2023年1月4日水曜日

【読書感想文】堀井 憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』 / キリスト教徒じゃないからこそ

愛と狂瀾のメリークリスマス

なぜ異教徒の祭典が日本化したのか

堀井 憲一郎

内容(講談社BOOK倶楽部より)
「なぜキリスト教信者ではない日本人にとっても、クリスマスは特別行事になっているのか? それは実は、力で押してくるキリスト教文化の厄介な侵入を――彼らを怒らせることなく――防ぎ、やり過ごしていくための、「日本人ならではの知恵」だった! 「恋人たちが愛し合うクリスマス」という逸脱も、その「知恵」の延長線上にあったのだ――キリスト教伝来500年史から、極上の「日本史ミステリー」を読み解こう!

 なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか――。


 せいぜい戦後日本の文化史でも書かれているのかとおもって手に取ったのだが、『愛と狂瀾のメリークリスマス』ではクリスマスの発祥や江戸時代のクリスマスの様子などから丹念に調べられている。

 もうひとつ「サトゥルヌスの祭り」との関係も指摘されている。
 12月1日から25日まで、ローマ帝国の農耕神サトゥルヌスを祭る祝祭であった(ローマ帝国は多神教であるから、いろんな神がいた)。
「サトゥルヌスの祭り」では、7日間にわたり、すべての生産活動を停止して、喧噪と浮かれ騒ぎに明け暮れた。使用人と主人の立場も入れ替えられ、悪戯が仕掛けられ、冥界の王が担ぎ出され、どんちゃん騒ぎに終始した。この狂騒の祝祭のあいだに、贈り物のやりとりをした。サトゥルヌスは一種の悪神である(英語読みではサターンとなる)。
 クリスマスにおける贈答の習慣は、このサトゥルヌスの祭りが淵源だとされる。異教の祭りをもとにした習慣は、やがてサンタクロースが一身に背負っていくことになる。文化人類学者の説明によると、サンタクロースは冥府の使いの側面を持っているという。つまり、サンタクロースはもとは死の国の存在でもあったのだ。

 これは、絶妙に中二心をくすぐってくれる話だなあ。聖ニコラウスがサンタクロースになったという説もあるので、信憑性はともかく。

 仮に「サンタクロースは冥府の使い」説が正しかったとしても、この説が公式の見解になることはないだろうな。




 戦後時代に日本にきたルイス・フロイスの著した『日本史』についての話。

 これまた、「日本人全員をキリスト教徒にして、いつの日か日本全土をキリスト教国たらしめんための、その途中経過」という体裁で書かれているため、キリスト教徒ではない日本人の私から見れば、異様だとしかおもえない記述が目立つ。
 あらためて、イエズス会士たちの目的は「日本古来の習俗を廃し、神社も仏閣も仏像も破壊して、この島国の隅々までをキリストの国にすること」にあったのだとおもいいたる。きわめて暴力的な存在である。あまり中世の宗教をなめないほうがいいとおもう。
 フロイス自身も「日本の祭儀はすべて悪事の張本人である悪魔によって考案されたものである」(中公文庫3巻5章冒頭)と明記しており、つまりお正月のお祝いも、節分も、お盆の墓参りも、秋の収穫祭も、すべて「悪魔によって考えだされたもの」なのでやめさせなければいけない、と強く信じていたわけである。真剣に読んでいると、かれらの圧迫してくる精神に(日本の習俗をすべて廃させようとするその心根に)とても疲れてくる。ほんと、よくぞ国を鎖してキリスト教徒たちを追放してくれたものだと、個人的にではあるが、あらためて秀吉・家康ラインの政策をありがたくおもってしまう。

 たしかに、中世のキリスト教が十字軍や新大陸遠征で異教徒たちにしてきた蛮行をおもえば、日本にやってきた宣教師たちの目的は「キリスト教以外の宗教を徹底的に破壊し、日本をキリスト教の国にすること。そのためなら暴力的な手段をとってもいっこうにかまわない」だとしてもいっこうにふしぎはないよなあ。

 隠れキリシタンだとか踏み絵だとか『沈黙』だとか、まるでキリスト教側が被害者であるかのような描かれ方をすることが多いけれど(そしてそれはある面では事実だけど)、一歩まちがえれば逆に神道や仏教のほうが迫害されていた可能性もあったわけだ。

「キリスト教を弾圧しないとキリスト教に弾圧される」ぐらいのせっぱつまった状況にあったんだろうな。


 17世紀、江戸にあった中央政府は〝鎖国令〟という名の触れは出していない。
 かれらがおこなったのはキリスト教徒を日本国から締め出すことであった。
 徳川家康は1613年の暮れに「伴天連追放」を全国に公布し、その一掃をはかった。日本古来の秩序を乱すものとして、その存在を許さなかった。
 ただその信者数はかなりの数におよび、全国に広がっていた。禁教令を出したくらいでは、その影響力を途絶させることはできない。キリスト教国との貿易は継続したため、商人に身をやつした宣教師が国内に潜入するのを止めることはできなかった。
 そこで政府は徹底をはかることになる。
 まず御用商人が扱っていた外国との貿易を、中央政府の管轄においた。
 カトリック教国であるポルトガルの人は、商人とキリスト教布教者の区別がつきにくく、彼らを出入りさせているかぎりキリスト教追放は成り立たぬと判断し、ポルトガルとの国交断絶、ポルトガル人を追放し、今後の入国を禁じた。
 キリスト教国ながらプロテスタントのオランダ国は、商人と布教者の区別がついているように見えたので、長崎のみに窓口を限定し、その交易を続けることとした。もうひとつ貿易を続ける中国船の出入りも長崎に限定した。
 また、日本人の海外渡航と、在外日本人の帰国を禁じた。これを許しているかぎり、やはりキリスト教との縁が切れないからだ。
「ポルトガルとの国交断絶」「オランダ・中国との交渉を長崎に限定する」「日本人の海外渡航と海外からの帰国の禁止」、この三つの沙汰をもって鎖国令と呼ばれている。このままの状態では、日本はやがてキリスト教によって国の秩序が保てなくなる、との判断によって、こういう処置をしたまでである。国を鎖したのは結果であって「これから国を鎖すぞ」と宣言したわけではない。

 鎖国もしかり。

 外国と交易のある現代の感覚からすると、国を鎖すなんてまるで北朝鮮のような独裁国家みたいに見えるけど(北朝鮮はけっこう外交やってるけど)、じっさいのところは「キリスト協会に侵略されないために自衛でやってた」ことなんだなあ。新型コロナウイルスが大流行してるから国外渡航者の入国を禁止する、ってのとマインドはそれほど変わらないのかもしれない。

 堀井さんの書く「あまり中世の宗教をなめないほうがいい」は決して大げさな表現ではない。




 このあたりの「キリスト教が日本を侵略しそこなった話」や「戦前や戦後すぐのほうがクリスマスで大騒ぎしていた話」などは、自分も知らなかったこともあって読みごたえがあった。

 大の大人がクリスマスだからといって酔って暴れて、標識が倒されたり、いたずら110番通報が続出したり、さながら令和の渋谷のハロウィンといった様子。

 歴史の教科書を読んでいると「戦争によって日本はまったく別の国に生まれ変わった」かのような印象を受けると、じっさいに当時の風俗を描いた本を読むと、ぜんぜんそんなことないことがわかる。たしかに昭和十八年と二十八年はまったく別の国だろう。だが昭和八年と二十八年はそれほどかわらない。サラリーマンが街で酔っ払い、ばかげた流行に右往左往し、なにかと理由をつけてくだらないことで大騒ぎしている。そのへんは、戦前も、戦後も、高度経済成長期も、バブル期も、バブル崩壊後も、そして今も、そんなに変わらない。服装や音楽や所持品など細かいことは変わっても、人々の行動は大きく変わっていない。

 ということで、戦後はクリスマスが「大人のもの」から「若い恋人たちのもの」になっていったぐらいで、やっていることはさほど変わらない。明治~戦前ぐらいの話のほうがずっと興味深かった。




 冒頭の話に戻るけど、なぜキリスト教国でもない日本で、クリスマスだけが国民的行事になったのか。

 堀井憲一郎さんによると、伝統的な祭りや行事を取り扱った研究は多いのに、クリスマスを研究している人はすごく少ないという。なんとなく人々の意識に「クリスマスなんてまともな研究者がまじめに研究するもんじゃない」という意識があるのかもしれない。そして、その「まじめに取り扱うようなもんじゃない」ポジションこそが、クリスマスが非キリスト教国の日本で普及した要因だという。

 まじめに論ずるようなもんじゃない。だったらクリスマスをやったっていいじゃない。浮かれてもいいじゃない。そういう論理も成り立つ。


 よくよく考えたら、とある宗教の開祖の誕生日(正確にはクリスマスはキリストの誕生日でもないらしいが)を祝うのってなかなかトリッキーなことだ。隣人が「うちでは一家を挙げてモルモン教の設立者の生誕日を祝っています」なんて言いだしたら確実に距離を置く。モルモン教の教義なんてまったく知らないけど、反射的に「ヤバそうだな」とおもってしまう。

 本来、クリスマスだってそういうあぶなっかしい行事だったはずだ。異教徒の宗教行事。でも「子どもたちがプレゼントをもらえる日」だったり「子どもたちが劇や歌で楽しむ日」だったり「若いカップルたちがいちゃつく日」だったりといった形をとることで、「まあいい大人が目くじら立てて非難するほどのもんでもねえわな」ってとこに落ち着いている。うまいこと批判をかわしている。

 クリスマスを祝うことは「キリスト教に染まること」ではなく、逆に「キリスト教に染まらない」ための手段だと堀井さんは喝破する。


 子どもの楽しみの日だったり、酔っ払いがバカ騒ぎをしたり、あ若いカップルがいちゃつく日だったり、といった形をとることで宗教的な意味は形骸化してしまう。

 江戸時代のように完全に拒絶するのではなく、キリスト教のどうでもいいところだけをどうでもいい形で文化の中に取り込んでしまうことで、「キリスト教とるに足らず」というイメージを植えつけてしまうわけだ。なるほど、すごい戦略だよね。誰も狙ってやってるわけじゃないところがよけいに。

 議論の信憑性については賛否あるとおもうけど、ひとつの説としては非常におもしろい論だった。「キリスト教徒でもねえくせにクリスマスの日だけ浮かれやがって」とまゆを広める人もいるが、キリスト教徒じゃないからこそクリスマスの日に浮かれるんだよね。


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2022年12月27日火曜日

2022年に読んだ本 マイ・ベスト12

 2022年に読んだ本は100冊ぐらい(子どもと読んだ児童書除く)。年々減っていってるなあ。

 その中のベスト12を選出。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。



白石 一郎
『海狼伝』


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 時代小説。

 時代小説はほとんど読まないのだが、そんな人間でもわくわくが止まらなかった。

 航海士、戦闘員、商人、船大工などそれぞれの才能を持った一味が快進撃をくりひろげる、まさに戦国版『ONE PIECE』。手に汗握る冒険小説。

 そしてしゃらくさい正義や友情を語らないのもいい。ちゃんと海賊をしている。

 続編『海王伝』では、成熟しきった海賊となってしまっているので、こちらのほうがずっとおもしろい。



鹿島 茂
『子供より古書が大事と思いたい』


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 エッセイ。

 フランス古書蒐集に人生を捧げる著者によるエッセイ。人生を捧げるというのは決して大げさでなく、借金をして本を買ったり、車に本を詰めないから家族を置き去りにしたりしている様子が描かれている。

 うーん、狂っている。なにしろ「絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ」である。そして、狂っている人の本はまずまちがいなくおもしろい。



キム・チョヨプ
『わたしたちが光の速さで進めないなら』


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 SF小説。

 小説のおもしろさは「いかにうまくほらを吹くか」だとおもっているのだが、この作品はどの短篇もほら話の加減が絶妙だった。

 そんなわけないだろうけど、未来や異星人だったらひょっとしたらありえなくもないかも……とぎりぎりおもえるライン。設定もおもしろいし、それだけにとどまらず「この設定でどんなことが起こるのか」の展開もよくできている。




藤田 知也
『郵政腐敗 日本型組織の失敗学』



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 ノンフィクション。

 日本郵政が骨の髄まで腐敗しきっていることがよくわかる本。ここから立ち直れることはないだろうなあ。政府にべったりになっているからこそ余計に。

 不正を隠す、不正を指摘した人を守るどころか逆に罰する、下に詰め腹を切らせて上は逃げおおせる。日本郵政という組織だけでなく、日本政府、さらに大企業全体にも通じるものがある。




藤岡 換太郎
『海はどうしてできたのか ~壮大なスケールの地球進化史~』


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 ノンフィクション。

 海が誕生からこれまでにたどってきた変遷を、ダイナミックに解説してくれる。

 なにがいいって、とにかく著者が知に対して誠実なところ。「わかっていません」「可能性もあります」「という説もあります」「まだ立証されていません」「かもしれません」ときちんと書いている。わからないから曖昧なのではなく「自分がどこまで知らないか」を正しくわかっているからこその曖昧さ。信用のおける人だ。

 同じ著者の『山はどうしてできるのか』も読んだが、おもしろいのは圧倒的にこっち。



東野 圭吾
『マスカレード・ホテル』


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 小説。

 押しも押されぬ大作家の、キムタク主演で映画化もされた大ヒット小説をいまさらとりあげるのもいささか気恥ずかしいが、おもしろかったのだからしかたがない。

 ホテルマンの仕事内容がわかるお仕事小説としてもおもしろいし、刑事がホテルマンになるという設定も秀逸だし、散りばめられたエピソードも秀逸だし、伏線の張り方はさりげないのに印象に残るし、構成は無駄がないし、どこをとってもほぼ完璧。

 ほんと、小説巧者だよなあ。



井手 英策
『幸福の増税論 財政はだれのために』


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 ノンフィクション。

「増税」と聞くと、反射的に嫌悪感を示す人が多いだろう。ぼくもそうだった。でもそんな人にこそ読んでほしい。

 しかし税というのは大半の人にとって「お得」な制度なのだ。一握りの大金持ち以外は、払っている分より恩恵を受けている額のほうがずっと多いのだから。税金が高いのが問題ではなく(それはむしろいいこと)、その徴収の仕方や使われ方が不公正なのだ。

 著者が提言する「ベーシック・サービス」はかなりいい制度だとおもう。実現可能かどうかはおいといて。



上原 善広
『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』


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 ノンフィクション。

 やり投げ選手・溝口和洋の評伝。酒もタバコも女遊びもやり、指導者につかず、独自の研究とハードなトレーニングで、日本人に不利とされる投擲種目で世界トップに肉薄した不世出の奇才だ。

 やっぱり変な人の話を読むのはおもしろい。



麻宮 ゆり子
『敬語で旅する四人の男』


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 小説。

 すごくおもしろいことが起こるわけじゃないし、ためになる情報も多くない。でもなぜか心地いい。なんともふしぎな味わいの小説だった。

 女性作家の作品なのに「男同士の距離感のとりかた」の書き方がすごくうまい。男同士って親しくなればなるほど深刻な悩みを相談したり、親身になってアドバイスしたりしないものなんだよ。

 デビュー作とはおもえないほどうまい短篇集だった。



ロバート・ホワイティング
『和をもって日本となす』


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 ノンフィクション。

 ぼくの大好きな「外国人が見た日本」に関する本。野球という切り口で、日本がいかに奇妙な文化を持っているかをアメリカ向けに紹介した本だ。めったらやたらとおもしろかった。絶版なのが惜しい。

 30年以上前の本だが、今でも十分納得できる批判が日本に向けられている。書かれているのは野球界のことだが、これを読めばなぜ日本経済がこの30年で衰退したのかがよくわかる。



アゴタ・クリストフ
『悪童日記』



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 小説。

 いろんな本を読んできたが、この本に関してはうまく表現する手をもたない。抽象的なのに具体的、不道徳なのに道徳的、残酷なのにユーモラス。

 感動するわけでも、新しい知識が得られるわけでも、手に汗握る展開があるわけでもない。なのにぞくぞくする。ふだんは「社会人」として隠している部分を暴かれるような小説だった。



岸本 佐知子
『死ぬまでに行きたい海』




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 エッセイ。

 摩訶不思議エッセイの名手(本業は翻訳家だが)による紀行エッセイ。紀行エッセイなのに、有名観光地へもおもしろスポットにも行かない。「過去に住んでいた町」だったり「変な名前の駅名」をめぐる旅。

 なんてことのない街なのに、岸本さんの文章によって「自分の記憶の片隅にあったあの街」が呼び起こされる。



 来年もおもしろい本に出会えますように……。


2022年12月26日月曜日

食物と調理器具で見る共生関係

 特定の食材専用の調理器具ってあるでしょ。

 たとえば炊飯器。ごはんを炊くことに特化している。まあ最近のやつはパンを焼けたりするけど、基本的には米専用の調理器具だ。

 あとトースター(食パンを縦に入れるタイプのやつ)、ゆでたまごを切るやつ、パイナップルスライサー、ピザカッター……。こういうのも基本的には単一の食材を調理することに特化している。


 ところで、ある種のイソギンチャクはヤドカリの殻に付着する。イソギンチャクは自分では早く移動することができないが、ヤドカリの殻にくっつくことで生息範囲を広げることができ、補色や生殖に有利になる。一方、ヤドカリとしても、毒のあるイソギンチャクを殻にくっつけることで外敵から身を守ることができる。こうした、お互いにメリットのある依存関係を双利共生という。アリとアブラムシも双利共生関係にある(アリはテントウムシからアブラムシを守り、代わりにアブラムシはアリに甘露を与える)。


 米と炊飯器も双利共生関係にある。

 米がなければ誰も炊飯器なんて買わない。パンを焼くためだったらホームベーカリーのほうがいい。炊飯器は絶滅してしまうだろう。

 逆に、米としても炊飯器があることで主食の地位を保っているといえる。釜や鍋で米を炊くこともできるが、今の時代、そこまでして家庭で米を炊く人は多くないだろう。ほとんどの人は「だったらパンや麺でいいや」となるにちがいない。

 もち米と臼と杵は三者間の双利共生関係にある。臼と杵があるからもち米は栽培されて食べられるし、もち米と臼がいるからこそ杵は存在していられる。もち米と杵がいなければ、臼はただの「サルの上から落ちてくるためだけの存在」だ。

 調理器具ではないが、少し前に流行ったタピオカと、太いストローも双利共生関係だ。あの太いストローがなければタピオカは流行らなかっただろうし、タピオカがなければあのストローも生まれなかった。

 石焼きビビンバと石鍋も双利共生関係といえる。本場韓国ではどうか知らないが、少なくとも日本ではあの石鍋はビビンバにしか用いない。たこ焼き器やたい焼きの型なども、それがなければたこ焼きやたい焼きは生まれなかったし、逆にたこ焼きやたい焼きを誰も作らなくなればあれらの食材もすぐに絶滅する。


 食パン専用トースターやゆでたまごを切るやつやパイナップルスライサーやピザカッターは、そこまで相互に依存しているわけではない。たしかにピザカッターがあるほうが便利だが、なくてもそこまで困らない。お好み焼き用のへらや包丁やナイフで代用できる。ピザカッターが絶滅したとしても、ピザの個体数にはさほどの影響はないだろう。

 こういう関係を片利共生関係という。片方だけが恩恵を被る関係だ。


 逆に食べもの側が器具に大きく依存しているケースもある。たとえばプリンとスプーンの関係を考えてみよう。

 プリンがなくてもスプーンは生存できる。スプーンの活躍する場面は多い。一方、スプーンがなければプリンは食べられることがないだろう。コンビニでプリンを買ったのにスプーンをつけてもらえず、やむなく箸でプリンを食べたことのある人なら、二度とあんなみじめなおもいはしたくないだろう。

 これもまた片利共生関係だ(スプーンがなくなればゼリーも個体数を減らすだろうが、一口ゼリーとして生きていく道があるので絶滅は免れる)。


 このように、我々のまわりにある食物や調理器具・食器はお互いに絶妙なバランスをとりながら生存しているのである。

 よく嫌いな食物について「○○なんて滅んでしまえばいい」という人もいるが、その食物も生態系の中で重要なポジションを占めており、消滅すれば他の食物に多大な影響を引き起こしかねないのだ。

 生態系を大事に!


2022年12月23日金曜日

【読書感想文】西 加奈子『漁港の肉子ちゃん』 / 狙いスケスケ小説

漁港の肉子ちゃん

西 加奈子

内容(e-honより)
男にだまされた母・肉子ちゃんと一緒に、流れ着いた北の町。肉子ちゃんは漁港の焼肉屋で働いている。太っていて不細工で、明るい―キクりんは、そんなお母さんが最近少し恥ずかしい。ちゃんとした大人なんて一人もいない。それでもみんな生きている。港町に生きる肉子ちゃん母娘と人々の息づかいを活き活きと描き、そっと勇気をくれる傑作。


 映画化もされた、「笑って泣ける」ハートフルな小説……なんだろうな。きっと。そういうつもりで書いたんだろうな。作者は。


 なんていうか、ことごとく狙いが透けて見えるんだろうな。

 ああ、この肉子ちゃんの口癖や言動は「ユーモア」のつもりで書いてるんだろうなあ、ここで笑ってほしいんだろうな、とか。

 ああ、「人じゃない生き物の声が聞こえる」「死者らしき人の姿が見える」「問題を抱えた子」などを書くことで「単なる平和な漁港の日常」にさせないつもりなんだろうなあ、とか。

 ああ、明るく悩みなんてなさそうな人のつらい過去を書くことで感動を誘ってるんだろうなあ、とか。


 作者の意図がとにかくわかりやすい。この小説は国語のテストの文章題にしやすそうだ。

「作者はなぜここで肉子ちゃんに傍線部1と言わせたのでしょうか」

「この小説を一文で説明するとしたら次のうちどれでしょうか。正しいものを二つ選べ」

なんて問題をすごく作りやすそうな小説だ。作者の狙いがわかりやすいから。


 まあそんなことを言ったらほとんどの小説が、作者の意図の下に書かれたものなんだろうけど。どんな作家だって「ここで笑わせたい」「ここで驚かせたい」という意図をもって書いてるんだろうけど。でも、それが透けて見えちゃあだめなんだよね。やっぱり。

 漫才師のボケの人は「これで笑わせてやろう」とおもってわざと変なことを言って、ツッコミの人もどんなボケが来るかを知っているのにはじめて聞くような顔で驚いたり怒ったりたしなめたりする。そこがわざとらしいと、たとえどんなおもしろいネタでも笑えない。

『漁港の肉子ちゃん』は、ひとことで言ってしまうと「芝居の下手な小説」だった。

「さあここで笑うんやで!」という顔をしながらボケて、「そういうとおもってたわ!」という顔をしながらツッコむ漫才のような小説だった。




 何が良くなかったのか、自分でもよくわからない。文章も悪くないし、構成も悪くない。ギャグはぜんぜんおもしろくないけど、もともと小説のギャグにそこまで高いレベルを求めてはいない。

 これといって悪いところは見つからない。なのになんだか妙に「著者の意図」が透けて見える。


 仮にさ。全智全能の神様がいるとして。

 世の中の人間も動物もことがらもすべてそいつの思い通りに動いてるとして。

 そうだったとしても、人生は変わらずおもしろいとおもうんだよ。どきどきしたり、喜んだり、悲しんだり、笑ったりする。

 でも。それは全智全能の神様が見えない場合の話であって。

 もしもそいつの姿が見えたら、すべてが興醒めだ。ぼくらが恋愛を成就させても、がんばってきたスポーツで負けても、仕事で成功しても、愛する人を失っても、そのたびに全智全能の神が現れて「ほらね。ワシの想定通り」って言ってきたら、人生なんてなんにもおもしろくない。きっと自殺率もはねあがるだろう。


 小説における著者ってのはその世界の神様だから、ぜったいにその姿が見えちゃいけない。存在を感じさせてもいけない。

 なのに『漁港の肉子ちゃん』からは著者の存在がびんびんと伝わってきた。まるで読んでいる横に著者が立っていて(どんな人か知らんけど)、「そこはこういう意図で書いたんだけどおもしろいでしょ?」と逐一説明されているかのような気がした。

 脚本は悪くないけど演出がダメダメな芝居、って感じだったなあ。


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2022年12月20日火曜日

仮名文学

 田中(仮名)は山下(仮名)を殴った。殴られた藤本(仮名)はかっとなって、杉浦(仮名)を殴りかえした。こうなるとあとは果てしない殴り合いだ。上田(仮名)の拳が上条(仮名)の顔面に当たり、お返しに上田(仮名)のキックが上条(仮名)の腰にヒットする。松井(仮名)のバットが秀喜(仮名)の背中に直撃した。

 さらに斉藤(仮名)は齋藤(仮名)の髪をつかむと、斎藤(仮名)めがけて頭突きをくりだす。これには齊藤(仮名)も齋籐(仮名)もダメージを受けてひっくり返る。先に立ち上がったのは齎藤(仮名)だった。

 亀井(仮名)と亀居(仮名)はふたりの喧嘩を呆然と見ていた。

 千葉(仮名)は地面にひっくりかえったまま昔のことを思い返していた。
 千葉(仮名)は山梨(仮名)出身だった。山梨(仮名)の奈良(仮名)という小さな港町で育ったのだった。幼い頃はよく岐阜(仮名)まで自転車を走らせて日が暮れるまで海を見ていた。群馬(仮名)の海はきれいだった。地元の少年たちにはモンゴル(仮名)の海のほうが人気だったが、千葉(仮名)はウズベキスタン(仮名)から見える海のほうが好きだった。

 甲(仮名)は乙(仮名)のことが好きだった。申(仮名)にとってZ(仮名)はただの親戚ではなかった。だが由(仮名)は己(仮名)に思いを伝えぬまま郷里を出たのだった。

<つづく>