2016年5月20日金曜日

【エッセイ】捨てなくてよかったアジスロマイシン

みんな、余った薬ってどうしてる?


風邪ひくよね。
病院いくよね。
薬もらうよね。1週間分。

3日で治るよね。
薬飲まなくなるよね。
その、残り。


一応おいとくよね。
ぶりかえすかもしれないからね。

で、そのまま。
その薬を後に飲んだことはあるだろうか、いや、ない。


数ヶ月後にまた風邪をひく。
たしか前にもらった薬があったはずーと思って冷蔵庫をさぐると(あたしは薬を冷蔵庫にしまう)、薬が出てくる。

やったー!
捨てずにおいててよかった!



でも。

こわくて飲めない。

たぶんこれは風邪薬だと思う。
たぶん。
けど、この「アジスロマイシン錠250mg」が風邪に効くという確証が持てない。

もし、風邪薬じゃなかったらどうしよう。
下剤だったらどうしよう。
耳を溶かす薬だったらどうしよう。


そもそも。
これはほんとに飲み薬なのか。

粉末にして水にとかして注射器で静脈に打ちこむのがただしい服用方法かもしれない。

飲んで大丈夫か。

飲んだら耳が溶ける薬だったらどうしよう。



そんな不安に負けて、結局いつも冷蔵庫の薬は飲めない。

結局、病院にいく。

また薬をもらう。

出されたのは、カルボワシステイン錠500mg。

ああよかった。
冷蔵庫にあるアジスロマイシン錠とはちがう薬だ。
家にあるのと同じ薬だったらもったいないもんね。


で、新しくもらったカルボワシステイン錠を全部飲む前に、また風邪がなおる。

そしてまた、何の薬だったか忘れられるカルボワシステイン錠。



こうして、あたしの冷蔵庫には耳が溶ける薬ばかりがたまってゆく。




2016年5月17日火曜日

【読書感想文】奥田英朗『どちらとも言えません』

内容(「BOOK」データベースより)
スポーツに興味がなくても、必読。オクダ節エッセイ集。
サッカー後進国の振る舞いを恥じ、プロ野球選手の名前をマジメに考え、大相撲の八百長にはやや寛容?スポーツで読み解くニッポン。
スポーツはやって楽しく、観て楽しく、そして語ってこそ楽しい!プロ野球に大相撲、サッカーW杯からオリンピックまで、スポーツ大好き作家が勝手気ままに論じます。サッカー後進国の振る舞いに恥じ入り、プロ野球選手の名前をマジメに考え、大相撲の八百長疑惑にはやや寛容?オクダ流・スポーツから覗いてみるニッポン!
「Number」に連載されたスポーツエッセイ。毎回ワンテーマ10枚で、連載全26回+2010年サッカーW杯臨時増刊4回分。 基本的に特定の選手やチームには一切取材せず、一ファンとして、あるいは単に観戦した者として、フリーの立場から綴っているので極めてニュートラルな書き方になっているのが特徴です。そのため、とりあげた選手や競技について読者の側に知識がなくても、スポーツを中心にすえた文化論として読めます。もちろん、著者ならではの軽妙な語り口は健在。著者の若い時代に見聞きした話も多数入っているので、40代以上の読者には特にお薦めな一冊。

奥田英朗氏ってこんなにエッセイがうまかったのか。

スポーツのことをこんなにおもしろく語れる人は多くない。
スポーツはもちろん、社会一般や他国の文化や人の心の機微にも造詣が深く、それなのにあくまで観戦者の立場を守りつづけた文章を書けるのはすばらしい。

スポーツライターには無理だろうね、このほどよい温度感でエッセイを書くのは。
関係者だと利害関係が生じるから思いきったことは書けないし、どうしたって「世間一般の人は知らない、入念な取材に基づくここだけの裏話」になってしまう。
それだといいルポルタージュにはなってもおもしろいエッセイにはならない。

その点、奥田英朗氏は本業が小説家なので、スポーツ業界からどう思われたっていいやぐらいの気持ちで書いているのだろう。肩に力を入れずにあることないこと書いていて気持ちがいい。
たとえば、2010年のサッカーワールドカップについて書いたこんな文章。
 ところで、今大会最大のスターはC・ロナウドとメッシだろうが、彼らがハンサムかどうかという議論はさておき、印象的な顔であることは間違いない。ロナウド君は、粋がった町のチンピラ顔なんですね。ラテン女にモテモテで、目一杯自分を飾るが、どこか安いムードが漂う。ギャング映画だと序盤に殺されそう。一方のメッシ君は学生顔。ノートと教科書を抱えてキャンパスを歩くのが似合っていて、青春学園物のネクラな脇役によいのではないか。ついでにパク・チソンは丁稚顔。岡崎は柴犬顔。中澤はEEXILE顔。いやすまない。さっきから失礼なことばかり書いている。
どうです、こんな無責任なことを書ける人がスポーツライターにいますか。いないでしょう。
匿名掲示板にだって書くのを躊躇していまいそうな“適当発言”。
これを由緒あるスポーツ情報誌『Number』に署名入りで書いてしまうのだから、根性がすわっているというかなんというか。


ぼくはほぼ毎年高校野球を観るために甲子園に行くのだが、友人とビールを飲みながら下劣なことばかりしゃべっている。
やれ「□□高校の監督は顔に知性が感じられない。学校の偏差値の低さが顔に出ている」だの、やれ「○○県は民度が低いからアルプススタンドの応援もダサい」だの、当事者に聞かれたらぶん殴られても文句のいえない低俗な軽口を叩いている。

これは友人しか聞いていないから言える冗談だけど、だからこそおもしろい。
『どちらとも言えません』もそれと同じ。
無責任だからこそ辛辣で痛快。
野球場で酔っぱらいが飛ばしているヤジみたいなもの。
妙にヤジがうまいおっさんっているもんね。
そういうおっさんはえてして改まって意見を求められると言葉に詰まっちゃったりするもだけど、おもしろいヤジをそのまま文章にできるのが奥田英朗氏の才能なんだねえ。

あくまで「観客の目線」。
エッセイのほとんどは、テレビ中継や新聞記事に基づいて書かれたもの。つまり、我々読者と同じ条件。
それにちょっとした考察や思いつきの要素が加えられることで、ぐっと読みごたえが増す。
 わたしはふと思ったのだが、もしかしてアメリカの野球って、日本の大相撲みたいなものなのではなかろうか。ワールドシリーズ(このネーミングからして傲岸不遜でしょう)が唯一無二の晴れ舞台で、五輪もWBCも眼中にない。ファンはグローバル化など少しも望んでおらず、おらが町のチームの勝敗のみに一喜一憂する。その証拠に、彼らは日本が優勝しても、「おめでとう。でもイチローも松坂もメジャーの選手でしょ」くらいの余裕の態度でいる。大相撲も同様で、仮に相撲の国別対抗戦をやったら、今なら文句なくモンゴルが勝つと思う。しかし日本人はそれほど危機意識を持たないような気がする。なぜなら朝青龍も白鵬もほぼ日本人として受け入れられているし、相撲は日本の国技で、その座が揺らぐことは永遠にない。世界の中心にいるという自負心が、国民の上から目線を増長させるのである。
さすがは小説家。
異国の文化も、このようなストーリーを持たせることで腑に落ちる。
「わかったような気になる」だけなんだけどね。
でもそれでいい。
だってスポーツ観戦自体ってそんなもんだから。スポーツ解説者なんて、勝手に選手の心情を憶測して、さも真実であるかのように説明してるだけだから。
スポーツ観戦に必要なのは真実ではなく物語性なんだよね。

そういやぼくは小学生のときに近藤唯之(元スポーツ新聞記者)のプロ野球エッセイをよく読んでいたけど、あれなんか完全に報道じゃなくて物語だったもんなあ……。


奥田英朗氏のエッセイは、正確性よりも「わたしはこう思う」というホンネを大事にしている。そして皮肉や警句もほどよく効いている。
これがまたスポーツをした後のような爽快感を味わわせてくれる。
たとえばこんな一節。
 これはマスコミ自身が一番わかっていることと思うが、スポーツ報道には、どこか「本当のことは言いっこなし」という雰囲気があるんですね。多少強引にでも盛り上げないと、新聞は売れないし、テレビの視聴率も上がらないのだ。
 たとえばバレーボール。なんでバレーボールのワールドカップが毎回日本で開催されるのか、考えてみるとよろしい。おかしいでしょう。永年開催権なんて。小さな声で言うと、興味がないんですね、他国は。好きにやっていいよ、なのである。
あーあ、言っちゃったよ……。
それをわかってても口に出さないのが大人のふるまいなんだけど、改めて言われると「いややっぱりそうだよなー」と苦笑。
みんなうっすら思ってるんだよね。


ちなみに、ぼくが思う「本当のことは言いっこなし」は、「みんな柔道なんかまったく好きじゃないんでしょ?」ってこと。

いやほんとつまんないもん。
そりゃ豪快に一本背負いとかきめてくれたらおもしろいよ?
でも、スポーツとしての柔道って(特にレベルの高い人同士の試合だと)点数稼ぎ & 時間稼ぎだからね。
でかい選手が胸ぐらつかみあったままじりじりじりじりすり足で歩くだけの競技なんて誰がおもしろがるんだって話ですよ。
ほんとはみんな興味ないけど、日本人選手がメダルを稼いでくる競技だから、オリンピックの時期になったら応援してるふりしてるだけでしょ?

もしもだよ。
国際オリンピック連盟が
「次のオリンピックから柔道はなしね」って言い出したとするよね。
けっこうな数の日本人が反対すると思う。
でもそれって、「日本の獲得メダル数が減るから反対!」じゃない?
「柔道をオリンピックで見たいから反対!」って人は柔道家以外にいる?

日本がすごく弱くなってメダルを1個もとれなくなったとしても柔道を見つづける人ってどれだけいる?


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2016年5月15日日曜日

【考察】答えは404 not found

「日本の中学・高校の教育は詰め込み型で、答えのある問題を解かせることしかやっていない」

みたいな偉そうな批判をする輩がいるけど、
てめえがテストで点とるための勉強しかしてこなかったことを日本の教育の問題にすりけてんじゃねえよ!

やるやつはやってるし、やらないやつはどんな環境でもやらねえよ!

ってうちの2歳児が言ってました。

2016年5月12日木曜日

【考察】失われしトキを求めて

佐渡島でトキが飼育されているというニュースが、「子どもたちに命の大切さを知ってもらいたい」というメッセージとともに流れていた。

命の大切さを知ってもらいたいなら、
もう保護なんてやめて、「かつて日本にはトキという鳥がいましたが、完全に絶滅してしまいました。決してトキの存在が戻ることはないのです……」
とやったほうが効果的だと思いますよ。

2016年5月11日水曜日

【エッセイ】妖怪キャベツ持たせ


見知らぬ女性につかまれながらキャベツを運んだときの話。




大学生のときのこと。
当時住んでいたアパートの近くには中高一貫の女子校があった。ぼくはその女子校の横を通って大学に通っていた(誤解しないでいただきたいが、女子校のそばを通っていたのは決して不純な動機ではなく、うら若い乙女の甘い香りを嗅ぎたいというきわめて純粋な気持ちによるものだ)。

少し肌寒い昼下がり。
ぼくが歩いていると、三十半ばの女とすれちがった。
“ふらふら”と“よたよた”の中間のような、おぼつかない足どりだった。
赤塚不二夫が生前100パーセントのアル中状態でテレビに出演していて、ガゼルがこの震え方してたらヤバい病気もってると思われて逆にライオンに狙われないぐらいだわってぐらいに震えていたが、ちょうどそのときの赤塚不二夫みたいな歩き方だった。

ゆっくりと歩いていた女はやがて歩みを止め、くずれるように道端に倒れこんだ。

あっ倒れた、と思った。
ほんとうに親切な人ならここで何も考えずにすぐさま駆けよるのだろうが、なにぶんぼくは性根が腐っているので、あら倒れちゃったよ、一応様子見に行った方がいいかしら、でも早めに大学行って空き教室で昼寝したいしな(かなりどうでもいい用事)と逡巡していた。

きっかけをくれたのは、ちょうど真ん前の学校から出てきた二人の女子高校生だった。
彼女らも女の人が倒れたことに気づいて「うわっ。人が倒れたよ」「やばいんじゃない?」と言い合っている。
女子高校生の存在に気づいてからのぼくの行動は素早かった。
すぐさま女の人に駆け寄り「どうしました? 救急車呼びましょうか?」と、どちらかといえば女子高校生たちに聞いてもらうためにつとめて優しい声をかけた。

倒れた女の人をあらためて見ると、顔に血の気がなくて、ものすごく痩せていて、ぼくが保健所の職員だったらとりあえずトラックの荷台に詰めこんでしまいそうなぐらい不健康なオーラを醸し出していた。
彼女は消え入りそうな声で「救急車は……呼ばなくても……いいです……。よくあることなんで……」と言い、しかし立ち上がるわけでもなく路上に座り込んでいる。
いやいやあんた立てなさそうじゃん、だいたいよく道に倒れますって第二次世界大戦のバターン死の行進かよ。

と、この時点で早くもめんどくさくなってきて(なにしろ性根が腐っているから)、さっさと救急車呼んで隊員に引き渡してしまおうかと思ったのだが、本人が呼ぶなって言ってるのに勝手に呼んで恨まれても嫌だしなあ、だってシッダルタが断食修行しすぎて死にそうになったときにスジャータが無理やり乳がゆを飲ませて助けたら感謝されるどころか修行の邪魔したみたいに言われてたしなあとか手塚治虫の『ブッダ』のストーリー思い出してたら、さっきまで心配そうに見つめていた女子高校生たちが、女の人の生命に別状はなさそうなこととぼくが声をかけたことで安心したみたいで、あっさり立ち去ってしまった。

こうなるともういい人のふりをする理由もないのだが、かといって「じゃっ、お元気で!」とさわやかに言ってこの場を離れるのも、高校生の前でいいかっこしたいという魂胆が見え見えなので、女の人の心配をするふりしながら突っ立っていた。

「ほんとに救急車呼ばなくて大丈夫ですか」

「ええ……。ちょっと……休めば治るんで……。ありがとうございます……」

べつにあなたのことを気遣ってるわけじゃなくて、救急車呼ぶなり立ち上がるなりしてもらわないと、一度声をかけた手前、この場を離れづらいじゃん。

それにほっといてもし今晩のニュースで「女性がのたれ死にました。都会の冷たさが生んだ悲劇とでもいいましょうか」とか古舘伊知郎がしゃべってんのを聞いちゃったら寝覚めが悪いしさ。
とはさすがに口に出して言うわけにもいかず「立てないようなら肩貸しましょうか」と云ってしまった。

そしたら女はまってましたと言わんばかりに「ほんとですか。ありがとうございます!」と若干元気よく食いついてきて、さっきまでの「ええ……ちょっと……」みたいな息も絶え絶えなかんじのしゃべり方はどこいったんだよ、と少し
イラっとしたものの、一度言いだした以上は今さら「やっぱ疲れるの嫌だからさっきのなしで」とも言えず、肩を貸すことになった。

そんで隣にしゃがんだら、信じられないぐらい強い力が肩にのしかかってきた。
うそでしょ?
だってこんなに細い人なのに。
体重以上の圧かかってない?物理法則ちゃんと機能してる?
立つために必要な分の倍ぐらい力かけてない?

あーこれ読んだことあるやつだ。
子どもの頃持ってた『ようかいだいずかん 日本のようかい編』で。
そう、こなきじじい。
おんぶしたら石に変わるっていう、人の善意につけこむ鬼畜妖怪。
いたんだ。現代にも。


で、左肩むしりとられんじゃねえかってぐらいの力でしがみつかれながらもなんとか立ち上がった。
そのときはじめて気づいたんだけど、この現代版こなきじじい、いっちょまえに荷物持ってんの。
ハンドバッグと、キャベツ。


キャベツ……?


なぜだかわからないけど、キャベツ1個だけ持ってる。
袋とかなくて、丸のままのキャベツ。
買い物帰りなんだろうけど、ふつうキャベツ裸で持ち歩くかね。
しかもおかず買いに行ったら、肉とか魚とかも買うと思うんだけど。
キャベツだけをバリバリかじっているなんて、ますます妖怪じみている。


そんでさ、立ち上がった拍子にハンドバッグ落としちゃったわけ(キャベツは無事)。
そりゃそうだよね。
だって全身全霊の力をこめて、ぼくの肩肉に指をくいこませてるんだもの(たぶんもう肩が紫色になってる)。
そんなに肩に力かけてたら、ハンドバッグ持ってる方の手に力なんか入るわけない。

だからね。見かねて云ってやったわけ。
「荷物持ちましょうか」って。
もう女子高校生もいないのによ。
純粋な親切心で。

そしたらその女、ちょっとためらって断るんだよ。
あ……いや……いいです……。
なんつって。

まあわからんでもないよ。
貴重品とか入ってるだろうし、初対面の男に荷物預けるのは不安って気持ちは。
でもさ。
こっちは倒れてるところを助けてやった(っていっても肩の肉を紫色になるまでつかませてやっただけだけど)恩人なわけよ。
そんな人間が盗みをはたらく悪人だと思うのか! 失礼な!

もし盗むんなら倒れた直後にハンドバッグひったくって、すぐに走って逃げて、角を曲がったところの自販機の下あたりにハンドバッグ押し込んで万が一捕まっても証拠が残らないようにしてその場を離れてから、ほとぼりが冷めた頃を見計らって金品だけ回収に来るわい!(まあなんて計画的な悪人)

と思ってたら、それが顔に出ていたのか、女の人もせっかくの申し出を無駄にしちゃ悪いと思ったらしく、
「じゃあ……これ、持ってもらってもいいですか……」
とキャベツを差し出してきた。

というわけで、ふらふらの女に左肩をわしづかみされながら、右手でキャベツを裸のまま抱えて、近所に住んでいるという女の家まで歩くことになった。


道中はほとんど会話なし。
訊きたいことはキャベツの繊維の数ほどあった。
なんでキャベツ1個だけ買ってんの?とか
なんでそんなに痩せてんの?とか
なんでよく倒れんの?とか
なんで救急車呼ばないの?とか。

でもどの質問しても返ってくる答えは「お金がないから」だろうなってことがその頃にはもう薄々わかってきてたから、結局何も云わなかった。明らかにお金なさそうな風貌だったし。
うかつにお金の話題になって、見ず知らずの女から「お金貸してもらえませんか」って云われたら困る。
そりゃあ、こっちも貧乏学生だとはいえ、そして性根が腐っているとはいえ、人の命に替えられるならいくらかはカンパしてあげたいとは思う。
だけどこの女、さっき立ち上がるために必要な分以上の力をぼくの肩にかけたことから察するに、生きていくために必要な分以上を要求してくる可能性がある。ガーデニングしたいんで肥料買うお金貸してもらえませんか的な。

そんなわけでお金の話にならないように警戒しながら送ってやったのだが、その人の家に着く前に「あ……ここらへんでいいです……。あと少しで家なんで……。ありがとうございました……」って云われて、ああ見ず知らずの男に自宅を知られないように警戒されてるんだなあと思ってちょっと悲しくなった。

一応人助けしたのに、よほど心の汚さがにじみ出ていたみたいで、ハンドバッグは預けないわ、自宅は知られないようにするわで、とうとう最後まで警戒されたままだった。
ぼくはただ純粋に、女子高校生の前でいいかっこしたかっただけなのに。
でもぼくも借金を申し込まれないかとずっと警戒していたわけで、そのへんはお互い様だ。


というわけで人助けなんていうと聞こえはいいけど、実際は助けたり助けられたりしながらもけっこう腹のさぐりあいをしているものよね。

2016年5月10日火曜日

【エッセイ】あいさつがとくい


Eテレ『おかあさんといっしょ』
その中の『ともだち8人』には、ヤアヤというキャラが登場する。
「あいさつがとくい」なんだって。

あいさつに得意も苦手もあるかいっ!!


と思ったあなたは、あいさつがとくいな人。
ヤアヤ系のタイプ。
あいさつに苦労をしたことのない、いわば社交界のぼっちゃん。
軽々に「あいさつができないなら世間話をすればいいじゃない」とか言って、非・社交的な民衆から反感を買ってギロチンにかけられればいいのに。



あたしはあいさつがへただ。
あたしが「あいさつがとくい」というアビリティを獲得するためには、相当なことをするしかないんじゃないだろうか。
たとえば悪魔に魂を売り渡すとか。


まずあいさつのタイミングがわからない。
いつおはようと言ったらいいのか。

「そんなのかんたんじゃないか。
 朝、最初に顔をあわせたときだよ」

そんなことはあたしにもわかってる。

でもよ。
まず顔をあわせられないわけ。
人の目を見ないから。

さあどうする。
そちならどうする、一休。



あとさ。
こんなケース。

あっ、知り合いのAさんだ。
でもAさん、Bくんとしゃべってる。
あたし、Bくんと話したことないんだよね。
じゃましちゃ悪いし、素通りしよう。

こんなとき。
そのあと、Aさんに対してどうやってあいさつしたらいい?
さっきお互いに気づいてたのに、今さら「おはよう」ってのもねえ……。

こんなとき、「あいさつがとくい」なヤアヤならどうするわけ?

『おかあさんといっしょ』ではこんなときの対応も教えてくれるわけ!?

2016年5月9日月曜日

【エッセイ】寿司おしえます

ぼくの夢は「寿司をおしえる」ことだ。
それも、とびきりえらそうに。


寿司屋でひとり、寿司を食うぼく。
たまたま隣に、外国人客が座る。若いカップル。大きな荷物を持っているから旅行客なのだろう。

お品書きを見ながら、ひそひそと小声で話しあうカップル。
どうやら寿司屋に入ったものの、どうやって頼んだらいいかわからなくて困っているらしい。

お品書きは日本語のみ。
おまけに「えんがわ」「ねぎとろ」「あなきゅう」など、辞書にも載っていないような名前が並んでいる。
困惑しないわけがない。

「どうしよう。ぜんぜんわかんない」
 「上から順に頼んでみようか」
「でも。クレイジーなメニューだったらどうしよう。ピカチュウの頭部とか」
 「おーまいがー」

みたいな会話をしているにちがいない。


絶体絶命の大ピンチ。
そこへ優しく声をかける、ジャパニーズ・クールガイ(ぼくのこと)。

「へいどうしたんだい、そこのトラベラーズ?」

「まあ。地獄でブッダとはこのことだわ。たすけて、オーダーの方法がわからなくて途方にくれてるの」

「なんだ、どんなダイハードな事態かと思ったらそんなことか。おやすいごようだ。オーケー、ぼくが寿司のオーダーという方程式を鮮やかに解いてみせよう。まずは無難にサーモン、ほんのちょっとだけソイソースをつけて食うべし。それから甘いソースのかかった蒸しアナゴ……」

とえらそうな顔で寿司の食い方とうんちくをレクチャーし、尊敬のまなざしを受けるのがぼくの夢だ。




とはいえ、たいていの夢がそうであるように、ぼくの夢もかんたんには叶えられそうにない。
まずぼくは外国語が話せない。英語ですらニューホライズンレベルだ。
それから寿司通でもないのでうんちくなんかひとつも知らない。
あと出不精だからひとりで寿司屋なんか行かないし、人見知りだから隣の客が困ってても話しかけたりもしない。

なんと道が険しいことか。

というわけで、ひとなつっこくて、ぼくの説明に対してややオーバーめに感心してくれて、日本語が堪能で、でも寿司のことだけは何も知らない外国人がいたら、ぼくのところまで!!
待ってます!
こっちからは声かけないです!

2016年5月7日土曜日

【読書感想文】橘 玲『言ってはいけない 残酷すぎる真実』


内容(「BOOK」データベースより) この社会にはきれいごとがあふれている。人間は平等で、努力は報われ、見た目は大した問題ではない―だが、それらは絵空事だ。進化論、遺伝学、脳科学の最新知見から、人気作家が明かす「残酷すぎる真実」。読者諸氏、口に出せない、この不愉快な現実を直視せよ。

いやあ、おもしろい本でした。

とある書評サイトで
「この本には著者独自の見解というものがほとんど含まれていない。いろんな本や論文から得た見識を紹介しているだけだ!」
と批判している人がいた。

そう、そのとおり!
いろんな見識を紹介しているだけ!
でも、それがすごいんだよなあ。かんたんな仕事に見えるかもしれないけど。

膨大な資料にあたり、それをわかりやすくまとめて、興味をひくように提示するてのは、ほんとに頭がいい人にしかできないことですよ。
「政治・経済の池上彰、(経済学も含めた)サイエンスの橘玲」
ですね。

なにより、挑発的なコピーをつけるのがうまいね。
たとえば、この本の見出しだけをいくつか取りあげてみると。
  • 馬鹿は遺伝なのか
  • 犯罪は遺伝するのか
  • 妻殺しやレイプを誘発する残酷な真実
  • 脳科学による犯罪者早期発見システム
  • 「美貌格差」最大の被害者とは
  • メスの狡猾な性戦略
  • 避妊法の普及が望まない妊娠を激増させる
  • 低学歴の独身女性があぶれる理由
  • 子どもはなぜ親のいうことをきかないのか
  • 英才教育のムダと「バカでかわいい女」

どうですか。
読みたくなるでしょう。
電車の吊り広告に載っている週刊誌の見出しのよう。
実際、週刊誌と同じで煽りすぎなところもあったり、結論を急いで極論に走ったり、わざと誤解を招くようなことを書いたりしてるけど、娯楽的な読み物としてはこれで十分。
あくまで入門書(または飲み会での話のネタ)と考えて、正確な知識は巻末の参考文献にあたる、というのが正しい接し方ですね。


内容も刺激的。
たとえば……。
 犯罪における遺伝と環境の影響を知るには、養子に出された犯罪者の子どもがどのような人生を歩んだかを調べてみるのも有益だ。もちろんこうした研究も行なわれていて、約1万5000人の養子(男の子)を対象としたデンマークの大規模な調査が有名だ。
 この調査では、実の親も養親もともに犯罪歴がない場合、有罪判決を受けた息子の割合は 13・5%だった。養親に犯罪歴があり、実の親にない(遺伝的な影響がない)場合、この割合は 14・7%にしか上がらない。しかし養親に犯罪歴がなく、実の親が有罪判決を受けたことのある(遺伝的な影響がある)ケースでは、息子が犯罪をおかす割合は 20%にはねあがったのだ。

つまり、子どもが犯罪者になるかどうかは、どんな家庭で育ったかよりも、どんな親から生まれたかに影響されやすいということ。
たしかにこれはおおっぴらには言えない話だよね……。
犯罪者の親を持つ子どもへの差別につながりかねない(親が犯罪者でも犯罪をしない子のほうが多いのに)。
「親のしつけが悪かったせいだ!」というほうがよほど受け入れやすい。事実とちがったとしても。 


備えあれば憂いなし。
「親なんて無力だ」ということを知っておくためにも、子育てをする前にこの本を読んでおいてもいい。
おもしろかったのはこんな話……。
男女共学の学校に通う女子生徒は、「数学や物理ができる女はかわいくない」という無言の圧力を加えられている。「バカでかわいい女」でなければ友だちグループに加えてもらえないなら、好きな数学の勉強もさっさと止めてしまうだろう。
 このように考えれば、親のいちばんの役割は、子どもの持っている才能の芽を摘まないような環境を与えることだとハリスはいう。
 知的能力を伸ばすなら、よい成績を取ることがいじめの理由にならない学校(友だち集団)を選ぶべきだ。女性の政治家や科学者に女子校出身者が多いのは、共学とちがって、学校内で「バカでかわいい女」を演じる必要がないからだ(必要なら、デートのときだけ男の子の前でその振りをすればいい)。同様に芸術的才能を伸ばしたいなら、風変わりでも笑いものにされたり、仲間はずれにされたりしない環境が必要だろう。

ぼくは女子校がどんなのかは知らないけど、たしかに高校時代は賢い女子も「ちょっとばかな子」を演じてたなあ、と思いあたる。
あれは生きていく上でやむなくとっていた生存戦略なんだなあ。
ちょっと悲哀を感じるね。


他にも、刺激的なトピックが多く紹介されている。

「知性は大部分が遺伝で決まる。家庭での教育はほとんど子どもの知能や性格に影響しない」

「生まれもって犯罪者になりやすい子は存在する」

「端正な顔立ちの人のほうが知能が高い」

「同じ罪を犯しても、顔立ちによって罪状は変わる」

「男女をまったく同じように育てると、かえって男は男らしく、女は女らしくふるまうようになる」


これらは『言ってはいけない』に書かれている内容だけど、学校で教わる「道徳」に反することばかり。
誰でも努力をすれば成功する、出自や見た目で人を判断してはいけません、男女に優劣の差はありません……。

特に学校教育は「人はみな平等である」という幻想にもとづいて制度設計されているので、それがウソだとわかってしまうと、成り立たなくなるんじゃないかな。
みんな薄々ウソだとは気づいているけど、あえて口にしない。

でも、はたしてそれって人を幸福にしているのだろうか。
生まれもって勉強が得意でない子に「がんばればできるよ!」と勉強をさせるのって、車椅子の子に「がんばれば速く走れるようになるよ!」というようなもんじゃないのか。

以前にも書いたけど、ぼくは障害者がそうでない子と同じ学校に通うことに反対だ。
能力の異なる子を同じように扱うことは、決して本人を幸せにしないと思う。ぼくがサルだったら人間と同じ学校に行きたくない。もちろん逆もしかり。

そろそろ「誰でも努力すれば成功する」というエセ平等主義はやめましょうよ。
優しいことを言っているようで、「成功しなかったのは努力しなかったおまえが悪い」と言ってるのと同じだから。
ねえ。



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2016年5月6日金曜日

【エッセイ】霊感があるタイプの人

あたしには霊感がある
……という人を見分ける力が、あたしにはある。


(あー、こいつ言いそうだなー)
と思っていたら、あんのじょう。

「あたしさぁ、霊感ある人なんだよねー」

ほら、言った。

ほら、「ほかの人には見えないものが見えるトクベツなあたし」かもしだしてきた。



(こいつ、言わなくてもいいのにみんなの不安をあおるようなこと言いはじめそうだなー)
と思っていたら、あんのじょう。

「この道、なんか感じない……?」

そら、きた。

「あたしだけかな……。まとわりつくような視線を感じるっていうか……」


それはあたしが(こいつめんどくさいこと言いだしそうだな)って目で見てたからだよ!



2016年5月4日水曜日

【エッセイ】SAKURAパイ

日本に来た人が買って帰るおみやげのお菓子ってなんなんでしょう。

北海道における白い恋人。
広島ならもみじまんじゅう。
ハワイのマカデミアナッツチョコ。

そういうやつ。

めちゃくちゃおいしいというほどではないけど、誰が食べてもそこそこおいしい、おみやげのド定番。

現地の人は誰も食べない、おみやげとしてのみ生きていけるお菓子。



ぼくらが知らないだけで、日本にもそういうのがあるんじゃないでしょうか。

「SAKURAパイ」とか「JapaNoodle」みたいな、日本みやげ専門のお菓子がどこかで売られているんじゃなかろうか。


日本人は誰も食べたことがない、けれども訪日する外国人にとっては誰もが知っているド定番のお菓子が……。


2016年4月30日土曜日

【読書感想文】米原 万里 『心臓に毛が生えている理由』

内容(「BOOK」データベースより)

在プラハ・ソビエト学校で少女時代をすごし、ロシア語同時通訳者として活躍した著者が、鋭い言語感覚、深い洞察力で、人間の豊かさや愚かさをユーモアたっぷりに綴る最後のエッセイ集。同時通訳の究極の心得を披露する表題作、“素晴らしい”を意味する単語が数十通りもあるロシアと、何でも“カワイイ!”ですませる日本の違いをユニークに紹介する「素晴らしい!」等、米原万里の魅力をじっくり味わえる。

ロシア語通訳者によるエッセイ。
死後に単行本未収録のエッセイをまとめたものらしく、内容はばらばら。
それでも一篇一篇はきちんとおもしろい。高い品質のエッセイを書いていたことを改めて思い知らされる。

中でも「チェコと日本の両方で教育を受けた」という特異な経歴を活かした、言語や文化のちがいに対する考察の鋭さが光る。

おもしろかったのがこの文章。

それまで五年間通っていたプラハの学校では、論文提出か口頭試問という形での知識の試され方しかしていなかったのだ。
「鎌倉幕府が成立した経済的背景について述べよ」「京都ではなく鎌倉に幕府を置いた理由を考察せよ」
 というようなかなり大雑把な設問に対して、限られた時間内に獲得した知識を総動員して書面であれ口頭であれ、ひとまとまりの考えを、他人に理解できる文章に構築して伝えなくてはならなかった。一つ一つの知識の断片はあくまでもお互いに連なり合う文脈を成しており、その中でこそ意味を持つものだった。
 ところが、日本の学校に帰ったとたんに、知識は切れ切れバラバラに腑分けされて丸暗記するよう奨励されるのである。これこそが客観的知識であるというのだ。その知識や単語が全体の中でどんな位置を占めるかについては問われない。
 これは辛かった。苦痛だった。記憶は、記憶されるべき物事と他の物事、とくに記憶する主体との関係が緊密であればあるほど強固になるはずなのに、単語と単語のあいだの、そして自分との関係性を極力排除した上で覚え込むことを求められるのだ。

 チェコの学校がみんなこうなのか、それとも著者が通っていた学校だけが変わっていたのかはわからない。
 でも少なくとも日本の学校の大半は、知識をばらばらにして覚えることを生徒に要求している。
(ただぼくはそれが悪いことばかりとは思わない。意味を無視してひたすら覚えるほうがかえって効率的な局面もたしかにある)

 とはいえ、著者が例であげているように、歴史なんかは有機的に覚えていったほうがずっと理解が深まるし、なによりおもしろい。


 でもなあ。
 論文式の試験は、採点するほうがたいへんなんだよなあ。
 えらそうに「知識詰め込み型の教育は良くない!」と言うのはかんたんだけど、ぼくが教師だったら、やっぱり選択式の問題とかにしちゃうだろうなあ。
 だって頭悪い子の論文を読むことほどつらいことはないもの。

 大学の先生はたいへんだなあ。



2016年4月26日火曜日

【エッセイ】バイクのブーン その3


バイクのふたり乗りは、必死にしがみついているさまがあわれだとしか思えない。
だけど、これまでの人生で一度だけ、ふたり乗りをかっこいいと思ったことがある。

バイクじゃなくて自転車だけど。


とある下町に住んでいたときのこと。

あたしはワケあって、商店街に行った。
ワケっていっても、塩大福買いにいっただけですけど。
それ以上のワケはありませんけど。



商店街の入口で、自転車のふたり乗りとすれちがった。
やんちゃな学生が多い地域だったから、自転車のふたり乗りなんて、道端に落ちてる手榴弾と同じくらいありふれた光景だった。どんな地域だ。

でも、あたしがすれちがったふたり乗りはひと味ちがっていた。
自転車を運転してるのが、70歳くらいのじいさんだった。
で、そのじいさんの両肩に手をおき、後輪に足を乗せているのも、70歳くらいのじいさんだった。

かっけえ……。

そのころ、友人に誘われてSMAPのコンサートに行ったことがある。
付き添いで行っただけでべつだん興味なかったから、踊って歌うSMAPを見ながら、なんでこんなのにみんなきゃあきゃあ云うんだろうかとふしぎだった。

SMAPにはぜんぜんときめかなかったあたしだけど、じいさんのふたり乗りにはしびれた。

じいさんたち、すっげえ愉しそうだった。

そりゃ愉しいだろう。
70過ぎて自転車のふたり乗りして、愉しくないはずがない。

若者たちはバイクでスピードを出してスリルを味わうけど、そんなの比じゃない。

だって、じいさんたちの場合、こけたら寝たきりだよ?
すごいスリルじゃない?

そりゃかっこいいわ。


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バイクのブーン その3


2016年4月25日月曜日

【エッセイ】バイクのブーン その2


バイクをまったくかっこいいと思わないあたしだから、ましてやバイクで走っている人の姿なんか、かっこいいどころかみっともないとさえ思ってしまう。

みっともないでしょ、あれ?

あれ、本人は「またがってる」「乗りこなしてる」と思ってるんでしょうけど、はたから見てるとカンゼンに「しがみついてる」ようにしか見えないよね?

サルの親子が移動するとき、子ザルがおかあさんザルの背中に必死にしがみついてるじゃない。
バイク乗りを見てると、それと同じに見えてしょうがない。
エンジン音にかき消されて聞こえないだけで、実際は大半のバイク乗りが「おかあさん待って!」って叫びながらしがみついてんじゃないかって、あたしはにらんでいる。

そんなんだから、バイクのふたり乗りなんかもうおかしくってしょうがない。
だって、バイクから振り落とされないように運転手がバイクに必死にしがみついてて、それだけでも江戸時代だったら滑稽本の題材になりそうなぐらい滑稽なのに、さらにそいつに必死にしがみついてるやつがいんの。

バイクにしがみつくやつにしがみついてる。
「孫請け」という言葉しか出てこない。

あわれ。
ほんとあわれ。もののあはれ。

もう、不憫すぎて逆に好きになっちゃいそう。
愛してる。

鼻毛抜くときぐらい必死な顔してバイクにしがみついてる人に教えてあげたい。
自動車ってのがあるよって。
しがみついてなくても平気な乗り物あるよって。
あと雨にも濡れないよって。
たった2個のタイヤをケチらなければ自動車にランクアップできるんだよって。


あとよくわかんないのが、バイク乗りってすぐ「バイクに乗ってると風を感じる」とか言うじゃない。

あれふしぎよね。
どう考えたって、止まってるときのほうが風を感じられるでしょ。
風向きを読むとき、どんなことする?
人差し指につばをつけて、指を立てて、動かずじっとするよね?
それか、風がなければ静止しているはずのもの、旗とかを見るよね?
指をふりまわしながら「東から風が吹いてるな」とか言う?

サルが背中に子ザル乗せて走ってるのを見て、「今日は風が強いな」とか感じる?
動いてるやつが感じてるのは風じゃなくて空気抵抗だろって。



あとさ、あとさ。

「風とひとつになれるからバイクはいい」
ってのも聞いたことある。

ま、それはわからんでもない。
「風を感じる」よりは意味がわかる。
動いてるからね。

でもさ、バイク乗りって雨の日でも走るじゃない。
びちょんこになって。

それはやっぱりあれ?
雨とひとつになりたいわけ?

そして春先は中国から来た黄砂になりたいわけ?
花粉とPM2.5もつけとく?


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バイクのブーン その1
バイクのブーン その2
バイクのブーン その3


2016年4月24日日曜日

【エッセイ】バイクのブーン その1

あたしはバイクのかっこよさがまったくわからない。

ていうかあれかっこいい?

暴走族の改造バイクは論外として(ていうかニホンオオカミが絶滅したのと同じタイミングでもう滅びたんだよね?)、大型バイクも中型も原付もかっこよくない。

造形といい、材質といい、排気音(っていうの? あの「でっでっでっでっ」ってやつ)といい、ぜんぜんだ。

かっこわるいとは言わない。
だってなんとも思わないもの。
冷蔵庫を見ても「かっちょいい!」とか「かっこわりいなー」とか思わないでしょ?
それとおんなじ。

冷蔵庫の「ブーン」って音を聴いても、
「おっ、いかした声で鳴くマシンだな」
とか思わないでしょ?


……えっ、思うの?
そういう人は高専に行きなさい。
そんでロボコンで青春の汗を流してきなさい。
そんで1回戦で勝って仲間と抱きあって喜び、続く2回戦でマシントラブルに見舞われて悔し涙を流しなさい。
その後バイクメーカーに就職して、開発の仕事をしなさい。
そんで冷蔵庫の「ブーン」とまったく同じ音で走るバイクを開発しなさい。


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2016年4月23日土曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

 

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』

内容(「BOOK」データベースより)
刑務所の独房を1晩82ドルで格上げ、インドの代理母は6250ドル、製薬会社で人間モルモットになると7500ドル。あらゆるものがお金で取引される行き過ぎた市場主義に、NHK「ハーバード白熱教室」のサンデル教授が鋭く切りこむ。「お金の論理」が私たちの生活にまで及んできた具体的なケースを通じて、お金では買えない道徳的・市民的「善」を問う。ベストセラー『これからの「正義」の話をしよう』に続く話題の書。
「金で買えないものはない」
という人がいる。
もちろん、そんなことはない。
お金で買えないものはある。
たとえば「お釣り」とか。もらうことはできても買うことはできない。
はい、利かせてみましたよ。とんちを。

「世の中お金じゃない」
という人がいる。
これもうそだ。
お金なしで生きていくのは不可能。
田舎で畑をつくって自給自足の生活をしている人はいるだろうが、大気や安全も誰かのお金によって守られていると考えると、その人もお金の恩恵を受けて生きている。
畑泥棒が跋扈する世の中では自給自足の生活は送れないからね。


大概のものはお金で取引可能だけど、そうではないものもある。
じゃあその境界線ってどこにあるの?
いや、どこに境界線を引くのが正しいの?

という問いに対してじっくり考察したのが『それをお金で買いますか』だ。



たとえば、こんな例。

絶滅の危機に瀕しているアフリカのクロサイ。絶滅危惧種なのでもちろん猟は禁じられているが、なんと15万ドルを払えばクロサイを撃ち殺す権利が買える。

と聞くと、動物の命も金次第か、とイヤな気持ちになるでしょう。
ところが、ことはそう単純な話ではない。
クロサイを撃つ権利をハンターに販売できることで、民間の牧場主はクロサイを保護して繁殖させるインセンティブが得られる。
結果として、クロサイの数は回復しはじめている。

クロサイを殺す権利を金で売ることができるようになったことで、種全体としてはクロサイは守られている。

それでも、快楽のためにクロサイを殺す権利を売ることはいけないのか?
難しいところだよね……。



お金の扱いは難しいと、『それをお金で買いますか』を読んでつくづく思う。
こんな例。
たとえば、増えつづける行動経済学者の一人であるダン・アリエリーは、一連の実験を通じて次のことを明らかにした。何かをやってもらうためにお金を払っても、無料でやってくれるよう頼む場合ほどの努力を引き出せないことがあるのだ。(中略)全米退職者協会はある弁護士団体に、一時間あたり三〇ドルという割引料金で、貧しい退職者の法律相談に乗ってくれるかどうかをたずねた。弁護士団体は断った。そこで退職者協会は、貧しい退職者の法律相談に無料で乗ってくれるかどうかをたずねた。今度は弁護士団体も承諾した。市場取引ではなく事前活動への取り組みを要請されていることがはっきりすると、弁護士たちは思いやりをもって対応したのである。
これはよくわかる。
ぼくも、友人に「引っ越しするから手伝いにきてよ」と言われたら「しょうがないな」と云いながらも手伝いにいく。

でも「1,000円あげるから引っ越し手伝いにきてよ」と言われたら、「1,000円ぐらいで来ると思うなよ」と行きたくなくなる。

お金はたくさん欲しいけど、いついかなるときでも欲しいかというと、そうでもないんだよね……。

べつにきれいごとをいうわけじゃないですけど、お金で売り買いしてほしくない領域というのはある。


最後に、なるほどそのとおり! と思わず膝を打った文章をご紹介。
これで、この数十年間が貧困家庭や中流家庭にとってとりわけ厳しい時代だった理由がわかる。貧富の差が拡大しただけではない。あらゆるものが商品となってしまったせいで、お金の重要性が増し、不平等の刺すような痛みがいっそうひどくなったのである。
そうなんだよね、すべてが商品になるって、しんどいことなんだよね……。


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2016年4月21日木曜日

【考察】頭でっかちの貴様

彼は頭でっかちの人間だ
という言い回し。

たぶん本来の意味としては
「理論や知識ではなく、行動も必要だ」
ということなんだろう。

でも
「おまえは頭でっかちだから……」
と相手を恫喝する人間の99.9%は、

おまえはおれの知らないことを知っているから気に入らない

という意味で使ってるよね。


2016年4月20日水曜日

【思いつき】メモリの限界

用事を片づけようと立ち上がる
 ↓
ごみが落ちてるのに気づいて拾う
 ↓
「あれ? いま、ぼく、何しようとしてたんだっけ……」

ってこと、よくありますよね。


PCで文章をコピーする
 ↓
ちょっと入力作業をする
 ↓
貼り付けしようとする。コピーした情報が消えてる!

ってことがよく起こるんだけど、あれかね、パソコンも
「あれ、おれいま何しようとしてたんだっけ……」
ってなるのかね?


2016年4月17日日曜日

【エッセイ】こいつ、あたしの蒸しアナゴを……!


妻のおかあさんがお寿司を買ってきてくれた。
ありがとうございます!
お寿司大好き!

いっしょに食べることになった。

お寿司はにぎりの盛り合わせ。
とても種類が多い。
マグロやタコ、玉子はもちろん、ヒラメや赤貝など、ちょっとめずらしいのもある。
いろんな種類が、ひとつずつ。

ひとつずつ……。

お義母さんとの食事なのに、ひとつずつ……。

こまった。
ずっと昔に友人とふたりで飲みにいったとき、お互いに「あいつに借りればいいや」と思ってたためにふたりあわせて所持金が1500円くらいしかなくて、しかもそのことに会計時に気づいくということがあったが、そのときと同じくらいこまった。

これはやばい。

世の中に100パーセントはないというけれど、これだけは自信を持って言える。

寿司に順列をつけない人間は100パーセントいない!!


どんなに博愛精神に満ちあふれた人でも、すべての寿司と平等に接することはできない。
ハマチに目がなかったり、イクラがだめだったり、セロリが好きだったりするのね、と山崎まさよしも歌ってました。

甲本ヒロトも
「生まれたところや 皮膚や眼の色で
 いったいこのぼくの
 なにがわかるというのだろう?」
と歌ってたが、彼もぜったいに魚種や赤身か白身かで寿司ネタを差別しているはずだ。

もちろんぼくにも寿司ネタの好き嫌いはある。
先輩に寿司屋でごちそうしてもらっても、尊敬できない先輩だったらまちがえたふりしてそいつの分まで食べちゃうぐらい蒸しアナゴは好きだ。
その一方でイカに関してはぜんぜん興味がないから、合コンで男が聞かれてもいないのに「これおれのバイク」って携帯に入ってるバカでかいバイクの写真を自慢げに見せてきたときの女の子ぐらい興味ない顔で、イカのことを見てる。

だからお義母さんにもとうぜん、いちばん好きなネタがあるはずだ。

さあそれはなんなのか。
ハマチなのかタコなのかウニなのか。

今後のお義母さんとの関係を、ひいては夫婦関係を良好に保つためには、ぜったいに「お義母さんのNo.1ネタ」に手をつけるわけにはいかない。

ここはストレートに訊いてみるのがいちばんだ。

「お寿司はなにがお好きですか?」

「わたしはなんでもいいから、犬犬さん、好きなの食べちゃってくださいね」

……うそつき!

そんなわけはない! ぜったいに好きなネタがあるはずだ。
うっかりぼくがそれを食べてしまった日には、
「うちの婿ったら、あたしのウニを食べたのよ。べつにいいんだけど。べつにいいんだけど、やっぱり家柄がアレなのかしらねー」
とかご近所で言いふらすほど根にもつ寿司ネタがぜったいにあるはずなのに!

しかし「なんでもいい」と言われてしまった以上、もう訊けない。
「そんなわけないでしょ、人間だもの。ほんとは何が好きなんだよ!」とは言えない。


逆に質問された。
「犬犬さんは、何が好きなんですか?」
「いや、ぼくもこれといってないんですけどねー」
ぼくもまた手の内を明かさない。

ここで「じつは蒸しアナゴに目がなくて……」と言えば、話はかんたんだ。
お義母さんは「じゃあ蒸しアナゴどうぞ」と言ってくれるはずだ。
ぼくは大好きな蒸しアナゴにありつける。

だが。
蒸しアナゴはひとつしかない。
もしも、お義母さんの「No.1寿司ネタ」も蒸しアナゴだったなら。
それでもお義母さんは「どうぞ」と言ってくれるだろう。
しかし腹の中は「こいつ、あたしの蒸しアナゴをっ……!」と怒りで煮えくりかえっているにちがいない。

それだけはぜったいに避けなければならない。



「さあ、どうぞどうぞ」
お義母さんがすすめてくる。

もうこうなったら、食べないわけにはいかない。
ぼくは慎重に寿司盛り合わせに目をくばる。

トロ、ヒラメ。
このへんは論外だ。
いちばん好きかどうかという以前に、いきなり手をつけていいネタではない。野球部の新入部員が「じゃあぼくバッターやるんで先輩外野行ってください」と言うようなものだ。

甘エビ、ウニ、イクラ。
これらも危険だ。
好き嫌いがわかれるネタであるが、その分、好きな人は深い愛情を持って接する。
「No.1寿司ネタ」である可能性が高い。

ここは無難に……。

ぼくは玉子に手を伸ばす。
数ある寿司ネタのなかで、まさか玉子が1位ということはないだろう。
玉子なんてぜんぜん食べたくないが、今後の親戚付きあいのためにはいたしかたない。
玉子をほおばりながら、そっとお義母さんの顔をのぞきみる。

大丈夫、その瞳は憎しみの炎で燃えてはいない。

次はお義母さんの番だ。
さあ、何をとる。

……なるほど、エビか。
いい選択だ。
きわめて無難。
甘エビならいざしらず、エビもNo.1になる可能性は低いだろう。

これでますます今後のネタの選択が難しくなった。
玉子とエビが消え、人気のネタ比率が高まった。
鉄火巻き、かっぱ巻き、ツナマヨ、ネギトロ、イカ、トリ貝……。
No.1ではあるまいと自信を持ってチョイスできるのはこのあたりまで。
サーモンやハマチなんかは、「これで親戚関係にヒビが入るかも……」という緊張感をもってつまむしかないネタだ。

これはまるでロシアンルーレット。
いつ被弾するかわからないという恐怖感を抱えたまま、寿司盛り合わせを食べるしかない……!

そのとき。
妻が「じゃああたしアナゴもらいまーす!」と云って、蒸しアナゴをつまんだ。

あっ。
ぼくのNo.1ネタの蒸しアナゴ。

そしてぼくは見逃さなかった。
お義母さんの眼にほんの一瞬、ゼロコンマ1秒にも満たない時間、さっと影がさしたのを。

そのわずかな変化をぼくがとらえることができたのは、細心の注意を払って顔色をうかがっていたからだ。
そうでなかったら必ず見のがしていた、それほど微細な変化だった。
蒸しアナゴがお義母さんのNo.1だったのだ。


よかった。
妻がとってくれて。
義母からすれば、かわいいわが子ににとられたら本望だろう。
ぼくとしても、絶対君主である妻にとられたのなら、異論があろうはずがない。

かくして、No.1ネタ問題は後くされのない形で決着し、わが家の平穏は無事に保たれた。


というわけでお義母さん!
今度から各種類1個ずつしか入っていない寿司の盛り合わせを持ってくるのは勘弁してください!
あと種類がばらばらのケーキ詰め合わせも!

2016年4月14日木曜日

【ふまじめな考察】名物にうまいものなし

ご当地グルメの大会では、○○餃子とか○○汁そばみたいな、あきらかにここ数年で開発された料理が優勝する。

ま、それはそれでいいんだけど。

でもおばあちゃんが昔から食べていたようなご当地料理が上位にくることか決してないのをみると、郷土料理っておいしくないもんだなってわかる。

よく考えたらあたりまえだよね。
おいしかったら、とっくに郷土料理じゃなくて全国区になっているはずだもの。
たこ焼きとかさぬきうどんみたいに。

って考えると、郷土料理のコンテストって、あらためて郷土料理のまずさを再確認するイベントですよね。


2016年4月12日火曜日

【会話】じゃあそっちじゃないほうで

居酒屋をさがして歩いていたら客引きの兄ちゃんに声をかけられた。

「お店決まってないなら、うちはどうですか!」

 「どんなお店ですか?」

「系列グループでやってるんです。和食居酒屋と韓国居酒屋がありますよ!」

 「へえ。どっちがいいかな……」

「おいしいのは韓国料理店です! どっちにします!?」

 「そんな言い方されて、和食選ぶ人います……?」

2016年4月10日日曜日

【エッセイ】入浴裁判


二十歳ぐらいのころ、肺に穴が開いて入院したことがある。

片方の肺には穴が開いたがもう片方は無事だった。
咳は出たが熱も痛みもなく、さほど苦しい思いはしなかった。
ただ、肺から漏れた空気が胸の中にたまってしまうのを防ぐために胸にチューブをつながれたのだが、これは不自由した。

チューブの先は小さなポリタンクにつながっており、どこへ行くにもポリタンクと一緒に移動しなければならない。
立ったり歩いたりするときは常にポリタンクを支えていないとはずれそうなので、片手が使えないのは不便だった。



そんなとき、若い看護師さんが訊いてきた。
「お風呂どうされますか?」

「あー。片手が使えないしチューブにつながってるから身体を洗うのがたいへんそうですよねー。シャワーで汗を流すぐらいにしときます」

「よかったら身体洗うの手伝いましょうか?」


えっ!?

思わぬ一言に、ぼくの頭は真っ白になってしまった。
なにしろ若い女性から「身体を洗いましょうか?」なんて、二十歳のころのぼくは、一度も言われたことがなかったのだから。
ていうか今もない。


身体を洗ってもらうということは、ここここれはつまり、いいいいいっしょにお風呂に入るってことですよね!
ということはつまり、ななななんらかの過ちが起こってしまってもいいいいいいたしかたないということですよね!

なんらかの過ちが起こったとしても、
「被告乙がかのような行動にいたってしまったのは当人の責に帰すべき事由には該当しない」
ってな判例が下るやつですよね、裁判長!


という考えももちろん脳裏をよぎったのだが、ぼくはすっかりびびってしまって
「裸を見られる。恥ずかしい」
ということを先に考えてしまい、
「いや、ひとりで大丈夫です!」
と即答してしまったのだ(実際にはそのコンマ数秒のうちにものすごい妄想をくりひろげていたわけだが)。


ああもうほんとあの瞬間に戻れるなら、自分をこちょばしてやりたい(やっぱりわが身はかわいいから殴ったりはできない)。

合法的に、ほぼ初対面の素人女性といっしょにお風呂に入れるチャンスだったのに!

次にこんなチャンスがくるのはきっと八十を過ぎてからだぞ、おい!

2016年4月7日木曜日

【エッセイ】レーシック手術のにおい

何年か前にレーシック手術をした。
無事に成功して、メガネなしではトイレにも行けなかったぼくが、今では裸眼で生活している。


メガネやコンタクトレンズから解放されると、ちょっとしたことがすごくありがたい。

メガネはほんと不便だ。
小雨で傘がないときに、メガネが濡れるのを防ぐためにうつむいて歩かなきゃいけない。
寒い日に暖房の利いた屋内に入ると曇って何も見えなくなる。
メガネが曇るからマスクがつけられない。花粉症なのに。
コンタクトレンズは眼がかゆいし。
美容師から「これぐらいでどうでしょう?」と聞かれても鏡に写った自分がまったく見えないから適当にうなずくしかない。

ほんと不便。

しかし、今挙げたことはどれも些細な問題だ。
ぼくが視力が悪いことでいちばん不便を感じたのは、せっかくプールに行っても水着の女性がまったく見えないということだった。


しかしそんな悲劇からは、レーシック手術によって解放された。
今は裸眼で車の運転もできるし、もちろんプールでもばっちりよく見える。

手術代として十数万円かかったが、手術をしてほんとうに良かったと思う。

でも。
ぼくは、他人に「レーシック手術いいよ」と勧めたことは一度もない。
自分がやって良かったが、人にはおすすめしない。

なぜなら。
手術のとき、レーザーで眼球を焼くから。
自分の眼球が焼けるこげくさいにおいを嗅ぐことになるから。
焼けた眼球に目薬をさしたときに、熱々のフライパンに水を落としたときと同じ「ジュワッ!」という音を己の瞳から聞くことになるから。

あれはほんと怖かった。
ほんとあれでぼくの寿命が5年は縮んだと思うから、他人には勧めない。

2016年4月6日水曜日

【読書感想文】筒井康隆 『旅のラゴス』

内容(「BOOK」データベースより)

北から南へ、そして南から北へ。突然高度な文明を失った代償として、人びとが超能力を獲得しだした「この世界」で、ひたすら旅を続ける男ラゴス。集団転移、壁抜けなどの体験を繰り返し、二度も奴隷の身に落とされながら、生涯をかけて旅をするラゴスの目的は何か?異空間と異時間がクロスする不思議な物語世界に人間の一生と文明の消長をかっちりと構築した爽快な連作長編。

久しぶりに読んだなあ、筒井康隆。
中学生のときにはよく読んだのだけれど、初期の暴力的で疾走感のあるSFから、難解で思索的な“文学”になったのに辟易していつしか手に取らなくなった。

で、10年ぶりぐらいに読んだのだけれど『旅のラゴス』はおもしろかった。
そして筒井康隆らしくない小説だった。
というと筒井康隆がおもしろくないみたいだけど、そういうことではないよ。

一般的に小説家を形容する言葉といえば「文豪」だったり「巨匠」だったり「天才」だったり「女王」だったりするけど、筒井康隆の場合は「奇才」もしくは「鬼才」だ。
それだけ独自路線を突き進んできたということなんだろうけど、どうも「奇才」がひとり歩きしているきらいがある。
ファンは筒井康隆に「奇才」らしい小説を期待して、筒井康隆もまたそれに応えようとして実験的な小説を次々に生み出していった。
その結果、コアなファン以外はどんどん取り残されていき、一部の熱狂的ファンだけに支えられる作家になってしまったように思う。


『旅のラゴス』の話に戻るけど、いい小説でした。
つまんない感想だけど、「いい小説」としか言いようがない。いい小説ってのはそういうもんだね。

異世界を部隊にしたSFファンタジーなんだけど、細部まできっちり書き込まれている。かといって「こんな細かいとこまで考えてるんでっせ。どやっ!」という押しつけがましさはない。
登場人物には血肉が通っていて 、けれど必要以上に感情移入しすぎてもいない。
ほどほどに刺激的で、ほどほどに叙情的。
すべてがちょうどいい。

アイロニカルな視点もこめられていて、寓話としても楽しめる。

ただラストだけがちょっと不満。
あまりにも唐突に終わってしまうのが残念。

ま、裏を返せば、もっと読みたかったいい小説だったということでもあるんですが。


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2016年4月4日月曜日

【思いつき】五穀米がつん!

やめてくれ。
ラーメン屋で「コラーゲンたっぷりでヘルシー」とか書くのはやめてくれ。

こっちは不健康なうまいラーメンを食べたくてラーメン屋に来てるんだ。
健康を求めるならそもそもラーメン屋になんぞ来てないから。

健康の押しつけは暴力だと自覚してくれ。


そっちがその気なら、こっちだって、マクロビオティックなんたらの女子が好きそうな五穀米ランチに
「胃袋にがつんとくる濃厚な旨さ!」
って書いてやるからな!

2016年4月3日日曜日

【エッセイ】墓石転倒率


地震の震度を測るための指標のひとつに
「墓石がどれだけ倒れたか」
というものがあるらしい。

住居だと素材も構造も大きさも形状もまちまちだから、小さい揺れで倒れる家もあれば、大地震にも耐える家もある。
その点、墓だと日本中どこでもだいたい同じ素材・同じ大きさ・同じ形だから、揺れの比較がしやすい。
また、住居だと「これは半壊か全壊か微妙なところだな……」というケースもあって観測者によって判断が異なったりするが、墓石が倒れたかどうかは誰が見ても明らかなので、観測者によるぶれも小さいのだという。


なるほどー。
理にかなっている。
反論の余地もない。

しかし「墓をデータとして扱う」ってなんかふしぎな感覚だ。
ぼくは不謹慎な人間なので平気だが、やっぱり眉をひそめる人もいるんじゃないだろうか。

「墓石倒壊率67%でした」とか言うことに抵抗を感じるんじゃないか。
「東大合格率75%!」とか「お客様満足度97%!」みたいな扱いでいいのか。
ま、いいんだけど。



しょせん墓石なんてただの石の塊だとはわかってるけど、でもやっぱり、その下に埋まっている死人のことが頭によぎっちゃう。




えー、アルバイトのみなさん。
今日はお暑いなか、墓地までお越しいただいてありがとうございます。

わたくし、大学で地震の研究をしております。
その研究のため、みなさんには墓石の倒壊率を計測していただきたく思います。

右手のカウンターで、全部の墓石の数をかぞえてください。
左手のカウンターで、そのうち倒れている墓石の数をかぞえてください。
端までかぞえたら、私のところに数を報告してください。集計はこちらでやります。

以上です。
かんたんですね。
なにか質問はありますか?


はい、そこの方。

はあはあ、倒れてる墓石はどうしたらいいか、ですか。
それはそのままにしておいてください。
なんだかかわいそうな気もしますけどね。
今回はあくまで計測が目的なので。
へたにいじって、場所がおかしくなってもいけませんしね。


はい、あなた。

なるほど、隣のお墓にもたれかかっているお墓をカウントするかですか。
それは、倒れているものとしてカウントしてください。
死んでまで、誰かを支えようとする人もいるんですね。立派ですね。
ドミノだったら「なんで倒れないんだよ!」つってがっかりされちゃうやつですけどね。


はい、そこの方。質問どうぞ。

はあ。
地震で家が倒れて亡くなったの人のお墓が倒れた場合は、倒壊率200%になるんでしょうか、ですか。
そんなわけないでしょ。


はい、もう一度あなた。

地震で家が倒れた人の墓石が倒れて、その墓石の下敷きになって死んだ人の墓が倒れなかった場合はどうするか、ですか?

あなた、お墓の事情について考えすぎですよ。
ただ墓石が倒れているかどうかだけ気にしていたらいいんです。


はい、もう一度あなた。

はい?
墓石が倒れて、その下から死んだはずの人が息をふきかえして出てきた場合はそもそも墓と定義することはできないんじゃないか、ですか……?

その場合はですね……。
すぐに救急車を呼んでください!


2016年3月30日水曜日

【エッセイ】さよならまずいピザトースト

まずかったなあ、給食のパン。

うちの小学校では給食のおばちゃんたちの手作り給食が出されていたから、おかずはおしなべておいしかった。

ただ、パンと牛乳だけは市の給食センターから届けられていて、そのパンがまずかった(牛乳も薄くておいしくなかった)。
給食センターのパンは古代ギリシャでアリストレテスが食べていたのと同じくらいパサパサで、薄い牛乳で流すようにしなければ飲みこめない代物だった。
「だめだめ! そんな乾いたものにここを通させるわけにはいかないよ!」
と、のどちんこによく通行を拒否されたものだ。

ぼくの父親は和食派だったから朝食はいつもごはんだった。
だから、給食で出てくるパサついたコッペパンが、この世のパンのすべてだった。
ぼくにとっては、この世のすべてのパンがパサついていたということだ。

高校生になって学校帰りにパン屋で焼きたてのパンを買い食いしたとき、
「これが……パン……!?」
と、感動にうちひしがれたものだ。



ほかに長い間まずいと思いこんでいた食べ物に、ピザがある。

ぼくの母親がつくるピザは、おいしくなかった。

母の名誉のために云っておくと、彼女は料理が得意なほうである。
家に遊びにきた友人からも「おまえんちのごはんうまいな」と賞賛されたものだ。おふくろの味だということは差し引いても、かぼちゃとツナの和え物などはかなりの味だと思う。
だが、煮物やおひたしは得意でも、昭和三十年生まれの母にとってイタリアンは縁遠いものだった。

母が愛読していた『暮らしの手帖』に載っていたのは、せいぜい「粉チーズで本格派。ミートソーススパゲティー」や「ハムとトマトでかんたんピザトースト」ぐらいのものだった。

今でこそ猫も杓子もカルボナーラだのペペロンチーノだのを食べているが(猫にニンニクや玉ねぎを与えてはいけません)、母が料理を学んだ時代にそんなものはなかった。
チーズの種類といえば雪印と明治とQBBしか知らない母に、モッツァレラだの、ゴルゴンゾーラだの、パルミジャーノ・レッジャーノだの、ボッテガ・ヴェネタだのいわれても、わかるわけがない(ファッションブランドが混ざっとる)。

昭和前半生まれのおばちゃんにおいしいイタリアンを作らせるなんて、宮大工にすてきなオープンキッチンを造れというようなものだ。やらせてみたら意外に渋くておしゃれなキッチンできそうだけど。

母のつくるピザといえば、ヤマザキの食パンにケチャップをかけて、明らかにおつまみ用の辛めのサラミを乗せ、玉ねぎとピーマンときゅうりとゆで玉子をトッピングして、とりあえずチーズ乗せときゃいいんでしょとばかりに雪印のチーズをふりかけ、真っ黒になるまでしっかりトーストした、ピザトーストだった。

ゆで玉子を乗せるのは栄養バランスをとるため。
きゅうりは冷蔵庫の残り物を片づけるため。
真っ黒になるまで焼くのは、残り物でおなかをこわさないため。
主婦の習性が存分に発揮され、結果、ぜんぜんピザじゃないものができてしまうのだった。

これを「はい、ピザよ」と出されていたのだ。
(母はピザトーストにかぎらず、食パンを黒くなるまで焼かないと気がすまない。「芳醇」を買ってもカリカリになるまで焼く。ぼくがトースターのタイマーを4分にセットしても、「こんなんじゃ焼けへんで」と勝手に8分にする)

外食でイタリアンレストランに行くことなんてなかったし、町内に宅配ピザ屋ができたのは中学校に入る年だったから、ぼくはその黒こげのきゅうり乗せパンこそがピザだと思っていた。

だからずっとピザは嫌いだったし、町内にピザ・カリフォルニアができたときは、あんな黒こげパンを誰がお金出して配達してもらうんだろうかとふしぎに思ったものだ。

しかし、あのピザこそが、ぼくにとってのおふくろの味。



 
今から数十年後。
年老いたぼくは今まさに息をひきとろうとしていた。
「あと177分後」
モニターに映しだされた余命予測は、血圧脈拍心拍数脳活動状況血中酸素濃度その他あらゆるデータにもとづいて導きだされたものであり、誤差±5%の水準で的中することが知られている。つまりほぼまちがいなくあと3時間後には死ぬということだ。
しかしぼくが苦しむことはない。
最先端の高濃度ヘルヂミニウム転回装置のおかげで、死ぬ直前まで臓器は正常に機能している。また、正確に死に向かってコントロールされたカウンセリングプログラムを受けてきたため、不安や怒りを感じることもない。

いくら科学が進んでも死は避けられない。だが最先端科学により、心身ともになるべく健全に近い状態で最期の瞬間を迎えることができるのだ。2016年頃には考えられなかった医学の進歩だ。

「なにか食べたいものはありませんか。できるかぎりのことは用意します」

モニターに映しだされたアンドロイドが、誰よりもあたたかい声で尋ねる。もちろんこれも穏やかに終末を迎えるためのプログラムの一環だ。

ぼくは眠たい頭をはたらかせ、すこし考える。
これが人生最後の食事だ。あたたかいものを食べたい。
いくら胃腸が正常に動いているとはいえ、もともとが年寄りの胃だ。ボリュームのあるものは食べる気がしない。軽食でいい。

「おかあさんのピザトーストが食べたい……」

なぜそれが口をついて出たのか、自分でもふしぎだった。
少しも好きな料理ではなかった。
むしろ、嫌いだったといってもいい。
だが今の気分にぴったり合うのは、人生最後の料理にふさわしいのは、あのピザトーストにおいて他になかった。

もちろんそれはすぐに用意された。
ぼくの脳波から読みとった記憶情報をもとに、母のピザトーストが忠実に再現される。
安物の食パンにカゴメのケチャップがふんだんにかけられ、ピーマンと辛めのサラミとゆで玉子ときゅうりが乗せられる。材料はすべて昭和末期のものに近い味が使われている。
最後に雪印のチーズをふりかけ、これ以上やったら炭になる、という状態までこんがりと焼く。

「焼きすぎたろ……。焦げてるし……」
病床に集まった家族、医師、看護師の全員が心の中で思っているのが伝わる。
だが誰も口には出さない。
もうまもなく死を迎える人間が「これこれ! これこそおかあさんのピザトースト!」とうれしそうにしているのに、誰が「そんなの食べたら癌になりますよ」と言えるだろうか。

ぼくはひさしぶりに身体を起こし、黒こげきゅうり乗せパンをほおばる。
手についたケチャップまですべて平らげ、やがてゆっくりと目をとじる。

もう、この世でやることはなにひとつない。

「ああ、まずかった……」

それが最期の言葉となった。

その死に顔には、まずかったという言葉とはうらはらに、満足そのものといっていい微笑が浮かんでいた……。

2016年3月29日火曜日

【写真日記】契約書のフォント


とある会社が送ってきた契約書のフォントがゴシック体だった。
やはり契約書は明朝体じゃないと気持ち悪い……。

感覚的なことだけど(だからこそ)けっこう大事なことだと思うので、そろそろこういうことをビジネスマナーとして教えていく必要があると思う。

あとぼくとしては、エクセルで数字を左詰めで入力する人の神経が信じられない。
けっこういるんだよね、これが。


2016年3月28日月曜日

【エッセイ】今日はお休みですか?

「今日はお休みですか~?」

美容院、理容院で定番の質問ですよね。
これ、なんなんでしょう。


ぼくは、見知らぬ人と話すのが苦手です。
美容院では、必要最小限の話しかしたくありません。
自分の髪型にもあまり興味がないので、カットされている間はずっと目を閉じて考えごとをするか、寝るかしています。

先週美容院に行ったときも、
「前髪は眉にかからないように。横は耳まで。あとはそれにあわせて自然な感じにしてください」
と、ここ十年ぐらい言いつづけている必要かつ十分な要求を伝えて、目をとじました。

しかし、ぼくの担当である若い男の美容師ときたら。
「今日はお休みですか~?」

おいおい、と。
ちょっとは考えろよ、と。

その日は日曜日。

そのとき午後2時。

ぼくの格好は、ユニクロのフリース。

その時間に、その格好で、30代のおじさんが散髪に来てるわけ。
もう今日はお休みだと判断しても差し支えないんじゃなくて!?

仕事ぬけだしてきたと思ったわけ?
ユニクロの1,990円のオレンジ色のフリースで?

あほかー!
仕事ぬけだしてくるんだったら、いちばん混んでる日曜日の午後じゃなくて、もっとすいてる時間に来とるわ!!


「今日はお休みですか~?」

それ!
そんなに!
言わなあかんこと!?

ぼくの勤務体制とあんたが髪切ることに関係ある??
休みだろうがなんだろうが、常にベストの力で切れ!

おっと。
つい取り乱しちまった。
すまなかったな。

ま、でもよ。
「今日はお休みですか」だって、まったく無意味な質問とは言いきれねえよな。

世の中にはいろんな仕事のやつがいるからな。
「今日はお休みじゃなくて夜勤で交通整備の仕事なんです」
ってケースもあるだろな。
そしたら「ヘルメットで髪型がつぶれないように固めにセットしとこう」ってなるかもしれないよな。

それぐらいはぼくにだってわかる。
小学生のときは通知表の担任コメント欄に
「もっと他人の気持ちを考えよう」
と本気の説教コメントを頂戴したぼくだけど、30を過ぎた今ではそれぐらいのことは想像できる。

でもな。

でもな。

こっちは早々に目をとじてるわけ。

「あなたと余計な会話はしたくないです」
っちゅう意思表示なわけ。

「髪を切られてる間、鏡は見ません。すなわちカットについてはあなたに一任しますし、細部についてああだこうだ言うつもりはありません」
っちゅう意思表示なわけ。

この後夜勤で交通整備するからヘルメットかぶるとしても。
この後ナイターのジャイアンツ戦で打席に立つからヘルメットかぶるとしても。

あなたは心配しなくてもいいんです。
髪がぺしゃんこになってもいいんです。
だから黙って散髪してください。

ってこっちは思ってんのに、続けて
「今日は寒いですね~」
じゃねえんだよ!

そんなことは、ずっとここで髪切ってるおまえより、さっき外を歩いてこの店まで来たぼくのほうがよっぽど知ってるから!

そんなに会話がしたいなら、目の前の鏡の中の自分としゃべってろ!


……あっ、それはさすがに嘘!
いくら髪形にこだわらないとはいえ、鏡の自分と会話してる人には髪切られたくないです!

2016年3月27日日曜日

【読書感想文】バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもたちに早くから英語を学ばせようというプレッシャーが強まっている。「早く始めるほど良い」という神話はどこからきたのか。大人になったら手遅れなのか。言語習得と年齢について研究の跡をたどり、問題点をあぶり出す。日本で学ぶ場合、早期開始よりも重要な要素とは何か。誰がどのように教えるのが良いのだろうか。

小学校で英語学習がはじまったり、早いうちから英語を学ばせようという幼児教育が盛んだ。
といっても今にはじまったことではなく、ぼくが小学生のときにも英会話教室に通っている同級生はけっこういた。
で、そういう子らがその後英語ができるようになったかというと、(ぼくが知るかぎりでは)ぜんぜんそんなことはない。まあ本人の意欲なんかもあるんだろうけど。
そんなわけでぼくは早期英語教育については懐疑的に見ている。



『英語学習は早いほどいいのか』では、慎重にデータを集めて「ほんとに早期英語教育は有効なのか?」を検証している。
しかし本当に慎重なのである。慎重すぎてうんざりするほど。
「○○という研究結果もある一方で、××という報告も上がっている。というわけでどちらということもできない」という説明ばっかり。

筆者は学問的に誠実な人なんだろうけど、それにしてももうちょっと明快にできなかったのか。
「で、どっちやねん!」と言いたくなる。
新書なんだからもうちょっと簡潔に書いてよ……。


乱暴に結論をまとめてしまうと、

「外国語学習においては幼少期から学習をはじめたほうがよさそう。ただしそれは移民のように日常的に膨大な外国語と接する環境においての話であって、日本人が日本で英語を学習する程度であれば、『いつ始めるか』ではなく『どれだけ長い期間学習するか』が重要である。早すぎる時期に外国語学習をはじめることは、外国語に対する苦手意識が増したり、母語の習得が遅れるというデメリットも引き起こす」

ということみたいです。
 しかし、なぜ私たちの耳は生後早い時期に母語以外の言語の韻律特徴や音への敏感さを失っていくのだろうか。これは、母語をできるだけ効率的に習得するためのメカニズムであると考えられる。クールは乳幼児の脳の活動を調べ、母語への特化の早い子どもは、母語の語彙習得の進み具合が早くなるというデータを示した。逆に、外国音を聞き分ける能力をなかなか失わない赤ちゃんは、母語の習得が遅れるという。赤ちゃんは、母語の特徴に注意を集中させることで、言語環境に応じて、効率よく母語を学ぶ体制を整えているというわけだ。
 フレーゲは、非常に早い時期に学習を開始した学習者にも外国語アクセントが残るという結果から、母語の使用頻度が第二言語のアクセントに影響を与えていると考えた。すなわち、母語の使用頻度が少なくなったり、極端な場合、母語を喪失してしまったりすると、第二言語の外国語アクセントが低くなるというのである。この仮説をフレーゲはスピーチ学習モデルと名づけた。
 フレーゲによると、第二言語の外国語アクセントが強まるのは、年齢が上がるにつれ、正確な発音を習得する能力が衰えるからではなく、母語の音に大量に触れることにより、母語の音韻システムをより強固に確立するからだという。つまり、母語と第二言語とはトレードオフの関係にあるというわけだ。
移民や植民下にある地域の子どもにとっては、外国語の習得の成否が命にも関わる重要な課題である。なんとしても身につけなければ生きてゆけない。たとえ母語を捨ててでも。
という事情を考えると、「日本人は英語がへた」なんて批判されるけど、それは日本語だけで生きていけるほど軍事的にも経済的にも安定した世の中だってことだよなあ。
英語がへたでいられるって、幸せなことなんですよ。



じゃあどうすれば外国語が身につくのかというと、
「どれだけさしせまった課題として習得しようとしているか」と
「どれだけ多くの時間を外国語学習に費やすか」
ということに尽きる。

なーんだ、と思うような結論だ。

そう、結局のところ、劇的に英語が話せるようになる近道は存在しないのだ。

ジョン万次郎のように単身で外国に放りだされれば否が応でも身につくだろうし、1日5時間真剣に学習すればたいていのことは話せるようになるだろう。
つまり、高いリスクを引き受けるか、大きなコストを支払うかしかないわけだ。

でもそんなのはやりたくない。
わが子を天才児にしたい母親や、あっと驚く施策でもてはやされたい文科省や教育委員会のみなさんや、てっとりばやくお金を稼ぎたい教育ビジネス界の方々が求めているものとは違う。

みんな勉強が嫌いなんだろうね。「楽して大きな成果をあげる」ことしか考えていない。
だから、たしかな研究結果も出ていない「早期英語学習によってバイリンガルに!」という神話に飛びついてしまう。
中国でも韓国でも、裕福なエリート層を中心に、イマージョン・プログラム( 教科を外国語で指導するという点から、一種の内容ベースの指導法といえる) は大人気だ。しかし、その「成功」のほどがはたしてどの程度一般化できるのかたいへん疑問である。日本よりずっと英語の浸透度が高いマレーシアでさえ、二〇〇三年に初等・中等教育で数学・科学を英語で教えることに踏み切ったものの、わずか六年後に、また母語で教えることに方針を戻した。結局、英語で教えることによって数学・科学の理解が不十分になるなど、デメリットの方が大きかったのである。
こうした傾向は日本だけではないみたい。

ぼくはただ、自分の子どもが学校に入るころには、根拠薄弱な「子どものうちにこそ英語教育を!」ブームが去っていることを願うばかり……。


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2016年3月26日土曜日

【写真日記】モデルの格

大阪市内 某ショップのリニューアルオープン祝いのお花。



お花の位置を見るに、関西では上戸彩やローラよりも海原やすよともこのほうが格上なんだな。

しかし、ファッションブランドとしてはどうなんだろ。
「海原やすよともこさんも愛用のブランドです!」
って宣伝効果あるのか。
マイナス効果のほうがでかい気がするぞ。

2016年3月24日木曜日

【ふまじめな考察】ヨッシーの卵のナゾ

ゲーム『スーパーマリオワールド』には、ヨッシーの卵というものが存在する。


この卵、実にカラフルな柄をしている。
白地に鮮やかなグリーンの斑点。
遠目に見ても、ヨッシーの卵だということがすぐわかる。
はたして、これは何のためだろうか?

卵が派手であることは、どう考えても、生存競争をする上で不利である。

卵というものは自走ができないため外敵に対して無防備であり、かつ栄養豊富であるため外敵からは狙われやすい。
卵が危険にさらされることは、すなわち種族の繁栄の危機である。

そのため、通常は卵が外敵から目立たない方向に進化圧がはたらく。

目立たない卵は生存に有利であり、逆に目につきやすい卵を産む個体は淘汰されて遺伝子を残すことができない。
結果として目立たない卵ばかりになる……はずだ。

なぜヨッシーは派手な卵を産むのか。


仮説1)
進化圧となるような外敵が存在しないのではないか。
外敵がまったく存在しない環境であれば卵はどんなに派手でも問題はない。

→ 反証)
『スーパーマリオワールド』の舞台となった「恐竜ランド」には、あたりかまわず攻撃をしかけてくる凶暴な生物が多い。


仮説2)
親が卵をつきっきりで保護するので柄は問題ないのではないか。
ワニのように、十分に強い親が卵を守るのであれば、仮に卵が外敵から目をつけられたとしても手出しはされない。

→ 反証)
プレイしたことのある人ならわかるが、卵が出現する場所の付近にヨッシーがいることなどない。
ヨッシーはたいていの爬虫類と同じく、子育てをしない。


仮説3)
卵を大量に産むので、少々の犠牲は問題ないのではないか。
マンボウは一度に数億個の卵を産むが、そのうち成魚になるのは数匹だけである。この数打ちゃ当たるシステムを採用しているのではないか。

→ 反証)
たしかにヨッシーは数多く卵を産むようだ。恐竜ランドのいたるところにヨッシーの卵が産みつけられている。
この仮説はなかなか有力そうだが、問題は、卵から孵ったばかりのヨッシーが成獣の半分くらいのサイズだということだ。
自身の十分の一以下のサイズの赤ちゃんを産むのでも、人間のお母さんはあれだけ苦労しているのだ。いくらヨッシーが大食いだとはいえ、成獣の半分サイズの卵を産むのには非常に大きなコストとリスクが伴うはずだ。
数打ちゃ当たる戦法は通用しない。


仮説4)
卵が外敵に食べられやすくなるというデメリットを上回るほどのメリットが存在するのではないか。

→ アブラムシは、甘い汁を分泌し、アリを集める。
アリはアブラムシから汁を吸わせてもらう代わりに、アブラムシの天敵であるテントウムシを追い払う。

同じようにヨッシーも、あえて目立つ卵を産むことで他の生物、すなわちマリオを惹きつけようとしているのではないか。

先ほども説明したとおり、ヨッシーは子育てをしない。また、恐竜ランドには危険な外敵が多数生息している。
この過酷な環境で生存するために、ヨッシーはマリオという生物種を利用する道を選んだのではないか。

ヨッシーはマリオの足となり、代わりにマリオは外敵からヨッシーを守る。
このような共生関係を保つためには、遠目からでもマリオの目につきやすいデザインの卵は都合がよかったのだろう。

遺伝子を残すために他の生物の習性(姫を助けに行きがち、という習性)を利用する。
たくましくもしたたかな生物としての戦略が、ここにはある。

2016年3月23日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

内容(「BOOK」データベースより)

1995年から2011年。まさに「失われた20年」と呼ばれる時期に、『週刊文春』誌上で連載されていた伝説のコラム「ホリイのずんずん調査」。どうでもよさそうなことから意味ありげなことまで、他に誰もできない(というか、やらない)調査の積み重ねから100の「謎」をセレクトした集大成。飲み屋の小ネタによさげに見えて、実は日本の20年までもが浮かび上がってくる―(かも)。ネットでは検索できない秘密がここにある。

週刊文春で連載していた「ホリイのずんずん調査」はおもしろい連載だった。もう終わっちゃったけど。

どうでもいいことを調べるためにとんでもない量のデータを集めていた。
「どうやって調べているのだろう」 と思っていたけど、連載をまとめた(というか厳選した)この本を読んで謎がとけた。
なんのことはない。足と労力と時間とお金を使って調べつくしているのだ。

と、かんたんに書いてしまったが、これはとんでもない調査だ。 「金のエンゼルの出現率を調べるため」にチョコボールを2,000個買ったり、 みんなが銀行の4桁の暗証番号をどうやって決めているか調べるために、 知人に「どうやって数字を決めたの」と訊いてまわったり (かなり不審がられたらしい。あたりまえだ)、日本三景(松島、宮島、天橋立)を一日でまわったり(強行日程のため宮島まで行ったのに厳島神社を見られない……!)、テレビ局全局の1週間の番組をすべてチェックして、 どのアナウンサーが映ってる時間がいちばん長いかを調べたり(24時間×7日×6局=1,008時間らしい)。

いや、すごい。
ぜひ堀井憲一郎氏に国の研究機関から金を出してあげてほしい。
1,000年後には貴重な史料になるはずだから。
(1,000年経てばどんな本でも貴重な史料になるはずだというツッコミはなしだ)



いやでもほんと、「えーそうなんだ!」とおどろく調査結果も多い。
たとえばこんな調査結果。

寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代で、それまでは「一個、二個」と数えていた。

これは、1990年前後の雑誌を丹念に調べてわかった事実だそうだ。
知ってました? ぼくは「一貫、二貫」は江戸時代からある数え方だと思ってた。悪名高い「江戸しぐさ」みたいなもんなんだね。

1980年頃まで、クリスマスは子どもだけのものだった。カップルが一緒に過ごす日になったのはバブルの頃。

花粉症も1980年頃。もちろん症状はそれ以前からあったが、ほとんど認知されていなかった。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』以前は、坂本龍馬は明治維新において脇役扱いだった。
(というか実際に脇役だった)

1980年代生まれのぼくからすると、カップルのためのクリスマスも、花粉症も、龍馬を中心と歴史観も、あたりまえの話。 でもちょっと上の世代にとってはそんなことないんだね。
日本の「常識」って、けっこう最近つくられてるんだなー。
龍馬と自分を重ね合わせている人間はぼくも大嫌いなのだが、堀井氏もこう書いている。 
(国の制度作りに携わっていない)龍馬が幕末の人物のトップであると本気で言ってるのなら、国の運営はどうでもいいといってるようなものだ。
 だから現役政治家で「龍馬を目標の政治家としてる」と公言して憚らない連中はチェックしておいたほうがいい。



あと大阪生まれ、兵庫育ちのぼくにとっておどろきだったのはこんな話。

エスカレーターでの立つ位置。右に立つのは大阪、兵庫、奈良、和歌山ぐらい。

「大阪は右だけど東京は左らしいよ」 そんな話は聞いたことがあったので、 「そうか、右に立つのは西日本だけなのか」  と思っていた。
ちがうんだね。 中国も四国も九州も左。 圧倒的少数派だったとは……。



週間天気予報はまったく当たってないという調査もおもしろかった。
週間天気予報127日分を調査。 そのうち雨は31日あったが、7日前に「7日後は雨です」と的中させていたのは1回だけ。 なんと的中率3.2%!
そんなにあたらないのか……。 冗談でもなんでもなく、下駄を転がしたほうがまだ当たるだろな……。
3日前でも38.7% 2日前で58.1% 前日でやっと77.4%
こんな的中率なのに、週間天気予報ってやる意味あるのかね。
週末に出かけるときは月曜日ぐらいから予報をチェックしてたけど、こんなにいいかげんなんじゃ、なんの参考にもならないね。


いいかげんといえば相撲の仕切り時間。 4分以内に立ちあわないと決まっている。 ところが堀井さんが実際に計ってみたら、5分を超える取り組みはざらで、6分を超えるものもあったとか。
相撲好きのぼくも、おかしいと思ってたんだよなー。 相撲って競技時間は決まってないのに、いっつも夕方6時ちょうどに全取り組みが終わるもんなー。 すごく早く終わる日や、時間がないので横綱取り組みは放映できません、みたいな日があってもいいのに(相撲ファンとしてはよくないけど)。 

なるほど、NHKの相撲中継にあわせて仕切り時間を長くしたり短くしたりして調整してるんだなあ。 けっこうせこい。 なんでも調べないとわからないもんだね。



笑ったのが次のふたつの調査。

・選挙で当選したときに、応援者がバンザイするのにつられて自分もバンザイしちゃうマヌケな議員は誰なのか。
・サッカーW杯におけるフリーキックの調査。ディフェンダーが前で手をあわせて股間を守る率が高い国はどこなのか。逆に、股間を守らない男らしい(?)国はどこなのか。

気になる答えは、この本で調べてください。 気にならないですか。そうですか。



ところで堀井憲一郎、データ収集の情熱もすごいけど、文章もうまいなあ。コラムニストのお手本のような読みやすい文章を書く。
落語が好きだというだけあって、軽妙で洒脱な言い回しが光る。
重たいデータなのにそうは見えなくてとっつきやすいのは、この文章によるところが大きいはず。

「調べる」楽しさを教えてくれる一冊。
 新大学生に読んでほしいな。


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2016年3月18日金曜日

【エッセイ】かわいそうなおじさん


年を重ねると、いろんな角度からものを見られるようになる。


『かわいそうなぞう』の話を小学生の頃に読んだときは、あの手この手で殺されるなんて、ゾウたちがかわいそうだと思った。

しかし今読むと、ゾウに対してはあまりかわいそうだという感情が浮かんでこない。
その代わり、動物園の職員に対して「やりたくもないのに殺さないといけないなんて、つらかっただろう」という同情の気持ちが浮かぶ。
『かわいそうなぞう』ではなく『かわいそうなおじさん』だと思うようになった。


『つるのおんがえし』も大人になって見方が変わった。

子どもの頃は「言いつけを破ったのだから逃げられてもしかたないよね」と思った。
今は「一回のぞいちゃったぐらいで厳しすぎるよ。命の恩人に対してその対応はないんじゃない?」と思う。



『こぶとりじいさん』もだ。

隣のよくばりじいさんは、ただ、顔のこぶをとってもらいたかっただけなのに、踊りが下手だったからというだけでこぶを増やされて不憫でならない。
そもそも顔面の腫瘍がなくなってほしいと願うことは欲深いことじゃないだろ!


……と、ここまで書いて気がついたのだが、いろんな角度から見るようになったわけじゃなく、全体的におじさんやおじいさんに肩入れした見方をするようになった気がする。

年を重ねることで視野が広がったんじゃなくて、自分がおじさんになったから中高年男性に対して感情移入するようになっただけだったわ……。

2016年3月16日水曜日

【読書感想文】オリヴァー・サックス 『妻を帽子とまちがえた男』

 内容(「BOOK」データベースより)
病気について語ること、それは人間について語ることだ―。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性…。脳神経に障害をもち、不思議な症状があらわれる患者たち。正常な機能をこわされても、かれらは人間としてのアイデンティティをとりもどそうと生きている。心の質は少しも損なわれることがない。24人の患者たち一人一人の豊かな世界に深くふみこみ、世界の読書界に大きな衝撃をあたえた優れたメディカル・エッセイ。

脳神経科医による医学エッセイ。
いやあ、おもしろい本だった。

さまざまな脳神経に障害をもった患者が紹介されている。

なんといっても衝撃的なのが、タイトルにもなっている患者Pの話。
目が見えないわけでもないのに、自分の足をさわりながら「これはわたしの靴ですか」と言ったり、帽子をかぶろうとして妻をつかんでかぶろうとしてしまう。
彼に手袋を渡してみたときの反応は……。
「手にとってみていいですか?」彼はそう言うと私の手から手袋をとり、あたかも幾何学の図形をしらべるときのような調子で、子細に検討しはじめた。
 しばらくして、彼は口をひらいた。「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになっていますね。先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋ですね。袋と言っていいか自信はないけれど」
「その通り」私は慎重に口をきいた。「あなたがおっしゃること、まちがっていません。では、それは何でしょう?」
「なにかを入れるものですね」
「そうです。何を入れるものでしょう?」
「中身を入れるんですよね」そういってPは笑った。「いろいろ可能性があるなあ。たとえば小銭はどうかな。大きさがちがう五種類のコイン。さもなければ……」
なぜそこまでわかるのに手袋だとわからないの!?
もうふざけてるとしか思えない(実際、周囲の人からは冗談だと受けとめられてなかなか病気だと気づかれなかったそうだ)。

高い知性はある。知覚に異常はないので認識はできる。論理的な推測もできる。
ただ、「判断」だけができない。

だから手袋を見て特徴を説明することはできるけど、それが手袋だという判断ができない。
ふしぎ……。

驚くのはこれだけではない。この患者Pさんは、入院もせずに仕事もしているんだとか。
音楽学校で教師を務め、家に帰れば妻がいる。(ときおり妻と帽子をまちがえたりすることをのぞけば)ごくごくふつうの教師なんだという。

人って自分の足がわからなくなっても意外と生活できるものなのか……。
妻と帽子の区別がつかなくても大丈夫なのか……。
ぼくなんか妻が怒っているかどうかの区別がつかなくて困惑ばかりしているのに!



他にもいろんな珍しい症状を抱えた患者がこの本には登場するが、べつに「どや!珍しい症例やろ!」と見世物的に患者を紹介してるわけではない。

さっき引用した文章もそうだが、著者の視点はあくまでフラット。
患者をばかにするわけでもなく、過剰に同情するわけでもなく、ひたすら冷静に対象を観察して、原因を分析し、治療を試みている。徹頭徹尾、科学者・医師の視点。

これが読んでいて心地いい。
自分までがカウンセリングを受けているような気にさせてくれる文章。



この本には、脳機能に異状をきたしたことが、かえって患者にとってプラスになったケースが多く紹介されている。

たとえば、ファントム(幻影肢)という現象。
事故で脚を切断した患者が、存在しないはずの足の指にかゆみを感じる、という現象。
これも脳神経の障害だ。

だが、このファントム、義足を動かすためには必要不可欠なものなんだとか。
ファントムの脚(実際には存在しない脚のイメージ)と、現実に存在する義足の位置とがぴったりあうことで、もともとあった脚のように義足を動かすことができるらしい。
ファントムは障害なんだけど、それがあるからこそ義足が動かせる。

それから、あるチック症の男。
落ち着きがなく、怒りっぽく、ひとところにじっとしていられないという性質の持ち主。
その反面、反応と反射が異常に速く、スポーツやゲームにめっぽう強いという利点もあるんだとか。
彼に投薬をすることでチックを抑えたところ、落ち着いた行動をするようになったものの、身のこなしがおそくなり、ぼんやりと過ごすようになったそうだ。欠点と同時に、美点も失われてしまったわけだ。

彼の言葉。
「チック症を治すことができたとしても、あとに何が残るっていうんですか? ぼくはチックでできているんだから、なんにも残らなくなってしまうでしょう」
結局、本人の希望で週末は投薬をやめることになり、当人は大いに満足したそうだ。

一般にはマイナスとされることでも、うまくつきあっていける人にとっては武器であり、アイデンティティになるんだね。

ぼくはまったく音程のとれないド音痴だ。これもきっと脳のエラーなんだろう。
だから人前では歌わない。カラオケなんかもってのほか。
でも。
音痴だってうまく使えば武器になる。カラオケにいって堂々と歌えば、確実に笑いはとれる。そこそこうまい人よりよっぽど印象に残るだろう。

だけどぼくには恥ずかしくてできない。そんな小心者のぼくとしては、弱点を武器に変えられる人がうらやましくてしかたがない。



その他、知的障害者の青年がコンピュータも紙も使わずに十桁以上の素数を次々に見つけたりと、さまざまな「障害がプラスにはたらいたケース」が紹介されている。

天才と呼ばれたモーツァルトやアインシュタインやエジソンも、奇人としてのエピソードが残っている。
彼らもまた、もしかすると脳神経を調べると何かしらの異状を持っていたのかもしれないね。

天才とキチガイは紙一重というけど、紙一重どころか同じ紙の表と裏なのかもしれないね。
頭が良すぎるのも「異常」にはちがいないし。



最後に、もっとも印象に残ったエピソードをご紹介。

病院で患者たちがテレビを観ていると、どっと笑い声が上がった。笑ったのは失語症の患者たち。彼らは言葉が理解できないはずなのに。
何かおもしろい番組でもやっているのかと作者がテレビを見ると、大統領が大まじめに演説をしているだけ。
いったい彼らはなぜ笑ったのか?

じつは、言葉の意味が理解できない失語症患者でも、話しかけられたことの大半は理解できるんだそうだ。
どういうことかというと、単語の意味が理解できなくなっている分、彼らは言外の意味を読むことに長けていることが多いんだとか。
話し手の表情や、声調、テンポ、抑揚、イントネーションなどの微妙な変化を聞き分け、語りかけられた内容を理解するそうだ。

で、声の微妙な変化を感じとれるから、失語症患者には嘘が通用しない。
嘘をすぐに見破ることができる。

だから、オーバーな身ぶりやもっともらしい表情なのに話している言葉は嘘ばかりの大統領がおかしくて笑っていた、ということなんだそうだ。

言葉の意味がわからないのに嘘がすべて見抜ける……。
すごい、人間嘘発見器だ。伊坂幸太郎『陽気なギャング』シリーズに出てくる成瀬氏ももしかするとこの病気なのかな。

ぼくみたいに嘘ばかりついている人間からすると、おそろしすぎる。
妻が失語症になって、嘘を見抜く能力を手にしないことを願うばかり……。


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2016年3月14日月曜日

【エッセイ】ホワイトツナ缶

寿司屋のカウンターで呑んでいると、隣からこんな会話が漏れ聞こえてきた。
「男どもってどうしてホワイトデーのお返しにお菓子ばっかくれるんやろか」

声のした方を見ると、三十代半ばであろう女性ふたりが語らっている。
女同士で寿司屋で呑むだけあって、なかなかやさぐれた感じの女だ。
黄緑に塗った爪で、イクラの軍艦をつかんで口に放り込んでいた。
「お菓子あげときゃ喜ぶと思ってんのかね、やつらは」

えっ……。ちがうの!?
ぼくも、今の今までお菓子あげときゃ喜んでもらえると思っていた。
ていうかホワイトデーの定義って、男がお菓子あげて喜ばせる日なんじゃないの!?

彼女たちの話は続いた。
「みんな芸もなくお菓子ばっかり。お菓子じゃなかったのはひとりだけやったわ」
 「誰?」
「カシワバラさん」
 「何くれたの?」
「珍しいツナ缶」
 「おー。さすがカシワバラさんやなあ。ステキやわあ」

珍しいツナ缶……!!

隣で聞いていたぼくも、わあステキと思う。
なんて自然体なチョイスなんだろう。
ツナ缶がステキなのではない。
カシワバラさんの、失敗をおそれない姿勢が気持ちいいのだ。

ぼくだったら、ホワイトデーのお返しを選ぶときは「まちがいのなさ」で選ぶ。
デパートの、みんなが並んでいる店で、そこそこの値のするお菓子を選んでおけば
「まあまちがいないだろう」
という気持ちで選んでいる。

その点、カシワバラさんは違う。
彼は間違いをおそれてはいない。
彼は自分だけの正解を探す。
自分の感性に真剣に耳を傾け、何を贈りたいかを自問する。
そしてその結果、ツナ缶以外にはないという結論に達した。
「ツナ缶あげときゃ問題ないだろ」なんて気持ちはカシワバラさんの心には微塵もない。
「これおいしいから食べてもらいたい!」
きっとその気持ちだけで、彼はホワイトデーのお返しにツナ缶を選んだに違いない。

多くの男たちが空振りを避けようとして“とりあえず”デパートのお菓子を贈った。
やさぐれ女は、その姿勢を見抜いていた。
人まねのファッションをしている人がどんなに高い服を着ていてもかっこわるいように、「ハズさないようにしよう」という考えそのものが、もう「ハズレ」なのだ。

カシワバラさんは違った。
三振してもかまわないというぐらいのフルスイングでツナ缶を放った。
そしてその一か八かのスイングは、見事なホームランとなった。
このひたむきさこそが「さすがカシワバラさんやなあ」「ステキやわあ」につながったのだ。

なんて魅力的な人なんだ、カシワバラさん。
会ったことないけど。


2016年3月12日土曜日

【エッセイ】我々は梅干しを許さない!

梅干しが憎い。

嫌い、という程度では収まらない。
ぼくは梅干しを憎んでいる。
殺しても殺したりないぐらいだ。

ぼくは味の濃い食べ物が嫌いだ。
だから当然、塩味と香りの強い梅干しも好きになれない。

でも、それだけでは嫌いにはなっても、蛇蝎のごとく憎んだりはしない。
梅干しの憎々しさは、厚かましいところにある。

ぼくは梅干しにかぎらず、漬物全般が好きではない。味が濃いからだ。
たくあんも、しば漬けも、おしんこも、どれも好きではない。
だが彼らとは距離を置いて、ほどほどの付き合いをやっていけている。
それは彼らが、ぼくの食生活に干渉してこないからだ。

定食を頼むと、たいてい漬物が小皿に乗って出てくる。
もちろんぼくは箸をつけない。
どうせ食べないことに決めているのだから、はじめからその存在を意識すらしない。

ぼくが漬物に見向きもしないのと同様、漬物もまたぼくのことを無視している。
「ほら、漬物も食べなよ」
「このままだとおかずがなくなってごはんが余っちゃうよ」
そんなことは口にも出さない。

お互いに不干渉を決めこんでいる。
いってみれば、大人の付き合いというやつだ。
暴力団もテロ組織も詐欺師もセレブ妻も好きじゃないけど、ぼくの生活にかかわってこないかぎりはどうでもいい。いちいち憎んだりはしない。

ところが梅干しはそうではない。
なんとかして関わってこようとする。

お弁当を買う。
するとヤツ(梅干し)は、ごはんの真ん中にどっかりと腰を下ろしている。
ほんとにど真ん中。
ごはんが占める長方形のスペースの、対角線が交わるところにヤツはいる。すなわち、重心。
申し訳なさそうに弁当箱の隅に身を潜めている他の漬物のつつましさとは大違いだ。

憎い。なぜこいつはこんな偉そうにしているのか。


ぼくが買ったのは “トンカツ御膳弁当(税込864円)” である。
誰がどうみたって、主役はトンカツ。助演女優はごはん、キャベツがトンカツとの友情出演で、脇を固めるベテラン俳優がひじきと煮物。
梅干しなど、役名もない通行人Aにすぎない。
それがなぜ、偉そうに真ん中に陣どっているのか。
口うるさいベテラン女優に
「ちょっとなにあの赤い子!? なんでど真ん中に座ってるのよ! 事務所どこよ!?」
と怒られればいいのに。
そしてお弁当界から干されればいいのに。もう干してあるけど。

しかしまあ、その件については目をつぶろう。
たしかに梅干しは、主役をはれるほどの華やかさはないが、キャリアだけは長い。
押しも押されもせぬ大物女優のごはんと、苦しい下積み時代を支えあってきたという功績もある。
年功報奨的な意味で、ごはんの真ん中に配置してやるのもしかたない(たいした役でもないベテラン俳優が、エンドロールで最後にクレジットされるようなものだ)。


ぼくが許せないのは、その後の振る舞いだ。
梅干しを食べたくないから、箸でつまんで弁当箱の外に追い出す。
すると、梅干しが座っていたごはんの上に、赤い染みができている……!

なぜ静かに退場しないのか。

梅干しの出番は、
「塩分によってごはんが傷むのを防ぐ」
「その赤さによって弁当に彩りをくわえる」
というところで終わっているのだ。
もう十分にその役割を果たしたのに、なぜおとなしく去ってくれないのだっ。

これが若手なら、まだ致し方ない。
たとえば新進気鋭の個性派俳優・パクチー。
彼はそのアクの強さゆえに好き嫌いの激しい俳優でもある。
多くは取り除かれる運命にあるが、退場した後もその強い香りによって存在を主張する。
これは決して褒められたことではないが、パクチーが日本でデビューしてからまだ日が浅いことを考えれば、気持ちはわからないでもない。
なんとかして爪痕を残さなければ、その他多くの野菜たちの中に埋没してしまう。
その焦りが、パクチーにかのような行動をとらせたのであろう。
実際、そのおかげで今ではパクチーは嫌いな食べ物の代名詞として名を馳せ、名悪役として確固たる地位を築きつつある。
これもひとつの戦略だ。

だが梅干しはそうではない。
長らく第一線でやってきて、もう十分評価されている。
もういいじゃないか、梅干しよ。

あなたが日の丸弁当となって貧しい日本人の食生活を支えた時代はとうに終わったのですよ。
老害として若い人から疎まれながら生きるのはつらいでしょう。
後進に道を譲り、自身は若い才能の引き立て役にまわることもベテランの大事な仕事ですよと、ぼくは梅干しと浜村淳に対して言ってやりたい。

2016年3月10日木曜日

【考察】本屋大賞を嫌いな理由 その2

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』についてふたたび。


ぼくは何年間か本屋で働いていたけど、すっごい激務で、朝は6時に出勤していた(開店が10時くらいなので朝のんびりしていると思われがちだが、荷出しに時間がかかるので本屋の朝は早い)。

6時出勤で郊外店だったので電車ではまにあわず、車通勤を余儀なくされていた。

休みも少なく、勤務時間は長く、通勤は車だったので、本屋で働いていた期間はぼくの人生の中でもっとも本を読まなかった時代だった。
本屋を辞めて読書量は格段に増えた。

ぼくのまわりの店員もそんなんだったから、書店員が選ぶ本屋大賞なるものをぼくはまったく信用していない。

言っておくぞ!
本屋は本読めてないからな!

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
  
「本屋大賞 感想」で検索すると、いろんな書評がヒットして、かつそのほとんどにAmazonへのリンクが貼ってあるの、ほんとステキ。

本屋大賞候補作・受賞作は大手書店が独占しちゃうせいで本屋に行っても売り切ればっかりだから、これほんと助かる。

ほんと、本屋大賞って本屋にとって害毒です。


【関連記事】

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

2016年3月9日水曜日

元書店員が本屋大賞を嫌いな理由

「本屋さんが選ぶいちばん売りたい本」こと『本屋大賞』


性懲りもなくまだやってんのか本屋大賞。

本屋の店員だった立場からすると、そして紙の本を愛するものとしては、この賞は嫌いです。
早くなくなればいいと思います。

本来は多くの人に本屋を好きになってもらうために創設された賞であり、『博士の愛した数式』を掘り起こした功績はきわめて大きいものでした。
でもその意図が成功していた幸福な時代ははじめの1、2回だけで、今は本屋の復興(というより延命)のために生まれた本屋大賞が、本屋をつぶそうとしています。


もはや面白い本の発掘ではなく単なる作家の人気投票になっているという批判は、まったくもってそのとおりです(このへんの批判については海堂尊氏の2年前のブログ記事『読まずに当てよう、本屋大賞』がおもしろいので興味ある人はぜひ読まれたし)。


ですが本屋大賞が抱える問題はもっと根深く、出版制度にも関わります。

まず、基本的に本屋が本を仕入れるとき、返品フリーの条件で仕入れます。
1,000円の本を780円で仕入れ、売れたら220円の儲け、売れなくても返品すれば780円まるまる戻ってくる。これが本屋の基本ビジネスモデルです。

このシステムは功罪両方ありますが、その是非についてはここでは触れません。大事なのは『売れなくても仕入れ金がまるまる返ってくる』ということです(実際には入荷・返品作業にともなう人件費がかかるけど)。
いいかえれば、食品や衣料品にくらべて、本の場合は過剰発注のリスクが圧倒的に低いということです。


さて、本屋大賞は大賞発表の2ヶ月以上前に10作品がノミネートされます。
さっきも書いたように作家の人気投票と化しているので、ある程度目端の利く書店員なら本など読まなくても「これはノミネートされるな」ということは10作品中7作ぐらいはわかります。

ノミネートされたら(またはされそうなら)、本屋はノミネート作品を大量に確保します。大賞発表と同時に受賞作フェアをするためです。
大賞をとった作品は飛ぶように売れます。
大賞をとるのは10作中1作だけですが、返品フリーなので10作すべて大量に仕入れます。並べる場所がないので大賞発表までは倉庫に積みます。


本屋は返品をしても損をしませんが、出版社の懐は痛みます。
お金をかけて刷った本が大量に返ってきて、出版社の倉庫を圧迫し、おまけに本屋に返金しなければならないのですから。
だから出版社は、極力余計な増刷はしません。売れる分だけ刷るのが理想です。


本屋は売れる以上に仕入れる。
出版社は売れる分だけしか刷らない。


このひずみのしわ寄せがどこにいくかというと、小さな本屋です。
複数の本屋から同一の注文があった場合、大きな本屋(売り場の広さではなく権力がある大手チェーンのこと)に優先的に配本されるので、小さな本屋に人気作品はまわってきません。
本屋大賞ノミネート作品など、小さな本屋が注文しても99%無視されます。

百歩譲って、まだ大賞作品はよしとしましょう。
小さな本屋が売れなくても、大きな本屋が売るのですから。

でも、大賞に漏れた9作品はどうでしょうか。
大きな本屋の倉庫に2ヶ月以上も眠り、落選が決まると、一度も店頭に並ぶことなく返品されるのです。
その2ヶ月間、小さな本屋がいくら注文をしても入荷しなかったのに(そして落選が決まってから大量に入荷したりする)。


ここでもう一度考えてみましょう。
出版社は、客のニーズの分だけしか刷らない。
大きな本屋は、客のニーズ分以上に入荷して倉庫で眠らせる。
はい、その差分はどうなるでしょう?

そうです、倉庫で眠っていた分の本は、客のニーズがあったにもかかわらず買えなかった(小さな本屋が売りたくても売れなかった)ということになるわけです。



こういうことが続くと、一部の客は「また買いたい本が品切れで買えなかった。Amazonで買おうかな。電子書籍なら品切れもないし」と考えます。
一方出版社は「本屋が無駄に仕入れるから大量の返品が発生して損をする。電子書籍なら倉庫の場所もとらないし、返品も発生しないし、コスト0で増刷できる(おまけに取次や本屋の取り分がなくなって利益率が増える)」と考えます。

おやおや、読者と出版社の利害が一致してしまいました。

「本屋なんかないほうがお互いにとっていいよね!」

というわけで、本屋大賞こそが(そうでなくてもどうせ時間の問題だけど)本屋の衰退を加速させるのです。


というわけで紙の本と本屋を愛するものとしては、時代にそぐわない本屋大賞がなくなることを願うばかりであります。
少なくともノミネート制度はなくして!直木賞も!

2016年3月8日火曜日

【読書感想文】谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ』

谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』

内容(「BOOK」データベースより)
世の中に蔓延している「社会調査」の過半数はゴミである。始末の悪いことに、このゴミは参考にされたり引用されることで、新たなゴミを生み出している。では、なぜこのようなゴミが作られるのか。それは、この国では社会調査についてのきちんとした方法論が認識されていないからだ。いい加減なデータが大手を振ってまかり通る日本―デタラメ社会を脱却するために、我々は今こそゴミを見分ける目を養い、ゴミを作らないための方法論を学ぶ必要がある。

著者はめんどくさい人だなあ、というのが第一の感想。あたりかまわず正論をふりかざす正義感に燃えた中学生みたいな人だから、身近にいる人は迷惑してるだろうなあ。ま、それはそれとして本の内容はおもしろい(困った人だからこそ、かもしれない)。

これは2000年発刊の本だが、今でもメディアが報じる社会調査の質は変わっていない。
統計や分析の仕方をまったく知らない。あるいは、知っていてわざと誤った解釈をする。

この本で紹介されている、新聞や研究機関にはびこるさまざまな「社会調査のウソ」の例をいくつか……。

◆データをもとに、誤った解釈を導きだす。
(例:「ジャンクフードを食べる頻度が多い子は非行に走りやすい」というデータから、ファストフードやスナック菓子は「キレやすくなる食事」だと決めつける。実際はおそらく、育児に無関心な親がジャンクフードを子どもに食べさせているだけで、そういう子が非行に走りやすいのは当然のことだ)


◆データがそもそも誤っている。
(例:選挙の1年後に「誰に投票しましたか」と訊ねると、当選した人に入れたと答える人が7割。ところが1年前の実際の得票率は、有権者数の3割程度。人はすぐ忘れるし、かんたんに嘘をつく)


◆結論ありきで調査をする
(「中学生の4割がナイフやエアガンを所持していた」という新聞記事。調べてみると、平日に繁華街で調査をしている。部活にも塾にも行かずに平日に繁華街にいる中学生を対象に調査しているわけだから、「今の中学生は怖い」という結論を出すために調査をしている)


◆ある方向に誘導するための質問の工夫をしている
(「自衛隊は必要だと思いますか」という質問の前段階として「自衛隊の平和活動は海外でも評価されていますが……」といった説明を混ぜる)


単なる無知、調査不足、意図的な嘘、嘘とはいえないまでも作為的なデータのとりかた……。
原因はさまざまだが、メディアの中には嘘が満ち満ちている。



これをもってして、
「報道機関は腐っている」
「これだからマスゴミは」
と断じるのはたやすい。

でも、「純真なおれたちを騙すなんて!」と憤るのは、大人と子どもの境のお年頃の中学生ならいざ知らず、いい大人としてはあまりにもお人好しすぎる。

人間が意図をもって企画、集計、発表をしている以上、何のバイアスもかからない中立公正な調査などというものは存在しない。

NHKだって研究機関だって省庁だって、自分のところが非難されるような調査結果が出たら、そっとふたをするか、せいぜい無難な形にデータを切り貼りしてから発表するかぐらいだろう。
それがまともな人間のやることだ。


イエス・キリストは言いました。
「今までに過ちを犯したことのないものだけが、この盗人の女に石を投げなさい」と。

データそのものの改竄は論外としても、ある情報から都合のいい解釈を導きだすことは、やってあたりまえだと思っておいたほうがいい。
今の日本のマスコミが堕落しているとは思わない。どの時代の、どの国のメディアだってやっているに決まっている。

恥ずべきは、歪んだ調査結果を出す研究機関ではなく、稚拙なデータ集計に騙される己なんじゃないだろうか。
歪められたデータから、本来あった姿を想像することのできない自らなんじゃないだろうか。

「情報操作を糾弾するのではなく、自分だけが騙されないようにする」
それがいちばんの得策。
賢い人はとっくに知っているかもしれませんが。

2016年3月7日月曜日

【エッセイ】男子における「かっこいい」の信憑性に関する考察

 気をつけて
振り込め詐欺と
「かわいい子」

もはや、こんな標語を県警がつくってもおかしくないぐらい、女が別の女を形容するのに使う「かわいい子だよ」は信用ならないということは定説になっている。

同じく、男子のいう「かっこいい」もまったく信用ならない。
でかいバイクとか、格闘技とか、B'zとか、男子のいう「かっこいい」は、よく見ると「ん? かっこいいの? 短パンじゃん」としか思えないことが多い(単なるB'zの悪口じゃないか)。

かくいうぼくも、若い頃はかっこよさをはきちがえてずいぶん無茶をしたもんだぜ。



8歳のときだった。
当時のぼくは、ごくごくふつうの男子小学生で、つまり学校では体育と休み時間と給食のことしか考えていなかった。

給食では、毎日必ず瓶に入った牛乳が出た。
主食がパンの日はもちろん、ごはんのときでも牛乳が出た(それでよく学校は『食育の重要性』とか語れるな)。

牛乳瓶には紙のふたがついており、その上に、きっとほこりがつくのを防ぐためだろう、薄紫色のビニールがかけられている。

 

どういういきさつかは覚えていないが、あるとき、同じ班の友人とぼくは、その薄紫ビニールを食べることができるかどうかという話になった。
友人は、これは食べ物じゃないから食べられないと言った。
ぼくは、いいや食べることができる、だからこれは食べ物と見なしていい、と言った。

ぼくは聡明な少年だったので、
「任意の対象が食べられないという主張に対する反証を示すためには、実際に食べてみせるのがいちばんである」という科学的実証主義に基づいた行動を起こした。

つまり、ビニールを食べた。
口に入れ、そのままごくんと飲みこんだ。

その後、口を開けて友人に口内を見せ、たしかに飲みこんだことを明らかにした。
決定的な例証を挙げることで、見事、論争に勝利したのである。
やったぜ科学の子。

ぼくの班は騒然となった。
すげえ!
ほんとにビニール食べたぞ!

騒ぎを聞きつけて、他の班の子らもぞくぞくと集まってきた。
ほんとかよ。
おれ見てなかったよ。
もう一回食べてみてくれよ。

もちろんぼくは引き受けた。

再現性・検証可能性があってこそ、はじめて科学と呼べるのだ。

友人からビニールをもらい、口に入れた。
慣れてきてコツをつかんだので、さっきよりもかんたんだ。
ごくり。

おおぉー!
男子の間から歓声が上がる。

今にして思えば、「おおぉー! ゴリラがうんこ投げたぞー!」ぐらいの珍奇な行動に対する歓声だったのだろうが、当時のぼくにはそれが称賛の声に聞こえた。

羨望の眼差しを感じる!
羨望の眼差ししか感じない!

「もう一個!」
「二個いっぺんはどうだ!?」

次から次へと差しだされる紫のビニール。

颯爽と大階段を降りてくるタカラジェンヌのエレガントさで、ファンから手渡される紫のビニールを受けとり、ひとつまたひとつとのどの奥に押しこんでゆく、ぼく。

ぼくは今、最高にかっこいい……!

みんな見てくれ!
男子も女子も!
ぼくは! 今! 誰も食べないビニールを!
食 べ て い る !!



誰も成しえないことを成しとげて、その場の全員の注目を一身に集める。
そんな経験、ぼくの人生において二度と訪れることはないだろう。

翌日腹痛で学校を休んだことさえのぞけば、まちがいなくあれはぼくの人生の中で最も光輝いていた瞬間だったと今になって思う。
(しかし今考えると、のどに詰まったらと思うと相当危険なチャレンジだった。はらいたくらいで済んでよかった)

そして、男子の考えられる「かっこいい」はまったく信用おけないということも、今になって思う。

2016年3月6日日曜日

【エッセイ】きれいな神戸には毒がある

大阪=怖い街
神戸=上品でおしゃれな街

生まれも育ちも神奈川の友人が、こう語っていた。

とんでもない!

ぼくは大阪と神戸のちょうど真ん中ぐらいで生まれ育ったので、大阪も神戸もよく知っているが、神戸のほうがはるかに怖い。

たしかに、大阪にはちょっとばかり注意を要するところが少なくない。
ガラの悪い兄ちゃんばかりの街もあるし、薬剤師でも取り扱ってはいけないタイプの薬を服用している人が珍しくない地域もある。

でも、そういう人は見ればわかる。
その手の人は、わかりやすく刺青を見せていたり、街中で大声で演説をしていたりする。
だから百メートル先から見ても「ああこりゃやばいな」とわかる。

大阪の人は自己主張が強いので、わざわざ「わたしは危険ですよ。近寄らないほうがいいですよ」とアピールしてくれているのだ。
毒キノコが見るからに毒々しい色をしているのと同じで、これはとても親切な設計だ。

ちなみに、昼間から公園でビールやワンカップを飲んでいるおじさんも多いが、これはただの酒好きであって、無害な人がほとんどだ。
ぼくの経験上、ほんとに気をつけなければならないのは屋外でチューハイを飲んでいるおじさんだ。
これは、ほんとはお酒が好きなわけではないのに、何かから逃げようとして無理して飲んでいるおじさんだから、距離をとったほうがいい。


少し話はそれた。神戸の話をする。

神戸では、怖い人がわからない。

大阪の場合は危ない場所とそうでない場所がなんとなく分かれているのだが、神戸は混ざりあっている。
三宮駅周辺というのが神戸最大の繁華街だが、ここは中学生がショッピングに来るエリアでもあるし、暴力団員がうろうろしているエリアでもある。雰囲気の良いカフェや結婚式場も多いし、風俗店も多い。
すべてが同じ場所にある。

おまけに、神戸の人は上品でおしゃれなので、おしゃれな服で内面の危なさを隠してしまうのだ。
だから見ただけでは危険な人かどうかがわからない。見た目はかわいいのに強い毒を持っているモウドクフキヤガエルみたいなやつらなのだ。


だから、駅前を歩いているスーツのおじさんが、部下の結婚式に向かう会社のお偉いさんなのか、その付近に本部がある日本最大の暴力団のお偉いさんなのかがわからない。
ほんとに怖い。


こないだ三宮駅前を歩いていると、もめごとがあったらしく、警官が集まっていた。
見てみると、身長190センチくらいの外国人の大男と、きちんとスーツを来た小柄なおじさんが揉めているようだった。
喧嘩でもしたのだろうか、顔から流血していた。

それだけでもなかなかの事件なのだが、ぼくが驚いたのは顔から流血しているのが、小柄なおじさんのほうではなく、身長190センチの外国人のほうだったということだ。

何があったんだ。
あのおじさんは何者なんだ。

ほんと、神戸は油断ならない街ですよ。

2016年3月4日金曜日

【ふまじめな考察】ネジのささったモンスター

フランケンシュタインは、ほんとはモンスターの名前ではなくそれを生みだした人の名前で、モンスターのほうには固有の名前がない。
にもかかわらず、ぼくらが「フランケンシュタイン」と聞いてイメージするのは、あの顔色の悪いネジのささったモンスターのほうだ。

ああ、かわいそうなフランケンシュタイン。
モンスターを作りだしたがゆえに、後世の人からモンスター扱いされてしまうなんて。


発明者の名前が、そのまま発明品の名前になるケースはよくある。

レントゲンとかベルとかサンドウィッチとか。
自分の死後何百年も自分の名前を呼んでもらえるなんて、さぞかし発明家冥利に尽きるだろう。

でも、うらやましいことばかりじゃない。

たとえばギロチン。
ギロチンは、罪人が苦しまずに死ねる処刑方法を考えだした医師の名前に由来しているらしい。
でも、せっかく苦しまない方法を考えたのに、残酷なものの代名詞として後世に名を残してしまっている。

ああ、かわいそうなギロチン。

いやいや、ギロチンなんてまだいいほうかもしれない。
レオタードやブルマーやコンドームも、人名に由来しているらしい。

自分の発明品のせいで、親族一同が避妊具の名称で呼ばれることになったりしたら、子孫たちに顔向けができない。

ああ、かわいそうなコンドーム。


というわけで、ぼくが先日発明した「女性の服だけ透けて見えるメガネ」は、子孫がその名前で呼ばれていらぬ恥をかくことがないよう、世間に発表しないことにしました!
そして、自分ひとりでこっそりと楽しむことにしました!

2016年3月3日木曜日

【読者感想】大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』


『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』(大阪大学出版会)を読む。
大阪大学ショセキカプロジェクトという試みで、阪大の学生が企画を考え、教授たちが執筆するという形で作った本らしい。


誰もが常々頭を悩ませている(?)「ドーナツを穴だけ残して食べるにはどうしたらいいか」という問題に対し、工学・美学・数学・精神医学・歴史学・人類学・化学・法学・経済学らの教授、准教授らが、それぞれの専門分野から解き明かそうとした一冊だ。

こういう学際的な試みは好きなのでわくわくしながら読んだのだが、残念ながら肝心の中身はイマイチおもしろくなかった


工学教授の「口とナイフと旋盤とレーザーを使ってドーナツをどこまで削ることができるか」という章。

数学教授による「4次元以上の空間を想定して、ドーナツの穴を認識させたままドーナツを食べる方法」の章。

法学教授の「ドーナツという語の定義をめぐって争われた裁判例によれば単にくぼみのある形状であればドーナツと呼べるので、穴のあいてないドーナツを作ってその中央部分を食べる」の章。
それぞれたいへんおもしろかった。

だが。
ほとんどの執筆陣は早々に逃げを打っており、ドーナツの穴を食べる方法を論じていない。

「ドーナツ化現象から生じる事態」とか、
「ドーナツ型オリゴ糖『シクロデキストリン』のはたらき」とか、
むりやりドーナツとからめて自分の専門分野に逃げ込んでいるだけだ。

基本的に論文というものは自分の書きたいものを書くので、論文ばかり書いている大学教授はすぐに逃げに走ってしまうのかもしれない。


「テーマからはずれているので軌道修正してください」と、こうしたごまかしを許さない編集者がいればずっとおもしろくなったはずなのに(偉大なるブレイクスルーというものは制約の中から生まれる)、学生が教授に執筆依頼するという形態のせいで、厳しいチェック体制は期待できない。

教授と学生による書籍化プロジェクトという試みはおもしろかっただけに、半端な小論文としてまとまってしまったのが残念。

編集機能に穴を残したまま出版してしまったんだな。
ドーナツだけに……。

2016年3月2日水曜日

【エッセイ】2011年の新卒採用面接は地獄だった

 人事の仕事をしている知人が、
「2011年の新卒採用面接は地獄だった」
と語っていた。

 「どうしてですか」

「ほら、東日本大震災の直後だっただろ。だから『わたしはボランティアに取り組み~』ってやつばっかりなんだよ。ほんとつまんない。
 そりゃ多かれ少なかれボランティアしたのかもしれないけど。でも話す内容も同じようなことばっかだし。あれはつらかった」

 「なるほど。それを延々聞かされるのはたしかに苦痛ですね」

「だろ? あまりにもうんざりしたから、しまいにはボランティアって言葉を出した学生をかたっぱしから落としてやったよ。はっはっは!」

 「ひどい! ひどいけどその気持ちわかる!」

「でもさあ。そのときボランティアアピールがうっとうしいから落とした学生たち、採用しとけばよかったかなって、今になってちょっと後悔してんだよね」

 「やっぱりかわいそうに思えてきたんですか」

「いやぜんぜん」

 「え?」

「だってさ。安易に学生ボランティアするってことは、自分の労働の価値を安く見積もってるわけだろ? そういうやつは会社に入ってからこき使っても文句言わなさそうだし」

 「……」

「それにさ。まともな頭があれば、ど素人が被災地にボランティアに行くよりも、その時間にバイトでもして、バイト代を寄付したり、バイト代で被災地に旅行に行ってお金を使うほうが復興の役に立つってわかるわけでしょ?
 それがわかんないようなやつらだから、扱いやすいんじゃないかなって。目先に安いエサぶらさげときゃ都合よく動いてくれると思うんだよね。
 だからそういう安易な学生ボランティアも会社のために二、三人とっときゃよかったなって思うんだよね」

 「ひどい! ひどいけどたぶん正論!」


2016年3月1日火曜日

【エッセイ】パンツマン

今日も妻から「パンツ姿でうろうろしないで」と怒られた。     


うん、でも、ちょっと待って。

たしかにうろうろした。
先週の水曜日もうろうろしたし、建国記念の日にもうろうろした。

だけど聞いてくれ妻よ。
ぼくだって好きでパンツ歩きをしていたわけじゃない(好きでするときもあるけど)。

風呂に入ろうと思った。
脱衣場で服をすべて脱いだところで、パジャマを忘れたことに気がついた。
そこでぼくは、居間にいる妻を気遣い
“ わ ざ わ ざ パ ン ツ を 履 い て ”
パジャマを取りに行った。

はいここ重要。
とても重要。
赤いマーカー引いといて。
引きすぎて下の文字がにじむぐらい引いといて。
辺り一帯引いてどこがほんとに重要なのかわかんなくなるぐらい引いといて。

そう。
ぼくは服を脱いでパンツマンになったんじゃない。
パンツを履いて、パンツマンになったの。
これ、似ているようで180度ちがうからね。
言ってみりゃプラスのパンツ。


だってね、考えてもごらんよ。
街中で、突然おじさんが服を脱いでパンツ一丁になったらみんなどう思う?

怖いよね。
嫌な気持ちになるよね。

でも、街中に全裸のおじさんがいて、そのおじさんがパンツを履いてパンツ一丁になったらどう思う?

ほっとするよね。
ああよかった、って思うよね。

そうゆうこと。
これがプラスのパンツの力。

だからパンツ履いてくれてありがとうという感謝の気持ちを夫に対して持つことが……あっはいごめんなさい余計なこと言ってないですぐ退散します!

2016年2月29日月曜日

【映画感想】『長い長い殺人』

『長い長い殺人』(2007年)
暴走車に轢かれ、頭部を殴打された男の死体が発見された。被害者の妻・法子(伊藤裕子)は愛人がいる派手好きな女、しかも夫に3億円の保険金をかけていたことが発覚する。世間やマスコミは法子と愛人・塚田(谷原章介)に疑惑の目を向けるが、2人のアリバイは完璧だった。そして事件を担当する所轄刑事の響(長塚京三)、探偵の河野(仲村トオル)は不可解な連続殺人事件へ巻き込まれていく。

原作は宮部みゆきの同名の小説。

原作を読んだのはもう20年以上前なのでストーリーはほとんど忘れてしまった。
覚えていることといえば、
「小説の語り手が財布」だということと、
「おもしろかった」ということだけ。

(あの頃の宮部みゆきはほんとに神がかっていた。それまでミステリといえば江戸川乱歩と赤川次郎しか読んだことのなかった中学生のぼくにとって、『我らが隣人の犯罪』『スナーク狩り』『長い長い殺人』はめまいがするほどおもしろかった)


さて。
映画『長い長い殺人』、丁寧な作りの秀作だった。

映像化にあわせてストーリーを調整しながらも、原作者のメッセージの中核となるところにはしっかりと時間を割いている。
重みを置くべきところを心得ている、というアレンジのしかただ。

10ほどの章に分かれていて、かつ章ごとに視点が変わるという独特な構成。ともすれば散漫な印象にもなりかねなかったが、そのあたりもうまく処理している。
章のたびに緊迫感のある展開を用意していて、退屈させない。

まず事件の概要を説明し、容疑者が浮上し、観客の中でもこいつが犯人だという確証が高まったところで、決定的な証拠を提示。
いよいよ逮捕かというところで容疑者の無罪を証明する完璧なアリバイを出してきてひっくり返してしまうという展開は、ほんとにスリリング。

全体的に静かな映画だったが、それがかえっていい緊張感を与えていた。


ただ惜しむらくは「語り手が財布である」必然性を感じなかったこと。

原作では、視点をころころ変えるわけにはいかないこと、事件関係者を語り手にしてしまうと情報を小出しにできないこと、といった小説特有の事情があり、いつも身近にあってプライベートな情報を多く持つ“財布”というアイテムからの視点にすることが優れた効果を生んでいた。

だが映像の場合は、視点を変えることも情報をあえて描かないことも比較的容易だから、あえて財布に語らせる必要はなかったとおもう。
「語り手が財布」というのが小説の最大の特徴だから切り捨てにくかったんだろうけど。

あと、『長い長い殺人』の重要なテーマとなっている劇場型犯罪者の心理については、20年前には斬新だったのだろうが、その数年後に、やはり宮部みゆきが『模倣犯』という金字塔的な作品が送り出した後の今となっては、正直目新しさは感じない。

ただ映画化された『模倣犯』は超がつく失敗作だったので、それと比べると『長い長い殺人』は完璧に近い映像化だといってもいいね。


2016年2月28日日曜日

【エッセイ】完全犯罪の夢

月に1回くらいのペースで、完全犯罪のトリックを思いつく夢を見る。

夢なので、起きたときにはほとんど覚えていない。
今朝も「完璧なトリックを思いついた!」と思って目が覚めた。
このままだと忘れちゃう! と思ってあわててメモをとった。
だが、今メモを見たら、

・てんとう虫に糸を結びつけて飛ばすことで脱出可能

という謎の記述だけ。

おそらく密室殺人のトリックだと思うのだが、いったいこれでどうやって犯行現場から立ち去れるのかは、今となっては完全に迷宮入りだ。

1ヶ月のメモを見ると

・カーニバルの日に交通事故に見せかけて殺す

とある。
トリックもわからないし、そもそもカーニバルの日がいつなのかもわからない。

それでも、メモしたときは
「すごいトリックを思いついた! 来年の乱歩賞はぼくのものだ!」
という興奮さめやらぬまま書いているのだから、きっとすばらしいトリックだったのだろう。

とはいえ。
実際のところ、乱歩賞どころか、ミステリ小説を書こうとすら思っていない。
それどころか、最近はほとんどミステリを読んですらいない。
それなのに、どうして完全犯罪(らしきもの)の夢ばかり見るのか。
これは、誰かを殺したいという真相心理の表れなのではないだろうか。



私は、胸のうちに密かな殺意を飼っている。

あまり私を怒らせないほうがいい。
さもないと、カーニバルの日に、糸のついたてんとう虫があなたの部屋から飛び立つことになりますよ。

ふっふっふっ……。


2016年2月26日金曜日

【クイズ】ものとその重さ

シンプルだけど難しい物理の問題。
某国立大学の物理学科卒の友人でも答えられなかった。

問1
体重計に乗り、壁を強く押す(壁に体重を預けるぐらい強く)。
体重の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


問2
体重計に乗り、前方に腕をすばやくつきだす(正拳突きをする)。
その瞬間、体重計の目盛りはどうなる?

1 増える
2 減る
3 変わらない


2016年2月25日木曜日

【思いつき】血を見ることになるぜ

おれも昔は相当悪かったよ……。

知らない奴との喧嘩は日常茶飯事。

目があっただけで殴りあいになったりした。
ましてや、会話なんかしたらすぐに喧嘩になってたよ。

“口を開けばすぐキレる”ってことで、
『冬場の乾燥くちびる』ってあだ名で呼ばれて恐れられてたぜ……。



2016年2月24日水曜日

【エッセイ】いちばん嫌いな映画

いちばん嫌いな映画ですか……。
たしかに、ちょっと難しい質問ですね。
「つまんない映画」は山ほどありますけどね。
でも、つまんない映画って意外と憎めないんですよね。
あそこもだめだった、ここもつまんなかった、って挙げていくのは愉しみですらありますからね。
そうやって悪口を云ってるうちに愛着が出てくるんでしょうね。
映画史に燦然と輝く駄作と名高い『シベリア超特急』『北京原人』『デビルマン』ですら、なんだかんだでけっこう愛されてますから。

前置きが長くなりました。
ぼくが選ぶ、嫌いな映画ナンバーワンは、2006年公開『手紙』ですね。
東野圭吾の原作を映画化したやつです。


あ、ことわっておきますが、原作小説はおもしろかったですよ。
嫌いなのは映画だけ。

映画『手紙』の何が嫌いって、ひとことでいえば「観客をなめてる」に尽きます。

まず主人公の職業が、原作ではミュージシャンだったのが、映画ではお笑い芸人に変わっています。
察するに、「歌のうたえない役者にミュージシャン役はムリだな。ま、お笑い芸人ならいけるっしょ!」って感じで職業変更したんでしょうね。
はい、観客をなめてるポイントその1ですね。

案の定、間もへったくれもないど素人のお笑い芸人の演技を見せられます。
イタい大学生のコンパを延々見せられてるような苦痛。

おまけに主人公が芸人としてそこそこ出世するというストーリーなので、リアリティのかけらもありません。
さらには原作では「ミュージシャンとして刑務所の慰問に訪れて、収監されている兄の前で歌おうとするも涙ぐんでしまい歌えない」というシーンだったクライマックスでしたが、
これをお笑い芸人にしてしまったせいで、
「漫才師として刑務所の慰問に訪れた主人公とその相方。収監されている兄の前で漫才を披露するも、事情を知っているはずの相方がなぜか兄いじりをはじめる。自分で兄いじりをはじめたくせに、やった後に直後に『しまった』という顔をする。もちろんまったくウケない。途方にくれた主人公はマイクの前で呆然と1分以上立ち尽くす」
というどうしようもないシーンに変わり果てています。

どこで感動すればいいんでしょうか。


次のなめてるポイントは、女優の妙な方言。
大阪弁っぽい言葉で話すのですが、大阪人じゃないぼくが聞いても、どうしようもなく耳ざわり。
イントネーションが汚すぎる。
まったく方言指導をしなかったんでしょう。

ま、それはいいです。
そんな映画、いくらでもあります。昔のハリウッド映画なら、日本人役のはずなのに中国語をしゃべってましたからね。

『手紙』がひどいのは、そもそも女優が大阪弁をしゃべる理由がまったくないってことです。
舞台はずっと関東。大阪に行くシーンもない。大阪から来ました、という描写もない。だから方言を話す必然性がまったくないわけです。
なのに大阪弁。そしてそれがどうしようもなくへたくそ。
何がしたいんだ、としか思えませんね。


ストーリーに関しては、原作がしっかりしているので、目も当てられないほどひどいということはありません。
ぼくは原作を読む前に映画を観たのですが、
「ああ、原作のほうはおもしろいんだろうな」
と思わせてくれる程度には、映画のストーリーは崩壊していませんでした(細かいところを挙げればキリがありませんが)。
だからこそ映画観賞後すぐに原作小説を読み、ああよかった東野圭吾はちゃんとしたものを書いていた、と安心したものです。


映画の話に戻りましょう。
いちばん観客をなめてると感じたのは、さっきも書いたクライマックスシーンです。
収監されている兄の前で漫才の慰問に訪れた弟が、相方から「おまえの兄貴は犯罪者ー!」といじられて涙ぐむというシーン(笑)ですね。
はっきりいって、失笑しかないですよね。

ここで、大音量で流れるのが小田和正の『言葉にならない』です。
テレビCMでも使われていた、いわゆる「泣ける曲」のド定番ですね。
これが唐突に流れます(主題歌よりもいいところで使われます)。

なんと親切なんでしょう。
「はいここが制作者が意図した泣くポイントですよー!」
とわかりやすく教えてくれているのです。

ぼくは劇場でこの映画を観ていたのですが、人間の反射というのはふしぎですね、それまで失笑に包まれていた劇場内で、この曲が流れたとたんにすすり泣きが聞こえてきたのです。

店内で『蛍の光』を耳にしたら「そろそろ帰らなきゃ」と思うように、『言葉にならない』を聴いたら「あっ、そろそろ泣かなきゃ」と思ってしまう人が世の中には少なからずいるのです。

「これ流しときゃどうせ泣くんでしょ♪」と、脈絡なく小田和正を流す。
観客をなめてるといわずしてなんといいましょう。

調べてみると、映画『手紙』の監督は生野慈朗という人。
テレビドラマの演出家だそうです。

ああ、どうりでいかにもテレビドラマ的な安い演出のオンパレードなわけです。
「こういうときはこうしときゃいい」というテレビドラマのセオリーが骨身に染みついてるんでしょうね。


というわけで、観客ばかりか映画そのものもなめきった態度で作られた『手紙』。

10年たってもいまだに不快感が消えないため、嫌いな映画ナンバーワンとして自信をもって推薦させていただきます!