2022年5月27日金曜日

【読書感想文】花村 萬月『笑う山崎』 / 愛と暴力は紙一重

笑う山崎

花村 萬月

内容(e-honより)
マリーは泣きそうな子供のような顔をした。「なにする!」圧しころした声で言った。「犯しに来た」その一言で、マリーは硬直した。冷酷無比の極道、山崎。優男ではあるが、特異なカリスマ性を持つ彼が見せる、極限の暴力と、常軌を逸した愛とは!フィリピン女性マリーを妻にしたとき、恐るべき運命が幕を開けた…。

 この小説の主人公・山崎はとんでもない男だ。ヤクザからも恐れられ、些細なことで初対面の女の顔面を殴ったり、敵対する人間には残虐な拷問をおこなって殺したりもする。それでありながら、京大中退の過去を持ち、色白細身、下戸、喧嘩は弱い。

 漫画『ザ・ファブル』を想起するが、あっちはもはや〝単に強いだけの善人〟だが山崎のほうはあくまで悪人だ。敵とみなした相手はどこまでも追い詰める。死ぬ覚悟ができている相手を助け、食事や女に触れさせて生きる気力が湧いてきたところで拷問にかけて殺すなんていう悪魔のような所業もおこなう。

 とことんワルでありながら、山崎はなんとも魅力的なキャラクターだ。どこか憎めない(もちろん近づきたくないが)。稀代のダークヒーローである。

 あ、エロとグロと暴力の描写がきついし、すかっとする部分もあるけど基本的に山崎は極悪非道のクズ野郎なので胸糞悪いくだりも多い。万人におすすめはしません。




 山崎は血のつながらない娘・パトリシアを溺愛し振り回される一方で、さして怨みもない相手に残虐な仕打ちを加える。慕ってくるヤクザに対して優しさを見せるが、銃撃されたときは平気で盾に使う冷徹さも持っている。どうも一貫していない。行動がちぐはぐな印象を受ける。

 物語のラスト、自身の行動原理を問われた山崎は答える。

「愛だよ、愛」

 これだけ見たらじつに安っぽい言葉だ。「愛だよ、愛」なんて歯の浮くような台詞を吐く人間は信用できない。ましてヤクザと濃密なつながりのある男が口にしたら冗談にしか聞こえない。

 しかし、ここまで読んで山崎という男の不器用きわまりない生き方を見てきたぼくとしてはおもう。まったく、その通りだと。山崎はまさしく愛に生きているのだと。

 山崎だけでない。山崎を取り巻くヤクザや情婦たちも愛を求めて生きている。

 もっとも彼らの愛はみんな歪んでいる。登場人物の多くは親の愛を知らぬまま大人になり、それを別のもので埋め合わせようとしている。
 彼らにとっての愛の表現は、女の顔面を殴りつけることだったり、身代わりとなって死ぬことだったり、誘拐した少女をあちこち連れまわすことだったり、覚醒剤を欲しがる男の代わりに手に入れてやることだったり、一般常識からすると狂っている。

 しかしぼくはおもう。歪んでいるからこそ愛なんじゃないか、と。

 常識で測れるものは愛じゃない。「こうした方が得だから」「こっちのほうが世間的に認められるから」という原理で動くのは愛とは言わないだろう。

 親から子への愛だって同じだ。どんなに悪い子でも、どんなにダメな子でも、献身的に尽くす。それこそが愛。親とはそういうものだとおもっているけど、冷静に考えればいかれている。

 そして愛と暴力はけっこう近いところにいるとおもう。

 ぼくが誰かを殴ったのは中学生のときが最後だ。それ以来誰も殴ったことはないし、殴ろうとおもったこともなかった。数年前まで。
 でも最近はある。相手は、娘だ。こっちが娘のことを大事にして、心配して、甲斐甲斐しく世話を焼いてやる。にもかかわらずまったく言うことを聞いてくれなかったり、露骨に反発されたりすると、つい手を出したくなる。

 どうでもいい相手のことは殴ろうとおもわない。殴っても損をするだけだから。そもそもそこまで他人の行動に感情を動かされない。でも、愛する娘のことは猛烈に憎くなることがある。愛と暴力は近いところにある。


 徹頭徹尾いびつな愛を見せつけてくれる、愛と暴力にあふれた小説だった。


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2022年5月26日木曜日

【カードゲームレビュー】NHKカガクノミカタ くらべてみるゲーム

NHKカガクノミカタ
くらべてみるゲーム

「賢くなる」を謳い文句にしているゲームは基本的につまらないので買わない、という信念があるんだけど、これはルールを読んでおもしろそうだったので買ってみた。


 ルールはこんな感じ。

・「動物X」役(一人)と、「博士」役(それ以外の全員)に分かれる。

・「動物X」はさまざまな動物(哺乳類)が書かれたカードから一枚めくり、こっそり見る。

・比較対象となる動物カードをめくる。

・「博士」たちは質問カードにもとづいて「動物X」役に質問をして、「動物X」が何かをあてる。


 シンプルなルールだ。たとえば「動物X」がオオカミで、比較対象がハリネズミだとする。
 動物X役は、「どっちが大きい?」ならオオカミ、「どっちが飼いやすそう?」ならハリネズミと答える(主観も入る)。質問を重ねて、一種に絞っていくわけだ。




 八歳の娘と何度かやってみたが……。

 まず、ルールに忠実にやるとつまらない。おまけにむずかしい。欠点だらけだ。


質問カードがクソ

「強そうなのはどっち?」とかならいいが、「空を飛ぶのが上手そうなのはどっち?」とか「鼻が長そうなのはどっち?」とか、なんとも微妙な質問が多い。

 動物カードは哺乳類ばかりなので、空を飛べるのなんてはモモンガぐらいしかいない。そりゃあカバよりもウサギのほうがまだ飛べそうだけど、そのあたりは主観なので人によるとしか言いようがない。

「どっちが鼻が長い?」もひどい質問だ。ゾウと比べたらすべての動物が短い側に入るので、まったく絞り込みに役立たない。カバとヒトのどっちの鼻が長いかなんて比べようがない。ウマやオオカミは顔の中心がつきでているが、あれは鼻が長いのか? それとも口が長いのか? よくわからない。

 質問カードはダメな質問ばかりだ。「草を食べていそうなのはどっち?」とか(そんなの比べるもんじゃねえ)、「角が大きそうなのはどっち?」とか(両方ない場合比べようがない)、「耳が大きそうなのはどっち?」とか(絶対的な大きさなのか、それとも相対的な大きさなのかわからない。たとえばウサギは相対的に耳が大きいが、絶対的な大きさではサイより小さいだろう)。


動物カードが微妙

 ゾウやキリンはいいとして、クマとかイノシシとかアルパカとかキツネとか、そんなに特徴のないやつも多い。二択の質問をくりかえしてタヌキかキツネかを見分けるとか、ライオンかトラかを見分けるとか、大人でもむずかしいぜ。子どもにはまず無理だ。

 哺乳類にこだわることなく、ニワトリとかカメとかカブトムシとかタコとかバラエティ豊かな顔ぶれにしたらいいのに。


質問をしても絞れないことが多い

 たとえば「比較対象カード」がライオンで、質問カードが「強そうなのはどっち?」なんてことが起こる。この質問をして、答えがライオンでも、答えがまるで絞れない。ライオンといい勝負ができるのはトラかゾウぐらいだからだ。ほぼ無意味な質問だ。



「比べることで動物Xを当てる」という大枠はいいのだが、ルールがひどすぎる。開発者はじっさいに子どもと遊んでみたのだろうか。


ってことでルールを改変してみる

 まず質問カードをなくした。質問は自分で考える。
 また、「比較対象カード」も自由に変えられることにした。

 たとえば比較対象の動物をブタにして「大きいのはどっち?」と訊けば、だいたい半分ぐらいに絞られる。

 これでなんとかゲームとして成立するようになった。しかし「タヌキとキツネを見分ける質問をするのがむずかしい」といった問題が残る。

 もう動物カードもいらないかもしれないな。自分で動物を考えて、「それはキツネより大きいですか?」「それとネズミ、食べるならどっち?」といった質問をくりかえすことで当てるのだ。

 質問カードも動物カードもいらない……。となると、そもそもこのゲームを買う必要がないな!



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2022年5月25日水曜日

【読書感想文】氏原 英明『甲子園という病』 / 高校野球は高校生でなくたっていい

甲子園という病

氏原 英明

内容(e-honより)
甲子園はいつもドラマに事欠かないが、背後の「不都合な真実」に光が当たることは少ない。本来高校野球は「部活」であり「教育の一環」である。勝利至上主義の指導者が、絶対服従を要求して「考えない選手」を量産したり、肩や肘を壊してもエースに投げさせたりするシステムは根本的に間違っている。監督・選手に徹底取材。甲子園の魅力と魔力を知り尽くしたジャーナリストによる「甲子園改革」の提言。


 ぼくは高校野球が好きだ。最近こそあまり観なくなったが、以前は毎年春と夏には必ず甲子園に足を運んでいた。通算二十回は甲子園に高校野球を観にいった(連日行っているファンからは鼻で笑われそうなレベルだが)。

 高校野球はおもしろい。甲子園で観ても、テレビで観ても、ラジオで聴いても、熱闘甲子園(野球を楽しむのではなくドラマを作ろうとしてた長島三奈時代を除く)で観てもおもしろい。

 が、そんな高校野球ファンであるぼくから見ても、高校野球は異常だとおもう。あかんところだらけだ。

 野球をするための越県進学、野球がうまい子を集める特待生制度、勉強を犠牲にしての朝早くから夜遅くまでの練習、平日昼間に開催されるので学校をサボって参加しなければならない予選、八月の炎天下にアリジゴクの巣みたいな場所で開催される大会、身体を壊しても無理して投げる投手、それを美談として伝えるマスコミ、すべてが狂気の沙汰だ。海外のメディアや選手から厳しく批判されても、ほとんど変わることはない。

 高校野球がすっかり日本に根付いているのでみんな忘れてしまいがちだが、たかが野球である。野原で球っころを投げて棒っきれでひっぱたく、あの野球だ。そりゃあ野球は楽しいが、だからって健康や勉学を犠牲にしてしなきゃいけないほどのものではない。

 他の部活でも多かれ少なかれ無茶はするが、高校野球と箱根駅伝は特に異常だ。そもそも八月の昼間の甲子園球場も正月の朝の箱根もスポーツをやる環境じゃない。


 学生野球の異常さにみんなが気付いてきたのだろう、野球をする少年は減ってきているそうだ(少子化のペースよりずっと速いペースで減っている)。ええこっちゃ。

 もちろん野球が異常だから避けられるってのもあるけど、それ以上に「みんなが野球をやって野球を観ていた昭和~平成中期が異常だっただけ」だとはおもうけどね。




『甲子園という病』では、長年高校野球の取材をしてきた著者から見た、高校野球を取り巻く異常な環境について書かれている。

 肘を壊しても投げつづけるエース、翌日も授業なのに平日夜遅くまでおこなわれるナイター、食べるものや量まですべて管理されている野球部員、指導者としてのトレーニングを受けていない監督やコーチ、甲子園で活躍したせいでかえって道を踏み誤ってしまった選手……。

 特にひどいのが、選手の身体にダメージを与える過酷なスケジュールやエースの連投だ。

 2013年の甲子園に出場した木更津総合の千葉投手は、肩を痛めた状態で登板。スローボールしか投げることができずにマウンドを降りた。無理がたたり、その後数年間はリハビリに費やすこととなった。

 問題の核心は別のところにある。「身体のケアに関する考え方が変わったいまでも、あの時に戻ったら、またマウンドに立つ」と頑なに言い続ける千葉にある質問をぶつけてみると、それまでとは異なった感情を吐露した。
 もし、自分の兄弟や親戚にあの日の千葉君と同じ立場の人がいて、ケガを我慢して甲子園で投げるといったら、何とアドバイスしますか。
「それを言われると、考えますね。その立場なら止めると思います。自分がプレーヤーとしてならいいんですけど、人が痛みを我慢してプレーしているのを見ると心苦しくなります。自分と同じ苦しみは人に味わってほしくないと思います」
 高校生の成熟しきっていない精神状態では、将来のことなど頭から消えていくというのが現実なのだろう。日々の厳しい練習を乗り越える部活動の仲間がいて、甲子園という存在がある。選手の意見は一つにしかならないというのが実情なのだ。

 千葉投手のことは知らなかったが、ぼくの記憶には2009年の甲子園に出場した菊池雄星投手の姿が強く残っている。大会再注目左腕として出場した菊池投手は、しかし万全ではなかった。腰や背中に痛みを抱え、思うような投球ができなかった。それでも痛みを押して出場。敗退後のインタビューで涙を流しながら「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」と語るシーンが強く印象に残った。

 そのインタビューを見たぼくは感動したのではなく、「こんな状態で投げさせたらあかんやろ……」とドン引きしていた(なんと彼は肋骨が折れた状態で投げていたそうだ)。

 幸い菊池投手はその後回復してプロ野球、メジャーリーグで活躍をしたが、あの試合はそんなすばらしい才能を持った選手をつぶしてしかねない危険な試合だった。


 著者は、高校野球で活躍することが必ずしも選手にとっての幸福につながるわけではないと語る。

 カープやメジャー球団で活躍した黒田博樹投手は、高校時代チームの三番手投手だったそうだ。

 田中は感慨深くこう語る。
「高校の時のクロがプロの世界に行くなんてことは全く思っていなかったですね。それを果たせたのは彼の性格でしょう。どれだけ怒られても一生懸命やっていました。反骨心もあったと思います。甲子園に行けなかったので、甲子園組には負けたくないと大学の時は言っていました。ピッチング的なことで言えば高校時代、技に走らなかったのが良かったのかもしれません。彼の持ち味はストレートだったので、『お前は変化球なんか暦かんでええ。ストレートで押せ』とストレートにこだわるようにとは言っていました。でも、それができたのは二枚看板の投手がいたからです。黒田は大きく育てようという気持ちになれました。高校野球の監督には甲子園に出ないといけないという使命感があります。だから、もし、黒田しかチームに投手がいなかったら、指導法も起用法も変わっていたでしょうね。高校時代は開花しませんでしたけど、それが彼にとっては良かったのかもしれません」


 現役最高の日本人選手といってもいい大谷翔平選手も、高校時代は注目はされていたが甲子園ではさほど結果を残していない。二回出場して二度とも初戦敗退。怪我にも泣かされ、三年夏は地方大会で敗れている。

 しかし、このときの大谷は未完成だった。というのも、前年夏の甲子園に出場していた大谷は、その際に骨端線を損傷していた。長く尾を引いたケガで、前年秋の大会にほとんど出られなかったのだ。
 その際、花巻東の佐々木洋監督は、大谷に技術練習を一切させず、身体づくりに専念させた。負荷の掛かる練習ができなかった大谷は早々に練習から切り上げさせ、全体寮とは別の学校が借りている下宿先に住まわせた。ご飯を食べてしっかりと睡眠を取ることで、身体の成長を促そうとしたのだ。
 その成果が実って大谷の身体は大きくなり、後に一六○キロのストレートを投げられるようになったと佐々木は回想しているが、その分投球フォームの安定性は欠いていた。藤浪と対戦したセンバツ時は一球一球、リリースポイントが違っていたほどで、制球は荒れていた。当時、使っていた変化球もカーブが主流だった。なぜなら、スライダーを多投すると投球フォームが崩れるからだ。

 甲子園ではおもうような結果は残せなかったが、今考えると大谷翔平選手にとってはそれが良かったんだろうなとおもう。仮に花巻東高校が甲子園で勝ち進んで連投するようなことになっていたら、今の活躍はあったかどうか。結果論ではあるが。

 ちなみに大谷選手は前述した菊池雄星投手と同じ花巻東高校で、大谷選手が三年後輩だ。菊池投手の「一生野球ができなくなってもいいから、人生最後の試合だと思って投げ切ろうと思った」があったからこそ、監督は大谷に無茶をさせなかったのかもしれない。


 いくぶんマシになってきたとはいえ、高校野球、特に日程がタイトで過酷なコンディションで試合をおこなう甲子園では選手は無茶をさせられる(または自分から無茶をする)ことが多い。

 野球界以外でも無茶をする人はいる。貴乃花が痛みに耐えて優勝決定戦に出場したり、羽生結弦が痛み止めを打ってオリンピックに出場したり。

 そういうのもよくないが、プロのやることであれば最後は本人の好きにしたらいい。それで選手生命を縮めても自己責任だ。手塚治虫に「そんなに漫画ばっかり描いてたらあなた寿命を縮めますよ」と言っても無駄だろうし、命を削ってでも何かに打ちこみたいとおもっている人を止めるのがいいことともおもえない。

 ただ怪我を押して出場した貴乃花や羽生結弦を褒めたたえるべきではないとおもうけどね。ゴッホと同じ「趣味にとりつかれて発狂してしまったかわいそうな人」カテゴリに入れてあげるべきだとおもう。




 プロならまだしも、高校生の部活ごときで将来を投げ捨ててしまっていいものだろうか。

 全員がプロ野球選手を目指しているわけではない、実際にプロになれるのはほんのひとにぎり。プロになったって大半は活躍できずに球界を去っていく。

 それなのに、現在日本の高校の野球部はほぼすべてが「本気で甲子園を目指さないといけない」という呪いにとりつかれている。異常だ。

「勝てなくてもいいから楽しく野球をやろう」という人は居場所がない。漫画『H2』では、せっかく野球愛好会というすばらしい組織があったのに、野球バカである主人公たちによって甲子園を目指す野球部に作り替えられてしまった。あれは泣けた。しかもあいつ野球部乗っ取った上にかわいいマネージャーといちゃいちゃしてるし。なんなの。楽しく野球をやりたかっただけの先輩たちの立場がないじゃん。

 ぼくも、野球愛好会があれば入りたかった口だ。ぼくの通っていた高校にはソフトボール部があったが部員は女子だけで、顧問の先生に「男子は入れないんですか」と訊いたら「男子は野球部で甲子園を目指さんかい!」と言われた。うちの高校が特別だったわけではない。これこそが日本中の高校を覆っている空気だ(軟式野球部もあるけどね)。


 結局、高校野球であることがすべての元凶なんじゃないかとおもう。

 サッカーのクラブユースみたいにプロの養成機関を作ったらいいのに。プロになりたい人は高校じゃなくてそっちに進む。高校生じゃなくてプロの見習いという立場であれば、朝から晩まで野球したっていい。

 むしろ、サッカーのクラブユースは高校と提携したり、サッカー選手になれなかった選手の進学をサポートしたり、就職先を斡旋したりしているそうだ。高校じゃなくてプロチームの下部組織だからこそ、そのあたりも手厚くできるのだろう(そうじゃなかったら保護者がユースに入らせないだろうし)。

 もう甲子園に出るのは高校野球じゃなくてもいいともおもうよ。高校生が参加してもいいけど、クラブユースも参加できる大会にしたらいい。どっちみち今だって甲子園に出てくるようなチームなんか地元出身じゃない選手だらけだし。




 高校野球にいろいろ問題はあるけど、つきつめていけば指導者の問題になる。

『甲子園という病』では勉強や資格取得に力を入れているチームや、楽しんで野球をやらせているチームも紹介されている。でもそれらは結局「いい指導者ががんばったからできたこと」とであって、野球界全体での改善の話はほとんど見られない。

 結局、ほとんどの指導者がアマチュアなんだよね。資格や講習がなくても高校野球の監督にはなれるわけだし。甲子園に何度もチームを率いている名将と呼ばれる監督だって、チームを勝たせることに長けているだけであって選手育成のプロとはかぎらない。しょっちゅう甲子園には出てくるけどぜんぜんプロ野球選手を輩出しない高校とかあるもんね。■■■とか■■■■■とか。

 選手はアマチュアでいいけど指導者はアマチュアではいけない。

 野球界全体として、監督は「いい選手だった人がなる」という風潮がある。現役時代は大した結果を残せなかったがプロ野球の監督として有名になった人って仰木彬氏とボビー・バレンタイン氏ぐらいしかおもいつかない。

 日本の野球界における監督選びは「観客動員」を意識しているところがある。監督は球団の看板でなければならない。そのため、指導力云々よりも知名度や人気が重視される傾向にある。
 プロの世界がそうだと、日本の野球にとっての指導者の在り方そのものが軽薄にうつってしまうのではないか。プロ野球の監督ですら実績を積まない人間でもなれるものという認識がまかり通るのだから、野球における指導者の価値が高まってこないのだ。

 これは半分は同意できるけど「とはいえプロ野球はショービジネスだからな」ともおもう。やっぱりビッグボスみたいに客を呼べる監督は、それはそれで正義だよ(その分コーチやトレーナーはちゃんとした人にするべきだけど)。


 この「現役時代の実績が指導者になるためにものをいう」は野球界にかぎった話ではないけどね。会社員でもそうだし。営業成績が良かった人が管理職についたりするし。営業として優秀だからといって管理職として一流とはかぎらないのに(むしろトップ営業マンほど管理職としてはダメであることが多い)。




 仮に、今新しいスポーツができて、
「そのスポーツをさせるために日本中から選手を集めます。そのスポーツがうまい高校生は勉強なんかしなくていいから朝早くから夜遅くまで練習させます。平日昼間に試合やるので学校サボらせます。八月の炎天下に熱中症の危険にさらしながら競技させます」
ってやったら非難の嵐だろう。

 でも高校野球だったら許される。伝統というわけのわからない理由を盾に。年寄りたちの「おれたちの時代はもっとひどかった」という理屈になっていない理屈を盾に。

 伝統とは「論理的に他者を説得できる材料がすべてなくなった人が最後にすがりつく藁」なんだよな。


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2022年5月24日火曜日

一年に一度の服を捨てたくなる瞬間

 一年に一回ぐらい唐突に「服を捨てたくなる瞬間」が来るので、「よっしゃきたー!」って言いながらどんどん捨てる。


 基本的に服を捨てられない人間だ。基本っていうか応用も発展も捨てられない。ふだん服を捨てるのは「外から見えるところに穴が開いたとき」ぐらいだ。

 Tシャツだと、何回も洗濯してよれよれになって、ぶどうの汁とかがついて汚れが目立つようになってもまだ捨てない。パジャマにまわす。いったんパジャマにすると襟元がびろびろになってもカレーがこぼれても「家の中で着るだけだからまあいっか」となって捨てられない。へたすると二十年ぐらい前に買ったシャツをまだ着ている。

 靴下は穴が開くので、明確に「終わり」がわかる。穴が開いたら捨てる。シンプルだ。
 しかし両方は捨てない。ぼくは黒の無地の靴下しか買わないので(洗濯後にペアの相手を探すのが面倒なので)、片方に穴が開いた靴下が二足あればそれで新たにワンペアできる。したがって片方は置いておく。

 パンツは、うんこを漏らしたら終わり。これもわかりやすい。
 しかしぼくもいいおっさんなのでそうそう漏らさない。数年に一回ぐらいだ。したがってパンツも捨てられない。こないだパンツを履こうとおもったらお尻のところに穴が開いていた。パンツに穴が開くってどれだけ履いたのだろう。十年以上履いたかもしれない。


 身だしなみには気を遣わないけどさすがに外に着ていく服は選ぶ。三ヶ月に一回ぐらいユニクロなどに行ってどかっと買いこむ。
 スーツは毎年買う。仕事ではそこそここぎれいにしないといけないという意識はある。

 買うけど捨てられない。だからどんどん増える。たんすがいっぱいになる。


 そんなわけで、一年に一回の「服を捨てたくなる瞬間」はぼくにとってチャンスタイムだ。
 これは汚い。これは襟がよれよれになっている。これは一年以上着ていない。どんどん理由をつけて捨てていく。ちらっと「もったいない」という意識もよぎるが、ここで立ち止まったらたんすが爆発するので、むずかしいオペに集中しているブラック・ジャックみたいに「なむさん!」と言いながらどんどんごみ袋に放りこむ。

 ひととおりごみ袋に放りこんだらものすごくすっきりする。はあ、やってやったぜ。厄介な癌細胞をとりのぞいた気分だ。


 だが油断は禁物だ。今度は「着なくなった服を捨てにいく」という作業がある。
 これがなかなかおっくうで、すべての仕事を終えた気になっているぼくにとってはなかなかの難事業だ。だがこれはその日のうちにやらなくてはならない。

 なぜなら、このごみ袋を捨てに行かないと、後日洗濯物がたまったときに「着る服ないなー。おっ、これまだ着れるやん」とごみ袋から服をひっぱりだして着てしまうからだ。そういうやつなんだよ、ぼくは。

 これで何度癌が再発したことか。



2022年5月23日月曜日

【読書感想文】井手 英策『幸福の増税論 財政はだれのために』/増税は(理論上は)いいこと

幸福の増税論

財政はだれのために

井手 英策

内容(e-honより)
なぜ日本では、「連帯のしくみ」であるはずの税がこれほどまでに嫌われるのか。すべての人たちの命とくらしが保障される温もりある社会を取り戻すために、あえて「増税」の必要性に切り込み、財政改革、社会改革の構想を大胆に提言する。自己責任社会から、頼りあえる社会へ―著者渾身の未来構想。

 おもしろかった。

「税を増やそう」「消費税は悪くない」といった提言なので、反射的に拒否反応を示す人も多いだろう。

 案の定、Amazonのレビューを見ても「☆一つ。なぜ消費税増税が必要なのでしょうか」みたいなひどいレビューが並んでいる。その理由を本の中に書いているのに。読まずにレビューを書いていることが一目瞭然だ。


 税金をとられることを好きな人はほとんどいない。ぼくだって免除されるんなら免除されたい。ただし免除されてうれしいのは「自分だけ免除」の場合だけだ。「日本国民全員から税金をとるのはやめます!」は困る。学校も警察も消防も医療もインフラもあっという間に立ちいかなくなる。

 勘違いしがちだが、ぼくらはべつに税金が嫌いなわけではないのだ。嫌いな理由は「正しく使われていないのではないか」「払うべきやつが払ってないのではないか」という不公正感があるからであって、税金制度自体に反対する人はまずいないだろう。

 そもそも税金というのはほとんどの人にとっては得なのだ。それぞれの家に水道を引こうとおもったら、いったいいくらかかるか想像もつかない。個人浄水場と個人上水道と個人下水道と個人下水処理場を作れる金持ちはまずいない。それだけでも、生涯に納める税金額を超えるはずだ。そんなサービスが税金と水道料金あわせてもせいぜい月数千円で利用できるのだ。おとく~!


 だから税金を上げるべき、という主張はしごく正しい。正しく徴収して正しく使えば、税金は高ければ高くてもいい。所得税が50%を超えたって、それ以上のサービスを受けられるのであれば得だ。じっさい、日本よりも高い税率の国はいくらでもあるわけだし。

 もちろん「正しく徴収して正しく使えば」の部分がむずかしいわけだが、それはまた別の問題。税金自体が悪いわけではない。




 著者はまず「勤勉に働けば経済が成長する時代は終わった」と説明する。どう考えたって高度経済成長期やバブルのような時代は二度とやってこない。その時代に築いた経済モデルでやっていくのは無理がある。

 日本人が勤勉でなくなったわけではない。必死に働いてもあんまり経済成長しない。他の国もそうだ。アメリカも成長率は落ちている。中国だって近いうちにそうなる。


 ぼくもまったくの同意だ。多くの人が気付いているだろう。永遠の経済成長なんてまやかしだということに。歴史上、ずっと成長を続けた国も企業も存在しない。

「〇〇すれば成長する!」という人は現実を見ていない。「毎日運動を続けていれば身体能力は向上する!」はある時期までは正しいが、一定の年齢を超えると通用しなくなる。永遠の経済成長を信じられる人は百歳超えても若い肉体でいられるために筋トレでもしてなさい。


 経済は成長しない。格差はどんどん拡がる。そんな状態で消費が伸びるはずがない。ますます経済は成長しなくなる。もはや個人の努力ではどうにもならない。だったら分配のしかたを変えるしかない。

 だが「困っている人を税金で救う」ことを嫌う人は多い。

 自分も税金で得している(払っている額より受けているサービスのほうがずっと大きい)くせに、公務員や生活保護受給者を非難する人たちだ。

 だから「困っている人を税金で救う」ことはなかなかうまくいかない。


 そこで筆者が提案するのは「ベーシック・サービス」だ。

 ここでひとつの提案をしよう。現金をわたすのではなく、医療、介護、教育、子育て、障がい者福祉といった「サービス」について、所得制限をはずしていき、できるだけ多くの人たちを受益者にする。同時に、できるだけ幅ひろい人たちが税という痛みを分かちあう財政へと転換する。ようは財政のあるべき姿への回帰をめざすということだ。
 僕たちは、だれもが、生まれた瞬間に保育のサービスを必要とし、そして育児のサービスを必要とするようになる。一生病気をしないという人はいない。歳をとって介護を絶対に受けなくてすむと断言できる人もいない。教育はだれもが必要とする。だれだっていつ障がいをもつようになるかわからない。
 すべての人びとが必要とする/必要としうる可能性があるのであれば、それらのサービスはすべての人に提供されてよいはずである。また、そのサービスは、人びとが安心してくらしていける水準をみたす必要がある。これらを「ベーシック・サービス」と呼んでおこう。
 人間が生きていくプロセスには、自己責任で対応すべき領域と、おたがいに頼りあい、ささえあいながら、解決するしかない領域とが存在する。そのうち、後者を、財政によって確実に保障する。一人ひとりがささえあう領域を拡大し、いかなる不遇にみまわれても、みなが安心して生きていける社会をめざすのである。

「困っている人を救う」のではなく「全員を救う」のだ。これなら抵抗感も減るだろう。

 困っている人を救うための政策が反対されるのは、不公平だからだ。

 低所得者や子育て世帯や高齢者の医療費を税金で出すことには反対の人でも、全国民の医療費をタダにするのであれば少なくとも「不公平だ」という批判はなくなるだろう。

 ベーシック・インカムにも似ているが、「ベーシック・サービス」は金銭ではなくサービスで支給する。これにより必要な人にだけ必要なサービスを提供できる。医療費がタダになったからって健康なのに病院に毎日通う人はほとんどいないだろう。

 ベーシック・インカムであれば、結局難病になったときなどに医療費をどうするかという不安は解消されない。むしろ、「毎月金をもらってるんだからその中でやりくりしろよ」と自己責任論が幅を利かせそうだ。だからベーシック・インカムよりもベーシック・インカムのほうが不安解消にはいいと著者は説く。


 これはすごくいいとおもう。将来が不安なのは、未来がどうなるかわからないからだ。

 病気や怪我で働けなくなるかもしれない。介護が必要になるかもしれない。だから貯蓄が必要になる。

 でも、医療費も介護費用も子どもが大学まで行くお金も全部タダであれば、不安はだいぶ軽減される。貯蓄はずっと少なくて済む。

 今でも生活保護制度はあるが、これはほとんど「最後の手段」だ。条件は厳しいし、申請はたいへんだし、後ろめたさも感じる。ところが「全国民がタダ」であれば後ろめたさを感じる必要もない。

 サービスの自己負担が少ない北欧諸国を見てみると、社会的信頼度が先進国のなかで最高水準にあることがわかる。それは彼らが善良な人間だからではない。受益者の範囲をひろげ、他者を信頼した方が自分のメリットになるメカニズムを生みだしているからである。
 このメリットは低所得層の心のありかたにまでおよぶだろう。いかに自分がまずしく、はたらく能力がないかを告白して、生活保護によって救済されるという社会ではなく、だれもが堂々と生存・生活に必要なベーシック・サービスを受けられる社会になる。低所得層は「社会の目」「他人の目」から自由になり、尊厳をもって生きていくことができるようになる。
 所得の平等化だけではなく、人間の尊厳を平等化するという以上の視点は、きわめて重要である。ベーシック・サービスは「尊厳ある生活保障」を可能にするのだ。
 それだけではない。所得制限をはずしていけば、現在、所得審査に費やされている行政職員の膨大な事務を大幅に削減することができる。だれが嘘つきかをあばく所得審査のために労力を費やすのはおろかなことだ。ムダづかいを探しあて、人間不信をあおりたてることの結果ではなく、人間の生の保障と幸福追求の結果として、自然に行政も効率化していくのである。


 うちには子どもがいるので毎年子ども手当をもらっているのだが、毎年毎年手続きが必要になる。役所から書類が送られてきて、それに記載して返送。役所でチェックをして、後日指定した口座に子ども手当が振り込まれる。それでもらえる額が年一万円だ。

 毎年「ばっかじゃないの」と毒づきながら書類に記載をしている。この書類の作成、郵送、記入、返送、チェック、振り込みに使っている額を時給換算したら数千円になっているだろう。一万円の支給をするために数千円かけて手続きをする。実にばかばかしい。最初から現金書留で一万円送ってきたらいいのに。多少は送付ミスも起こるかもしれないが、それで失われる額よりも手続きにかかる金のほうがずっと多いにちがいない。

 でも、公的支援においては効率よりも公正が求められる。こないだ、誤って数千万円の給付金が振り込まれた人が返還を拒否したために大騒動になった。あれはよくないことだが、逆に考えればあれが大ニュースになったということは「誤って大金が振り込まれて返還に応じない人」というのはめちゃくちゃ稀少な存在だということだ。数十年に一度発生するぐらいの。

 予言するが、きっと今後役所の振り込み手続きは今よりずっとずっと面倒なものになるだろう。誤入金をなくすために。そしてそれにより失われる金額は数千万円どころではないはずだ。

 公正におこなうために誰も得しない煩雑な手続きを課しているのだ。

 ベーシック・サービスが実現すれば、こういう無駄な手続きもずっと少なくなるはずだ。「還付する」よりも「はじめっから徴収しない」ほうがずっと楽なのだから。


 ま、手続きが簡便になるってことは、これまで中抜きをしてうまい汁を吸ってた人や、特定の団体を優遇することで集票に使っていた政治家からしたら困ることだろうけどね。




 ぼくらは「貯蓄はいいことで、税金をとられるのは悪いこと」と考えてしまう。

 だが、貯蓄と税金は表裏一体のものだと著者は説く。

 もう少し議論を深めておこう。貯蓄をすれば、資産が増えることは事実である。ただし、それが将来へのそなえであり、いま使うことのできない資産である以上、税を取られるのと同じように消費は抑えられている。(中略)
 注意してほしいのは、人間は自分が何歳で死ぬのかを知らないということだ。したがって、九〇歳、一○○歳まで生きてもいいように過剰な貯蓄をする。マクロで見ればこの分の消費抑制がおきるうえ、相続人も高齢化がすすむため、相続した貯蓄をそのままためこんでしまう。
 頼りあえる社会では、人びとが将来へのそなえとして銀行にあずけている資金を税というかたちで引きだし、これを医療、介護、教育といったサービスで消費する。たしかに僕たちは取られる。だが、自分が必要なときにはだれかがはらってくれる。
 さらには、手元にのこったお金は、貯蓄ではなく、遠慮なく消費にまわしてよい。「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」が頼りあえる社会のめざす究極の姿である。
 もちろん、税によって短期的には消費が抑制されることは事実である。この点は、次章であらためて検討する。ここでいっておきたいのは、社会保障・税一体改革の反省をもとに、税収を財政健全化ではなく、僕たちのくらしの保障に財源を回せば回すほど、税による消費の抑制効果は小さくなるということだ。税の使いみち次第で経済効果はちがってくる。

 多くの人は「増税すれば消費が鈍る」と考える。しかしこれは正確ではない。消費が鈍るのは「増税しても受ける公的サービスが増えないから」だ。

 たとえば所得税が月に一万円増える代わりに、大学の授業料がすべて無料になったとしたらどうだろう。多くの子育て世帯はむしろ自由に使えるお金が増えるんじゃないだろうか。

 そう考えると増税はぜんぜん悪い話じゃない。




 増税をして公的サービスを充実させようという著者の提案はすばらしい。猫も杓子も(財務省以外)減税せよしか言わないので、こうした意見はたいへん貴重だ。

 著者の言っていることは、理論上は正しいとおもう。


 でも……。やっぱりむずかしいだろうな。

 すべての人が納得する税の使い方なんてないもの。おまけに不正な金の使い方をする政治家や役人は(少数とはいえ)ぜったいに存在するし。

「不正はあるけどそれはそれとして増税しましょう」に多くの国民が納得するかというと……。ま、無理でしょうな。

 せめて政治家だけでもこういう考えを持ってくれると助かるんだけど。


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