2020年12月31日木曜日

ツイートまとめ 2020年5月

コロナ禍

擬音語

宿題

変わり者

あと猫の鳴き声と

リツイートラッシュ

未知と無知

2度漬け

反骨

タトゥー



公共性

否定形

ポケット

2020年12月28日月曜日

学校教育なんて進歩してるだけ

 娘が小学校に行くようになった。
 宿題をチェックするのだが、感じるのは「今の小学校でちゃんとしているなあ」ということ。


 たとえば、ひらがな。
 書き取りの宿題が出るのだが、先生のチェックはめちゃくちゃ厳しい。
 字形がちょっとでもくずれていたら「おなおし」のチェックが入る。翌日また書いてこなくてはならないのだ。
「か」という文字だと、ノートのマス目を四分割して、左上の部屋と左下の部屋の真ん中の線から出発して、右上の部屋を経由して、右下の部屋ではねて……と事細かに決められていて、少しでもずれていたら「おなおし」だ。

これだと「おなおし」の対象


 厳しいなーとおもうけど、でもそれぐらいきっちり教えてくれるほうがいい。
 しかも「きれい」「きたない」じゃなくて、「右上の部屋を通っていないからダメ」と客観的な基準に基づいて指導してくれるのがすばらしい。

 ぼくが子どもの頃なんか「読めればいいじゃん」と読むことすらままならない字を書いていた(そして先生もがんばって解読してくれていた)ので、ずっと字が汚いままだった。

 自然にくずれていくことはあっても自然にきれいになっていくことはないのだから、はじめは厳しく教えてくれたほうがいい。
 おかげで娘は教科書体みたいなきれいな字を書くようになった。


 この前、作文の宿題が出された。課題は遠足のこと。
 そこでも、きちんと作文の構成を伝えられていた。

 まず「遠足に行った」と全体の説明をして、「何をしたか」を時系列に沿って書いていき、「特に印象に残ったこと」を挙げ、「なぜそれが印象に残ったのか、自分はどう感じたのか」を書き、最後に「今回の遠足の印象はどうだったのか」で締めるように、と指導されているらしい。
 そして最後にタイトルをつけるように、とも言われているらしい。

 すばらしい。
 ぼくらのときは「段落のはじめは一字下げる」とか「句読点が行の先頭に来てはいけない」といった文章を書く上での決まりごとは伝えられていたが、内容に関してはぜんぜん指導してもらった記憶がない。
「『せんせい、あのね』で書きはじめてあとはおしゃべりするように書きましょう」みたいな適当な指導だった。今考えるとろくでもねえやりかただな。指導でもなんでもない。


 もちろん「まず概要を伝えて、出来事を伝えて、特に印象に残ったことを書いて……」というのは唯一の正解ではない。
 他人に読ませる文章を書くなら、話のピークや違和感を与えることをあえて冒頭に持ってきたほうが惹きつけられる。
 とはいえはじめて作文を書く小学一年生は基本の型通りの文章で十分だ。まずは身体の正面で両手でキャッチできるようになってから、片手で捕ったり身体をひねりながら捕球したりするものだ。




 ぼくもやってしまいがちだけど、「学校の教育なんて……」といちゃもんをつける人は「自分が教育を受けたときの印象(のうち自分がおぼえている部分だけ)」で語っていることが多い。

 でも、改めて学校教育を見てみると、ちゃんと進歩している。
 よく「学校の体育の授業はとにかくやってみろと言うだけでテクニック的な指導をしてくれない」という話を耳にするし、ぼくも自分の体験に基づいて「ほんとそうだよね」とおもっていたけど、今の体育の授業を見ているわけではない。
 三十年前の記憶に基づいて語っているだけだ。

 三十年間刑務所に入っていて、昔の肩にかけるタイプの携帯電話しか知らない人が「携帯電話なんてぜんぜんダメだよ」と語っていたら滑稽でしかないだろう。
 それと同じことが教育の分野ではなぜかまかりとおっている。

 学校教育は変わっていないようで意外と進歩している。
 昔のイメージだけで批判しないように気を付けなければ。


 ま、ぼくが見ているのはサンプル数1なので、他のクラス・他の学校がどんな指導してるか知らないけど。


2020年12月25日金曜日

2020年に読んだ本 マイ・ベスト12

今年読んだ本の中のベスト12。

2020年に読んだ本は130冊ぐらい。今年はちょっと多かった。
コロナはあまり関係ない。むしろ通勤時間が減ったので読む時間は減ったかもしれない。にもかかわらず冊数が増えたのは読むスピードが速くなったからか? この歳で?

130冊の中のベスト12。
なるべくいろんなジャンルから選出。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ちなみに今年のワーストワンはダントツで、
 水間 政憲『ひと目でわかる「戦前日本」の真実』
でした。十年に一度のゴミ本( 感想はこちら )。



エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル
『カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する』


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 ノンフィクション。

 ありとあらゆる書籍データから、発行年ごとに使われている単語を集計。それをグラフ化することで、意外な事実が見えてくる。

 本に出てくる単語を数えているだけなのに、いろんなものや国の栄枯盛衰や、文法変化の法則、思想弾圧の歴史が見えてくる。



杉坂 圭介『飛田で生きる』



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 エッセイ。

 現代に残る遊郭・飛田新地(大阪)で料亭という名目の売春宿を経営していた人物による生々しい話。

 意外にも飛田新地の料亭は、暴力団は徹底的に排除、定められた営業時間はきっちり守る、料金は明朗、あの手この手で騙しての勧誘もしない……と、ものすごくまじめにやっているそうだ。
 売春は非合法なのに飛田が生き残っている理由がわかる。なんだかんだいっても今の社会に必要な場所なのだ。



ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』

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 ノンフィクション。

 人類の性行動は他の動物とまったく異なる。交尾を他の個体から隠れておこなう、受精のチャンスがないときでも発情する、閉経しても生き続ける……。ヒトの性行動は例外だらけだ。おまけにどれも、一見繁殖には不利なことばかりだ。

 この本で知ったのだけど、オスが子育てをする動物は決してめずらしくない。ヒトのオスが乳を出せるようになる可能性もないではないらしい。あこがれのおっぱいが自分のものに……(そういうことじゃない)。



朝井 リョウ『何者』

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 小説。

 就活をしていた時期は地獄の日々だった。就活の場では、ぼくは何者でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。それどころかコミュニケーション能力の低いダメなやつ。自尊心が叩き潰された。

『何者』には当時のぼくのような登場人物が出てくる。何者でもないのに、他者より優れているとおもっているイタい人間が。
 おもいっきり古傷をえぐられた気分だ。やめてくれえとおもいながら読んだ。個人的にすっごくイヤな小説だった。それはつまり、いい小説ということでもある。



福場 ひとみ『国家のシロアリ』

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 ノンフィクション。

 信じたがたいことだが、東日本大震災の復興予算のうち莫大な金額が災害とはまったく無関係なことに使われていた。外交費用、税務署の庁舎整備、航空機購入費、クールジャパン振興費……。おまけに被災した自治体への支給は渋っておいて、国会議事堂の電灯を変えたりスカイツリーの宣伝に復興予算が使われていた。

 なんとも胸糞悪い話だが、これは事実なのだ。そしていちばんおそろしい話は、流用の責任を誰一人とっていないということ。

 おそらくこれからコロナウイルス関連予算も同じように無関係なことに使われるのであろう。だって誰一人責任をとってないんだもの。官僚が味をしめてないはずがない。



更科 功『絶滅の人類史 なぜ「私たち」が生き延びたのか』

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 ノンフィクション。

 人類700万年の歴史がこれ一冊に。

 ぼくは、ヒトが他の動物よりも優れているから今の地位を築いたのだとおもっていた。
 だがヒトの祖先は他のサルよりも弱かったからコミュニケーション能力が発達し、ネアンデルタール人よりも小さく脳も小さかったため、飢えに強く、道具を作ることができた。

 ホモ・サピエンスはぜんぜん優れた種族じゃないのだ。



ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

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 小説。

 言わずと知れた有名作品だが、やはり長く愛される作品だけあってすばらしい。特にラストの一文の美しさは強烈。物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。

 みんな頭が良くなりたいとおもってるけど、賢くなるのって幸せにはつながらないよね。娘を見ていてもつくづくそうおもう。



伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』


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 ノンフィクション。

 目が見えないことは欠点だと感じてしまうけど、目が見えないからこそ「見える」ものもあるということをこの本で知った。

 目が見えないことが障害になるのは、彼らが劣っているからではなく、社会が「目が見えること」を前提に作られているからだ。
 この先テクノロジーが進歩すれば、目が見えないことは近視や乱視程度の軽微なハンデになるかもしれない。



マシュー・サイド『失敗の科学』


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 ノンフィクション。

 多くの事例から、失敗が起きる原因、失敗を減らすシステムを導きだす本。全仕事人におすすめ。

 世の中には「まちがえない人」がたくさんいる。
 人気のある政治家やテレビのコメンテーターはたいていそうだ。「私の言動はまちがっていた」と言わない。
 こういう人は失敗から何も学ばない。学ばないから何度でも同じ失敗をする。

 トップに立つべきは「失敗しない人」じゃなくて「失敗を認められる人」であってほしいのだが。



櫛木 理宇『少女葬』


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 小説。

「イヤな小説」はけっこう好きなんだけど、そんなぼくでもこの小説は読むのがつらかった。
 イヤな世界に引きずりこまれる。

 二人の少女のうちどちらかが惨殺されることが冒頭で明かされるので、気になるのは「どっちが殺されるのか?」
 そうおもいながらサスペンスミステリとして読むと胸が絞めつけられる。

 決して万人にはおすすめできない小説。



坂井 豊貴『多数決を疑う』


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 ノンフィクション。

 ついつい「多数決=民主主義」とおもってしまいがちだけど、この本を読むと多数決が民主主義からほど遠い制度だとわかる。
 市民からいちばん嫌われている候補者が選ばれることもありうる制度。まったくいい制度じゃない。
 多数決のメリットはほとんど「集計が楽」だけといってもいい。

 政治家のみなさんは、そんなダメダメ制度によって選ばれただけであって、決して「民意を反映して」選ばれたわけではないとよーく肝に銘じてください。



M.K.シャルマ
喪失の国、日本 インド・エリートビジネスマンの「日本体験記」』



 エッセイ。

 今年いちばんおもしろかった本。
 1992年に来日したインド人が見た日本。ユーモアが随所に光るし、観察眼も鋭い。
 そしてインドや日本に対する批判も的確だ。特に今読むと、シャルマ氏が20年以上前に指摘した「日本の欠点」はまるで改善されておらず、それが原因で日本が衰退したことを痛感する。




来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2020年12月24日木曜日

他人丼

 こないだ遠方に住む友人に他人丼の話をしたら、通じなかった。
 どうも他人丼は全国共通の食べ物ではないようだ。

 関西だと、定食屋にはまずある。親子丼を出している店ならたいてい他人丼も置いている。たいてい親子丼より五十円か百円高い。

 他人丼を知らない人のために一応説明しておくと、牛肉を卵でとじてご飯の上に乗っけた料理だ。親子丼の鶏肉を牛肉に変えただけ。親子じゃないから他人丼。


 幼少期から耳にしているが、改めて考えるとずいぶん珍妙なネーミングだ。

 そもそも親子丼自体が猟奇的な名前だ。
「じゃあな。あの世で息子に会えるのを楽しみにしてろよ」と言いながら引き金に手をかける殺し屋の台詞みたいだ。
 だいたいその鶏と卵は親子じゃないし。食肉用の鶏の肉と、採卵用の鶏の卵だし。赤の他人だし。

 親子丼が妙なネーミングなのだから、それをベースにした他人丼はもっと変だ。
 まだ親子丼は(親子じゃないにしても)同種の肉と卵、という際立った特徴を名前にしているわけだが、他人丼は「際立った特徴を持っているわけじゃないから」というわけのわからんネーミングだ。
 「鶏肉とウズラの卵で他人丼」だったらまだわからんでもないが、牛は胎生だし。かすってすらいない。

「この恐竜は首が長いから〝首長竜〟と呼ぼう」 これはわかる。
「しかしこっちの恐竜は首が長くないから〝首長くない竜〟と呼ぼう」 これは納得できん。
 他人丼ってのはそういうことだ。〝非親子丼〟だ。
 だいたい、ほとんどの丼が他人だ。天丼だってエビとアナゴは他人だし、カツ丼も豚と卵は他人だ。
 他人であることは特徴じゃない。


 トゲナシトゲトゲという虫がいる。正式名称ではないらしいが。
 トゲトゲ(トゲハムシ)の仲間だけどトゲがないからトゲナシトゲトゲ。わけがわからん。

 ちなみに、トゲナシトゲトゲの仲間に例外的にトゲのあるものもいて、そいつはトゲアリ トゲナシトゲトゲと呼ばれているそうだ。もっとわけがわからん。

 その例でいくと、遺伝子を組み換えて牛に卵を産ませることができたとき、その卵と別の牛で他人丼を作ったら「親子非親子丼(ただし親子じゃない)」になるね。


2020年12月23日水曜日

【映画鑑賞】『万引き家族』

『万引き家族』

(2018)

内容(Amazonより)
高層マンションの谷間にポツンと取り残された今にも壊れそうな平屋に、治と信代の夫婦、息子の祥太、信代の妹の亜紀の4人が転がり込んで暮らしている。彼らの目当ては、この家の持ち主である祖母の初枝の年金だ。それで足りないものは、万引きでまかなっていた。社会という海の、底を這うように暮らす家族だが、なぜかいつも笑いが絶えず、口は悪いが仲よく暮らしていた。そんな冬のある日、治と祥太は、近隣の団地の廊下で震えていた幼いゆりを見かねて家に連れ帰る。体中傷だらけの彼女の境遇を思いやり、信代は娘として育てることにする。だが、ある事件をきっかけに家族はバラバラに引き裂かれ、それぞれが抱える秘密と切なる願いが次々と明らかになっていく──。

 カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した作品……っていってもパルムドールが何なのか知らないけど。なんかおいしそうな響き。

 評判にたがわぬいい作品だった。
 あっ、ぼくのいう〝いい作品〟ってのはいろいろ考えさせられる作品ってことね。感動するとかスカッとするとか老若男女誰でも楽しめるとかドラ泣きとかそういうのを求めている人の入口はこっちじゃありません。あしからず。

 しかし、リリー・フランキーの芝居はいいね。
『そして父になる』『凶悪』『万引き家族』と観たけど、どれもすごく印象に残る。


(ネタバレ含みます)


 ほんでまあ、作品名そのまんまなんだけど、万引きをやっている家族の話。っていっても万引きで生計を立てているわけじゃなくて、一応おとうさんは日雇いの仕事してるし、おかあさんはクリーニング屋で働いてるし、おかあさんの妹は女子高生リフレみたいな準風俗店みたいなとこで働いてるし、おばあちゃんも年金もらってるみたいだし、ってことでみんなそれぞれ働いてるわけ。
 でもおかあさんはクリーニング屋でポケットの中の金目のものをくすねちゃうし、おばあちゃんがもらってるのもどうやら年金じゃないみたいだし、おとうさんと男の子はタッグを組んで万引きをするし、家出してきたちっちゃい女の子をかくまっちゃうし、みんなそれぞれあかんことをやってるわけ。

 で、観ているうちにどうやらほんとの家族じゃないってことがわかってくる。どうもそれぞれおばあちゃんの家に転がりこんできてるみたい。年金や土地家をあてにして。
 とはいえおばあちゃんも騙されているわけではなく、そこそこ頭はしっかりしているようだし、騙されたふりをしているような感じで家に入れている。
 あんまり説明がないから想像するしかないんだけど。

 みんな悪いことをしながら、でもけっこう楽しくやっている。
「貧しいながらも楽しい我が家」って感じで、観ようによっちゃあ『三丁目の夕日』みたいな古き良き日本の暮らしをしているわけ。『三丁目の夕日』観たことないから完全にイメージで書いてるけど。


 この家族(血はつながっていないがまぎれもなく家族)は万引きに代表されるように数々の法律違反をしているわけだけど、観ていると「べつに悪いことはしていないんじゃないか」っていう気持ちになってくる。

 学校では「法律違反=悪いこと」って教わるし、だいたいの人はそうおもって生きているわけだけど、でもそこって完全にイコールではないんだよね。

「警察が取り締まってなければちょっとぐらい制限速度を超えてもいい」「ちょっとだけだから駐車禁止だけど停めてもいっか」「赤信号だけど急いでるし車も来てないから」「労働基準法なんかきちんと守ってたら会社がつぶれちゃうよ」みたいな感じで、ほとんどの人は法律違反をしている。

 こないだM.K.シャルマ『喪失の国、日本』という本を読んだ。インド人が見た日本の印象について書かれているんだけど、シャルマ氏は
「インド人は観光客には高い金をふっかけるし、土地に不慣れな人がタクシーに乗ってきたら遠回りして高い料金を請求する。日本人は『インド人は悪い』と怒るけど、インド人からしたら交渉や自分でチェックをしない日本人のほうが悪いとおもう」
というようなことを書いていた。
 インド人と日本人のどっち悪いということではなく、単なる文化の違いなんだとおもう。所変われば品変わるというように、それぞれの土地には土地のしきたりや慣習がある。そしてそれはときに成文法よりも強力にはたらく。
「ちょっとでも隙間があいていれば行列に割りこんでもいい」「一秒でも置きっぱなしにしているものは持っていってもいい」という文化は、世界中あちこちにある。
 海外のあまり治安の良くない地域で「財布の入ったカバンを置いてちょっと目を離しただけなのに盗られた!」と怒っても、それは「置いとくほうが悪い」という話だろう。

 万引き家族がやっていることも「そういう文化」だ。

 彼らは「お店に置いてあるものはまだ誰のものでもない」「店がつぶれなきゃいいんじゃないの」「家で勉強できないやつが学校に行く」と、独特のルールを設けている。日本の法律からは外れているが、一応彼らには彼らの論理があるのだ。
 だからどこでもかまわず万引きをするわけではないし、近所の人や同僚ともうまくやっていけるし、困っている人に手を差し伸べたりする。

 悪というより「日本の法律とは別の枠組みで生きている人たち」なのだ。
 万引き家族のような人たちはあまり可視化されていないだけで、日本の中にもけっこういるとぼくはおもう。ブラック企業経営者だって同類だし。




 児童虐待やネグレクトの本をたくさん読んで、
「子育ては親がするもの」という考えはおかしいとおもうようになった。

 いや、子育てしたい親はすればいい。ぼくも自分の子は自分で育てたい。
 でも、育てたくない親や、育てられない親や、育てちゃいけない親はたくさんいる。親が十人いたら、そのうち三人ぐらいは「親に向いていない人」なんじゃないかとおもっている。

 だが「親に向いていない人」から子どもを引き離すことは、今の日本では非常に難しい。どんなに実子をネグレクト・虐待をする親でも、殺しさえしなければほとんど罪に問われない。
 なにしろ、NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班 『ルポ 消えた子どもたち』によると、18歳になるまで家の中に子どもを監禁して学校に一度も通わせてもらえなかった親に下された判決がなんと「罰金10万円」だ。人間ひとりの人生を台無しにしても罰金10万円で済むのだ。司法が「親は10万円払えば子どもの人生をむちゃくちゃにしてもいい」と認めているに等しい。

「ぜったい親に育てられないほうがあの子は幸せだよね」と隣人や学校や児童相談所がおもったとしても、親が手放そうとしなければ、親から子どもを引き離すことはできないのだ。どう考えても制度の方がおかしい。


『万引き家族』で描かれる血縁以外でつながった家族は、子育てに向いてない親の下で育った子どもにとっては理想に近いんじゃないだろうか(もちろん万引きはダメだけど)。

 血縁ってそんなにいいもんじゃないとおもうんだよね。『おとうさんおかあさんは大切に』『親の子への愛情は海より深い』とか、うそっぱちですよ。中にはそういう親もいるってだけで。

「新卒で入った会社で定年まで働けるのがサラリーマンにとって何よりの幸せ」っておもう人がいるのは認める。会社にとっても労働者にとっても理想かもしれない。
 でも「だから新卒で入った会社がどんなにブラックでも辞めちゃだめ」ってのはまちがってる。
 それと同じように「実の親に育てられて大人になるのがいちばんいい」ってのも間違いなんだよね。現状が悪ければ、転職するように育つ家庭を変えたっていい。


「子育てに向いていない親」が悪いと言ってるわけじゃないんだよ。
 よく「子育てできないのに産むな」っていうけど、そんなの無理な話だよ。ぼくだって子どもをつくるときは一応ある程度の覚悟はしていたけど「五つ子が生まれてくる想定」とか「難病で年間数百万円の医療費がかかる子が生まれてくる想定」とか「出産直後に大地震に遭って家も財産も失う想定」まではしてませんよ。ほとんどの親がそうでしょう。そんなこと考えてたら誰も子どもなんか産めない。

 どんな子が生まれてくるかは産んで育ててみなきゃわからないし、自分の健康状態だって夫婦仲だって仕事だってどうなるかわからないわけじゃん。

 だから、産んでみて、育ててみて「あっやっぱ無理そうだわ」っておもったらかんたんに手放せる(または「手放させる」)仕組みがあったらいいとおもうんだけどね。誰にも責められることなく。
「うちら付き合ちゃう?」みたいなノリで付き合って「なんかおもってたのとちがうわ」で別れる。そんな感じで親や子を手放せてもいいとおもう。

 中世以前の日本は、わりと手軽に養子をとっていたという。次男坊や三男坊は家督を相続できないから子どものいない家の養子になる、みたいな感じで。
 むずかしい手続きを経なくても、お互いの利害が一致すればふらっと移籍できてもいいんじゃないかな。

 血のつながった家族でもなく、児童養護施設でもない、もっとゆるやかにつながれる枠組みがあってもいいのにな、と『万引き家族』を観ておもった。


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