2018年2月9日金曜日

盗んだカートを放置する


ぼくが住んでいるところって大阪の下町を再開発して新しいマンションがいっぱい建っているところで、だから古くから住んでいる人もいれば、きれいな高層マンションに住む上品なファミリーもいれば、昼間から公園で酎ハイ飲んでいるおっちゃんもいれば、銭湯に行けば背中に本意気の刺青(タトゥーじゃなくて刺青ね)が入ったお方もいるという、まあいろんな人が住んでいる地域だ。

ここに引っ越してきて衝撃的だったのは、スーパーマーケットのショッピングカートを持って帰るやつがいっぱいいる、ということ。

すぐ近くにスーパーマーケットがあるんだけど、そこのショッピングカートを家まで持って帰るんだよ。かごを乗せるキャスター付きのカート。


あれ、持って帰ってる人、見たことある?
ぼくはここに越してくるまで見たことなかった。せいぜい駐車場まで持っていって放置する人がいたぐらい。

それでもマナー悪いな、って思うけどうちの周りはそんなもんじゃない。
スーパーは地下にあるんだけど、カートを押したままエレベーターに乗って地上に上がり、カートを押したまま歩道を歩き、そのままマンションに入ってエレベーターに乗り、そして自分の部屋の前にカートを放置する。

しかもこういうのがたくさんいる。うちのマンションの同フロアだけでもそういう家が二軒ある。家の前にスーパーのカート放置してるババアの家が。

しかもババアのやつ、カート返さないの。次にスーパーに行くときに持っていかない。
だから家の前に三台カートが溜まっていることもある。

ふつうに犯罪でしょ。でも家の前に堂々と盗んだカートを三台も溜めてるの。尾崎豊もびっくりだ。

しかもぜんぜん悪いと思ってないの。通路ですれちがったら、盗んだショッピングカートを押しながらにこにこして「こんにちはー」ってあいさつしてくんの。こんなにほがらかな泥棒、ほかにはルパン三世しか見たことない。


うちのマンションだけじゃなくて、他にもそういうババアがいっぱいいる。
マンションの自室の前まで持って帰るババアもいれば、マンションの入り口に放置するババアもいる。
こないだなんか近所の公園にカート停めてあったしね。スーパーから五十メートルくらいの距離にある駐輪場の前にもよく放置されてる。よぼよぼのババアならともかく、自転車で来るぐらい元気のあるババアなのにスーパーの外にカートを持っていってる。

ババアたちが盗んだカートをところかまわず放置しているから、スーパーにカートがぜんぜんないことがある。五台くらいしか残ってない、みたいなことが。

だからときどきスーパーの店員が近所をうろうろしてカートやカゴを回収している。

たいへんだな。この店員さんもスーパーでパートするときにまさか近所のマンションを回ってカートを回収してまわることになるとは思ってなかっただろうな。


もう一人二人の頭おかしいババアの話じゃないんだよ。この町ではカートを持ちだしてもいい、みたいな風潮になっちゃってんの。

カートを持ち出して放置する習慣が文化として地域に根付いちゃってるの。

「地域文化で日本を元気にしよう!」みたいなことを云う人がいるけど、うちの地域の文化はスーパーのカートの持ち出しだからね。どうやって日本を元気にするんだ。


2018年2月8日木曜日

借りたもの返さないやつが落ちる地獄


『BIG ISSUE 日本版』327号に、『あなたもつくれる! 小さな図書館』という特集記事が載っていた。

小さな私設図書館が増えているのだという。


ああ、いいなあと思う。

ぼくも本が好きだから家にはたくさん本があるが、その大半は二度と読み返すことのない本だ。

将来自分の子どもや孫が手に取ってくれたらうれしいけど、あまり期待できそうにない。ぼくの母親も本好きだったから家には母の本がたくさんあったけど、そのうちぼくが手にしたのは1パーセントくらいだ(その1パーセントが拓いてくれたジャンルというのはすごく大きかったけど)。
子どもがぼくの蔵書の1パーセントでも読んでくれたら上出来といったとこだろう。



「私設図書館、やってみようかな」と思う。だが待てよ。

ぼくがこの世でもっとも憎む存在のひとつが「借りたものを返さない輩」だ。

ほんとに許せない。

姉がそういう人だった。ぼくの本やCDを「それ貸して」と言って持っていく。そして返さない。
姉が性悪なわけではない。「そういうことを気にしない」人なのだ。だから自分が貸したものが返ってこなくても気にしない。
でも「そういうことを気にする」ぼくからすると、悪意がないのがまた憎らしい。

ぼくの感覚では、借りたものは最優先で読む。CDならさっさとテープやMDに取り込む。そしてすぐに返す。

毎日顔を合わせる家族であれば、「本なら一週間以内、CDなら二日以内に返す」というのがぼくの"常識の範囲"だ。

それを過ぎると「あれもう読んだ?」「CD、録音した?」と訊く。ことあるごとに訊いていると、迷惑そうな顔をされる。こちらも嫌がる相手に理不尽なことを言っているようで、申し訳ない気持ちになってくる。

でもよくよく考えれば借りたものを返せというのは理不尽でもなんでもない。CDなんてその気になればすぐに録音できるし、本なんて読むのが遅い人でも一週間もあればたいていの本は読める(漫画なら一冊一時間あればいい)。それをする時間がないのなら、そんなときに借りなきゃいい。

そんなわけで姉とは何度か喧嘩になって、「なんでこっちが善意で貸してやってるのに嫌な気持ちにならなきゃいけないんだ」と思い、あるときを境に一切ものを貸すのをやめた。「貸して」と言われても断るようにした。



レンタルビデオ屋でアルバイトをしていたことがある。

「借りたものを返さない輩」を許せない人間がレンタルビデオ屋で働くなんて自殺行為と思うかもしれないが、そのとおり、すごくストレスフルな日々だった。

世の中にはこんなにも借りたものを返さない人間が多いとは知らなかった。

いや、べつに遅れるのはいい。延滞料金もらってるわけだから。店としてはじゃんじゃん遅れて延滞料金を払ってもらえるのは助かる。

でも「なんで延滞料金払わなくちゃいけないの」とか「ちょっとくらいいいじゃない」とか言ってくる客の神経が理解できない。

「一日遅れただけで三百円って高すぎない?」だったら、わかる。ぼくも同感だ。一週間レンタル三百円のDVDでも、一日遅れたら三百円になる。たしかに高い。

でも「なんで払わなくちゃいけないの?」と言う人間の気持ちはとうてい理解できない。逆に訊きたい。「なぜ約束の期日を守らなかったのに何のペナルティも受けずに済むと思えるの?」

そういう客は、当然ながら「人から借りたものはなるべく借りたときと同じ状態で返す」という考えもないから、DVDを傷だらけにして返してきた。

そういやぼくの姉も、CDの歌詞カードを反対向きにしたり、二枚組CDのDISC1とDISC2を逆にして返してきたりしてた。些細なことだけど、こういうのを気にしない人は、借りたものを返さなくても平気なんだろうなあ。



そんな性分だから、もしぼくが私設図書館なんかはじめたら、借りた本を返さないやつはぜったいに許さない。

上下巻の上巻だけ借りて返さないやつがいたら、首を絞めてやる。

借りた本を返さないまま死んだやつがいたら、お通夜に乗りこんでいって「故人が借りてた本、返却期限とっくに過ぎてるんですけど。香典ということにしときましょうか? それとも棺に入れていっしょに焼きます?」と遺族に対して言わなくてもいいいやみを言う。

踏み倒すやつが許せないから、ぼくの私設図書館で本を借りる人には、免許証のコピーと身元保証人の実印を提出してもらう。あと保証金も預からせてもらう。そして滞納するやつは地獄の果てまで取り立てにいく。

誰が本を借りるんだ、そんな私設図書館。

つくづく図書館員に向いていない性分だ。



貸したものが返ってこないことが許せないんじゃない。「借りたけど返さなくてもいいや」と思える(というか返さないやつはそれすら思わないんだろう)神経が許せないんだ。

ぜったいに遅れるなとは言わない。ただ、返すのが遅れたら済まなさそうにしろ。催促される前に自分から「すみません、遅れます」と言え。貸したほうに気を遣わせるな。

それができないやつは、さっさと鬼に追いたてられながら鉄の棘の上を永遠に走らされる畏熟処地獄に落ちてくれ。その鬼は、本を貸してあげたのに催促して嫌な顔をされた側の怨念だぞ。


2018年2月7日水曜日

【読書感想】ウォルフガング・ロッツ『スパイのためのハンドブック』


『スパイのためのハンドブック』

ウォルフガング・ロッツ (著), 朝河 伸英 (訳)

内容(Hayakawa Onlineより)
あなたはスパイに適しているか? スパイ養成の方法は? 金銭問題や異性問題にはどう対処するか? 引退後の生活は?――著者のロッツは元スパイ。イスラエルの情報部員としての波瀾にとんだ経験をもとに、豊富なエピソードを盛込み自己採点テストを加えて、世界で初めてのスパイ養成本

使命感も持たずにいきあたりばったりに生きているぼくにとって、スパイほど向いていない職業はない(おまけに口も軽い)。

柳 広司のスパイ小説『ジョーカー・ゲーム』『ダブル・ジョーカー』を読んで、ますますその思いを強くした。
ああ、無理だ。
常に孤独、任務に失敗したら組織から捨てられる、成功しても賞賛を浴びることはない。高給をもらえたとしても、自由と身の安全と良心と引き換えでは割に合わない。
ようやるわ、としか思えない。


そんな「ようやるわ」なスパイだった著者による、スパイにまつわるエトセトラ。
著者はドイツに生まれ、幼少期にナチスに追われてパレスチナに移住し、イギリス軍、イスラエル軍を経てイスラエルの秘密諜報部(モサド)に所属してトップとして活躍し、第三次中東戦争でのイスラエルの勝利に貢献したという経歴。エジプトでは秘密警察に捕まったこともある。
すげえ。絵に描いたようなスパイだ。すげぇスパイ、略してスペェ。

そういえばイスラエルの諜報機関は世界トップクラスの諜報レベルだと聞いたことがある。
アメリカのような超大国であれば少々他国の動静を読み誤ったところで軍事力と経済力で圧倒することができるけど、イスラエルのような小国だと情報の読み違いが即、国家の滅亡につながってしまう。必然的に諜報機関が強くなるのだそうだ。

イスラエルって周囲すべてが敵国だからね。民族も宗教も異なる国に囲まれて、しかもイェルサレムをめぐる大きな遺恨もある。
島国である日本やイギリスはそうかんたんに攻められないけど、イスラエルは他の国と地続きだし。
油断してたら数日で国がなくなる、なんてことにもなりかねない。いつ攻めこまれてもおかしくないから(じっさい何度も攻められてる)、常に周辺国の動向に最新の注意を払っとかないといけない。

世界一ハードな環境にいたスパイだね。



フィクションの世界では「敵に捕まってどれだけ拷問されても口を割らないスパイ」が出てくるが、そんなものは現実にはありえないそうだ。

 これに関して誤解のないようにしよう。囚われの身になったスパイが沈黙を守り通し、尋問者に(嘘八百以外は)何も話さなかったという話は、尋問の係官がいい加減な仕事をしないかぎり、まったく虚構の世界に属する出来事である。給料分の働きをしている尋問者なら、あなたに知っていることのすべてをいわせるだろう。これは、はしかや所得税のように避けては通れない現実であり、秘密情報部が部員に、逮捕されたら沈黙を守れと勧告するのをあきらめてからすでに久しい。そんなことをいっても、まったく効き目がないのである。
 そういう次第であるから、情報部は、部員に荒療治が施されてしゃべらされる瞬間に、彼らがあらいざらい暴露するのを防止する手段を考案しなければならなかった。

なるほどね。
いくら訓練されたとしても「自分の命よりも大事な情報」なんてのはほとんどないから、最終的にはほとんどのスパイは口を割る。
仮に口を割らなかったとしても属する組織から「こいつは捕まったから情報を漏らしたかもしれない。二重スパイになったかもしれない」と疑惑をもたれた時点でもうスパイとして使い物にならないだろうしね。

だったら「命に代えても秘密を守れ」なんて非現実的な命令をするよりも「秘密が漏れたときに被害が最小限に抑えられるような制度設計をしよう」とするほうがずっと効果的だ。
工作員同士の素性も名前も知らされず、ほかの部員がどこで何をやっているのかもわからない、というように。
また情報が漏れることを前提にシステムをつくっているから、情報が漏れたことを隠す必要がない。

うーん、合理的。日本ではなかなかこういう組織をつくれないだろうねえ。

 「死んでも口を割るな!」という、守れるわけないルールをつくる
  ↓
 スパイが拷問されて口を割る
  ↓
 しかしそれを知られたら罰せられるから口を割った事実を隠蔽する
  ↓
 情報が漏れつづける

ってなるだろね。
スパイだけじゃなくビジネスでも政治でも同じようなことが起こってるよね。「ミスが起きたらどうするか」ではなく「ミスをするな」だと、ミスを隠して被害がどんどん大きくなる。



『スパイのためのハンドブック』ではそのタイトルのとおり、別人をかたる方法、賄賂の贈りかた、拷問を受けたときに嘘をまじえながら自白をする方法など、スパイならではのテクニックが紹介されている。
読んでいるかぎりはおもしろいんだけど一般人にとっては役に立たない、というかあんまり役に立てたくない。特に拷問は。


著者が旧ドイツ軍将校を装ったときの話。

 私のニセ経歴の弱点は何とかしてつくろわねばならなかった。戦時中のことは、少なくとも調べにくいので、それほど心配なかった。とはいえ、私はドイツ軍全般、とりわけアフリカ軍団について知りうる限りのことをじっくり頭にたたきこんだ。調べ出せる本は全部読み、北アフリカ戦域の地図と戦闘図に綿密に目を通し、レコードを聴いて軍歌を暗記した。私はそういったものをいろいろ手に入れてもらうために事務所をずいぶん忙しい目にあわせた。後に私は何度か、アフリカ軍団の旧将校たちと一緒にビールやジンを飲みながら、ロンメルの下で戦った戦役の古い記憶をよみがえらせたことがあったが、そういう折に私の努力はたっぷり報いられた。彼らに当時の戦友であり、若年兵の一人だったと思ってもらうことは造作もなく、二十年かそこいらすれば人の容貌も少しは変わるものだということで、なかには私の顔を”思い出した”という者もいた。私にとって幸運だったことに、人の記憶もまた風化するものなのである。

人間の記憶ってあてにならんなあ。

今は偽装がもっとたいへんだろうな。世界中どことでもすぐに連絡がとれるし、やりとりされている情報も多いし、記録がいつまでも残るようになったから。
スパイには生きにくい世の中だ。

スパイになりたい人は一度読んでおくといいんじゃないかな。ちなみに、あんまり給料も良くないみたいよ(派手なお金の使い方したら目立っちゃうからね)。


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2018年2月6日火曜日

嫌いな歌がなくなった世界


『あたし、おかあさんだから』という歌が話題になっている。というか炎上している。

キャリコネニュース:「あたし、おかあさんだから」の歌詞、母親の自己犠牲を美化し過ぎと炎上 作詞者は「ママおつかれさまの応援歌」と釈明

知らない人のためにかんたんに説明すると
「母親目線の歌をつくった人に対して、いろんな人が気に入らねえなと怒ってる」
という状況です。


歌は聞いてないけど歌詞を見て、これは反発買うだろうな、と思った。
でもこれに感動する人もいるだろうな、とも思う。

だからべつにいいじゃない。嫌いな人は嫌ったらいいし、歌いたい人は歌ったらいい。
だって歌だし。教科書じゃないし。こうありなさいと強要してきてるわけじゃないし。

この歌を爆音で流した街宣車が毎朝六時半に走りまわって「みなさんもこういうふうに生きましょう」って言いまわっていたら「うるせーやめろよ!」って叫ぶけど(どんな歌でもイヤだわ)、どうやらそういう事例は報告されていないらしい。だったらべつにかまわない。

こういうのを許せない人って生まれてこのかた一冊も文芸書を読んだことないのかな。
小説やエッセイを数冊読んだら発狂するだろうな。あまりに理不尽な価値観だらけだから。読んでいて嫌な気持ちになる本なんかいっぱいあるから。だからおもしろいのに。



作者に対して「こんな歌つくるな」とか「だいすけおにいさんに歌わせるな」とか言ってる人がいる。
作詞者のTwitterアカウントに「こんな歌つくらないでください」と言いにいったり。

すげー怖い。

なんなの。気に入らないもの皆殺しにしないと気が済まない人たちなの。ゴキブリが嫌いだからって人里離れた山の中に住んでるゴキブリまで全滅させなくちゃ気が済まない人たちなの。こえーよ。


「私この歌嫌い」と「作るな、歌うな、流すな」が地続きになってる人ってけっこういるらしい。
「母親に対する呪いの歌だから歌うな」こんな幼稚な言説が大手を振ってまかりとおっていることにむずむずする。

いいじゃない、呪いだとしても。モテない男がヤリチンを呪ったっていいじゃない。仕事できない人が仕事で成功してる人を呪ったっていいじゃない。呪う権利まで奪わないでくれ。みんなで呪い呪われ生きていけばいいじゃない。


「不愉快な歌つくるな」って、「おめーの声、気持ち悪いから学校来んなよ!」と同じレベルだ。

思うのは勝手だけど、よくそんなことを堂々と言えるな。

こういう人が「いじめられる方にも原因がある」って発想に至るのかな。



ぼくはすごい音痴だ。一度自分の歌声を録音して聞いたことがあるが、それはもうひどいものだった。


だから人前では歌わない。恥ずかしいし、他人を不快にさせるだけだから。

でもひとりで家にいるときは歌を歌うこともある。

それを「おまえは音痴だから風呂場でも歌うの禁止な」と言われたら、うるせーボケナス大魔神おととい来やがれこのカメムシが、と言いかえす。いや、言いかえす度胸はないからこっそり言ってきたやつを呪う。呪い、万能。



「気持ち悪い歌を作るな!」とか「タバコの煙イヤだからタバコは自宅でも禁止にしろ!」とか「パクチー嫌いだから全世界でパクチー入った料理作るな!」とか言いつづけた先に明るい未来は待っているのだろうか。はたして自分の大好きなものだけの美しい世界になっているんだろうか。

ぼくはそうは思わないけど。


2018年2月5日月曜日

毎日飲まない大人のほうが多いらしい


うちの両親はビールが大好きで、毎晩ビールを飲んでいる。
母にいたっては、夏の暑い日などは夕方から台所でビール片手に料理をしていた。完全なるキッチンドランカー。


子どもは自分の育った家庭しか知らないから、ぼくは「大人は毎日ビールを飲むものだ」と思っていた。でも、大人になってみてわかったのは、どうやら毎日飲まない大人のほうが多いらしいってこと。

そうか、うちが異常だったのか。
ぼくはお酒が大好きというほどではないので(嫌いではないけど飲むヨーグルトのほうがおいしい)、ふだんは飲まない。実家に行くと必ずビールを勧められるが、断ることもある。すると母に信じられないという顔をされる。
「あんた電車で来てるんでしょ? 風邪ひいてんの?」

三百六十五日毎日飲んでいる母にとって、「車で来ているから」「体調悪いから」以外に、勧められたビールを飲まない理由はないらしい。


毎晩酒を飲んでいるってあんまり褒められたことじゃないけれど、誰かに迷惑かけてるわけじゃないし、節制して長生きするより好きなもの飲んで早死にするほうが幸せだよなあ。

いや、いまだ両親ともにぴんぴんしてるけど。好きなもの飲んで長生きしてるけど。最高じゃねえか。


2018年2月4日日曜日

スーさんの教え


スーさんという幼なじみがいた。ぼくとは同じ幼稚園、同じ中学校、同じ高校に通っていた。小学校は別だったが、ぼくも彼もサッカーをやっていたのでよく顔をあわせていた。

スーさんは出来杉くんみたいな男で、顔が良くて、スポーツ万能で、サッカー部のキャプテンをしていて、勉強もできて、明るくて、ユーモアのセンスもあって、誰に対しても優しくて、当然ながら女子からモテていて、男子からも好かれていた。

そんなスーさんは二十代で死んだ。くも膜下出血で倒れたのだそうだ。
死んだ後、誰もが「あんないいやつが……」と言っていた。死んだからよく言うのではなく、たぶん誰もが本気で思っていた。
根拠のない言い伝えが好きではないぼくでも、「いい人ほど早く死ぬってのはほんとなんだな……」と思った。

スーさんは、小学生のときにお父さんを病気で亡くしていた。早死にの家系だったのかもしれない。



中学生のときだったか、公園でスーさんと野球をした。スーさんは小学校のときからずっとサッカー部のキャプテンをしているのに、野球もうまかった。
野球はテクニックの占める割合が大きいスポーツなので、ただ運動神経がいいだけではうまくなれない。利き腕じゃないほうの手にグローブをはめてボールをつかむのには練習が必要だ。
「ふつうサッカーやってるやつって野球はへたなのに、両方うまいなんてめずらしいな」
と言うと、スーさんは
「昔、親父に教えられてん。サッカーがうまくなるためにはボールの軌道を予想できるようにならないといけない。そのためにはキャッチボールが最適だって言われて」
と答えた。

へえ、と感心した。「サッカーを上達させるためにまず野球のキャッチボールをさせる」という一風変わった練習方法が強く印象に残った。
『ドカベン』で山田太郎が柔道の経験を野球に活かしたり、『武士道シックスティーン』で主人公が日本舞踊の経験を剣道に活かしたりしていたのに近い。

それを伝えたスーさんのお父さんはもう亡くなってしまったし、その教えを守って実際にサッカーがうまくなったスーさんも今はもういない。

だからぼくは、ことあるごとに「キャッチボールをさせるとボールの軌道が読めるようになってサッカーも上達するんだって」と人に伝えている。
それが科学的に正しいかどうかは知らない。でも亡くなった人たちの教えを伝えていかなくちゃいけない、という使命のようなものを感じるから。



2018年2月3日土曜日

大相撲にはストーリーがない


相撲は神事だってことにされてるけど、そうはいってもあれスポーツだよねえ。

相撲をスポーツだと思う原因は、競技の内容そのものより、それに付随している「数字」だ。

今場所はここまで七勝負けなし、対戦相手である前頭三枚目の〇〇とは過去十四回対戦して十勝四敗、今日勝てば三年前の春場所以来となる全勝での中日勝ち越し。

相撲にはやたらと記録がつきまとう。記録で語られる競技は、やっぱり神事ではなくスポーツだ。



プロレスのほうがよほど神事っぽい。

プロレスのことはよく知らないけれど、プロレスを語る人はみんな「記録」ではなく「ストーリー」で語っている。

「このレスラーは通算〇勝〇敗で勝率〇割〇分〇厘だ」みたいな語られかたは聞いたことがない。

そうやってプロレスを観る人もいるだろうけど、多くのプロレスファンは「あの後楽園ホールで××に敗れた□□が雪辱を果たすための因縁のタイトルマッチ」みたいなストーリーを乗せてプロレスを観ている。

リングの上での戦いだけじゃなくて、団体を立ち上げたとか、あいつが陰でこんなことを言ったとか、そういう大小含めてさまざまなエピソードがプロレスの歴史を作っている。

これってもうほとんど神話の世界だ。
ギリシャ神話とか旧約聖書とか日本書紀とかの神話に比肩するって言ったら言いすぎですかね。言いすぎですね。

でもまあともかく、プロレスって祭事っぽい。

だから場面だけを切り出してもよく理解できない。一試合だけ観ても楽しめるだろうけど、それはレスリングであってプロレスではない。

各地方にあるお祭りをはじめて見た人には「なんだこれ。なんの意味があるんだ」とわけのわからないことだらけだと感じるけど、そこにはちゃんとストーリーがある。古すぎて誰も知らなかったりするけれど、しかしいろんな歴史に続くものとして、祭事は存在する。

大相撲は、初見でもわかる。

大相撲観戦には因縁とか境遇とか怨恨とかいったたぐいの「ストーリー」は必要ない。

もちろん個々の力士の内側には「あいつにだけは負けたくない」的な思いもあるんだろうけど、それが大っぴらに語られることはない。



大相撲を神事として扱いたいのなら、品格だとかいって格調高くするのではなく、プロレスみたいにおもいっきり俗っぽくしたらいいんじゃないだろうか。

マイクパフォーマンスを導入して、嫉妬とか私怨とか憐憫とか憎悪とか、そういう感情を存分に表に出してみる。朝青龍みたいに。

中学校では手の付けられないワルだった〇〇が、兄弟子を引退に追いこんだ××とのリベンジマッチ! 先場所卑劣な手で流血させられ「あの胸毛ゴリラ野郎」と息巻いていたが、その雪辱を果たせるか!?

みたいなストーリーで語られるようになったら、そしてそれを長年続けていたら、何十年後かには大相撲神話になるんじゃないだろうか。

ギリシャ神話だってずいぶん俗っぽいし。


2018年2月2日金曜日

適当にプリキュア



娘の保育園の参観日に行ったとき、先生が園児たちに「みんなは何になりたいかな~」と訊いた。

男の子は仮面ライダー、女の子はプリキュアが多かった。

うちの子は何と答えるんだろう。大好きなバズ・ライトイヤーだろうな。でも最近は恐竜も好きだからティラノサウルスかな? とわくわくしながら見守っていた。

娘の番になると、娘は元気いっぱいに答えた。「プリキュア!」

愕然とした。
「いやおまえプリキュア観たことないやん!」

うちの家でプリキュアを観たことはない。べつに主義主張があって観せないようにしてるわけではなく、ただ単に親が興味ないから観ないだけ。娘が「プリキュア観たい」と言ってきたら観せるかもしれないけど、言ってこないから観せたことがない。


娘は、他の女の子がみんな「プリキュアになりたい」と言っているから、周囲に合わせて「プリキュア!」と答えたのだろう。

そういえばぼくも小学生時分、同じようなことをしていた。

うちにはファミコンがなかった。クラスの男子でファミコンを持っていないのは、ぼくを入れて二、三人だけ。クラスの友人たちが「ドラクエごっこ」をはじめると、ぼくもよくわからないまま適当にあわせていた。「くらえ! ホイミ!」とか知っている呪文の名前を適当に唱えて「おまえそれ回復するやつやん」と言われていた。

そんな悲しい少年時代を思いだして(いやそんなに悲しくなかったけど)、よくわからないのに適当にプリキュアごっこをしているであろう娘のことがいじらしくなった。


周囲と話を合わせられるように一度プリキュアを観せてやったほうがいいのかな、でもハマってグッズを買ってくれとか言いだしたら嫌だしなあ。

なんて思っていたんだけど、その後四歳児同士の会話を聞いてたらどっちも自分の言いたいことだけ言いあって相手の話なんてまるで聞いてなかったので、適当にプリキュアの話をあわせてもぜんぜんバレないだろうな、と思ってどうでもいいやという気持ちになったのでした。おしまい。


2018年2月1日木曜日

【読書感想】杉浦 日向子『東京イワシ頭』


『東京イワシ頭』

杉浦 日向子

内容(e-honより)
こみ上げる笑いをこらえ鑑賞する演歌ディナーショー。鳥肌を立てつつ挑む高級エステ。バブル東京に花咲く即席シアワセ=「イワシ物件」を匿名体当たり取材!

イワシの頭も信心から、ということで「手軽に幸せになるご利益のありそうなもの」をあれこれ体験してみるというルポルタージュ的エッセイ。

しかしはじめのうちは受験の絵馬とか七福神巡りとか前世占いとか、一応「信心っぽい」ことをやっていたのに、中盤からネタ切れになってきたのか「五木ひろしのディナーショー」「新車の試乗」「女子プロレス」「ストリップ」など、テーマほぼ関係なしのなんでもあり体験エッセイだ。

単行本の刊行は1996年。バブル期の余韻を引きずった東京が舞台ということで、浮かれた気分がそこはかとなく漂っている。

ぼくはその頃田舎で中学生をやっていたので東京の空気はわからないけど、でも今思い返してみると当時の世の中っていろいろと得体の知れないものが流行っていた気がするなあ。

バブルの余韻と不況&世紀末の閉塞感が混ざったような、どこか捨て鉢な気分が漂う感じ。ノストラダムスなどなオカルト的なものが広く語られていたし、オウム真理教が流行ったのもああいう時代だったからなのかもしれない。スプリチュアルなことを人前で話題にするのがはばかられるようになったのってオウム以後かもしれないなあ。

二十年前の日本人ってもっと無責任だったような気がするな。論拠も不確かなものを堂々と語っていた。記録メディアの発達やインターネットのおかげで発言がずっと残るようになったからね。
不正確な言説がは減るのはいいことなんだけど、いいかげんな言説がまかりとおっていた時代も、あれはあれでおもしろかったなと思う。オウムみたいなことにつながるからあんまりおもしろがったらあかんけど。




瞑想ダイエットの章。

「ウチの大先生は、五千年前の始祖から十四代目の当主で。ウチの流れはみんな長生きだから。大先生も、自由奔放、天衣無縫、大酒飲みで、酒風呂入って、生みたて卵食べて、元気元気」
 出た金さんの桜吹雪、中国の五千年。代々を単純に十四分割すれば、一人三百五十歳以上だ。書棚に「仙人列伝」がだ~っと並ぶ。そっか、仙術か。殷の彭祖は屈伸体操と深呼吸で、八百歳まで生きたというぞ、あの手合いか。さて、お姉ちゃんと思いしがセンセイで、いよいよ弁舌爽やか、立て板に水、としまえんのハイドロポリス。

江戸っ子の啖呵のような文章が楽しいね。読むより聞いたほうがいいかもしれない。ほとんど内容ねえし。


こういうライトな体験エッセイってインターネットでいくらでも無料で読めるようになっちゃったから、今お金出して読む人が減ってきてるんじゃないかと勝手に心配。まあぼくが心配するようなことじゃないし、だいたい杉浦日向子さんもう死んじゃったけど。


めちゃくちゃおもしろいわけでもない、情報に価値があるわけでもない、そういうエッセイって今は瀕死の危機かもしれない。減ってはいないんだけど、インターネットには「役に立つコンテンツ」「人を集められるコンテンツ」「金になるコンテンツ」があふれすぎていて、くだらない文章を目にする機会が少なくなっている。

おもしろい文章は金を出して買えばいい。ぼくはインターネットではつまんない人の大した情報のない文章を読みたいんだけどなあ。

と思いながら、こうしてなんの価値も情報性もない文章をつづっている。

つまんない人のつまんない文章を読めるのはインターネットだけ!



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2018年1月31日水曜日

【読書感想】こだま『ここは、おしまいの地』

『ここは、おしまいの地』

こだま

内容(e-honより)
『夫のちんぽが入らない』から1年―衝撃のデビューを果たしたこだまが送る“ちょっと変わった”自伝的エッセイ。

一度人生を終えた人みたいな文章だな、と思う。老成、達観、諦観。

死後の世界からふりかえって「生きてるときはこんなつらいこともあったけど今となってはもういっか」みたいな。ほんとは弥勒菩薩が書いているのかもしれない。


ぼくの中でのこだまさんのイメージは、瀬戸内晴美さんだ。瀬戸内寂聴のちょっと手前。修羅のような人生を経て、すべてを赦す境地に達しかけている人。

逆境に負けるのではなく、立ち向かうでもなく、試練としてじっと甘受する人。

成長することはいろんなことを手に入れていくことだとかつては思っていたけど、少しずつ失っていくという成長の形もあるのだな、と『ここは、おしまいの地』を読んでしみじみ思う。雪がとけてゆくような成長。

そんなことを十代の自分に言ってもまったく理解してもらえないだろうけど。




強烈な臭気を漂わせる家に引っ越すことになった顛末を書いた『春の便り』より。

 数年前から精神病を患う夫は、たびたび無力感に襲われ、仕事を休んだり遅刻や早退を繰り返したりすることが多かった。ところが「くせえ家」に越してからというもの、規定の二時間前には出勤し、誰よりも遅く退勤するようになった。「とにかくこの家から一秒でも長く離れていたい」というのが、その理由だ。残業するうちに気の合う仲間が増え、飲みに誘われるようになり、人間関係がすこぶる円滑らしい。最近では仕事が急に楽しく感じられ、いままでの人生で一番充実しているという。
 夫を変えたのは処方箋や私の言葉ではなく「くせえ家」だった。友人のいないネットゲーム狂いのインドア人間さえも自発的に外出したくなる「くせえ家」。特許を出願したほうがいいかもしれない。

どれだけ臭いんだろう。

「この家でつくった料理を食べたくない」というぐらいのにおいだから相当なものだろうが、他の家を探すとか清掃業者を呼ぶとかせずに折り合いをつけながら「くせえ家」での生活を送る姿が、なんとも「らしい」。逃げだすでも立ち向かうでも他人に頼るでもなく、諦めて受け入れる。こだまさん夫妻らしさを感じるエピソードだ。


以前、湿気のすごい部屋に住んでいたことがある。

家中びしゃびしゃになる部屋。毎朝窓ガラスにバケツいっぱいの水滴がついている部屋。服がすべて生乾きのにおいになり、窓の近くに置いていた本はすべてだめになる部屋。

やはり部屋にいるのが苦痛だった。出不精な人間だったのに、そこに住んでいるときはしょっちゅう出歩いた。

おかげで彼女はできたしバイトで稼ぐこともできたので、今思えば悪いことばかりでもなかった。肺の病気になって入院してバイト代がふっとんだので、トータルでいえばマイナスのほうが大きかったけど。




昔、どブラック企業で「ぼくが辞めたら困るしな」と思いながら五年間、薄給で一日十五時間働いていた。

辞めてみたら「なんであんな劣悪な環境で無駄にがんばってたんだろ」と思うんだけど、当時は逃げるという選択肢は考えられなかった。
(ちなみにその会社はぼくが辞めた半年後ぐらいにつぶれた。ぼくがいてもいなくてもつぶれる会社だった)

現状に納得がいかなければ改革する人は立派だけど、ぼくは常にベストな道を選びつづけられそうもないな。

しゃあない、いろいろと諦めながら滅んでいこう。



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2018年1月30日火曜日

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』

『死にたい夜にかぎって』

爪切男

 内容(Amazonより)
「君の笑った顔、虫の裏側に似てるよね。カナブンとかの裏側みたい」――憧れのクラスメイトにそう指摘された少年は、この日を境にうまく笑えなくなった。

Webサイト『日刊SPA!』で驚異的なPVを誇る連載エッセイ『タクシー×ハンター』。その中でも特に人気の高かった「恋愛エピソード」を中心に、大幅加筆修正のうえ再構築したのが、この『死にたい夜にかぎって』だ。

出会い系サイトに生きる車椅子の女、カルト宗教を信仰する女、新宿で唾を売って生計を立てる女etc. 幼くして母に捨てられた男は、さまざまな女たちとの出会いを通じ、ときにぶつかり合い、たまに逃げたりしながら、少しずつ笑顔を取り戻していく……。女性に振り回され、それでも楽しく生きてきた男の半生は、“死にたい夜”を抱えた人々の心を、ちょっとだけ元気にするだろう。

作者である爪切男は、同人誌即売会・文学フリマでは『夫のちんぽが入らない』主婦こだまらと「A4しんちゃん」というユニットを組んで活動。頒布した同人誌『なし水』やブログ本は、それを求める人々が行列をなすほどの人気ぶりだった。

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

爪切男さんの濃厚な半生記。

爪切男さんのブログ(小野真弓と今年中にラウンドワンに行きたい)も読んでいるし連載『タクシー×ハンター』も読んでいるのでほとんどのエピソードは過去に読んだことがあったんだけど、それでも本で読むと改めてしみじみとおもしろい。WEB上で読むと乾いたユーモアが、本にするとしっとりとしたペーソスを帯びている。



こないだ『クレイジージャーニー』というテレビ番組で、シリア内戦を取材している桜木さんという戦場カメラマンの映像を観た。

銃弾が飛び交い、次々に人が殺されていく内戦の最前線で、兵士たちは冗談を言ってげらげら笑いながら食事をしていた。

「おい見とけよ」とへらへらしながら手榴弾を投げる兵士たち。ときどき投げそこなって味方の陣地を攻撃してしまって笑う兵士たち。

"地獄砲"という反体制派の兵器が紹介されていた。これは何が地獄かというと威力はすごいのに精度がめちゃくちゃ悪くて、ときどき味方を攻撃してしまうのだそうだ。
だから敵に当たったら"地獄砲"だけど味方に当たってうっかり殺しちゃったら"天国砲"なんだよ、と兵士たちは冗談を言っている。

建物の外に出たらスナイパーに撃たれる街。
戦争を知らないものからすると陰惨な場所でしかないんだけど、現場の兵士は、ぼくらと同じようにふざけたり笑ったりしていた。

戦争文学を読んでも、じっさいに戦地に赴いた人の体験談はからっとしている。「なんでおれたちがこんな目に……」なんて我が身の不幸を嘆いていない。学校や職場にいるときと同じように、困ったり笑ったり退屈したりしている。

人間というやつは、どんな状況に置かれても愉しみを見つけだすものらしい。

『死にたい夜にかぎって』を読んでいると、そんなふざけた軍人たちのことを思いだした。



『死にたい夜にかぎって』の筋書きだけ見ていると、爪切男さんの人生は一般的に「不幸」の部類に入るのだろう。

でも文章を読んでいると、本人はなんとも楽しそうだ。シリアで内戦をしながら冗談を口にして笑っていた兵士たちのように。

どんな状況でも楽しみを見つけられる才能。うらやましいようなうらやましくないような。


ぼくがいちばん好きなのは、同棲している彼女が断薬の副作用で首を絞めてくるようになったときのエピソード。

 週三ぐらいのペースで、愛する女に絞殺されそうになるハードコアな生活が幕を開けた。断薬が引き起こす禁断症状により他人への攻撃性が高まることが原因だと医者は分析した。起きたい時間に合わせて首を絞めてくれたら目覚まし時計替わりになって助かるのに、彼女の首絞めにはアラーム機能は付いていないらしい。
 唾を売って生活していた女が、自らの病気と正面から闘おうとしている。応援してあげるのが男の務めだろうと格好つけてはみたが、こんな生活も一ヶ月続くと自分の精神が弱っていることに気づいた。
 発想の逆転が必要だ。首を絞められることは辛いことではなく楽しいことだと考えよう。知恵を絞った結果、首を絞められた回数に応じてご褒美をもらえるポイントカード方式を発案した。十回絞められたら好きな漫画を一冊買う。三十回絞められたら好きなCDを一枚買う。五十回絞められたら特別リングサイド席でプロレスを観る。特典は決まった。さすがに怒られそうなので、この件はアスカには伝えないことにした。
 メモ帳に正の字を書いて数えるのは味気ないだろうと、百円ショップでカード台紙とスタンプを準備した。首を絞められるたびにイチゴのスタンプを台紙に押していく。お店でよく開催しているスタンプ三倍デーも設定した。ラジオ体操カードにハンコが溜まっていくように、自分の頑張りを目に見える形にしただけで自然とやる気が出た。徐々に埋まっていくイチゴのスタンプを見ながらニヤリと笑う。特典の一歩手前で数日足踏みをした時は「どうして俺の首を絞めてこないんだ!」と怒りに震えた。

なんて楽しそうなんだ。人生の勝者、という言葉さえ浮かんでくる。

「もっと金を稼ぐ方法はないものか」と苦悩して周囲の人間を怒鳴りつける大金持ちよりも、同棲相手に首を絞められるたびにポイントカードにスタンプを押す人間のほうがずっと人生を楽しんでいる。ライフ・イズ・ビューティフル。


ふところが広すぎる爪切男さんには今後優しい彼女を見つけて仲良く平穏に暮らしてほしいと思うけれども、でもそうなったら過酷な環境で咲くしぶとい花のようなこの文章は失われてしまうんじゃないだろうか、とも心配になる。

今後もややこしい女たちにふりまわされる人生を送ってくれることを、愛読者としては無責任だけど少し期待している。


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2018年1月29日月曜日

走ればか正直者



郊外の駅前でバスを待っていたら、バスが少し遅れてやってきた。遅れたといっても二分くらいだけど。

若い運転手は、なぜかただの乗客のひとりであるぼくに向かって
「すんません踏切に引っかかっちゃったので遅れまして」と言い訳にならない言い訳を述べ、「ちょっとトイレ行かせてもうてええですか」と言った。
「だめです。そこで漏らしてください」と言うわけにもいかないので「はあ」とうなずくと、運転手はバスにエンジンをかけたまま駅前のトイレへと駆け出していった。

少しして運転手が戻ってきて、バスは発車。
運転手は、車内アナウンスで「トイレに行かせてもらったために出発が遅れましたことをお詫び申し上げます」と云っていた。


なんてばか正直なんだ。

遅れたことを糾弾されてるわけじゃないんだから
「到着が遅れたことをお詫びします」
「出発が遅れてご迷惑をおかけします」
だけでいいのに。そしたらこっちもなんとも思わない。

だのに
「踏切に引っかかったので遅れました」とか
「トイレに行ってました」とか余計なこと言うから、こちらとしても
(よほどのトラブルならまだしも踏切の時間ぐらい見込んで運行しろうよ)とか(なんでこっちがおまえのトイレを待たなきゃいけないんだよ)とか思ってしまう。
急いでるときに「すんません踏切に捕まったせいで……」って言い訳されてたら、説教のひとつもしなくなってたな。

こんなにばか正直で、ちゃんとやっていけるんだろうか。心配だ。


2018年1月27日土曜日

人生のやりなおし

人生のやりなおしができたら……って考えるじゃないですか。ときどき。
いや私は一日に四回ぐらい考えますって人、お気の毒です。さぞかしつらい人生を送ってるんでしょう。

ぼくは今のところそんなにつらい人生を送ってない。たぶん。未来人から見たら「仕事をしないと生きていけなかった時代にうまれてかわいそうに」って思うかもしれないけど。

そこそこ満ち足りた暮らしをしているつもりだが、それでもたまに「あのときああしていたらどうなってたかな」と考える夜もある。

だけど今の科学技術では人生のやりなおしはできないっぽいので、ぼんやりと考えてはすぐに「ま、考えてもしょうがないしな」とべつのことを考える。



子育てをしていると、「これは人生のやりなおしに近いな」と思う。

子どもと一緒に遊んでいると、子ども時代をやりなおしているような感覚にとらわれる。
ああ、これはぼくが四歳のときにやったやつと一緒だ、と。

子どもは自分だと別人だとわかっているんだけど、ついつい己の姿を重ねてしまう。いってみたらアバター。
スーパーマリオのゲームをやるとき、マリオと自分って重なってるじゃない。コントローラーを握っている間は、マリオは自分でもあるわけでしょ。あんな感覚。
娘とおにごっこをしていると、逃げている自分はもちろん自分なんだけど、追いかけている娘もまた自分なんだよね。自分が自分を追いかけている。「娘にはこう見えているだろうな」と思いながら逃げている。

遊んでいる間、「娘だったらこれはおもしろいだろうな」と思うことをやる。たとえば「お父さんが転んだらおもしろいだろうな」と思う。で、わざと転んでみせる。娘は楽しそうにけたけた笑う。ぼくも楽しい。
この「楽しい」は、「娘が笑っているから父親として楽しい」もあるんだけど、それだけじゃなくて「お父さんが転んだから娘として楽しい」も味わっている。娘に自分の意識が憑依している。

赤ちゃんは自分と母親の自我が分かれていない(母親と自分がべつの存在であることがわからない)と聞いたことがあるけど、親もまたある部分では子どもと同一なんじゃないだろうか。

これは人生のやりなおしだ。



そうは言っても、娘はマリオとちがって思ったとおりに動かない(ぼくはゲームがへたなのでマリオも思いどおりに動かせないけど)。
今は四歳だから「こうやったら楽しいだろうな」とか「こう云われたら怒るだろうな」とかなんとなくわかるけど、もっと大きくなってきたら意識の差はどんどん大きくなっていくのだろう。

思春期以降、「親が口うるさい」と感じることが多くなるけど、たぶんそれは子どもにとっては親は完全にべつの存在であるのに対して、親にとってはまた子どもが自分と分化されていないからだと思う。
反抗期の問題って子ども側の問題(子どもが成長の過程で不安定になる)として語られているけど、ほんとうの原因は「子どもが自分とはべつの存在だということを受け入れられない親」のほうにあるんじゃないかな。



親が子どもに口うるさく云うのは、自分の人生をやりなおしているからだと思う。

もし人生のやりなおしができたら。
「もっと勉強しとけばよかった」と思っている人は勉強するだろう(たぶん長続きしないけど)。学生時代の自分に会えたら「ぜったいに勉強しろ!」と言うだろう。
そういう人は親になったら子どもに勉強させようとするにちがいない。

「スポーツやっといてよかった」と思う人は人生をやりなおしてもスポーツをやるだろうし、親になったら子どもにスポーツをさせようとするだろう。


ま、どうせ無駄なんだけどね。
勉強しなかった人は何度人生をやりなおしたって勉強しないし、勉強しない親の子どもは勉強しない。

タイムトリップもののSFで「運命は決まっているから何度タイムマシンで昔に戻ってやりなおしても同じ結末になってしまう」ってのがあるけど、あんな感じ。

わかってるんだけどね。
自分の子どもだから程度が知れてるって。
でもやっぱり、自分にできなかったことを子どもに期待しちゃうし、自分がやってきてよかったと思う道を子どもに薦めてしまう。

時代が変わってるから同じことをやってもうまくいくとはかぎらないんだけどね。
英語がしゃべれることが大きなアドバンテージだった時代もあれば、自動翻訳の性能向上により外国語スキルが「電卓が普及している時代の暗算スキル」程度に下落してしまう時代もある(あと数年で到来するだろう)。
でも親の意識は「自分の人生のやりなおし」だから、ついつい「この先どうなっているか知っている未来人」の立場でアドバイスしちゃうんだよね。
縄文時代ならいざ知らず、社会は常に変化してるってことを忘れて。

いや、縄文時代の親だって「悪いこと言わないからお父さんと同じように縄の跡つけた土器をつくりなさい。そんな薄くて軽い弥生式を作ろうとしてもうまくいくわけないだろ」みたいな時代錯誤なアドバイスをしていたんだろうな。

2018年1月26日金曜日

魔女のBtoB


『魔女の宅急便』でキキが空を飛べるからって宅配業をはじめてたけど、個人でやるのはあんまりいい商売とは思えないなあ。
配達自体はほうきに乗ってひとっ飛びかもしれないけど、荷物の保管とかスケジュール管理とか物損のリスクとか考えたら、割に合わない気がする。
じっさい映画の中でも、届ける荷物を落として紛失したり、同時に二件受注しただけでてんやわんやになってた。
個人向けの宅配業というのはある程度規模が拡大することではじめて成り立つ商売だと思う。郵便局みたいに広範囲に拠点があって各地に配送員がいるところじゃないと、新規開業は厳しそうだ。

BtoC(個人向けサービス)じゃなくてBtoB(法人向けサービス)のほうがキキには向いてると思う。
たとえば、ある企業が別の企業に毎月一回商品を納品している。これだったら、決まった日に決まったルートを通ればいいからスケジュールも組みやすい。何社かと契約しても、それぞれ配送日をずらせば個人でも対応できそうだ。「月初は忙しいので5日頃でもよろしいでしょうか」なんてお願いを聞いてくれる会社もあるだろう。


もし個人向け宅配にこだわるんだったら、都市部じゃなくて地方のほうがいいと思う。交通網があまり整備されていないところ。
橋のかかっていない島とか、道路状況の良くない山間部とか。直線距離にしたら大した距離じゃなくても輸送にコストがかかるようなところ。
こういうところだと「空を飛べる」というキキの強みが存分に活かせる。

映画を観る限りキキが暮らしていたのはそこそこ大きな港町だったけど(ストックホルムとヴィスビーという町が舞台らしい)、島嶼部とか山間部の農村とかのほうが商売に向いていたんじゃないかなあ。五島列島とか。


2018年1月25日木曜日

四歳児とのあそび

最近、四歳の娘とやる遊び。
数年後に見返して自分が楽しむために記録。

ジグソーパズル

ジグソーパズルを買ってあげたら、毎日のようにやっている。
ぼくも好きだったなあ。こういう黙々と作業をする遊び。
完成したらすぐにくずしてしまう。で、またやる。

108ピースのジグソーパズルができるようになったので、300ピースのを買ってあげた。さすがにむずかしいようなのでいっしょにやる。ジグソーパズルはあまりうまいへたが関係ないので、大人もいっしょに楽しめるのがいい。
ふつうはカドや端からやるものだと思うが、娘は自分の好きな絵からやる。

レゴ

レゴも好きだ。でも、あまり創作はしない。設計図通りにつくり、できた家や恐竜を使っておままごとをやる。こういうところは女の子だなあ、と思う。教えなくても、遊びかたに性差が出るよね。
ぼくもレゴが大好きだったが「塊をつくり、ぶつけあって壊れなかったほうが勝ち」という遊びをよくやっていた。あと迷路をつくったりとか、首を斬り落としたりとか。男の子だなあ。

都道府県クイズ

娘は地図が好きなので、日本地図を買ってあげた。さすが子ども。すごい勢いで覚える。
保育園に行く途中、毎日娘と都道府県クイズをする。
「"お"ではじまる県は?」
「大阪府、岡山県、大分県、沖縄県。じゃあ"と"ではじまるのは?」
「東京都、栃木県、富山県、鳥取県、徳島県」
みたいなのを言いあう。でも娘は名前は覚えているが、都道府県の概念はよくわかっていない。

恐竜クイズ

娘は恐竜も好きだ。お年玉でトリケラトプスのぬいぐるみを買うぐらい。しょうもないことに金をつかうなあ、と思うが、それでこそお年玉の正しい使い方だとも思う。有用なものはふだん買ってもらえるもんね。
恐竜の名前をたくさん覚えた。
やはり保育園に行く途中、
「頭の後ろが長い恐竜は?」
「パラサウロロフス。じゃあ尻尾の先にハンマーみたいなのがついている恐竜は?」
「アンキロサウルス」
みたいなクイズを出しあいながら歩く。おかげでぼくもずいぶん恐竜に詳しくなった。

ボールあそび

といっても、まだあまり上手に投げることができない。
一メートルくらい離れて、ただ投げあうだけだ。
あと、ボールを転がす遊びもよくやる。どちらが遠くまで転がせるか。勝たないと怒るのでほどほどに負けてあげる。

かけっこ

四歳ともなるとなかなか速くなってくるので、いっしょに走るのはなかなかしんどい。
これまたわざと負けてあげる。でもあんまり負けすぎると「お父ちゃん、ちゃんと走って!」と怒る。めんどくさい女だ。
なので五回中一回くらいは勝つようにしている。

自転車

少し前に、自転車の補助輪をとった。四歳で補助輪なしというのはちょっと早い気もするが、以前ペダルのない自転車に乗っていたので、バランスをとるのはうまくなった。補助輪なしでもまず転ぶことはない。とはいえひとりで上手に乗れるわけでもないので、ぼくが自転車の後ろを支えながらいっしょに走ることになる。
これがきつい。けっこうな速さで走るし、こちらは幼児用の自転車を支えているから中腰の姿勢になる。このつらさを知らない人は、ぜひ中腰で走っていただきたい、ほんの数十メートルで音を上げるだろうから。

かくれんぼ

ぼくの人間性が四歳児並みなのでだいたい一緒に楽しく遊ぶんだけど、どうもかくれんぼだけは苦手だ。
一歳くらいならいいんだけど、四歳ともなるとそこそこちゃんとしたところに隠れないと納得してもらえない。で、娘から遠く離れた木の茂みなんかに入って身をひそめることになる。
そこで「もういいよー」と大きな声を出すのが恥ずかしい。

また、遠くに隠れると娘はなかなか見つけてくれない。そこに知らないおじさんが通りかかる。大の大人がひとりで木の茂みにうずくまっているのを見て、おじさんはぎょっとした顔をする。そりゃそうだろう。「いやこれはかくれんぼをしていて……」と弁明するのも変だし、ぼくは恥ずかしさをこらえて身をひそめつづける。
ああ、苦手だ。

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トリケラトプスと赤い羽根共同募金


2018年1月24日水曜日

銀河帝国軍の悲劇


こないだ『スター・ウォーズ』エピソード7を観たんだけどさ。

帝国軍の宇宙戦艦がダサいんだよね。

まあ昔のシリーズのを踏襲してるからしょうがないんだけど、それにしても古くさい。


SFにおける宇宙戦艦の操縦席ってだいたいあんな感じだよね。

数人が入れるスペースの三方に無数のボタンやら計器やらがあって、その上のでかい窓から宇宙船の外が見える。

なぜかちょっとうす暗い部屋に緑やらオレンジのボタンが光ってて、黒地に蛍光グリーンの罫線が浮かんだ座標軸みたいなのがスクリーンに浮かんでて、みたいな感じ。

まあフィクションにおける宇宙戦艦の典型、みたいなやつだよね。どの作品が発祥か知らないけど、たぶん宇宙戦艦ヤマトの時代からほとんど変わってない。

なんでうす暗いんだろうね。エネルギー節約のためかな。うす暗い部屋で操縦してて眠たくならないのかな。



思ったんだけどさ、操縦席にあんなにボタンいる?

そこそこ広い部屋に何千個というボタンが並んでいる。

明らかに座席から届きにくい位置にあるボタンもあるし、あんなにあったらぜったいに押し間違える。

この何十倍ものボタンやら計器やらがある

マウスとキーボードとディスプレイでよくね?

そしたらボタン百個くらいで済むと思うんだけど。

よく使う機能とか緊急性の高い機能は独立したボタンにしたらいいと思うんだよ。「加速ボタン」とか「ブレーキボタン」とか。

でも、帝国軍宇宙船の操縦席にはあんまり使わないボタン、そんなに緊急性の高くないやボタンもあると思うんだよね。「コックピット内を加湿するボタン」とか「宇宙ラジオのAM/FMを切り替えるボタン」とか。

そういうのにはひとつのボタンを割り当てなくてもいいと思う。キーボードでメニューを呼び出して「環境設定」→「船内環境」→「湿度」→「コックピット」で「50%」を選択するとか。

それが面倒ならショートカットキーを割り当ててもいい。「Ctrl」+「Alt」+「H」で湿度調整、とか。


『スターウォーズ』の時代は、わりと誰でも気軽に宇宙に行く時代っぽい。宇宙船は特別な訓練を受けた一握りの人間だけのものではなさそうだ。

だったらもっと直感的に操作できるデザインにしたらいい。マウスで操作できるとか、タッチパネルにするとか。

千個もボタンを配置してたら、うっかりさわっちゃうこともあるだろうし、押しまちがえもしょっちゅうだと思う。「温度上げようと思ったら有線放送のボリューム上げちゃう」みたいなミスも発生するだろう。宇宙で有線はないか。高齢パイロットがアクセルとブレーキを押しまちがえる、みたいな重大な操作ミスも深刻な社会問題になるかもしれない。もっとミスの起こりにくいデザインにすべきだろう。

映画なんかではよくボタンひとつでミサイル発射してるけど、あんなの危険きわまりない。ちゃんとモニターに「(警告)ミサイルを発射しようとしています。ほんとに発射しますか? <y/n>」みたいな確認メッセージを表示させたほうがいい。


あとさ、『スター・ウォーズ』の映画では直接的なミサイルの撃ち合いばっかりやってるけど、たぶん水面下ではそれ以上に熾烈な情報戦がくりひろげられているはずだ。

フォースの力でチャンチャンバラバラやらなくたって、相手のコンピュータに侵入してしまえば勝ったも同然なんだから。

あれだけたくさんの宇宙船が飛んでるわけだから、それぞれ独立したシステムではなくネットワークでつながっているはずだ。だから常に相手のシステムの隙をつくようなサイバーアタックがしかけられてるはず。システム管理者は、敵に侵入されないように常にシステムを最新の状態にしておかなくてはならない。

だから映画では描かれてないけど、しょっちゅう「システムの脆弱性が見つかりました。プログラムの更新のため、60秒後に再起動します」なんてメッセージが出て、OSの再起動がおこなわれてると思う。

「一斉攻撃だ!」ってタイミングで「て~て~て~てん」ってWindowsの終了音が鳴って勝手に再起動が始まって、「もー! せっかく攻撃目標設定したのに! 保存してなかったのに!」みたいな悲劇もたくさん起こってると思うんだよね。


2018年1月23日火曜日

見事に的中している未来予想 / 藻谷 浩介『デフレの正体』



『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』

藻谷 浩介

内容(e-honより)
「生産性の上昇で成長維持」という、マクロ論者の掛け声ほど愚かに聞こえるものはない。日本最大の問題は「二千年に一度の人口の波」だ。「景気さえ良くなれば大丈夫」という妄想が日本をダメにした。これが新常識、日本経済の真実。

2010年不況期に刊行された本だからちょっと古いんだけど、今読むと見事に著者が書いているとおりになっている。
生産性が上がって景気も良くなっているのにいっこうにモノは売れない、労働者の給与は上がらない。
失業率は下がって有効求人倍率は上がっているはずなのに、誰も景気の良さを実感できない。
それは生産人口が減っている上に、若い人に金がまわっていないから。

書いてあることがことごとく当たっていて、だから余計に陰鬱な気持ちになる。はぁ。
もう日本の状況が良くなることはないんだな。まあ日本だけじゃなくて遅かれ早かれ他の国も同じ道をたどるんだろうけど。

いろんな人が「景気さえよくなれば日本の経済は再びよくなる」って言ってるけど、この本を読めばそんなことはぜったいに起こりえないということがわかる。生産人口が減っている以上、もうどうしようもないのだと。
もしかしたら「景気さえよくなれば」って言ってるほうも、それが嘘だってわかってて言ってるのかもね。だって「もう何がどうなろうと日本の経済が以前のように回復することは100%ありません」って言うのはつらいもんね。たとえ逃れようのない真実であっても。
だから景気だとか失業率とか有効求人倍率とか、どうとでもできる(ということは意味がないということでもある)数字をあれこれ言って現実からみんなで目を背けているのかもね。

だって書いてあることは、景気が良くなっても状況は良くならない、日本製品が海外で売れても良くならない、子ども産んでも良くならない、って話だからね。
じゃあどうしたらええねんって思うでしょ。どうにもならないんですよ、これが。笑っちゃうよね。ははっ(乾いた笑い声)。


バブルの原因である地価の高騰について。

 ただ、顧客の中心がわずか三年間に出生の集中している団塊世代である以上、需要の盛り上がりは短期的であることが本当は明らかでした。ところが当時の住宅業界、不動産業界、建設業界は何と考えたか。「景気がいいから住宅が売れている」と考えたのです。こういう発想ですから、「このまま景気が良ければ、いくらでも住宅は売れ続ける」という考えになってしまいます。でも実際には逆で、「団塊世代が平均四人兄弟で、かつ親を故郷に置いて大都市に出てきている層が多いため、一時的ながら大都市周辺での住宅需要が極めて旺盛になり、その波及効果で景気が良くなった」ということでした。日本史上最も数の多い団塊世代が住宅を買い終わってしまえば、日本史上二度と同じレベルの住宅需要が発生することはないわけです。そこに、住宅の過剰供給、「住宅バブル」が発生します。
 つまり住宅市場、土地市場の活況は、最初は団塊世代の実需に基づくものであってバブルではありませんでした。ところが日本人のほとんどが住宅市場の活況の要因を「人口の波」ではなく「景気の波」であると勘違いしたために、住宅供給を適当なところで打ち止めにすることができず、結果として過剰供給=バブルが発生してしまいました。その先には値崩れ=バブル崩壊が待っていたわけです。

ということはもう二度とバブル期のような伸びはこないんだよね。これから一組の夫婦が十人ぐらい子どもを産んで爆発的に人口が増えて、老人だけが死ぬ伝染病が大流行でもしないかぎり(もしそうなっても経済の伸びがやってくるのは数十年後だけど)。


一応、対策も書いてある。こうやったらまだマシですよ、という施策が。
ひとつは、女性の雇用を増やすこと。でもそれって達成できたとしても一時的な解決であって、人口が減っている以上根本的な解決にはならないよね。
ひとつは、外国人旅行者に使ってもらうお金を増やすこと。これはわりと達成できつつあるよね。
ひとつは、財産を老人から若い人に移すこと。これはクーデターでも起こらないかぎり不可能でしょう。

はー、つらい。読めば読むほど日本の状況って八方塞がりなんだと気が付かされる。政治が悪いとかそういう話だったらまだよかったんだけどね。それだったらまだ改善の見込みがあるから。
いやでもほんとに革命政権が実権握って〇歳以上は全員死なす、とかしないかぎりどうにもならないんだろうね。どっちにしろぼくらみたいな中年に明るい未来はないね。
もうしょうがない。みんなで老人の介護しながらゆっくり滅んでいきましょう。



著者の藻谷さんって頭いい人なんだろうなあ、と思う。ほんでほんとのことをビシバシ言ってすぐに敵をつくっちゃうんだろうなあ、とも。

いかに自分が正しいと思いこんでいることがいいかげんか、ということに気づかされる。
「女性の社会進出が進むと少子化が加速するんじゃないか」という話、聞いたことありませんか?
ありそうな話ですよね。ぼくも直感的にそう思う。

 それではお聞きしますが、日本で一番出生率が低い都道府県はどこでしょう。東京都ですね。それでは東京都は、女性の就労率が高い都道府県だと思いますか。低いと思いますか。高いと思いがちですよね、でも事実は違います。東京は通勤距離が長い上に金持ちが多いので、全国の中でも特に専業主婦の率が高い都道府県なのです。逆に日本屈指に出生率の高い福井県や島根県、山形県などでは、女性就労率も全国屈指に高いのですよ。
 同じくお聞きしますが、専業主婦の家庭と共働きの家庭と、平均すればどちらの家庭の方が子供が多いでしょう。これまた専業主婦で子沢山という、ドラマに出てくるような例を思い描いてそれが全体の代表であるように考えてしまう人がいるでしょうが、事実は違います。共働き家庭の方が子供の数の平均は多いのです。

へえ。
たしかに昔は「専業主婦ほど子だくさん」だったんだろうね。というか子どもが生まれたら専業主婦になる人のほうが多かったわけだから。
でも今は経済的に恵まれている人のほうが子どもを持てるんだろうね。あと働いていると保育園に預けられるからつきっきりで面倒みなくていい、ってのも大きいかもしれない。これは人によると思うけど「大人とほとんど話すことなくずっと子どもの面倒みてる」ってのをきついと思う人も少なくないだろうからね。


2010年の本だけどおもしろかった。ひょっとすると当時読むより今読むほうがおもしろいかもしれない。「怖いぐらい当たってる……!」って思えるから。
そして当時よりもっと状況が悪くなっていることに気づいて慄然とするから……。



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2018年1月22日月曜日

滅びゆくぼくら


うなぎって絶滅しそうじゃないですか。でもみんな食べてるじゃないですか。
たくさんの人が漁師とか水産庁とか食べてる人とかを批判してるけど、たぶんどうにもならないね。うなぎは滅ぶ。もう止められない。


漁師とか水産庁とかうなぎ食べてる人だけがばかなんじゃなくて、人間みんなばかなんですよ。だめだと思ってもブレーキかけられない。
なんとかなるだろって思ってる。うなぎの絶滅も年金問題も地球温暖化も未来のかしこい人がなんとかしてくれるだろうと思ってる。

ある日コアラが、このままユーカリ食べてたらユーカリが絶滅するって気づいたとするじゃないですか。
じゃあユーカリ食うの抑えようぜってなると思います?
つらいけど我慢して他の葉っぱ食うことにしようぜってなると思います?

ならないよね。人類もいっしょ。コアラの知性と似たり寄ったりだからね。
うなぎの絶滅くらいなんとも思わないし、このままじゃ五十年後に人類が死ぬぞってわかってもたぶん行動は変えられない。

もう滅びていくしかないね。ぼくらみんなばかなんだから、みんなで仲良く滅びていこうぜ。


2018年1月21日日曜日

創作落語『行政書士』


『代書』(または『代書屋』)という落語を現代風にアレンジ。



えー昔は代書屋という商売がございました。
まだ字の書けない人の多かった時代には、転居届や婚姻届といった書類を代筆することが商売として成りたったんですな。
今でも行政書士が代書をしてくれますが、これは登記簿や遺産分割協議書といったお堅い書類が中心で、ふつうの人はそんなに頻繁にお世話になるもんではありませんな。


 「もしもし」

「どうぞ。お入りください」

 「あのー、こちらは嬌声女子の事務所だとお聞きしたんやけどな」

「そんないやらしい名前の事務所がありますかいな。ここは行政書士の事務所です」

 「あーこれはえらい失礼を。なんでもこちらでは書類の作成を代わりにやってくれるとか」

「ええそうですよ。まあまあどうぞ。こちらへおかけください。
 しかし行政書士の事務所に飛び込みのお客さんとはめずらしいですな。たいていは予約があるもんですが。いえいえ、いいんですよ。ちょうど暇をしておりましたもので飛び込みのお客さんも大歓迎です」

 「さっそくやが、代筆をお願いしたいんやけどな」

「もちろんです。登記ですか?」

 「トウキ? いえ、お皿じゃなくて紙に書いてほしいんや」

「いやいや、お皿の陶器やなくて登記簿の登記です。不動産の所有者を示す書類。
 登記じゃない? じゃあ建設関係の許可証かな。それとも飲食店の営業許可証? まだ若いから遺言書ではないでしょうし……」

 「いやいや、書いてほしいのは履歴書や」

「履歴書? 履歴書ってあの就職とか転職に使う……?」

 「そうそう、その履歴書」

「履歴書みたいなもん、自分で書いたらよろしいですがな」

 「それが書けないからこうして来とんねん。自慢じゃないが、履歴書を書いたことなんかいっぺんもない」

「たしかに何の自慢にもなりませんわ」

 「字もめちゃくちゃへたやしな。おまえの字はアートや、って褒められたこともあるぐらいで」

「それは褒められとるんとちゃいますがな」

 「今、転職活動しとってな。応募しようと思ってるところが履歴書を手書きで書けと、こない生意気なことを言いよるんや。ずいぶん頭の固い職場やで」

「まあときどきそういうところもありますわな。手書きの文字には人柄が出ますからな」

 「せやから代筆を得意としてる人はおらんかいなと思ってよっさんに訊いたら、それやったら行政書士の先生がええんちゃうかって言われてここに来たんや。ほんまよっさんは何でも知っとるで」

「お友だちですかいな」

 「そうそう、おれらの間では物知りのよっさんで通っとる。なんせ高校のテストで五十点もとったことあるんやからな」

「そんなもん自慢になりますかいな」

 「五十問全部四択のテストやってんけど、ようわからんから全部勘で答えたらしいわ」

「それで五十点ってある意味すごいですな」

 「ほら、履歴書の紙は買うてきたで。あとは書くだけや。ほな頼むで。おれはそこのパチンコ屋で時間つぶしてくるから」

「ちょっとちょっと! あかんあかん、あんたがおらなんだらあんたの履歴書なんか書けませんがな」

 「そこをなんとかするのが行政書士の先生ちゃうんかいな」

「無茶言うでこの人は。知らん人の履歴書どうやって書けって言うんや……。
 そこに座って。
 まあ人の履歴書書くってのも話のタネにはなるな。やってみましょか。
 まず、お名前は何ですかいな」

 「ヨシダヒコジロウ」

「ほう。今どきめずらしい古風なお名前やな。吉田彦……。ジロウという字はどう書きますのや。数字の"二"か"次"か"治める"か」

 「数字が名前に入ってるわけないやないか」

「その2やない。こう、二本線の二や」

 「ああ、それか。その字とちゃう」

「ほな、次ですか」

 「三でもない」

「二の次やから三、やありませんがな。"次"という漢字ですかと訊いとりますのや」

 「ああ、たしか左側がその次に似とるな。せやけど右がちょっと違うな」

「ほな"治"ですな。で、ロウはどう書きますのや。"おおざと"か"月"か」

 「何をわけのわからんことを言うとるんや」

「"郎"と"朗"のふたつがありますやろ。ほら」

 「なんや、同じようなもんやないか。どっちでもええで」

「どっちでもええことありますかいな。名前やねんから」

 「ほなこっちにしといてんか」

「そんなんでええんかいな……。まちがってても知りませんで。吉田彦治郎、と。
 ほんなら吉田さん、住所は」

 「誰が吉田さんや」

「さっき言いましたがな、吉田彦治郎って」

 「それは物知りのよっさんの名前や」

「あんたの名前やないんかいな!」

 「さっきよっさんの話しとったから、てっきりよっさんの名前訊かれたんかと思ったわ」

「あーあ。もう書いてしもたがな。しゃあない、書き直しや」

 「新しい紙出さんでも消して書き直したらよろしいがな」

「万年筆で書いてるんや、消えるかいな」

 「ほんならぐちゃぐちゃぐちゃっと塗りつぶして、横の隙間に書いて……」

「自分の名前を派手にまちがえた履歴書なんかどこに出しても落とされますで」

 「そうそう。おれ宛てに届いた手紙を持ってきたんや。これ見たら名前わかるやろ」

「はじめから出しいな。これあったら名前も住所もわかるわ。
 ほう、中央区にお住まいですか」

 「そうそう、郵便局の向かいや。そう書いといて」

「いらん、いらん」

 「書いといたほうが道に迷わんですむやろ。地図も書いといたほうがええんちゃうか」

「そんなもん履歴書に書かんでよろしいのや。
 ほい、ほな次は年齢と生年月日。いくつですか」

 「いくつやと思う?」

「合コンやないんやから、そんなんいりませんのや」

 「今年で二十八やから……二十六にしといて」

「嘘を書いたらあかん。二十八、と。
 生年月日は?」

 「あんたなんでもかんでも聞いてばっかりで、ほんまに何も知らんねんな」

「知ってるわけありませんがな」

 「生年月日ねえ。いつやったかな……。いつやった?」

「そんなもん、私に訊かれても知りませんがな」

 「ちょっと待ってな。今からインターネットで検索するから」

「そんなもん検索してもわかるかいな」

 「あっ、そや。免許証があったんや。昭和六十三年五月五日」

「ようそんなんで免許とれましたな。
 昭和六十三年五月五日……と。
 ん? 今年は平成三十年でっしゃろ。計算が合わんな」

 「へへへ、ほんまは三十歳や」

「嘘かいな!
 また書き直しやがな」

 「若く見えるって言われるから、二十八でもいけるかなと思って」

「嘘ついたらあきませんのや。
 ほんなら次は学歴や。学校は?」

 「学校は、もう行ってない」

「わかっとります。どこの学校を出たのか訊いてますのや。学校の名前は?」

 「ええと、たしか高等学校とかいう名前やったな」

「それは名前やない。何高校ですか」

 「なんやったかな……。聞いたら思いだすと思うんやけど。先生、ちょっと日本にある高校の名前、順番に挙げてってんか」

「何個あると思ってるんや!
 まあ住所から察するに、西高か南高かな」

 「そうそう、西高や」

「何年卒ですか」

 「二年で卒業した」

「それは卒業やなくて中退というんや。
 西高等学校中退、と。
 ほな次、職歴。今までにした仕事を教えてくれますか」

 「まず最初はパチンコ屋」

「パチンコ屋ね。アルバイトですか、正社員ですか」

 「自由業や」

「パチンコ屋で自由業とはどういうことや」

 「好きな時にパチンコ打ちにいってたんや」

「それは仕事やありませんがな」

 「いやでもそれでけっこう稼いでる日もあったんやで」

「そんなんは履歴書には書けませんのや」

 「パチンコ屋があかんのやったら、最初にやったのはたこやき屋やな」

「たこやき屋の従業員ですな」

 「たこやき屋ってかんたんやと思ってたけど、意外と疲れるもんやな。暑いし、立ちっぱなしで疲れるし、つまみ食いしたら怒られるし」

「あたりまえや」

 「あんまりしんどいから、トイレに行くって言って二時間で逃げだした」

「そんなもん履歴書に書けませんがな!
 履歴書には何年から何年まで勤務って書かなあきませんのや」

 「ほな、三時から五時までって書いといてんか」

「んなこと書けるかい」

 「そんなことでも書かんと、読むほうがおもろないやないか」

「おもしろくなくてもええんですわ、履歴書やねんから。
 で、他の仕事は?」

 「他にもいろいろやったで。
  ダフ屋にキャッチに賭け麻雀にキャバ嬢の犬を散歩させる仕事に……」

「履歴書に書かれへん仕事ばっかりやがな。もうよろしい、職歴なしのほうがマシや。
 面接でなんで職歴がないのか訊かれたら資格取得に向けて勉強していた、とこない言うたらよろしいわ」

 「ほな行政書士めざしてたことにしますわ。
  先生見てたら、ええ仕事やなと思いましたんで」

「褒められてんのか馬鹿にされてんのかわからんな。
 ええと、趣味はなんですか」

 「昼寝」

「特技は」

 「すぐ寝られること」

「採用される気ないんかいな、この人は。
 無難に、読書と音楽鑑賞としときますで。
 賞罰の欄は空欄でよろしいかな」

 「ショウバツ? なんやそれは」

「なんや賞をもらったとか、悪いことをして捕まったとか」

 「ああ、あるある」

「いつ逮捕されましたんや」

 「なんで罰のほうって決めつけんねん。賞のほうや」

「これはえらい失礼を。
 賞といっても、町内で一番になったくらいやあきませんのやで」

 「そんなしみったれたもんやない。日本で一番になった」

「ほう、それはたいしたもんですな。スポーツですか」

 「雑誌の懸賞で、一名様にしか当たらん賞品が当選したことがあってやな」

「それはただの運や。もうよろしいですわ。賞罰なし、と。
 家族構成は?」

 「ええと、父ひとり、母ひとり、兄ひとり、おれひとり」

「あたりまえや」

 「それからじいちゃん、ばあちゃん、ひいじいちゃん、ひいばあちゃん……」

「今どきめずらしい大所帯ですな」

 「まあじいちゃんばあちゃんはみんな死んでしもたけどな」

「死んだ人は言わんでよろしいんやがな。
 両親、兄一人と。
 ハンはお持ちですか?」

 「ハン? パンなら今朝食べてきたけども」

「いやいや、印鑑、ハンコですわ」

 「あーハンコね。そうそう、履歴書にはハンコがいるかもしれんって聞いたさかいな、ハンコを家中探したんやがどこにもない。しゃあないからよっさんにお願いして、借りてきた」

「あかんあかん。ハンコみたいなもん人に借りるもんちゃいまっせ。貸したほうもたいがいやで。
 しゃあない、ハンコがないんやったら拇印でいきましょ。ほら、右手の親指貸して」

 「返してや」

「しょうもないこと言いなさんな、はいペッタン。
 ほな最後に顔写真は貼らなあきません。今、お持ちですか?」

 「写真なんかあるかい。先生の写真、ちょっと貸してんか」

「あかんあかん、なんでもかんでもすぐに人に借りようとするな、この人は。
 そこの角に証明写真機がありますから、後で撮って貼ってくださいな。
 ほな、これで履歴書の代筆は終わりですわ」

 「先生、おおきに!」

「こらこらこら、代金をまだいただいてませんで」

 「おお、そうやった。いくらや?」

「代金といったものの、履歴書の代筆なんかやったことないしな……。
 まあええ、二千円でよろしいわ」

 「二千円? 千円しか持ってきてへんで。千円足らんな。
  しゃあない、ほな履歴書半分に破ってこっちだけもらっていくわ」

「待て待て待て、破ったらせっかく書いた履歴書が台無しや。
 半分置いていかれても困るし。
 もうええ。千円に負けたりますわ」

 「おおきに先生! これで採用まちがいなしや!」

と、できたばかりの履歴書をひっつかんで飛び出していった。

「はー疲れた。
 しかしどえらい人やったな。履歴書は書いたものの、あんな人を採用する会社があるんやろか……」

行政書士の先生、一息ついてお茶なんか飲んでおりますと、ドンドンドン、とドアをたたく音がする。
ドアを開けると、立っていたのはさっきの男。

「おやあんたは先ほどの。忘れ物ですか」

 「いやいや、先生の事務所に職員募集の貼り紙してますやろ。
  あれ見て応募したんや。履歴書もありますで!」



2018年1月20日土曜日

バカ舌のしあわせ



大学時代、自称食通の友人がいた。
彼と食事に行くと、「これは化学調味料の味が強くて食えたもんじゃない」とか「これはまあいける」とか言っていた。
当然ながら、彼と食う飯はまずかった。そりゃそうだ。自称食通に「これは食えたもんじゃない」と判定された料理を「うまい、うまい」と食えるわけがない。
ぼくは彼と一緒にご飯を食べに行っても楽しくないので「飯食いに行こうぜ」と誘わなくなった。彼自身もぼくが誘うような安い店に行っても楽しめなかっただろう。



ぼくの姉は栄養士をやっている。
学生時代、姉とふたりで下宿をしていた。姉は料理が好きなので、たいてい食事を作るのは彼女の役割だった。
あるとき、姉がいなかったのでぼくは冷蔵庫の残りもので納豆チャーハンを作った。食べてみて、なかなかよくできたじゃないかと悦に入っていた。
そこに姉が帰ってきた。姉はぼくがつくった納豆チャーハンを見て「ちょっとちょうだい」と言って一口食べ、「イマイチやな」と言った。
それ以降、ぼくが姉の前で料理をすることは一度もなかった。ひとりで料理をしても必ず全部ひとりで食べ、姉のために残すことはしなかった。



幼なじみの友人と食事に行った。彼は板前修業を経て、今は一流ホテルでフレンチのシェフをやっている。
「どこにする?」と言うと、彼は「おれ金ないからあそこでいい?」とある店を指さした。
指さした先にあったのは緑の看板に赤い店名。サイゼリヤだ。

彼は五百円ぐらいのパスタを、うまいうまいと言って食べていた。ぼくが頼んだドリアも少し食べて「やっぱりサイゼリヤはどれもうまいなー」と言った。
「よく来るの?」と訊くと、彼は「ファミレスは安い価格でおいしい料理を出してるからすごく勉強になるよ」とシェフの顔で答えた。



「舌が肥えている」ことは美徳とされているけど、味の違いのわからないバカ舌のほうが人生楽しめると思う。
食品開発の仕事をしている人やソムリエや東西新聞社の文化部記者でないなら、安い料理で「おいしい、幸せだ」と思えるバカ舌のがよっぽど美徳だと思う。

2018年1月19日金曜日

少子化が解決しちゃったら


やれ児童手当だ、やれ待機児童だとみんながお題目のように「少子化対策」と言ってるけど、みんなほんとは気づいてるんでしょ?

消費が増えないとか、格差が拡大してるとか、保険料が高いとか、そういうのの原因は少子化じゃないってことに。
もしも今から子どもがどんどん増えたとしたら、状況は今よりもっと悪くなるってことに。

子どもなんか金は稼げないわ、医療費や教育費はかかるわ、少なくとも格差是正や社会保障費の負担減やらにはちっとも寄与しない。というかマイナスでしかない。
消費拡大にはちょっとは貢献するだろうけど、ほとんどの人は使い道がないからお金を使わないんじゃない。お金がないから使わないだけだ。子どもに金を使うならその分他への支出を削るだろう。

人口が増えたら、住宅難、食糧難などで生活水準は下がる。たぶんいいことより悪いことのほうが多い。


問題はどう考えたって少子化じゃなくて高齢化のほうだ。
仮に子どもが増えて人口が増減なしだったとしても、高齢者が増えて非生産人口が増えれば、平均的な暮らしぶりが良くなるはずがない。稼ぐ人の数が減って使う人が変わらないんだもの。

そもそも少子化と高齢化ってまったくべつの問題なのに「少子高齢化」なんてまとめて語られることがどうもきな臭い。ほんとの問題から目を背けさせたい人がいるんじゃなかろうか。
だからって年寄りを殺せとは思わないけど(将来殺されたくないし)、少なくとも問題の原因ははっきりさせとかないと適切な対処もできないと思うんだけどね。

「少子高齢化」みたいな乱暴な言葉が許されるなら、「少子高画質化」とか「少子ワイヤレス化」とか「少子実写アニメ化」とか、なんでもええやんねえ。


2018年1月18日木曜日

京都生まれ京都育ちの韓国人


学生時代、北京に一ヶ月ほど短期留学していた。
とにかく安いプランを探したところ大学寮の二人部屋に泊まるのがいちばん安かった。すぐに申し込んだ。

寮に着いてから後悔が始まった。
二人部屋。
ただでさえ人見知りなのに、二人部屋。
しかもはじめて訪れる異国の地。
なんでこんな冒険してしまったんだろう、と過去の自分の決断を悔やんだ。

寮の部屋に荷物を置くと、すぐに寮の管理人が一人の男性を連れてやってきた。
「おまえの同室となるやつを連れてきた。韓国人だ」というようなことを中国語で言った。
やべえ。韓国人か。
ぼくは韓国語がまったくわからない。アンニョンハセヨとアボジーとオモニーとかサムギョプサルしか知らない。それだけでは会話にならない。
中国語も英語もカタコトしかしゃべれない。
十分な意思疎通ができるだろうか。ほとんど言葉の通じない人と一ヶ月も同じ部屋で暮らすのか、きついな。
どうしようどうしようと狼狽しながら、部屋に入ってきた韓国人の男に向かってとりあえず「ニイハオ」と言ってみた。

すると彼が言った。「日本人ですよね?」
「えっ?」
「ぼく、在日韓国人だったんです。京都の小学校、中学校、高校に通ってました」

拍子抜けした。
当然ながら彼は日本語ぺらぺら。というより韓国語より日本語のほうがうまい。



同室になったKさんと打ち解けるまでに一週間を要した。お互い人見知りだったのだ。はじめの一週間はお互いすごく気を遣いながらぎこちなくしゃべっていた。
でも人見知り同士というのは一度打ち解けるとすごく親しくなる。
Kさんはぼくよりも八歳年上だったが、ぼくと彼は自転車で二人乗りをしてあちこち出かける仲になった。

Kさんはふしぎな人で、わざわざ中国の大学に短期留学をしにきたというのにほとんど授業に出なかった。
朝は遅くまで寝ている。同室なので、出発前に一応「そろそろ起きないと間に合わないんじゃない?」と声をかけるが「大丈夫、大丈夫」と言って寝ている。
授業は四時間目まであったが、彼は大学に現れるのは三時間目ぐらいから。まったく来ない日もあった。
寝起きが悪い人かと思っていたが、どうやら起きる意志すらないのだとわかり、ぼくも彼を起こすのをやめた。

授業に出ず、かといって観光にも興味がなかった。ぼくが「今日は天安門に行くから一緒に行かない?」と声をかけると「うーん、じゃあ行こうかな」とのっそりとついてくる、という感じだった。
ぼくは一ヶ月の北京生活だからということで精力的に授業に出たり観光地をまわったり近くの商店街に行ってお店の人に話しかけたりしていたが、Kさんはそういったことにはぜんぜん興味がないようで、スーパーマーケットに行って果物やお菓子を少しとたくさんの酒を買いこんできては、部屋で一人で呑んでいた。

ぼくもときどき「一緒に呑まない?」と誘われた。少しだけ付き合うこともあったが、断ることが多かった。
なぜなら大学で出された課題をやらなくてはならないし、翌朝も早くから授業があるからだ。
勉強しつつ観光したり日記を書いたりしていたら、週末以外は酒を呑むひまがない。
Kさんは授業をサボるし当然課題もやらないから、平日も呑んでいた。それも毎晩二時ぐらいまでひとりで本を読みながら呑んでいた。

ぼくが酒を断ると「韓国だったら友だちの酒の誘いを断るなんてありえないよ」と、冗談とも本気ともつかない顔で言ってきた。
ぼくは「京都で生まれて京都で育ったくせに」と言った。



全面的に気が合っていたわけではなかったが、Kさんがときどきぼそっと呟く冗談は毒が効いていてぼくは好きだった。
中国共産党を茶化すような、今にして思うとちょっと危ない冗談もよく言っていた。

一ヶ月の授業が終わった。ぼくは帰る準備をしていたが、Kさんは「ぼくはもうちょっと中国に残ることにするよ」と言った。まったく勉強もせずに、観光も好きでないのに、いったい中国の何が気に入ったのかわからない。Kさんの中国語は一ヶ月前からまったく上達していなかった。なにしろ一から十までの数字を中国語で言うことすらできなかったのだ。

Kさんにメールアドレスを訊かれ、アドレスを交換した。
日本に帰ってからメールを送ると返事があった。だがそれ以降は、こちらが何度メールを送っても返事がなかった。
何か気に障ることでも送ったのだろうかと悩んだが、同時期に留学していた女の子に訊くと、彼女に対してもKさんから一通しかメールが来なかったという。

自分からメールアドレスを訊いてきたくせに、メールをしない。
なんでやねんと思ったが、わざわざ留学したくせにずっと部屋に引きこもって酒を呑んでいたKさんらしいな、という気もした。


2018年1月17日水曜日

自分と関わりのない主張


アンソニー・プラトカニス ,‎ エリオット・アロンソン『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』に、こんな実験結果が載っていた。


ある問題が個人的に重要である場合は、メッセージの論拠の強さが、説得されるかどうかに強い影響を及ぼした。一方、自分とあまり関わりのない場合だと、メッセージの中身よりもメッセージの送り手が誰であるかが強く影響した。


ふうむ。
たとえば、保育制度のありかたをめぐって、
  • 無名の人がブログに書いた、詳細なデータに基づく論理的な主張
  • 大学教授がろくに調べずに新聞に書いた、きわめて個人的な主張
があった場合、自分がもうすぐ子どもを保育園に入れようと思っている親であれば前者に影響され、子どもを持つ予定すらない人であれば後者の主張を受け入れてしまう、ということだ。

なるほど、なるほど。
よく「情報の正しさを検証しろ」というが、実際問題として、世の中のありとあらゆる問題について深く慎重に検証することは不可能だよね。
自分とあまり利害関係のない話であれば、「専門家が言ってるからそうなんだろう」でじっくり考えずに信じこんでしまうのは仕方ない。


でも、「ぼくらがこういう傾向を持っている」ことを知っておくのはとても大事だ。

たとえば原発をめぐる論争があったとき。
テレビでは、ぜんぜん関係のない専門家っぽい人(たとえば脳科学者とかカリスマ予備校講師とか)があれこれ語る。
脳科学者の言う原発論は、そこらへんのおっさんの飲み屋での話とたぶん大差ない。いや脳科学者ってのはあくまで例であって、べつに茂木さんをばかにしてるわけじゃないですよ。してるけど。

飲み屋のおなじレベルの話だからって、彼らの言うことがすべて誤りだとはかぎらない。
でもまあ信用には足らないでしょう。

原発問題を身に迫った危険と感じていない自分は彼らの言うことを信用してしまいがちだ、ということを自覚しておいたほうがいいね。いくらか割り引いて聞かないとね。

ツイートまとめ 2017年10月



サイクル

つまんない話

シングルマザー

脱臭

バブーちゃん

平民

監督

攻守一体

敗北

団塊

政治的

Word

労働禁止

ばか

型番

任務完了

田岡監督

第48回衆議院議員選挙



身元

アリバイ

サスペンス

デシリットル

京コンピュータ前

アドバンテージ

底意地

下ネタ

おしり

二大政党制


2018年1月16日火曜日

定期購読の恐怖


かつて新聞を購読していたが、今はとっていない。よほど気になるニュースがあったときだけコンビニで買う。
ある週刊誌を定期購読していたこともあるが、それもやめてしまった。
少し前にAmazon Unlimited(月額費を払えばいくつかの電子書籍や雑誌が読み放題になるサービス)に加入していたが、何ヶ月かして解約した。


定期購読というのがどうも性にあわない、ということに最近やっと気がついた。
定期購読は読者を束縛する。
金を払っているのだから読まなくちゃいけない。早く読まないと次の号が届く。だから今すぐ読まなきゃいけない。

「新聞は読みたいときに読みます。だから一週間分ためておいてまとめて読むこともありますね」
ということは社会通念上許されない。新聞の消費期限は一日だ。その日のうちに読んでしまわなきゃいけない。これがつらい。

ぼくは読む本がないと不安になる性分なので、常に未読の本が二十冊くらいは自宅にある。
読まれていない本たちは、おとなしく自分の順番が来るのを待っている。ぼくはそいつらの声にも耳を傾けながら「ちょっと待ってくれよ。今こっちの小説が佳境だから、それが終わったら次はおまえな」とか「君は時間がかかりそうだから通勤電車の中で少しずつ読むことにするよ」なんて云いながら順番を調整している。

ところが、定期購読のやつらは強引に割りこんでくる。
「Amazon Unlimitedです。月間二冊以上読まないと元をとれませんよ。損してもいいんですか!?」
「ちわー。週刊誌です。来週までに読んでよ!」
「こっちは新聞じゃい。なにがなんでも今日中に耳をそろえて読んでもらうで!」
と扉をがんがん叩いてくる。

新聞は「おっ小説読んどるんか。えらい余裕があるんやな」と、子どもの貯金箱に手を出す取り立て屋のように睨みを利かせる。
ぼくはおびえながら「この子を読む時間だけは勘弁してください!」と頭を下げるのだが、新聞は耳も貸さずに読みかけの小説を閉じ「届けてもらった新聞は読むのが人の道ってもんやろがい! 小説はいつでもええやろが!」とすごんでくる。そう云われると返す言葉もない。
泣きながら新聞を読み終えると、新聞は「読むもん読んでくれたらこっちも無茶なことはしたくないんや。明日もまた来るで!」と乱暴な音を立てて帰っていく。新聞に読書時間を奪われたぼくは、もう小説を読む気もすっかりなくし、ただ茫然と古新聞を折りたたむばかりだ。

もうそんな思いはしたくない。
だからぼくはもう定期購読とサラ金には手を出さない決意をした。

2018年1月15日月曜日

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない


四歳の娘は地図が好きだ。
なぜかはわからないが、駅に貼ってある近隣図なんかを見つけると、必ず「地図だ!」と云って見に行く。
地図の見方はよくわかっていないが「今はどこ? どうやって行くの?」と訊いてくるので、「今はここで、今からこうやってこうやってこう行くんだよ」と教えてやる。


そんなに地図が好きなら、と思って日本地図を買ってきた。
風呂の壁に貼れるこども向けの地図だ。47都道府県と県庁素材地の名前がひらがなで書いてあるので、四歳児でも読める。

こどもの集中力と吸収力というのはたいしたものだ。
一週間ぐらいで、半分近くの都道府県を覚えてしまった。四歳児にとっては「とうきょうと」も「ほっかいどう」も特に意味のない文字の羅列だと思うのだが、それでもぐんぐん覚える。高級今治タオルのような吸収力がうらやましい。

ただ、都道府県名は覚えても、都道府県の概念はいまいちよくわかっていない。
「ここは大阪府で、おじいちゃんとおばあちゃんは兵庫県に住んでいて、いとこの〇〇ちゃんは京都府に住んでいるんだよ」
と教えると「じゃあ保育園は?」と訊いてくる。「大阪府だよ」「じゃあ保育園の前の公園は?」「大阪府だよ」「じゃあそこのスーパーは?」「大阪府」「大阪府が多いんだね」と云う。
たまたま大阪府が多いわけじゃなくて、ここら一帯が大阪府なんだよ、といってもいまいちぴんと来ていない様子。まあ四歳児にとっては自分の足で歩いていけるところが世界のすべてだろうから、そのへんの距離感をつかめないんだろうな。かわいいやつじゃ。




そのとき「ではおまえは都道府県のサイズ感をどれぐらい正確につかめているのか」という天の声が聞こえてきた。
はっ、言われてみればたしかに、とても正確につかめているとは言いがたい……。

地図で見てだいたいの大きさは知っている。
でもそれは相対的な大きさでしかない。兵庫県が大阪よりずっと大きいことはわかる。でも、そもそも大阪の大きさを、ぼくは知らない。
いっぺんでも端から端まで歩いてみたらわかると思う。徒歩じゃなくても、自転車で縦断するだけで「大阪府ってこれぐらいのサイズか」というのがわかるだろう。そしたら、「大阪府がこれぐらいだったから兵庫県はこれぐらいか」と他の都道府県のサイズ感もつかめるんじゃないだろうか(ただ北海道は大きすぎるのでつかめなさそうだ)。
でもぼくはどこかの県の端から端まで移動したことがない。電車や車で横切ったことはあるが、身体感覚としてはつかめていない。


「おまえがいかに都道府県のサイズ感をつかめていないか自覚できるように、テストをしよう」
また天の声が聞こえた。ぼくは目隠しをされて延々歩かされる。ずっと右側から陽があたっているので東に進んでいることだけはわかる。
大阪をスタートしてかなり歩いたところで「さて、今は何県にいるでしょう?」と天の声がクイズを出した。

「んー……。だいぶ歩いたから……静岡県!」

「ブッブー。まだ大阪府でした」



2018年1月13日土曜日

大声コンテストの真実


NHKのニュースって、どうでもいいニュースやるじゃないですか。
どうでもいいやつです。毒にも薬にもならないやつ。知っても人生に何の影響も及ぼさないニュース。

ちびっ子たくさんと横綱が相撲とってるニュースとか、ホタルイカ漁のシーズンになりましたとか、そういうやつ。
あれ何のためにやってるんだろうね。ニュースの時間と取材陣あまってるのかね。あまったんならその分受信料返金してほしいね。

中でもどうでもいいのは、大声コンテストのニュースね。
丘の上あたりからでっかい声で、「日頃思っていること」という名の超ソフトなことを叫ぶやつ。
「お父さんお母さんいつもありがとー!」とか「もっと給料上げてくれー!」とか。NHKバラエティ班が考えてるのかってぐらいのマイルドさだよね。紅白歌合戦のミニコントレベルのユーモアだよね。いや、いい意味で(そんなわけあるか)。

ニュースの最後には必ず「大語で日頃の不満を発散しました」みたいなナレーションが入るんだけど、大声コンテストに出てくる人ってストレスあるように見えないけどね。

それとも、ニュースでは使われないだけで、大声コンテストの現場ではもっとえげつないこと言ってる人もいるのかな。

「古い常識を押しつけて子育てにケチつけてくる姑のババア、死んでー!!」

みたいなやつ。

ときどきそういうのもあるんだったら一時間くらい見てられるな。



2018年1月12日金曜日

落語+ミステリ小説 / 河合 莞爾『粗忽長屋の殺人』





『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』

河合 莞爾

内容(e-honより)
伊勢屋の婿養子がまた死んだ!婿をとったお嬢さんは滅法器量よし、お店は番頭任せで昼間から二人きり。新婚は、夜することを昼間する、なんざ、それは短命だ…。ところがご隠居さん、次々に死んだお婿さんの死に方を聞くと、何やら考え始めて―。(「短命の理由」)古典落語の裏側に隠れている奇妙なミステリー、ご隠居さんの謎解きが始まる!


いろんな落語の筋をベースに、長屋のご隠居さんが謎解きをするというミステリ小説に仕上げた作品。
落語『短命』の裏側を解明する『短命の理由(わけ)』
落語『寝床』の旦那の秘密を解き明かす『寝床の秘密(かくしごと)』
落語『粗忽長屋』をベースに『粗忽の使者』の登場人物を加えた『粗忽長屋の殺人(ひとごろし)』
落語『千早振る』『反魂香』『紺屋高尾』という花魁が出てくる三つの話を大胆につないだ『高尾太夫は三度(みたび)死ぬ』
と、意欲的な作品が並ぶ。
落語+アームチェア・ディテクティブもの(探偵役が現場に足を運ばずに解決するミステリのジャンル)というおもしろい試み。ぼくは落語もミステリも好きなので、まあまあ楽しめた。

……とはいえ、もっと読みたいかというと、うーんもういいかなという気持ち。

ミステリとしての完成度はいまいち。
もともと完結作品である落語をなんとかミステリに仕立てようとしているから、筋としては苦しいものが多い。
わずかな手がかりからあまりにも都合よくご隠居さんが謎を解決しちゃうし、根拠の乏しい推理がことごとくどんぴしゃだし、「近眼だからまったくの別人を友人と見まちがえた」とかいくらなんでも無理があるだろってトリックもあるし、よくできたミステリとは言いがたい。


だけど、どの噺もミステリの要素を入れながらもきちんと人情味のある噺にしていたり、本来のサゲ(オチ)を踏まえたうえで新しいサゲを考えていたり、落語愛あふれる噺にしあがっている。
随所にちりばめられたギャグもけっこうおもしろい(時事ネタが多いのであまり小説向きじゃないけど。まあそういうところも落語っぽい)。

たとえば、旦那がうなる義太夫の下手さを表したこの会話(『寝床の秘密』より)。

「一番可哀相なのは留公ですよ。聴き始めた途端に気分が悪くなって、だんだん意識が遠くなってきて、このままじゃ昏倒しちまうってんで庭に逃げ出したんですがね、それが旦那に見つかっちゃった。旦那、すっくと立ち上がって、義太夫を語りながら留公を追いかけ始めたんですよ!
 気が付いた留公、慌てて石灯籠の陰に隠れた。すると旦那が正面から、かーっ! と義太夫を浴びせた! その義太夫の衝撃で、石灯籠にぴぴぴぴっと無数の細かいヒビが入ったかと思うと、ずしゃあーっ! と砂みてえに崩壊して、身を隠すものがなくなっちまった!」
「まるで超音波怪獣だね」
「次に留公、なんとか義太夫から逃れようと庭の池に飛び込んだ。すると旦那が池の水面に向かって、甲高い声で、きいーっ! と義太夫を放射した! 途端に、池の水がぶるぶる振動し始めたかと思うと、ぐらぐらっと煮立ってきて、池の鯉も白い腹を見せて、ぷかぷか浮かんできた!」
「マイクロ波だ。電子レンジの原理だよ」
「あちちちっ! と池を飛び出した留公、庭の隅に土蔵が建ってたんで、急いでその中に駆け込んで、内側からカンヌキを降ろした。やれやれこれで一安心と思ってると、がるるるるーっと唸りながらしばらく土蔵の周りをぐるぐる回っていた旦那が、やがて土蔵の上のほうに小さな明かり取りの窓があるのを見つけると、にたりと恐ろしい笑みを浮かべて、梯子を持ってきてその窓まで一気によじ登り、窓から土蔵の中に向かって、どばあーっ! と義太夫を語り込んだ!
 さあ、逃げ場がないところに、留公の頭の上から義太夫が大量に降り注いできた、義太夫が土蔵の中でどどどどーっと渦を巻いて留公を飲み込んだ。途端に、ぐわあーっ! っと、身の毛もよだつ留公の叫び声が、あたりに響き渡った!」
「あのね、いい加減におしよ」
「ここから先は、恐ろしくてとても言えねえ――」
「お前さんが義太夫を語ったほうがいいんじゃないかね?」

これなんかじっさいの落語で聞かせたらめちゃくちゃウケるとこだろうな。


だからこの小説、「落語の噺を下敷きにしたミステリ」として読むのではなく、「ちょっとだけミステリ要素も加味した古典落語」として読むと、どれもよくできている。

もうミステリ要素いらないからふつうに新作落語を書いたらいいんじゃないかな、と思ったね。



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2018年1月11日木曜日

おすすめの本ある?



本が好きだと言うと、
「読書のどういうところがいいの?」
「なんかおすすめの本ある?」
と訊いてくる人がいる。

本気で訊きたいわけじゃなくて話を拡げたいだけだろう。それはわかってる。でも、それにしてもうるせえな、と思う。
なぜならそういう質問をしてくるのは本を読まない人間に決まっているからだ。

現代日本に生まれ育っている以上これまでの人生において読書の楽しさにふれる機会は何万回とあったはずで、それでも読書好きにならなかったということはもうおまえが読書の悦びに目覚める可能性はほぼゼロだから、おまえに読書の愉しみを説いたところで無為だ。だからおまえと読書が価値あるかどうか議論するひまがあったら本読むわ。

とは思うけど、そこはぼくもいい大人だからぐっとこらえて
「やっぱり新しい知識を得られるのってそれ自体悦びじゃないですか」
みたいな相手が欲してそうなテキトーな答えを言って、ああ無駄な時間だこの時間を利用して本読みてえ、と思うのだ。


2018年1月10日水曜日

「この女がです」


吉田戦車『伝染るんです』は漫画史に残る名作四コマ漫画だが、中でもぼくは「この女が」の話がいちばん好きだ。

著作権とかがアレなので画像は貼らないけど、

交通事故が起こり、サラリーマンとよぼよぼのおばあさんがもめている

警官が仲裁に入り、事情を尋ねる

サラリーマンがおばあさんを指さし、「こっちが青信号だったのに、この女が飛び出してきたんです!」

警官「この女が、ですか……」
サラリーマン「この女がです!」

(吉田戦車『伝染るんです』2巻より)

という四コマだ。
「この女」と言われたおばあさんの、はにかんだような当惑した顔も含めてめちゃくちゃおもしろかった。
たったの四コマ。日常的な舞台とシンプルな台詞で、これだけの不条理な世界をつくれるなんてすごい、と感動した。

この話、なぜおもしろいんだろう。うまく説明できない。
笑いにはいくつかのパターンがあるけど、これはどれにもあてはまらないような気がする。

ふつうは、間違ったことをしたときに笑いが生まれる。
サラリーマンがおばあさんを指して「この少女」と言ったら、これは明らかに間違いだ。間違った発言だからこれなら一応ギャグとして成立する(もっともそれで笑うのは五歳児までだだろうけど)。
でもサラリーマンがおばあさんを「この女」というのは、決して間違いではない。おばあさんは女だということは誰だって知っている。

老婆を「この女」と呼ぶのは間違いではないが一般的ではない。 ふつうは、喧嘩をしていたら「このババア」「このばあさん」「このおばさん」だろう。
「この人」なら自然だ。ぼくが見知らぬおばあさんと喧嘩になり、それを当人の前で第三者に説明するとしたら「この人」と言うと思う。
「この男」などうだろう。見知らぬおじいさんを指さして「この男」。これは常識の範囲に収まる気がする。少なくともおばあさんを「この女」と呼ぶときに感じたほどの違和感はない。

おばあさんを「この人」と呼ぶのは違和感がない。若い女性を「この女」と呼ぶのも自然だ。おじいさんを「この男」と呼ぶことにも、それほど抵抗はない。なのにおばあさんを「この女」と呼ぶときにだけ奇妙な感覚にとらわれる。
ということは。
「女」には年齢制限がある、ということになる。
百歳になってもおばあさんは女だが、それは生物学的な話であって、言葉としての「女」の定義からは外れるということだ。

『大辞泉』によると、「女」には
・人間の性別で、子を産む機能のあるほう。女性。女子。⇔男。
・成熟した女性。子供を産むことができるまでに成長した女性。一人前の女性。
という意味がある。
一項目は生物学的な定義だ。「一般的に子どもを産む機能があることが多い側の性」という意味だろう。我々は子宮を摘出した人を男とは思わない(そういう人に配慮して「女」という言葉を定義づけるのって難しいなあ)。
生物学的の意味で言うならばおばあさんは間違いなく女だ。

問題はふたつめ。こちらが、我々がふだん使う言葉としての「女」だ。
おばあさんは、間違いなく成熟している。熟しすぎているといってもいい。一人前だ。
この定義で言うなれば、百歳のおばあさんも女だということになる。
だが、この辞書の編纂者が把握していなかったのか、それともわかっていてあえて配慮して書かなかったのか、この定義は不正確だ。
我々がふだん使う「女」は「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」なのだ。
だから我々は生殖機能を失ったことが明白なおばあさんを「この女」と呼ぶことに違和感をおぼえる。

これは女だけの話ではないと思う。おそらく男も同じだ。
だが、男のほうは「子どもをつくる」という行為においては女よりもずっと寿命が長い。九十代で父親になった人の例もある。そういったケースは例外だろうが、女性でいうところの閉経のような明確なイベントが男にはないため、いつまでたっても「子どもをつくる可能性のある側」でいられる。
だからおじいさんを「この男」と呼ぶことにはあまり抵抗を感じないのではないだろうか。

我々はふだん「女」の定義なんて気にしない。疑う余地もないと思っている。ぼくも今まで気にしたこともなかった。
だけど、暗黙のうちに「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」という定義を共有している。

その不明瞭だけど強固な共有認識と辞書的な定義のずれを鮮やかに切り取って、たったの四コマでギャグとして成立させているのはすごい。



2018年1月9日火曜日

「レゴクリエイター ダイナソー」は大傑作だ


レゴ クリエイター ダイナソー 31058


これ買ったんだけど、めっちゃ楽しい。
レゴと恐竜が好きな娘のために買ったんだけど、何よりぼくが楽しい。
これ、子どものときに欲しかったなー。たぶん死ぬほど遊んだだろうな。

Amazonで買ったんだけど、2,000円以下だったから、しょぼいかもしれないなーと思いながら購入した。レゴで2,000円未満ってかなり安い部類だからね。

でも期待をはるかに上回る出来だった。
何がすごいって、四種類もの恐竜が作れること。

トリケラトプス

ティラノサウルス(レゴフィグはついておりません)

プテラノドン

ブラキオサウルス

全部可動域が広い。ティラノサウルスだったら、あごが開閉するのはもちろん、前足、後ろ足、爪、尻尾がそれぞれ自在に動く。本物のティラノサウルスと同じくらい広範囲に動く。本物のティラノサウルス見たことないけど。
あとちゃんと二本足で直立するのもいい。二本足で立たせるバランスにするのってかなり難しいと思うんだけど、そのへんもクリアしている。ティラノサウルスの指が二本だったりとか、ちゃんと恐竜の生態にあわせている。

かなり造形が細かいのに、四歳児の娘でもつくれる(ただバラすのはできない)。
"シンプルさ"と"奥深さ"というレゴの魅力が存分に発揮された傑作だ。子どもの頃からいろんなレゴシリーズを楽しんできたけど、ぼくの中ではまちがいなくナンバーワンだ。

このレゴクリエイターシリーズって他にもいろんな種類が出ていて、どれも一箱でいろんな作品が楽しめる。
全部そろえたくなってきた……。半年にひとつずつくらいのペースでそろえていったとして、はたしていつまで娘がお父さんと一緒にレゴで遊んでくれるだろうか……。


2018年1月8日月曜日

駐車場なんてあったっけ


駐車場を借りる必要が生じたとき「このへんに駐車場なんかあったっけな?」と思っていたら自宅の真ん前に「レンタル駐車場」のでっかい看板があって驚いた。

その道は何百回と通っていたのに今までその看板は認識していなかった。「興味のないものは見ていても認識しない」ということを思い知った。

氷漬けの落語


上方落語に『くっしゃみ講釈』という噺がある。


講釈師に恨みのある男が、講釈をじゃまするために胡椒をいぶしてくしゃみを起こさせる、と計画する。ところが元来忘れっぽいため八百屋で胡椒粉を買うことをすぐに忘れてしまう。そこで、のぞきからくりの演目『八百屋お七』の登場人物である「小姓(こしょう)の吉三」とひっかけて覚えようとする。ところが八百屋についたもののなかなか思いだせず、てんやわんや。胡椒がなかったので唐辛子を買って講釈場に乗りこみ、唐辛子をいぶして講釈のじゃまをすることに成功する。講釈師から「なにか故障がおありか(文句がおありか)」と問われ、「胡椒がなかったから唐辛子にした」と答える――。


というストーリーなのだが、まあ今聴くとわっかりにくい。
講談やのぞきからくりといった装置にもなじみがないし、八百屋で胡椒粉を買う人も今はまずいないだろうし、文句があるかという意味で「故障がおありか」という言い回しも今は使われない。
ぼくは小学生のときにカセットテープで桂枝雀の『くっしゃみ講釈』を聴いたことがあるが、当然のことながら途中でついていけなくなった。その後、解説書を読んでようやく理解できるようになった。

『くっしゃみ講釈』は筋自体はよくできた噺だし、笑いどころも多いし、噺家の見せ場も多い。きっと、長い時間をかけてちょっとずつ改変されて洗練されて今の噺になったんだと思う。
なのに、数十年前に今の形に落ち着いて、そこで止まってしまった。
こないだ寄席に行ったら『くっしゃみ講釈』がかかっていたが、やはりこの形だった。
前半の講談師にデートをじゃまされるくだりではかなり笑いが起きていたのに、中盤の八百屋で『八百屋お七』を一席打つあたりでは客席に退屈が広がり、サゲを言っても笑いが起きなかった。それはそうだろう、十分に噺の内容を知っている人にしか理解できないのだから。

『くっしゃみ講釈』は落語らしいドタバタもありながら、筋としては一本芯が通っていてよくできている。せっかくのいい噺が時代のせいで伝わらなくなってしまうのはもったいないな、と思う。

いくらでも改良の余地はあると思う。

もちろん、変えている人もいる。
『地獄八景亡者戯』という超大作落語は、元々「閻魔大王」と「大黄(漢方薬)」をかけた地口オチだったが、大黄という薬の名前が伝わらなくなったので、今はこのパターンで話す落語家は、たぶんいない。
いろんな噺家が、いろんな噺をちょっとずつ自分なりにアレンジしている。でも、そのほとんどが定着していない。だから2018年に披露されている『くっしゃみ講釈』でも、粗忽者が八百屋の店先で『八百屋お七』を唄い、講談師が「故障がおありか(文句がおありか)」と口にする。
すべてを新しくしろとは言わない。昔の人の暮らしを想像するのが落語の醍醐味のひとつだからだ。だから舞台が講釈場なのをパワポを使ったコンペ会場に変えろとは思わない。たぶんそっちのほうが早く古びるだろうし。
でも笑いどころが伝わらなくなっているのは、落語として致命的だと思う。笑いどころは「今のはこういう意味で、だからこれがおもしろいんですよ」と説明できないからだ(できるけどやったら笑えなくなる)。

古典落語って、どんどん改変していくものだと思うんだけど、その変化のスピードがどんどん遅くなっているように思う。昔のほうが改変されてたんじゃないだろうか。
変化のスピードが衰えたのは、しっかりと記録が残るようになったからじゃないだろうか。口承で受け継がれていた噺の内容が文字にして残るようになり、音声としても記録としても残るようになった。その結果、記録されたものが聖典になってしまい、改変が許されない雰囲気になっているんじゃないかと門外漢が勝手に想像する。

埋もれかけていた旧い噺を正確に記録したのは桂米朝らの功績だけど、その結果、古典落語は「古典」という氷漬けにされてしまったんじゃないだろうか。


2018年1月6日土曜日

年賀状2題


年賀状って昔はけっこう好きだったんです。11月くらいからネタを考えて、友人を笑わせようと渾身のボケを込めた年賀状を書いていた。
三十枚くらい書いていたと思う。

さすがに最近はそんなことをやる気力もなくなって、市販の年賀はがきに一言を添えるだけの年賀状を出している。
親戚も含めて十五枚ほどしか出していない。

めんどくさいな、と思う。
十二月二十日くらいから取りかかり、めんどくさいめんどくさいと思いながら書く。
だいたいみんなこんなもんだろう。

年賀状の付き合いしかない人も数人いる。
一年間に一度も会わなかったし翌年もたぶん会わないだろう。特に書くこともない。「今年こそ飲みましょう」なんて思ってもみないことを描く。
向こうからも送られてくるのでこっちからやめるのは気が引ける。たぶん向こうも同じように思ってるのだろう。やめるきっかけがないまま何年も続いている。

こんなの無駄だなと思ってたけど、いやそうでもないかなと思いなおした。

一年に一度も会わない人だからこそ年賀状のやりとりが必要なのだ。
会わない人とはメールもLINEもしない。「子どもが生まれました」なんて報告も、ふだん会わない人には「こんなことわざわざ報告されても困るかな……」と躊躇してしまう。
電話番号もメールアドレスも知っているから、連絡をとろうと思えばいつでもとれる。でもとらない。そしてたぶん永遠に途絶えてしまう。

だから会わない人のためにこそ年賀状はあるのかな、と思う。
もういっそ、十年ぐらい会ってなくてメールもしてなくて年賀状も出していない人に年賀状を出してやりたいな。
でも住所を知らないから出せないんだけど。



年賀状の枚数って年々減ってるわけじゃない。
もちろんメールとかLINEとかのせいってのもあると思うんだけど、そのうちのひとつに「住所がわからない」って要因もあると思うんだよね。

この人に年賀状出そうかな。でも住所知らないしな。でも訊くほどじゃないしな。訊いたら向こうも年賀状を出さざるをえなくなるし申し訳ないな。

みたいなことがある。
だからさ、年賀状がほしい人は郵便局に氏名・住所・メールアドレス・電話番号・LINE IDを登録しておく。
そうすると、住所がわからなくても「名前とメールアドレス」とか「名前と電話番号」とか「名前とLINE ID」とかでも年賀状を出せるようになる。

ってシステムにしたら年賀状の枚数はある程度増えると思うんですけどね。
どうでしょう郵便局さん。

2018年1月4日木曜日

オリンピックは大会丸ごと広告/「選択」編集部『日本の聖域 ザ・タブー』【読書感想】


『日本の聖域 ザ・タブー』

「選択」編集部(編)

内容(e-honより)
「知る権利」が危うい。国際NGO「国境なき記者団」が発表する「報道の自由度ランキング」での、日本の順位は下がり続けている。大手メディアに蔓延する萎縮、忖度、自主規制―。彼らが避けて触れない「闇」は、政界、官界、財界、学界などに絡み合って存在する。それら25の組織や制度にメスを入れる、会員制情報誌の名物連載第三弾。
政治家やジャーナリストにも読者が多いという、会員制情報誌『選択』による「日本のタブー」。
陰謀論みたいな話かな、ちょっとうさんくさいなと眉に唾を付けながら読んだのだが、思っていたよりもまともな話だった。『選択』の執筆者には新聞記者が多いらしい。なるほどね、取材して知ったけどいろんな事情で新聞には書けない話、みたいなのがけっこうあるんだろうね。そういう人が匿名で発表する場が『選択』なんだそうだ。

理化学研究所、皇室、国立がん研究センター、日本体育協会、電通とスポーツ、原発城下町、人工妊娠中絶、公安警察、高齢者医療、教育委員会、防衛省、トクホ、児童養護施設など、「耳にすることはあるけれど何をやってるのかよくわからない組織」の問題点を指摘していて、なるほどたしかに聖域だなと思う。
ただそれが必ずしも"タブー"とは言えないよな。電通とか原発とかは広告収入に依存しているマスメディアは批判しにくいだろうけど、教育委員会とか防衛省とかはべつにタブー視されてるわけじゃなくて「あんまりおもしろくないから語られないだけ」だと思うけどね。

この手の「みんなが知らない裏の顔」みたいな話ってすごくおもしろいんだけど、「関係者の話によると~」みたいな話が多いので、どうしてもうさんくささはつきまとうんだよなあ。話題の性質上ソースを明かせないことが多いんだろうけど、その関係者が実在するかもわからないし、関係者ほど利害関係が濃厚だから嘘や誇張を入れることも多いだろうし、読んでいるほうとしては疑わしさを拭いさることができない。
ということで「こんな説もあるのか」ぐらいの気持ちで読むのがおすすめ。それぐらいのスタンスで読むとおもしろかった。




いちばんおもしろかったのは『スポーツマフィア 電通』の章。
一広告代理店に過ぎない電通がいかにスポーツを利用してうまく金儲けをしているかが描かれている。
このへんの話はぜんぜん知らなかったのでおもしろかった。

 かつては、アマチュア選手の肖像権を一方的にJOCが保有して、CM出演料などを得てきた。しかし、個人の権利が拡大するにつれて批判を浴びるようになり二〇〇〇年前後から代理店や、マネジメント会社と契約する選手が出てきた。この時点ではJOCの肖像権ビジネスには電通以外にも博報堂など他の代理店が関与していた。
 ここで電通が編み出したウルトラCがSA制度だ。肖像権自体は選手自身が保有するが、それをJOCに委託させる。SAに選ばれるのは有力選手であり、自らの商品価値を理解していればわざわざJOCにカネをむしり取られずに拒否すればよい。JOCも表向きは選手の自由意思ということにしている。
 しかし「実際にはSA登録の取りまとめは競技団体に委ねられている」(前出運動部記者)ため、本当の自由意思ではないという。各競技団体はJOCから助成金を受け取っている。所属している選手がSAになれば、その助成金は増加する。逆に言えば、選手がSAを拒否した場合、助成金が減額されるのだ。そのため団体側は事実上SA登録を強要することになった。一選手が競技団体幹部に逆らうのは困難だ。電通は競技団体を利用して独占的にトップ選手の肖像権を手に入れたのである。
 結果としてそれまで「コーチと選手」だった関係は「ボスとカネづる」になった。

たしかにスポーツ報道って明らかにおかしいもんなあ。
ふだんテレビでは柔道や水泳の話なんかまったくしないくせにオリンピックが近づいたらぎゃあぎゃあ騒ぐし、バレーボールも大きな大会のときだけ異常に盛り上がる(ように見せている)し、どう考えても「視聴者のニーズに応えてる」んじゃなくて「むりやりニーズがあるかのように見せかけている」だもんね。

アマチュアスポーツ選手の大半は金の交渉はできずに競技団体の言われるがままになるだろうし、そういう選手を利用して金を稼ぐのってめちゃくちゃボロい商売だろうなあ。そりゃやめられないだろう。

まあ虚像を売るのが広告の仕事だと言ってしまえばそれまでなんだけど。テレビなんかでよく耳にする「日本中が応援して感動するオリンピック」なんて、虚像以外の何物でもないもんな。オリンピックって大会丸ごと広告みたいなもんだよな。




「原発村」について。

 福島第一原発事故や、それ以後の再稼働を巡る議論は、既存の城下町に焦燥感を生み、かえって原発の重要度を再認識させるという皮肉な結果を招いている。
「ワシらは原発のカネに絡め取られた。もう元には戻れない」
 青森県六ヶ所村で細々と農業を続ける住民はこう語った。
 下北半島の太平洋側に位置する、人口一万一千人の村はかつて、酪農と農業しかない典型的な過疎地だった。それがいまや「日本一裕福」な自治体といわれる。
 この村には日本の核燃料サイクルの基幹企業である日本原燃が本社を置いており、原燃から税収が得られるのだ。一二年度の「村税」の見込みは六十八億円だが、そのうち約六十億円が原燃のものだ。一般会計予算規模は百三十億円余り(一二年度)。単純比較するのは難しいが、人口規模がほぼ同じ熊本県南阿蘇村の予算の二倍。同じ青森の人口八千人の田舎館村の一二年度予算は三十四億円だ。しかも、六ヶ所村は地方交付税の不交付団体であることを忘れてはならない。通常、標準の財政規模を超える税収があると、県に納めねばならない。六ヶ所村の予算はありあまる税収を使い切るために膨れ上がっている。わずか一万一千人の村民はここから手厚い行政サービスを受ける。使途が制限される「電源交付金」とは別に一般予算の半分近くを原燃から受け取れるのだ。

わあすごい。こりゃ抜けだせないだろうな。
家の近所に発電所ができて「千年に一度の大地震が起きたらこの土地はしばらく人の住めない土地になります。でもここに住んでいてくれたら働かなくても暮らせるお金をあげます」って言われたら……。うーん、逃げだせるだろうか……。
自分が八十歳で子どもも孫もいっしょに住んでいなかったらお金もらうだろうな。六ケ所村はそんな状態だろうね。

電力会社からするとこれだけのお金をばらまいてもお釣りがくるぐらいの利益があるんでしょうなあ。原発はクリーンなエネルギーだというけれど、少なくともお金の流れに関していえばとてもクリーンとは言えないね。
大金をばらまかなくちゃ誰も引き取ってくれないようなものだって時点でもう、原発はそうとうだめなものだよね。
百年後の人には「いくらエネルギーが足りないからって原子力発電をしてたなんて21世紀の人はばかだったんだなあ」と言われるにちがいない。





国立がん研究センターについて。

 二〇一〇年に独法化した際に当時の民主党政権は、厚労省の人事を白紙にして山形大学から嘉山孝正氏を理事長に選んだ。この「政治主導」には賛否があるが、実際に嘉山氏は、国がんに送り込まれる厚労官僚の順送り人事を凍結し、人件費をアップさせて職員の待遇を改善しながらも単年度黒字化するという結果を出した。また厚労省の天下り先を次々に潰すなど、多くの改革の成果を残した。
 当時、国がん内部からは嘉山氏に反発する勢力からの不満の声が漏れてメディアを賑わした。しかし「強引な手法が嫌われることはあったが、内部には支持する声もあった」(前出とは別の現職医師)という。抵抗勢力となっていたのは、主に既得権受益者である厚労省とその息のかかった医師だった。

批判も多い民主党政権だったけど(ぼくもトータルではあまり評価しないけど)、部分部分を見ると思いきった改革をしたことで腐敗した組織に風を入れたっていう一面はけっこうあるんだね。
だからこそ官僚を敵に回して長続きしなかったんだろうけどね。陰湿なところに生えるカビにとっては新しい風なんていらないもんね。
まあこれは自民党が悪いというより、長期政権が良くないんだと思う。民主党はいろんな病理にメスを入れたけど(そしてその多くは失敗したようだけど)、もしも民主党政権が長期化していたら同じようにどこかしらが腐敗していたと思う。
体制が変わらないってのはいいことも多いけど、止まっている水は必ず淀むからね。ときどきは入れ替えもしたほうがいいんだろうな。
個人的にはアメリカみたいな二大政党制ってあんまりいいとは思えないんだけど、政権と省庁の癒着が進むのを防ぐという点では二大政党制のほうがいいんだろうな。



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2018年1月2日火曜日

こどもらしい自由な絵


四歳の娘とお絵かきをして遊ぶ。

「バズ・ライトイヤー(映画『トイ・ストーリー』に出てくるおもちゃ)が描きたい!」
というので、絵本に載っていたバズを見せて描かせてみる。


うーん、よくわからん……。
上のほうに顔らしきものがある、ということだけがかろうじてわかる。

なんで中央がこんなにすかすかなのか尋ねると、「白のクレヨンがないから白いところは描かなかった」とのことだ。
なるほど、大胆な省略だ。

そういわれると、目を凝らして想像力で補うと体や脚が見えてくる、ような気もする……。

しかしぼくが親だからそこまで補ってくれるのであって、注釈と見る人の大規模な補完によってしか成り立たない絵というのはずいぶん不親切だ。
何の事前情報もなしにこの絵を見て「バズ・ライトイヤーだね」と気づいてくれる人は、ほとんどいないだろう。


そこで「お父ちゃんならこうやって描くな。まず鉛筆で描いて、それからクレヨンで色を塗る」と言って、ぼくも描いてみた(お手本と言えるほどぼくも絵がうまくないけど……)。
それが下の画像の右の絵。
さらにそれと同じように娘が描いたのが左の絵。


どうでしょう。
ぐっとうまくなったと思いませんか。親ばかですかね。
何の説明もなしに左の絵を見たとき、十人中一人ぐらいは「バズ・ライトイヤーを描いたんだね」と理解してくれるのではないだろうか。
少なくとも「人型の何かを描いたんだな」ということは伝わると思う。


「こどもらしいのびのびした線」は失われてしまった。でもそれでいいと思っている。どうせいつか捨てなきゃいけないものだ。早めに捨てたらいい。

絵を「己の内面を表現する手段」ととらえる人がいる。趣味の絵ならそれでいいと思うけど、内面の表出としての絵を他人に理解してもらえるのはごくごくひとにぎりの人だけだ。
絵は、言葉や文字と同じく情報伝達手段として用いられることのほうが圧倒的に多い。

なのに、教育現場ではやたらと「こどもらしい絵」がもてはやされる。
一歳児が「ごはん、たべたい」としゃべったら「すごい!」と言われる。「こどもらしく『あー』とか『まーまー』とか言いなさい」と言われることはない。
小学生が上手な字を書いたら「字が上手ね」と褒められる。「こどもらしいのびのびした雑な字を書きなさい」と言われることはない。
なのに、絵に関しては「こどもらしい自由な絵」が求められる。ふしぎだ。


2018年1月1日月曜日

冷やし中華であるならば


中華麺を茹でて冷やしたものが「冷やし中華」であるならば、

ハンバーガーとホットドッグは「はさみアメリカ」

タコスは「巻きメキシコ」

ジンギスカンは「焼きモンゴル」

ボルシチは「煮ロシア」

ピザは「焼きイタリア」でスパゲティは「茹でイタリア」

きりたんぽは「練り秋田」、うどんは「こね讃岐」

カレーは「煮込みインド」で、翌日のカレーは「寝かせインド」

冷やし中華は「冷やしちゃいな」