2026年1月19日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『希望の糸』 / そもそも血のつながりに興味がない

希望の糸

東野 圭吾

内容(e-honより)
小さな喫茶店を営む女性が殺された。加賀と松宮が捜査しても被害者に関する手がかりは善人というだけ。彼女の不可解な行動を調べると、ある少女の存在が浮上する。一方、金沢で一人の男性が息を引き取ろうとしていた。彼の遺言書には意外な人物の名前があった。彼女や彼が追い求めた希望とは何だったのか。

 加賀刑事シリーズのミステリ。

 殺人事件が発生。捜査を進めていくと、被害者と親しかった男性と、被害者の元夫が何かを隠しているらしい。だが自分が殺したとして名乗り出たのは別の女性だった。はたして犯人の動機は何なのか、二人の男性の隠し事とは何なのか。さらには謎を追う刑事にも「死んだと思っていた父親がいるらしい」という個人的な衝撃事実が伝えられる……。

 と、なかなか込みいったストーリー。「誰が殺したのか」「なぜ殺されたのか」「二人の男はそれぞれ何を隠しているのか」「刑事の父親は誰なのか」といくつもの謎が同時進行で語られる。ごちゃごちゃしてしまいそうなものだが、すっきりわかりやすく読ませる技術はさすが東野圭吾氏。登場人物も画面転換も多いが、「こいつ誰だっけ?」とはならない。

 犯人は中盤で明らかになるのでそこからは犯行にいたった経緯の解明。八割ぐらい読んだところで動機もだいたいわかり、ラストは心情の描写。

 犯人当て、動機の推理、心情変化と物語の主題が移り変わってゆく。飽きさせない構成だが、少々散漫な印象も。すべてが中途半端になってしまった感じもある。



 細かいネタバレは避けるけど、「親子のつながり」がテーマとなっている。親子関係のもとになっているのは何なのか。血のつながりなのか、共に生活してきた記憶なのか、はたまたそのどちらでもないのか。古今東西よく扱われているテーマだ。

 が、個人的にはあまり興味の湧かないテーマだ。幸いにして「親子のつながりとは何か?」という問題に直面してこなかったからかもしれない。(おそらく)実の母親と実の父親に育てられ、(おそらく)実の子を育てている者としては、「そんなに血のつながりって大事なのかな?」とおもってしまう。

 仮に「あなたが父親だとおもっている人は、実は本当の父親ではありませんでした。本当の父親はこの人です」って言われたとしても「はあそうですか。そうはいっても生まれてから40年以上この人を父親とおもって育ってきたので今さら別の人を父親と思うことなんてできないですし、今後もこれまでと同じように『年に数回実家に帰って父母(と思っている人)と会う』という生活が大きく変わることはないでしょうね。まあ遺産相続のときはめんどくさそうなんで、できれば知りたくなかったことですけど」ぐらいにしか思わないんじゃないかな。

 仮に妻から「実は浮気をしていたから、娘はあなたと血のつながった子じゃないかも」と言われたとしたら「えーそんなことは墓まで持っていってほしかったな。どっちにしろぼくは今の生活を壊す気はないし」と思うだろう。もし子どもが生まれなかったら養子をとってもいいと本気で思っていたぐらいなので。

 つまりぼくにとって親や子と血のつながりがあるかどうかなんて、わりとどうでもいいことなのだ。それよりも「いっしょに生活していてそこまで苦じゃないか」とかのほうが大事だ。血のつながりがあろうと嫌いなやつは嫌いだし、血のつながりがなくたって好きな人は好き。それだけ。

 そんな考えだから、「一度も会ったことのない我が子」とか「顔も名前も知らない親」とか言われてもぜんぜん興味が湧かないんだよね。『希望の糸』の登場人物たちの行動を呼んでも、よくそんなどうでもいいことに右往左往できるなあ、という感想しか湧いてこなかったな。

 加賀刑事シリーズはほぼすべてがあたりだとおもっていたけど、今作は加賀刑事シリーズの中ではハズレだったな。加賀刑事あんまり活躍してないし。


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【読書感想文】小川 哲『君が手にするはずだった黄金について』 / ダメなやつに向ける温かい目

君が手にするはずだった黄金について

小川 哲

内容(e-honより)
片桐は高校の同級生。負けず嫌いで口だけ達者、東大に行って起業すると豪語していたが、どこか地方の私大で怪しい情報商材を売りつけていたらしい。それが今や80億円を運用して六本木のタワマンに暮らす有名投資家。ある日、片桐の有料ブログはとつぜん炎上しはじめ、そんな中で僕は寿司屋に誘われる…。著者自身を彷彿とさせる「僕」が、怪しげな人物たちと遭遇する6つの連作短篇集。

 “小川哲”を主人公とする、私小説風の短篇集。

『プロローグ』『三月十日』『小説家の鏡』『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』『受賞エッセイ』の6篇を収録。



 読んでいると、つくづく“小川哲”はめんどくさい人だな、とおもう。むずかしく考えなくていいことをわざわざむずかしく考えている。

 就活で企業から「あなたという人間を円グラフで表現してください」という課題が出されたら、一人の人間を有限個の要素によって表現することは可能なのか、その言語的な記述と“私”は完全に同一なものと言えるのか、と哲学的な思考を深める。企業が求めているのはそういうことじゃない、と知っているのに、それでもなお理屈をこねくりまわしてむずかしく考えてしまう。

 でも嫌いじゃないぜ、こういう人。なぜならぼくもそっちのタイプの人間だからだ(ここまでじゃないけど)。当然ながら就活はうまくいかなかった。「本質」とか「完全に正確な回答か」とか考える人間を企業は求めていないのだから。


 野球のことが気になって日常生活を正常に送ることができなくなった時期がある。中学生のときの話だ。
 野球には不可解なネーミングが多すぎる。たとえば「ストライク」と「ボール」と「アウト」。「ストライク」は「打つ」という意味の動詞で、ボールは「球」という意味の名詞で、アウトは「外へ」とか「外に」という意味の副詞や前置詞だ。品詞がまったく揃っていなくて気持ちが悪い°
 内野手が「ファースト」、「セカンド」、「サード」、「ショート」となっているのも気持ち悪い。「ショート」ってなんだ。
 僕はそれらの疑問を野球部の友人たちにぶつけたが、彼らは「わからない」と答えた。彼らがこれらの意味もわからずに野球をやっていることが、僕にとっては理解不能だった。

 ぼくも学生時代こんなことばっかり書いていたなあ。こういう「ささやかな疑問」を書くためのノートも作っていた。ぼくが学生の頃はインターネットが身近になかったので、ちょっとした思い付きやくだらないへりくつを公表する手段がなくて、ノートに書いたり、せいぜい友人に話したりするぐらいだった。当時SNSがあったらハマっていただろう。

 でもいつしかそういう「世の中にある変なこと」に気づくことも減ってしまった。歳をとって感受性が鈍ってしまったんだろうな。残念ながら。

 だが物事をまわりくどくとらえる人がいるから世の中はおもしろい。指示に対して適切に動く人ばかりだったらつまんないぜ。



 おもしろかったのは、占い師にはまってしまった友人の妻を救うため(というより占い師が気に食わないから)占い師と直接対決してその嘘を暴こうとする『小説家の鏡』。

 ぼく自身、占いなんてものはまったく信じていない。とはいえ占いだとか宗教に救われる人がいるのは理解できるので、まったくの無価値とは言わない。鰯の頭も信心から、だ。「テレビの占いを見てちょっといい気分になる」とか「初詣でおみくじを引く」というレベルであれば好きにすればいいとおもう。

 ただ、親しい人が占いにどっぷりはまって毎月安くない金をつぎこむようになったり、占い師に吹き込まれたせいで妙な道に進もうとしていたら、なるべくなら止めたいとおもう。家族なら全力で止める。

 幸い今のところそんな機会はないが、ひょっとしたらこの先娘が良くない占い師にはまってしまうかもしれない。そんな日のために『小説家の鏡』は参考になった。いや、なるのかな。ならないかもしれない。

『小説家の鏡』に出てくる占い師は、かなり優秀な人だ。上手な言い方で誰にでもあてはまるようなことを言う、さりげなく相手の情報を聞き出してさも自分が占いで当てたかのように見せる、はずれたときのための言い訳を散りばめておく、はなから占いに対して疑いを抱いている人と見極めたら早々に返金の意志を示して撤退する(その場合でも占いがイカサマであるとは言わず上手に言い訳をする)……。占い師として優秀なのではなく、営業マンとして優秀だ。成功している占い師というのは多かれ少なかれ似たようなものなのだろう。高額な不動産を買わせたり、ブランド品を買わせたりするのとそう変わらない仕事なのだろう。




『君が手にするはずだった黄金について』『偽物』の2篇も良かった。おもしろい、とはちょっとちがう。感動でもないし怒りでもない。でもたしかに心のある部分を揺さぶられた。なんと表現すればいいんだろう。強いてあげるならやるせなさ、みたいなものかな。

『君が手にするはずだった黄金について』と『偽物』はどちらもダメな人間が出てくる小説だ。巨悪ではない。ちょっとした嘘をつく、少しだけ見栄を張る、約束をすっぽかしてしまう、楽な道を選んでしまう、やらなきゃいけないと知りつつ怠けてしまう。そういうタイプの“ダメ”だ。つまりぼくたちみんなが抱えている“ダメ”だ。たぶん大谷翔平のようなスーパースターですら、ある部分ではそんな“ダメ”な部分を持ち合わせていることだろう。

『君が手にするはずだった黄金について』に出てくる片桐と『偽物』に出てくるババは、そんなダメな人間だ。でも彼らは幸か不幸かいろんな偶然が重なって名声を上げてしまう。はじめはちょっとした嘘だったのに、その嘘が評価されてしまう。その評価に応えるため、さらに嘘を重ねる。それがまた賞賛され、嘘をとりつくろうためにさらなる嘘を重ねる……。

 もちろんそんな虚飾が永遠に続くはずがない(中には死ぬまで逃げ切ってしまう人もいるが)。彼らの嘘は暴かれ、嘘がすべて明るみになったときには謝罪だけでは取り返しのつかない事態になっている。

 これだけなら単なる詐欺師の破滅の物語なのだが、“小川哲”は彼らの炎上、破滅を対岸の火事とはとらえていない。自分と彼らの間に本質的な違いがあるわけではないといスタンスをとったまま一定の理解を示している。彼らが詐欺的行為をはたらいていたことを認めつつも、彼らの嘘がすべて私利私欲から出たわけではないことや、また一面では善性を持っていたことも評価している。トータルでダメなやつだったことは認めつつも。

 このスタンスは持ち続けていたいなとぼくもおもっている。SNSなんかは対立を煽るアルゴリズムが組まれていて、やたらと極端な意見が目立つ。でも、対立する陣営の人たちも、こっち側の人たちも、実際はそんなに変わらないんだろうとおもう。ぼくも嫌いな政治家や嫌いな政党はあるけど、その人たちだって100%私利私欲のために悪をはたらいているわけではなく、別の誰かにとっては優しくて良い政治家だったりするのだろう。

 人でも組織でも思想でも政策でも同じだけど、完全なる善もなければ完全なる悪もない。


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2026年1月14日水曜日

【カードゲームレビュー】ナナ

ナナ

nana


ルール

 1~12の数字が書かれたカードが3枚ずつある(人数によっては使わないカードもある)。これを何枚かずつプレイヤーに配り、残りは場に裏向きに出す。

 つまり「自分が持っているカード(数字がわかる)」「他のプレイヤーが持っているカード(自分には数字がわからない)」「場に裏向きに置かれている(誰にも数字がわからない)」という3種類があるわけだ。

 このうち3枚をめくり、数字がそろえば手に入れられる。3セット、または特定の2セット、1セットをそろえば勝利となる。

 神経衰弱に似ている。ただしポイントは「プレイヤーのカードを表にするときは、所有している中で最大の数、または最小の数しか出せない」というルールがあることだ。これが非常によく効いている。

 たとえば自分のカードが「1,2,2,2,6,8,10,11」だとする。2のカードが3枚あるが、これを出すことはできない。最小ではないからだ。


味わい

 ルールは神経衰弱に似ているが、味わいはまったく違う。神経衰弱が記憶力と運だけの勝負なのに対し、『ナナ』はそれらに加え、推理や心理の読み合いが重要となる。「自分だけが知っているカード」という要素が加わるからだ。

 たとえば、
「あいつの最小のカードは4だった。ということは大きなカードを多く持っている可能性が高い」
とか
「現在、2のカードのありかが2枚明らかになっている。にもかかわらずあいつが2をそろえなかったのは、あいつが2を持っていない、または2を持っているが1も持っているので出したくても出せないからではないか」
といった読みが必要になってくる。

 ときには嘘をつくことも必要だし、すると当然嘘を見抜く力もいる。演技力も必要となる。


感想

 我が家ではかなりのヒット作だった。12歳、7歳の子どもたちは毎日のように「ナナやろう!」と誘ってくる。ぼくとしてもやっていておもしろい。

 なぜなら、手加減しなくてもいい勝負になるから。ぼくは子ども相手だからといって手加減をしたくないので「本気でやってもいい勝負になる」のはすごくありがたい。かといって運まかせでもない。

 はっきりいって、記憶力では子どもたちに敵わない。子どもの方が集中力もある。でも洞察力や嘘をつくうまさではぼくのほうが上だとおもう。ということで、総合的にはいい勝負になる。

 そして最後まで全員に勝利の可能性があるのもいい。基本的には3セットをそろえないと勝利にならないが、7のカードをそろえた場合はその時点で勝利となる。中盤まで劣勢でも逆転勝利の可能性があるので終盤まで緊張感が持続する。

 1回の勝負が5分程度で終わるのもいい。お風呂を沸かしている間に2ゲーム、みたいな感じで気軽にできる。カードだけなので片付けも楽だし。

 不満があるとしたら、カードの裏面の絵柄が上下対称じゃないこと。これだとわりとかんたんにイカサマができちゃうんだよね。ある数字だけ上下逆にしとく、とか。それを防ぐために全部のカードの向きをそろえているんだけど、これがけっこうめんどくさいんだよなあ。

 でも不満点はそれぐらい。カードデザインもかわいいし、材質もいい。手軽にできてハマるゲームです。



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2026年1月9日金曜日

【読書感想文】速水 融『歴史人口学で見た日本』 / 弾圧や差別が戸籍をつくる

歴史人口学で見た日本

速水 融

内容(e-honより)
留学先の欧州で教区簿冊を利用した「歴史人口学」(結婚年齢、家族構成など、ミクロの人口研究)に出会った著者は、帰国後「宗門改帳」を使って同様の研究を開始し、江戸期庶民の暮らしぶりを活写。「家族」と「人口」から見た「新しい日本史」。

 日本における歴史人口学の第一人者による歴史人口学概論。

 歴史人口学とは聞きなじみのない学問だが、ある時代・地域の出産、死去、婚姻、転入、転出などの数をデータベース化して、そこから過去の社会について立体的に分析するという学問だそうだ。

 死ぬ人が徐々に減ってきているとか転出する人が急に増えたとかがわかれば、そこから社会の様子をかなり正確に探ることができる。歴史学というとふつうは古文書を読むことで過去を知るのだろうが、「文書には書き手の主観が多分に入っている」「文書に書かれたことが本当かどうかわからない」「そもそも文書にされないことはわからない」などの弱点があり、かなり局所的、主観的な歴史になってしまう。

 歴史人口学はその弱点を埋める、かなり客観的・科学的な学問なのだ。

 次に、歴史人口学は、対象とする人口集団を人口学や統計学の方法を用いて分析することができる。従来の人口史が観察を主とする歴史学であったのに対し、歴史人口学は分析を含む社会科学的性格の強い歴史研究である。その結果、歴史人口学によって見出された事象の解釈ははるかに科学的になり、従来の事実の叙述を主とする「人口学」から、著書の表題はどうあれ、少なくとも人口学的分析を含むものとなった。つまり、ソフト・サイエンスからハード・サイエンス的性格をもつように変わったのである。

 とはいえ戸籍がなかった時代のことなので、人口を推察するのも容易ではない。

 ヨーロッパの場合は、教区簿冊(教会が作成した、洗礼、婚姻、葬礼などの記録)を元に解析をおこない、日本の江戸時代だと宗門改帳(幕府がキリスト教禁制のために住民の信仰を調べた記録)が重要な史料になったという。

 またドイツの場合は、ナチスが「ユダヤ人の血」を調べるために調査した記録が重要な史料になっているそうで、宗教弾圧だったり人種差別だったりが調査の動機になっているという話は興味深い。なるほどね、「住民を支配したい」という強烈な動機があるからこそ莫大な手間暇をかけて人口について調べようということになるんだよね。

 ブラック会社が日報を細かく提出させて社員の行動をコントロールしようとするけど、案外後世になったらそういう記録が貴重な史料になるのかもしれないね。やべーやつのやべー行動が後の世では価値を持つのだ。



 またこんな話も。

 前述したように、明治以前にもマクロの統計史料がないわけではない。幕府の全国人口調査があったし、また、いくつかの藩では領内の総人口を記録した。だから総人口くらいについてであれば統計資料はあるわけだが、より詳しい出生や死亡、結婚、移動に関するマクロのデー夕というものはなかった。
 一方、明治維新以降は(正確には「宗門改帳」が明治四=一八七一年まで続いたわけだから、明治五年以降は)、ミクロの史料のない状態で歴史人口学をやらなければならなくなる。明治五年に編成された「壬申戸籍」があるが、これには身分が書いてあり、利用が法的に禁止されている。現在の社会状況では、この禁止はやむを得ない。

 なるほどね。明治時代に作られた戸籍があるが、身分が書かれていて差別につながるから利用できない、と。だから、宗門改帳があった江戸時代のほうがかえって明治時代より史料が豊富なのだとか。

 でもそれって、今の戸籍だって将来的には利用できなくなる可能性があるってことだよね。たとえば100年後の世界では戸籍に性別を記載するのは差別だってことになってて、今の戸籍を見ることもできなくなってるとか。ありえなくもないな。最近の履歴書には性別の欄がないものもあるし。



 江戸時代の人口動態について。

 日本全体の傾向としては、ほとんど人口変動がなかったが、危機だけをとると、例外なく全国人口は減っている。つまり、危機を免れた場所はまずないといっていい。しかし逆に平常年だけとると、二地域を除いて人口はだいたい増えている。その人口の増えなかった地域はどこかというと、関東地方と近畿地方である。
 これはひじょうに興味深い。なぜかというと、関東地方には江戸があり、近畿地方には京都、大坂があった。江戸の人口は百万といわれているし、京都と大坂もそれぞれ四、五十万だから、両方足すと百万近くになる。江戸時代の日本は、江戸という百万都市、京・大坂を足すと百万近い都市という、二つの人口密集地をもっていたわけだ。人口百万という都市は、現在でも相当な規模で、世界にそれほど多くはない。この二つの百万都市をもっているにもかかわらず、その地域を含む関東や近畿で人口が減っているのである。これは一見不思議なことで、そういう巨大な都市があれば、その周辺の地域では、都市に物資を供給する産業、すなわち手工業や市場向け農業生産が盛んになって、経済的に発展し、その結果人口も増えるだろうと常識的には考えてしまう。ところが、そういうところで平常年の人口が減っているのである。これには説明が必要となる。
 そこで私は、自分の造語であるが「都市アリ地獄説」を提起した。つまり都市というのはアリ地獄のようなもので、引きつけておいては高い死亡率で人を(やって来た人だけではないが)殺してしまう。だから地域全体としては人口は増えなくなる。江戸っ子は三代もたないという俗説があるが、これは、江戸は住んでいる人にとっては健康なところでなく、農村から健康な血を入れないと人口の維持ができないということを意味している。

 江戸と大阪・京都といった都市部には人が集まってくる。だが都市部の人口は減りつづける。なぜなら都市の死亡率は高いから。

 今のような公衆衛生の考えも技術もなかった時代、人が集まれば環境は悪くなるし、疫病も流行る。農村部のほうが健康的な生活を送れていたようだ。それでも人は都市に集まってくる(まあ農村で安定した暮らしを送れている人はわざわざ都市に行く理由がないから、都市に移住する人の生活が貧しい=死亡率が高いのは当然かもしれない)。

 これは現代にも通じるものがあって興味深い。さすがに今は都市部のほうが極端に死亡率が高いということはないが、その代わり都市部は出産率が低い。独身でも生活しやすいとか、都市のほうが周囲からの結婚・出産へのプレッシャーが少ないとか、都市部は家が狭いから多くの子どもを持ちにくいとかいろいろあるけど、とにかく出産率が低い。東京の合計特殊出生率(女性1人が生涯に産む子どもの数)は1を切っている。

 都市アリ地獄は今も続いている。


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2026年1月2日金曜日

【読書感想文】浜口 桂一郎『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』 / 思いつきで制度を変えるな

新しい労働社会

雇用システムの再構築へ

浜口 桂一郎

内容(e-honより)
正規労働者であることが要件の、現在の日本型雇用システム。職場の現実から乖離した、その不合理と綻びはもはや覆うべくもない。正規、非正規の別をこえ、合意形成の礎をいかに築き直すか。問われているのは民主主義の本分だ。独自の労働政策論で注目される著者が、混迷する雇用論議に一石を投じる。

 2018年刊行。積読をしているとままあることだが、なんで買ったのか自分でもわからない本。

 読んでみて、その謎がさらに深まった。なんで買ったんだろう……。

 ぼくははるか昔の学生時代、労働法研究のゼミに所属していたのだが、そのときに読んだ本のことを思い出した。めちゃくちゃ固い本だった。なんで研究者でも労務担当者でもないのに買ったんだろう……。



 派遣業について。「登録型派遣事業」というのはいわゆる一般的な派遣事業で、働いた月だけ派遣元企業から賃金が出て、働かなかったとき(仕事がないとき)は賃金が出ないというスタイルだ。

 この派遣業、やたらと目の敵にする人がいる。諸悪の根源は派遣業だとでも言わんばかりに。人身売買とまで言い出す輩もいる。

 かねてから労働界に根強いのが登録型派遣事業禁止論です。これはかつてのドイツの仕組みであるとともに、日本政府が当初検討した案でもあり、それ自体としては筋の通った議論ではあります。ただ、すでにドイツも捨てた過去の制度に固執するには、それなりの理由が必要でしょう。
 あたかも登録型派遣事業を禁止すれば労働者はすべて常用雇用になるかのような議論も存在しますが、いうまでもなく日本の労働法制は有期雇用契約をほとんど規制していませんから、「派遣切り」が「有期切り」に姿を変えるだけです。判例法理でも、有期契約を単に反復更新しただけでは無期契約と同等と見なされるわけではありません。むしろ、有期労働者の雇止めがほとんど規制なしに行えるのが日本の現状です。
 そもそも、市場経済においては労働力需要が増大したり減少したりすることはごく普通のことです。その増減に対応して臨時的に労働者を活用したりそれを停止したりすることも、本来的に禁止されるべきことではありません。世界中どこでも、一時的臨時的雇用を禁止している国はありません。問題があるのは、本来労働力需要自体は恒常的に存在するのに、つまり無期契約で雇用することが自然であるにもかかわらず、解雇規制をすり抜ける目的でわざと有期契約にしておき、必要のある限り更新に次ぐ更新を重ねておいて、いざというときにはその期間満了を装って実質的に解雇しようとすることなのです。

 そうなのよね。悪い派遣業者がいるのは事実だが、派遣業自体は何ら悪くない。派遣で働きたい人と、派遣社員を雇いたい企業がいるのだから、派遣のような有期雇用契約が生まれるのは当然のことだ。

 世の中には、繁忙期と閑散期がある仕事がある。たとえば農業従事者が農閑期である冬場だけ有期で働きたいと考えるのは当然だ。建設業なんて、大きな仕事を受注すればその間は人手が必要だが、案件のないときに社員を大勢抱えていたら会社がつぶれてしまう。

 世の中にいろんな仕事があることを知れば、調整弁となる派遣社員が必要不可欠だとわかるとおもうんだけど。2008年頃の「派遣切り」のイメージが強すぎて、派遣と聞いただけで脊髄反射で拒否反応を示してしまう人がけっこういるんだよね。



 今はすっかりなりをひそめたけど、2000年前後の頃って「終身雇用制・年功序列制をとっているから日本の企業はだめなんだ」という言説をよく聞いた(そういうやつはどうせ日本経済の調子が良かったときは「日本型雇用システムがあるから日本経済は強いんだ」とか言ってたんだろうな)。

 九〇年代から二〇〇〇年代にかけてのさまざまな改革は、それまでの日本社会のあり方がそのままでは持続可能ではないという認識に基づいていました。そのこと自体は一定の根拠のある判断であったと思われます。問題は、社会システムはそのさまざまな要素がお互いに支え合って成り立っており、一見不合理に見えるある要素を不用意に取り除くことが他の部分に好ましくない影響を与えることがあり得るという認識のないまま、ややもするとただひたすらに「悪しき規制を退治せよ」といった勧善懲悪的な演出の下で改革が推し進められた点にあるように思われます。
 それゆえ、改革への熱狂が社会全体を覆っている時期には、改革の副作用が深刻な形で噴出していても、それに言及すること自体が改革への熱意を引き下げるのではないかといった配慮から、その問題は意識的に黙殺され、逆に改革への熱狂が醒めてくると、副作用ゆえに改革を全否定する議論が噴出するという事態が起こるのでしょう。そこに欠落していたのは、社会システム総体の様子を見ながら、副作用が最低限に収まるように、漸進的に改革を進めていこうという冷静な感覚だったのではないでしょうか。

 これは雇用システムに限った話ではなく、何かあると極端なことを言い出すやつがいる。どっかの学校でいじめ自殺が起こったら「制度が悪い。制度を変えよう!」とか言い出すアホが。

 そりゃあどんなシステムにだって悪いところはある。だけど長く使っている制度にはいい点もたくさんあるし、アホなえらい人の思い付きで変更したときに良くなるという保証はどこにもない。ちゃんとあらかじめ指標を決めて変更前後の影響を計測して改革がうまくいったかどうかを検証して、定められた期間に目標達成しなければ政策の過ちを認めて引き返す……ということをすればいいのだが、アホなえらい人がそんなことをするはずがないけどね(過ちを認められるまともな人は思いつきでころころ制度を変えない)。


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