2021年3月30日火曜日

【読書感想文】なんと見事な切り口 / 佐藤 大介『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』

13億人のトイレ

下から見た経済大国インド

佐藤 大介

内容(e-honより)
インドはトイレなき経済大国だった!?携帯電話の契約件数は11億以上。トイレのない生活を送っている人は、約6億人。マニュアル・スカベンジャーだった女性がカーストを否定しない理由とは?差別される清掃労働者を救うためにベンチャーがつくったあるモノとは?経済データという「上から」ではなく、トイレ事情という「下から」海外特派員が迫る。ありそうでなかった、トイレから国家を斬るルポルタージュ!

 おもしろかったなあ。トイレの話かとおもったらトイレの話じゃない。
 インドのトイレ事情について語りはじめるんだけど、そこから話がどんどん広がっていって、政治、経済、貧困、犯罪、宗教対立、民族問題、環境問題、そして今なお根深く残るカーストなどについて斬りこんでいく。

 この手法、すごくいい。あまり見たことのない手法だ。
 いきなり「インドの政治は……」「インドの水道事情は……」と語りだしても「そんなの知らねえよ」となる。
 でも「インドはいまやIT大国なのにトイレを使ってない人が6億人もいるんだって!」というとっつきやすい話題から入ると「えーじゃあみんな外で用を足してるの?」と一気に関心が湧く。

 そう、じっさい外で用を足しているのだ。大人も。女性も。

 単に「恥ずかしい」だけの問題ではない。外で用を足すせいで、野生生物に襲われたり、レイプ被害に遭ったりして、命の危険にさらされているのだ。
 さらに排泄物が外に放置されることで疫病が蔓延する原因にもなる。また排せつ物がそのまま川に流されることで深刻な環境問題も起きている。

「トイレがない」ことがいろんな問題を引き起こしているのだ。



 じゃあトイレを設置すればいいのかというと、そんなかんたんな問題ではない。
 インド政府は「スワッチ・バーラト(きれいなインド)」を掲げてトイレ設置に補助金を出すことを決めたが、それにより、補助金受給詐欺が蔓延するなど新たな問題が起こっている。

 だが、より深刻なのは、トイレを建設しない人に対する生活面での「差別」が行われていたことだろう。r.i.c.e.の調査では、ラジャスタン州の公立学校で、トイレを設置していない家庭の子どもは学籍名簿から外すと、教師が発言していた。貧困世帯に対して行われる食料の配給が、トイレのない世帯には行われなかったという報告は複数の州で散見されている。ウッタルプラデシュ州では、トイレをつくったのに使っていない人に対して、村の有力者が五〇〇ルピーから五〇〇〇ルピー(八〇〇円から八〇〇〇円)の「罰金」を徴収していたという。そのような「罰金」に何の根拠もないのは、言うまでもない。
 もちろん、こうした強要や圧力は、中央政府や州政府から何らかの「指令」があって行われたわけではない。だが、二〇一九年一〇月という「スワッチ・バーラト」のゴールが設定されている以上、州の職員たちにとっては、期限までに成果を示さなくてはならないプレッシャーがのしかかる。トイレ設置の実績は村や集落から地区、市、そして州へと上がっていくが、見えない圧力はその逆方向で働いていった。結果として、トイレのない「現場」である村や集落に「忖度」の力が集中し、人々に対する強要や圧力が横行してしまったのだ。「スワッチ・バーラト」が成功したとするモディの発言は、こうしたモディの顔色をうかがう人たちの「忖度」によって成り立っているとも言える。

 お上の気持ちを忖度するのは日本だけじゃない。インド人も政府の顔色をうかがうのだ。

 2020年、日本では「自粛警察」があちこちで幅を利かせていた。緊急事態宣言下で外を出歩いている人に私刑を施すやつらだ。警察どころか犯罪者集団だ。
 同様にインドでも「トイレ警察」が跋扈していたらしい。どの国もやることはたいして変わらない。

 設置費用さえ出してもらえればトイレを使えるというものではない。トイレには維持管理が必要になる。日本のように下水道が整備されていないから、トイレから出たものはタンクに溜めて定期的に回収する必要がある。当然金がかかる。森でしたり川に流したりするほうがずっと安上がりだ。

 特に農村ではトイレを新たに設置するメリットが薄かった。
 そもそも農民には「数か月後に補助金がもらえるかもしれない」からといってトイレを設置できるほど経済的に余裕がない。

 インドでは、借金を苦にした農民の自殺が後を絶たない。肥料や農機具を動かすための燃料の価格は年々上昇するものの、作物価格は上がらず、農家の大半は借金に頼っているのが現状だ。カネがなければ土地改良やかんがい施設の整備に手が回らず、気象条件に対応できないまま、不作の連鎖に陥ってしまう。インド内務省のデータでは、二〇一五年にインドで自殺した農業関係者は一万二六〇二人にのぼっており、自殺者全体の九・四%を占めている。自殺した原因も、借金の返済や破産といった経済的理由が三八・七%と最も多い。借金苦による農民の自殺は社会問題にもなっているのだ。
 このため、選挙前になると農民たちは借金の帳消しを求めて、大規模なデモを行うのが常となっている。二〇一八年二月には、西部マハラシュトラ州の農民が帳消しを求めたデモを行い、州都ムンバイには約六万人が集まって気勢を上げた。BJP系の州政府は農民らの要求を受け入れ、農民一人当たり最高一五万ルピー(二四万円までの帳消しを約束している。BJPは帳消しを公約に掲げ、二〇一七年三月に行われたウッタルブラデシュ州の州議会選で圧勝している。だが、こうした借金帳消し策は、財政状況を無視して導入されたケースも少なくない。マハラシュトラ州政府は、帳消しによって二〇一八年度予算で一五〇〇億ルピー(二四〇〇億円)の歳入不足に陥ったと発表している。
 財政状況を無視したまま、大票田の農村票目当てに政治家が「徳政令」を出すことで、一時的に農民の負担は軽くなっても、脆弱なインフラや不安定な収入といった農村の抱える問題は何ら解決しない。インドのメディアは「(帳消しは)農民を苦境から救う最良の方法ではない」とする専門家の意見をたびたび伝えているが、同じことが繰り返されているのが現状だ。農村部の人たちがトイレの設置に必ずしも積極的ではないのは、致し方ないことなのかもしれない。

 徳政令って現代でも出されるんだ……。

 たしかに借金が棒引きになれば一時的には助かるだろうけど、そもそも毎年の収支がマイナスになっているんだったらどうせまたすぐに借金漬けになることは目に見えている。

 そんな状態で、金を生むわけでもないトイレの設置なんてやるわけないよな。



  下水道の整備がされていないインドでは、マニュアル・スカベンジャー(手作業で糞尿の処理をする人)がたくさんいる。

 シンは排水溝にまたがり、地下をめぐっているパイプの出口に竹の棒を突っ込み、流れを悪くしているゴミをかき出している。トイレなどから流れてきた排水は、やはり灰色に濁っており、近づくとひどい臭いがした。先ほどの衝撃ですこし鼻が慣れたのか、ハンカチを当てることはしなかったが、シンがかき出したゴミを素手で集め始めたのには驚いた。ゴミといっても、それは汚物そのもので、人間の排せつ物も混ざっている。私が驚いているのに気付いたのか、シンは「この方が早いから」と話し、黙々と作業を続けていた。手袋などをしないことの理由を尋ねた私に、素手で汚物をかき出している作業を見せることで、一つの答えを示そうとしたのだろう。
 乾季はパイプの詰まりも比較的少なく、一日当たりの作業は五、六件程度だが、マンホールの中に入るといった危険なことをしていることには変わらない。一日の稼ぎは二〇〇ルピー(三二〇円)ほどで、手袋やマスクなどを使おうとすれば、そのわずかな賃金を使って買わなくてはならない。雨季になれば仕事量も増え、稼ぎは五〇〇ルピー(八〇〇円)ほどになることがあるものの、それだけ危険も増すことになる。

 とんでもなく過酷な仕事だ。世の中にこれ以上きつい仕事はほとんどないだろう。

 汚いだけでなく、危険でもある。マンホールに落ちて命を落とす労働者も多く、ろくな道具も持たずに手で作業するため衛生面の危険も大きい。これで一日三二〇円しかもらえないのか……。

 あたりまえだが、マニュアル・スカベンジャーは好きこのんでこの仕事をしているわけではない。インドに今なお根付いているカースト制度のせいで、他の仕事につくことができないのだ。

 建前上はカーストによる差別は禁止されているが、じっさいには今も存在している。マニュアル・スカベンジャーは先祖代々その仕事をしている。他に選択肢がないのだ。

 日本にもきつい仕事に従事している人はたくさんいるが、一応選択肢はある。もちろん家庭の経済状況などによって限定はされるが、そうはいってもいくつか選べる。最低賃金が定められているし、労働者の安全も守られている(ことになっている)。

 インドのマニュアル・スカベンジャーは「3K(きつい・きたない・危険)」どころじゃない。「安全を確保できない」「どれだけ努力をしても抜けだすことができない」と、絶望的な条件が加わっている。


 M.K.シャルマ『喪失の国、日本』という本に、日本に来たインド人であるシャルマ氏が「日本ではよその家に上がるときに靴をそろえるのがマナーです」と言われて困惑する姿が描かれている。彼はインドでは高いカーストなので、靴を手でさわるなんて召使いのやることだとおもっていたのだ。
 シャルマ氏は柔軟な思考の持ち主だが、それでも染みついたカースト制度からはなかなか抜けだすことができず、靴をさわることにたいへんな抵抗をおぼえる。

 この本の中には、自身はバラモン(カーストの最高位)でありながらマニュアル・スカベンジャーの労働環境を良くするために行動する人も登場するが、彼自身も「低いカーストの人が安全にトイレ掃除をできるようにしよう」とは主張するが「カーストを廃止しよう」とは主張しない。
 きっとインド人にとってカーストとは生まれたときからあたりまえにあるもので、インドで生まれ育っていたらカーストをなくすことなんて想像すらできないんじゃないだろうか。たとえとしては悪いけど、ぼくらが「犬もヒトと同じように扱いましょう」と言われても「いやそれってヒトにとってはもちろん犬にとっても不幸なんじゃないの」とおもうのと同じで。

 前にも書いたけど(「差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準」
「差別」と感じるかどうかって、明確な基準があるわけじゃなくて、「今あるかどうか」だけなんだよね。

 今ある区別だから男子校や女子校や日本人学校や朝鮮人学校はOK、でも白人専門学校や女子だけ入試で減点するのを差別だと感じるのは「今までやってないから」。
 男子校がよくて白人専門学校がダメな理由を論理的に説明できる人なんていないでしょ。

 結局、あらゆる区別は差別にもなりうるし、慣れてしまえば差別とは感じない。
 たとえば今は大学入学者を学力試験で決めているけど、冷静に考えれば「今勉強ができる」からといって「学力で劣る者より優先的に学問をする権利がある」ことにはならない。
 いつか「学力試験で合格者を決めるなんてバカ差別だ!」という世の中になってもぜんぜんおかしくないよ。

 何が言いたいかというと、我々はインドのカーストを「なんて前近代的な差別的な制度だ!」と感じるけど、きっとどの文化にもカースト的なものはあるんだろうなってこと。



 くりかえしになるけど、ほんとにすばらしい切り口の本だった。もちろん内容もいいんだけど、これが『インドの今』みたいなタイトルだったら手に取ろうとおもわなかっただろう。

 ワンテーマを軸にして、いろんな問題に切りこんでいくこの手法、もしかしたら今後のノンフィクションの主流になっていくかもしれない。
 それぐらい革命的な発明だとおもうよ、この手法。

 

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クソおもしろいクソエッセイ/伊沢 正名『くう・ねる・のぐそ』【読書感想】

【読書感想文】インド人が見た日本 / M.K.シャルマ『喪失の国、日本』



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2021年3月29日月曜日

ゲームブック


 ゲームブックをご存じだろうか。

 本を読んでいると選択肢が示され、「〇〇を選ぶなら28ページへ。××を選ぶなら44ページへ」みたいなのが書いてある。
 で、選択によってストーリーが変わり、様々な選択をしたり、クイズを解いたりしながらハッピーエンドを目指すという本だ。

 世代によっては、ゲーム『かまいたちの夜』みたいな本、といえばわかりやすいかもしれない(というより歴史的には『かまいたちの夜』がゲームブックをテレビゲーム化したもの、なんだけど)。

 ぼくは子どもの頃、ゲームブックが大好きだった。
 何冊か持っていたが、中でも好きだったのが『にゃんたんのゲームブック ドッキリ!かいじゅうじま』だ。


 主人公のにゃんたんがとある島に行き、かいじゅうたちと戦う。
 かいじゅうは五匹いる。一匹が複数回戦うこともある。五戦中三勝すればにゃんたんの勝ち。三敗すれば負け。
 負ければにゃんたんは生きたまま皮を引き裂かれて臓腑を食われ……とはならない。児童書なので。負けたらさいしょからやりなおし。いつかは勝つ。

 先に三勝したほうの勝ちという、プロ野球のクライマックスシリーズみたいなルールだ(歴史的にはクライマックスシリーズがにゃんたんの真似をしたと言っていい)。
 もしくは暗黒武術会で浦飯チームが裏御伽チームと対戦したときのルールに近いといえばわかりやすいだろう(わかりにくいわ)。


 娘が絵本を卒業しつつあり、児童書をおもしろがるようになってきた。
 そうだ、ゲームブックを買ってあげようとおもってAmazonで探したのだが、幼児向けのゲームブックがぜんぜん見つからない。
 どうしたんだ。今の子どもはゲームブックを読まないのか?
 アプリとかでゲームするからゲームブックが不人気なのか?

 検索したら最近出たゲームブックを二冊だけ見つけたが、どちらもポプラ社から刊行されている。
 しかしぼくはKAGEROU出来レースの一件以来ポプラ社を憎んでおり、ポプラ社の本だけは買わないことに決めている。
 ちくしょうポプラ社め、いい本出しやがって!(ちなみににゃんたんシリーズもポプラ社から出ている)
 ほんとに児童書はいいんだけどなあ。文芸がなあ。

 最近のゲームブックがないならにゃんたんを買うしかない。
 だがにゃんたんシリーズは絶版になっていた。あんなにおもしろかったのに! いや絶版にするのはいいけど、だったら似たような本を出してくれよ!

 こうなったら古本だ。Amazonマーケットプレイスだ。
『にゃんたんのゲームブック ドッキリ!かいじゅうじま』は1,800円もする。定価は900円なのに。
 だがぼくはポプラ社に900円を払うぐらいなら、古本屋に1,800円払うことを良しとする。
 購入!



 で、届いたゲームブックをさっそく娘といっしょに読んだのだけれど、「おもしろい!」と言って毎日読んでいる。
 何度も何度もやっている。

 そうなんだよ、ゲームブックおもしろいんだよ。
 児童書出してる出版社はもっとゲームブックつくってくれよ。

 そうだ。
 ないならぼくがつくればいいんだ!

 というわけで、娘のためにオリジナルゲームブックを制作中……。


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ポプラ社への愛憎



2021年3月26日金曜日

【読書感想文】なぜ動物に人権はないのか / 池上 俊一『動物裁判』

動物裁判

西欧中世・正義のコスモス

池上 俊一

内容(e-honより)
法廷に立つブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミに退去命令…。13世紀から18世紀にかけてヨーロッパに広くみられた動物裁判とは何だったのか?自然への感受性の変化、法の正義の誕生などに言及しつつ革命的転換点となった中世に迫る「新しい歴史学」の旅。

 中世ヨーロッパでは、動物を被告人とした裁判がおこなわれていた。

 ブタが人間の子どもを食べたとか(昔のブタは今よりもっとイノシシに近くて凶暴だった)、ウシの角に突かれた人が怪我をしたといった事件が起こると、犯人である動物が裁判所に出頭を命じられ、法で裁かれていた。動物の飼い主が、ではない。動物が。

 しかも被告人である動物には弁護人までつき、弁護人は「積極的に罪に加担したわけではない」「やむにやまれぬ事情があった」などと述べて動物を弁護する。その結果、無罪になることもままあったという。一方的に断罪するわけではないのだ(動物からしたら一方的に裁かれていたんだろうけど)。

 さて、この世俗裁判所は、動物裁判においてどんな役割をはたしたのであろうか。
 そこでは、人や家畜を殺傷し、あるいは畑や果樹園を荒らしたブタ・ウシ・ウマ・イヌ・ネコ・ヤギ・ロバなどの家畜が裁かれた。犯罪を犯した動物たちは、その行為が土地の有力者によって確認されると、だちに逮捕され、領主裁判所ないし国王裁判所付属の監獄にほうりこまれる。監禁は、地方の領主の代訟人=検察官が証拠調べ(予審)をするあいだじゅうつづく。そしてそれがすむと、検察官は被告の起訴を請求し、受理されれば、被告の弁護士が任命されて、被告は裁判官の前に出頭を命ぜられるのである。
 裁判がはじまる。証人の証言をきき、被告に帰された事実にかんするかれらの肯定的供述をえたあとに、検察官は論告求刑をなす。それにもとづいて、裁判官は無罪または有事の判決をいいわたす。有罪ならば、たいてい、絞首のあと地域ごとの慣習にのってカシの木なり絞首台なりに後足でさかさ吊りの刑に処し、その後、調書が作成された。

 この動物裁判、かぎられた時代のかぎられた裁判所における「珍裁判」なんだろうとおもいきや、そんなことはない。記録に残るだけでも数百件、記録に残っていない(罪が確定すると裁判記録を燃やすこともよくあったという)ものも多数あったことを考えると、決してめずらしくない出来事だったようだ。

 また被告人になるのはブタやウシといった家畜だけでなく、大発生して作物に損害を与えたとしてネズミや昆虫(もちろん誰の所有でもない)が訴えられたり、植物や、さらには無生物(たとえば鐘)までもが被告人になることがあったという。

 ここで「昔の人はアホだったんだねえ」と言ってしまえばそれまでだが、ふと立ち止まって考えると「なぜ今我々は動物裁判をしないのか」という疑問に至る。


 なぜ動物裁判をしないのだろう。
 なぜ動物は罪の主体にならないのだろう。罪とは何か。

 今の日本で、罪が問われるには「責任能力」が必要になる。未成年や重度の精神障害者が罪に問われないのはこのためだ。
 とはいえ、刑法罪としての罪に問わないだけで、一般人の感覚としてはやっぱり「罪」だ。

 仮に、十歳の子が両親兄弟を皆殺しにしたとする。十歳ならやろうとおもえばそれぐらいはできる。
 その子の親に罰を与えることはできない。被害者だし、すでにこの世にいないのだから。その子自身は刑罰を受けないが、法に則って処遇が決められる。
 なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか。そういったことが十分に検討される。
「まあまあ子どものしたことですから。明日からまた学校に行こうね」というわけにはいかない。
 刑法の「罪」ではないかもしれないが、人々の感覚としては「罪」だ。

 だったら動物が人を傷つけた場合も、同様に裁かないと筋が通らないのではないだろうか。
 たとえば成犬だったらそこそこの知能はある。「むやみに人をかんではいけない」ぐらいのことは理解している。
 犬が飼い主をかみ殺したら、なぜその行為に至ったのか、被害者に落ち度はなかったのか、環境によっては殺人を避けられなかったのか、などを司法機関が検証する必要があるのではないだろうか。「人を殺したから殺処分します」で済ませてしまっていいのだろうか。


 つらつらと考えていると「動物裁判をやっていた中世ヨーロッパのほうがよっぽど人権(っていうのか?)意識が進歩していて、[人間だから/動物だから]で単純に線引きしている今のほうが劣ってるんじゃないか」という気になってくる。

 動物に殺されてしまうのを「不運な事故だった」とおもうか「許されない不当な行為だ」とおもうかは、結局「慣れ」でしかないんだろうな。

「子どもは何をしても罪に問わない」国の人からしたら「日本は子どものやったことでもいちいち裁判にするのか。ばかだねえ」とおもうだろうし、
「子どもも大人と同じように罪に問う」国の人からしたら「子どものしたことだろうと罪は罪だろう。日本は子どもに甘すぎる」とおもうだろう。



 この本では「なぜ動物裁判が一般的におこなわれたのは13~18世紀のヨーロッパだけなのか? それ以前、あるいはそれ以降、また別の地域で動物裁判がおこわれていないのはなぜか?」について考察しているが、それについては「ふーん。あなたの想像ではそうなのね。でも真実は誰にもわからないよね」としか言いようがない。

 著者によると、
 動物裁判がおこなわれた時代は、森を切り拓き狩りが盛んになり動物の家畜化が進んだ時代と重なるから、人間の世界の法を自然に適用しようとしたからだ、また自然を人間より下に置くキリスト教普及の影響もある、だそうだ。

 このへんについては素直に受け取ることができない。
 ぼくの考えでは「その頃たまたま誰かが動物裁判をしたから」ってだけで、大した理由はないとおもう。他の時代や地域で動物裁判がおこなわれていてもぜんぜんおかしくないとおもうな。

 動物裁判の判決のひとつにキリスト教からの「破門」があったそうだ。ネズミや昆虫が大発生すると動物にたいして破門が言いわたされるが、それはけっこう効果があったようだ。

 さらに、破門宣告はあらゆる手だてをつくしたあとにとられる最後の手段であり、その前に、祈橋・行列・十分の一程支払いなどが勧奨され、また悪魔祓いの儀式が、聖水散布・呪いの言葉などによって、しばしば破門宣告に先だっておこなわれたのである。
 記録にもとづけば、破門の効果は、ほとんどいつもてきめんだったようだ。害虫は、破門の結果全滅し、ネズミやイルカは、破門をおそれて、アタフタと退散する。そう信じられた。本当は、昆虫の寿命はもともとごく短いのだし、ネズミなどは、ひととおり穀物を荒らしたら、つぎの獲物を求めてさっさと大移動するのは、むしろ本能的行動だろう。

 なるほどね。特定の動物の大発生なんて長く続くわけないもんね。


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政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】



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2021年3月25日木曜日

【ボードゲームレビュー】街コロ通

街コロ通

 最近、カードゲーム『街コロ通』で七歳の娘と遊んでいる。

 きっかけは娘と行ったボードゲームカフェ。そこで『街コロ』をプレイした。
 おもしろかったので買おうかとおもっていろいろ調べていると、姉妹品の『街コロ通』なる商品があることを発見した。
 ユーザーの評判を見ていると、こっちは運の要素が大きく、終盤での逆転可能性が高いらしい。子どもとやるなら運要素が大きいほうがおもしろい。大人ばっかり勝つのも、大人がわざと手を抜くのもつまんないもんね。ぼくは本気を出して勝ちたいんだ!


 ってことで『街コロ通』購入。
 期待にたがわぬおもしろさだった。
 『街コロ通』をかんたんに紹介しよう。


ルール

 サイコロを振り、施設を買う。
 施設にはそれぞれ効果があり

  • 自分がサイコロで特定の目を出すと銀行からお金をもらえる施設
  • 誰かがサイコロで特定の目を出すと銀行からお金をもらえる施設
  • 誰かがサイコロで特定の目を出すと目を出したプレイヤーからお金をもらえる施設
  • 自分がサイコロで特定の目を出すと特別な効果がある施設

がある。
 また施設によっては相乗効果をもたらすものもあり、同じ種類の施設を集めるともらえるお金が増えたりする。
 テレビゲーム『いただきストリート』にちょっと似ている(『いただきストリート』はぼくのもっとも好きなゲームだ)。

 お金を貯めて、高価な「ランドマーク」を3つ建てた(または特別なランドマークを1つ建てた)プレイヤーの勝利となる。


絶妙なカードバランス

 前作『街コロ』よりもはるかにゲームバランスがいい。
 というのは、「圧倒的にいいカード」「ぜんぜん役に立たないカード」が存在しないからだ。

「このカードはお金をたくさんもらえるけど、もらえる確率が低い」
「このカードは単体だとあまり価値がないが、他のカードとの相乗効果で後半大きな価値を生む」
「このカードは大金を稼ぐ可能性があるが前半はほぼ紙くず」

みたいな感じで、どのカードも一長一短ある。

「確実性の高い方法でコツコツ稼ぐ」
「ひたすら他人から金を巻きあげることを狙う」
「特定の種類のカードを集めて後半のコンボで一攫千金」
など、いろんな戦略が立てられるし、どれかの戦略がとりたてて強いということもない。すべてはカードとサイコロ運次第だ。


逆転の可能性高め

 モノポリー、桃鉄、いただきストリートなど「物件を集めて金を稼ぐ」系のゲームは、後半はほぼ逆転不可能になる。金を持つプレイヤーが物件を買い占め、物件をたくさん持っているから金が集まる。後半になるにつれて格差がどんどん拡大していく。現実といっしょで、貧乏人が金持ちを打ち負かすことはほぼ不可能だ。
 1位のプレイヤー以外は退屈な終盤を過ごすことになる。

 かといって桃鉄のキングボンビーシステムはあまりに理不尽だ。こつこつ貯めた財産が泡と化し、それまでの努力が一気に水の泡になってしまう。

『街コロ通』はそのへんがよく工夫されていて、後半になるにつれて貧しい者が有利になってくる。「10コイン以上持っているプレイヤーから半分をもらう」などのカードによって、貧しい者が金持ちから大金を巻きあげることができるのだ。累進課税。
 現金を持たないとランドマークが買えないが、現金を貯めていると他プレイヤーから巻きあげられやすくなる。おまけにランドマークは後半値上がりする。

 さらに「ビリにしか買えない良いランドマーク」もあり、逆転させる工夫が随所にある。
 かといって「前半の努力はなんだったんだ!」というほどではない。
 現金はとられやすいが施設がとられることはめったにない。中盤までにきっちりいい施設を建てた人が有利であることは変わらない。

 このバランスが絶妙。
 実際、何度かやったがたいてい終盤までもつれる展開になる。「あと1ターンあれば勝てたのに!」ぐらいの僅差。誰かひとりの圧勝、という展開はほとんど起こらない。


運と実力の絶妙なバランス

 運の要素が大きいが、とはいえ完全に運任せでもない。強いプレイヤーと初心者が対戦すれば、前者が九割は勝つだろう。

「現金を貯めこまずにどんどん使う」「コンボ施設をうまく利用する」「サイコロを1個振るほうがいいか2個振るほうがいいか自他のカードにあわせて判断する」「他プレイヤーが欲しがっている施設を先に買う」「他プレイヤーの収入や所持金を見てランドマークを建てるタイミングを決める」など、勝率を上げるための戦略はいくつも存在する。

 ただ、買うことのできる施設はゲームごとに変わるので、「いついかなるときも使える戦略」が存在しない。そのときの場のカードや他プレイヤーの持ちカードを見ながら「今ベストなカード」を選択しなければならない。

 だから毎回緊張感があるし、何度でも楽しめる。つくづくよくできたゲームだ。


対象年齢

 パッケージには10歳以上と書いているが、うちの7歳の娘でも十分楽しめんでいる。休みの日になると、起きてすぐ「街コロしよう!」と言いにくる。
 プレイヤーとしてだけではなく、銀行係もできる。
 20ぐらいまでの数の足し算・引き算ができればほぼ問題ない(一枚だけ「全員の所持金を均等に分ける」という割り算が必要になるカードがある)。

 ただ惜しむらくは、カードの説明文の漢字にふりがながないこと。そのせいで7歳は説明文が読めない(何度もやっているうちにおぼえたけど)。

 リニューアルする際はぜひふりがなをつけてください……!


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競輪場でボードゲーム

【エッセイ】プロ野球カードゲーム


2021年3月24日水曜日

【読書感想文】人生に必要な何もしない期間 / 工藤 啓 西田 亮介『無業社会』

無業社会

働くことができない若者たちの未来

工藤 啓  西田 亮介

内容(e-honより)
15~39歳で、学校に通わず、仕事もしていない「若年無業者」2333人のデータから見える本当の姿とは。現場を知るNPO代表と気鋭の社会学者によるミクロとマクロ双方の現状認識と衝撃の未来予測、いま打つべき方策を解き明かす!


 データとインタビューを通して、仕事に就いていない若者(といっても30代まで含む)の状況についてまとめた本。2014年刊行なので少し内容が古いが。



 ぼく自身、かつては無業の若者だった。新卒で就職した会社をすぐに辞めた。
 一応表向きの理由は「体調不良」ということにしていた(実際、微熱が続いた)が、じっさいは「働きたくなかった」が最大の理由だった。

 学生時代、愚かにも「なにかしらの分野でぼくの才能が世に認められて若くしてクリエイティブな仕事につく」とおもっていたので(もちろん何の行動も起こさないまま)、就活自体がすごくイヤだった。
 けれど大学院進学をする気はなかったので就活をしないわけにもいかない。親の金で四年大学を通って「フリーターでもやるわ」というわけにもいかず、嫌々就活をした。そんな態度が透けて見えたのだろう、コミュニケーションが得意でなかったこともあり、受けた会社はことごとく不採用だった(というよりえり好みをしてそもそもあまりエントリーしなかった)。
 自慢じゃないが、いや自慢だが、かなりの高学歴なのにことごとく落とされたのだから(実際書類では落とされたことはほぼなかった)よっぽど面接がひどかったのだろう。

「才能あふれる自分」という自己イメージと、「就活市場でまったく評価されない自分」のギャップに苦しみ、最初に内定をもらった会社にとびついた。今おもうとその会社に行きたかったわけではなく、就活を終わらせたかっただけだった。

 そんなわけで、入社した会社でうまくいくわけもなく。おまけにその会社はかなりのブラック企業で、日付が変わるまでの残業があたりまえ、給与も事前に聞いていた条件とちがい、社長はパワハラ体質。なにもかもがいやになって、体調が悪くなったのを「いい口実ができた」とばかりに退職した。


 それから一年ばかりは実家で何もせずに過ごした。ほんとに何もしなかった。
 月一ぐらいで通院はしていたが、それほど体調が悪いわけでもなかったので、同じく無職の友人とサッカーをしたり、プールで泳いだり、朝からマラソンをしたり、体調不良を理由に無職になったくせにやたら健康的な日々を送っていた。

 はじめは「体調不良!? 大丈夫? ゆっくり休んで治しなさい」と心配していた両親も、息子が頻繁に遊びに行っているのを見て、「もう働けるでしょ」とプレッシャーをかけてくる。
 仕方なく書店でバイトをはじめ、一年ぐらいして「正社員にならないか」と声をかけられた。「まあだめだったらまたフリーターか無職に戻ればいいや」と正社員になり、それから二回転職はしたが十数年間なんとか正社員として働いている。運よく無職を脱出したわけだ。
 ほんとうに運がよかった。あのときバイトをしていなかったら、あのとき正社員採用の声をかけてもらえなかったら、今も無職(またはフリーター)だったかもしれない。自分の意思というより、なりゆきで無職を脱出しただけだ。


 今にしておもうと「就職なんてもっと気軽に考えればいいのに」とか「だめだったらすぐ転職すればいい。さほどブラックじゃない会社なんていくらでもある」とか「会社との相性なんて入ってみないとわからないんだから、すぐ辞めたっていい」とか「『新卒で少なくとも三年は続けないと次がない』とかあれ完全にウソだから」とかわかるんだけど、当時は就職って一世一代の大勝負だったんだよなあ。まだ終身雇用制というフィクションがぎりぎり信じられていた時代だったし。

 無職だった期間はたしかに何も生まなかったけど、あれはたしかにぼくにとっては必要な期間だった。あのときのぼくは、どの会社に入社していたとしても、きっとすぐに辞めていただろう。
 そこそこ経済的に恵まれた実家を持ち、自分の能力を過信していたぼくが働けるようになるには、「無職のつらさ」を一定期間味わう必要があったのだ



 若い人が無職でいることは、損だ。
 当人や家族にとってはもちろん、国全体にとっても。
 ずっと仕事をせずに将来生活保護を受けるのと、働いて毎年税金を納めてくれるのでは、国家の財政にとって、ひとりにつき数億円の違いがある。
 ということは、無職でいる若者を職場復帰させるためなら一人につき一億円かけても(長期的には)損じゃないということだ。どんどん税金を使って救済したほうがいい。

「働け。やる気になればなんでもできる。選ばなければ仕事なんていくらでもある」と口を出して金を出さないのは馬鹿のやることだ。言う側がすっきりするだけだ。
 「無職期間の長い人を○年以上雇用した会社には五百万円の助成金をあげます」とかやったほうがいい。安いもんだ。(そうすると助成金欲しさのブラック企業が数年雇ってその後はひどい扱いをして切り捨てたりするだろうからそんな単純な話ではないだろうが)

 ところが、政府の就業支援は貧弱だ。まるで目先の収支しか考えていないかのように。
 就業支援は、「個人の責任」「家族の支援」に依存している部分が大きい。自助、共助が好きで公助が嫌いなこの国らしい。

 日本は、家族を最小単位として捉え、個人の状況は個人のものとしてみることが少ない。欧州の支援者に聞くと、若者が困窮している状況にあれば、親がどれほど経済的に恵まれていても、若者は必要な支援を受けることができるという。家庭の所得や親子間の関係性に左右されない支援の枠組みが整っている。
 彼の事例を見る限りにおいて、私たち個人がどのような状態になっても最低限の住環境が保証されるセーフティネットが張られていないことそのものが社会的なリスクではないだろうか。

 最近も生活保護受給にあたり、親戚の経済状況を確認するかどうかが話題になっていたが、大人の生活を考えるのに「実家にお金があるか」なんてまったく考える必要がないよね。みんながみんな実家に頼れるわけじゃないし。

 働けない若者を支援するのは、国のためにもなるんだからどんどん支援したらいい。


 この本の筆者の一人でもある、NPO法人育て上げネットの理事長、工藤啓は、「日本の公的機関には、青年や若者を専門に担当する部署がなかった」と指摘してきた。
 社会経済的状況の変化のなかで、半ば場当たり的に、支援対象を拡充してきたものの、日本の場合、長く日本型経営のような珍しい大量採用の習慣に支えられたこともあって、若年世代は失業率も低く、主要な弱者として認識しにくい存在であった。
 そのため、顕著な支援対象として認知されておらず、支援に特化した担当課も存在しなかったのだ。
 若年無業に関する言説が顕著に増加したのは、2000年代以後のことである。非正規雇用の増加や「ひきこもり」や「ニート」という言葉をメディアで目にする機会も増えていった。また経済状況の低迷の煽りを受けて、若年世代の失業率や非正規雇用率もじわりと上昇するようになった。2010年代に入って、若年世代の非正規雇用率は3割を超えるようになっている。

 さすがに昔ほどではないが、やっぱり今でも「働かないのは甘え。仕事なんて選ばなければいくらでもある」論が幅を利かせてるもんね。そりゃあ「命や精神を削る仕事でも、ギリギリ食っていけるぐらいの収入しかない仕事でもいいから働きたい」ってんなら仕事はあるけどさ。それって「その気になれば土でも石でも食える」ってのと同じぐらいの暴論だよね。
 いい暮らしをするために働くのに、働くためにいい暮らしを捨ててどうすんだよ。


 ぼくは無職として過ごした時間があったおかげで、今はそれなりに働いて子育てもして、人並みに暮らしている。無職だった時間はぼくにとって必要な時間だった。

 赤ちゃんの時期は何も生みださないし周囲の手も煩わせるけど、赤ちゃんの時期をすっとばしていきなり大人になれるわけじゃない。大きくなるために必要な期間だ。
 同じように、ある人たちにとっては「何もしない期間」も人生において必ず必要な期間だという認識が広まってくれればいいな。

 運よく何もしない期間を経ずに社会人になれた人にはなかなか理解されないんだけど。


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