2024年10月21日月曜日

キングオブコント2024の感想


ロングコートダディ (花屋)

 花屋に花束を買いに来た客。「花のことはよくわからないのでおまかせします」と言いながら、できあがった花束にケチばかりつけて……。

 花屋という設定、花束だけの必要最小限のセット、芝居の枠を出ない抑えめかつ辛辣なツッコミと、とにかくおしゃれなコント。おしゃれでありながらトップバッターで大きな笑いをとるパワーも隠し持っている。そして平気で人の神経を逆なでしそうなことを言いそうな兎さん、弱気そうな見た目でずばっときついことを言う堂前さんという当人たちのキャラクターにもあっているすばらしいコント。審査員をうならせるセンスと観客受けするベタさを兼ね備えている。

 とことんうざい客(でも現実にいそうなちょうどいいライン)の言動に対して、花屋の店員という立場を守ったまま花言葉で返す店員。それにもひるむことなく「こっちが譲ってやる」とばかりに偉そうな立場を崩さない客。目に見えない火花が飛び交うようなせめぎあいが見事。この客のような人間はどこにでもいて、誰しも「明確な指示を出せないくせにアウトプットにだけとにかくケチをつけるクライアント(あるいは上司)」に辟易した経験があるからこそ、花屋の店員の反撃に溜飲が下がる。不快でありながら胸がすっとする。

 終盤でドラマチックな展開を用意しながらも安易なハッピーエンドに持っていかず「まだマイナスです」と赤裸々かつ婉曲的な表現のオチ。一から十まですばらしいコントだった。


ダンビラムーチョ (四発太鼓)

 一曲で四発しか打ってはいけないという謎のルールのある伝統芸「富安四発太鼓」を披露する中年男性とそれを見物する若い男。

 四発しか打てないという謎設定もばかばかしければ、早々に三発打ってしまうのもばかばかしい。カッカッカッで使ってしまうのもばかばかしいし、うっかりバチが当たってしまうのもくだらない。とにかくばかばかしいコントでありながら音響スタッフに対して厳しい、そのせいで仲間が減っているなど背景が見えてくる細かい設定もニクい(審査員の山内さんが指摘していたけどイヤな腕時計もいい)。二人の顔や体形が田舎の祭りにいるおじさんと純朴な学生っぽい感じなのも高ポイント。

 終盤の観客が参加するあたりからは予定調和的な流れだったかな。本当は五発以上叩きたかったという心情を吐露するあたりは好きだった。

 ロバートの秋山さんが高得点をつけていたのが印象的。たしかにロバートのコントっぽい設定だよなあ。

 あまり頭を使わずに観られるネタだったので、序盤じゃなくて10本目とかの疲れてきた時間帯に見たかったな。


シティホテル3号室 (テレビショッピング)

 テレビショッピングで、商品メーカーの社長が止めるのも聞かずに司会の芸人が暴走してむりやり値下げをさせてしまう。とおもいきや、それすらも社長の書いた筋書きであることが明らかになり……。

 うーん。最近よく見る「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」だけど、その意外性のレベルが低かったな。正直、予想の範疇だった。「実はシナリオ通りでした」はキングオブコントの舞台だけでも、しずるやザ・マミィも披露しているし。

 本当の設定が明らかになった後の展開も「この設定だったらこれぐらいやるだろう」と観ている側が想像する範囲。審査員には芝居がうまいと言われていたが、種明かしが中心なので言動がすべて説明的でまったくうまいとおもえなかったなあ。

 劇中劇のシナリオについて言及するネタって、よく考えられている風に見せられる反面、台本の余白が少なくなっちゃうんだよな。


や団 (一万円札)

 職場の休憩スペースで、財布から一万円札がなくなっていることが発覚。正義感の強い同僚が犯人探しをはじめるが、正義感の強さゆえに海外の麻薬捜査官のような厳しい取り調べをしだして……。

 おもしろい。かなり無理のある設定なのだが、熱量とディティールの細かさで押し切ってしまう。つくづく力のあるトリオだ。三人のキャラクターも浸透してきて、受け入れられやすくなった。

 しかし、どうしてもや団がキングオブコント初登場時に披露した「キャンプ」のネタを想起してしまう。ネタの構造がほとんど一緒なんだよな。そしてキャンプでは伊藤さんの狂気にくわえて「埋められそうになっているのにネタばらしをしようとしない」中嶋さんの異常さも光っていたが、このネタでは捜査に協力的な中嶋さんはそんなに異常ではない。「自分の潔白を証明したい」という動機が理解できるから。このネタもいいネタなんだけど、「キャンプ」が印象的だったがゆえにどうしても比べてしまう。

 本筋だけでなく、子どもの描いた絵、誕生日といったディティールもうまく使い、ラストで真犯人が明らかになることでもう一度見え方がひっくりかえるという隙のない構成。トリオでしか表現できないコントだった。


コットン (人形遊び)

 公園で人形遊びをしている子ども。その演技があまりにも真に迫っているため、隣で聞いていた老人もだんだん引き込まれていき……。

 まず、今こういうネタをやるのか、と驚いてしまった。悪い意味で。人形劇ネタといえば、二十年以上前にFUJIWARAや次長課長がよくやっていた印象で、つまり「古い」。お医者さんコントと一緒で手垢にまみれているので、よほど新しい切り口がないと厳しい。それもいろんな人形劇コントを見てきた歴戦の芸人審査員の前で。

 で、新しい切り口があったかというと……。何もなかった。観ている人が劇中に入り込んでしまうのも予想通り(逆にそれをしない人形劇コントのほうがめずらしいのでは)。

 たしかに西村さんの芝居はうまい。が、劇中劇のシナリオのほうが目も当てられないほど平凡。幼なじみの男女、悪くてかっこいい先輩、実は女たらしで人の心のない最低なやつ、それに迎合する舎弟、何から何まで「どっかで何度も見たことある」ストーリーだ。みゆき、というヒロインの名前も含めてまるで知恵を絞った形跡がない(どうでもいいけどコントに出てくる女性の名前はみゆきが圧倒的に多いのはなんでだろう。ネルソンズとか毎回みゆきだ)。そして観客が人形劇の世界に入り込んでしまうという設定も、人形劇コントの定番。

 これは教養の問題だろうな。明るくて、見た目もよくて、芸達者で、周囲から愛されるコットンというコンビの最大の弱点といっていいかもしれない。

 よく知らないけど、たぶん彼らは努力家で、たくさん他の芸人のコントも見てきたのだろう。ただコント以外の教養が感じられない。たくさん映画を観たり、いろんな小説を読んだり、成功しなかった人と会って話をしたり、あるいは孤独の中で妄想を膨らませたり、そういうバックボーンが感じられないんだよな。だから「どこかで見聞きしたような話」しか展開できない。題材はテレビの世界の中にあるものだけ。

 一般審査だったらこのコントのウケはかなり上位だったんじゃないかとおもう。ただ「どうやったらこんな発想思いつくんだ」とうならされれるようなものをぼくはひとつも感じなかった。演者としてはすごい二人なんだけど。


ニッポンの社長 (野球部)

 強豪野球部に入ってきた新入生。守備もバッティングもピッチングも言うことなしだが、声が小さいという理由で監督にしごかれる……。

 上に書いた説明がストーリーのすべて。なのだが、めちゃくちゃおもしろい。むちゃくちゃだし、最初の「声小さいねん」以降は基本的に同じことのくりかえしで大きな裏切りもないのだが、なぜか笑いが増幅してゆく。

 声を張らない辻さんのツッコミ、風貌に似合わない野球センスとどれだけひどい目に遭ってもかわいそうに見えないという摩訶不思議な能力を持ったケツさんのパワーが存分に発揮されていた。いちばんゲラゲラ笑えるコントだった。

 そして風刺も感じる。野球部ってこういうとこあるもんな。どれだけいいプレーをしても、見せかけの元気がなかったら評価されない。勝利よりもフェアプレーよりも選手の成長よりも、監督や先輩の満足感のほうが優先される。ぼくがいた高校でも「バントのサインを無視して打ちにいって長打になったのに監督から叱られてスタメンを外された」部員がいた。うーん、野球部。


ファイヤーサンダー (毒舌ツッコミ)

 『毒舌散歩』という番組で待ちゆく人々に口汚いツッコミを浴びせた芸人のもとに刑事が訪ねてきて「警察に来てほしい」と告げる。刑事によると、芸人が番組内で口にしたツッコミがことごとく的中していて……。

 こちらも「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」。ただ、この手のコントを数多く手がけているファイヤーサンダーだけあって演出が見事。「警察に来てほしい」というミスリードでしっかりと緊張感を高めて「毒舌が過ぎて起訴されたのかな」と思わせておいて、「本当にそうでした」の一言で見事に裏切る。スカウトだったことを明かした後も「あの日の阿佐ヶ谷」「巡回」「たとえすぎた」などのフレーズでしっかりと笑いを重ね、刑事の裏の顔に迫る展開でファーストインパクト頼りにしない。とはいえ、それだけやってもこの手の種明かし系コントはどうしても尻すぼみになってしまうんだけど。

 構成がよくできてはいるが、惜しむらくはこてつさんの芝居。わかりやすさ重視のコントの芝居って感じで、どう考えても毒舌芸人として人気が出るタイプじゃない。

 ファイヤーサンダーの脚本をコットンが演じたら最強かもしれんな。


cacao

 部員二人しかないためグラウンドが使えない弱小野球部。しかたなく狭い部室内でキャッチボールをするがどんどん上達してゆき……。


 フレッシュで動きがあって見ていて楽しいんだけど、これはコントというより創作ダンスだよなあ。上手で楽しいダンスでした。


隣人 (チンパンジーと同居)

 チンパンジーと同居しているおじいさん。どんどん知恵をつけていって機械音声を使って人間くさい会話までできるようになったチンパンジーに恐怖を感じるようになったおじいさんが、チンパンジーに出ていくように命じるが……。

 ん-、どうも中途半端。じっさい賢いチンパンジーは人間とコミュニケーションとれるしなあ。機械音声を使ったら、チンパンジーがすごいのか機械音声のほうがすごいのかわかりにくくなるし。異常な世界でもなければ、すごくリアルでもない。

 そして、おじいさんが冷淡すぎる。長年いっしょに住んだチンパンジーをいきなりあんな感じで追いだすだろうか。目も合わせずに今から出ていってください、ってひどすぎない? 別れがつらいからわざと冷淡にふるまってる設定なのかとおもいきや、そういうわけでもなさそうだし。

 十年一緒に生きてきてはずの背景がまるで感じられない。誰もが認めるチンパンジーコントの第一人者にしてはちょっと細部をおろそかにしすぎてないか。


ラブレターズ (どんぐり)

 息子が引きこもって家から一歩も出ようとしないことを嘆く両親。だが息子の服のポケットからどんぐりが出てきたのを見つけ、息子が外に出ているのでは? と希望を持ちはじめる……。

 よくできた脚本だとはおもう。スリリングな展開に似つかわしくないどんぐりという小道具がいい味を出している。どんぐりは腐るかどうかで時間を使う必要はなかったんじゃないかとおもうが、ぶちまけられるどんぐりは見ごたえがあった。

 でもなあ。芝居がよくない。昨年の『結婚の挨拶』のネタもそうだったが、いきなりピークに達しちゃうんだよな、ラブレターズとジャングルポケットは。突然声を張り上げちゃう。0からすぐ100のテンションに達しちゃう。

 息子が聞いているかもしれない状況であんな大声を張り上げるわけないじゃない。疑惑が確信に変わったところでおもわず大きな声が漏れてしまって妻にたしなめられる、ぐらいにしてほしい。

 悪い意味で熱量がすごくて、何を言っているのか聞き取りづらい部分もしばしば。あの夫婦が背負ってきたはずの年月が感じられなかった。




 以下、最終決戦の感想。


ラブレターズ (海辺)

 海辺にいる女性に外国人男性が声をかけたところ、女性がスキンヘッドであること、ジュビロ磐田の熱狂的すぎるサポーターであることが判明し……。

 海岸、流木、スキンヘッドの女性、日本語がうまいことを鼻にかける外国人、ジュビロ磐田のサポーター、願掛けのバリカン、釣りで大物がかかる……と、とにかく要素詰め込みすぎなコント。たぶん意識的にやっているのであろう。

 あえてコントのセオリーからはみだすことで狂気的な世界を表現したかったのだろうけど、伝わってくるのは「狂気的なものを表現しようとしている姿勢」だけ。内面からにじみ出てくるような異常さはまるで感じない。

 昔、付き合いで大学生の小劇団の演劇を観にいったことがあるが、ちょうどこんな感じだった。わけのわからないものが次々に現れ、常識の埒外にある登場人物がわかりやすく己の非常識さを説明してくれる。「ああ、シュールレアリスムをやりたいんだな」とはっきりわかる演劇だった。


ロングコートダディ (ウィザード)

 呪いを解くために、石の魔物に宝玉を捧げる冒険者。だが魔物の腕にかけるのではなく、台座に置くのが正解。そのことを伝えようとする魔物だが、冒険者に言葉が通じず悪戦苦闘……。

 言葉が通じなくてもどかしい、という一点で勝負したネタ。魔物語が日本語と真逆の意味になる、日本語の音に近いなどの変化をつけてはいるが、どうしても単調な印象はいなめない。モニターを使うだけならいいが、観客がモニターを見て笑う形になってしまうのは、ロングコートダディの魅力を失わせてしまっている。

 一本目のネタが「シンプルなセットで表層に表れない複雑なコミュニケーション」を描いていたからこそ余計に、「大がかりなセットで単純なディスコミュニケーション」を笑いにしたこのコントが軽く感じられてしまった。せめて魔物が顔を出して表情を伝えてくれていたらなあ。


ファイヤーサンダー (全裸マラソン)

 九人しかいない野球部が甲子園を目指していることをバカにする不良生徒。「おまえらが甲子園に出られたら全裸でフルマラソン走ってやるよ」と笑う不良生徒だが、翌日から全裸マラソンに向けての練習をはじめる……。

 これまた「開始1分で設定が割れる」系コント。設定判明後も全裸マラソン用のフォーム、校長にかけあうなどの展開を用意してはいるが、ファーストインパクトよりは見劣りした。右肩下がりの印象。終盤の不良生徒がチームに加わる展開も、すでにいいやつであることが判明しているので驚きはない。

 一本目がサスペンス展開だった分、こちらは平坦なまま終わってしまった印象。




 審査に関しては……。まあ言いたいことはいろいろあるけれど、言ってもしかたのないことなので書かない。

 人間が審査してる以上、好みで結果が決まるのはしょうがない。

 初期のキングオブコントに比べれば、明らかに全体のレベルは上がっている。「わかりやすく変なやつが出てきて変な言動をする」みたいなコントはほとんど見られないし、うならせるアイディアを二つも三つも放りこむネタが増えている。

 上位に関してはもうほとんど差はない。ネタ順とかその日の客層とかでぜんぜんちがう結果になっていただろう。百点満点でシビアに点をつけることに意味があるのか、という気もする。各審査員が三組ずつ選ぶ、とかでもいいんじゃなかろうか。


 だから。もう勝敗はどうでもいいからネタ数を増やしてくれ。結局好みの問題でしかないんだから審査員コメントの時間を削ってネタ時間を増やしてくれ。

 特に今年は審査員コメントパートがひどかった。「コメント二周目」のやりとりを何回やるんだ。松本さんがいない分、浜田さんがボケなきゃと気負っていたのかなあ。

 あんなに時間があまってるならその分ネタ数を増やしてほしい。できれば初期キングオブコントのように全組二本ずつ。絶対に二本できる確証があれば冒険的なネタもできるし、強いネタを後半に置いとくこともできる。

 M-1のように競技性を高めるんじゃなくてお祭り感を強めるほうに向かってほしいな。二本目のためにセットを作っている大道具担当がかわいそうだし。二本目に用意していたのに披露できなかったネタ、芸人は他の場で披露すればいいけど、セットは日の目を浴びることなく壊されるわけでしょ。エコじゃない。


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2024年10月9日水曜日

【読書感想文】ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。 』 / 経済に関心の強い大人の娘向け

父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

ヤニス・バルファキス(著) 関美和(訳)

内容(e-honより)
元財務大臣の父がホンネで語り尽くす!シンプルで、心に響く言葉で本質をつき、世界中で大絶賛されている、究極の経済×文明論!

 ギリシャの財務大臣だった経済学者が、娘のために書いた(という形の)経済の本。

 同じく娘を持つ父親として、お金について教える参考になるかと思って読んだのだが……。正直言って「娘に教える」という点ではほとんど参考にならなかった。てっきりうちの娘(11歳)ぐらいを想定しているのかとおもったが、この本の内容を理解できるのは少なくとも大学生以上じゃないかな……。まあ何歳になっても娘は娘なんだけど……。



 前半は少し退屈。

 というのも、世界的ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』『サピエンス全史』あたりのただの要約だったから。

 お腹を空かせて泣きながら眠りにつく子どもたちがいることに、君は怒っていた。だけどその一方で、(子どもはみんなそうだが)君自身はおもちゃや洋服やおうちを持っているのを当たり前だと思っているはずだ。人間は、自分が何かを持っていると、それを当然の権利だと思ってしまう。何も持たない人を見ると、同情してそんな状況に怒りを感じるけれど、自分たちの豊かさが、彼らから何かを奪った結果かもしれないとは思わない。貧しい人がいる一方で、金持ちや権力者(といってもだいたい同じ人たち)が、自分たちがもっと豊かになるのは当然だし必要なことだと信じ込むのは、そんな心理が働くからだ。しかし、金持ちを責めても仕方がない。人は誰でも、自分に都合のいいことを、当たり前で正しいと思ってしまうものだ。それでも、君には格差が当たり前だとは思ってほしくない。

 大人になると慣れて麻痺してしまうんだけど、使いきれないほどの財産を持っている人がいる一方で、今日の食べ物がなくて飢えて死んでしまう人がいるのはやっぱりおかしい。べつに前者が優秀で後者が怠惰だったから、というわけでもない。世界の大富豪と呼ばれている人たちだって、生まれる国や時代が違っていたら、ずっと貧しいまま死んでいっただろう。

 なぜ格差は広がるのか。様々な研究が、農耕の始まりが貧富の差を生んだことを明らかにしている。

 狩猟採集社会では格差は生まれない。みんなで協力して獲物を狩り、みんなに分け与えるから。狩りで活躍した人は多めに分け前をもらうぐらいの差はあるが、大きな格差にはならない。なぜなら狩猟採集社会の基本は「今日明日食べる分を今日集める」であり、貯蔵可能な食糧や財はほとんどないからだ。

 人類が農耕をはじめたことで余剰の富が生まれ、それを交換するための貨幣がつくられた。そして貨幣経済の誕生とともに借金が生まれた。

 借金というシステムこそが、人々が貨幣を中心に行動することを決定づけたものだった。

 金融機関の役割とは何だろう?
 銀行は、貯金があってもすぐに使う予定のない人たちと、貯金がなくおカネを借りる必要のある人たちのあいだに立って、両者を結びつける。預金者からおカネを預かり、借り手にそのおカネを貸し付けて利子を取り、預金者には少しの利子を支払い、その差で儲ける。最初はそれが銀行の仕事だった。だが、いまは違う。
 たとえば、ミリアムという女性が自転車を製造しているとしよう。ミリアムは銀行に5年の返済期限で50万ポンドの借金を申し込んだ。炭素繊維でより軽く強い自転車のフレームをつくりたいからだ。
 ここで質問。銀行はミリアムに貸す50万ポンドをどこで見つけてくるのだろう?
 早合点しないでほしい。「預金者が預けたおカネ」は不正解。
 正解は「どこからともなく。魔法のようにパッと出す」。
 では、どうやって?
 簡単だ。銀行の人が5という数字の後にゼロを5つつけて、ミリアムの口座残高を電子的に増やすだけ。ミリアムがATMで残高を見たら、「50万ポンド」という数字がスクリーンに映し出される。ミリアムは飛び上がって喜び、すぐにそのおカネを材料の仕入先に送る。そんなふうに、どこからともなく50万ポンドがパッと目の前に現れるのだ。

 物々交換の社会ではこうはいかない。

 物々交換社会でも、貸し借りはできる。「腹が減ってるけど食い物がないからリンゴをくれないか。今度魚が取れたらあげるから」という約束は可能だ。だが、持っているもの以上には貸せない。リンゴを五個しか持っていない人が十個貸すことはできない。

 貨幣経済ではそれが可能だ。べつにコンピュータの誕生によってできるようになったわけではない。大昔から、貨幣ができたときから、信用によって持てる分以上の貸し借りができたと著者は説く。

 こうして財産は無限に増えることが可能になった。絶対に返してもらえるという信用さえあれば、何百億円という額の借金ですら可能だ。その人が一生働いても返せないぐらいの金を借りることもある。冷静に考えればすごく異常なことだが、すっかりあたりまえになっている。

 誰だったか忘れたが、事業で失敗して何十億円という借金を背負った人の話を聞いたことがある。その人は「何百万円の借金なら、働いて返せとか臓器を売って返せという話になるが、何十億も借金があるとどうせ返せるわけがない。返せないほどの金を貸したほうが悪い。だから小さい借金なら貸したほうが強気に『返さんかい』と言ってくるが、大きな借金を抱えていると立場が逆転して『お願いですから返してくださいよ』となる。殺すぞと脅されたって、殺したら金が返ってこなくなるんだから殺せるわけがない。気楽なもんよ」みたいなことを言っていた。

 なるほど、マイナスが大きくなりすぎると逆にプラスに転じるのかと感心したものだ。貨幣経済のバグ技だ。

 といってぼくにはそんな借金を抱えるほどの度量もないし、そもそも大金を借りられるほどの信用もないんだけど。



 「未来は機械が何でもやってくれるので人間が働かなくて済む」という未来予想がある。昔のSFによくあったやつだ。残念ながら2024年現在、まだまだ人間は働かないと生きていけない。

 いったいいつになったら働かなくても生きていける世の中になるんだ!

 現実には、次のような展開になる。借金で最新の機械に投資していた起業家は、あてにしていた利益が実現できないことに気づく。多くの製品価格が一斉にコストを下回ると、競争力がなく効率の悪い企業は大きな損失を出して倒産する。銀行に借金を返済できない企業が増えると、それが引き金になって先ほど話した一連の出来事が起きる。つまり、経済の循環が止まり、経済危機が起きる。経済危機が起きると、人も機械も余るようになる。不要になるのだ。この時点で生き残っている起業家はふたつのことに気づく。ひとつは、多くのライバル企業が倒産して、競争が減ったこと。生き残った企業は少し価格を上げることができ、事業が少し上向きになる。もうひとつは、機械を買うより人間を雇うほうが安上がりになること。人間は食べていかなければならないので、どんな賃金でも仕事につこうとする。不況の最中に、人間は雇用主にとって魅力的な労働力になり、機械に奪われた仕事をいくらか取り戻すようになる。実際に、2008年の金融危機に続く最悪の世界的不況の中で、人間の労働力は国際市場において大々的に復活した。

 ううむ。経営者が機械化・自動化が進めても、価格競争が起こるので大して儲かるわけではない。従業員の解雇が進み、残った従業員の負担が増え、経営者も儲からない。誰も得をしない。

 おまけに解雇が増えれば市場の購買力は落ち、商品は売れなくなる。企業はより儲からなくなる。倒産も増える。失業者も増える。

 すると、機械を使うよりも人間を使ったほうが安くなる。動作を止めて置いておける機械とちがって食っていかないと死んでしまう人間は、いざとなったら安い賃金でも働くから。そして雇用が増え、市場の購買力はまた回復してゆく……。

 ううむ。なんともせちがらいスパイラルだ。いろんな発明が生まれて世の中はどんどん便利になっているはずなのに、我々の暮らしはちっとも豊かにならない。機械があれこれやってくれるようになるほど、我々は必要とされなくなるのだ。必要とされるのは、機械より安く働く人だけ。つらい。



 技術が進歩しても、人々は幸福になれない。それはやはり社会の仕組みに問題があるからだろう。

 すべての人に恩恵をもたらすような機械の使い方について、ひとつアイデアを挙げてみよう。
 簡単に言うと、企業が所有する機械の一部を、すべての人で共有し、その恩恵も共有するというやり方だ。たとえば機械が生み出す利益の一定割合を共通のファンドに入れて、すべての人に等しく分配してはどうだろう?それが人類の歴史をどんな方向に変えていくか、考えてみてほしい。
 いまのところ、自動化の増加によって、全体の収入の中で労働者に向かう割合は減り、ますます多くの富が機械を所有するひと握りの人たちのポケットに入るようになっている。ここまでに説明したように、富の集中が極まると、大多数の人たちは使えるおカネが減り、ものが売れなくなる。
 だが、利益の一部が自動的に労働者の銀行口座に入るようになれば、需要と売上と価格の悪循環が止まり、人類全体が機械労働の恩恵を受けられる。

 すごく単純に言うと、金持ちが富を独占するのをやめてみんなに配るようにすれば、みんな等しく幸福になるということだ。

 むずかしいけど、決して不可能なことではないとおもう。

 少し前に読んだ『格差は心を壊す ~比較という呪縛~』によると、格差の大きな社会は、格差の小さな社会に比べてすべての階層で幸福度が下がるのだ。大きな格差は、貧しい人だけでなく、金持ちをも不幸にするのだ。

 格差が小さくなれば、社会全体の購買力も上がる、将来への不安が小さくなるので経済が回る、貧困層の犯罪が減って治安が良くなるなど、社会全体にとっていいことづくめだ。


 考えるべきは「どうやったら経済成長するか」じゃなくて「どうやったら格差を縮められるか」なんだろうね。


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2024年10月4日金曜日

【読書感想文】リチャード・ウィルキンソン ケイト・ピケット『格差は心を壊す ~比較という呪縛~』 / 格差社会は金持ちにとっても損

格差は心を壊す

比較という呪縛

リチャード・ウィルキンソン(著) ケイト・ピケット(著)
川島睦保(訳)

内容(e-honより)
「金持ち」だって幸せになれない。息苦しいすべての人へ。全英ベストセラー『平等社会』の著者、待望の続編。500超の文献と国際比較データを駆使した渾身の研究。


 タイトル通り、格差社会にどれほどのデメリットがあるかを示した本。

 様々な統計を元に、格差がもたらす弊害を明らかにしている。

 あたりまえだが、格差社会において下の階層(いわゆる負け組)は悲惨な思いをする。健康状態も悪いし、幸福度も下がる。そんなことはみんな知っている。意外なのは、上の階層(勝ち組)ですら、いい思いをするわけではないということだ。

 調査の回答者は「私は職業や所得のせいで周囲から見下されている」というステートメントにどれだけ賛成するか、それとも反対するかを尋ねられる。この文章は、各国の人々が社会的地位やそれを巡る競争を多少なりとも気にかけているかどうかを知るうえで、適切な示唆を与えてくれるように見える。
 研究者によれば、上記の文章に賛成あるいは強く賛成すると答えた人の割合が国によって大きく異なる。すべての国において、所得階層が下がるにつれて地位への劣等感が増大した。また予想されたことだが、所得階層の上位に属する人々は底辺の人々に比べ地位への劣等感が小さかった。
 しかし不平等な国では、地位への劣等感がすべての階層で大きくなっていた。私たちの想定通り、所得格差が拡大すればすべての階層で社会的評価への不安が増大していた。不平等の拡大によってすべての人々が、社会的地位や自分が他人からどう見られているかについて不安を強く感じるようになるのである。
 スターリング大学の心理学者であるアレックス・ウッドと彼の同僚は、社会的な地位の重要性について別の考察も行っている。彼らによれば、社会的な地位が心の健康にとって重要な役割を果たすのであるなら、地位の尺度や指標である所得も心の健康とも関連しているはずだ。所得の多寡は、主に社会階層のどこにあなたを位置づけるかという点で重要な指標である。
 彼らは英国の3万人という大規模なサンプルと統計モデルを活用して、所得の絶対水準と所得の序列を比較してみた。年齢、性別、教育、結婚状況、自宅所有の有無などの諸要因を調整した後でも、精神的な苦痛の代理変数としては所得の絶対水準より序列の方が優れていた。彼らはまたある時点での個人の所得の序列は、当初の精神状態がどうであれ、翌年の精神的な苦痛の変化と関連があることを発見した。自殺を考え試みた人についても、同じことが言えた。所得分布のどこにランクされるかは、どのくらいお金を稼いだかよりも重要だった。同様のことは、米国の研究でも確認された。うつ症状悪化の長期的な先行指標になるのは、所得の絶対的な水準よりも社会的な序列だった。

 同じような経済状況の国や地域同士を比べたところ、格差の大きい社会ほどすべての階層において地位に対する不安度や劣等感が高かったとのこと。

 格差社会であれば貧しい人はみじめなおもいをするし、中流以上の人間も「いつ下層に転落するかわからない」と不安になることで幸福度が下がる。下層はもちろん、中層も上層も誰も得をしない。


 特に研究者は、不平等な社会の人ほど他人に対して厳しい見方をしているのではないかという点を調べてみた。年齢、教育水準、都市化の進行度、平均所得、少数民族の比率などの違いを調整した後でも、調査の結果は事前の予想通りだった。他人に対する好感度では、米国の不平等の大きな州が小さな州を大幅に下回っていた。同様の結果は、オックスフォード大学の心理学者、マリー・パスコフの研究でも得られている。彼女によれば、欧州では不平等な国ほど、金持ちも低所得者も、近隣の住民、高齢者、移民、病人、障がい者に手助けをすることに消極的だ。パスコフと彼女の同僚たちはまた、不平等の大きな国では出世のために懸命に努力するよりも、不平等によって前途に大きな困難を感じた結果、やる気をなくしているようにみえるとも報告している。

 幸福度だけではなく、格差の大きな社会ほど健康状態が悪化する、子どものいじめが増えるなどの様々な弊害があるという。

 とにかく社会にとって悪いことばかりだ。

 しかしデータによれば、不平等が強まるにつれて地域社会の絆や生活は弱体化し、殺人発生率で測った犯罪は増加していく。南アフリカやメキシコのような不平等の激しい国では、いたる所で相互信頼や互恵主義が後退し、それに代わって人に対する恐怖心が高まっている。住宅は高い塀で囲まれ、塀の上にはカミソリワイヤーや電気柵が取り付けられている。窓やドアは鉄格子で覆われている。観光ガイドブックは旅行者に夜間の外出は控えるよう警告している。
 こうした人に対する信頼感から不信感への変化は、不平等が人間社会にもたらす害悪の本質を明らかにしてくれる。不平等はこうした破滅的な変化を人間の社会関係にもたらしている。それを示す全く別の研究もある。所得格差が広がるにつれて(警備員、警察、看守のような)警備〟サービス部門で働く労働者の割合が高まっているという。こうしたサービスは人を他人の脅威から守る仕事だ。不平等の異常な高まりが人間の社会関係に与える悪影響ほど、生活の真の豊かさにとって危険なものはない。

 格差が広がれば犯罪の発生件数は増える。これは、貧しい人はもちろん、金持ちにとっても大きな損だ。防犯にコストを払わねばならないし、どれだけ金をかけたって百パーセント防ぐことはできない。

 大きな格差のあるアメリカのような社会で持たざる者が持てるものに対して一矢報いようとおもったら、銃乱射事件を起こす、みたいなやりかたになってしまう。

 どれだけ金を持ってても無差別殺人に巻き込まれたら意味がない。ほどほどに格差を小さくしておくのが、すべての人にとって得策だといえるだろう。



 国家や州のような大きい単位だけでなく、会社、部署といった小さな単位でも格差は弊害を生むそうだ。

 労働者を少人数のグループに分け、各グループのメンバーの賃金をすべて同じにすれば、生産性が上昇することを示す証拠がある。インドで378人の労働者を対象とした実験では、グループのメンバーの賃金を同じにした場合と格差を付けた場合のパフォーマンスの比較を行った。それによると、賃金に格差をつけたグループは、格差のないグループに比べ、生産性が大幅に低下し欠勤も増えた。

 そりゃそうだよね。

 二十年ぐらい前は「成果主義」という言葉が流行っていた。もう今ではほとんど聞かれなくなったところを見ると、うまくいかないことにやっとみんな気が付いたんだろう。

 仕事によって給与に差をつけられて「この差を逆転できるようがんばって仕事をしよう」となる……わけがない。「なんでおれがこんな評価なんだよ。見る目のない上司の下でやってても無駄だから転職しよう」となるか「上司に気に入られれば給与が上がるのか。よし、利益を生むための行動じゃなくて上司に気に入られるための行動をしよう」となるかしかない。

 成果主義がうまくいくとしたら、社員のあらゆる行動を四六時中見ることができ、それが何をもたらすかを完全に理解し、一切の私情を挟まずに評価できる全智全能の神が上司になるしかない(そして上司が全智全能であることを部下は知っていないといけない)。もちろん上司は神ではないから(もしくは上司が神であることを我々が知らないだけか)、成果主義はうまくいかない。足の引っ張り合いにもなるし。

 ほんと、社員全員(理想を言えば経営者も)の給与を同額にして、業績が上がれば全員の給与を同じだけ上げます、ってのがいちばんモチベーションが上がるかもしれない。

「あいつは俺より仕事をしてないくせに同じ給料をもらってるなんておかしい!」ってなことを言いだすやつが、いちばん生産性を下げてるんだよな。



 格差は心身の健康に影響するけど、重要なのは、絶対的な裕福さ(衣食住に困らないかとか、高等教育を受けられるかとか)よりも相対的な格差のほうが影響するということだ。

 GDPが増えるとかそんなのは何の関係もない。市民にとって大事なのは「隣の人よりも著しく貧しくないか」なのだ。

 私たちが社会的地位の低下を何とか回避してきた経緯を考慮せずに、貧困や不平等の影響を正しく理解することはできない。私たちの進化心理学の立場からすれば、地位低下の恐怖は人類出現以前の順位制時代にまで遡るが、それは現代の不平等社会でも強く生きている社会的地位を維持することの重要性を正しく認識できていない人は、経済成長によって不平等や相対的貧困の問題は解決できると信じ続けている。しかし貧困がもたらす主観的なトラウマを考えると、他人よりも著しく貧しいことは強力なエピジェネティック効果を持っていることを忘れてはならない。

 人間は「地位が周囲より低いこと」にストレスを感じる。江戸時代の金持ちよりも今の生活保護家庭のほうが確実に(物質的には)いい暮らしをしているはずだが、強くストレスを感じるのは圧倒的に後者だ。


 国の所得総額が一緒だとして、ごく一部の金持ちが多くの富を独占するよりも、みんなが等しく所得を得るほうが、どう考えても国の経済にとってはいい。消費も活性化されるし、治安も良くなる。福祉に使う税金も減る。貧しさに起因する病気が減れば医療費負担は減り、労働力は増える。納税額だって増える。いいことづくめだ。

 ポル・ポトみたいな極端な平等主義は論外にしても、もっと平等になったほうがいい。たぶん、みんなうっすらわかっている。持たざるはもちろん、富裕層だって、政治家だって、きっとわかってる。もっと格差を小さくしたほうが社会全体にとってはプラスだと。

 ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』によれば、自由な競争が阻害された社会ではイノベーションが起きづらく、国力が衰退するとある。どう考えたって格差が小さいほうがいい。

 じゃあなんで格差縮小が実現しない(それどころか拡大する一方)のかというと、たぶんみんな不安なんだろう。他人を信用できないんだろうね。「不労所得、金融資産にたくさん税金をかけて、高所得者の所得税を引き上げて、相続税も高くして、課税逃れに対しては厳罰を科したほうがいい社会になる」ってみんなわかってはいるけど、でもそれをやったところで「俺以外の誰かは抜け穴を見つけていい思いをするんじゃないか」「うちの国がそれをやったところで他の国が金持ちを優遇して、金持ちや大企業はそっちに逃げちゃうんじゃないか」って疑心暗鬼になってしまい、結局格差を小さくできない。

 みんなびびってるんだよな。どうせ大企業や金持ちは逃げないのにさ(国外に逃げる金持ちもいるんだろうがそういうやつはどっちみちあの手この手で税金の支払いから逃れるから関係ない)。

 あと、格差を小さくするための最も効果的な方法は「税金による富の再配分」なんだけど、貧しい人ほど増税に反対するからなあ。税金が増えれば、貧しい人ほど得をするのに。

 悪いのは税金をとられることじゃなくて、使われ方が不平等なのに、なぜかみんな税金をとられることには文句を言うくせに使われ方はあんまりチェックをしないんだよな。


 ということで、格差の小さい社会になってほしいと心からおもう。とりあえず意図的な脱税や納税逃れの刑罰をもっともっと大きくするところから。だって税を納めないって国家に対する反逆でしょ。内乱罪なんだから、最大で死刑ぐらいの刑罰があってもおかしくないとおもうけどな。

 罪が軽すぎるから「ばれても追加徴税ぐらいだったらやってみたほうがいいや」ってなっちゃうわけだし。最低でも懲役、ぐらいにしとけば意図的脱税をするやつはほとんどいなくなるとおもうけどな。脱税って社会の仕組みをぶっ壊そうとする行為なんだから殺人級の重罪にしてもいいとおもうけど。



 主張自体には全面的にうなずける本だったのだが、参照されるデータがちょっと怪しかったのが残念。なんというか、データが恣意的に感じたんだよな。

 いろんなグラフが出てくるんだけど、こっちの国別比較データでは日本がない。こっちのグラフからはアメリカが欠けている。……というように、グラフによって国の数がだいぶ違う。

 事情があるのかもしれないけど、その事情を書いてないので「自分に都合のいい主張に持っていくために具合の悪いデータはわざと排除したのかな」とおもってしまう。これはよくないよー。


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2024年9月30日月曜日

【読書感想文】浅倉秋成『六人の嘘つきな大学生』 / 白黒つけない誠実さ

六人の嘘つきな大学生

浅倉秋成

内容(e-honより)
IT企業「スピラリンクス」の最終選考に残った波多野祥吾は、他の五人の学生とともに一ヵ月で最高のチームを作り上げるという課題に挑むことに。うまくいけば六人全員に内定が出るはずが、突如「六人の中から内定者を一人選ぶ」ことに最終課題が変更される。内定をかけた議論が進む中、発見された六通の封筒。そこには「●●は人殺し」という告発文が入っていた―六人の「嘘」は何か。伏線の狙撃手が仕掛ける究極の心理戦!


 就活で大人気企業の最終選考に残った六人。みんなそれぞれ優秀でまじめでユーモアもあり人当たりのいいメンバーばかり。

「六人で話し合って内定者を一人選んでください」というテーマでグループディスカッションをおこなうことに。はじめはそれぞれお互いを讃えあっていたが、メンバーの過去を暴露する封筒が見つかったことで様相は一変。状況から考えて封筒を仕掛けたのはこの六人の中の誰か。はたして“犯人”は誰なのか。残りの封筒に書かれているのは何か。そしてこのグループディスカッションを制する者は誰なのか……。


 就活の場を舞台にしたサスペンスミステリ。以前に根本聡一郎『プロパガンダゲーム』の感想でも書いたけど、だましあいゲームの舞台として就活の選考はふさわしい。なぜなら、現実にいろんなゲームをやらされるから。ディスカッション、ロールプレイング、協力ゲーム。そして就活生は言いなりになるしかないから。

 安い漫画だと「さあここにいる皆さんで殺し合いをしてください」みたいに言われてすんなり話が転がり始めるけど、実際にはそううまくいかなくて、硬直状態が続くとおもうんだよね。デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によれば、銃を持っている兵士のほとんどが、自分の身に危険が迫っているときでさえ敵兵に向かって発砲しなかったのだそうだ。人間の「殺したくない」という意識はすごく強いので、急に加害的にはなれないのだ。

 でも就活という舞台があればけっこう変なことでもできちゃう。引っ込み思案な人が自分の美点について朗々と語ったり、温和な人がやたら攻撃的になったり。なぜなら就活生はほとんど狂っているから。狂わないとやってられないから。だって就活自体が異常な場なんだから。


 何も成し遂げていない学生を集めて「あなたは弊社にどんな貢献をできますか?」と尋ねるとか、どう考えてもおかしいじゃん。

 常識的な人間ならそう聞かれても「いやわかりませんよそんなの。まだ働いたことないんですから」「やってみないとわからないですけど、あんまりお力になれないとおもいますよ」とか言うでしょ。

 でも就活では「はい、私には行動力があり、深い洞察力があります。それを裏付けるエピソードとしては……」みたいな自慢が披露される。狂ってるから。

 新卒採用する側の担当者も頭おかしくなっちゃうんだろうね。何百人、何千人も応募してくるから、えらくなったとおもっちゃう。かぐや姫みたいに「私の心を射止めたかったら私の出す無理難題に答えなさい」と高飛車になっちゃう。



 ということで『六人の嘘つきな大学生』は異常な人が異常なことをしでかす小説なんだけど、人を狂わせる場である就活の舞台を用意することでけっこう調和がとれている。

 あー就活のときだったらこれぐらいおかしなことをやっちゃうかもなーって気になる。ぼくも就活をやっていたのでよくわかる。あのときはほんとに追い詰められてて気が変になってたからなあ。

 それにしても、就活って今考えてみても、本当にキモかったよね。え? 思わない? 私、死ぬほど不愉快だったな……。何って、就活の全部が。もちろん状況的に追い込まれてるから少し周囲に対しての目がシビアになっていたのはあると思うけど、でもたぶんそういうことじゃないよ。未だに思い出すと鳥肌が立つし、何ならね、電車で就活生を見かけるだけでもキモいなぁ、って思うよ。悪いけどね、でも、しょうがないでしょ。キモいもんはキモいんだから。
 あれとか最悪だった、ほら、あの、集団面接とか、グループディスカッションが終わった後に声かけてくる人。この後、ちょっとみんなでお茶でも行きましょうよ、ってやつ。死ぬほど気持ち悪かった。「人脈を作るのって大事ですよね。やっぱりこういう情報交換の時間が貴重ですから」って、ガキ同士でつるんで何が生まれるんだよって、本気で思ったよ。吐き気がしたね、本当。ああいう人たちって会社入ってからどんな顔して働いてんだろ。気になるわぁ。

 実際に就職して何年か経つとあの就活時代が異常だったと気づくんだけど、渦中にいるときはわからないんだよなあ。

 ぼくは何度か転職して面接を受けたし採用側として面接したこともあるけど、就職のときのような「我々があなた方を試します」みたいな雰囲気はあんまりなかった。「あなたはこういうことができるんですね。我々はこの条件を提示できます。お互いに納得すれば入社してもらうことにしましょう」という、いたってまともな“条件すりあわせの場”だった。就活だけが異常なんだよな。就活が金になることを発見した採用コンサル会社が一大イベントにしちゃったからかな。

 特に新卒採用やってる人事担当者がおかしくなっちゃうんだよね。

 当時、どうだった? 大げさに言うわけじゃなく、僕は人事っていうのは、会社の中でもエリート中のエリート、選ばれた社員の中の一握り中のたった一握りだけが配属されることを許される部署だと信じて疑わなかったんだよ。今思えば笑い話だけど、だって、そうだと思わない? 就活生を前にした彼らの、あの尊大な態度。そうでもなければ説明がつかないでしょ。入社してからびっくりしたよ、社内での人事部の立ち位置。誰一人として人事部を花形部署だとは認識していなかった、どころか──それ以上、敢えては言わない。でも、こんな無能どもに生殺与奪の権利を握られてたんだって思ったら、いよいよ殺意が湧いてきたよ。人を見極められるわけないのに、しっかりと人を見極められますみたいな傲慢な態度をとり続けてさ。当時、彼らは何を見ているんだろうって必死になって考えた。この間も言ったとおり、漫画の中みたいに画期的で、だけれども揺るぎようのない絶対的な指標があるに違いないって思い込もうとしてたんだ。間違いを犯さない、裏技があるって。
 でもさ、そんなもの、なかったんだ。あるわけがないんだ。
 すごい循環だなと思ったよ。学生はいい会社に入るために噓八百を並べる。一方の人事だって会社の悪い面は説明せずに噓に噓を重ねて学生をほいほい引き寄せる。面接をやるにはやるけど人を見極めることなんてできないから、おかしな学生が平然と内定を獲得していく。会社に潜入することに成功した学生は入社してから企業が噓をついていたことを知って愕然とし、一方で人事も思ったような学生じゃなかったことに愕然とする。今日も明日もこれからも、永遠にこの輪廻は続いていく。噓をついて、噓をつかれて、大きなとりこぼしを生み出し続けていく。そういう社会システム、すべてに、だね。やっぱりものすごく憤ってたんだ。

 そうだよなあ。ぼくがいた会社でも、新卒採用をする人事担当者って、会社の中でも“何をやってもだめな人”だった。営業で成績が出せず、広報でもとにかく問題を起こし、最終的に「新卒採用でもやらせとくか。どうせ最後は役員面接をするんだからあいつがヘマしても大きな問題にはならんからな」みたいな感じで人事に異動させられてた。考えてみれば当然で、仕事のできる人を利益を生まない部署に配置するはずないんだよね。まあ世の中には優秀な新卒採用もいるのかもしれないが、ぼくが見てきた中にはいなかった。


 人はとにかく人を見抜くのが下手らしい。管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』にこんなことが書いてあった。

 何故か根拠なく、自分は人の噓が見抜けるという〈自己欺瞞〉に掛かる者が多くいることが、心理学実験によって判明している。取調官がこういう根拠のない自信を持つと悲劇が生まれることになる。警察官や裁判官などは経験を積むほど自分は噓を見抜く能力があると思うようになるが、現実には素人と能力は変わらず、しかも噓を見抜く能力があると思っているほど逆に成績が下がることが実験によって証明されているのである。

 就活の場ではほとんどの学生が嘘をついている。その嘘を見抜ける人はいない。経験を積んでも嘘を見抜けるようにはならず、それどころか自信の強い人ほど己の自信に目がくらんで嘘を見抜けなくなるらしい。

 結局、優秀な学生を採用するのに必要なのは“運”ということだ。つまり誰がやってもほとんど一緒。当然、優秀な社員にやらせるわけがない。

 就活の選考方法は多種多様なのが「面接やテストなどで学生の資質など見抜けない」ことの何よりの証左だろう。もし本当に効果のある方法があるのなら、どの会社もとっくにそれを取り入れているはずだから。




 就活についての愚痴ばかり書いてしまった。『六人の嘘つきな大学生』の感想。

 うん、おもしろかった。ネタバレになるのであまり書けないけど。

「誰が封筒を置いた犯人なのか、誰が内定を勝ち取るのか」パートもおもしろかったが、選考が終わった段階で物語はまだ半分。後半は、前半に見えていたのとはまた違う景色が見えてくる。

 白に見えたものが黒であったことがわかり、そうかとおもったら意外と白くてうーんやっぱりグレー、みたいな感じ。


『六人の嘘つきな大学生』は起伏の富んだミステリとしても成立させつつ、はっきり白黒つけないという誠実さも持ち合わせている。すごくむずかしいことをしている。この人は悪い人に見えて本当は善人でした、こいつは実は悪人でしたーってやるほうがずっとかんたんだし、ミステリであればそれも許されるわけだし。

 すごく信頼のおける書き手だね。就活に対する醒めた見方も含めて。


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2024年9月23日月曜日

【読書感想文】管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』 / わざと読みにくくしているらしい

冤罪と人類

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか

管賀江留郎

内容(e-honより)
18歳の少年が死刑判決を受けたのち逆転無罪となった“二俣事件”をはじめ、戦後の静岡で続発した冤罪事件。その元凶が、“拷問王”紅林麻雄である。検事総長賞に輝いた名刑事はなぜ、証拠の捏造や自白の強要を繰り返したのか?アダム・スミスからベイズ統計学、進化心理学まで走査し辿りついたのは、“道徳感情”の恐るべき逆説だった!事実を凝視することで昭和史=人類史を書き換え、人間本性を抉る怪著。

 かつて静岡県警に紅林刑事という人物がいた。数々の難事件を解決したことで三百回以上も表彰を受けた“名刑事”。だが彼が捜査を担当した事件で、後に冤罪であったことが発覚。紅林刑事(およびその部下)が拷問で偽の自白を引き出していたことがわかり、現在では「拷問王」と不名誉な名前で呼ばれることもある。

 そんな紅林刑事が捜査に関わった「二俣事件」などを糸口に、冤罪につながった背景に迫る。



 無罪の人を拷問して自白に導き、真犯人を見逃すことにもなったため紅林刑事は極悪非道な人物だとおもわれがちだ。ぼくもこの本を読むまではそうおもっていた。浜田 寿美男『自白の心理学』という本で紅林刑事の存在を知ったのだが、なんてひどい男なんだろうと憤慨したものだ。きっと、逆上しやすく、知性に欠け、血も涙もない人物なんだろうと。

 ところが著者は、紅林刑事の捜査ミスを暴きつつも、通りいっぺんの残虐イメージもまた誤っていることを指摘する。

 一方の出張ってきた紅林警部補も、二俣署員を配下に加えて捜査を指揮したものの、あくまで自分たちは応援部隊だという建前を守って二俣署員には非常に気を遣っていた。 「誰れもやり手は無いだろうが、一応捜査はしなくてはならんでな。地元である二俣署の人にやって貰いたい。山崎君すまんがやってくれんか」
 仕事を頼むにもこんな調子だった。さらには、捜査方針に疑問を持った山崎刑事の進言を退けるときなどでも威張ったり莫迦にしたりすることはなく 「山崎君、捜査というものはなあ、そう深く考えては駄目だよ」 といった具合に柔らかく丁重に接していることが、紅林警部補を憎んでいるはずの山崎氏の著作『現場刑事の告発』からも読み取れる。
 現代の県警本部の捜査主任でも、捜査方針に口出しをしてきた所轄署の一番下っ端の刑事にこのような接し方ができる者はそうはいないだろう。ましてや、これまで難事件を次々解決して全国に名を馳せている犯罪捜査界の生ける伝説なのである。
 冷血そうに見える顔つきや、数々の拷問冤罪事件によって誤解されているが、紅林警部補は部下の面倒見が大変によく、また慕われており、たとえ小さな町の自治警相手でも気配りのできる人であった。むしろ、こういう周りに良い顔をしたい性格が、部下の働きに報いて自分の評判も高めるために無理やりにも成果を上げようとして、恐ろしい災禍を招いたとも云えるのであるが。

 ここで描かれる紅林刑事は謙虚で人当たりのいい人物だ。さらに知性派刑事であり、正義感の強い人物だったとも書かれる。いくつもの冤罪が知れ渡ったことで彼の刑事としての功績がすべて否定されるようになったが、それもまた逆方向に歪んだ見方であり、実際にまっとうな捜査で解決に導いた事件も多かったそうだ。

 紅林刑事は極悪非道な人物などではなく、むしろ正義感と責任感が強かったがゆえに違法捜査に手を染めてしまったのではないだろうか。

 紅林麻雄刑事が次々と冤罪を引き起こした根本的な原因に、この〈間接互恵性〉を成り立たせる原理である〈評判〉が関わっているのは明らかだからだ。
 紅林刑事は部下思いで誰にでも気配りのできる、〈共感〉能力の人一倍高い人だった。こういう人物が、マスコミにも注目される大事件で大勢の部下を引き連れて捜査をしているのに、一ヶ月以上も犯人を挙げることができず非難を浴びたらどうなるのか。〈浜松事件〉によって実像以上の権威に祭り上げられて、巨大なる虚構の〈評判〉をすでに得ていたらなおさらである。
 しかも、〈浜松事件〉の事例を見る限り犯罪捜査にはあまり向いていなかったようだが、彼の知性は極めて高く、また非常に熱心な性格であった。これらが組み合わさって初めて、あれだけの大掛かりな冤罪事件が引き起こせたのである。
 清瀬一郎弁護士も『週刊読売』で、こんなことを云っている。 「わたしは、紅林君には、なんの恩怨もない。熱心で、頭のよい、有能な刑事にはいる人でしょう。ただ、その方法が悪かった。そこを反省してもらわなくちゃあ」
 一連の冤罪事件でほんとうに怖いのは、紅林刑事が〈共感〉能力の高い、ある意味、善人だからこそ引き起こされた点にある。彼自身は悪を憎み、冤罪被害者をほんとうの犯人だと思い込み、でっち上げの意識は微塵もなかったと思われる。拷問や時計のトリックなども、彼の中では「真犯人」を逃さずにきちんと罰するためなのだろう。
 本書を読んで、自分が被害を受けたわけでもないのに紅林刑事を憎み、罰したいと思った読者諸氏の胸奥から突き上げるであろう感情は、〈間接互恵性〉の進化により人間が身につけた〈道徳感情〉だ。しかし、その同じ〈道徳感情〉が惨憺たる冤罪を生み出したのである。まず、この点を多くの人々が自覚せねばならない。

 このブログでも常々書いているが、正義は暴走する。これはまちがいない。とんでもなく非道なことをするのは、悪ではなく、正義だ。自分は悪だとおもっている人は、ほどほどのところで止める。なぜなら「これ以上やったら捕まるな」「結果的に損しそう」といった計算が働くから。だが正義はとどまることを知らない。どこまでも突き進んでしまう。

 以前、歩道橋の上で通路いっぱいに広がって「盲導犬のために募金をお願いしまーす」とやってる団体がいた。ものすごく邪魔だった。

 きっと彼らひとりひとりはふだんは常識人で「他の人の通行の邪魔をしてはいけない」という意識を持って行動しているとおもう。でも「正義」という大義名分を手にしてしまったとたん、「他の人の邪魔にならないように」なんて意識は己の正義の前にふっとんでしまい、平気で迷惑行為をできる人間になってしまう。

 ほとんどの人は平和を愛しているのに戦争が起こるのも、正義のせいだ。「隣の国を侵略してやれ」という悪意では、戦争のような大きな行動は起こせない。「愛する家族や友人を守るため」「殺された同胞の無念を晴らすため」という正義を掲げたとたん、ふつうの人がどこまでも残虐な行動をとってしまう。正義は法や常識や、もっといえば自分の命よりも強くなりうるので、特攻のような愚かな行動もとってしまう。



 断片的には興味深いことも書かれていたのだが……。

 とにかく読みづらい。話にまとまりがない。時代も空間もテーマもあっちへ行き、こっちへ行く。事実を事細かく並べているかとおもったら、著者の主張が滔々と展開される。

 なんでこんなに読みづらいんだろう。編集者のいない自費出版か?

 とおもっていたら……。

 本書はいくつかの出版社を渡り歩き、紆余曲折のうえに世に出すことができたものです。内容については誰も何も突っ込みを入れてくれなかったのですが、最初の編集者には「とにかく接続詞を入れろ」と、ただそれだけをうるさく云われました。
 仕方がないので、「だから」とか「そのために」とかの接続詞を入れていくと、バラバラだった話がどんどんつながって、ひとつの壮大なる〈物語〉になってゆくのにはいささか参りました。あらゆる事象を因果の織物として捉え、〈物語〉として読み取ってしまう人間の図式的理解を、すべての誤りの素であると批判する本書がそんなことで果たしてよいものなのか。
 もっとも、当方も、従来の冤罪本や歴史書の図式的記述が、それらの本で批判する冤罪事件や歴史的悲劇を引き起こした図式的理解とまったく同じ誤りを犯していたことを喝破する、という程度の〈図式〉は当初から用意して執筆をはじめたのでした。
 人間は、〈物語〉の形で提示しないと何事も理解はできないのですから致し方ありません。一冊でも多くの本を売ろうとする編集者が、バラバラの記述の羅列ではなく、ひとつの連なりとしての〈物語〉を要求するのは当然のことであります。かく云う当方とて、多くの人々に読んでもらいたいと思うからこそ本を執筆しているのであって、理解しやすい図式は用意します。また、読者も思った以上に〈物語〉を求めていることは、前著『戦前の少年犯罪』に対する反響で思い知ったことではあります。

 どうやら編集者は「もっと接続詞を入れてわかりやすく書け」と言っていたのに、著者の意向であえてわかりにくくしていたらしい。わざとまとまりをなくして、物語になるのを避けようとしていたそうだ。

 うーん……。裁判で「裁判員に予断を持たせたくないのでわざとストーリー性を排除した」とかならまだわからんでもないのだが……。でもなあ。やっぱり本として出版する以上は物語性って大事だとおもうぜ。時系列順に並べたり、時間や空間が大きく変わるときは章を区切ったり、接続詞を入れたり。

 物語性を排除した結果、読み終わった後の印象があまり残っていない。これでは元も子もないとおもうぜ。やっぱり何かを伝えるうえで物語性ってのは大事だよ。


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