2024年6月19日水曜日

【読書感想文】小林 初枝『こんな差別が』 / 正義のために闘う人が家族を不幸にする

こんな差別が

小林 初枝

内容(本書裏表紙より)
なぜ差別はなくならないのか
人は、どうしようもなく他人をさげすまなければ生きていけないものなのだろうか。被差別部落に生まれ育ち、差別とたたかって二十年、著者は、今なお、町で、村で、学校で、さまざまな差別を感じている。人びとの心の奥、くらしの中に、深くひそむ差別や偏見を、丹念に掘り起こしたこの本は、人間が作った差別を、人間の手でなくしたいと、訴えてやまない。


 高校司書、主婦をやりながら被差別部落の解放運動に取り組んでいる著者によるエッセイ。1980年刊行。


 ぼくは学校で部落差別について教わったが、住んでいた場所が戦後に開発された住宅地だったこともあり、小中学生時代に直接部落差別を見聞きしたことはなかった。なにしろみんなよそから移り住んだ人だったしね。あの人は以前どこに住んでいた、なんて気にすることもなかった。

 ちょっと身近に感じたのは二回。一度目は高校生のとき。大阪から引っ越してきた友人が「あの××って地域は部落やろ?」と言ったのだ。その××という場所には皮革工場があり、街全体に独特のにおいが漂っていた。ぼくも「あのへんはくさいし汚いな」とはおもっていたが、それと学校で習った部落差別を結びつけて考えたことがなかった。友人から言われてはじめて「ああ、〝部落〟ってのはああいう場所のことか」とおもったものだ。といっても知ったところで何も変わらなかった。××に住んでいる知人がいなかったからかもしれない。

 二度目は大学生のとき。ぼくが「△△にマンション借りた」と伝えると、また別の友人から「そのへんは部落地域で交通事故とか起こすとややこしいことになるから気をつけろよ」と忠告された。その友人とは長い付き合いだったがそういうことを口にする人間ではなかったので、こいつがそんなこと言うんだと驚いた記憶がある。そのマンションには一年住んだがべつにご近所トラブルのようなものはなかった(風通しが悪くて室内に湿気がこもったのには閉口したが)。

 ということで、部落差別については学校の道徳の時間に習った程度の知識しかなく、その道徳の授業についても具体的な事例などはほとんど挙げることなく「住んでいる地域で不当な扱いを受けることがありました。それは良くないことなのでみなさんはやめましょう」ぐらいの抽象的な話しかなかった(具体的に言うとまずいことがいろいろあるからだろう)。

 だから部落差別といってもぼくにとってはどうもナチスのホロコーストとか黒人奴隷とかと同じで、いつかどこかで起こったらしい遠い世界の野蛮な出来事、ぐらいの感覚しか持てないのが正直なところだ。


 この本の著者は被差別部落出身、それも1930年代生まれということで、ごりごりの差別を受けて生きてきたようだ。

 さすがに戦後は様々な法律ができてあからさまな差別は減ったようだが、それでも1970年代の人々の意識の中ではずいぶん生き残っていたようだ。


 知人男性から結婚相手を紹介してほしいと頼まれた著者が、知り合いの女性がいいのではないかと思い、その女性の母親に見合いの話を持ちかける。すると母親は「うちは部落ですけど、相手の男性は了解しているのでしょうか」と心配したという話。

 私は娘の母親の気持ちを、その男性に率直に伝えました。すると、
「エッ、部落の娘ですか。ひと走り行って来ると出たので、もしやという予感がしたんですが………やっぱり……」
「だって、あなたの条件のなかに、部落外の娘に限るなんてなかったでしょう。第一私に嫁さんを世話してくれというからにゃ、部落の娘くらい十分承知の上かと思ってました」
「もちろん、おれは部落の娘だろうと何だろうと、何とも思いませんよ。でも、家族親戚とのつながりがありますからねえ。憲法では、結婚は両性の合意のみによって成立するとうたわれていますが、あれは一種のプログラム規定なんですな。結婚するということは、親、兄弟、身内、社会とのつながりがあるなかにあって、両性の合意のみで解決しないものがあることは、あなた自身もよくご存じのはずでしょうに。紹介してくれた女性がすばらしい人らしいだけに、苦労させるのは気の毒ですしね。おれはいいにしても、正直のところ、おれ自身、周囲の障害を乗り越えられる自信がありません。お騒がせいたしましたが、水に流してくださいな」

 この「自分は気にしないけど周りがなんというか……」という口実、この本に再三出てくる。これこそが差別のいちばん根深い問題だよね。自分は差別をしていると自覚をしていない差別主義者。


 上野千鶴子『女の子はどう生きるか』という本に、女性が不当に差別されているという話をさんざんしている傍らで、上野千鶴子はこんなことを書いていた。

 東大男子は東大女子が苦手です。なぜって、自分と同じぐらいかそれ以上優秀かもしれないから。なぜ男子は女子が優秀だと困るんでしょう?これも答えはかんたんです。「オレサマ」になれないからです。その点、他大女子は、「東大生、すごいわねえ」と目にハートを浮かべて「オレサマ」を見あげてくれるでしょう。
 こういう男性を、オッサン、と呼びます。そのとおり、東大男子は若いうちからオッサンなんです(ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません。自己チューでオレサマ度が高く、オンナコドモや立場の弱いひとを差別する、想像力がなくて鈍感力の高いひとを言います。年齢も性別も問いません。女のひとのなかにも、たまにいます)。おばあちゃんはまわりにオッサンばかり見てきたから、お姉ちゃんに「オッサン受け」するには東大へ行くと不利だよ、とアドバイスするのでしょう。

 女性差別はいけないといいつつ、東大生男子やオッサンはどれだけ偏見の目で見ても、差別してもかまわないとおもっている。「ここでいうオッサンとは、中高年のオヤジのことではありません」と書けば差別じゃない、でも「オバサンはバカだ。ここでいうオバサンとは中高年女性のことではありません」は差別だとおもう人間。

 こういう人間がいちばん厄介だ。「おれは〇〇人が嫌いだ!」なんてやつのほうがずっとマシだ。変わる余地がある。

 自分は差別主義者ではない。周りの人間がそうなのだ。こうおもってる人間がいるかぎり差別はなくならない。


  この本、いろんな“差別を受けた話”が出てくるのだが、これはひどいなとおもうこともあれば、「それって……どうなの?」と言いたくなる話も多い。


 たとえば、お店に行ったら、店主から△△さんと呼ばれた。縁もゆかりもない苗字なので、なぜそんな苗字で呼ぶのですかと尋ねると、「お客さんはどこそこの人でしょう、あそこには△△という苗字が多いのでまちがえました。すみません」と謝られた、という話。

 失礼だな、とはおもう。当て推量で人の名前を呼ぶなんて。

 ただそれって大騒ぎするような差別なんだろうか。「大阪人なの? じゃあやっぱり家にたこ焼き器ある?」レベルの話なんじゃないだろうか。

 それで気を害する人もいるかもしれないけどさ。でもこのエピソードだけでは部落差別かどうかよくわかんないんだよね。その店主は被差別部落じゃない地域の人に対しても同じような態度をとっているのかもしれないし。


 この本を読むと、数十年前に比べると今は部落差別は根絶とまではいかなくても、ずっと減ったなとおもう。

 今でも部落差別をする人はいる。それでも、少なくともぼくの周りではそういう話をする人はいない。触れないようにしているわけではなく、ほんとにまったく気にしていない。結婚相手の家がそういう地域かどうかなんて、気にする人のほうが少ないだろう。地方にいけばわからないけど。

 ただ。

 著者のように部落解放運動をしてきた人たちのおかげだ……とはあんまりおもえないんだよね、ぼくは。

 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』には、人々が信じるのが天動説から地動説に代わったのは学説の正しさが証明されたからではなく、古い常識を持っていた人たちが死んで、新しく学者になった若い人たちに入れ替わったからだと書いている。

 そういうことなんだよね。口うるさく言われたからって人の考えはそうは変わらない。逆に意固地になってしまうこともある。人々の意識が変わるのは、世代交代によるものが圧倒的に多いのだろう。部落差別なんてアホらしいぜ、という教育を受けてきた世代が多数派になれば自然と社会の意識は変わる。


 この本を読んでいてぼくがいちばん胸を痛めたのは、著者の息子の心情に思いを馳せて。

 私はここで、生徒たちに部落を教えてはならないといっているのではありません。「隔離病舎」や「焼き場」を取り除いてほしいとは、部落の人びとの強い要望であったこと、それも百年以上の後に、やっと部落の人びとの願いがかなえられたという歴史上の重さを考えたら、十五年もの間を空白にしている先生方の同和教育が、あまりにもうらがなしく私には思えるのです。
 私はさっそく中学校の社会科の先生に電話をして、事情を知りたいと思ったのですが、息子が強く反対しました。
「お母さんがこの調子で、小学校へ連絡したり、雑誌になんか書いたから、ボクは小学校の先生にらまれちゃって、ずーっといやな思いをしてきた。今、町で行き会って、ボクがあいさつして気持ちよく返事を返してくれる先生は何人もいやあしない。お願いだから、中学だけはソッとしておいてくれないか」
「あんたのいうことが、お母さんにわからないでもない。でもね。親の憎さを子どもにまで及ぼす先生のほうが、お母さんにいわせりゃ了見がせますぎるのさ。小学校の先生がそうだったからって、中学校の先生がそうとも限らないよ。それにね、中学校には、お母さんが教わった先生がまだたくさんいて、お母さんのことはわりに理解していてくれると思うし、社会科の先生だって、お母さんの高校の卒業生で、みんなよく知り合っているからきっとわかってくれると思う。おそらく先生方は気づかないだけなんだよ。よしんば、あんたがそのことで先生ににらまれたとしても、あんたひとりだろう。先生方が気づかないで残されている差別の現実を取り除くほうが、広い観点からすればたいせつなことではないだろうか。今回はお母さんにまかせてほしい」
 息子は不承不承ながらやっと承諾しました。息子も成長したというか、世間の風を感じるようになり、かつてのような一筋縄ではいかなくなりました。

 ああ、この息子さん、かわいそうになあ。グレなきゃいいけど。

 この件に限らず、ずっとお母さんのせいで嫌な思いをしてきたのだろう。部落差別のせいじゃない。お母さんのせいだ。

 この本には「息子が私立中学校に行きたいと言いだした。理由を聞くと、お母さんがしょっちゅう学校とぶつかるから、周囲から変わった目で見られている、だから自分のことを知っている人がいない中学校に行きたいという。どうせ受からないだろうが、チャレンジして試験に落ちたらあきらめもつくだろうと受験させてみたら、合格してしまった。だが母親が平等のために部落解放運動をしているのに我が子だけ市立中学校に行かせているなんて知られたら、周囲から非難されるに決まっている。だからどうにかこうにか息子を説き伏せて地元の公立中学校に通わせることにしぶしぶ納得させた」というとんでもないエピソードが出てくる。

 とんでもない毒親だとおもうのだが、著者はちっとも反省することなく「正義の運動のためにあくまで闘う私。家族にもそれを理解させたい」という調子で書いているのだ。

「息子も成長したというか、世間の風を感じるようになり、かつてのような一筋縄ではいかなくなりました。」という記述からも、自分に悪いことがあるとは微塵もおもっていないことがうかがえる。


 部落解放運動に身を投じることがまちがっているとは言わないけれど、嫌がっている息子まで巻き込むことはほとんど虐待だろう。やっていることが正しくても、それを他人に強要することは正しくない。部落の人々を幸せにしようとする人が、自分の家族を不幸にしている。

 正義のために行動する(と信じている人)ってこういうことを平気でやるよね。自分は正しいことをやっている、だから周囲の無関係なは迷惑を被ってもかまわないとおもっている。

 以前、歩道橋で盲導犬のための募金をしている団体が、通路いっぱいに広がって歩行者の通行を妨げていた。注意されてもまったくおかまいなし。正義のための行動とおもえば他人への迷惑など気にもならないのだろう。

“正義”はおそろしい。どんなにひどいこともできてしまう。たいていの戦争も正義によって引き起こされる。あの民族は我々を攻撃しようとしているから正義のために立ち向かおう! と。

 正しいことといちばんいい結果を生むことはまた違うんだけど、“正しい”人には理解できないんだよね。自分はこんなに正しいのになぜ非難されるのか! と。

 ぼくは接客業をしていたとき、様々な失敗を通して「自分が正しいときこそ気を付けなければならない」と学んだ。自分のミスで客に迷惑をかけてしまったときはかんたんだ。正直に謝ればいい。怒られても大きなクレームにはならない。むずかしいのは、客側がまちがっていたり、不正をはたらいたりしたとき。ストレートに「あなたまちがってますよ!」とやると、けっこうな割合で後々大きな問題になる。自分が正しいときは制御がききづらくなっちゃうんだよね。

「自分は差別もするし不正義もおこなう」ということを常々己に言い聞かせなくちゃね。


【関連記事】

【読書感想文】地図ではなく方位磁針のような本 / 瀧本 哲史『2020年6月30日にまたここで会おう』

差別主義者判定テスト



 その他の読書感想文はこちら


2024年6月16日日曜日

【読書感想文】スティーヴン・オッペンハイマー『人類の足跡10万年全史』 / 30年前の人類も宇宙旅行ができた

人類の足跡10万年全史

スティーヴン・オッペンハイマー(著)  仲村明子(訳)

内容(e-honより)
現生人類はアフリカで生まれた。一度は絶滅しかかったわれわれの祖先は、やがてアフリカを旅立つ。だがその旅立ちはたった一度しか成功しなかったという。なぜか?そしてアジアへ、オーストラリアへ、ヨーロッパへ、アメリカへ。人類は驚くべき速度で世界各地へ拡がっていった。気候の激変、火山の大噴火、海水面の大変動、さまざまな危機を乗り越えて―一体いかにして、どの道を通って、われわれは今ここにいるのか?その足跡はいかなる形でわれわれに受け継がれているのか?遺伝子に刻まれた人類の壮大な歴史を読み解き、化石記録と気候学からその足どりを追う!人類史の常識を覆す画期的な書。

 人類がアフリカで誕生した後、どのように世界に広がっていったのかを、考古学的、遺伝的証拠から解き明かした本。

 とても丁寧……なのはいいけど、丁寧すぎる。はっきりいって門外漢には難解すぎた。まだ結論だけ書いてくれりゃいいんだけど、「Aという説もある。これはこうこうこういう理由で賛同しがたい。B説はこのような理由でもっともらしいが、かくかくしかじかの証拠により信憑性が低い。一方のCにはこのような証拠があり……」と延々書いてくださるので、読んでいて眠くなってしまう。

 ううむ、こっちは一緒に研究をしたいわけじゃなくて結論だけ読んで「へーそうなんだー」とばかみたいにつぶやきたいだけなのに。


「人類がアフリカを出たのはいつか」の話はおもしろかった。

 アフリカを出たといったってユーラシア大陸と陸続きになってるんだからかんたんに出られるじゃんとおもうのは今の感覚で、数万年前の人類にとって、そして当時の環境では、アフリカを出るというのはいくつもの偶然が重ならないとなり遂げられない難事業だったそうだ。

 アフリカは、地上を歩くさまざまな人類が生まれた場所である。この遠大で隔離された自然の実験室は、砂漠と緑とのはてしない循環のなかで人類をつくりあげてきた。サハラ以南のアフリカに見られるサバンナと森林のパッチワークは、事実上、環境によってつくられる二組の通路によって他の世界から隔離されている。この二〇〇万年のあいだ、それらの通路は家畜をいれる巨大な囲いのような働きをし、いくつかの門が交互に開いたり閉じたりしてきた。一方の門が開いているとき、もう一方はたいてい閉じていた。一方は北へ向かい、サハラからレバント、ヨーロッパへとつづいていた。もう一方の東への門は、紅海の入り口からイエメン、オマーン、そしてインドへとつづいていた。どちらの門が開くかは氷河作用の周期によって決まり、それによって、人類を含む哺乳動物がアフリカから移動するとき、北のヨーロッパへ行くか、東のアジアへ行くかが決まった。
 今日、アフリカとユーラシア大陸をつなぐ通路は一つしか残っていない。つまり北のシナイ半島だ。サハラとシナイを通ってその他の世界へつながるこの通路は、ふだんは極度に乾燥した砂漠だが、地球の軌道と極軸の傾きの変動により、短い温暖期が生じたときにだけ開く。地質年代におけるこのつかのまの出来事は、太陽の熱が極地を溶かし、それにつづいて地球が暖かく湿潤になるおよそ一〇万年ごとに起こる。サハラ、シナイ、そしてオーストラリアの砂漠に湖ができ、緑が生い茂り、短い地質年代の春に花が咲きそろう。しかしこの暖かい期間はごく短いもので、北アフリカの天候の門は移住者たちにとっては死の罠となることもあった。

 アフリカ大陸から外に出るには北と東の出口があったが、砂漠によって閉ざされていた。地球規模での気候変動によりごくわずかな期間だけ(といっても数千年規模だが)サハラが歩いて通行できるようになる。

 その間隙をついてアフリカを脱出した人類は、一部は海沿いを東に進んでインド、インドネシア、オーストラリアへと渡り、一部は北に分かれて東アジアやロシアとアラスカの間のベーリング海峡を渡って(これまた一時は陸続きになっていたため)北アメリカ大陸、そして南アメリカ大陸へと移動した。また一部はインドあたりから北西に進んでヨーロッパへと渡った。

 このように人類はずっとずっと旅をして、世界中に広まった。何万年もかけて。

 大航海時代に世界を舞台に冒険をしたがったとか、アメリカ人がフロンティアスピリッツを持っているだとか言われているけど、その時代の人間にかぎらず、人類はずっと未知なる場所を探して旅をしつづけてきたんだね。もっといえば、人間にかぎらず、他の動物や植物だってそうやって居住地を広げてきた(あるいは失敗して絶滅してきた)んだけど。


  少し前に読んだ三井 誠『人類進化の700万年』にも書いてあったが(タイトル似てるなー)、人間の個々の能力というのは数万年前と比べて高くなっているわけではない、どちらかといえば劣っている可能性が高いそうだ。筋力や持久力はもちろんのこと、知能でさえも。

 マクブレアティとブルックスの描くシナリオでは、行動の現代人性を特徴づける諸要素はすべて、アフリカの中期石器時代までたどることができる。これは三〇万年前に技術的なビッグバンがあったことを意味するのではない。彼らの証拠が強調するのは、そこから人類の技術の加速があったということで、初めはゆっくりと、それから速度を増していった。早期の進歩はそれぞれが小さなものでゆっくりと現れたが、世代にわたり多くの知識がさまざまな利益として伝えられ蓄積されはじめると、文化的な進化は遺伝的な進化をはるかに追い越すようになっていった。見方を変えれば、もしほんとうに三〇万年前に文化的な進化が遺伝的な進化に取って代わったなら、わたしたちと彼らとのちがいはただの文化的な相違ということになり、旧ホモ・サピエンスが今日わたしたちのあいだに生きていれば、彼らには人を月に送れるだけの知的能力が十分にあるということだ。

 ついつい今の自分たちが人類史上最も賢いとおもってしまうけれど、我々の科学力が高いのは先人たちが残した膨大な知識の蓄積の上に立っているからであって、今生きている人類がゼロから発見したことなんてほとんどない。

 何度読んでもついつい「今の人類がいちばん賢い」と勘違いしてしまうので、これは胸に刻んでおかねば。


 この本、「ヨーロッパ人は自分たちが人類進化のいちばん最終形態であり最も優秀だとおもってるがそんなことはないぜ」みたいな論調にすごくページが割かれてるんだよね。

 いやいやべつにヨーロッパ人がいちばん賢いなんておもってないぜ、誰と闘ってるんだよ、とおもうけど、実際のところ「人類が最後に到達したのがヨーロッパで、だから最も優秀なのだ」とする考え方がかつてあり、今でも(特にヨーロッパに)根強く残っているのだそうだ。

 ま、どこの国にもいるよね。自分たちがいちばん優秀だ! って人が。自分自身ではなく自分が属している民族にしか誇りを持てない人が。


【関連記事】

【読書感想文】三井 誠『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』 / 我々は古代人より劣っている

【読書感想文】ダニエル・E・リーバーマン『人体六〇〇万年史 科学が明かす進化・健康・疾病』 / 農産物は身体によくない



 その他の読書感想文はこちら


2024年6月14日金曜日

【読書感想文】前野 ウルド 浩太郎『バッタを倒すぜアフリカで』 / 令和の坂本龍馬(の一般的イメージ)

バッタを倒すぜアフリカで

前野ウルド浩太郎

内容(光文社HPより)
バッタの群れは海岸沿いを飛翔し続けていた。夕方、日の光に赤みが増した頃、風向きが変わり、大群が進路を変え、低空飛行で真正面から我々に向かって飛んできた。大群の渦の中に車もろとも巻き込まれる。翅音は悲鳴のように重苦しく大気を振るわせ、耳元を不気味な轟音がかすめていく。このときを待っていた。群れの暴走を食い止めるため、今こそ秘密兵器を繰り出すときだ。さっそうと作業着を脱ぎ捨て、緑色の全身タイツに着替え、大群の前に躍り出る。
「さぁ、むさぼり喰うがよい」

 アフリカを救うためにバッタの研究に人生を捧げる昆虫学者の奮闘記・第二弾。
前作『バッタを倒しにアフリカへ』の感想はこちら

 前作を読んでいない人には「アフリカを救うって何をおおげさな」とおもうかもしれないが、決しておおげさな話ではない。この人はアフリカで何万人もの命を救うかもしれない人なのだ。

 サバクトビバッタのメスは一週間おきに百個ほどの卵を産み、それを生涯(数ヶ月)くりかえす。さらに幼虫は数週間で卵を生産できるようになるという。

 もちろんほとんどの昆虫の例に漏れず、大半は天敵に食べられてしまい、大人になって卵を産めるようになるのはごく一部だ。が、それはあくまで通常時の話。

 大干ばつが起こるとバッタの天敵が死滅してしまう。その後に大雨が降ると、大量のバッタが捕食されないまま成虫となり、とんでもない大繁殖をする。なにしろ数週間で数百倍になるのだ。ねずみ算どころの話じゃない。

 こうして何百万、何千万、何億という数のバッタが群れになり、移動する。移動の途中でありとあらゆる植物を喰う。農作物はみんなダメになる。その被害は途方もない。バッタの大群が通った後には、比喩ではなく、草一本残らない。人間はもちろん、家畜も野生動物も被害を受ける。

 ぼくは子どもの頃、手塚治虫の『ブッダ』や『シュマリ』を読み、バッタの大群の恐ろしさにふるえあがったものだ(『シュマリ』では人まで喰われていた)。

 バッタの大発生を防ぐことができれば、アフリカの国々は大いに助かることになる。「アフリカを救う」は決してオーバーな表現ではないのだ。




 バッタの繁殖を抑えるには、バッタの交尾や産卵について知らなくてはならない。交尾・産卵を邪魔することができれば数の増加を抑えることができるし、交尾中は無防備になるので殺虫剤散布も効果を上げやすい。

 そのためにはバッタの雄と雌がどこにいるかを調べる必要がある。

 私が選んだ実験方法は「目視」。極めて原始的な研究方法だ。とはいえ、バッタの雌雄の判別能力はおそらく世界トップレベルだし、視力が裸眼で2.0ある私にはピッタリだ。
 複数の研究者が同じ仮説を立てたとしても、検証する方法には個人差があるように思う。めちゃ大変な方法でアプローチするか、一工夫することでラクしてデータをとるか、クスリと笑っちゃうような方法を編み出してデータをとるか。「どんなデータをどうやってとるか」には、研究者の「色」が滲み出てくる。
 私は、化学はさっぱりだし、分子生物学もどういうわけか理解が及ばず、ローテクしか使えない呪いがかけられている。日本では周りの研究者たちがハイテクを駆使し、なにやらきらびやかな研究を推し進めており、時代遅れのようで恥ずかしかった。
 しかし、物資や設備が制限されたサハラ砂漠では、ローテクはほとんど影響を受けず、いつものパフォーマンスを発揮できる。自分の能力を最大限発揮できる場所がここサハラ砂漠で、しかもサバクトビバッタを研究しているときなのだ。

 離れたところからでもバッタの雌雄を見分けることができる能力。他の人が持っていても何の役にも立たない能力だが、著者はこの能力を駆使して、ある場所にいるバスが雄ばかりであることに気づく。それをきっかけに、それまで研究者の間でも知られていなかったバッタの繁殖行動に関する発見をするのだ。特殊能力が大発見につながるのだ。かっこいい。

 この「目視でバッタの雄雌を数える」もそうだが、著者がやっていることはとにかく地道で労力のかかる作業だ。炎天下の砂漠で一日中バッタを観察したり、バッタが発生したと聞けば車を飛ばして駆けつけたり。

 私が考えついた方法はこうだ。
 集団飼育した幼虫が羽化したらすかさず背中に修正液で背番号をつけて、集団飼育下でも個体識別できるようにし、産卵履歴を追うのだ。
 雌雄合わせて40匹ほどを一つの飼育ケージに入れて集団飼育すると、約2週間で性成熟し始める。産卵用の砂床を飼育ケージにセットし採卵する。産んだ直後を0日とし、産卵0~6日でメス成虫を解剖するのだが、きっかり24時間後、ジャスト1日単位の卵巣発達に関するデータをとるようにするには、各個体が何日の何時に産んだかを記録する必要がある。
 そこで、朝9時から夜の20時まで産卵床を与え、それ以外の夜間は与えないようにした。
 なかには産卵床がない夜間にケージの床に産卵してしまう個体もいる。そのような個体を排除するために、全てのメス成虫を毎朝体重測定し、産卵に伴って体重が激減した個体を把握するようにした。
 そして、飼育室に住み込む代わりに、産卵の確認を30分ごとに行う。産卵は2時間近く続くため、30分以内に産卵を終了する個体はまずいない。「安くて、早くて、美味い弁当を開発せよ」という無茶な注文に答えなければならない状況があるように、あちこちの要望にこたえられるように実験を計画するのも研究の醍醐味である。

 バッタ一匹一匹の身体に直接背番号をつけて30分ごとに観察して産卵記録をつけたり。

 うーん。ハードだ……。ぼくはすぐに「なんとかして楽をできないか」と考える人間なので、こういうひたすら地道な作業は大の苦手だ(逆にVBAやRPAのような作業を楽にしてくれるツールをいじるのは大好きだ)。

 しかしぼくのようにな人間は、すでにあるものを加工することはできても、まったく新しいものを発見したり生みだしたりはできない。誰にも真似のできない発見や発明をできるのは、砂漠でバッタを追いかけたり、30分ごとにバッタの観察をしたりする人なのだろう。




 著者は研究者としてももちろんすごいが、それに加えて、文章もおもしろい。なぜおもしろいかというと、人との関わり方が濃密だからだ。

 アフリカの友人からビジネスをはじめたいと言われればポンと百万円単位の金を出す(事業は失敗し金は返ってこない)、賞をもらえば賞金は研究所の職員たちで分ける(しかも総額は賞金よりも高い)。

 とにかく気風がいい。人のために気前よくお金を使う。労力も使う。だからみんなから好かれる。好かれるから評価が上がり、仕事やお金が入ってくる。それをまた人のために使う。なんとすばらしいスパイラルか。こういう人ばかりなら経済はすごく良くなるのだが。


 お金だけでなく、「人のため」「社会のため」「未来のため」という著者の意識が本の節々にあふれている。

 はっきり言って、もっと若手研究者の可能性に懸けてほしい。サバクトビバッタは地球規模の農業害虫で、モーセが海を割った頃から問題となってきた。サバクトビバッタに縁もゆかりもない日本の、若手研究者(当時31歳)、しかもフィールドワーク初心者が生態に関する謎の一端を解き明かすことができたのだ。これは、日本の義務教育や研究者育成システムの賜物と言える。日本に限らず世界の若手研究者は、世界が抱える難問を解き明かすポテンシャルを秘めている。
 ただ、今回の研究のように単純に時間がかかったり、研究者自身が成長しなければ手掛けられなかったりするものもあり、2~3年の研究成果だけで評価されるシステムだと、チャレンジングな課題に挑むことは難しい。それこそ今回の研究は10年かかった。なけなしの私費を投入し、自身の印税で元を取るような算段がうまくいくことは少ないはずだ。若手研究者が国内外で成長し、研究に専念できる機会に恵まれる、日本学術振興会のようなシステムの維持・構築は極めて重要な社会の課題だ。
 これは研究に限った話ではない。

 バッタという小さいものも追いながら、学問全体のことを考え、国家全体、世界全体の未来を見据えている。

 なんかさ、「一般的な坂本龍馬のイメージ」ってあるじゃない。豪快で、視野が広くて、未来のことを見据えていて、誰からも好かれて、頼りになる感じのイメージ。実際の坂本龍馬がどうだったか知らないけど。

 前野ウルド浩太郎という人はそのイメージにぴったり。

 ほんと、百年後の教科書に載っているかもしれない人だしね。


【関連記事】

【読書感想文】おもしろくてすごい本 / 前野 ウルド 浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

【読書感想文】女王の分身の術 / 松浦 健二『シロアリ ~女王様、その手がありましたか!~』



 その他の読書感想文はこちら


2024年6月12日水曜日

小ネタ18

何座

 小四の娘から「今、何座?」と訊かれた。

 質問の意味がわからなかったのでどういうことか尋ねると、どうやら「〇〇座の期間」があるとおもっているらしい。三月下旬から四月上旬はおひつじ座の期間、みたいに。

「ひょっとしたら占いの世界では今が〇〇座とかあるのかもしれないけど、ふつうは『今はうお座』みたいな言い方はしないよ。その期間に生まれた人はうお座の生まれ、とは言うけど」
と教えた。

「でも『今年は辰年』とか言うじゃない」と言われて、「それは……」となってしまった。

「今はうお座」という言い方、アリなのかな……?



少子化対策

 韓国が莫大な金を使って少子化対策をしたが逆に出生率は下がったというニュースを見た。

 もしかしてだけど、少子化対策とか言いすぎたらかえって出生数は減るのかもしれない。

 生む人が減っています、みんながどんどん生まないとこの先の人が困ることになるのです、どんどん予算を投じて少子化対策に取り組んでいきましょう。

 そんなふうに言われたら「出産・育児ってそんなに嫌なものなのかな」とおもえてくる。「とにかく勉強しなさい!」と言われたら勉強したくなくなるのといっしょだ。

 だから、金持ちとか政治家とか(それも子どもを三人四人と持っている人たち)が「君たち庶民はあんまり子どもを生まないでねぐふふふふ」なんて言ったら、さぞかし子どもを持つことにはメリットがあるのだろうとおもって逆に出生率は上がるかもしれない。



いいクイズ

 いいクイズを考えた。

クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ。
この中で、オリンピックの種目にないのは?


2024年6月10日月曜日

【読書感想文】あだち充『みゆき』のひどさと、だからこそわかるすごみ

 

みゆき

あだち充


 1980~1984年に連載された、あだち充の初期作品。はじめて読んでみた。

 最初にことわっておきますけど、今の社会規範で、昔の作品を断罪するのは不毛かつ卑怯なことだとおもうんですよ。小林賢太郎がオリンピック開会式に携わることになったとたんに昔の映像をひっぱりだしてきていちゃもんをつけるような連中ね。


 それはそれとして。

 これはひどい作品だ。2024年の今になって読むと、まともに読めたもんじゃない。

 もう一度言っておくと、作品や作者を批判するつもりは毛頭ない。ただ、やっぱり『みゆき』の中で描かれている世界はひどい。救いようがない。これはナチスドイツを描いた映画を見て「ひどい時代だな……」と感想を抱くのに似ているかもしれない。

 というわけで「ひどさを楽しむ」という読み方をするのをお勧めします。『課長島耕作』と同じ楽しみ方。




『みゆき』の世界では、性犯罪が楽しく消化されている。風呂をのぞいたり女の子の脱いだ下着を勝手に触ったりはまだかわいいもので(それだって十分犯罪なんだけど)、スカートをめくり、警察官や教師が女子中学生に触れて「ぼくとデートしようよ」としつこくつきまとう。

 で、それが極悪非道な行為として描かれているわけではなく、「明るく楽しいスケベ」としてギャグ調に描かれている。「スケベだけど憎めないおじさん」みたいな扱いだ。

 今の感覚だと、まったく笑えない。中学校教師が教え子である女子生徒を気に入り、特別扱いして、ボディタッチをして、部屋に呼ぶ。直截的に「つきあってくれ」と言ったりする。これのどこで笑えというのか?


 でも1980年代にはこれは「ほほえましいユーモア」として受け止められていたのだろう。もちろん眉をひそめる人もいたのだろうが、週刊少年サンデーに連載されて単行本になっている以上、多くの人は少年向けコンテンツとして問題なしとしていたわけだ。

 いやあ。すごい時代だ。

 何度も書くが、漫画が悪いわけではない。社会が悪かったのだ。

 ちなみに、1980年代前半の『みゆき』ではおじさんが女子中学生につきまとい、1980年代後半の『ラフ』ではおじさん(主人公の父親)が女子高校生をナンパする。声をかけるだけで触ったりはしない。そして1990年代の『H2』以降は、せいぜい高校生がエッチな本を読むぐらいで、セクハラや性犯罪はほとんどない(偶然スカートがまくれる、とかはある)。あだち充作品を追っていくことで「少年マンガ誌でどこまで許されてきたのか」の時代変化がわかる。




 ま、「スケベなおじさんたち」はまだマシというか。セクハラ中学教師も、嫌がっている女の子の家に強引に押しかける高校生も、勤務中に中学生をナンパする警察官も、一応「どうしようもないスケベなダメ男」として描かれているからだ。

 いちばんひどいのが主人公の若松真人だ。こいつも他の男性キャラと似たり寄ったりのクズなのだが、主人公なので「読者が共感できるいいやつ」として描かれている。ここにいちばん疑問をおぼえる。

 今の感覚で読むと「こいつのどこがいいやつなの?」とおもう。たとえば、こいつは事情があって血のつながらない妹とふたりで暮らしているのだが、その妹に家事をすべて任せている。さらに妹が旅行でいないときはクラスメイトの女の子に「料理つくる人がいないんだよね。作りにきてくれない?」なんてことを言うのだ。そして作らせる。もちろんこいつは食べるだけで何にもしない。つくる人がいないんだよね、じゃないんだよ。おまえがつくるんだよ。

 どうしようもないクズ男だ。べつにクズ男が主人公でもいいのだが、クズならクズらしくしてほしい。『カイジ』の主人公・伊藤カイジはクズだが、ちゃんとクズとして描かれている。

 若松真人はクズなのに、作中ではまるでクズじゃないかのような扱いをされている。こいつを好きになれる要素がぜんぜんない(何度も書くけど、今の感覚では、ね)。


 男女雇用機会均等法の施行が1986年、中学校の家庭科が完全男女共修となったのが1989年。

『みゆき』の時代は、まだ「男女は平等に。男も家事をして、女も勉強して仕事をする」という感覚すらまだ一般的でなかった時代だ。だから若松真人のような男でもクズじゃないかのような顔をしていられたのだ。




 主人公もクズだが、ヒロインがぜんぜん魅力的でない。

 エロ漫画に出てくる女と同じぐらい、都合がよすぎる存在だ。主人公の(血のつながらない)妹・若松みゆきは、どんなにダメな姿を見てもずっとずっとお兄ちゃん大好き。それでいて、お兄ちゃんに彼女ができたときはすっと身を引く。

 本命彼女の邪魔はせず、でも本命女がいないときはエッチな姿を見せてくれる。ザ・都合のいい女だ。


 もっとからっぽなのが、もうひとりのヒロイン・鹿島みゆきだ。

 主人公と同級生なのだが、鹿島みゆきは勉強ができるのに主人公がバカだから一緒に同じ大学を受けることにし、主人公が入試に落ちると自分は合格していたのに一緒に浪人するのだ(一応母が入学手続きを忘れていたからという理由をつけてはいるが)。

 はっきりいって、パッパラパーのでくのぼうである。自分の意思がまるでない。ご主人様の後についてくるだけの犬と変わらない。「だいすきな彼ぴっぴのおよめさんになりたいの。いっしょにいられたらほかにはなんにもいらないわ。それ以外はなんにもかんがえられないの!」のバカ女だ。この女のどこに魅力があるんだ。

 まあクズ男とバカ女でちょうどいいカップルではあるのだが……。




 あだち充作品の男女の姿は、時代を映している。

『みゆき』の頃のヒロインは、どんなダメな男でも文句のひとつも言わずに優しく接し、好きな男に対してはとことん愛する女性だった。

『ラフ』の二宮亜美は二人の男を天秤にかけどちらが自分にふさわしいかを選択する立場にある。とはいえ二宮亜美はイエに縛られた存在であり、当初は父親の言われるままに動き、結婚相手まで父親に決められていた。徐々に自分で選択をするようにはなるが父親に対して正面切ってノーをつきつけるシーンはない。

『H2』の雨宮ひかりはもっと選択的に男を選ぶし、新聞記者として生きるというはっきりとした夢も描かれる。男に頼らずとも生きていける自立した女性だ(もうひとりのヒロインである古賀春華は将来の夢こそ持っているものの男に尽くすのが好きなタイプでちょっと鹿島みゆきに近い)。

『クロスゲーム』に出てくる月島四姉妹は性格はバラバラだが、四人とも「女だから男に優しくしないといけない。どんな男に対してもおしとやかにふるまうべきだ」なんて考えは微塵も持っていない。『タッチ』では「南を甲子園に連れてって」だったのが『クロスゲーム』では女子中学生が野球部のエースとして活躍している。


 ということで、『みゆき』はひどい作品だが、ひどい作品だからこそ、それ以降時代を追うごとに作中に出てくる女性像が変化していってるのが感じられて、あだち充氏がちゃんと感覚をアップデートできているのを感じる。人は思春期までに形成された価値観をなかなか壊せないものだから、これはかんたんなことじゃない。

 さすが50年以上も少年少女向け人気漫画家でいられる人はすごい。


【関連記事】

【読書感想文】男から見ても女は生きづらい / 雨宮 処凛『「女子」という呪い』

【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』



 その他の読書感想文はこちら