2022年5月20日金曜日

『ベイクオフ・ジャパン』の感想

ベイクオフ・ジャパン

内容(Amazonプライムより)
イギリスの大人気番組『ブリティッシュ・べイクオフ』の日本版がついに登場!全国から選ばれた10人のアマチュアベイカーたちがお菓子やパン作りなどベイキングの腕を競います。審査員は、一流パティシエの鎧塚俊彦さんと日仏ベーカリーグループオーナー/パン職人の石川芳美さん。ベイカーたちは各話3つのチャレンジに挑戦。審査員によるジャッジの後、各話ごとに1位が選ばれスターベイカーの栄誉を与えられます。しかし同時に敗者も選ばれ、そのベイカーは会場を去ることに。最終話で選ばれる「日本一のスターベイカー」の称号を目指し、ベイカーたちは自慢のレシピでスイーツやパン、審査員に用意された課題を焼き上げます! 番組ホストに坂井真紀さん、工藤阿須加さんを迎え、おいしく楽しい、そしてドキドキする時間が始まります。


 Amazonプライムにて視聴。

 パンやケーキ作りが趣味の10人が、毎回3つの課題に挑戦。審査の結果、最下位だった人は次のステージに進めない。何度ものコンテストをおこない、チャンピオンを決めるという番組。
 NHKでもやっている『ソーイング・ビー』という裁縫コンテスト番組の、ベイカー版。

 もともとは英国の番組でそれを日本に輸入したらしい。英国版は観たことない。


 ぼくはパン作りもお菓子作りもやらない。焼き菓子といてば、大学生のときに二度ほどブラウニーを焼いただけだ。大学祭で売るために。パンはといえば、結婚祝いでGOPAN(お米でパンを焼ける機械)をもらったので何度か挑戦したが、買った方がだんぜん早いしうまいとおもってすぐにやめてしまった。

 そんな、もっぱらパンもお菓子も食べるの専門のぼくですら、この番組(シーズン1)はおもしろかった。


■ テンポがいい

 とにかくテンポがいい。

 1時間の番組で3つの課題に挑戦する。たとえば第1回なんかは10人の参加者がいるから、10人×3種の料理をつくるわけだ。30種の料理を1時間で紹介するわけだから、どんどん紹介される。だからまったく退屈しない。

 決勝になると3人になるが、それでも1時間で9品だ。ぜんぜん間延びしない。このテンポの良さはすごく現代的だ。


■ 金と時間のかけ方が贅沢

 日本国内とはおもえない、だだっぴろい高原に作られた広くて使いやすそうなキッチンスタジオ。そこでの長期に渡る戦い(1年近くかかってるんじゃないの?)をたったの8話で流す贅沢さ。

 それでいて余計なものは一切ない。必要なところにはふんだんに金をかけ、無駄はすべてそぎ落とす。金と時間の使い方がうまいなーと感じる。

 この番組を日本のテレビ局が作ったら、きっと無駄にきらびやかなセットを作り、コメンテーターとしてアイドルや俳優や芸人を並べ、要所要所で音楽や効果音を流し、ものすごく下品なものにしてしまうだろう。

 あくまで主役は参加者であり、作られたパンやお菓子。それを最大限に引き立てるために効果的に金と時間をかけている。


■ 参加者が魅力的

 よくもまあこんなに素敵な10人を集めてきたものだとおもうほど、10人が10人とも上品。年齢も職業もばらばらなのに、みんな品がある。

 こういう対決形式の番組だと特に「こいつは好きじゃないな」みたいな人がいるものだけど、この番組に関しては皆無。みんなそれぞれ好感がもてる。

 それでいて、キャラクターが立っている。

 AikaさんとYuriさんの関係は『ガラスの仮面』の北島マヤと姫川亜弓を見ているようだった。粗削りながらもすごい吸収力で驚異的な成長を見せるAikaさんと、豊富な実績に裏打ちされた高い技術を安定して披露するYuriさん。たぶん年齢も近い。評価も拮抗して、いったいどっちが紅天女の座を射止めるの!? と目が離せない(紅天女は目指しません)。

 随所に人柄の良さがにじみでているKoheiさん。美的センスがアレなところも、本人の人柄を表しているようでかえって好感が持てる。この人、絶対いい人だもんな。Koheiさんに「すまないけどお金貸してくれないか」と言われたら5万までなら貸せる。
 Koheiさんは知れば知るほど好きになる。ぼくが女性なら狙ってる。でもKoheiさんは交際中の彼女にゾッコンなんだよなー!

 あとトークにふしぎな説得力があるSatoruさん。Satoruさんが自信たっぷりに「このお菓子はこうやって作るんですよね」としゃべっているのを聞いていると、「この人の作るお菓子ぜったいおいしいやん!」という気になる。その自信の割にけっこう失敗するところがほほえましい。

 参加者たちの成長が見られるのも楽しい。最初は毒々しい見た目のケーキを作っていたAikaさんが後半では同じ人が作ったとはおもえないほど上品なケーキを仕上げてきたり、うまくいかないとあわてふためいていたYumikoさんが回を重ねるごとにメンタルをコントロールできるようになったり。

 高い評価を受けてびっくりしすぎて無表情になっていたToshiharuさんもチャーミングだったし、Nobuoさんはこの人の淹れるコーヒーめちゃくちゃうまいだろって感じだったし、10人それぞれが非常に魅力的だった。


■ 余計な演出がない

 さっきもちょっと触れたけど、テレビ番組にありがちな余計な演出がないのもいい(一部あるけど、それについては後で触れる)。

 余計な音楽もないし、同じ場面をくりかえしたりもしない。制作陣が参加者たちに敬意を払っていることがうかがえる。

 また、コンテスト形式ではあるが過剰に対決をあおってないのもいい。

 参加者たちに勝ちたい気持ちはあるが、とはいえ彼らにとってお菓子作りはあくまで〝趣味〟なのだ。楽しむこと、自分の技術が上がることが第一で、勝ち上がることが最優先ではない。だから難しい技術にも果敢に挑戦するし、ときにはライバル同士助け合う。他の参加者にアドバイスを求めたり、作業を手伝ったり、道具を貸してあげたり。

 このあたりも、テレビ番組だったら過剰に対決姿勢を求めちゃうんだろうなー。そうやってストーリーをつくった方が作り手としては〝仕事をした気〟になれるんだろうけど、見ている側はべつにそんなもの求めてないからね。素材のまんまでおいしいから。

 なんかついついテレビ批判ばかりしちゃうけど、〝日本のテレビ番組じゃない番組〟を見ると、日本のテレビ番組がいかに凝り固まった思想にとらわれているかがわかるなあ。


■ 司会はダメダメ

 余計な演出がないと書いたけど、唯一余計だったのが司会者のふたり。まあ脚本があるんだろうけど……。

 まず坂井真紀さんが1話目の結果発表時に泣く。えっ、しらじらしすぎて気持ち悪いんですけど……。

 関係性が深くなってからならともかく、たった数時間、料理をしているのを見ただけの人が退場するだけで泣くの……。会話を交わしたのも二言三言でしょ。この人の涙腺どうなってるのよ。これぐらいで泣いてたら常にポカリ飲んでないと脱水症状起こしちゃうよ。

 この泣き真似が毎回あるのか、イヤだなあ、とおもっていたら、一話目で泣いてたくせに二話目以降はぜんぜん泣かない。どないやねん。なんで関係性深くなってからのほうが別れがつらくないんだよ。
 あれかな。
「あの坂井さん、さっき泣くフリしてたじゃないですか。ああいうのほんとうちの番組にいらないんで二度とやらないでください。気の利いたコメントができないもんだから困ったら泣けばいいとおもっていた『探偵!ナイトスクープ』の西田敏行前局長じゃないんで」
と、きつめに注意されたんだろうか。だとしたら注意した人はえらい。

 もっとひどかったのが工藤阿須加さん。まあこれは本人が悪いというより起用した人や演出を考えた人が悪いんだろうけど……。
 いわゆる「スベリキャラ」の感じで出てくるのだが、これが痛々しい。つまらないジョークを飛ばしたり、意味不明なダンスを披露するのだが、肩に力が入っているせいで「一生懸命やっている」ことが伝わってきてちっとも笑えない。もっといえばやらされている感というか。

 ぼくは本家英国版を見たことがないのだけれど、どうやらこれは本家のノリをそのまま持ってきたものらしい。だったら芸人にやらせるとか、他の人選があったんじゃないだろうか。下手な人のスベリ芸ほど見ていてつらいものはない。

 彼が出てくるシーンだけ学芸会の空気になるんだよね。「拙いですけどあたたかい目で見守りましょう」という空気になる。

 まあつまらないだけならまだいいんだけど、参加者が制限時間内に追われながら一生懸命作っている間にやる。そのたびに参加者は手を止めて学芸会を見てあげる(なにしろみんないい人たちだから無視できないのだ)。じゃまでしかない。

 司会のふたりがちょいちょいうんちくなんかを披露するのも、にわか仕込み感が濃厚に出ていて哀れだ。審査員はプロ、参加者はアマチュアとはいえセミプロレベルなんだから、司会のふたりは素人に徹したらいいのに。「素人として、視聴者の代わりに質問をする」役であれば存在価値もあるとおもうのだが。

 他の部分の演出が洗練されているだけに、司会ふたりの稚拙さ、もっといえば〝下手なくせにうわべだけうまい人のまねをしている感〟が鼻についた。


■ 味がわからない

 これはもう番組である以上しょうがないんだけど、作ったものの味がわからないのが残念。見ている側もいっしょに審査したいのに! 「見た目がきれいか」と「おいしそうか」しかわからず、肝心の「おいしいか」がわからない。

 だから審査結果を聞かされてもいまいち腑に落ちない。「見た目もきれいでおいしそうだったけど、食べたらおいしくなかったんです」と言われたら、こっちは「はあそうですか」と引き下がるしかない。

 これはもう味まで伝えられる次々々々々々世代テレビの登場を待つしかないな。

 ちなみにぼくが審査員だったら、抹茶が嫌いなので抹茶のケーキをつくってきた参加者には軒並み低い点をつけます!(そんなやつ審査員にさせるか)


2022年5月19日木曜日

老害の漢字

一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六


 上に挙げた漢字の共通点がわかるだろうか。


 答えは、「小学一年生で習う漢字」だ。

 こうして見ると、いくつかの共通点が見えてくる。

 まず、当然ながら「画数の少ない漢字」。龍とか躑とか簫とかは出てこない。

 それから「具体物を指す漢字」が多いことに気づく。一年生でも理解できる、身の回りにあるものを指す漢字だ。

 たとえば「干」「丈」「乞」はいずれも三画の漢字だが、一年生では意味をつかみにくい。こうした漢字はまだ習わない。

 また、ほぼ熟語でしか使わない漢字「凡」「寸」「士」なども三画だが、まだ習わない。一年生で習う漢字は、ほとんどがそれ単体で具体物や具体的な行為を指すものばかりだ(上下左右などは抽象的概念ではあるが一年生でも理解できる)。


 二年生になってもこの傾向は大きくは変わらない。


引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話


 これが二年生で習う漢字。家族、身体の部位、動物、色、季節、自然現象など、やはり低学年でも理解できる概念が多い。

 よく考えられているなあと感じるとともに、ちょっと時代に合わないのではないかと感じる漢字もいくつか混ざっている。


「村」「麦」「刀」「矢」「弓」あたりは、昔は身近なものだったのだろうが今ではあまりなじみのないものになっている。というか刀や弓矢が身近だったのっていつの時代だ。
 このあたりの漢字を習うのはもう少し後でもいいんじゃないか。


 特によくわからないのが「京」と「汽」だ。

「京」を使う熟語といえば、上京、帰京、在京などで、いずれも低学年はまず使わない。

 固有名詞(東京、京都、北京など)でよく使われるじゃないか、という意見もあるだろう。だが、「奈」「栃」「沖」「賀」「群」「徳」「富」「城」など「都道府県名で使われている漢字シリーズ」は四年生で習う。「阪」「茨」「埼」「潟」「媛」「阜」など地名以外ではまずお目にかかれないような難しい漢字もみんな四年生だ。「京」だけ特別扱いをするのはおかしい。「京」も四年生でいい。


 さらに解せないのが「汽」だ。

「汽車」「汽笛」「汽船」「汽水」……。はっきりいって今の小学生にはまったくなじみのない言葉ばかりだ。というか大人のぼくでも汽車や汽船なんて実物を見たことないぞ。

 きっと汽車があたりまえに走っていた時代に「これは身近なものだから二年生で習うべき」と定められて、ずっとそのままになっているんだろう。


 おい「汽」よ。おまえ、いつまで子どもの身近な存在みたいな顔をして二年生の教科書に居座るつもりだ。はっきりいって子どもはおまえなんかに興味ないんだよ。さっさと引退して後進(通信の「信」とか)にその座を譲りやがれ! この老害が!



2022年5月18日水曜日

【読書感想文】『大当たりズッコケ占い百科』『ズッコケ山岳救助隊』『ズッコケTV本番中』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第八弾。

 今回は20・21・22作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら、20・23・19の感想はこちら、28・23・19作目の感想はこちら


『大当たりズッコケ占い百科』(1989年)

 占いにハマったハチベエが、クラスメイトの市原弘子から〝レイコンさん〟なる占いを紹介される。死者の霊を呼びだすというその占いは驚異の的中率を見せ、すっかり〝レイコンさん〟に魅せられる三人組。
 ところがクラスの女子がなくしたペンダントが他の子の鞄にあることを〝レイコンさん〟が当てたことによりクラスメイトたちの関係が悪化する……。


 なかなかの問題作。オカルト、呪い、不登校、嫉妬など扱われている題材がとにかく陰湿だ。だが、個人的にはかなり好きな作品に入る。こういう〝ふつうの人の嫌な部分〟をちゃんと書いてくれる文学は信用できる。

 特に児童文学だと、悪い人が出てこなかったり、出てきたとしても〝頭の先から足の先までぜんぶが悪い単純な人物〟として描かれることが多い。
 でも現実はそうじゃない。誰しも優しい面もあれば意地悪な面もある。クラスの九割から好かれている人物が、残りの一割からものすごく憎まれていたりする。

 その点、ズッコケシリーズには根っからの悪人も出てくるが、ごくごくふつうの人の醜い姿や意地悪な面も書かれている。『ぼくらはズッコケ探偵団』の学級会のシーン、『花のズッコケ児童会長』で優等生がおこなったいじめ行為、『ズッコケ結婚相談所』の男子の恋心をもてあそぶ女子や、暴かれた母親の嫌な過去、『ズッコケ文化祭事件』での小説家の狭小な態度……。

 特にそれが顕著なのがこの『大当たりズッコケ占い百科』だ。占いを引き合いにクラスメイトをこばかにしたり、持ち物がなくなったときにクラスメイトを犯人だと決めつけたり、ターゲットにわかるように〝呪いのおまじない〟を実行したり、うわさ話を広めたり……。そういった行動をとるのは特定の悪い子ではない。ごくごくふつうの子である。主人公の三人組も加担している。

 学校でのいじめもだいたいそんなものだ。めちゃくちゃ悪いやつ、なんてのはそんなにいない。いじめの加害者がクラスの人気者で被害者のほうが問題行動の多い嫌われ者、なんてケースも多い( 奥田 英朗『沈黙の町で』もそんなリアルないじめを描いていた)。

 クラス内に疑心暗鬼が蔓延してギスギスしている様子なんか、挑戦的ですごくいい。しかも最終的に「悪いやつがやっつけられてめでたしめでたし」にならないのもいい。悪役もいるが、懲らしめられることもないし、悔い改めたりもしない。
 でもそれでいいとおもう。世の中、勧善懲悪ってわけにはいかないし、「クラスみんな仲良くしましょう」なんて欺瞞だ。そんなことを言っても弱い子は助からない。「嫌なやつもいるけどほどほどの距離をとってつきあっていきましょう」こそが教えなきゃいけないことだ。


 ちなみにこの本に、栄光塾という過激な塾が出てくる。毎月のテストで生徒を順位付けし、成績下位者は上位者のために靴をそろえてやらなければならない、というとんでもないやりかたをとっている。これ、人によっては「そんな塾ねーよ」とおもうかもしれないけど、今はどうだか知らないけど三十年前は野蛮な時代だったからこういう塾もあったんだよ。ぼくの友人が通っていた中学受験対策塾でも「まちがえた回数だけ物差しで叩かれる」って言ってたし。

 厳しいシステムをとりいれた結果、一生懸命勉強するよりも他の生徒に嫌がらせをして足を引っ張るようになる、というのが現実的でおもしろい。
 そうなんだよね。狭いコミュニティで競争させたら自分が向上するより他人を蹴落とすほうが楽なんだよね。こういう成果主義の弊害を1989年に書いていた、というのもすごいなあ。まだまだ「これからは欧米を見習って日本企業も成果主義だ!」って言われていた時代だもんなあ(そして国全体での凋落がはじまった時代でもある)。


『ズッコケ山岳救助隊』(1990年)

 子ども会の登山旅行に参加することになった三人。ところが悪天候やハプニングにより、三人組+同学年の有本真奈美だけがはぐれてしまう。霧、豪雨、土砂崩れ。最悪の状況でやっとたどりついた山小屋で出会ったのは、なんと誘拐されて監禁された少女。誘拐犯が戻ってくるかもしれないこの小屋で一夜を過ごすことになった子どもたち……。


 とまあ、これまでに様々な危険な目に遭ってきた三人組だが、その中でもかなりのピンチに陥る。にもかかわらずあまり緊迫感がない。

 山は怖い。が、その怖さはどうも伝わりにくい気がする。海で溺れるとか、高いところから落ちるかもとか、殺人犯に狙われるとか、そういう一刻一秒を争う危機に比べるとどうも「山での遭難」は人間の本能に訴えかけてくるものが小さい。だからこそ人々は山をなめ、遭難するのだろう。


 次から次にいろんなことが起こるので決してつまらないわけではないのだけれど、いまいち印象に残らない作品。ただ出来事が説明されるだけで、登場人物たちの心の動きが伝わってこない。終始三人組と行動をともにする真奈美という新キャラクターも、これといった活躍を見せるわけでもないし。

 唯一内面の苦しみが伝わってきたのが、引率役の有本さん。おもわぬアクシデントや一瞬の甘さのせいで子どもたちを遭難させてしまい、大いに苦しむ。もちろん自分の娘も心配だろうが、それ以上に心配なのはよその子。十分に監督しなければならない立場だったのに、ほんのわずか目を離してしまった隙にはぐれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれないにちがいない。さらには子どもたちが遭難して夜になっても見つからないことを保護者に連絡しなければならない状況、その心痛は想像するにあまりある。

 子どもの頃は引率する大人の気持ちなんてまったく考えなかったけど、自分が親になると痛いほどよくわかる。『となりのトトロ』でも、いちばん共感してしまうのはカンタのおばあちゃんだもん。面倒を見るといっていた四歳の子が迷子になる……、こんなおそろしいことはないぜ。もしものことがあったら、と考えると自分が死ぬよりも怖い。


 ぼくが小学校四年生のとき、担任の先生が「初日の出を見るツアーをする!」と言いだして、子どもたち(希望者だけ)を連れて大晦日の夜から山に登った。

 当時は夜中に友だちと出かけられる楽しさしか感じていなかったけど、今考えたら「担任たったひとりで小学生数十人を深夜の山登りに連れていく」ってめちゃくちゃリスキーなことやってたなあ(ご来光目的の登山客が多かったとはいえ)。おお、こわ。



『ズッコケTV本番中』(1990年)

 ひょんなことから放送委員になったモーちゃん。慣れないカメラ操作に悪戦苦闘していると、見かねたハカセやハチベエが練習につきあうことに。折しも町内で放火事件が相次いでいるので、放送委員の後輩である池本浩美もくわえて放火犯を追うドキュメンタリー映画をつくることになった。
 ところがハチベエの不用意な発言のせいで池本浩美が放送委員内で孤立。めずらしくモーちゃんがハチベエに対して怒りをぶつけ……。


 後半こそ放火犯をつきとめることになるが、中盤までは学校の委員活動などの描写が多く地味な作品。

 ……というのが小学生時代のこの作品に対する評価だったのだが。

 今読むとおもしろい。たしかに町内だけで完結するので派手さはないが、モーちゃんやハチベエの胸中の動きが丁寧に描かれていて引きこまれる。

 温厚なモーちゃんがハチベエに対して怒る展開がいい。
 自分のことではまず怒らないモーちゃんが、自分を慕ってくれる後輩の女の子が放送委員内で吊しあげを食らい、原因をつくったハチベエに対して堪忍袋の緒が切れる。これが熱い。

 モーちゃん VS ハチベエの喧嘩にいたるための流れも丁寧だ。モーちゃんが当初は苦手意識を感じていた放送委員の仕事にやりがいを感じるところ、いつもなら「モーちゃんがハチベエを誘おうとしてハカセが渋る」なのに今回はその逆「ハカセがハチベエを誘おうとしてモーちゃんが渋る」になっていること、ハチベエやハカセたち VS 放送委員 という対決構図になって両方に属するモーちゃんが板挟みになることなど、周到に喧嘩の伏線が組まれていく。

 また今作のキーパーソンである池本浩美の存在も重要だ。モーちゃんにはあまり主体性がないが、後輩から頼られることで責任感を持ちはじめるあたり説得力がある。恋をしても終始もじもじしていた『ズッコケ㊙大作戦』のときから比べると飛躍的な成長だ。

 モーちゃんの怒りもいいが、ハチベエの心中描写もリアリティがあって好きだ。
 うっすら見下していた相手から怒りをぶつけられ、とっさに逆ギレしてしまう。さらには相手の痛いところをつく攻撃的な言葉までぶつけてしまう。自分の落ち度にも気づいているので後悔するが素直に謝れず、そのくせ妙に下手に出てしまう。このへんの心の動きは実に現実的だ。ぼくも何度こんな失敗をしたことか。おもわぬ人から急に怒られるととっさに攻撃的になっちゃうんだよね。自分が悪くても。

 また、はっきりとした仲直りが描かれないのも好感が持てる。そうそう、友だちと喧嘩をした後って仲直りなんかしないんだよ。なんとなくうやむやになって、いつのまにか元の関係に戻っている。友だちってそんなもんだよね。謝罪しないと仲直りできない関係なんて友だちじゃないぜ。

 いやあ、よかった。かつては平均点ぐらいの作品だとおもっていたけど、今読むと『花のズッコケ児童会長』の次ぐらいに繊細な心の動きが描かれたいい作品だ。

「放火魔を捕まえる」が後半の見どころではあるが、正直いってこのくだりはなくてもいいぐらい。日常の枠内でも十分おもしろい作品になったとおもう。


 放送委員の連中がかなり痛々しいのもおもしろかった。

 委員以外の子を「素人さん」と呼び、自分たちを「プロ」と呼ぶ。バイトを始めていっぱしの社会人になった気分でイキがる大学生みたいだ。十代って妙に優劣をつけたがるもんね。どうでもいいことを鼻にかけて。

 大人になってみると、放送委員の仕事に慣れてることのなにがえらいんだって感じだけど、子どもにとってはこういうのがすごく誇らしいんだよなあ。


 あと、映像作品というものに対する意識の違いが今とずいぶん違うのも興味深かった。

 テレビカメラで撮影されると町の人たちが喜んでインタビューに答えてくれたり、自分たちが映っている映像を子どもだけじゃなく大人も熱心に眺めたり。

 今となっては忘れがちだけど、この頃って「自分が映像に記録される」ってめちゃくちゃ貴重な体験だったんだよなあ。ほとんどの人にとっては一生のうちに数えるほどしかない出来事だった。ぼくは大学生のときにビデオカメラを買ったけど、17万円した。で、それを向けられた友人たちは例外なくテンションが上がった。それぐらいビデオカメラというのはめずらしい存在だった。

 子どもでもスマホを持っていてあたりまえのように動画撮影をして、撮影どころか全世界に向けてかんたんに配信できる今じゃ考えられないことだけど。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2022年5月17日火曜日

王女様マインド

 こんな話を聞いた。

「幼い子は、周囲の大人が自分の世話を焼いてくれるので、すべての人は自分のために動く存在だとおもっている。だが成長するにつれて世界が自分を中心に回っているわけではないことを学ぶ。その理想と現実の衝突により引き起こされるのがいわゆる〝イヤイヤ期〟だ」

 なるほど。ほんとかどうか知らないが、なかなか説得力のある話だ。


 そりゃあ親が24時間つきっきりで世話してくれて、おなかがすいたと泣けばおっぱいを与えられ、だっこを要求すれば眠るまでだっこしてくれ、うんこを出せばおしりを拭いてくれるんだもの。自分を王族かなにかと勘違いしてしまうのも無理はない。自分を天上天下唯我独尊だと勘違いしているのはお釈迦様だけでなく、すべての赤ちゃんがそうなのだ(ちなみにお釈迦さまはマジ王族だったけど)。

 だからだろう、うちの三歳児もご多分に漏れず自己肯定感が高い。両親からも祖父母からもおじやおばからも保育園の先生からもかわいがられるのだから、森羅万象から愛されて当然だとおもっている。


 そんな彼女にも天敵がいる。五歳上の姉だ。

 驚くべきことに、姉は自分の言うことを聞いてくれない。いや、赤ちゃんのときはかわいがってくれてすべてを許してくれたのに、最近の姉はどんどん生意気になってきて私に歯向かうようになった。私の指示に従わないばかりか、あろうことかこの私に口ごたえをしたり、さらには手を上げてきたりもする。なんたる不敬。

 こんな不届き者はいつか懲らしめてやらねばならぬが、甚だ憎らしいことにこいつは力が強い。武力で対峙するのは得策ではない。


……とまあこんなふうに考えるのだろう、次女は姉に悪口を言われると、

「もう、ねえねとあそんであげへん!」

と高らかに宣言する。

 あっぱれ。王女様の気品。もうあなたには笑いかけてあげないわ。せいぜい後悔しなさい。


 彼女にとっては「あそんであげへん」が最大の罰なのだ。なんと高貴なお方だろう。




 とまあ三歳児のほほえましいエピソードを紹介したわけだが、そんな高貴な精神の持ち主は三歳児にかぎらない。いい歳した大人でもこういう高慢さ 品格を持った人は少なからずいる。

 たとえばTwitterで有名人が波風の立つ発言をする。すると、こんなコメントがつく。

「そんな人とは思いませんでした。あなたの出ている番組はもう見ません」

「失望しました。あなたの書いた本はもう読みません」


 このマインド、まさしく三歳児の「もうあそんであげへん!」のそれだ。

 このわたくしに嫌われたのよ、このわたくしから見向きもされなくなったのよ、さぞつらいでしょうね。泣いて悔しがってももう遅いわよ!


2022年5月16日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・イブ』 / 月夜はおよしよ素直になりすぎる

マスカレード・イブ

東野 圭吾

内容(e-honより)
ホテル・コルテシア大阪で働く山岸尚美は、ある客たちの仮面に気づく。一方、東京で発生した殺人事件の捜査に当たる新田浩介は、一人の男に目をつけた。事件の夜、男は大阪にいたと主張するが、なぜかホテル名を言わない。殺人の疑いをかけられてでも守りたい秘密とは何なのか。お客さまの仮面を守り抜くのが彼女の仕事なら、犯人の仮面を暴くのが彼の職務。二人が出会う前の、それぞれの物語。「マスカレード」シリーズ第2弾。


『マスカレード・ホテル』の前日譚的短篇集。『マスカレード・ホテル』で出会う前の、ホテルマン・山岸と刑事・新田の若き日の物語。


 うん、悪くはない。悪くはないが、『マスカレード・ホテル』の完成度が高すぎたのでやや期待外れ。いやおもしろいんだけどね。短篇だけど、事件発生→推理→解決という単純な構図ではなく、二転三転するし。

 どれも一定以上のクオリティを保った佳作ミステリといっていいとおもう。

 ただ、『マスカレード・ホテル』で「刑事がホテルに潜入するという設定のおもしろさ」や「あまりにさりげない周到な伏線」といった一級品の技術を見せられた後だけに、どうも物足りなさを感じてしまう。

 高級ディナーコースの最後にハーゲンダッツを出されたような気持というか。そりゃもちろんハーゲンダッツはおいしいんだけど今ここで求めているのはそれじゃないんだよ。




 ということで、『マスカレード・ホテル』ファン向けスピンオフという感じだったが、ラストに収録されている書下ろし作品『マスカレード・イブ』はおもしろかった。

 トリックも本格的で、謎解きも丁寧。新田とコンビを組む穂積という女性警察官もいいキャラクターだし、話の流れもちゃんと『マスカレード・ホテル』につながる内容になっている。『マスカレード・ホテル』の前日譚として完璧な作品だった。

 ここで新田が女性警察官である穂積のことを下に見ているところも、『マスカレード・ホテル』の心境の変化へのお膳立てになっているしね。ニクいぜ。




 ところで、『ルーキー登場』にも『マスカレード・イブ』にも悪女が出てくる。男をたぶらかせて悪の道にひきずりこむ魔性の女。

 東野圭吾氏は悪女が好きだよね。『夜明けの街で』『聖女の救済』など、怖い女が出てくる作品は挙げればきりがない。

 個人的によほど苦い記憶でもあるのかね。


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【読書感想文】東野 圭吾『マスカレード・ホテル』/ 鮮やかすぎる伏線回収

【読書感想文】不倫×ミステリ / 東野 圭吾『夜明けの街で』



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