2019年12月27日金曜日

2019年に読んだ本 マイ・ベスト12

2019年に読んだ本は100冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。でも今年はノンフィクション多め。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』


感想はこちら

アメリカの奴隷制度のことを歴史の教科書を読んで知っていた……つもりになっていた。 でもぜんぜん知らなかったのだと教えてくれた本。

本当の奴隷の生活を知った今となっては軽々しく「まるで奴隷のようだ」なんて使う気になれない。
ごくふつうの社会人であり家庭人であった人が奴隷に対してはとんでもなく残忍な仕打ちをする。人間は(おそらくぼく自身も)置かれた環境によってこんなにも残酷になれるのかと背筋が凍った。


文部省『民主主義』

感想はこちら

昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。

現在、政府与党はルールをねじまげ、隠蔽を重ね、民主主義をぶっ壊そうとしている。こうなる未来を予見していたかのような官僚の言葉。

当時の官僚は立派だったんだなあ。今の腐敗しきっている政府に手を貸している官僚は全員これを読んで反省しろ。反省しないやつは社会のゴミクズだからすぐ現世から卒業しろ。いやほんとに。


小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

感想はこちら

長年、オンチであることをコンプレックスに感じていたぼくは、この本を読んで救われた。

音楽の先生ってみんな子どもの頃から苦労せずに音程をとれた人だから、オンチの人の気持ちがわからないんだよね。そしてちゃんとした指導もしない。 「音がずれてるよ」と言うだけ。どうやったら正しい音がとれるのか、具体的な方法は何一つ示さない。
ぼくは今でもオンチだけど、オンチとはどういう状態なのか、どういうトレーニングをすれば克服できるのかがわかっただけでもずいぶん気持ちが楽になった。


西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

感想はこちら

ほぼ著者の実体験であろう私小説。
見事なまでのクズっぷりでかえってすがすがしいぐらい。自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱いたり。ラスコリーニコフかよ。

しかしこの本を読んでいると「己の中の北町寛多」に否が応でも向き合わされる。怠惰で、嫉妬深くて、小ずるくて、身勝手きわまりない自分に。おもしろいけどつらい。


トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

感想はこちら

真実を明らかにするために、自らの健康や、ときには命をも賭けた人たちの記録。
毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。

が、そんなクレイジーたちのおかげで今の我々の安全で快適な生活がある。いろんな意味で「ようやるわ」と言いたくなった。


トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

感想はこちら

トースターをゼロから作るために、鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

もう説明不要。ただただおもしろい。


福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

感想はこちら

ウイグル人たちがどんな残酷な目に遭っているか、のレポート。

もうすぐ世界一の経済大国になろうかという国(しかも国連の常任理事国)の中でこんなことが起こっているとはにわかに信じがたい。21世紀の世の中で。

そしていちばんの問題は、(日本も含めて)ほとんどの国がウイグル問題を知りながら見て見ぬふりを決めこんでいるということ。なぜなら中国が軍事的にも経済的にも大国だから。
対岸の火事じゃないよ、ほんとに。



フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

感想はこちら

「Yes/No」で答えられる質問を出したところ、大半の人の正答率はチンパンジーといっしょ、つまり50%前後だった。
ところが明らかに高い正解率を出す人たちがいる。

自分の正しさを常に疑う、思想信条に従って予測しない、過去の予測の検証をくりかえす、こういう人たちの未来予測は的中しやすい。
……つまりほとんどの政治家やコメンテーターたちとは正反対の人たちだよね。


島 泰三『はだかの起原』

感想はこちら

「なぜ人類は体毛に覆われていないのか」というお話。
保温、保湿、防水、外からの攻撃を守るなど様々なメリットのある毛。なのに人類にはない。
謎を解き明かすためにいろんな仮説をつぶしていく過程はすごく刺激的だった。

……そしてそれ以上に刺激的だったのが、著者の悪口。他の研究者のことをけちょんけちょんに書いている。主張はもちろん人間性まで全否定。

主張のおもしろさと悪口のおもしろさで合わせ技一本の入賞。


今村 夏子『こちらあみ子』

感想はこちら

とにかくすごい小説。圧倒された。

「好きじゃ」
「殺す」
の応酬のすごみたるや。
別世界の住人とおもっていた人の人生を追体験させてくれた。


デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

感想はこちら

いいニュースと悪いニュースがある。
戦場における人間の行動を調査したところ、ほとんどの人間は敵を殺そうとしないことがわかった。人間は基本的に人を殺したくないのだ。それが戦うべき敵であっても。これがいいニュース。

悪いニュースは「人を殺したくない」という気持ちを取り払うために、軍があの手この手で兵士を教育(というかほぼ洗脳)していること。その取り組みは効果を上げて、近代の戦争では大半の兵士が躊躇なく引き金をひけるようになっているらしい。


ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

感想はこちら

こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。


来年もおもしろい本に出会えますように……。


【関連記事】

2018年に読んだ本 マイ・ベスト12

2017年に読んだ本 マイ・ベスト12



 その他の読書感想文はこちら


2019年12月26日木曜日

【読書感想文】森羅万象1,700円 / ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

人類が知っていることすべての短い歴史

ビル=ブライソン (著)  楡井 浩一 (訳)

内容(e-honより)
こんな本が小学生時代にあれば…。宿題やテストのためだけに丸暗記した、あの用語や数字が、たっぷりのユーモアとともにいきいきと蘇る。ビッグバンの秘密から、あらゆる物質を形作る原子の成り立ち、地球の誕生、生命の発生、そして人類の登場まで―。科学を退屈から救い出した隠れた名著が待望の文庫化。137億年を1000ページで学ぶ、前代未聞の“宇宙史”、ここに登場。

宇宙はどうやってできたか、地球の大きさはどれぐらいか、地球の年齢は何歳か、原子や素粒子の世界はどんな法則で動いているのか、地震や噴火は予想できるのか、生命はどうやって誕生したのか、人類はどう進化してきたのか。
そして、それらの謎を解き明かすために科学者たちがどのような取り組みを続けてきたのか。

といったことを上下巻二冊に収めている。文庫にしては分量はちょっと多いが、それ以上に内容は重厚。全二十巻の本を読んだぐらいの読みごたえがあった。
それでいて、文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。いやあ、いい本だ。ほんとに中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。
 というわけで、無から、わたしたちの宇宙は始まる。
 目のくらむようなただ一回の脈動、言葉では表現できない速さと広がりを伴う栄光の一瞬を経て、特異点は天空に容積を、概念ではとらえられない空間を獲得する。この強烈な最初の一秒(多くの宇宙学者がその詳細に分け入ろうとしてキャリアを捧げる)で、重力が、そして物理法則を支配するほかのすべての力が作られる。一分足らずで宇宙はとてつもない大きさに広がり、さらに高速で成長を続けていく。大量の熱が生まれた後、百億度まで下がり核反応を引き起こすのに十分な温度に達して、比較的軽い元素──おもに水素とヘリウム、それに少量(原子一億個につき一個)のリチウム──が発生する。三分後には、現在、存在する、もしくは今後、存在が確認される、あらゆる物質の九八パーセントがすでに生成されている。宇宙の誕生だ。そこはこの上ない不可思議さと愉快な可能性を秘めた場所。そして美しい場所だ。しかもサンドウィッチをこしらえるぐらいの時間でできあがる。
最初の宇宙誕生の説明でもう強烈なパンチを喰らう。
一秒で重力が作られる。数分で(サンドウィッチをこしらえるぐらいの時間で)宇宙のあらゆる物質のほとんどが誕生する。
この文章を読むだけでくらくらする。

「宇宙はどうやってできたのか」なんて、もう人間が一生かけても追求しきれないテーマじゃない。
それがこれだけの文章に凝縮されてるんだよ。密度がすごい。ブラックホールか。

ぼくは宇宙にロマンを感じない人間なんだけど、次から次にくりだされるとんでもないスケールの話を読んでいるとただただ圧倒されて、まるで宇宙空間に連れていかれたような気分になる。



読めば読むほど、地球ができて、生物が誕生して、哺乳類が生まれて、そこからヒトへと進化して、絶滅せずに生き残って、こうして文明を築いているのってほんとに奇跡の連続なのだとしみじみおもう。
生まれてきたことに感謝、生きているだけですばらしいとクサいことを言いたくなる。
 一九七八年、マイケル・ハートなる宇宙物理学者が計算を行ない、地球が今よりほんの一パーセント太陽から離れるか、五パーセント接近しているかしていたら、居住不可能だったと結論づけた。ごく狭い幅であり、実際、それは狭すぎた。以来、計算の精度が上がって、もう少しゆるやかな数値五パーセント近づき、一五パーセント遠ざかるあたりまでが精確な居住可能圏とされた――になったが、それでも、狭い地帯には違いない。
 どのくらい狭いか理解するためには、金星を見るといい。金星は、地球より四千万キロ太陽に近いだけだ。その熱が到達する時間差は、わずかに二分。大きさと構成要素において、金星は地球に非常に似ている。が、軌道における小さな違いがあらゆる違いにつながった。太陽系ができて間もないころ、金星は地球よりほんの少し暖かいだけで、おそらく海洋も有していたらしい。しかし、その数度の余分の熱のため、表面の水を保つことができなくなり、環境に悲惨な影響がもたらされた。水が蒸発して、水素原子が宇宙に逃げ、酸素原子は炭素と結びついて、温室効果ガスである二酸化炭素の濃いガス体を形成する。金星は息ができなくなった。わたしと同年代の人なら、金星のこんもりした雲の下には生物が潜んでいるかもしれない、もしかしたら、熱帯植物だって茂っているかもしれないと天文学者たちが期待した時代のことを思い出すだろうが、今では、わたしたちが常識的に考えつくどんな生物にも、きびしすぎる環境であることがわかっている。
地球が生物の棲める環境になったのはすごい確率の偶然が重なった結果だけど、しかし宇宙はそんな奇跡が十分起こりうるぐらい広大なのだ。
銀河には1000億から4000億ぐらいの星があり、そんな銀河が他にも1400億ぐらいあるそうなのだ。うへー。

ってことで、理論上は宇宙のどこかには地球の他にも生物が誕生する星はちょこちょこあるみたい。
とはいえ光に近い速さで移動したとしても寿命がつきる前にたどりつける距離にはまずいない。
ということで「宇宙人がいるか?」という問いに対する答えは、「たぶんいるけど地球人が遭遇する可能性はほぼない」だ。ロマンはあるけど会えなかったらいても意味ないよなー。



かなり平易な文章で書かれているので「科学系の本を読むのが好き」レベルのぼくでもわかりやすかったのだが、量子力学のくだりだけはまったく理解不能だった。
いや書いてあることはわかるんだけど。でもまったく納得ができない。
 要するに、相反する前提にもとづいていながら同じ結果をもたらすふたつの理論が、物理学界に登場したのだ。これはありえない状況だった。
 最終的には、一九二七年、ハイゼンベルクが画期的な折衷案を思いつき、量子力学として知られるようになる新たな規律を生み出した。その中心にある“ハイゼンベルクの不確定性原理”によると、電子は粒子なのだが、波に置き換えて描写することも可能な粒子だという。理論構築の中心に据えられた不確定性とは、電子が空間を抜けて動く際にとる経路か、ある瞬間に電子が存在する場所か、どちらかを知ることは可能でも、その両方を知ることは不可能とする理論だ。一方を計測しようと試みれば、どうしても他方を妨害してしまう。この問題は、単にもっと精密な機器があれば解決するというわけではない。それは、宇宙の不変の特性なのだ。
 つまり事実上、電子が特定の瞬間に存在する場所は、けっして予測できない。できるのは、存在する見込みの高い場所を列挙することだけだ。ある意味で、デニス・オーヴァバイが述べたように、電子は確認できるまで存在しないと言ってもいい。あるいは少し見かたを変えて、電子は確認できるまで「どこにでも存在すると同時に、とこにも存在しない」と考えるべきかもしれない。
電子は規律ある法則に基づいて動いているのに、その場所を予測できないというのだ。それは現時点での観測技術や理論が未成熟だからというわけではなく、もう絶対に不可能。

ん? そんなことってあるか? 法則がわかれば電子がどこにあるかは理論上特定できるはずじゃないの? と素人はおもうんだけど。

物理学者のファインマンは「小さな世界の物質は、大きな世界の物質とはまるで異なる動きをする」との言葉を残したらしい。
微小な世界のための量子論と広大な宇宙のための相対性理論はまったく別個の体系で動いている。相対性理論は素粒子のレベルにはまったく影響を及ぼさない。だと。

なんで? 「家庭の決まりと国家の法律は完全に独立していて、国家の法律は家庭の決まりに一切影響を及ぼさない」だったら明らかにおかしいじゃん。家庭のルールが法律にまったく影響を受けないわけないじゃない。内包されてるんだから。
……とおもっちゃうぐらいに素人なので、ここは何遍読んでも納得できない。



いやほんとどこをとってもおもしろい。
宇宙も原子も地球の構造も生物の進化も細胞も全部おもしろい。
 しかし、いったん進化が軌道に乗ると、哺乳類は驚異的な――ときには、不合理なまでの勢いで―発展を遂げた。一時は、犀(さい)の大きさのモルモットだの、二階建て家屋の大きさの犀だのが存在していた。捕食連鎖に空白が生じると必ず、哺乳類が(文字通り)身を起こしてその空白を埋めた。南米に移住した大昔のアライグマ科動物は、捕食連鎖の空白を発見して、熊ほどの体型と獰猛性を備えた生物へと進化した。鳥類も、不釣合いなほど繁栄した。数百万年ものあいだ、北米で最も獰猛な生物は、タイタニスという肉食の飛べない巨鳥だったと考えられている。この巨鳥が史上最高に恐ろしい鳥だったことは間違いない。体長は約三メートル、体重は三百六十キロ以上あり、気に入らない相手の首を楽々と食いちぎれるほどのくちばしを持っていた。この科の生物は、周囲を脅かしながら五千万年生き延びたが、それでも、一九六三年にフロリダ州で骨が発見されるまで、その存在についてはまったく知られていなかった。
こんなことがさらっと書いてあるけど、夢が膨らむよね。
サイの大きさのモルモット、クマみたいにでかくて凶暴なアライグマ、360kgの身体で相手を食いちぎる巨長……。
ほとんどSFの世界だ。人間が想像するような生物はだいたい過去に存在したんじゃないかと思わされる。
「5つの眼がある生物」なんてのもいたらしい。こんなのも空想の範疇をを超えてるよね。ぼくらが空想できるのはせいぜい三つ目とか偶数個の眼を持つ生物ぐらいだもんね。なんで半端な5個なんだよ。


随所に散りばめられている科学者たちの逸話も楽しい。
 シャップにも増してつきに見放されていたのがギョーム・ル・ジャンティーユだ。この天文学者の経験については、ティモシー・フェリスが著書『銀河の時代──宇宙論博物誌』に鮮やかにまとめている。ル・ジャンティーユは金星の通過をインドから観測するために、フランスを一年前に出発したのだが、いろいろな支障が生じて、太陽面通過の当日にはまだ海の上にいた──揺れる船上では、ぐらつかずに計測できる見込みなどないから、最悪の観測地点といえた。
 ル・ジャンティーユはめげずにそのままインドの土を踏み、現地で次の一七六九年の金星通過を待った。準備期間が八年あったので、第一級の観測台を建て、機器を幾度もテストし、万全の準備態勢で二度めの金星通過の日を迎えた。一七六九年六月四日の朝、目覚めたときは晴天だった。ところが、ちょうど金星が太陽の前を横切り始めたころ、ひとひらの雲がするすると太陽を覆ったかと思うと、ほぼ通過時間の三時間十四分七秒のあいだじゅう、そこに居坐ったのだった。
 落胆を胸に、ル・ジャンティーユは機器を荷造りし、最寄りの港に向かったが、途中で赤痢にかかって一年近くも臥せってしまう。まだ衰弱している体にむち打って、それでもようやく船に乗り込んだ。船はアフリカ沖でハリケーンにぶつかり、すんでのところで遭難しそうになる。やっとのことで帰り着き、家を出てから十一年半、何も達成できないままに戻ってみると、留守のあいだに彼が死んだと決めつけた親戚たちが、土地財産をすべて山分けしたあとだった。

金星の太陽面通過を観測するためにフランスからインドに行ったらいろんな不運に恵まれて帰るまでに11年半(しかも悪天候のため観測できず)、帰ったら財産がなくなっていた……。

ひー。なんてかわいそうな人なんだ。この人の生涯だけで一冊の本になる。
トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』を思いだした。いつの世にも、科学のために命も生活も家族も名誉も財産も犠牲にする人たちがいるんだなあ。
彼らをばかだと嗤うのはかんたんだけど、彼らの献身がなければ科学の発展はなかったのだ。



長くなりすぎたのでこのへんにしとくけど、
「カンブリア爆発で生物が爆発的に誕生したわけではない(カンブリア紀に化石化しやすい体になっただけ)」
とか
「カメが地球上で覇権をとりそうになった」
とか、紹介したいことはいっぱいある。

でも書ききれないからこの本を読んでとしか言いようがない。
こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

最後まで読んだ後に『人類が知っていることすべての短い歴史』というタイトルを改めて見ると、つくづく我々は自分たちの棲むこの世界のことをわかっているようでぜんぜんわかっていないんだなあと感じ入る。


【関連記事】

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

【読書感想文】偉大なるバカに感謝 / トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

【読書感想文】原爆開発は理系の合宿/R.P.ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』



 その他の読書感想文はこちら


2019年12月25日水曜日

寝具の魅力

娘たちとの遊び。

よく娘たちと寝室であそぶ。
ぼくに課せられた使命は、妻が料理をしている間、キッチンに次女(一歳)を近づけないこと。
包丁、火、熱湯、熱々のグリル、落ちた食べ物。そういったものから、なんでもさわりたい、なんでも食べたい年頃の次女を遠ざけることが求められている。
そこで、キッチンから遠い寝室で遊ぶことになる。

最近よくやるのは、布団とマットを組み合わせてすべりだいやテントやトンネルや船をつくるという遊びだ。
長女(六歳)はもちろん大はしゃぎだし、最近すべりだいをすべれるようになった次女も楽しんでいる。よたよたしながら坂(マット)をのぼり、すべりだい(マット)をすべり、テント(マット)に出入りし、トンネル(マット)をくぐり、船(マット)の上で歓喜の声をあげる。もうぜいぜいはあはあ言いながら遊んでいる。
あとは、ぼくが娘たちを布団の上に放りなげたり、マットの坂道に乗せて転がしたり、どったんばったん遊んでいる。



ぼくも子どもの頃、寝室で遊ぶのが好きだった。
一歳上の姉と、ベッドをトランポリンにしたり、枕を投げたり、布団の上で逆立ちをしたり、押し入れに入ったりして遊んでいた。
子どもはみんな寝室で遊ぶのが好きだ。

寝具というのは特別な魅力がある。
寝具を見ていると、ついつい飛びこみたくなる。どったんばったん遊びたくなる。

子どもだけでない。大人も同じだ。
家具売場のベッドを見るとついつい乗りたくなる。じっさいに腰をかける人も多い。さすがに飛び乗ったりする大人はまずいないが、本音はみんなやりたいはずだ。ぼくもやりたい。ウォーターベッドなんかたまらん。あんなとこにダイブしたらめちゃくちゃ愉しいだろうな。ぽよんぽよん弾んでみたいな。

ぼくが大金持ちになったら、でっかい部屋にキングサイズのベッドを三つ並べて、その上にとびきり弾力のあるマットとふかふかの布団を敷いてぴょんぴょん跳びはねるんだー!

あと押し入れの中に電灯と本とパソコンを持ちこんで秘密の書斎もつくるんだー!(それは今でもやろうとおもえばできる)


2019年12月24日火曜日

14 ÷ 4 =?


「いちご14個を家族4人で分けます。1人あたりのいちごは何個でしょう」

算数だったら正解は
「3あまり2」
「3.5」
「3と1/2」
のいずれかになる。

が。
現実にはたぶんそのどれでもない。

「1人が3個ずつ食べてからじゃんけんをして、勝った2人がもう1個ずつ食べる」
「おかあさんが『2個でいいわ』と言ったので、残りの3人が4個ずつ食べる」
みたいなことになる。

算数だと「3あまり2」だけど、現実にはまずいちごはあまらない。
「平等を期すために3個ずつ食べて、余った2個は捨てよう」とはならない。
「2つはナイフで2等分して、3.5個ずつ食べよう」ともならない。
みかんなら分割するかもしれないけど、イチゴを分割して食べる家庭はほとんどない。


だから同じ「14 ÷ 4 =?」という問題であっても、

「長さ14メートルのロープで1辺1メートルの正方形を囲うといくつ囲える?」
の場合は
「3個囲って2メートル余る」から
答えは「3あまり2」で、

「14個のみかんを四つ子が分けると1人いくつ?」
だったら
「1人3個ずつ。残る2つは2等分」だから
答えは「3.5」になるし、

「いちご14個をおとうさん、おかあさん、子ども2人で分けるとき、子どもはいくつ食べられる?」
なら
「両親、またはおかあさんが遠慮するだろうから子どもは4個食べられる」で
「4」が正解だよね。

2019年12月23日月曜日

M-1グランプリ2019の感想 ~原点回帰への祝福~

M-1グランプリ2019の感想。

ここ数年(というかこのブログでは)感想を書いていなかったんだけど、今年はいろいろおもうところがあったので。
そのおもうところは後で書くとして、まずは各ネタの感想を。



ニューヨーク (ラブソング)


今年のM-1グランプリはおもしろかったという声が多かったが、その最大の立役者は彼らだとおもう。殊勲賞をあげたい。というか個人的にはネタもめちゃくちゃおもしろかった。

歌ネタということでポップで楽しく、それでいて持ち味のどす黒い偏見や悪意がさりげなく散りばめられているネタ。
トップとして満点だった。
もともと彼らの悪意に満ちたネタは大好きだったんだけど、こういう大会には不向きだろうともおもっていた。
だがこのネタでは「自作の歌」にツッコむ、という形をとることでその嫌らしさをうまく隠すことに成功した。ほんとの悪意は安易な作詞をするミュージシャンだったりそれに共感する女性だったりに向いているのだが、表面的には嶋佐個人が攻撃されているように見えるのでバレにくい。
また「『100万回』って言っときゃ喜ぶ」みたいなさりげない悪意を撒きちらしながら、それを後からボケに活かしているところなどはつくづく見事。ただの悪口が笑える悪口になった。

間奏をつくってその間にまとめてツッコむところなんかほんとに感心した。昔、銀シャリが「いっぺんにボケて後からまとめてツッコむ」という形の漫才をよくやっていたけど、同じことでも歌に乗せればまとめてツッコむ必然性が生まれて違和感なく聞ける。

ネタ、テクニックともにハイレベル。個人的には2位ぐらい。
なんでこれが最下位なんだよ!



かまいたち (UFJとUSJ)


いやあすごい。UFJとUSJをまちがえるってめちゃくちゃしょうもない題材だよ。他の芸人なら1秒でボツにするぐらいの。それを発端にあそこまでのネタに仕上げるってとんでもない技術だよね。表現も多彩、緩急も自在でぜんぜん飽きさせないし。
芸歴数十年のコンビを入れても、今いちばん腕のある漫才師じゃないかな。

めちゃくちゃおもしろくてめちゃくちゃうまくて非の打ち所がひとつもなくて、でもだからこそ「もう君たちM-1出なくていいやん」って思っちゃうんだよね。知名度もあるわけだし。藤井聡太棋士が全国高校生将棋コンクールに出てきたみたいな感じというか。もう優勝しても得られるものほとんどないでしょ。



和牛 (不動産屋の内見)


コントへの導入が見事だよね。
台詞の途中でいつの間にか不動産屋に変わっているというボケで軽く笑いもとりつつ、スピーディーかつスムーズにコントに入る。

とはいえネタは、ボケがほぼ2パターン(「住んでる」と「事故物件を喜ぶ」)なので、ちょっと物足りない。
コントへの入り方とか、ツッコミがいつのまにかボケになるとか、動きのおもしろさも見せるとか、テクニックでいえばまちがいなくトップなんだけど。
どうしても過去の和牛と比べちゃうんだよね。2018年のオレオレ詐欺ネタと比べると、ねえ……。

ところで敗者復活戦も観ていたのだが、敗者復活戦ではやらなかった細かいボケがいくつか足されていた。たった数時間の間に。
たぶん、敗者復活は時間オーバーに厳しい(強制終了になる)から削っていた台詞を、時間制限のゆるい決勝戦で足してきたんだろうね。測ってないけど、決勝はけっこう時間オーバーしてたんじゃないかな。
そのへんのしたたかさも含めてさすが。



すゑひろがりず (合コン)


おもしろいし笑ったし大好きなんだけど、基本的には言い換えのおもしろさの一点勝負なので、そこまで評価されないだろうなあとおもっていたら意外と点数が高かったので驚いた。
発想自体は第1回キングオブコントでチョコレートプラネットが披露していた「ゴルゴンコンパリオン」だったり、関西ローカルで武将様(ミサイルマン岩部)がやっている「戦国でやっていたシリーズ」だったりとほぼ同じで、とりたてて目新しいものはない。
とはいえ間の取り方や鼓の打ち方扇子の広げ方、表情にいたるまでどこをとってもよくできていて(本物に近いというより我々の頭の中にある「能や狂言ってこんな感じ」という雑なイメージにぴったり)、どんなくだらないことでも継続って大事だなあと感じ入る。

鼓の音を聞いただけで笑っちゃうんだけどもうDNAレベルで何か刻まれているとしかおもえない。たぶんどんなにふつうのことを言っても鼓をぽんと打つだけで笑っちゃうんじゃないかな。

このコンビに関しては決勝進出しただけで大勝利だよね。




からし蓮根 (教習所)


関西賞レースの常連なので何度もネタを観たのだが、どうもぼくの好みからは外れている。何が悪いというわけじゃないんだけど、新しさを感じないんだよなあ。

このネタに関しても、ボケる → ツッコむ → 終わり。またボケる → ツッコむ → 終わり。という流れが単調で、深みがない。ツッコミを受けてさらにボケる、それをさらに広げて……みたいな転がってゆく展開がぼくは好きなので。

生徒がバックで逃げるという盛り上がるシーンをラストにもってくる構成は好き。
でも、そのために「教官が生徒を残して車を降りる」というリアリティに欠けるストーリーを用意したせいで説得力に欠ける。ディティールを大事にしてほしいなあ。




見取り図 (お互いを褒めあう)


個人的には前回大会のネタのほうが好み。
とはいえ、ずっと圧倒的なツッコミ高ボケ低だったコンビが、ボケが強くなってバランスのとれたコンビになりつつあるのはいいことだ。
これだけ腕のあるツッコミがいるんだから、きれいに整ったボケだけでなく、もっと理不尽なボケを投げつけてもいいんじゃないかとおもう。
せっかく腕のいい板前がいるのに切り身の魚しか料理させないようなもったいなさがある。



ミルクボーイ (コーンフレーク)


今からすごくダサいこと書きますけど、
ぼくはずっと前からミルクボーイおもしろいとおもってたからね!

いやほんとほんと。優勝してからこういうこと言いだすのはめちゃくちゃダサいけど。
去年の記事にも書いてるし。

それからミルクボーイはいつ決勝に行くんだろう。毎年準々決勝止まりなのがふしぎでしかたない。独自性もあるしめちゃくちゃおもしろいのに。元々おもしろかったのにひどい偏見を放りこんでくるようになってさらにおもしろくなった。
近いうちに決勝に行ってくれることを切望する。

とはいえぼくも決勝に行くことは願っていたが優勝するとまではおもっていなかった(今年の決勝進出が決まった後でさえも)。
理論で構築していくタイプのコンビだから、勢いが評価される決勝ではあんまりウケないんじゃないかとおもっていた。

数年前のオールザッツ漫才ではじめて彼らの漫才を観て
「こんなにうまくて新しくておもしろい漫才をするコンビがいるのか!」
と驚き、そう遠くない将来いろんな賞を獲ることになるだろうと期待していたのだが、賞を獲るどころか大会で姿を観ない。
あのネタだけが良かったのか? とおもっていたら、翌年のオールザッツ漫才で『滋賀』のネタを観てもう一度衝撃を受けた。さらにおもしろくなっとる……!
『叔父』『デカビタ』など、どのネタもフォーマットは同じでありながら安定しておもしろい。なのにオールザッツ漫才でしか姿を観ることができない。関西はわりと土日の昼間とかに漫才番組をやっていて若手も出るのだが、ミルクボーイはそこにも出ない。M-1グランプリも準決勝まで行けない。決勝はともかく準決勝に行く実力はあるだろ!
……と他人事ながらずっとほぞを噛む思いをしてきただけに、今回の出場→優勝はちょっと信じられない。当人たちが「こんなことありえない」というリアクションをしていたことにもうなずける。

今回のネタは、客席との一体感も含めて完璧な出来だった。中盤以降は何を言ってもウケる状態。突飛なことを言っているわけではないのにずっとおもしろい。2005年大会のブラックマヨネーズがこんな感じだった。こんなにウケることはもう二度とないんじゃないかとおもえるぐらい。

「おお、ミルクボーイがM-1の決勝でウケてる……!」と万感の思いで観ていたので、肝心のネタの内容はあんまり覚えていない。
予選動画でも観たネタだったけど、何度観てもおもしろいよね。
「あの五角形は自分の得意分野だけで勝負してるからやとおれは睨んでる」「朝の寝ぼけてるときやから食べてられる」「浮かんでくるのは腕を組んだトラの顔だけ」
あれもこれもと話題を詰め込むのではなく、ワンテーマをとことん突き詰めたからこそ出てくる珠玉のフレーズ。
よかったなあ。




オズワルド (先輩との接し方)


由緒正しい東京スタイル、って感じの漫才だった。おぎやはぎのスタイルでPOISON GIRL BANDのシュールなネタをやっている、って印象。

出で立ちや声のトーンにどうしても目が行ってしまうけど、ネタの作りがすごく丁寧だった。寿司だけに。
「理論上は」「国民の意見」などのセンスあふれるフレーズを散りばめながら寿司屋から自然にバッティングセンターに移り、「回転寿司」「高速寿司捨てマシーン」という強いワードへ。うまい。
大会では評価されにくいこのタイプのスタイルにしては大健闘。




インディアンス (おっさん女子)


個人的に、楽しいだけの漫才って好きじゃないんだよねえ。あさましいとか見苦しいとかねたましいとかみじめったらしいとか、そんな負の感情を刺激してくれる笑いが好きなんだよ。

中川家礼二がコメントしていたように、素が見えないせいでずいぶん無理をしてるように感じてしまう。明るさが痛々しい。強弱もないし。
この道の先にはアンタッチャブルという巨人がいて、そこと比べるとボケ・ツッコミとも小粒感がぬぐえない。内面からにじみ出てくるものがないんだよねえ。

そしてネタの導入に無理があった。
「おっさんみたいな彼女っていいよね」が共感を得られないまま話を進めていっちゃったものだから、ずっと入っていけないままだった。時間をかけてでも「おっさん女子がなぜいいか」をプレゼンする丁寧さがあったらなあ。

今回の個人的最下位。



ぺこぱ (タクシー)


予選動画ではじめてこのスタイルを観てそのときはたしかにおもしろかったんだけど、2回目にしてもう飽きてしまった。“型”を壊す笑いだから、これ自身が“型”になってしまったらもうおもしろくないんだよね。
(ついでにいうと壊される“型”っぽい漫才をやっていたのがからし蓮根だとおもう。だからからし蓮根の直後の出番順だったら最高だった)

ぼくはこの人たちのネタを他に観たことないんだけど、このネタを観るだけでも
「ああ苦労していろんなスタイルを模索しつづけた末にたどりついた形なんだろうなあ」
という悲哀が感じられてよかった。しっかり作りこまれたネタなのに、それでも魂の叫びが漏れ聞こえてくるようだった。



【最終決戦】

ぼくが3組選ぶなら、ミルクボーイ、かまいたち、ニューヨーク。
ニューヨーク以外の順位についてはおおむね納得。

ぺこぱ (電車で席を譲る)


彼らにとって不運なことに、1本目最後出番→2本目トップ出番 と2本続けてネタをすることになってしまった。
さっきも書いたように、型を壊すタイプのネタなのでからくりがばれている2本目はただでさえ弱くなるのに、連続出番ということでさすがに飽きてしまった。

とはいえ「キャラ芸人になるしかなかったんだ」などの“魂の叫び”は一本目よりさらに強烈。
人間的魅力は十二分に伝わった。


かまいたち (となりのトトロ)


1本目と同じく、くだらない題材を大きく膨らませる技術は圧巻。
他の芸人だったら
「おれとなりのトトロ一回も見たことないわ~」
「だからどうしてん。おんねん、こういうしょうもない自慢するやつ」
みたいな(学天即がやりそう)、せいぜいあるあるネタのひとつにする程度の題材なのに、それをここまで掘りさげられることに恐れいる。幅が狭い分、深みがとんでもない。
どんなお題をもらっても4分の漫才にできるんじゃないだろうか。

共感しやすい話から宗教っぽい語り口のぞくぞくするボケまで持っていく話術は見事の一言。
ほんと、うますぎて若手ナンバーワン漫才師を決める大会にふさわしくない。



ミルクボーイ (もなか)


何が悪いというわけでもないのになぜか好かれない最中(もなか)、という渋い題材でたっぷり4分間。
技術もあって安定しておもしろいのにずっと売れないミルクボーイの漫才を最中に重ね合わせているんじゃないだろうか。そんな気すらした。それほどまでにこのスタイルに対する執念が感じられた。

ミルクボーイのスタイルは何年も前から完成されていた。「ほな〇〇やないか」「ほな〇〇とちゃうやないか」のくりかえし。数年前からほとんど変わっていない。
どのネタも安定しておもしろい。ちゃんとウケる。でも評価されない。

何年も結果が出なければ限界を感じてスタイルを変えそうなものだ。スタイルを変えたことで新しい道が開ける芸人も多い(たぶんぺこぱもそうだろう)。
だが自分たちのスタイルを信じ、貫いた。そして最高の栄誉を勝ち取った。どちらの姿も美しい。

ミルクボーイは、今年勝てなかったら来年以降勝つのはむずかしかっただろう。
正直、2本目のネタは1本目よりウケていなかったようにおもう。ネタが劣っていたというより新鮮さが落ちていたせいだ。

それでもほとんどの審査員はミルクボーイを評価した。
ぼくが票を入れるなら、やはりミルクボーイに入れたとおもう。
「笑いの量とか技術とか総合的な評価でいえばかまいたちのほうが上。しかしミルクボーイには新しさがあった」
という理由で。
きっと似たような理由で票を入れた審査員もいたはずだ(あとかまいたちは既にキングオブコントの称号を手にしているからもういいだろという気持ちもはたらいたとおもう)。

「その日いちばんおもしろいコンビを決める」という趣旨からいえば、新しさとか過去の実績とかで評価をするのはフェアでないのかもしれない。
けど、それでいいとおもう。M-1グランプリは、同じぐらいのおもしろさであれば、より新しいもの、より陽の当たらないものを照らす大会であってほしいとぼくはおもう。



ぼくが2019年のM-1グランプリを観終わって抱いたのは、ぼくの好きだったM-1グランプリが帰ってきた! という感覚だった。

うまさよりも粗削りでも新しいものを評価する大会、知名度や人気ではなく「なんだかわからないけどおもしろい」を評価する大会、当初のM-1グランプリはそういう大会だった。
まだまだ技術的には下手で全国的な知名度も低かった麒麟、笑い飯、千鳥、南海キャンディーズ、POISON GIRL BANDらを決勝に上げて世に問うてきた大会。
その頃のM-1グランプリは、「今いちばんおもしろい」というよりどっちかといったら「次にいちばんおもしろくなる」コンビを決める大会だった。毎回一組は「こんな漫才観たことない!」とおもわせてくれるコンビがいた。

でも、2006年から2008年ぐらいを潮目にその流れが変わってきた。
既に評価されているもの、技術の高いもの、万人から笑いをとれるもの、そういったものが評価されるようになった。

2015年に復活して芸歴15年まで参加できるようになってからはよりその傾向が強くなった。
トレンディエンジェル、銀シャリ、スーパーマラドーナ、和牛……。復活後のM-1を彩ったコンビたち、そのネタはおもしろいしぼくも好きだが、「なんだこれ!」という驚きは感じなかった。
うまい、達者だ、よくできているネタだ、がんばって稽古したんだろうな、しっかり対策立ててきたんだな。そうおもうことはあっても「こいつら次は何するんだ!?」というわくわく感はなかった。

その流れが再び動きはじめたのは2017年。
和牛、ミキ、かまいたち、スーパーマラドーナといった並みいる“達者な漫才師”を抑え、とろサーモンがチャンピオンに立った。
正直いって、「笑いの量」という点でいえばあの日のとろサーモンはぼくの中では1位ではなかった。
だが何を言いだすかわからない、どこまでが台本でどこからがアドリブかわからない、そういう即興性、破壊力ではダントツの1位だった。
他の出演者が美しい交響曲を聞かせる中、型破りなジャズでその場の聴衆の心をわしづかみにしたのがとろサーモンだった。

そのとき撒かれた種は2018年にも花を咲かせた。
和牛のネタ構成や表現力は見事の一言だった。ジャルジャルの稽古量は圧巻だった。ミキのしゃべりのうまさにはますます磨きがかかっていた。
けれど大会を機に大きく評価を上げたのは独自のスタイルを持ちこんだ霜降り明星であり、トム・ブラウンだった。
うまさよりも新しいものを。その要求は高まりつつあった。もちろん霜降り明星もうまくて達者だったが、何より評価されたのはその革新性だった。

そして2019年。新しさを求める気運は満開の花を咲かせた。
次から次へと披露される新鮮な漫才。
演者の知名度が低かったこともあり、ほとんどのコンビが笑いとともに驚きを届けてくれた。

そうだよ。M-1はこうでなくっちゃ!
一流の商品が高い値札をつけられて並ぶデパートではなく、なんだかわからないけど大化けする可能性を秘めた原石が発掘される蚤の市であってほしいんだよ!


そろそろ芸歴10年までに戻してもいいんじゃないかなあ。

「10年やって準決勝にも行けないやつは才能ないからやめなさいよ」ってのが大会創設の意図だったわけだしさ。



【関連記事】

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理