはまったく怖くないので怪談が好きではないのだが、この『妖怪大図鑑』は薄気味悪くてけっこう好きだ。この物語は「妖怪が出ました、怖い目に遭いました、退治しました」でおしまいではなく、〝妖怪を呼び起こした人間たち〟が描かれるからだ。しかも彼らは根っからの悪人というわけではなく、妬みやプライドを持ったごくごくふつうの老人たち。あまり裕福でなく、おそらくコミュニティとのつながりも薄い老人たちが、別の住人を逆恨みして妖怪の力を借りる……という構造になっている。

 これは不気味だ。たしかに「近所にいる、裕福でなさそうな老人たち」ってなんとなく不気味なんだよね。じっとこちらを観察してきたり、始終不機嫌だったり、やたら他人のことに干渉したり、悪意を漂わせている人もいる。この「不機嫌な老人たち」を悪意の元凶に持ってきたのはじつにいい。

 そして、三人組たちの活躍により騒動の原因である妖怪は退治されるわけだが、妖怪を呼び起こして地域住民たちを攻撃させた老人たちは何の罰も受けることなく、この地域に残りつづける。

 攻撃された住人たちの一部は転居を余儀なくされ、原因をつくった老人たちは怨念を抱えたまますぐ近所に住みつづける。おお、おそろしい。この後味の悪さ、ぼくはけっこう好きだ。


 伝え聞いた話が多いのでスピード感がないとか、モーちゃんの存在感がなさすぎるとかの問題はあるが、怪談系の話の中では好きな部類に入る作品。『大当たりズッコケ占い百科』もそうだけど、死んだ人の話よりも生きている人間の悪意のほうがずっと怖いぜ。

 好きなシーンは、市立図書館でハカセと宅和先生が話すくだり。宅和先生、教え子と対等に歴史の話ができてすごくうれしかっただろうなあ。



『ズッコケ三人組の推理教室』(1989年)

 シャーロック・ホームズの魅力にとりつかれたハカセたち。何か事件はないかと探していたら、クラスの美少女・荒井陽子の飼い猫がいなくなったという話を聞きつける。猫はまもなく見つかったが、見つけ主から高額な謝礼を暗に要求されたという。さらにモーちゃんの母親の知人もやはりネコの失踪にからんで謝礼を支払ったことが判明。一連の事件の真相を探るため、三人組は荒井陽子といっしょに捜査を開始する……。


 ぼくはズッコケシリーズを一作目から二十二作目までは所有していたし何度も読み返していたのでけっこう細かいところまでおぼえているのだが、なぜかこの作品だけは記憶がおぼろ。ところどころ読んだ記憶はあるから、図書室とかで借りて読んだのかなあ。

 この作品の特筆すべきは、なんといっても荒井陽子の存在。序盤から終盤まで三人組と行動をともにしていて、もはや四人組といってもいいぐらいの活躍を見せている。
『うわさのズッコケ株式会社』でも中森晋助が仲間に加わっているが、基本的に三人組についてくるだけで、物語を牽引することはなかった。この作品における荒井陽子の活躍はかなり異色だ。

 ズッコケシリーズって少年の話だったのが、1989年の『ズッコケ三人組の推理教室』、1989年『大当たりズッコケ占い百科』、そして1990年『ズッコケTV本番中』このあたりから急速に女子の登場シーンが増えてくる(まあ『占い百科』における女子は陰湿で怖い存在として描かれてるけど)。

 男女雇用機会均等法が施行されたのが1985年。中学校で男女ともに技術・家庭科を学ぶようになったのが1990年(知らない人も多いとおもうけどそれまでは技術は男子だけ、家庭科は女子だけだった)。1980年代後半は男女平等が声高らかに叫ばれるようになった時代だったのだ。ズッコケも時代の流れをしっかりとらえていたのだろう。


 ストーリーは児童文学のド定番、探偵ものだ。ひょんなことから事件に巻きこまれた子どもたちが知恵を出しあって犯罪事件を解決する話。『ぼくらはズッコケ探偵団』『こちらズッコケ探偵事務所』とほぼ同じ構成だ。ただ、『探偵団』は殺人事件・ひき逃げ事件、『探偵事務所』が誘拐・窃盗事件だったのに比べれば、こちらはペットの誘拐事件と犯罪のスケールは小さくなっている。その分身近に感じられるので、ぼくとしてはこっちのほうが好きだ。殺人や児童誘拐だと「警察に任せろよ」とおもってしまうけど、ペットの誘拐ぐらいだったら警察も本気で取り組まないだろうから小学生が捜査することに説得力がある。

 事件発生から、新たな謎が浮かびあがり、小さな手掛かりから徐々に犯人に接近し、最後は緊張感のある捕物帳。
 ハカセの推理、ハチベエの行動力、陽子の冷静さと社交性、モーちゃんの落ち着きと機転により犯人逮捕につながり、バランスもいい。全体的にうまくまとまっていて、お手本のような子ども向け探偵小説だ。

 気になったのは、猫誘拐犯が無罪放免されたこと。同情の余地はあるとはいえ、猫を誘拐して百万円以上を騙しとったのにあっさり許してしまっていいものか。
 被害者たちが猫をさらわれ、かつ十万円をとられたのに目をつぶってやるのも理解できない。せめて金は返させろよ。これで許してやったら、こいつら場所を変えてまたやりかねないぞ。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2022年4月26日火曜日

【読書感想文】更科 功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』/すべての動物は不完全

残酷な進化論

なぜ私たちは「不完全」なのか

更科 功

内容(e-honより)
心臓病・腰痛・難産になるようヒトは進化した!最新の研究が明らかにする、人体進化の不都合な真実―「人体」をテーマに進化の本質を描く知的エンターテインメント。

 生物がどのように進化したのか、についての考察。

 更科功氏の本を読むのは『絶滅の人類史』に続いて二冊目だが、前作に続いてこちらも論旨が明快でおもしろい。




 我々は、ついついヒトが全生物の頂点に立つ存在だと考えてしまう。

 ユダヤ教やキリスト教の創世記でも、神は五日目に魚と鳥をつくり、六日目に獣と家畜を、そして最後に神に似せたヒトをつくったことになっている。

 創世記を信じている人は少なくても、ヒトがもっとも優秀な動物だと考える人は少なくないだろう。もちろん頭の良さとか手先の器用さとかコミュニケーションの複雑さでいえばヒトが一位だろうが(たぶんね)、だからといってヒトが進化の究極系であるわけではない。

 たとえば肺。哺乳類の肺は、息を吸うときも吐くときも同じ管を使っている。だから吸うのと吐くのを同時におこなうことはできない。だが鳥類の呼吸器は後気嚢から息を吸って前気嚢から空気を押し出す仕組みになっている。

 それらを繰り返すことにより、いつも肺には、空気が一方向に流れるようになっている。新鮮な空気が肺の中を流れ続けるようになっているのだ。一方、私たち哺乳類は、気管という同じ管を使って、空気を出したり入れたりしている。空気が逆方向に流れるので、呼吸器としてはあまり効率がよくない。
 さて、鳥類はこのような優れた呼吸器を持っているため、他の動物が生きられないような、空気の薄いところでも生きていくことができる。渡り鳥の中にはヒマラヤ山脈を越えて移動するものがいるが、空気の薄い上空を飛べるのも、この優れた呼吸器のおかげである。鳥類は恐竜の子孫なので、恐竜もこの優れた呼吸器を持っていた可能性がある。少なくとも烏類の直接の祖先となった一部の恐竜は、この優れた呼吸器を持っていた可能性が高い。
 哺乳類と恐竜は、中生代の初期のだいたい同じころに出現した。それにもかかわらず、圧倒的に繁栄したのは恐竜だった。哺乳類は中生代を通じて、日陰者だったと言ってよいだろう。その理由の1つが、この呼吸器の性能の違いかもしれない。同じ活動をしても、哺乳類より恐竜のほうが、息が切れなかったかもしれないのである。
 私たちヒトは現在の地球上で大繁栄しているので、つい自分たち人類のほうが、他の生物よりもすべてにおいて優れていると思いがちである。かつては、恐竜なんて体が大きいだけで、アホな生物だと思われていたふしもある。でも、そういう態度は恐竜に失礼だろう。

 たしかにね。ふだんはあまり意識しないが、長距離走をしているときや水泳をしているときには「吸う」と「吐く」を強く意識する。新鮮な空気を吸いこみたい。しかし肺の中に溜まった空気を吐きだしたい。同時にできたらどれほど便利だろう。きっと一流マラソン選手になれるだろう。

 鳥はそれができるのか。いいなあ。高性能の肺があって。




 生物は進化するのでどんどん機能が向上していくようにもおもえるが、そうかんたんな話でもないらしい。

 ちょっと別の例で考えてみよう。私たちは、喉の筋肉を動かしたりするために、脳から迷走神経という神経が伸びている。この迷走神経のうちの1本は、心臓の近くにある血管の下側を通っている。私たちの場合はそれほど問題ないのだが、キリンではかなり変なことになってしまった。
 キリンでも、この迷走神経は、心臓の近くの血管の下側を通っている。この血管は、キリンの首が伸びるのとは関係なしに、心臓の近くに留まり続けた。一方、迷走神経は、相変わらず脳と喉を結んでいる。キリンの首が伸びていくと、脳と喉はどんどん心臓から離れていく。しかし、迷走神経は心臓の近くの血管の下側を通っている。
 そのため、迷走神経は、脳から出発して長い首を通って心臓の近くまで下りていき、血管の下側をぐるりと回って、それから長い首を上っていって、喉まで到達しなければならなくなった。キリンの脳と喉は3センチメートルぐらいしか離れていないのに、迷走神経はおよそ6メートルも遠回りすることになってしまったのだ。
 何でこんなことになってしまったのだろう。一度だけ迷走神経を切って、血管の下側から上側に移して、それからつなぎ直せばよいのに。でも、そういうことは進化にはできない。進化は、前からあった構造を修正することしかできない。切ってつなげるとか、分解してから組み立てるとか、そういうことは無理なのだ。

 迷走神経は脳と喉をつなぐ神経だ。脳から喉に最短距離でつなげば数センチで済むが、心臓の下を経由しているためキリンの場合は6メートルもの遠回りをしているのだ。

 めちゃくちゃ無駄だが、修正することはできない。突然変異で「迷走神経が切れてるやつ」が誕生して、その後また突然変異で「迷走神経を最短距離でつなぐやつ」が誕生すればいいのだが、「迷走神経が切れてるやつ」が誕生しても生き残れない(=子孫を残せない)のでそれ以上進化することはない。

 言ってみれば、家に住みつづけながらその家をリフォームするようなものだ。壁紙を変えるぐらいならできるが、「トイレの位置を別の場所に移す」みたいなおもいきった改築はできない。そんなことしたら、改修中はトイレが使えなくなって住めなくなるから。

「100代後の子孫が便利になるために今のあんたたちは不自由を強いられるけど我慢してね」というわけにはいかないのだ(仮に我慢したとしても100代後がもっと良くなる保障なんかどこにもない)。

 というわけで、我々の身体はぜんぜん最適な機能をしていない。つぎはぎだらけのパッチワークをだましだまし使っているのだ。

 本来の脊椎は、四肢動物に見られるように、水平になっているものである。それなのに、私たちの脊椎は直立しているので、いろいろと不都合が起きる。だから私たちは、進化の失敗作なのだ。そんな意見を聞くことがあるけれど、本当にそうなのだろうか。
 考えてみれば、四肢動物の脊椎だって不自然な使い方をしている。だって脊椎は、本来、泳ぐためのものなのだ。いや、魚の脊椎だって、不自然な使い方をしている。だって骨は、本来、リン酸カルシウムの貯蔵庫なのだ。いや、そんなことを言ったら、そもそも脊椎があること自体が不自然である。だって、脊椎なんて、昔はなかったのだから。

「人類は直立歩行をすることによって腰痛に悩まされるようになった」と聞いたことがある。腰は本来直立歩行を支えられるようにできていないから、無理が生じて腰痛になるのだという。

 だったら四足歩行ならいいのかというと、そんなことはないようだ。犬も腰痛になるらしいし、結局のところ身体にガタがくるのは「長く生きすぎた」からなんだろう。四十歳ぐらいでほとんどの人が死んでいた時代であれば、腰痛なんてほとんど問題にならなかっただろうから。

 生物の身体はよくできているが、「いろいろ触ってたらよくわかんないけどなぜかちゃんと動くようになったプログラム」みたいなもんで、合理的に設計されたものとはまったく違う。絶妙なバランスの上に成り立っている奇跡のプログラムなので、ほんのちょっとしたことで壊れてしまうのだ。




 人類の祖先が四足歩行から二足歩行に進化した過程について。

 当然ながら、はじめから今のように上手に二足歩行ができたわけではない。当初は赤ちゃんのようにヨタヨタ歩きだっただろう。

 だがこのヨタヨタ歩きにはなんのメリットもない。そのうち慣れて歩けるようになるのかもしれないが、自然界においては慣れるようになる前に他の動物に食べられてしまうはずだ。

 ではどうやって二足歩行が進化したのか。

 かつては、直立二足歩行は、草原で進化したと考えられていた。だがその場合は、四足歩行から直立二足歩行へ移る途中で、適応度が低い中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし、適応度の高い四足歩行から、適応度の低い中腰のヨタヨタ歩きが、自然淘汰によって進化するとは思えない。
 ところが、木の上で二足歩行が進化したのなら、この問題は解決される。体が大きくなった人類の祖先が、枝先の果実を食べようとしている。四足歩行で1本の枝の上を歩いて、果実に近づいた場合は、枝が折れて地上に落ちてしまうかもしれない。しかし、中腰歩行で両手両足を使って複数の枝に摑まっていれば、果実に近づいても枝は折れずに、めでたく果実を食べられるかもしれないのだ。
 木から落ちなければ、果実も食べられるし怪我もしない。だから、木から落ちる回数が少ないほうが、適応度が高くなるはずだ。したがって、四足歩行より中腰歩行のほうが、適応度が高くなる可能性が高い。そうであれば、自然淘汰によって、四足歩行から中腰歩行への進化が起きる。
 四足歩行から直立二足歩行に進化するには、中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし地上では、四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が低いので、直立二足歩行は進化しない。一方、樹上では、(体重が重ければ)四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が高いので、直立二足歩行が進化する可能性があるのだ。

 歴史の教科書には、人類の進化のイラストが載っていた。

こんなやつ

 こういう絵を見ると最初から二足で歩いていたようにおもってしまうが、左のやつなんかはほとんど直立二足歩行をしていなかったんだろう。ほとんど樹の上にいて。

 たしかに樹の上にいるのであれば、四足歩行よりも二足歩行の方が圧倒的にいい。チーターやトラも樹の上にいるけど、落ちそうで不安になるもん。二足で立って一本の手で離れた場所にある枝をつかめば安定するし、残った一本の手を自由に使える。

 進化のイラストの左端は、枝につかまってる絵にすべきかもしれないね。


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