いじめの時間
江国 香織 大岡 玲 角田 光代 野中 柊
湯本 香樹実 柳 美里 稲葉 真弓
いじめをテーマにしたオムニバス短篇集。
江国 香織『緑の猫』
親友がノイローゼ気味になってしまって、周囲から距離をとられてしまうという話。「これもいじめとするのか?」という感想。いやあ、クラスメイトの様子がおかしくなってあることないこと言いだしたら、距離をとるのはふつうでしょ。
これをいじめとするのはさすがに被害者意識が強すぎないか?
大岡 玲『亀をいじめる』
主人公は教師。主人公はかつていじめに遭っていて、現在は娘のクラスでいじめが起こっていて、自身の勤務する学校でもいじめが起こっている。いじめられるつらさを知る主人公はいじめを止める……かというと、ぜんぜんそんなことはない。勤務先でのいじめには見てみぬふり。娘のクラスで起こっているいじめについては、被害者の親に対してあることないこと吹きこんで焚きつける。なんとも卑怯で小ずるい男なのだ。さらにこの男は自宅で亀に熱湯をかけていじめている。
こういう男が教師であり父親であるということにぞっとするが、考えてみれば我々の多くはこのタイプなのだ。積極的にいじめに加担するわけではないが、かといっていじめられている他者を守るために身体を張るほどの正義感もない。そして「攻撃していい人」と認定した人間に対しては容赦ない残虐性を発揮する。学生だけでない。多くの大人だって、不倫した有名人や失言をした政治家はどれだけいじめてもいいとおもっている。
主人公を筆頭に登場人物たちがみな保身と自己弁護ばかりでなかなか胸くそ悪くなる短篇だが、それがいい。いじめについて語る人ってみんな「いじめられていた人」か「いじめを心の底から嫌悪していて加担しない人」の立場をとるじゃない。そんなわけないのに。みんながいじめを大嫌いならいじめなんて起こるわけない。我々はいじめを好きなんだよ。ぼくもあなたも。それを認めないといじめ問題は永遠になくならない。
「私は状況によってはいじめる側の人間です」と声高らかに言う人がいないので(ぼくだってわざわざそんなことは言わない)、小説でその立場の人間を書くことは意義があるとおもう。
角田 光代『空のクロール』
同級生からいじめに遭うようになった主人公。いじめの主犯は、同じ水泳部で泳ぎのフォームが美しい少女。
これはストレートにいじめられる少女の苦悩を描いた小説。いじめをテーマに短篇を書いてくださいと言われたらこんな作品ができあがるだろうなあと予想する通りの小説。つまり、とりたてて新しい切り口は感じなかった。
野中 柊『ドロップ』
白昼夢のような小説。これは……いじめ? ただ白昼夢を見ただけじゃねえのか。
湯本 香樹実『リターンマッチ』
いじめを描いたっていうより友情を描いた青春小説だった。なんかずっとさわやかなんだよね。いじめすら〝さわやか〟を描くための、シンプルな材料になってる。
柳 美里『潮合い』
転校生が来ていじめが起こり、とある出来事をきっかけにいじめられる側といじめる側が反転しそうになる……ってとこで終わる。漫画『聲の形』の一巻で終わっちゃった感じ。
稲葉 真弓『かかしの旅』
いじめに遭って家出をした少年からの手紙という形式の小説。
そもそもの話をしてしまうと、手紙形式の小説って嫌いなんだよね。ずるいっていうか。安易に心情を吐露しすぎなんだよね。遺書じゃないんだから、そんなになんでもかんでも書かないでしょ。
だいたい手紙形式の小説って「あなたは××のときに△△で〇〇してくれましたよね」みたいなこと書くんだよね。書かねえよ。手紙でもメールでもLINEでもいいけど、そんな説明くさい文章書いたことある?
まあ古い短篇集だからしょうがないんだけど、『亀をいじめる』以外はいじめの書き方が単純だなあ。ワイドショーの書き方なんだよね。非道で許しようのないいじめっ子と、一点の非もないのに悪い奴に目をつけられたがためにいじめられているかわいそうな子。
わかりやすいけど。そうおもってたほうが楽だけど。
だけどさ、そうじゃないわけでしょ。いじめは楽しいから、みんな大好きなわけじゃない。たいていのいじめは、いじめられる側にも非があるわけでしょ(だからいじめてもいいってわけじゃないよ)。だからこそいじめて楽しい。
そのあたりの、いじめる楽しさを書いてほしかったな。正当化しろってことじゃないよ。きれいごとに終始していたようにおもう。
ちょっと前に奥田 英朗『沈黙の町で』という、いじめを描いたすばらしい小説を読んだので、どうしてもそれと比べてものたりなさを感じてしまった。
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