2025年2月13日木曜日

【読書感想文】小川 哲『君のクイズ』 / 長い数学の証明のような小説

君のクイズ

小川 哲

内容(e-honより)
生放送のTV番組『Q-1グランプリ』決勝戦に出場したクイズプレーヤーの三島玲央は、対戦相手・本庄絆が、まだ一文字も問題が読まれぬうちに回答し正解し、優勝を果たすという不可解な事態をいぶかしむ。いったい彼はなぜ、正答できたのか? 真相を解明しようと彼について調べ、決勝戦を1問ずつ振り返る三島はやがて、自らの記憶も掘り起こしていくことになり――。読めば、クイズプレーヤーの思考と世界がまるごと体験できる。人生のある瞬間が鮮やかによみがえる。そして読後、あなたの「知る」は更新される! 「不可能犯罪」を解く一気読み必至の卓抜したミステリーにして、エモーショナルなのに知的興奮に満ちた超エンターテインメント!

 生放送のクイズ大会の決勝で、「一文字も問題が読まれないのに早押しボタンを押して正解」したプレイヤーが優勝した。

 多くの人が不正があったのではないかと考えたが、番組側も、優勝者も、「不正はなかった」以外は一切語らない。

 はたして不正はあったのか。もし不正がなかったのだとしたら、なぜ一文字も読まれていないクイズの問題に正解することができたのか――。この“難問”に決勝戦で敗れたクイズプレイヤーが挑む。



 おもしろかった。

 小説というより、長い数学の証明を読んだような気分だ。長い数学の証明を読んだことないけど。

 実際、ほとんど数学の証明のようだ。「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題がはじめに提示され、その問題に主人公が挑む。

 最初は『スラムドッグ・ミリオネア』みたいだな、とおもった。インドのクイズ番組出演したある無学な男が、難しい問題に次々に正解する。なぜ彼は難問に答えることができたのか? というストーリーの映画だ。


 だが『君のクイズ』は『スラムドッグ・ミリオネア』とはちがう。『スラムドッグ・ミリオネア』は決して少なくない偶然が起きていた。“奇跡の話”だ。

 だが『君のクイズ』は奇跡の話ではない。少しの偶然はあるが、きわめて論理的に「一文字も問題文を聞くことなくクイズに正解できることを証明せよ」という問題の正解にたどりつくまでの話だ。




『君のクイズ』は、クイズという競技の奥深さを紹介する本でもある。

 ぼくはクイズを知っているとおもっていた。テレビのクイズ番組はけっこう好きだし、なんならかなり得意なほうだ。高校のときにクラスでやったクイズ大会で優勝したし。

 だが、ぼくは本当のクイズを知らなかった。将棋でいうと「ルールと駒の動かし方を知っているだけ」の状態。入口に立っただけの素人だった。

 「誰も知らない問題に、たった一人で正解する──たしかに気持ちいい。最高の気分だ。でも、それだけじゃ勝てない。みんなが知ってる問題でも押し勝って取らなきゃいけない」「それはわかってるつもりなんですけど」
「リスクを負うことも必要だ。展開によっては、まだ五分五分でも他より先に押さなきゃいけない。『恥ずかしい』という感情はクイズに勝つためには余計だ。そんな感情は捨てた方がいい。笑われたって、後ろ指さされたっていいじゃないか。勝てば名前が残る」

「たくさん知識があればクイズに勝てるんでしょ」とぼくはおもっていた。

 でもそんなことはない。筆記テストをやって合計点を競うのであれば、知識量がものを言う。でもクイズ(特に早押しクイズ)は筆記テストとは違う。答える速さ、対戦相手に関する情報、駆け引き、度胸、そういったものが必要となる。

 自分がわかる問題は他のプレイヤーもわかる。だったら誰よりも早く回答ボタンを押さないと勝てない。答えがわかってからボタンを押してからじゃ遅い。「答えがわかりそう」という段階で押さないといけない。

「しゃ──」と聞こえる。そして本庄絆がボタンを押す。正解を口にして優勝が決まる。他の出演者たちが「まだ一文字しか読まれていないのに!」と驚く。
 数回目でわかったことがある。よく聞くと実際には問い読みのアナウンサーは「しゃくに──」と口にしていた。急に解答ランプが点いて慌てて口を閉じたようで、漏れるように小さな声で「くに」まで発音している。
 もちろん「しゃくに」と聞こえたからと言って、答えがわかるわけがない。だが、この問題が、番組の最終回に最終問題として出されたことを考慮に入れると、本庄絆の「一文字押し」が魔法でもヤラセでもなかった可能性が生じてくる。
 本庄絆は「『終わりよければすべてよし』」と答えた。『終わりよければすべてよし』はシェイクスピアの戯曲だ。『尺には尺を』『トロイラスとクレシダ』の三作をまとめて、シェイクスピアの「問題劇」と呼ぶことがある。「しゃくに」という言葉から「『尺には尺を』」を導きだした本庄絆は、答えが問題劇のうちのひとつ、『終わりよければすべてよし』ではないかと考えた。なぜなら、それが番組を締めくくる問題だったからだ。最終回の最終問題の答えが「終わりよければすべてよし」というのはなかなか洒落ている。だから一応、論理的な推理で答えにたどり着く可能性があったわけだ。クイズプレイヤーが、問題外の情報を考慮すること自体は珍しくない。クイズは学力テストではない。出題者と解答者と観客がいて、ストーリーがある。ストーリーに気づく能力もまた、クイズプレイヤーとしての資質の一部だ。

「しゃ」と聞こえた段階でボタンを押す。出題者が発した「しゃくに」という言葉を手掛かりに、またクイズ番組の最終回の最終問題であることを鍵に、「『尺には尺を』の中で用いられたことで知られる、結末が良ければストーリーのすべてが良いことを表す言葉とは?」的な問題が出されることを予想し、『終わりよければすべてよし』と答える。

 トップクイズプレイヤーはこういう戦いをしているのだそうだ。ひゃあ。

 

 競技かるたにも似ているよね。あれも、上の句をすべて聞いてから札を探していたら遅すぎる。はじめの何文字かを聞いて、これまでに読まれた札も考慮して、残っている札の中からたった一枚に確定する札を取らないといけない。「百人一首の内容を覚えている」なんてのは最低限のレベルで、やっとスタートラインに立っただけだ。

 競技クイズもそれと同じで、知識があることは最低限の条件。まだまだ競技クイズの登山口に立っただけなのだ。

 さらに言えば、テレビのクイズ番組によく出るクイズプレイヤーには、「知識が豊富」「競技としてのクイズに強い」に加え、「視聴者が楽しめる立ち居振る舞いや気の利いたコメント」も求められるわけで、とことんクイズの世界は奥が深い。




『君のクイズ』は競技クイズの説明とストーリーがうまくからんでいる。

 最後に明かされる、あまりすっきりしない真相も個人的には好き。小説にはほろ苦い味わいがあったほうがいい。文学的であることを意識せず、論理に徹したような文章もけっこう好み。

 クイズとかパズルが好きな人には刺さる本だとおもうよ。


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2025年2月6日木曜日

【読書感想文】本岡 類『住宅展示場の魔女』 / 技巧がきらりと光る短篇集

住宅展示場の魔女

本岡 類

内容(e-honより)
「ハマってしまう」ってどういうことなのだろうか。「ハマって」しまったらどうなってしまうのだろう。何かに依存しないと安心感や安定感が得られない人たちを巡って起こるさまざまな事件をユーモラスに描く。「通販」に「ペット」、「懸賞応募」に「渓流釣り」、そして「住宅展示場見学」…。草原の落とし穴みたいに、日常生活の中にも口を開けて罠が待っている。

 2004年刊行の短篇ミステリ集。

 なかなか良かった。こういう短篇ミステリって最近あまり見ないなあ。ぼくが出会ってないだけかなあ。

 井上 夢人氏(元・岡嶋二人)が「短篇は長篇に比べて割に合わない」と書いていた。短篇でも長篇でも、アイデアをひねり出す苦労は大して変わらない。ミステリはアイデアの出来でほとんど決まるので。だが原稿料は枚数あたりで決まるし、ページ数がないと単行本にもできない。だから短篇は損だ、と。ショートショートの神様・星新一氏も似たことを書いていたし、ただでさえ本が売れない今、短篇ミステリは厳しい状況に置かれているのかもしれない。

 短篇を載せる雑誌も減っているだろうし。


 さて『住宅展示場の魔女』について。

 最初の、通販好きの取り立て屋が登場する『通販天国』、懸賞マニアの主婦が殺される『当日消印有効』を読んで、なるほど、軽い味のブラックコメディミステリね、とおもっていた。『女子高教師の生活と意見』にいたってはドタバタSFのような味わいだし。

 ところが四篇目『束の間の、ベルボトム』を読んで、評価をちょっと改めた。

 これは、なかなかいい小説だぞ。ミステリとしては新鮮さはないが、「若い頃のファッションを楽しみたい」とおもう中年の心境をうまくからめたことで、ほろ苦い味わいの短篇になっている。小説巧者だな。

 コメディ作品の『メリーに首ったけ』を挟み、次はコギャルの厚底ブーツという旬(だった)アイテムをミステリにつなげた『気持はわかる』。これもよくできている。軽妙ながら、ミステリとして隙がない。ちょっとしたアイデアなのだが、趣向を凝らして上質な短篇に仕上げている。

 これはなかなかの腕だぞ。調べたところ、1984年デビューらしい。つまり『住宅展示場の魔女』を書いた時点でデビュー20年。道理で技術が高いはずだ。脂ののっていた頃の阿刀田高氏のようなうまさがある。


 渓流釣りと殺人事件を融合させた『山女の復讐』も短篇ながら本格の味わい。釣りのエッセンスも織り交ぜられ、お得感がある。

 住宅展示場めぐりを趣味とする女に芽生えた悪意を描いた『住宅展示場の魔女』はミステリというよりサスペンス。

 ミステリに加えて、コメディ、SF、サスペンス、ペーソスなどいろんな要素がふんだんに散りばめられている。

 決して派手さはないが良作ぞろい。ベテランの技巧がきらりと光る短篇集だった。


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2025年2月5日水曜日

【読書感想文】マツコ・デラックス 池田 清彦『マツ☆キヨ ~「ヘンな人」で生きる技術~』 / ダブスタ上等!

マツ☆キヨ

「ヘンな人」で生きる技術

マツコ・デラックス  池田 清彦

内容(e-honより)
茶の間で引っ張りだこの人気タレント・マツコと、学会の主流になぜかなれない無欲な生物学者キヨヒコ。互いをマイノリティ(少数派)と認め合うふたりが急接近!東日本大震災後に現れた差別や、誰をも思考停止にさせる過剰な情報化社会の居心地悪さなどを徹底的に話し合った。世の中の「常識」「ふつう」になじめないあなたに、「ヘンな」ふたりがヒントを授ける生き方指南。

 十年ほど前、マツコ・デラックスという人がすっかりテレビになじんできた頃にふと「なんとなく受け入れてるけどこの変な人は何者なんだろう」とおもって買った本。ずっと本棚に置いてて、やっと手に取った。積読はいつものことだけど、十年は長い。




 2011年頃の対談ということで、当然ながら東日本大震災の話が多い。

 それはそれで時代を映す話ではあるけど、正直、読んでいておもしろみはない。

 あれだけの人が一度に亡くなった映像を見たら、奇をてらったことを言おうという気にならないんだよね。マツコさんも池田さんもあたりまえの話をしている。人間いつ死ぬかわからないとか、人間がどうやっても自然の力にはかなわないとか。

 ぼくはあの頃、ブログでコントのようなものを書いていたんだけど、やっぱり地震後しばらくは何も書けなかった。別に不謹慎だとか気にする必要はなかったんだけど、それでも何を考えても震災と結びつけて考えてしまう。ふざけようとか、わざと変なことを言おうとか、そういう気にならないんだよね。


マツコ:アタシも地震の直後の何日かは下痢がすごかったのよ。なんだか体調がとても悪くなっちゃって。よく、被災地の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)になるという話を聞くわよね。それに比べたらアタシのなんてずっと軽い症状なんだろうけど......。たぶん、程度の差はあっても、地震後にその影響で心身を病んじゃった人は東京にだっていっぱいいたと思う。
池田 :被災地じゃなくてもね。日本中にね。
マツコ:それでね、アタシの場合、体調が悪いのが少し改善されたのは、石原慎太郎がきっかけだったのよ。石原慎太郎が、地震の直後に「天罰」発言(「津波を利用して我欲を洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言)をしたでしょう。それ以前にも、ゲイを侮辱(たとえば二〇一〇年十二月に「同性愛者はどこかやっぱり足りない感じがする」「テレビなんかでも同性愛者の連中が出てきて平気でやる。日本は野放図になり過ぎている」と発言)した石原慎太郎のことを、アタシは、大っ嫌いだからさ。「このクソ親父め。『天罰だ』とかまたバカなことを言いやがって」とか言いながらずっと怒っていたら、それでいつの間にか元気になったのよ。

 怒りで元気になるというのはわかる気がする。

 怒るのってストレスなんだけど、同時にエネルギー源でもあるんだよね。誰かに向かって怒ったり攻撃したりするのって楽しいしさ。みんな悪口言うの大好きじゃない。いつだって「自分が悪者にならずに悪口を言える相手」を探してる。

 芸能人の不倫のニュースとかくそどうでもいいとおもっていたけど、ああいうのに怒ることで元気が湧いている人もいるのかもしれない。

 何の価値もないニュースだとおもっていたけど、もしかしたら気づかないところで役に立っているのかもね。




池田 :養老さんが今年(二〇一一年)、『希望とは自分が変わること』(「養老孟司の大言論I」新潮社)というタイトルの本を出していたけれど、つまり、あえてそう言わなければならないくらい、いまの人は「自分」を変えようとしないんだよ。いまの人って、自分がいて、相手がいて、その間で情報のやり取りをすることだけがコミュニケーションだと思っているんだよな。
 コミュニケーションというのはそういうものではないんだ。やり取りをすることによって自分や相手が変わることが本来のコミュニケーションなんだよ。そうではなかったら、自分が変わることもないし、変わらなければ、人間的に成長することもない。他人とのやりとりのなかで自分の考え方を変えてみたり、「ああ、そういうふうな考えもあるのか」と認識を新たにしたりとか、お互いにいろいろと調整をしながらうまく回っていくのが人間社会でしょう。そういうのをすっ飛ばして、自分と意見の違うやつは全部「敵」という感じになってしまう人が、いま、ほんとうに多い。
マツコ:いますよね。ある人が、「あいつはもともとこういう論調の人間だったのに、急にひよってこっちについた」と言って、知らない人のことを怒っていたんですよ。ひよったも何も、あんたはその人とずっといっしょにいたわけでもなんでもないんだろう?と思って、そんなことで怒っているのが不思議だった。さまざまな人から話を聞いたり、いろいろなものを見聞きしていくなかで、脳みその中が変わっていくんでしょ、とアタシは思うから、なぜその人が怒っているのかよくわからなかったんだけど、たぶんそれは、「あいつ」と言っている人についてのステレオタイプな情報を、その怒っていた人はずっと信じていて、その情報に自分が裏切られたと思っているということよね。

 ぼくの嫌いな言葉に「ダブルスタンダード」がある。正確に言うと、他人を糾弾する目的で「ダブルスタンダード」という言葉を使う人が嫌いだ。

「そんなこと言ってるけどおまえ過去にはこう言ってるじゃないか! ダブスタだ!」とドヤる人を見ると、ガキだなあとおもう。

 子どもってそうじゃない。ひとつの基準があらゆる場で通用するとおもってる。

「しゃべったらいけません」「えー、じゃあ火事になってもしゃべったらいけないのー?」

「暴力はいけません」「えーじゃあ警察官が犯人を逮捕するときも暴力を用いちゃだめなのー?」

みたいな感じ。五年生ぐらいのへりくつ。


 そんなわけないじゃない。ある状況における見解が他のどんな状況にもあてはまるはずないじゃない。

「外国人差別はいけない」と「日本人を優遇しないといけない状況はある」って十分両立する話だとおもうんだけど、ガキにはそれがわからない。一貫性を保つのがいいことだと信じている。

 また、同じ状況に対しても考え方が変わることもある。同じ汚職事件のニュースを見ても、小学生と、就活中の大学生と、中堅会社員と、定年退職後では、見方は変わるだろう。あたりまえだ。立場が変われば考えも変わる。良くも悪くも。まったく変わらないのは何も考えていない人だけだ。

 それに「職場で話す内容」と「気の置けない友人と酒場で話す内容」と「SNSで話す内容」が違うのもあたりまえだ。SNSで熱心に政治について語っている人も、たいていは人前で政治の話を声高らかには話さない(中には話す人もいるけど)。


 だからダブスタなんてあたりまえ。ダブルスタンダードどころかトリプルもクアドラプルもスタンダードを持っているのがまともな人間だ。

「ダブスタだ!」と吠えている人を見たら、「ああ小学生がなんかわめいてるわ」とおもうようにしている。




 マツコ・デラックスさんという人をテレビで観ていておもうのは、自分のことをよくわかっている人だなということ。

 とても客観的に、自分のポジション、自分が求められていることを把握しているように見える。

 たとえば、物事をずばずばと言うように見えるけど、基本的に語っているのは好き嫌いであって善悪ではない。また決して自分を良く見せようとはしない。どれだけ売れても偉くなろうとはしない。

池田 :そうやってマスコミはマツコさんをスターにしちゃったわけだけど、それに対する自己認識はどうなの?
マツコ:たぶん、ヒジュラ(男性でも女性でもない「第三の性」を指すヒンディー語 インドではアウトカーストの存在として、聖者として扱われたり、逆に極端に蔑まれたりしている)とかさ、そういうのが稀にあるじゃない? 結局、何か正体がよくわからないもの、どこか気持ちが悪いもの、既存の価値観では収まりのつかないものを、神格化これは自分でそう思っているわけじゃないから誤解しないでほしいんだけど―――して、すべてをその「神格化」したものになすりつけてしまってさ。で、最後は神輿から突き落とすんだろうと思っているんだけど。いまのテレビというのは、さっき池田先生も言ったように、ちょっと変わったことをなかなか言えない感じになってきているでしょ。その状況のなかで積もり重なったいろんな思いをいまアタシはぶつけられている感じはするのよね。そうして、みんながすっきりしたら、きっと「もうあんたは要りません」と言われるんだろうし。そういうのが刹那的だということも自分で肌で感じてわかっていて、その上でそれを引き受けてやろうと思ったの。「どうぞ、どうぞ、石でも何でも投げてください」というかまえで。
池田 :やけくそだね(笑)。
マツコそうなのよ。
池田 :大勢に乗って動いているということに関して、心のどこかでは「何かヘンだな」と思っている人もいっぱいいるんだよね。だけど、そのときに表立って「それはヘンだ」とは言えない。そこで、なんだかふつうじゃなさそうなヘンな人を祭り上げるようなことをやって、一種の欲求不満のはけ口にしているというか、それで自分のもやもやしたものを洗い流してせいせいしたい感じがあるのかな。きっとマツコさんはその象徴的な存在としていろいろなところに引っ張り出されているんだろうね。

 そうなんだよね。世間の人ってだいたいマツコ・デラックスという人を「なんだかよくわからない人」として受け止めているんだよね。ぼくもそうだった。気づいたらテレビに出ていたけど、どんな経歴の人で、どういう考えでああいう恰好をしているのかとかこの本を読むまでほとんど知らなかった。

 多くの視聴者はマツコさんの発言を「なんだかよくわからない人が変なことを言ってる」と受け止めている。だから少々乱暴な意見でも「まあ変な人が言ってることだから」と受け流している。

 そういうポジションを当人もよくわかってるんだよね。だから、どんな飯がうまいとか、あのお菓子が好きとかどうでもいいことは語っても、あの政治はおかしいとか、この法律は変えるべきとか、そういう“正しい”ことは言わない。「変な人が変なことを言ってる」範囲を決して踏み越えようとはしない。

 好き勝手言ってるようで、誰よりも自分を殺して求められる姿を演じている。つくづく賢い人だよね。


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2025年2月1日土曜日

消防署の向かいの生活

 昨年、消防署の向かいのマンションに引っ越した。

 ご想像の通り、うるさい。

 うちは九階なのだがそれでもけっこうサイレンの音が聞こえる。出動時は窓を閉めていてもテレビの音が聞こえないぐらいだ。

 ま、それはいい。消防署が先にあって、それを承知で後からこちらが引っ越してきたのだから。消防署員の方々に対してはなんら不満はない。ごくろうさまです。


 発見したのは、音にはけっこう慣れるということだ。

 たぶん閑静な住宅街に住んでいた人が我が家に来たら「よくこんな騒々しいところで生活できるね」とおもうだろうが、慣れてしまえばどうということもない。寝室は消防署と反対側なので、深夜のサイレンも気にならない。さすがに窓を開けて寝ていたらサイレンで起きてしまうが。


 向かいなので、消防署の様子がよく見える。消防隊員たちはいつも訓練をしている。腕立て伏せをしたり、走ったり。また署の敷地内にSASUKEのセットみたいなやつがあって、そこで登ったり走ったりしている。

 すごいなあ。軟弱者としてはただただ頭が下がる。

 おもったのは、消防活動に関する道具の進歩はいろいろあるけど、現場で消火活動をする人たちに求められる能力ってのは江戸の火消しの頃から(あるいはもっと前から)そんなに変わってないんだろうな、ということ。

 どれだけ道具が進歩しても、最後は身軽さとかが求められるんだな。



【読書感想文】柞刈 湯葉『SF作家の地球旅行記』 / SF作家の空想力と好奇心

SF作家の地球旅行記

柞刈 湯葉

内容(e-honより)
人気SF作家・柞刈湯葉、初旅行エッセイ。 首里城、筑波山、ウラジオストク、モンゴルの草原…何のために旅に出て、何を思い、何を目指すのか。SF作家の目を通して楽しむ新感覚旅行記。 2019~2021年note投稿作品を大幅に加筆・修正した海外編4作&国内編8作、さらに[架空旅行記]として書き下ろし短編小説2作(月面編/日本領南樺太編)を加えた。

 SF作家による旅行エッセイ。

 出版社が企画した旅行記ではなく(昔はよくあったけど、今もそういうのあるのかな。出版社にそこまでの経済的余裕がないかもしれない)、著者がプライベートで行った旅行をnoteに投稿したものなので、そんなに肩肘張った旅でないのがいい。

 琵琶湖とか千葉とか筑波山とか、旅先としてはあまりメジャーでないところが逆に新鮮。国外でもカナダとかウラジオストクとか。途上国や田舎のような雑多な感じもなく、ヨーロッパの有名都市ほどの歴史があるわけでもない。

 ぼくはあまり旅をしないが、旅に対する姿勢は著者と近いものがある。あまり人が行かない場所に行きたいとか、何でもなさそうなものにおもしろさを見出したいとか、そういう気持ちがある。はっきりと「ここに行ってこれを見るんだ!」という感じではなく、「なんかおもしろいものないかなー」という気持ちで移動を楽しみたいのだ。

 知っているものを確認しにいく旅ではなく、知らないものを探しにいく旅。もちろんハズレを引いてしまうこともあるが、ハズレたこともまた楽しい。でも世の中には絶対にハズレを引きたくない! という人が少なくないんだよね。ハズレこそが旅の醍醐味なのに。

 そんな風に旅に対する姿勢が近い(とぼくは感じている)ので、『SF作家の地球旅行記』はおもしろかった。ぼくが憧れる旅だ。




 そしてなんといっても魅力は軽妙洒脱な文章。レポートと知識と空想とほら話が軽やかに錯綜する。

  心情はあまり書かれず思考や発想が多いので、ドライな文章で旅の雰囲気とぴったり合う。奥田民生『イージ㋴ー★ライダー』を聴きたくなった。


 カナダ旅行記『チップがないならポテトを食べればいいじゃない』より。

 これは日本にはない文化なのだが、北米のスタバでは店員に名前を聞かれる。本人確認をしているわけではなく、ドリンクの取り違えを防ぐためらしい。
 ただ、僕の本名は外国人にはまず聞き取れないので、初めて渡米したときはこの問題に大いに悩まされた。「え?」「もう一回言って」と何度も聞き返され、レジに無用な行列を作ってしまうのだ。「別に本名を言う必要はないので、自分に適当な英語名をつけるといいですよ」
 というアドバイスをもらったことがあるが、これは英語慣れした人の意見である。ジョンだのポールだのといった英語名もきちんと発音しないと伝わらないのだ。
 これについてはいまでは「ホンダ」と名乗ることでほぼ解決している。ホンダのバイクなら世界中で走っているので、日本人の顔をした客が「ホンダ」と名乗ればおおむねどの国でも通用する。こうした小手先のテクニックを蓄積していけば、英語ができずとも海外暮らしはわりと何とかなってしまう。

 旅行記というか滞在記というか。旅というとついつい、あれも見なくちゃこれも見なくちゃあれも食べなくちゃという気になるが、この人の旅は日常の延長。


 また、SF作家(であり生物学の研究者)でもあるだけあって、科学に対する知識も豊富だ。

 千葉旅行編『電車に乗ってチバニアンを見に行った』より。

 地球はおおきな磁石である、というのは小学校で習うのでご存知かと思うが、実はこのN極とS極はときどき入れ替わる。一番最近の入れ替わりが77万年前に起き、千葉の地層がそれをいい感じに記録しているため、77万年前以後の地質年代がチバニアン(千葉時代)となった、とのことである。
 なんで77万年も前の磁場がわかるのかと言えば、北京原人の学者が記録していたからとかそういうわけではない。溶岩が冷えて固まる際に、内部の磁鉄鉱などが地磁気の向きに揃うからである。いったん固まってしまえば地磁気が変動しても動かないので、岩石の年代さえ特定できればその時代の地磁気がわかるという寸法である。テープレコーダーやハードディスクと同じ仕組みだ。
 なお地球の地磁気はここ200年一貫して減衰しており、このペースで減り続けると1000~2000年後には地球の地磁気はゼロになってしまうらしい。そうなると太陽から吹き付ける荷電粒子が遮断できなくなり、電波通信に相当な悪影響があると言われている。
 地磁気の変動は複雑かつ未解明で「このペースで減り続ける」必然性はあんまりないのだが、1000年後まで人類文明が存続していれば、なにかしら対策が取られるかもしれない。

 こういう知識がそこかしこに散りばめられているのもおもしろい。

 このエッセイを読むと、ほんとに教養って人生を豊かにしてくれるスパイスだなとおもう。

 NHKの『ブラタモリ』なんかもそうだけど、なんの変哲もない道や坂や山でも、知識のある人が見ればそこからいろんな情報を引きだせる。そしておもしろがれる。

 柞刈湯葉氏も教養が深いので、有名観光地でない場所からもいろんな発見や空想をして楽しんでいる。こういう人は何をしていても楽しいだろう。



 旅行エッセイもおもしろいが、なんといっても真骨頂は巻末の、月面を訪れた『静かの海では静かにしてくれ』と日本領土となっている南樺太を訪れた『南側と呼ぶには北すぎる』である。

 もちろんこれはフィクションである。まだ月面旅行は気軽にはできないし、南樺太(サハリン)はかつては日本領であったが今はロシアが実効支配している(日本は南樺太を放棄したがロシアのものとは正式に決定していない)。どちらも気軽に旅をできる場所ではない。

 しかし人間の想像力は距離も時間も国境も次元も軽く飛び越えてしまうので、月面にだって「もしも終戦がもう少し早くて日本領のままだった南樺太」にだって行けちゃうのだ。


 月旅行記より。

 あと意外と困ったのは服である。地球のたいていの服は重力を受ける前提でデザインされるので、無重力下で動き回ると勝手にめくれ上がってしまうのだ。これが思った以上に厄介で、面倒になったのでシャツをズボンにインした。宇宙時代とは思えない昭和スタイル。

 なるほど。重力がある生活があたりまえになっているから考えたことなかったけど、服って重力があること前提なのか。

 無重力だったらスカートは履けないし、帽子だって脱げちゃうし、ネクタイは邪魔で仕方ないし(重力あっても邪魔だけど)、眼鏡もとれちゃうよね。宇宙時代の眼鏡はゴーグルみたいな形状になるのかな。

 言われてみればその通りなんだけど、月旅行を想像してもなかなか「無重力下での着こなし」までは想像が及ばない。さすがはSF作家だ。


 宇宙では換気という概念が存在しないため、初期の宇宙ステーションは常に人間の臭いが充満している場所だったらしい。宇宙研究施設だった時代、精悍な職業宇宙飛行士たちはこの過酷な環境を人類代表としての使命感で耐え抜いたが、観光地になるといよいよ問題が表面化しはじめた。
 その結果、強力な空気清浄機が船内のあちこちで常時回転するようになり、臭い問題は解決したが、代わりにファン音が鳴り響く環境になってしまったそうだ。

 臭いって生きる上ではかなり重要な問題だけど、目に見えないものだから、想像しにくい。「宇宙船の中はどんなにおいか」なんて考えたことないもんなあ。

 言われてみれば、宇宙ステーション内は臭くなりそうだ。いくら宇宙時代になったって人間は汗をかくしおならやゲップもする。

 たぶん剣道部の部室みたいな臭いになるんだろうな。柔道とか剣道やってた人は宇宙ステーションに入って「なつかしい!」という感情になるのかもしれない。


 とまあタイトルに冠した「SF作家の」は伊達じゃない、SF作家の空想力や好奇心が存分に楽しめる旅行記(+小説)でした。


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