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2019年9月13日金曜日

スパイおじさんの任務


ぼくはスパイをしている。

こないだ姪(九歳)から
「おっちゃんは何のお仕事してんの?」
と訊かれたので
「ここだけの話だけど……スパイやで」
と小声で答えたのだ。

「嘘やろ?」
 「ほんまやで。でも誰にも言うたらあかんで」
「ぜったい嘘や」
 「なんで嘘やとおもうん?」
「だってぜんぜんスパイっぽくないもん」
 「それがいいねん。黒いスーツでサングラスかけてたりしたらすぐ怪しまれるやん。スパイは人に知られたらあかんから、目立ったらあかんねん」
「じゃあスパイでどんなことをしてんの?」
 「それは家族にも言われへん。スパイの任務は極秘やから」
「誰に雇われてんの?」
 「それも言われへん。依頼人の素性は口が裂けても明かすわけにはいかん。それがスパイの掟なんや」
「……もうええわ」

九歳児にあきれられてしまった。
だがそれでいい。
姪から「いいかげんなおじさん」と思われることこそが、ぼくのほんとの任務なのだから。



子どもの正常な発達において、「いいかげんなおじさん」の存在は欠かせない。

大人なら誰でも知っていることだが、世の中の大人の99%はいいかげんだ。
嘘をつくし、ものを知らないし、見栄を張るし、いばるし、やっかむし、すぐ怠ける。
もちろんぼくもそんな大人のひとりだ。

だが子どもはそんなことを知らない。
大人は絶対的に正しい存在だと勘違いしている。
なんでも知っているし、正しいおこないしかしないし、将来のために今を犠牲にできるし、感情をコントロールできるとおもっている。
だから、そうでない大人(つまり大半の大人)に接したときに怒りを感じる。

「おかあさんは私には厳しいのに妹には甘い!」
「〇〇ちゃんも悪いことをしてたのに先生は私だけ叱った!」
と。

大人からしたらあたりまえの話だ。
他人の行動をぜんぶチェックするなんて不可能だし、かわいい子はひいきしたくなるし、虫の居所が悪ければちょっとしたことで声を荒らげるし、めんどくさければ適当にお茶を濁す。
あたりまえだ。

あなたはまちがっていると子どもから指摘されたら、こう答えるしかない。
「そっすね。そのとおりっす。すんませーん(鼻ホジホジ)」

大人がいいかげんであることの是非を議論しても意味がない。
だって大人がいいかげんなのは厳然たる事実だし、どっちみちそれは変えられないし、憤りを感じている子どもだってそのうちいいかげんな大人になるんだし。

だから大人が子どもにしてあげられることは、
「大人はちゃんとしてないんだよ」
と教えてやることだ。



大人がいいかげんであることを教えるためには、いいかげんな大人と接するのがいちばんてっとりばやい。

けれど、その役目を実行するのは親や教師であってはいけない。

親や教師には、子どもを指導する、教育する、躾ける、といった役目がある。
指導する者がいいかげんな大人であってはならない。

もちろんじっさいには親も教師もいいかげんな大人なわけだが、子どもの前では隠さなくてはならない。
立派な大人のふりをしなくてはならない。
鼻をほじりながら「鼻をほじってはいけません!」と叱っても効果がないからだ。

だから親や教師には、「自分のことを棚に上げる」ことが求められる。
だめなところを見せるのは親や教師以外の大人の仕事なのだ。


だが現代社会において、子どもが親や教師以外の大人と接する機会はあまりに少ない。
そこで、おじさんの出番だ。

内田樹氏はレヴィ=ストロースの論を下敷きに、こう書いている。
だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。
( 内田樹の研究室『親族の基本構造』 )


おじ(レヴィ=ストロースに言わせれば母方の伯叔父)は、ちゃらんぽらんでなければならない。
ばかな大人、だめな大人、いいかげんな大人でなくてはならない。

ありがたいことにも、ぼくの伯父はそういう人だった。
ほらばかり吹いて、卑猥な言葉を口にし、役に立たないことばかり教えてくれる、立派な伯父さん。

おじさんじゃないもの

だからぼくは、姪の前ではちゃんと「ちゃらんぽらんなおじさん」をやるようにしている。
ほらを吹くし、いらぬ世話を焼くし、子どもをからかうし、子ども相手にむきになるし、ごはんをこぼすし、大きな音を立てておならをするし、やりかけたことはすぐに投げだすし、約束は破るし、昼間っからごろごろするようにしている。
それが叔父としての務めだからだ。


だからおじさんがスパイだというのもまったくの嘘ではない。

「子どもに正体を気づかれないように、ちゃらんぽらんなおじさんを演じる」という重大な任務を背負っているのだから。

まったく、おじさんも楽じゃないぜ。


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北杜夫というヘンなおじさん



2019年9月10日火曜日

ポプラ社への愛憎


突然だが、ぼくはポプラ社の本を買わないことにしている。

出来レースで水嶋ヒロに新人賞をとらせて以来、まったく信用していないからだ(これについて語りだすと長くなるのでここでは書かない)。
だから、ちょっと気になる本があっても「ポプラ社」の文字があればぜったいに買わないことにしている。
『KAGEROU』の件で「金になるなら読者の信頼を裏切ってもいい」というあからさまな態度を見せてくれた出版社なので、こちらも信用しないことにしている。

だからポプラ社の文芸書は一切買わないのだが、児童書分野においてはポプラ社はいい本をたくさん出している。
ぼく自身、小学生時代に『ズッコケ三人組』シリーズを読んで読書の喜びを知った人間なので、その点については悔しいけれど認めざるをえない。


六歳になる娘も、やはり『かいけつゾロリ』や『おしりたんてい』シリーズが好きだ。
ぼくとしてはポプラ社にお金を落としたくないが、だからといって娘の読書の楽しみを奪おうとまではおもわない。憎しみの連鎖を子孫の代まで受け継いではいけない。

なので、娘がほしがれば(しぶしぶではあるが)ポプラ社の本も買う。
図鑑などはいろんな出版社が出しているので「こっちのほうがいいよ!」と言って他の出版社のものを買うが、読み物となるとそうはいかない。
『おしりたんてい』や『かいけつゾロリ』や『おばけのアッチ・コッチ・ソッチ』シリーズを買ってやる。


で、おもうのだが、やっぱりこの出版社は好きになれない。
根底に「だましてやろう」という姿勢を感じる。
長期的にファンになってもらうことよりも目先の利益を追い求めているように感じる。

特にひどいのは、『かいけつゾロリ』を前後編に分けるようになったことだ。
いや、分けること自体はべつにいい。

『かいけつゾロリのなぞのおたから大さくせん(前編・後編)』とか
『かいけつゾロリのだ・だ・だ・だいぼうけん!(前編・後編)』とか。
これはべつになんともおもわない。ただストーリーが長いだけだ。

だが、最近は前後編であることを隠して刊行するようになった。

たとえば『かいけつゾロリ なぞのスパイとチョコレート』は物語の途中で終わる。なぞは解かれないまま。
そして『かいけつゾロリ なぞのスパイと100本のバラ』へと続く。

『かいけつゾロリのまほうのランプ〜ッ』も同じく、登場人物がランプの中に閉じこめられたまま唐突に終わってしまい、『かいけつゾロリの大まじんをさがせ!!』につながる。

同じ手法は、
『かいけつゾロリのかいていたんけん』と『かいけつゾロリのちていたんけん』、
『かいけつゾロリ ロボット大さくせん』と『かいけつゾロリ うちゅう大さくせん』でも用いられている。
(めっちゃ読んでるやん!)

『かいけつゾロリ なぞのスパイ(前編)』『かいけつゾロリ なぞのスパイ(後編)』というタイトルにすればいいのに、わざわざわかりづらいタイトルをつける。

なぜ前後編であることを隠して発売するのか。
たぶんこういうことだろう。

ゾロリシリーズは基本的に半年に一冊新刊が出る。
だがタイトルに「前編」がついていると売上が落ちる。「まだ完結しないのか。だったら後編が出たらあわせて買おう」あるいは「長いのはイヤだから一巻で完結するものを買おう」となる客が多いから。

そこで前後編のうちの前編であることを隠す。
タイトルに「前編」という文字を書かない。
当然ながら客は、物語が途中で唐突に終わることを知らずに買う。しかたがないので半年後に後編も買う。

これはぼくの想像だが、かなり真相に近いはずだとおもっている。

そりゃあ売上は上がるだろう。一時的には。
でも前後編であることを知らずに前編だけ読んだ子どもはどうおもうか。消化不良になる。「おもしろかったー!」とはならない。
うちの娘もまんまとだまされて「えっ、もう終わり……?」と戸惑っていた。

「早く続きが読みたいなー。どうなるんだろうなー!」と想像して心待ちにしてくれる子どももいるだろうが、読書に裏切られた気持ちになる子もいる。
こういう、書き手と読み手の信頼関係をぶっこわすようなことをする出版社なのだ、ポプラ社は。

現在子どもたちの間で大人気の『おしりたんてい』は今のところここまでえげつないことはやっていないが、最近刊行された『おしりたんてい ラッキーキャットはだれのてに!』では一部の謎が未消化になったまま終わってしまった。
これが作者の意図するものであればいいのだが、出版社側からの要請でこうなったのであれば、いずれ『かいけつゾロリ』のように読者をだまして目先の売上を稼ぐ手口をとるんじゃないかと心配でならない。


あっ、本屋でやってるおしりたんていなぞときイベントはすごくいいイベントだとおもうよ!
無料で参加できるのにクオリティ高いよね。
娘の友だち連れて全部参加してるよ! みんなすごく楽しんでるよ!

こういう、長期的なファンを獲得する方向にもっと力を入れてほしいとつくづくおもう。


2019年9月9日月曜日

外国語スキルの価値


親戚の子(小学六年生)が、英語の塾に行きだしたそうだ。なんでも自分から英語を学びたいと言いだしたそうだ。

「へー。えらいな」というと、
「将来外国に住んでみたいから」という。

感心だ、とおもう。
ぼくの子どもの頃よりいろんなことを考えているんだろう。

ただ水を差すようで悪いけど、と前置きしてから

「外国に住むというのはいい選択だとおもう。これから先、日本が若い人に暮らしやすい国になっていくことはまずないだろうから。他の国は他の国でそれぞれ暮らしにくさがあるだろうけど、選択肢を多く持っておくに越したことはない。選べるということは大きなアドバンテージになるからね。

 外国に旅行したいから英語を勉強する、というのであれば何の異論もない。けれど外国に住みたいから英語を勉強する、というのは努力の方向が少しずれているようにおもう。
 外国で仕事をしようとおもったら、むしろ英語以外を勉強しなくちゃならない。アメリカに英語が達者な人は掃いて捨てるほどいるが、数学が達者な人はそう多くない。希少なスキルのほうが高く売れるのだから。もちろんそのスキルが求められていることが前提だけど。
 日本で働いている外国人のことをみるといい。大きな会社とかだと、たくさんの外国人が働いている。彼らは決して安くない給料をもらっている。ただ、彼らの中には日本語をまったく話せない人もおおぜいいる。彼らは日本語を話せないけど他のスキルを持っているから高い給料をもらっているんだ。
 逆に、日本語が話せるだけの外国人が日本でどんな仕事に就けるか考えてみよう。かんたんなアルバイトで最低賃金に近い時給をもらえればラッキー、というとこだろう。
 通訳ができるぐらい外国語に長けていますとかの域に達していれば話はべつだけど、そこまでいくのは至難の業だ。はっきりいって小学六年生で英語の塾に通いだすのでは遅すぎる。幼少期に海外で数年暮らしてた、ぐらいでも厳しいだろう。

 それに、これから先、機械翻訳の性能はどんどん向上していく。おそらく君が大人になる頃には日常会話レベルだと機械翻訳でまったく困らないぐらいになっている。ということは、英会話ができることの価値は今後下がっていく一方だ。『そろばんを使うのがうまい』とか『字がきれい』とかと同じような能力になるだろうね。ないよりはあったほうがいいけど、それでお金を稼ぐのは相当むずかしいスキルになる、ということだ。

 英語を学ぶことが無駄だとは言わない。英語学習によって身につくのは英語能力だけではないからね。
 ただ、英語を話せることは海外に移住する上ではあまり重要でないことは知っておいたほうがいい。英語以上に他の勉強をするほうがずっと近道になるとおもうよ」


……と言いたかったんだけど、そんなこと言ってもほとんど伝わらないどころか疎まれるだけだろうなとおもったので何も言いませんでした。おしまい。


2019年9月2日月曜日

女は騒ぎすぎる、男は隠しすぎる


こないだ、娘の友だち(五歳男子)と遊んでいたら、彼がこけて膝から血を出した。
すると彼は目に涙を浮かべ、無言でぐっと痛みをこらえていた。

その姿にぼくは心を打たれた。
なんでいじらしいんだ!



うちの子は女なので、女の子たちといっしょに遊ぶことが多い。
子どもなのでよくこける。ぶつかる。そしてよく泣く。

その泣き方が、ちょっと大げさすぎる。
たしかにこけたのは痛いだろうけど、ちゃんと手をついたし血も出ていない。そこまで痛いか?
「あいててて……」ぐらいで済むレベルじゃない?

完全に言いがかりとしかおもえないときもある。
「〇〇ちゃんに足ふまれたー! いたいー!」と言って五分以上泣きつづけられたりすると、口にこそ出さないが「嘘つけ」と言いたくなる(自分の娘なら口に出す)。

女子の泣き方って大げさすぎやしません?
ちょっとすりむいただけなのに、どてっぱらに銃弾喰らったぐらいの泣き声出すでしょ。
あれは「みんなあたしを見て!」って言ってるだけなんだよね。
「ほらあたしこんなにかわいそうなのよ! みんなしてあたしのご機嫌をとりなさい!」って言ってるんだよね。

ほんと、女の子とサッカー選手は痛がりすぎだ。勘弁してほしい。





じゃあ男子の反応のほうがいいのかというと、男子は男子で別の問題がある。

女子は被害度合いを過大報告するのに対し、男子は過少申告する。

どう見ても大丈夫じゃないときにも「大丈夫、まだ遊べる」と言いはなつ。ケガを隠す。熱があってもしんどくても無理をする。

ぼくもそうだった。
小学生のとき、よくケガをしたことを隠していた。ろくに洗わずに手当もしないから化膿した。傷口がじゅくじゅくになったところで母親に発見され、怒られた。
「どうしてもっと早く言わないの!」

そして「ケガしたことを報告すると怒られる」と誤った学びを得たぼくは、次もまた隠す。化膿する。怒られる……という傷口じゅくじゅくスパイラルに落ちこむのだ。


自分ではおぼえていないが、ぼくは三歳のときに自転車でこけたそうだ。
ぼくがすぐに泣きやんでまた遊びはじめたために、母は大したことないとおもい、放置した。
その晩、ぼくがまったく寝返りを打たず、腕をかばうような動きをしていたため翌日病院に連れていったところ、肘の骨が折れていたそうだ。

骨折していたにもかかわらず、「今遊びたい」という気持ちのほうが痛みを上回ってしまい痛みを隠そうとするのだ。阿呆である。



あくまでぼくの観測範囲の話だが、女子は痛みを大げさに訴えすぎるし、男子は痛みを訴えなさすぎる。


で、大人になってもその傾向は続いているような気がしてならない。

女はちょっとした不具合でも世界の終わりのように大げさに騒ぐし、男は失敗を隠そうとするので失敗が明るみに出たときにはもう取り返しのつかないことになっている……。


2019年8月30日金曜日

今からだとまにあわない! 読書感想文の書き方 ~感想文嫌いの小中学生のために~


やあこんにちは。
君は小学生? それとも中学生かな?

読書感想文の書き方が知りたいんですね。もう大丈夫ですよ。

おっと、ちょっと待った。
今、「なんかこのサイトはあやしいな。他のちゃんとしたとこを見よう」とおもいましたね。

まあそれはそれでまちがいじゃありません。
他のサイトに行くのもいいでしょう。

でも、これだけは言っておきます。
検索結果の上位に出てくるサイトには
「読書感想文を書くにはまず全体の構成を考えましょう」とか
「読書の前と後での心境の変化について表現しましょう」とか、まっとうなことしか書いていません。

君が求めているのはそういうのじゃないよね?
すばらしい読書感想文を書いて全国読書感想文コンクールで入賞しようなんておもってないよね?

ずばり言いましょう、君が知りたいのは「とにかく楽してそれなりの読書感想文を書く方法」ですね?
「宿題の締め切りぎりぎりでも間に合う読書感想文の書き方」ですね?

その答えはここにあります。

わかったらもう少しわたしの話に付きあってください。



まずはわたしの話をします。

なに? 時間がない?
まあまあ、そうあわてないでください。
大丈夫ですよ、宿題の提出が遅れたって怒られるのはわたしじゃないんですから。

わたしは読書感想文の専門家です。
なにしろ学生時代は年に一回のハイペースで読書感想文を書いていたんですから。

なに? 年に一回はふつうだって?

そうです。今のは君の読解力をテストしたんです。
「年に一回って多くないし」とおもった君は、今からでもそれなりの読書感想文を書ける能力がある。
おもわなかった君は……うんそうですね、笑顔の練習でもしたほうがいい。笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習です。
笑顔の相手に対して怒るのは案外むずかしいものです。
全力の笑顔を向けられたら、きっと先生も「おお……そうか……気をつけろよ」ぐらいしか言えないはずです。


何の話でしたっけ。そうだ、自己紹介の続きでしたね。

わたしはごくふつうのサラリーマンです。作家でもなければ書評家でもない。塾の講師でもなければ学校の教師をやった経験もない。
ときどきこうしてひまな時間に、あるいは忙しいはずの時間に趣味のブログを書いているだけのサラリーマンです。

だけど、君にぴったりの読書感想文の書き方を教えることはできる。
なぜか。
それは、わたしが学校の読書感想文とは何の関係もない立場にある人間だからです。

教師や書評家の教える「読書感想文の書き方」は、どれも正しい方法です。
本をしっかりと読みこみ、登場人物の内面や著者の内面にまで思考をめぐらし、己の内面と真摯に向き合い、読書の体験を通して得られた感情の揺れを的確な文字数・文章で表現する。そういった方法です。

私が教える書き方はそうじゃない。
ふだん本を読まない君が、文章を書くことが嫌いな君が、めんどくさがりやの君が、夏休みの宿題をぎりぎりまで溜めこむ君が、あげくにネットで検索して適当にお茶を濁そうとする君が、今も鼻をほじりながらこの文章を読んでいる君が、できるかぎり労力と頭を使わずに書く方法。

これをお伝えします。



読書感想文を書く前に、まず先生の意図について考えてみましょう。
君の学校の先生は、どうして読書感想文なんてめんどくさい宿題を出したんだとおもいますか?

読書の習慣を身につけてほしいから?
気持ちを言語化する練習をしてほしいから?
読書を通して己の内面を深く掘り下げてほしいから?

どれも不正解です。

正解は「先生が何も考えていないから」です。

君は誤解しているかもしれないが、先生は何も考えていません。意図なんてないのです。

他の先生も出しているから。毎年出しているから。
理由はそれだけです。

前例にならうのはいちばん楽な方法です。何も考えなくてすむ。

君がめんどくさいのと同じように、先生もめんどくさいんです。
だから判で押したように読書感想文の宿題を出す。


これはとても大事なことです。
先生もめんどくさい。これをおぼえておいてください。

先生はめんどくさい。
だから君が読書感想文を書いて提出したとしても先生はぜんぜん読まない。だって面倒だから。
ぱらぱらっとめくって、そこそこきれいな文字でそこそこの分量を書いていることが確認できれば、それでよしとする。

とはいえ、まったく読まないわけではありません。
ふだんから国語の成績がよく、大人の喜びそうなことを書いてくれる子の感想文だけはそこそこ時間をかけて読みます。
そして、その中でいちばんマシなものを選んで読書感想文全国コンクールに応募するんです。

つまり。
宿題が出された時点でもう勝負はついているんです。
君たちのような夏休みの終わりになってあわててネットで「読書感想文 書き方」で検索するようなタイプは、読書感想文コンクールのスタートラインにすら立っていないのです。

悔しいですか?

悔しくない? そうでしょう。
ここで悔しさを感じて発奮するような子であれば、ふだんからちゃんと勉強しています。
読書感想文の感想を探してネット検索して、そのついでにネットサーフィンをしたりしません。


君たちが書いた読書感想文は、誰も読まない。

どうですか、気持ちが楽になったでしょう。
どんなに一生懸命書いたって、どうせ誰も読まない。
だったら一生懸命書く必要はない。
一生懸命本を読んだり、しっかりと構成を考えたりする必要もない。

自由に書いてかまわないんです。



とはいえ「自由に書く」のがいちばんむずかしい。
それができる子なら、一ヶ月も前に読書感想文を書き終わっていることでしょう。

だから具体的な書き方を教えます。

まず本を読む。
一冊全部読む。

全部読むのが嫌なら最後の一章だけ読む。なぜなら最後には重要なシーンがあることが多いから。

一部だけ読むのも嫌ならまったく読まなくていい。
表紙や裏表紙を観察する。
どんな絵が描いてあるか、どんなあらすじが書いてあるか、帯にはどんなことが書いてあるか。

で、気に入らない点を探す。
どんな些細なことでもいい。どんな身勝手な理由でもいい。
気に入らないことを探す。

「台詞がキザ」
「説教くさい」
「難しい漢字を使いすぎてて偉そう」
「表紙の絵がさわやかすぎてかえって鼻につく」
「値段が高い」

いくつも見つかりましたね。
そうなんです、他人がやったことにケチをつけるのはかんたんなんです。

現実味のある話であれば「平凡。よくある話」と言えばいいし、
非現実的な話であれば「リアリティに欠ける」と言えばいい。

どんなものにでもケチはつけられます。特別な知識も技能もいりません。
「この歌手、歌へただよな」と言っている人のうち、その歌手より上手にうたえる人がどれぐらいいるでしょうか。ほとんどいないはずです。
でもそれでいいんです。批判はタダですから。

逆に、褒めるのはむずかしい。

ひさしぶりに会った親戚のおばちゃんから「あら~、かっこよくなったわね~」と言われたことがありますね?
かっこよくなったと言われて、君はうれしかったですか?
べつにうれしくないですよね。おばちゃんの褒め方が適当だから。
誰にでもあてはまることをうわっつらだけで言っていることがまるわかりですから。

夏休み明けにひさしぶりに会ったクラスの女子が
「あっ、〇〇くん……。ひさしぶり……。あの、なんていうか……かっこよくなったね……」
と頬を赤らめながら言ってくれたらうれしいですけど、それは発言者・状況・言い方すべてが適切だからです。
誰にでもできることではありません。

でも「おまえきもいな」という言葉を言われたら、どんな発言者でも、どんな状況でも、どんな言い方でも不愉快です。
褒め言葉はなかなか届きませんが、悪口はかんたんに相手に届きます。

悪口のほうが称賛よりもずっとかんたんなんです。


読書感想文を書くのがむずかしいのは、本のいいところを書こうとするからです。
おもしろかったところ、胸を打ったシーン、心に染みるフレーズ、人生の指針となるメッセージ。
そんな「いいところ」をさがして、かつ第三者に的確に伝えるのはすごくむずかしい。
本を全部読んで、書かれていることを正しく理解して、裏に隠れた作者のメッセージ(そんなものがほんとうにあるのかわかりませんが)まで汲みとって、気持ちを整理して、客観的な言葉にして書く必要があります。

けれど「気に入らないところ」ならかんたん。
むずかしい文章、読めない漢字、冗長なシーン、不自然な会話、退屈な結末、不当に高い価格、変に気取ったポーズの著者近影、著者のいけすかない学歴……。

読書が好きじゃない君にも、いや、読書が好きじゃない君だからこそかんたんに気に入らないところを見つけることができるはずです。
あとはそれを原稿用紙に書くだけ。

書き方も自由。
全体の構成なんて気にする必要もありません。どうせ誰も読まないんですから。

おもいついたままに
「〇〇が嫌でした。□□が気に入りませんでした。××がなければもっといいのにとおもいました。△△なところが肌に合いませんでした」
と書けばいいのです。
嫌いな理由もいりません。
「批評」であればどこがどう悪いのかを的確に示す必要がありますが、君たちが書くのは「感想文」です。イヤだからイヤ、これで十分なのです

ただひたすら悪口を書く。
ふだんからインターネットで悪口になれしたしんでいる君にとっては造作もないことでしょう。
そして最後に
「以上のように欠点もあったが、さまざまな感情を喚起してくれるという点では刺激的な本だった。この本に出会えたことを感謝したい。」
と一文つけくわえておけば完成です。

最後の一文はべつになくてもいいのですが、これは自分に対する免罪符のようなものです。
悪口だけで終わってしまうと、「おれってなんて嫌なやつなんだ」と自己嫌悪につながってしまうかもしれません。
最後にとってつけたような感謝の一文を入れて「いろいろイヤなこともいったけど、これは愛情の裏返しなんだよ」と自分に嘘をつくことで、自己嫌悪に陥らずに済むのです。



以上が、読書感想文嫌いの小中学生のための感想文の書き方です。

では最後までお付き合いいただいたみなさん、どうせ今から書いてもまにあわないとおもいますので、笑顔ではきはきと「すみません、宿題忘れました!!!」と言う練習、がんばってください!


2019年8月29日木曜日

芸能オタク


会社に四十歳ぐらいの女性がいるのだが、やたらと芸能人の話をしてくる。
べつにどんな趣味を持ってようと勝手だが、うっとうしいのは「みんなが芸能ニュースに興味を持っている」かのように話をしてくることだ。
「○○が捕まったのショックだよねー」とか「○○と○○が結婚したのびっくりしなかった?」とか。

いや芸能ニュース観てないから知らんし。
っていうかそもそもその芸能人のことすらよく知らんし。
で、「その人よく知らないんですよね……」って言うと「ほら『□□』とか『□□』に出演してたんだけど」と言われる。
いやもっと知らんし!

話が拡がるのも面倒なので適当に「はあ」「あーそうですかー」とか言ってるんだけど、そんなことお構いなしに芸能人の話をしてくる。
こういう人、前の会社にもいた。学生時代のバイト先にもいた。

いや、いいんだよ。
芸能ニュース好きでも。ゴシップ好きでも。ドラマ好きでも。
ただ「自分はオタクである」という自覚を持って慎ましく生きてもらいたい。芸能オタクだと。

オタク同士なら好きなだけ話せばいい。
でも、サークル外の人に話題を押しつけちゃいけない。

ぼくは読書が好きだけど、相手が本好きかどうかわからないのにいきなり「○○が山本周五郎賞とったのどう思います?」とか「○○の新刊、過去作品に比べるといまいちですよねー」とか言ったりしない。

他の趣味を持つ人も同じだとおもう。
カメラ好きもアニメ好きも鉄道好きもアイドル好きも、趣味の話題をするときはちゃんと相手を選ぶ。
相手を選ばないのは、芸能オタクと、「阪神また負けたな」と言ってくるプロ野球好きのおっさんだけだ(後者は絶滅危惧種かもしれない)。

なぜか芸能人好きの多くは、芸能ニュースが一般教養だとおもっている。
「来年東京オリンピックだね」ぐらいの感覚で「蒼井優と山ちゃん結婚するのびっくりだよね」と言ってくるのだ。

ぼくが観測したかぎりでは、「芸能ニュースは一般常識」とおもっているのは例外なく1980年頃までに生まれた女性だ。
みんなが同じ番組を観て盛りあがっていた1990年代で時が止まっているのだ。

いや、トレンディドラマ全盛の頃でも人気ドラマの視聴率はせいぜい20%か30%ぐらいのはず。
当時からドラマを観ているのは少数派だったんだけどなー。なんでみんなが興味を持っているとおもえるんだろ(『おしん』は平均視聴率が50%を超えてたらしいから、『おしん』だけは一般常識だ)。

2019年8月22日木曜日

ちょろいぜ娘


娘のピアノの発表会が近づいてきた。
最近、母娘喧嘩が絶えない。

妻が「練習しよう」と言い、
娘が「もうやったからいい!」と言う。
それが毎日。


発表会は来週。
娘は十回中九回まちがえるのだが「弾けるから大丈夫」という。
十回中一回の奇跡が発表会本番にやってくると信じているのだ。その楽観性、うらやましい。

「まあ幼児のピアノ発表会なんてどんなに下手でも許されるし、むしろちょっとまちがえるぐらいのほうがかわいげがあっていいんじゃない?」
「練習しなくて本番で失敗して悔しい思いをするのもいい経験じゃない?」

とぼくは云うのだが、完璧主義者の妻には「本番でまちがえる」ことが許せないのだ。

理想と現実はちがう



妻からどれだけ練習するように言われても、娘は練習しない。
「もうできるからいいもん」

ぼく自身が叱られてばかりの子だったから、娘の気持ちがよくわかる。
「掃除しなさい」「早くお風呂に入りなさい」「宿題は早めにやっちゃいなさい」耳にたこができるほど言われて育ってきた。
だからわかる。
いくら「練習しなさい」と言われても、練習したくなるわけがない。

妻がぼくに云う。
「ぜんぜん練習してくれなくて困ってるんだけど。どうしたらいいかな」

しかたない。
めんどくさがりやのおとうさんが一肌脱ごう。

「よーし、(娘)がピアノ弾かないからおとうさんがやろーっと!」
そしてピアノの前に座る。
何度か練習しているうちに、それなりに弾けるようになってきた。
「わー、おとうさんもう弾けるようになってきた。(娘)よりうまいわ!」
妻も調子をあわせてくれる。
「ほんと、おとうさん上手だわ。発表会もおとうさんに出てもらおうかな」
「よーしっ、スーツ新調しないとなー!」

ここで娘が近づいてくる。
「ピアノ練習するから代わって」

しめた。かかったぞ。
だがここで焦ってリールを巻いてはいけない。もっと近づけねば。
「だめだめ。おとうさんが練習してるんだから。弾いたらだめ!」
「それわたしのピアノ!」
「でも使ってなかったでしょ。おとうさんが使ってるんだからイヤ!」
娘がぼくを押しのけるようにしてピアノの前に座る。

ぼくは立ち上がり、
「わかった。じゃあ一回だけ弾いてもいいよ。そしたらその後はずーっとおとうさんの番ね」
と云う。
「だめ! ずっと(娘)が弾く!」
「えー。ずるーい!」
と云いながら、内心で舌を出す。ちょろいぜ。




「教えて」作戦も有効だった。
「おとうさんも弾いてみたいから教えて」と娘に頼む。

「練習しなさい」だと反発する娘も、「教えて」と言われると悪い気がしないようだ。
しょうがないな、という感じでピアノの前に座り、
「ここまで弾いたら、五つ数える。で、次はここ。ちがうちがう、ドはおとうさん指で弾くの」
と教えてくれる。先生の真似をしているのだろう。

「ちょっと弾いてみせて」と頼んでみると、
「ちゃんと見といてよ」ともったいをつけて弾いてくれる。

「なるほどー。ありがとう」と云うと、満足そうにしている。
他人に教えることが自分自身の復習になっているということにも気づかずに。ちょろいぜ。





妻がぼくに「おかげで助かった」と云う。

いいってことよ。我ながら、子どもを動かすのがうまいぜ。

ん? 妻の顔が一瞬、ニヤリと笑っているように見える。
だがその笑みはすぐに消えた。
いや、ぼくの気のせいか。

そうだよね。気のせいだよね。
まさか、妻が「夫を動かすなんてちょろいぜ」とおもってるなんてこと、あるわけないよね。


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2019年8月21日水曜日

ジジイは変わる


考えを変えることに対して厳しい人が多い。

特にインターネット上の言論だと、その傾向が強い。
過去の発言や著述をさくっと検索できるようになったからだろう。
「こいつはこんなこと言ってるけど五年前は反対のこと言ってたぜ!」
「それってあなたが以前にした発言と矛盾してますよね?」
なんてことを言う人がいる。

ええじゃないか。
考えが変わっても。

というか、変わるほうがいいでしょ。
たくさん本を読んで、他人の話を聞いて、あれこれ考えてたら、そりゃ考えが変わることもあるでしょ。
本を読むって少なからず自分の考えを変えるための行為でもあるわけだし。


生きていれば、持てる情報も変わるし、置かれた立場も変わる。自分が変わらなくても世界が変わる。

もしも石油がなくなったら原発反対派だって「ある程度は原発に頼らざるをえないよね」って考えになるかもしれないし、原発賛成派だって自宅の横に原発つくるって話になれば「ちょい待てよ」と言いだすだろう。

ぼくだって今は「年寄りに税金を使うな」とおもっているが、いざ自分がジジイになったら「年寄りを大切にしろ!」と言いだす可能性大だ。

自分がどんな立場に置かれても世界がどんなに変化しても主張が変わらないとしたら、それはもう主張というより信仰だ(信仰も往々にして揺らぐものだけど)。もしくは、はじめから何も考えていなかったか。



立場が変われば主張が変わるのも当然だ。
派遣社員だった人が経営者になれば、発言の内容も変わるだろう。

よく戦争反対を唱える人に対して
「敵国が攻めてきて自分の家族が殺されそうになっても同じこと言えるのか?」
なんて言う人がいるけど、そんな詭弁には意味がない。

「だったらあなたは戦争が起こったときはあなたがまっさきに徴兵されて最前線に送りこまれることになっても戦争できる国にしたいとおもいますか?」
と返されたら、そいつはきっと黙ってしまうだろう。

「〇〇になっても同じこと言えるのか?」は愚問だ。なんで異なる状況なのに同じこと言わなきゃいけないんだ。





考え方が変わるのは悪いことではない。いいことかもしれない。
「それってあなたが五年前にした発言と矛盾してますよね?」と言われたら、五年間で自分は成長できたのだと喜びたい。

ただ、変わった原因は自覚しておきたい。
本を読んだから変わったのか、人と会って新しい意見に触れたからなのか、自らの置かれた立場が変わったのか、環境が変わったのか。

そのへんの自覚なく変わるのは、思想をアップデートしたんじゃなくて流されてるだけだとおもうんだよね。
だから自戒を込めて。
油断しているとついつい「はじめからこうおもってましたけど?」って考えちゃうからね。

「ワシが若いころはお年寄りを敬う気持ちを持っておったもんじゃ」とか嘘八百を並べるジジイにならないように。
ちゃんと「若いころはジジババ早く天に召されろ!とおもっててすんませんでした」と言えるジジイになりたいとおもう。

2019年8月20日火曜日

夏休みの自由研究に求めるもの


お盆に実家に帰ったら、小学三年生の姪から「夏休みの宿題の自由研究の書き方を教えてほしい」と頼まれた。

よっしゃよっしゃと引き受けて「大卒学士様の力見せたるわい!」と教えはじめたんだけど、まああれだね。これはストレスフルな作業だね。

姪の中で『飼っているカブトムシの研究』という内容は決まっていたので、まずは姪の話をヒアリング。
「カブトムシはいつから飼ってるの?」
「どうやって捕まえたの?」
「エサは何をいつあげてる?」
「カブトムシAとカブトムシBのちがうところは?」
なんて質問をして、
「じゃあ『カブトムシをどうやって捕まえたか』『飼ってみて気づいたことはなにか』『カブトムシごとの性格の違い』という三部構成で書いてみようか」
と、全体の設計図を引いた。三年生でこの内容なら上出来だろう。


ここまではよかった。

「よし、それじゃあさっそく書いてみようか」
といったものの、姪の鉛筆が進まない。顔にも疲れが見られる。
全体の構成を考えただけで、すっかり疲れているのだ。

ぼくからしたらこんなの準備運動みたいなものでやっとここからがスタートなのだが……。
三年生ってこんなにも集中力がないものなのか。

少しだけ休憩をはさみ、姪は書きはじめる。
見ながら「その漢字ちがうよ」「ぜりーはカタカナで書くんだよ」などと指摘すると、あからさまにイヤそうな顔をされる。
ぼくとしては、表現の不自然さや言い回しのつたなさには目をつぶり、明らかな間違いだけ指摘するように配慮してるつもりなのだが……。

カブトムシの捕まえ方の項では、姪が
「ゼリーを木に塗っておいたら朝カブトムシが集まっていたのをつかまえた」
と書いていたので
「もっと細かく書いたほうが伝わるとおもうよ。『七月下旬の朝六時頃、〇〇神社のクヌギの木の幹に集まっていた』とか。カブトムシの他にどんな虫が集まってたかとか。絵を描いたらもっとわかりやすくなるとおもうよ」
とアドバイスしたのだが、
「いいっ。もう書いちゃったし」
とにべもない。

「でもこれはまだ下書きでしょ。隙間に書きたせばいいじゃない」
と言っても
「もういいの」
と迷惑そうにする。

おい教えてやってるのになんだその態度は、とむっとするが「ふーん、だったらまあいいけど」とぐっとこらえる。
これが他人だったら「もう知らんわ。自分でやれよ」となるだろうし、我が子だったならきっと喧嘩になっている(こちらだけでなく向こうの言い方ももっときつくなるだろう)。



どうにかこうにか自由研究は完成した。

「メスのAちゃんは男好きなのでずっとオスといちゃいちゃしてる」
「オスのBはCちゃんにふられたのに次の日にはAちゃんに近づいていってた」
という、カブトムシの生態よりも各個体の恋愛模様にスポットをあてた『あいのり』『テラスハウス』みたいな研究報告になったけど、それはそれで女子っぽくていい。

完成したときの姪の晴れ晴れとした顔を見て、自分が勘違いしていたことに気づいた。

自由研究に対して求めるものがぼくと姪とではまったくちがったのだ。

ぼくの目的は「文部科学大臣賞を獲れるようなすばらしい自由研究を書いてもらうこと」だったが、姪の目的は「最小限の労力で宿題を終わらせること」だったのだ

そうだった。忘れてた。
ぼくが小学生のときもそういうマインドだった。
とりあえず怒られない程度のレベルのものをできるだけ少ない労力で作れればそれでいい、とおもっていた。
すばらしい自由研究を提出して褒められようなんてこれっぽっちもおもっていなかった。

そうだったそうだった。
小学生ってそうだった。忘れてた。
叔父さんを頼ってくれたのがうれしくて、ついついすばらしいレポートにしてやろうと意気込んでしまった。
そういうの求められてないんだよね。

次に手伝ってくれと頼まれたときは「楽にそれっぽいレポートをしあげるコツ」を教えてあげよう。
おじさん、どっちかっていったらそっちのほうが得意だぜ。



2019年8月19日月曜日

母との対立、父の困惑


娘(六歳)は、おかあさんの云うことを聞かない。

おかあさんに「手を洗ってきて」「早く着替えないと置いていくよ」と云われると、いちいち反発する。
「わかってる!」
「いっぺんに言わんとって!」
「おかあさんだってそんな言い方されたらいややろ!」
「ひとのことは言わんでいい!」
「いま忙しい!」

いちいちつっかかる。それか無視するか。
他の保護者に聞いても、「母と娘」は対立しやすいらしい。


でもおとうさん(ぼく)のいうことには、たいていおとなしく従ってくれる。

理由はいくつかある。
まずぼくのほうが厳しい。おとなげないと言ったほうがいいかもしれない。
「置いていく」といったらほんとに置いていく。
「じゃあごはん食べなくていいよ。おとうさんが食べるから」といったらほんとに娘の分まで食べてしまう。
妻はそこまでしないので、何をいっても口だけだと見透かされているのだ。

あとぼくのほうが力が強い。
駄々をこねる娘を引きずって風呂場まで連れていって力づくで服を脱がせてシャワーをぶっかけたこともあるし、わがままの度が過ぎるときに抱きかかえて押し入れに閉じこめたこともある(三分ぐらいね)。
幼児といえども本気で暴れたらけっこう激しいから、こういうことは力が強くないとできない。
妻にはむずかしい。


妻と娘が対立していると、困ったものだ、とおもう。
でも同時にちょっと優越感もくすぐられる。

けんかの仲裁に入るときは「しょうがないな。やっぱりおとうさんがいないとだめだな」と顔がにやけてしまいそうになる。

ほんとに困ったものだ(そんな自分が)。


2019年8月8日木曜日

本好きは本屋で働くな


本屋で働いていたときがいちばん読書量が少なかった。
とにかく忙しかったからだ(1日の労働時間は平均して13時間ぐらい、年間休日は70日ぐらいだった)。
車通勤だったので移動中も本を読めないし(信号待ちのときに読んでみたことがあるけどぜんぜん集中できない)、慢性的に疲れが溜まっているので休みの日は人と会うとき以外は寝て過ごしていた。

もちろん本屋の業務をしているから、本の情報は入ってくる。
最近この本売れてるなーとか、なんだかおもしろそうな本が出たなとかの情報はいちはやくキャッチできる。
でもそうした情報を知れば知るほど、読みたいという気持ちが薄れていく。
「〇〇というキャッチコピーの帯をつけてから売れはじめて〇〇賞を受賞して〇〇年には映画化されるらしい」とかの周縁の情報を溜めこむうちに「どんな本だろう」という気持ちが薄れていってしまう。まったく読んでいないのに知ったような気持ちになってしまうのだ。
「あああれね」という気持ちになってしまうのだ。読んでいないのに!


あと、嫌いな本が増えた。

××の本なんか買うんじゃねえよ、とか。
××ですら低俗な本なのにその二番煎じ三番煎じの本が売れるのほんとくだらない、とか。
××出版社はゴミみたいな本ばっかり送りつけてくるな、××舎は営業の態度が悪いし、もうここの本は買わないぞ、とか。


それから、プライベートで本屋に行っても楽しめなくなった。
陳列の方法が気になったり、「うちは注文しても〇〇がぜんぜん入荷しないのにこの本屋にはこんなに入荷するんだ」と悔しくなったり、あと乱れている売場を無意識に整えてしまったり。
仕事モードになってしまって落ち着かない。


ということで、本屋で働いていたことは本を楽しむうえでプラスよりもマイナスのほうが多かった。
本屋なんて、本好きの働くところじゃないぞ。
ほんとに。


2019年8月6日火曜日

歯が抜ける恐怖


娘の友だちSちゃん(六歳)の歯がぐらぐらしている。
乳歯が抜けそうになっているのだ。
そうか、そんな年頃かー。

「へえ。歯が抜けそうなんだ」というと、とたんにSちゃんの顔が曇った。
「ちょっと見せて」というと、「いや!」と口を固く閉ざしてしまった。見ると、涙目になっている。

Sちゃんのおかあさんが
「歯医者さんに診てもらおうとおもって連れていったんですよ。でも大泣きして暴れまわって、結局診てもらわずに連れてかえってきました」
と教えてくれた。
Sちゃんにとっては歯が抜けるというのはめちゃくちゃ怖いことで、考えるだけでも泣いてしまうことらしい。
Sちゃんのおかあさんは「すぐに新しい歯が生えてくるから大丈夫、って言ってるんですけどねー。でもすっかり怖がっちゃって」と笑っていた。


そうかー。
ぼくはもう歯が生え変わるときの気持ちをすっかり忘れてしまったけど、たしかに最初は怖いだろうなあ。

だって身体の一部がなくなるんだよ。恐怖でしかないでしょ。

「もうすぐあなたの指が抜けます。最初は小指、それから薬指、中指、人差し指、そして最後に親指。だんだん指が腐ってぐらぐらしてきますが神経は残っているので痛いです。最後はおもいっきりひっこ抜きます。もちろん強い痛みを伴います。それが両手両足であわせて二十本分あります。大丈夫、すぐに新しい指が生えてきますから」

って言われて

「そっか、新しい指が生えるのか。だったら安心☆」

とはならないわけで。


2019年8月5日月曜日

医者をめざさない理由


高校三年生の進路面談で、ぼくの進路希望を見た担任の教師からこう訊かれた。

「なんで医学部をめざさないの?」

は……?
質問の意味がわからなかった。
逆ならわかる。
ぼくが医学部に行きたいと言っていて「なんで医者になりたいの?」と訊くのならわかる。
だが、医学部を志望しないことに理由がいるのだろうか。

「なぜダンサーにならないの?」とか「なぜ軍人にならないの?」とか訊かれても、 「いや、なりたいとおもったことないから……」としか答えようがない。
それと同じだ。


その教師(おばちゃんの体育教師だった)は受験のことなどまったく知らなかったので、 「医学部に行くには成績が良くなくてはならない」を「成績が良ければ医学部に行く」と勘違いして(命題が真だからといってその逆が真だとは限らないことを知らないのだ)、ぼくの成績がそこそこ良かったので医学部に行くのが当然とおもいこんでいたらしい。


その教師に対していろいろ言いたいことはあった。

医師がみんな崇高な使命に燃えていなければならないとまでは言わないけれど、勉強ができるから、金を稼げるからってだけで医師をめざすような風潮にはぼくは反対です! とか。

それってまるで医師を一段高いものに置いていて、ほかの職業を下に見ているようじゃありませんか! とか。

医師には医師のたいへんさ苦しさがあるだろうに、なれるならなっとけっていうのは本気で医学部を目指している他の学生に対しても失礼じゃないですか! とか。


しかしなにより、いちばん言いたかったのはこれだ。

「いやぼく文系やで! あんた文系クラスの担任なんやで!」



2019年8月4日日曜日

ショールームとエロ動画の本棚


いっとき、家を買おうとおもって住宅展示場やマンションのショールームをいくつか見にいったことがある。

ショールームなので、どの部屋もすてきな内装が施されている。
品のいい家具、シックな壁紙、高級そうな食器。住みたい! とおもわせてくれるインテリアだ。

だが、いくつかのショールームを見ているうちに気がついたことがある。

本がない。

どの部屋にも本がない。本棚がない。
なんてこった!

まあわかるんだけど。
本棚は場所をとるから、ショールームにそんなものを置いてしまうと部屋が狭く見えてしまう。だから置かないんだろうけど。

にしたって。
本棚がない家って、やっぱりなんか嘘っぽい(ショールームだから嘘なんだけど)。

世の中には本をまったく読まない人がいることはぼくも知ってるよ。
でも、まだまだほとんどの家庭には本棚の一架や二架や三架ぐらいは置いてあるもんじゃないだろうか(そうでもないのか?)。

ショールームにはワイングラスを逆さ吊りにするやつ(なんて名前か知らない)もあるのに、本棚はない。
ワイングラスを逆さ吊りにするやつ(名前は知らない)よりは本棚のほうが多いだろ!


それ以来気になって、部屋の写真を見ると本棚をさがしてしまう。

で、気づいたんだけど、じっさいに人が住んでいる部屋には本棚があり、そうでない部屋には本棚がないことが多い。

インテリア雑誌の写真とかテレビコマーシャルの部屋とかには本棚がない。
あっても洋書が数冊並べてあるぐらいで、インテリアとして存在するだけだ。読むための本ではない。

つくりものの部屋に本がないのは、本が住む人をイメージさせてしまうからではないだろうか。

「新書と自己啓発本ばっかりだな。おもしろみのないやつが住んでるんだな」
「うわあ。ハヤカワSFがこんなに。ちょっとめんどくさいSFオタクってかんじだな」
「この人は郷土史に興味があるのか。おじいちゃんかな」
「岩波、ちくま、河出……。おお、これはなかなかの読書家だな」
というように、持ち主の人となりが想像されてしまう。

とたんに生活感というかなまなましさが生じてしまうので、つくりものの部屋には本がないんだろうね、たぶん。



話は変わるけど。

エッチな動画では「部屋」が舞台になっていることが多い。
マンションの部屋に酔っぱらった女の子を連れこんで……とか。
家庭教師の先生の大きく開いた胸元に昂奮してしまって……とか。
シェアハウスに引っ越したら男はぼくひとりで……とか。

そういう動画には本が映っていることが多い。
本好きとしては、ついついそちらに目が行ってしまう(もちろん女性の裸にも目が行ってしまうんだけど)。
たいていは漫画とか漫画雑誌なんだけど、ときどき文庫が並んでいたり、ごくまれにハードカバーの小説が映ることもある。
おっ。こんなの読むんだ。
なんだか親近感が湧く。

エロ動画なんて「つくりもの」の典型のような作品なのに、意外にもちゃんと本が並んでいる。
あれはたぶん撮影のためにつくられた部屋ではなく、予算節約のためにスタッフとかがほんとに暮らしている部屋を提供しているんだとおもう。
だから本があるのだ。置物としての本でなく、読むための本が。

エロ動画の背景に映る本棚、ぼくはあれが大好きだ。
すごくリアリティを与えてくれる。バックに本棚があるだけでエロさが二割増しになる気がする。


ところで、エロ動画に映る本ってモザイクがかかっていることが多いんだよね。
だからタイトルまではわからなかったりする。

出版社や著者から「うちの本をエロ動画に勝手に使うな!」というクレームがつかないようにという配慮なんだろうけど、女の人のおっぱいにはモザイクがかかってないのに文芸書の背表紙にはモザイクがかかっているのはなんかおもしろい。

エロ動画制作の人たちからしたら本って裸よりセンシティブなものなんだなあ。

2019年8月2日金曜日

けったくそわるい


「けったくそわるい」という言葉がある。

たぶん関西弁。
意味としては、不愉快だ、胸くそ悪い、反吐が出そうだ、虫唾が走る、といったところだろうか。強い嫌悪を表す言葉だ。

用例としては、
「けったくそとは漢字で書くと[卦体糞]。[卦体]とは元々……なんてインターネットで三十秒で拾ってきた蘊蓄をならべてえらそうにすなや、けったくそわるい!」
のように使う。

ぼくは関西で生まれ育ったのでときどき耳にする。若い人やきちんとした身なりの人はあまり使わない。
昼間からハイボールを飲んでいるおじさんが口にする言葉、というイメージだ。

ただでさえお近づきになりたくない人が不快感をあらわにしているわけだから、「けったくそわるい」という言葉を聞いたらとるものもとらずにすぐその場を離れたほうがいい。「海辺で地震が起きたら高台に向かって走れ」と同じだ。


危険をあらわすシグナルではあるが、ぼくはこの「けったくそわるい」という言葉が好きだ。
なぜなら、「けったくそわるい」という言葉自体にけったくそわるさがにじみでているから。

「けったくそわるい」とつぶやいてみてほしい。
吐きすてるような言い方になるはずだ。「けっ」で痰がこみあげてきて「たくそわるい」でそれを吐きだすようなイメージ。

「けったくそわるい」と口にしたとき、自然にしかめっつらになるはずだ。
「けったくそわるい」と言いながら笑顔にはならないはずだ。


発声と身体動作が結びついている言葉はほかにもある。

「にやにや」というとき、自然と顔がにやにやしてしまう、とか。

「のらりくらり」と口にするときは無意識に顔の力が抜ける、とか。

「COOL」とつぶやくと体温が少し下がる、とか。

「クラムチャウダー」と言うと口の中でクラムチャウダーができる、とか。

「けったくそわるい」の顔

2019年7月29日月曜日

子どもの笑顔を買うには


子どもといっしょに夏祭りに行った。
夏祭りなんて何年ぶりだろう。
人混みが嫌いなので十年以上遠ざかっていた。

しかし今年、子どもを連れて夏祭りに行ってみた。
暑い、人が多い、売ってるものが高い、ガラの悪い人が多い。ふだんならぜったいに行かない場所だ。
しかし子どもが生まれてから、「ふつうのことを一通りは経験させないと」という使命感に駆られるようになった。

我が子が大人になったときに「えーおまえ夏祭りに行ったことないのー? おまえんち変わってるなー」と言われないように。
また、ぼくは何度も夏祭りを経験した上で「今の自分には夏祭りは不要」という判断を下したわけだが、それを別人格である娘に押しつけるのは良くないとおもうから。

初詣も、二十年ぐらい行っていなかったが子どもが生まれてから行くようになった。
ひな祭りとかクリスマスとかのイベントも個人的には好きじゃないのだが、子どものためにやっている。ハロウィンなんて一生やらないだろうとおもっていたが、昨年は娘をハロウィンパーティーに連れていった(さすがに自分は仮装はしなかったが)。

きっとぼくの親も、同じように考えていろんな年中行事をやってくれていたのだろう。




娘を連れて屋台をまわった。
くじ引きがしたいといえば「一回だけやで」とお金を出してやり、りんご飴がほしいと言われれば買ってやった。

ぼくは屋台のくじ引きなんてハズレだらけなのでふつうに買うほうが安いと知っているし、りんご飴なんて口や手がべたべたになるだけでぜんぜんおいしくないと知っている。

でも娘は知らない。
お祭りなんてじつはそんなに楽しいもんじゃないことを知るのもいい経験だ。
そうおもってお金を出してやった。

しかし。
残念ながら娘は、くじ引きであたったしょうもないおもちゃに嬉しそうにしていたし、りんご飴もおいしいと言って中のカスカスりんごが出てくるまでなめていた。
なんでいじらしいんだ。かわいいじゃないか娘よ。

ということで、風船を買ってやったりかき氷を買ってやったり輪投げをやらせてあげたりと、娘のためにあれやこれやと金を遣ってしまった。
だって数百円ですごく喜んでくれるんだもん。
大人の笑顔を買おうとおもったら何万円もするのに。

くそう、まんまとお祭りにしてやられた気がするぜ。


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2019年7月23日火曜日

渇望と創作


子どものとき、家にファミコンがなかった。
ファミコンとは家庭用ゲーム機のことだ。当時は、ファミリーコンピュータもスーパーファミコンもゲームボーイもみんなファミコンだった。

ファミコンがほしかった。
クラスの男子で家にファミコンがないのは、二、三人だけだった。

もちろん親に買ってくれと頼んだことはある。
でも、つっぱねられた。
うちにはお金がないとか眼が悪くなるとか。

嘘だ。ほんとは「教育方針」だ。
今にしておもえば親の方針は理解できるし、結果的にファミコンがなくてよかったかなとおもう。

でも。
当時はつらかった。
ファミコンで遊べないことそのものより「クラスメイトはほとんど持っている」という事実がぼくをみじめにさせた。
あのアホやデブやグズですら持ってるのにぼくだけ持ってないなんて。


よくノートに自分だけのゲームを書いていた。
友人の家でやったマリオの新しいコースを考えたり(『スーパーマリオメーカー』の先駆けといっていいだろう)、友人の家で見たドラクエをサイコロでできるゲームに作りかえたり。
わりとおもしろいゲームだったはずだ。

中学生になるとそこそこ小遣いも増えたのでこっそりゲームボーイを買い、親に隠れてやるようになった。
大学に入ってひとり暮らしをするようになると、念願だったテレビゲーム機を購入した。
ついに人目を気にせず堂々とゲームをできるようになったのだが、すぐに飽きてしまった。
あれ。ゲームってこんなもんなのか。たしかに楽しい。楽しいけど、幼いころに思い描いていたほどは楽しくない。
きっとぼくは、ゲームを楽しむのにいちばんいい時期を逃してしまったのだろう。

すっかりゲームへの熱は冷めてしまった。


創作意欲は渇望から生まれる。
ファミコンを買ってもらえなかった小学生時代はいろんなオリジナルゲームを考案して遊んでいたのに、今はそんな気にならない。
好きなときに好きなだけゲームをできるようになったことで、渇望が満たされてしまったのだろう。

そういや鳥山明氏が『ドラゴンボール』のカバー見返しのところにこんなことを書いていた。

子どものころ、バイクがほしかったけど手に入らなかったのでバイクの絵をたくさん描いた。馬がほしくなると馬の絵ばかり描いていた。

と。
もしも鳥山明少年の家がとんでもない金持ちで、バイクや馬を好きなだけ買ってもらえていたら(どんな教育方針やねん)、きっと『Dr.スランプ アラレちゃん』も『ドラゴンボール』も生まれていなかったことだろう。

もしもぼくがゲームを買わずにゲームに飢えたまま育っていたら、モノポリーや将棋をもしのぐような人気テーブルゲームを生みだしていたかもしれないな。


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ぼくの家にはファミコンがなかった

2019年7月22日月曜日

ニッポンの踏切係


ルートポート『会計が動かす世界の歴史』に、なぜ産業革命は18世紀のイギリスで起こったのか、という話が載っていた。
 こうして産業革命前夜の18世紀までに、イギリスでは高賃金と格安の燃料という状況が生まれたのです。
 産業革命がイギリスで始まった理由を考えると、やはり賃金の高さがもっとも重要なポイントです。
 たとえばジェニー紡績機は石炭を利用しません。燃料費の安さとは関係がないのです。しかし、それでもこの紡績機が発明されたのは、人件費を節約することで利益を出せたからです。
 人材を安価に利用することは、経済成長に繋がるとは限りません。むしろ労働を機械に置き換える(生産を効率化する)インセンティブを奪い、技術革新を鈍化させ、経済の発展を阻害する恐れさえあります。
 産業革命を起こしたイギリスの歴史には、現代の私たちにとっても学ぶところが多いでしょう。
なるほどなあ。

たとえば「今まで一ヶ月かかっていた作業がたった一分になります!」というツールがあったとする。
そのツールの利用料が百万円/月であれば、今までどおり手作業で一日かけてやったほうがいい。ほとんどの従業員は一ヶ月雇うのに百万円もかからないのだから。

しかし従業員に百万円以上の給料を出している国の会社は、そのツールを導入するだろう。
すると作業時間を短縮することができ、余った時間でより創造的な仕事をすることができる。彼らが生みだした質の高い製品やサービスは世界を席巻し、より人件費は上がる。そして人件費を抑制するために効率化を進めるツールが開発される。

人件費が高いのは、経営者からみると悪いことだ。でも短期的なマイナス点も、長期的にはプラスになりうる。


IT革命がアメリカを中心に花開いたのも必然だったのだ。
べつにアメリカ人が特別にイノベーティブだったわけではない(それも多少はあるだろうが)。
アメリカ人の給与が世界トップクラスに高かったからIT化が進んだのだ。
人件費よりもコンピュータを使うほうが安い。だからIT化する。技術が高まるので世界的な競争力がつく。さらに賃金が上がる。それがより生産性を高める原動力になる……というサイクルだ。

これの逆をやっていたのが日本だ。
世界がIT化を進めている間、日本では
「従業員増やして電卓たたかせたほうが安いよ」
「残業させればいいじゃん」
「派遣を使って人件費を抑えよう」
とやっていた。
タダで残業する従業員がいるなら、設備投資をして作業をスピードアップさせる必要などない。残業させるだけでいい。
これで新しい技術が根付くはずがない。




「合成の誤謬」という言葉がある。
ひとりひとりが正しい行動をとることで、全体で見るとかえって悪い結果を生んでしまうことを指す。
たとえば無駄遣いを抑えて貯蓄に回すのは家計にとってはいいことだが、みんながそれをやると国全体の景気が悪くなるように。

人件費カットもまた合成の誤謬をうみだす。
個々の経営者レベルで見ると、人件費を抑えて利益を出すほうがよい。
だがすべての経営者がそれをやると経済は成長しなくなる。また人件費カットをする会社は短期的には利益を出せても長期的に見れば必ず失速する。技術革新を進める動機が薄れるし、そもそも能力を持った社員がいなくなるのだから。

人件費カットという合成の誤謬を止めるにはマクロな政策が必要になる。個々の経営者に任せてもうまくいくわけがない。
長時間労働の厳罰化、最低賃金のアップ、賃金アップした企業に対する補助金などの対策を国を挙げてしなければならないのだが、どうもこの国にはそういうことをやる気は一切ないらしい。




こないだ北朝鮮に行った人から、北朝鮮には今でも「踏切係」という仕事があると聞いた。

線路の脇に立って、列車が来る前に「危ないから入っちゃいかん」という仕事だ。
なんてアナクロなんだ、と逆に感心した。

北朝鮮に電動の踏切を作る技術がないわけではない(ロケットを飛ばしたり核実験をしたりできる国だ)。
それでも「踏切係」が2019年に生き残っているのは、電動にするより人間にやらせたほうが安いからだろう。


今いろんな自動車メーカーが自動運転カーの研究をしているそうだが、世界で最初に実用化されるのは日本ではないだろう。
法律面の事情もあるが、それ以上に日本人の人件費は安いから。
「高い自動運転カーを買うぐらいなら運転手を雇ったほうが安い」という国では自動運転カーは売れない。


今のぼくらが「北朝鮮は人間が踏切係をやっているのか」とおもうように、
20XX年には「日本ではまだ人間が車を運転したりレジ打ちをやったりしているのか」と驚かれる時代になっているかもしれない。


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【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』


2019年7月12日金曜日

男らしさ、女らしさ


娘の中で「おかあさんは家事をする人。おとうさんは遊ぶ人」という意識ができているようだ。

おとうさん(ぼく)としては、べつに亭主関白を気どっているわけではない。
共働きなのでぼくも家事をやる。少しは。
でも、
  • 妻は神経質でぼくの料理や掃除のやりかたが気にいらないことが多い
  • 下の子の妊娠・出産・授乳などで妻が家にいないといけないことが多かった
  • 妻の職場は時短勤務が認められているので、妻のほうが早く帰ってくる
  • ぼくは自分の子にかぎらず子どもと遊ぶのが好き。妻はあまり好きではない
といった理由から、自然と「休みの日はおとうさんといっしょに遊んだり買い物に行ったり。その間におかあさんが料理や洗濯をする」という役割分担になった。



あるとき、ぼくが洗い物をしていると、娘が「おとうさん、あそぼ」と言ってきた。
「洗い物してるから終わるまで待ってね」というと、娘はこういった。
「洗い物なんかおかあさんにさせたらいいやん」

ひ、ひどい。
令和の時代を背負って立つ女の子だというのに、昭和の横暴亭主みたいな価値観に染まっている……。

「おかあさんもお仕事に行ってるんだよ」
「おとうさんも料理できるよ」
「こどもを産んだりおっぱいをあげたりはおかあさんしかできないけど、ほかのことはだいたい男でも女でもできるよ」
と、ことあるごとに男女平等思想を持ってもらおうと教育しているつもりだったのに。



これからの時代を生きる人間として、「男は外で仕事。女は家で家事育児」という価値観を持ってもらいたくない。
妻も同じ考えだし、周りのおとうさんおかあさんも同じ考えの人が多いとおもう(保育園の友だちの家は当然ながらみんな共働き世帯だ)。

でも、親がそういう意識を持っていても、子どもは自然と「男らしさ、女らしさ」を学習してしまう。

絵本ではおかあさんが家事育児をしていることが多いし、幼児雑誌にも「ママといっしょにやってみよう」とか書いてあったりする。

四~五歳ぐらいから娘も「ピンクや赤は女の子の色、男は青とか緑とか」なんてことを言うようになった。親は教えていないのに。
「男らしさ」「女らしさ」に敏感になる年頃なのだろう。


だからって、べつにジェンダーの押しつけは許さん!と憤るつもりはない。
「男女はどんなときでも平等であらねばならない!」って世の中になったらそれはそれで「男は外で稼いでこい、女は家で子どもを守れ!」って世の中と同じぐらい息苦しいし。

ただ、令和の時代になっても子どもたちは「女らしさ、男らしさ、母性、父性」的な価値観をいったん身につけてから、学習によってジェンダーフリーを習得していかなくてはならないんだなあ。

ぼくらの時代はそうやって一度習得した価値観を後から修正する必要があったけど(修正できていない人も多いけど)、そのへんのわずらわしさは今の時代もあんまり変わらないのかもしれないな。


2019年7月11日木曜日

政治家を増やそう


政治家の定員を削減しろっていう人が多いけど、ぼくはむしろ、定員をおもいっきり増やしたらいいとおもう。たとえば10倍に。


議員の数は10倍、議員報酬は10分の1、責任も10分の1。町内会の会長ぐらいの感覚だ。
議会には基本的に出席しなくていい。月に1回ぐらいでいい。
議会は基本的にチャットでおこなう。採決もオンラインで。

それぐらいならやってもいい人は多いんじゃないだろうか。
ぼくも副業としてやってやってもいい(えらそう)。

地方議員の報酬は、少ないとこだと年に120万円くらい、多いとこだと1000万以上だそうだ(ばらつきすげえな)。
10分の1にしたら年12~100万円。副業としては十分魅力的だ。でも専業で食っていくには厳しい。
だから政治家は年金受給者以外みんな兼業になる。それでいい。経営者なら経営者、保育士なら保育士、工員なら工員、主婦なら主婦の考えをそのまま政治に反映させられる。無職の人がとりあえずのつなぎとして地方議員になってもいい。就職してもそのまま続けられるし。

今だとまず仕事を続けながら議員にはなれないから、選挙に出馬するのは年寄りと強固な地盤を持つ人ばかりだ。
兼業でやれるなら、いろんな立場の人間が議員になれる。
仕事をしている人、お金のない人、健康に問題がある人、育児中の人、介護中の人。いろんな事情で出馬をあきらめなければならなかった人が参政できる。
すばらしいことだ。



選挙のやりかたも変わる。

選挙に金をかける必要がなくなる。当選者が10倍になるわけだから、当落ボーダーラインが今よりもずっと下がる。
幅広い層にアピールする必要がなくなるのだから、選挙カーで名前を連呼して薄く広くアピールするよりも確実に入れてくれる強い支持者を育てるほうが重要になる。

そもそも金をかけられなくなる。
当選したって報酬は今までの10分の1。政治家ひとりあたりの権力も10分の1。
政治家の持つ金銭的なパワーは今よりずっと小さくなる。

議員数増加にともない供託金制度は撤廃でいこう。

当落ラインが下がれば自分の一票が当落を分ける可能性も高くなるし、定員が増えれば「知人」や「知人の知人」が出馬することも増える。
「1万人の代表」よりも「千人の代表」のほうがずっと身近に感じられるはずだ。陳情もしやすい。

関心が高くなれば投票率も上がるだろう。



「議員数削減しろ!」と声高にとなえる声は多いが、そんなことをしたらひとりあたりの権力が増してますます市民の声が政治に反映されなくなるだけだ。
国会が金持ちの世襲議員だらけになることを望んでいるんだろうか?

だから人口が減少している今こそ、議員数はどんどん増やすべきだとぼくはおもう。

まさか、自分の権力や報酬が減らされるからって反対する了見の狭い政治家の先生方はいないでしょ?