2025年7月11日金曜日

【読書感想文】マッシミリアーノ・スガイ『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』 / 褒めるときは日本のスイーツのように

イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ

マッシミリアーノ・スガイ

内容(Amazonより)
noteで驚異の95万PVを記録した「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」が話題の日伊通訳者による、初著書!
日本の伝統料理からB級グルメ、チェーン店、コンビニスイーツ、冷凍食品まで。
イタリア・ピエモンテから彗星のごとくやってきた食いしん坊マッシが日本で出会った絶品グルメとその感動体験をまとめた、日本の食文化への情熱とアモーレ満載のエッセイ!
イタリア人フーディーの舌を唸らせ、胸を打ったのは、日本の意外なあの食べ物だった!?
日本人もぶっとんじゃう、斬新な視点や考察、日伊の異文化トリビアも満載。
読めば、私たちがいつも当たり前のように食べているあの料理が、何倍もおいしく感動的に感じられるはず!
ニッポングルメ再発見の旅へ、いざ参らん!

 イタリアで生まれ育った後、日本に移住した著者による日本の食エッセイ。

 こういう「外国人から見た日本エッセイ」は、なじみのある題材でありながら毎回新鮮な視点に気づかせてくれるのでおもしろい。

 コリン・ジョイス『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』も、M.K.シャルマ『喪失の国、日本』も、高野 秀行『異国トーキョー漂流記』 も、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』も、みんなおもしろかった。

 「外国人から見た日本エッセイ」にハズレなし。



 おでんについて。

 まず「おでんください」と言ったのに「どれにします?」と言われて困った、という話が新鮮。

 たしかに、おでんって料理名のようでありながら、じっさいのところは「麺類」「鍋料理」みたいな、広めのジャンル名だよね。

 たとえばラーメンであれば、種類はいろいろあれど、少なくとも麺はぜったいにある。麺がないとラーメンとは呼べない。でもおでんには、「これがないとおでんじゃない!」って食材が存在しない。大根、玉子、こんにゃくなど定番の食材はあるけど、必須ではない。「すみません、今大根切らしてるんですよ~」でもおでんは成立する。「麺を切らしてるんですけど、ラーメン提供できます」とはならない。

 そんなことに改めて気づかされる。

 そしてそれぞれの具に対する観察眼が鋭い。

 まずは大根。その日までに食べた大根は白くて一口サイズだったのに、お皿に入っているのは濃い茶色で、大きくて箸で切りながら少しずつ食べるもの。ごぼう天を頼んだら、ごぼうが見当たらない。なんと練り物の中に隠されていたのだ。お次は、薦められたはんぺん。噛んだ瞬間、(ここからは申し訳ない表現になるが)その食感に驚きすぎて、すぐに口から出してしまった。故郷では感じたことのない柔らかさで、困惑した。少しずつチャレンジしたら、意外にすぐに慣れて、おいしく味わって食べることができた。今ではおでんを食べるとき、お皿にはんぺんが乗ってない日はない。
 よくわからないまま注文したものの中には、思わず驚きの声が出るほど不思議なものも。昔の日本の財布のように見えたのは「餅巾着」だった。中身を出すためにかんぴょうの結び目を解こうと頑張っていたら、お店の大将に笑われた。なんと袋ごと食べるらしい。袋だと思っていたのは油揚げという食材で、豆腐の仲間だと言うではないか!おでんが一体なんなのか、ますますわからなくなり、僕はまんまと“おでんラビリンス”に迷い込んでしまっていた。
 さらに僕を迷宮に迷い込ませたのが、「結びしらたき」。パスタ文化を持つイタリアから来た僕には、そもそも「麺を結ぶ」という発想がない。1個丸ごとを口に入れたら、噛み切るのが大変で死ぬかと思った。
 ここまで勇気を出しながら頑張って食べたおでんは、どれもおいしくて面白かった。これ以上、僕を驚かすものは出てこないだろうと思っていたが、最後に、最強の敵が出てきた。「こんにゃく」だ。こんにゃくの驚きを言葉にするのは難しい。今まで出会ったことも、見たことも、考えたこともない味と食感だった。この最強の敵に苦戦して、結局、この日は食べきれずに負けてしまった。あの日の悔しさをバネに、そのあと何回もチャレンジして、今はおいしく食べられる。

 言われてみれば、おでんってよくわからないものだらけだよね。日本人だってあたりまえのように食べてるけど、ごぼ天とかはんぺんとか巾着とかかんぴょうとかがんもどきとかはんぺんとか、外国人から「これ何?」と訊かれたら説明に窮してしまうものばかりだ。




 つくづく感心するのは、マッシさんの柔軟性。この人ほんとにイタリア人? とおもうぐらい、日本の料理を受け入れている。
  最初に出会ったパスタには非常にカルチャーショックを受けて、食べる勇気が出るまで時間がかかった。スパゲッティーにしょうゆ、のり、大根おろしという今までの僕の人生では存在しなかった組み合わせのソースだ。「イタリアにないものをパスタに入れておいしいの?」と思ってしまった。
 オリーブオイルの代わりにしょうゆ、チーズの代わりにのりと大根おろしという発想は、イタリア人にはない。和食によく出てくる食材や味がパスタにも使えるなんて。半信半疑だったけど、なんとか勇気を出してみようと思い、よく混ぜてから食べてみた。
 一口食べて、目ん玉が飛び出た。頭で考えていた「ありえない」というイメージから、「なんじゃこりゃ!おいしすぎ!」という気持ちになるまで、あっという間だった。涙が止まらない。感動しかない。しょうゆとのりと大根おろしは最高の組み合わせだということを、日本人はみんな知っているのか?パスタに合いすぎて、もっと早くに出会っていればよかった。塩辛さとパスタの食感はすばらしいマリアージュだった。パスタの国から来ている僕は、新しいパスタのアレンジに驚いて、日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれないと思い始めた。

 和食や日本のスイーツはもちろん、パスタやピッツァのようなイタリア発祥の料理ですら、日本のものを絶賛する。これができる人はなかなかいない。

 ぼくも食に関しては好奇心旺盛なほうだとおもうけど、それでも海外で和食が“魔改造”されてたら、「うーん、これはこれで悪くないけど、でもこれはオリジナルとは別料理だよね……」とか言ってしまうとおもう。カリフォルニアロールもまだ寿司とは認めてないし。

 和風パスタをここまで絶賛できるイタリア人がどれぐらいいるだろうか(リップサービスも多分に含まれているんだろうけど)。日本人ですら気が引けて「日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれない」なんて言えないぞ。




 カフェの役割について。
  僕が感じる、イタリアと日本の「カフェ文化」の大きな違いは、カフェが存在する目的だ。イタリアではコーヒーを飲むために行く場所、日本ではカフェでの時間を過ごしたいから行く場所。簡単に言うと、日本ではカフェで勉強、仕事、読書、おしゃべりする人がほとんどだけど、イタリアではこのような光景がほとんどない。しゃべっていても飲み終わったらすぐに出る。「カフェ」という同じ場所なのに、国柄とその文化の違いがあらわれている。
 コーヒーの種類や飲み方の種類も日本の方が多くて、イタリアでは考えられないアメリカン、ブレンドコーヒー、豆乳系の飲み物などがとてもおいしい。イタリア人にわかってもらいたくて、そのよさを説明しても、エスプレッソから生まれた飲み物でないと、カルチャーショックというよりカルチャーのシャッターが閉まる。通訳者として言葉の通訳よりも、文化の通訳の方がいっそう難しいときもあるのだ。
 日本のカフェに行って驚いたのは、注文したコーヒーの情報までもが出てくること。例えば、どこの国のどんな豆か、そしてどんな味かまでわかる。このようなサービスはイタリアでは見たことがなくて、仮に店員さんに聞いても、答えられるかどうか怪しいところだ。

 へえ。たしかに日本のカフェって、最大の目的はコーヒーじゃないよね。たいていの場合、打ち合わせをしたいとか、自習をしたいとか、疲れたから座って休みたいとか、時間をつぶしたいとかの理由で行くものであって、正直言うと別にコーヒーじゃなくてもいい。極端なことを言えば「コーヒーを置いてないカフェ」があっても客は入るだろう。

 ぼくがイタリアに旅行に行ったときにカフェに入ったことがあるけど、驚いたのは「立って飲んでいる人」がいたことだ。

 日本だったら「コーヒーのないカフェ」は成立しても「座席のないカフェ」はなかなか成り立たないだろう(コーヒースタンドはあるけど少ない)。座るためにカフェに行くと言ってもいいぐらいだ。

 立ち喰いそばに行くのはとにかく腹を満たしたい人、立ち呑み屋に行くのはとにかく酒を飲みたい人。イタリアでカフェに行くのはとにかくコーヒーを飲みたい人なのだ。



 冒頭で、「外国人から見た日本エッセイにハズレなし」と書いたけど、この本はハズレではないけどアタリというほどでもなかった。

 マッシさんが絶賛しすぎなんだよな。とにかく日本の全料理を褒める。手放しで褒める。日本人として悪い気はしないけど、ここまで褒められると「ちょっと大げさすぎるな」という気がしてくる。

 褒めるのにも緩急が必要なんだよな。「あれもすばらしい、これも最高、ここは完璧!」と言われるよりも「あそこはちょっと好きになれないけどでもこういうところはすごくいいとおもうよ!」と言われたほうが真実味があってうれしい。

 そう、甘さを抑えることでかえって甘さを引き立たせる日本のスイーツのように。


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2025年7月9日水曜日

【読書感想文】吉田 裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』 / 戦うことすらできずに死んでゆく兵士たち

日本軍兵士

アジア・太平洋戦争の現実

吉田 裕

内容(e-honより)
310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物質欠乏…。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験を強いられた現実を描く。


 膨大な史料をもとに、太平洋戦争下における、兵士たちのおかれた状況を解き明かした本。

 分析は微に入り細を穿っていて、たとえば出兵している軍には歯科医がほとんどいなかったせいで兵士の大部分が虫歯に悩まされていた、なんて話も出てくる。

 なるほどなあ。考えたこともなかったけど、戦場では歯科医も必要だよなあ。長期に渡る行軍、物資や水や時間が足りずに満足に歯磨きができない環境。当然虫歯になる人は多いはず。たかが虫歯とあなどることなかれ、歯が悪くなれば集中力も落ちるし、身体の他の部分にも悪影響を及ぼす。

 こういうことの積み重ねが太平洋戦争での惨敗につながったのだろう。




『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』を読むと、 日本軍兵士がいかにひどい状況に置かれていたかがよくわかる。

 そりゃあ戦争なんだからひどい状況に置かれるのはあたりまえなんだけど、想像よりもっとひどい。

 たとえば我々が戦死と聞いて思い浮かべるのは、戦闘で銃撃されたとか、飛行機で追撃されたとか、爆弾で爆死したとか、そういう「戦闘による死」だろう。

 だが太平洋戦争における戦士のうち「戦闘による死」はごく一部で、じっさいのところは餓死、溺死、病死、自殺、殺人、上官からの自殺の強要、古参兵の暴行による死、人肉食のための殺害など、戦闘死すらできなかった人がすごく多かったのだという。

 第三四師団歩兵第二六連隊の戦記は、宜昌に向かう長い行軍の状況について次のように記している。なお、同書によれば、一人ひとりの兵士が多くの弾薬や食糧、日用品などを携行したため、「この時の各兵士の装具の重量は小銃を含めて三十キロを軽く越え」たという。
 灼熱赤土の道を行軍する兵士の中から、日射病・熱射病で倒れる兵士達がぼつぼつあらわれてきた。[中略]小銃は肩に喰いこみ帯革〔バンド〕は腰部に擦傷を作る。体重・荷重は両足に物凄い負担をかけ、日に二十キロ近くを行軍するため靴傷〔靴ずれ〕ができる。内地のハイキングで作る豆のさわぎでない。
 まず水疱状の豆が出来る。それがつぶれる。皮はずるむけになり、不潔な靴下のため潰瘍となりさらに進行すると[中略]完全に歩行はできない。広大な予南平野はたださえ水が乏しい。[中略]小休止中、「ドカーン」と物凄い爆発音が聞こえる。「敵襲!」と兵士達は銃を手にして立ち上がる。そうではない。「やったか……」と兵士達は力なく腰を降ろす。中隊長たち幹部がその爆音のした方へ駆け寄る。ああ……。体力・気力の尽き果てた若い兵士[中略]が苦しみに耐えかね、自ら手榴弾を発火させ、胸に抱いて自殺をするのである。肉体は焼けただれ、ほとんど上半身は吹き飛び、見るも無惨な最後である。この宜昌作戦間にこの連隊において三十八名の自殺者を出した。
 (『歩兵第二百十六連隊戦史』)

 過酷な行軍に耐えかねての自殺が日常茶飯事になっていたことがよくわかる文章。

 死ぬよりもつらい行軍だったのだろう。行軍に耐えたところでどっちみち待っているのは勝ち目のない戦闘で、生きて還れる望みはほとんどなかっただろうしな。



 

 日本軍のダメっぷりをあらわす一例として挙げられているのが、軍靴だ。

 前線への軍靴の補給も途絶えたため、行軍の際に通常の軍靴を履いていない兵士も多かった。一九四四年の湘桂作戦に参加したある部隊の場合、脛を保護するための巻脚絆を靴の代用として足に巻きつける者、靴の底が抜けている者、靴のない者、裸足にボロ布を巻いている者、徴発(事実上の略奪)した「突かけ草履や支那靴」を履いている者もいた(前掲、『支那駐屯歩兵第二連隊誌』)。
 また、補給がないため、軍靴は戦闘用に保管し、普段は裸足か草鞋履きの部隊も少なくなかった。一九四四年八月に陸軍経理学校を卒業し、フィリピンの第一〇五師団独立歩兵第一八一大隊に赴任した那須三男は、部隊長は裸足、将校以下全員が草鞋で訓練に励んでいるのを見て驚いたと回想している(『るそん回顧』)。

 物資がないため質の悪い靴しか支給されなくなり、補給もされないのでろくな靴を履けない。靴もないのに行軍や戦闘なんてできるはずがない。裸足でサッカーワールドカップに出るようなもので、強い弱い以前の問題だ。


 一九四四年三月に開始されたインパール作戦では、日本軍は山岳地帯を通過してインパールに向かった。戦後の座談会で、歩兵第五八連隊に従軍した兵士たちは、「あの時の個人装備は、少なくとも十貫(四十キロ)を超えていたと思う」、「進発した時の携行品は、米二十日分(約十八キロ)、調味料、小銃弾二百四十発、手榴弾六発、その他色々、それに小銃や帯剣〔銃剣のこと〕、鉄帽、円匙、小十字鍬〔つるはし〕がある。擲弾筒手や軽機関銃手は五十キロは担いでいただろう」などと語っている(『高田歩兵第五十八連隊史』)。
 また、同じくインパール作戦に参加した歩兵第二一五連隊の場合でも、負担量は一人では立ち上がれない重さであり、「出発準備の号令がかかった時など、亀の子みたいに手足をバタつかせても起き上がれず、かわるがわる手を引いてもらって立」ち上がったという(『歩兵第二一五連隊戦記』)。
 中国戦線でも、一九四四年に入ると制空権を連合軍側に完全に奪われたため、目的地への行軍は夜間となり、兵士をいっそう疲弊させた。
 迫撃第四大隊の一員として、大陸打通作戦の湘桂作戦に参加した中与利雄は、「昼間の戦闘と夜行軍が幾日も続くと、将兵たちは極度な疲労と過激な睡眠不足に陥り、あげくの果ては意識が朦朧となって行軍の方向すら見失い右や左、後方に向かって進む戦友もいたことは事実でございます。特に雨中暗夜の行軍は大へんでした。〔中略〕激しい撃ち合いの戦闘よりも、行軍による体力・気力・戦意の消耗はとてもひどかったことは事実です」と回想している(『野戦の想い出』)。

 あらゆるものが不足していて、そしてそのすべてを精神論で乗り切ろうとしていた。つらいなあ。太平洋戦争中は「お国のために戦って死ね」と言われていた、と習ったけど、じっさいは戦うことすらできずに死んでいったのだ。




 太平洋戦争における日本軍はとにかく弱かった。

 物資、機械化、燃料、補給、医療、メンタルケア、情報、通信。ありとあらゆる面でアメリカに劣っていて、戦闘能力以前の問題だった(もちろん戦闘能力でもはるかに劣っていたわけだが)。

 小説の世界には架空戦記というジャンルがあって「あのときああしていたら戦争の結果は変わっていたかも」みうたいな話が語られるが、太平洋戦争に関しては百回やっても百回とも日本が負けていただろう(「ちょっとマシな負け方」ぐらいはできただろうが、勝つ道は万に一つもない)。

 そして日本が弱いことは、開戦当初はともかく、中期以降は完全にはっきりしていたはず。いろんな本を読むと、多くの情報が集まる軍部はもちろん、末端の兵士や市民ですら勝ち目がないことを理解していたようだ。大っぴらに言えないだけで、いい大人はみんなこの戦争は負けるとおもっていた。

 それでも「玉砕」という名の惨敗に向かうのを誰も止められなかった。

 負けを認めるのはとにかくむずかしい。

 ぼくは「特攻作戦で亡くなった兵士たちは犬死に」とおもっていたけど、その考えは誤っていた。じっさいのところは「特攻に限らずほとんどの兵士が犬死に」だったのだ。泣ける。


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2025年7月2日水曜日

【読書感想文】高野 和明『踏切の幽霊』 / ミステリに全知全能の存在を出すんじゃない

踏切の幽霊

高野 和明

内容(e-honより)
マスコミには、決して書けないことがある―都会の片隅にある踏切で撮影された、一枚の心霊写真。同じ踏切では、列車の非常停止が相次いでいた。雑誌記者の松田は、読者からの投稿をもとに心霊ネタの取材に乗り出すが、やがて彼の調査は幽霊事件にまつわる思わぬ真実に辿り着く。1994年冬、東京・下北沢で起こった怪異の全貌を描き、読む者に慄くような感動をもたらす幽霊小説の決定版!

 妻を亡くしたショックで新聞社を辞め婦人向け雑誌の記者になった主人公。心霊ネタの取材の途中で「幽霊の目撃談が多発している踏切」の存在を知る。

 取材を進めるうちに、その踏切のすぐ近くで殺人事件が発生していたことが判明。犯人は既に逮捕されているが、殺された女の身元は不明。はたして殺された女は誰なのか……?




【以下ネタバレを含みます】

 ホラー&ミステリ小説。幽霊話を追っているうちに殺人事件にたどりつき、殺人事件を掘りすすめているうちにある大物政治家のスキャンダルにたどりつき……と、どんどん話が転がっていくのがおもしろい。


 オカルトものは好きじゃないんだけど、こういう社会派ミステリは好きだぜ、オカルトとおもわせた本格ミステリか、おもしろいじゃないか。

 とおもって読んでいったのだが……。

 結局またオカルトに戻ってしまった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、かとおもったらやっぱり幽霊。


 この展開は嫌いだなあ。不可解な現象の原因を霊に求めてしまうと、なんでもありになっちゃうんだもん。何が起きたって、どんなご都合主義の展開になったって、霊の仕業ですっていえば一応の説明はついちゃう。ずるいよ。

 実際、『踏切の幽霊』でも「事件の黒幕が怪奇現象に巻きこまれて不可解な死を遂げる」という、なんとも都合のいい展開になってしまう。

 そんなあ。だったら主人公の記者が丁寧に事件の真相を追い求めてきたのはなんだったんだ。はじめから幽霊が悪いやつに憑りついて祟り殺せばよかったじゃないかよ。なんで主人公が黒幕と対峙するまで待ってたんだよ。

 この幽霊ってもはや全知全能の神といっしょなんだよな。すべてをお見通しでどんなことでもできちゃう。こんなやつが出てくる小説、おもしろいわけがない。

 密室殺人が起こりました。犯人は神様でした。凶器は天罰でした。ちゃんちゃん。これと一緒。


 せっかく主人公が丁寧な取材で事件を追ってたのに、ラストの「考えもなく政治家をぶん殴る」と「政治家を追い詰めることができなかった主人公の代わりに幽霊が復讐」のせいで台無しになってしまった。

 小説に幽霊を出すなとは言わないけど、幽霊に力を与えちゃだめだよ。


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パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2025年6月27日金曜日

テレビが強かった理由

 ちょっと前まで、テレビは強いメディアだった。誰もが認めるところだ。

 テレビの影響力はすごかった。視聴率10%だったら、単純計算で1000万人近くが観ていたわけだ。世帯視聴率なので実際はもっと少ないけど、それでも数百万、多ければ数千万人に同時にリーチできていたわけだから、とんでもないメディアだ。

 ある番組で健康にいいと言われた食材が翌日のスーパーから消えた、なんて話も聞く。1000万人が視聴して、そのうち5%が買いに行ったとしても50万人が買うことになるわけだ。それも同じ日に。すごい。


 今それに匹敵するメディアってないだろう(テレビ自身も含めて)。

 YouTubeを月に一度以上利用する人が、日本で7000万人ぐらいだそうだ。

 少し前ならテレビを月に一度以上視聴する日本人なんて100%に近かっただろう。月に一度どころかほとんどの人は日に一度以上は視聴していたはずだ。しかもYoutubeは観られている動画が無数にあるけど、地上波放送は数チャンネルしかない。ほとんどの人が同じものを観ていた。


 じゃあ昔のテレビがそれだけおもしろかったのかっていうと、必ずしもそうとは言いきれない。テレビが強かったのは「テレビがおもしろかったから」ではない。


 テレビの最大の強みは、「手軽に見られる」ことと「みんなが見てる」ことだ。

 まず手軽さだけど、リモコンのボタンを押すだけですぐに再生が始まる。テレビ放送の再生に特化したデバイスが居間にどんと置いてあって、ボタンを1個か2個押すだけで再生が始まる。

 パソコンの起動ボタンを押して、起動するのを待って、ブラウザを立ち上げて、検索するなりURLを入力するなりブックマークを探したりして目的のサイトを開き、そこで動画を検索し、再生ボタンを押すのに比べてずっと手軽だ。


 そしてみんなが観ていること。

 テレビの話題は、かなりの確率で共通の話題になりうる。いきなり映画や小説の話題を振ってくる人はあまりいないが、いきなりテレビの話題を振る人はけっこういる。

 以前、同じ職場のおばちゃんから朝いきなり「X(女優)とY(芸人)が結婚したのびっくりしたねー」と話しかけられて驚いたことがある。みんながワイドショーネタに興味を持っているとおもっているのだ。それぐらい芸能ネタというのは一般的な話題だ。

 人は「昨日のあのドラマ観た?」「こないだの〇〇おもしろかったなー」という会話をしたいものだ。だからネット動画になってもコメント欄がにぎわっている。


 テレビは娯楽の王様とか言われていたけど、決してテレビのコンテンツが優れていたからではないだろう。もちろんおもしろい番組もいっぱいあったが、それと同じぐらい、おもしろい映画、おもしろい小説、おもしろい舞台演劇もいっぱいあった。コンテンツ自体の強さでテレビに劣っていたわけではない。

 それでもテレビが圧倒的に強かったのは、手軽に、みんなが観ることができたからだ。


 昨今、テレビ業界も斜陽産業になりつつあるらしく、有料配信などの会員制ビジネスを始めたりしている。

 たぶんうまくいかないだろうな、とおもう。そういう囲い込みって、テレビの強みであった「手軽さ」「大衆性」の対極にあるものだから。


 ついでに言えば、新聞も似たようなものだ。

 日本の新聞が強いメディアだったのは、大衆性(みんなが同じような記事を読んでいる)と手軽さ(毎朝家に配達されるのでかんたんに読める)に依るところが大きい。

 だから多くの人が購読をやめて大衆性が失われれば読まなくたって平気だし、一度購読をやめてしまえばわざわざ買ってまで読もうとはおもわない。


 我々はとにかくめんどくさがりなのだ。


 仕事以外でパソコンを使う人が減ってスマホにシフトしているのも、やはり手軽さが理由だろう。

 だから今後スマホに取って代わるものができるとしたら、スマホを手に取って画面をオンにするよりも手軽なもの、たとえばまばたきするだけで眼前に映像が浮かびあがってくるようなメディアなのだとおもう。



2025年6月26日木曜日

【読書感想文】鈴木 宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』 / 言語は記憶の邪魔をする

認知バイアス

心に潜むふしぎな働き

鈴木 宏昭

内容(e-honより)
見ているはずのものが見えていない。確かだと思っている記憶が違っている。後から考えると不思議な判断間違い。―誰もがよく感じる、このような認識のずれは、なぜ起こるのか、そのメカニズムを詳しく解説!

 認知バイアスとは、思いこみ、偏見、先入観などによって適切な判断をしてしまうことを指す。これはほとんど誰にでも起こることである。

 思いこみや偏見というとネガティブなイメージがつきまとうが、必ずしも悪いことではなく、むしろ判断をスピーディーにしたり、脳のエネルギー負担を抑えたり、プラスにはたらくことが多い。だからこそ人間の脳は思いこみ、偏見を持つように進化したわけだ。

 食物は腐ると刺激的なにおいを放つことが多い。だから刺激的なにおいがするものは食べないほうがいい。これは“偏見”だ。レモンのように刺激的なにおいだけど食べてもよいものも存在する。

 だが、採集生活をしている人がいちいち食べてみて「これは大丈夫」「これは危険」と判断していたら命がいくつあっても足りない。だから「刺激臭のするものは食べるな」「色鮮やかなキノコは食べるな」といった“偏見”にもとづいて行動するわけだ。すごいぞ偏見。

 認知バイアスを持っていなければとっくに人類は絶滅していたかもしれない。




 しかし認知バイアスがあるせいで、判断を誤ることも多々ある。

 こういう次第だから、目撃者証言などもかなり問題を含むことが了解できると思う。ずいぶんと古い実験だが、有名なものを紹介したい。これは実際のテレビ番組を用いた、2000名以上の参加者からなる、かなりコストのかかる実験である。番組の中では、廊下を歩いている女性が突然現れた男性に突き飛ばされ、バッグから財布を盗まれる場面が13秒間放送される。その中の3.5秒間には犯人の顔がしっかりと映されている。この放送の後、視聴者にはあなたたちが目撃者である、と告げられ、2分後に6人の被疑者が1から6の番号札を持って並んでいる写真が見せられる。そして一人ずつはっきりと映された後に、報告用の電話番号が伝えられ、自分が犯人だと思う人の番号を電話で伝えるように指示される。ちなみに6人の中に犯人はいないという選択肢もあり、これは0の数字で答えるようになっていた。
 これは7択の問題なので、ランダムに答えても14.3パーセントが正解する。さてどのくらいの人が正しく答えられたと思うだろうか。なんと正解したのは14.7パーセントに過ぎない。つまりでたらめに答えたのと変わりがないのである。また犯人は6人の中に存在したが、この中にはいないと答えた人(つまり0と報告した人)が1/4程度も存在した。

 人間は、見たものを見たまま記憶することが苦手なのだ。


 ぼくは以前、裁判員に選ばれたことがある。裁判で検察官の主張、被告人側弁護士の主張を聞き、その後評議室で裁判官と裁判員で議論をおこなう。

 そのとき、「たしか検察の主張ってこうでしたよね」「あれ、そうでしたっけ? 私の記憶だとこうだったような……」「じゃあもう一回裁判の記録を見返してみましょう」となることが何度かあった。それで記録を見返すと、どちらの記憶もまちがっていた、なんてこともあった。

 かなり集中して裁判を聴いているのに、採番から評議まで数日しか経っていないのに、細部はけっこう忘れている。裁判員だけでなく、プロの裁判官も記憶がおぼろげなことがあった(一応書いておくと、ちゃんと記録を見返すので誤認のまま評議が進むことはほとんどないはず)。


 以前別の本で読んだのだが、鳥はヒトに比べてものの形を正確に覚えられるらしい。

 だが、正確に記憶するせいで、ちょっと形が変わっただけで別のものと認識してしまうのだそうだ。これは不便だ。人の顔をおぼえても、ちょっと髪型が変わっただけで別人と判断してしまっては困る。

 つまり記憶はあいまいであるほうがよい面もあるのだ(むしろそっちのほうが多いのだろう)。

 この本によると、幼児期には写真のように見たものを記憶できるが、言語の発達とともにその能力は衰えていくのだそうだ。写真のように正確におぼえるよりも「眉が太くて柔和な顔つきのひげの濃い男性」のように特徴を取り出しておぼえるほうが効率がいいからだろう。

 それでは言語のもたらす影の部分に進んでみたい。直前に述べた記憶から始めることにしよう。これについてジョナサン・スクーラーたちが行った実験がある。この実験では、ある犯罪が行われた時のビデオを参加者たちに視聴させる。なお犯人の顔ははっきりと映っている。その後に、一方のグループの参加者には、ビデオに登場する人の顔を詳細に5分間言語的に記述するように求めた。もう一方のグループにはそうしたことをさせずにまったく別のことをさせた。その後に犯人の顔写真を含んだ何人もの顔写真を見せ、その中のどれがビデオに登場した人物かを尋ねた。さてどう考えても一所懸命犯人の姿を思い出しながら文章で記述していたグループの成績の方がよいと思うだろう。片方のグループは、5分間その男の特徴を一所懸命思い出し、文章化までしているのに対して、もう一方のグループは何もしていないわけだから、その差は歴然と考えるだろう。しかし結果は逆になる。言語的に記述したグループの成績はもう一方のグループの成績よりも悪くなったのである。こうした現象は言語隠蔽効果と呼ばれている。

 言語能力が高いのも良し悪しである。




 対応バイアス、について。

 一般に、私たちは自分の行動の原因をその時の状況に求めるが、他人の行動の原因はその人の性格意思、態度などに求めることが多い。これは対応バイアスと呼ばれている。たとえば自分が遅刻をした時には「電車が遅れた」「たまたま朝寝坊した」「出がけに面倒な用事を押し付けられた」などとする。しかし他人が同じことをすると、「あの人はズボラだから」「ルーズな性格だから」と考えがちである。
 この原因の追究に社会的なカテゴリー、つまり所属集団が関わることもある。ある変わった行動をとる人がいたとしよう。たとえば、合コンの時に1時間以上にわたってコンクリートの話をし続ける男子学生がいたとする(伝聞だが、これは実話だ)。
 この非常に特異な行動の原因を人は考えてしまう。原因はいろいろと考えられる。理由は状況かもしれないが(合コンがあまりにつまらないので早く終わらせたかった)、前にも述べたように私たちは他者の行動の原因をその人の内面に求めがちである。「変わった性格」「空気が読めない」などで止まることもあるだろうが、その大学生の所属集団に求める場合もあるだろう。むろん人はいろいろな集団に属している。たとえばその男子学生は「静岡県出身、AKB48のファン、一人暮らし、東京大学」だとする。さて、この「コンクリートの話を合コンで長々とする」という行動の原因として適当なものはなんだろうか。おそらく東京大学に求める人が多いのではないだろうか。
 どうしてこのような帰属が起こるのだろうか。合コンでコンクリートの話をするというのは、相当に変わった出来事である。この出来事の原因の候補の中で、静岡出身、AKBのファン、一人暮らしなどはいずれもよくある珍しくないことである。一方、東大生というのは十分に珍しい。そうした次第で「東大だからあんな変わったことをする」という話が成立してしまう。そしてさらにおかしな東大生ステレオタイプが強化されることになる。つまり、変わったことの原因は、変わったこととされるのである。

 他人の行動の原因をその人の人間性に求めてしまうのが対応バイアスだ。

「罪を憎んで人を憎まず」の逆の思考だね。

 近所に騒音を出す人がいる。その人は外国人だった。「外国人だからマナーが悪いのだ」と考える。じゃあうるさいのが日本人だったら「日本人はマナーが悪い」と考えるのかというと、そうは考えない。「大学生はマナーが悪い」「派手な服を着てるからマナーが悪い」など、べつの“それっぽい属性”に理由を求める(もちろん自分自身がその属性に含まれていないことが前提である)。


 対応バイアスは、差別を生みだす大きな原因なのだろう。戦争を持続させるきっかけだって同じかもしれない。

「A国人はおれたちの国の人間を殺した。A国人は残虐だ。おれたちの国にもA国人を殺したやつがいるが、それはそいつが特別に悪いやつだっただけだ。よってA国人は滅ぼすべし!」みたいな発想になるのだろう(そしてそういう思考に導く政治家がいる)。


 バイアスを持つことは避けられないし、必ずしも悪いことではない。バイアスは我々が利用する道具だ。言語や自動車やナイフのように、いい使われ方もするし悪い使われ方もする。

 バイアスを抱くのは避けられないが、ただバイアスを持っているという意識は忘れないようにしたい。


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