『かさじぞう』という昔話がある。
たいていの人は知っていると思うが一応あらすじを書いておくと、
という話だ。
この話、どうも納得できない。
構造としてはいたってシンプルだ。「人(地蔵だけど)に親切にしてあげるといいことがありますよ」という話だ。それはわかる。
しかし、おじいさんが地蔵に対して親切にして、その直後に当の地蔵から恩返しをされる、という点が納得できない。
どうやって恩返しをしたのか?
まず、地蔵はどこから餅や米俵や小判を持ってきたのか? という疑問が浮かぶ。
石づくりの地蔵が餅や米を常備しているとは思えないから、おじいさんに渡すためにどこかから調達したのだろう。山菜やキノコだったら「地蔵が山に行って取ってきた」ということも考えられるが、餅や米俵は自然界にはないから、地蔵が持ってくる以前は誰かのものであったはずだ。
「悪いやつ」がいれば、そいつから餅や米俵を奪って持ってくるという『義賊システム』も考えられる。
だが『かさじぞう』に悪人は出てこない。
仮に物語には出てこない悪党がいたとしても、地蔵が餅や米俵や小判を奪うというのは話として無理がある。
地蔵には神通力があったのか?
「いやいや、どうやって入手したのか考えるなんて野暮だよ。地蔵は仏様の使いだからね。神通力があるんだよ。その神通力で餅や米や財宝を生みだしたんだ」
と言う人もいるだろう。
では地蔵に神通力があったとしよう。好きなものを出現させられる幽波紋(スタンド)だ。
だったらなぜはじめから笠を出さなかったのか?
雪に凍えてつらかったのなら笠を出せばいい。八十八の手間をかけてつくると言われているお米を出現させるよりも、ばあさんが内職で作れる笠のほうがかんたんだろう。
いや、神通力があるのだから笠といわずにダウンコートとかヒートテックとか屋根とか石油ストーブとかを出現させればいい。
なぜやらなかったのか? 答えはひとつ、「必要なかったから」だ。
あたりまえだ。神通力を備えている地蔵、しかも石づくり。吹雪なんか屁でもない。
つまり、おじいさんがした笠をかぶせるという行為はまったくのおせっかいだったのだ。
気持ちの問題か?
「いやいや、おせっかいというのはドライすぎるでしょ。地蔵は、おじいさんの気持ちこそがうれしかったんだよ。だから恩返しをしたんだ」
という意見もあろう。
なるほど、実益を伴わなくても行動してくれたことがうれしいということはある。
ぼくも、四歳の娘が「はい、お父ちゃんにあげる」と言ってダンゴムシを差し出してきたときは、行為は迷惑千万だったが好意だけはうれしく感じたものだ。
だが、売れ残りの笠をかぶせてくれたこと(しかもおせっかい)に対するお返しが「餅と米俵と小判」というのはどう考えてもやりすぎだ。逆に失礼じゃないか?
考えてみてほしい。食べきれないほどのイチゴをもらったので、お隣さんにおすそ分けをする。その直後にお隣さんが「イチゴのお礼です」と言って百万円を持ってきたら、あなたは受け取るだろうか? もしくは地蔵のように夜中にこっそりやってきて郵便受けに百万円を入れていたら?
まず受け取らないだろう。気持ち悪いから。
どう考えても不釣り合いすぎる。ばかにされているように感じるかもしれない。
お返しの作法
人から親切にしてもらったらお返しをするのは礼儀だが、お返しにはいくつかのお作法がある。
1. 別の形でお返しする
2. 時間をおいてお返しする
3. 少なくお返しする
これがお作法だ。
『1. 別の形でお返しする』はわかりやすい。
イチゴをもらったら、お返しにイチゴを持っていってはいけない。イチゴに対してイチゴでお返ししたら、「あなたがくれたイチゴはいりませんでした」という意味だと受け取られかねない。
ピーマンをもらったからパプリカでお返し、というのもよろしくない。ぜんぜん違うもののほうが望ましい。
また、現金を渡すのもなるべく避けたほうがいい。価値が一目瞭然だからだ。
「イチゴをもらった翌月、掃除のついでにお隣さんの家の前も掃いてあげる」だと、どっちがプラスなのかがわからない。この「損得をあいまいにする」ことこそが友好関係を維持するコツだ。
『2. 時間をおいてお返しする』は、少しわかりづらい。
お返しをするなら早いほうがいいと思うかもしれないが、好意を受けてその場でお返しをしたら、それは「取引」になってしまう。ただの物々交換だ。
必要なのは、時間をおいて「好意をお預かりする」ことだ。
親しい人の間では貸し借りがあるのがふつうだ。引っ越しを手伝ってあげたり、車で家まで送ってもらったり、どちらかが「借り」をつくっている。
「誕生日プレゼントを贈る」というのも貸し借りを生む行為だ。貸し借りをつくるためにやるといってもいい。なぜなら貸し借りのある関係こそが友好的な関係だからだ。
人間関係における貸し借りは清算してはならない。
今までにしてあげたこととしてもらったことを数えあげて収支を合わせようとするのは、金輪際おまえとは付きあわないぞ、という意味になってしまう。
「恋人と別れたときに彼から借りていたものを全部宅配便で送りかえしてやった」なんて話を聞いたことがあるだろう。あれはまさに「貸し借りを清算してあなたとの関係を絶つ」という明確な意思表示だ。
『3. 少なくお返しする』のも同じ理由からだ。相手が好意を向けてくれた場合、借りをつくらなければならない。
結婚式のご祝儀に対しては引き出物を贈るし、葬儀の香典には香典返しをするが、もらった額より少なく返すのが礼儀だ。同じ額、または上回る額でお返しするのはたいへん失礼だ。
と考えると、"その日のうちに" "もらった分よりはるかに多く" 返した地蔵の行動が、いかに礼を失したことだったかわかるだろう。
地蔵はどうすべきだったのか
先ほどお返しのお作法を3つ紹介したが、実はもうひとつお作法がある。
4. 直接お返ししない
というものだ。
特に目上の人から親切にしてもらった場合、本人にお返しをすること自体が失礼になることもある。
新入社員が上司にごちそうしてもらったときは、その上司に対してお礼の品を贈る必要はない。上司もそんなことは望んでいない。新入社員が上司になったときに部下にごちそうしてやればいい。
「他者に返す」というのもお返しの作法のひとつだ。
他者に返すのは、目上の人から親切にしてもらったときだけではない。
「困ったときはお互い様」という精神もある。
自然災害に遭って義援金をもらったら、義援金をくれた人ではなく、別の災害の被害者に対して寄付をすればいい。
だから吹雪の中でおじいさんから笠をもらった地蔵は、その恩をべつの困った人に対して向けるべきだったのだ。
地蔵が誰かを助け、助けられた人がべつの人に親切にし、善意の連鎖がまわりまわっておじいさんのところに戻ってくる。
こういうお話にしておけば、「他人におこなった親切はいつか戻ってくる」と同時に「善意に対して直接的な見返りを期待してはいけない」という教訓も得られるしね。
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