2021年9月24日金曜日

【読書感想文】小谷野 敦『本当に偉いのか』

本当に偉いのか

あまのじゃく偉人伝

小谷野 敦

内容(e-honより)
上げ底評価の明治の偉人、今読んでも全然面白くない文豪、宗教の“教祖”まがいの学者…「裸の王様」をブッタ斬る、目からウロコの新・偉人伝!


 不当に高く評価されすぎてるんじゃない? という偉人を挙げていって、大したことないぜとあげつらう本。

 試みはおもしろかったが、内容はひどいものだった。


 序盤はまだよかったんだけどね。

 夏目漱石の項とか。

 漱石が持ち上げられていったのには、消去法のようなところがあって、まず性的なことを書かないということ、ついで、政治的左翼ではない、私小説作家ではないということがある。戦前はもちろん、戦後でも、保守的な中産階級にとって、左翼作家というのは文豪扱いしづらい。宮本百合子や大江健三郎ではダメなのである。また私小説も、赤裸々に自身の生活を暴露するといったものは、穏健な市民にとっては受け入れがたい。

 たしかになあ。
 漱石って国内では一、二を争うぐらい有名な作家だけど、文学的にすぐれているかというとそこまでありがたがるほどのものではない気がする。研究者が読むのは好きにすればいいけど、少なくとも百年後の中学生が読むに値するものとはおもえない。

「明治時代の小説にしては読みやすくてわかりやすい」以外にこれといった良さがあるわけじゃないもんね。『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』なんてただおもしろいだけ、って感じだもん。

 読みやすいのがいいんだったら現代小説のほうがずっとわかりやすいし。

 ただ、毒にも薬にもならないのがいいんだろうね。太宰や三島はやっぱり思想と切り離せないから、国民的作家にはなれない。鴻上尚史さんが「大スターの条件はからっぽであること」と書いていたけど、漱石作品って代表的なものだけ見ればそこまで思想はないもんな(全部読んだわけじゃないのであったらごめん)。

 芥川も「ただおもしろいだけ」の小説をたくさん書いてるけど、あっちは言葉遣いが少々難しいからな。

 というわけで国民的作家にふさわしいのは夏目漱石ということになるんだろうけど、それって文学者としては不名誉なことかもしれんな。




 ただ、共感できたのは漱石のくだりぐらいだった。

 著者が日本文学の研究者ということで、文学者を批評してるうちはまだいい。好き嫌いはあっても、個人の意見だからな。

 だが途中からアレクサンドロス大王とか石田三成とかナポレオンとかまで手を出しはじめると、もう擁護の仕様がない。

 根拠が伝聞なんだもん。
「おれはあいつの本を読んだけどくそつまらなかった」はまだ批評といえるけど、
「あいつは大したことないやつだという話を聞いた。だからあいつは嫌いだ」というのは単なる偏見にもとづく悪口だ。批評精神のかけらもない。

 中でも最悪なのは、歴史上の人物を語るのに、大河ドラマにもとづいてああだこうだ言ってるとこ。
 いやいや大河ドラマはフィクションだから。ドラマと現実の区別がついてないのか?

 しかも、攻撃の材料が下品なんだよね。
 誰々は身長が○○センチしかなかったとか(この人はやたらと身長を気にしている。よほどコンプレックスでもあるのか)、誰々は男色家だとか、誰々は処女だったとおもうとか、とにかくゲスい。

「私自身が茶の湯をやったことも、観たこともない」から茶道を優れた文化と思わないとか、「ぎょろりとした目つきも何か好きではなかった」から南方熊楠を好きじゃないとか、よくもまあ個人的な好悪をここまでえらそうに文章にして発表できるわとおもう。

 おもしろい悪口は好きだけど、この人のはユーモアのセンスもなくてただただ不快なだけ。


 少なくとも新書ではなくエッセイとして出すべきだったよな。新潮社は内容読んだのかね。


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2021年9月22日水曜日

臨時休校てんやわんや

 平日の昼頃、娘の通う小学校から保護者宛てのメールが来た。

「新型コロナウイルス陽性者が出たので給食を食べた後は一斉休校にします。学童保育も休みです。
 15時までに迎えに来てください。
 15時になっても迎えがなければ児童はそのまま下校させます」

 いやいやいや。バカなの?

 仕事中にいきなりメールしてきて、2時間ちょっとで迎えに来いって。
 来なければ強制的に下校させるって。

 だいたいさあ。
 仕事中にメール見られない人もいっぱいいるやん(ぼくは見たけど)。親である教師も多いよね。あんたたちは授業中に携帯チェックしてんの? ちょっと考えればわかるやん。
 すぐに迎えに行けない人だっていっぱいいるよね。
 学童保育に行かせずに下校させるって何? 放課後児童だけにさせとくのは不安だから学童保育に預けてるわけやん。突然下校したって家に入れませんよ。
 全家庭専業主婦がパートもしないで家にいるとおもってんの? 学童保育が何のためにあるのかわかってないの?


 幸いぼくはリモートワークに切り替えることができたので、仕事を中断して子どもを迎えに行くことに。

 他の保護者も困ってるだろうとおもい、同じ保育園の保護者が集うLINEグループに
「迎えにいけなさそうならいっしょに迎えにいってうちで預かりますよ」
と投稿する(保育園出身者なので当然みんな共働きだ)。

 すると「学校からメール来てたんですね。今知りました!」という返事が。ほらやっぱり。メールなんてすぐ気づくとはかぎりませんよ。
(四時間たってから「今メールに気づきました!」という人もいた。そりゃそうなるってば。みんな仕事してるんだから)

 だいたい保護者がいっせいに同時間帯に迎えに行っていいわけ? ふだんより密集してかえって危険じゃないの?
 給食後の下校ってのもむちゃくちゃだ。給食は用意したから残したくないんだろうけど、いちばんリスクの大きい給食を強行するんだったら、よりリスクの小さい学童保育もやってくれよ。


 ……なんて悪態をつきながら学校に向かっていたら、またメールが来た。
「迎えにこられない場合は、迎えがあるまで学校で児童をあずかります」

 ほらね。どう考えてもそれが正しい。はじめっからそうせえよ。
 どうせ苦情がたくさん寄せられたんだろう。あまりに思慮に欠ける方針だったから。

 感染者が出て学校側もあわてているのはわかるが、それにしても対応が良くない。
(っていうかこれだけ感染拡大してるんだから陽性者が出ることを想定してシミュレーションしとけや。強制下校させられることがあるなんてまったく事前通達がなかったぞ)

「感染者が出たら登校させない」が目的になって、「なぜ登校させないのか」を忘れているんだよね。
「さらなる感染拡大を防ぐため」という意識があれば、「一斉に迎えに来てください」なんてバカな指示になるはずがない。学校に入ってくる人を増やしてどうするんだ。




 そんなわけで翌日も休校。

 ぼくはリモートワークに変更。
 娘は学校から貸与されたノートPCを持ち帰っていたので、それで自宅学習。

 娘にPCを触らせたことはなかったのだが、学校で教わったらしく、いっちょ前に使えるようになっている。
 学習アプリを使って勉強したり、休み時間にはNHKの教育動画(学校から観てもいいと言われたらしい)を見て楽しんでいる。
 こちらが「ずっとパソコンに向かってると疲れるから休憩しいや」と声をかけるぐらい熱心にオンライン学習に取り組んでいる。まあ最初は楽しいだろうな。


 娘はPCをひととおり使えるようになっている(さすがにタイピングはできないが)。さすが子どもは適応力が早い。
 ぼくがPCにはじめて触れたのは中学生になってからだったなあ(そしてその前にワープロで遊んでいた時期があった)。

 娘は急に「小さくなった!!」とか「どうしよう、青くなっちゃった!!」とか叫ぶ。
 見ると、ブラウザの大きさが最大化→縮小になっただけだったり、テキストが選択されて色が反転したりしているだけだったりする。日頃PCを触っている人間からするとなんでもないことでも、初心者からすると大騒ぎする出来事なのだ。

 算数や国語の学習自体は昨年の復習なのでむずかしくなさそう。どちらかというとパソコン操作の勉強になっている。たまには自宅学習もいいものだ。


2021年9月21日火曜日

【読書感想文】今村 夏子『むらさきのスカートの女』

むらさきのスカートの女

今村 夏子

内容(e-honより)
近所に住む「むらさきのスカートの女」と呼ばれる女性のことが、気になって仕方のない“わたし”は、彼女と「ともだち」になるために、自分と同じ職場で彼女が働きだすよう誘導する。『あひる』、『星の子』が芥川賞候補となった話題の著者による待望の新作中篇。


 今村夏子作品らしい、終始うっすらと気持ち悪い小説(褒め言葉です)。

「むらさきのスカートの女」は、どの町にもいる町の名物変な人。身なりにまったく気を遣わないらしく、いつでもむらさきのスカートを履いている。大人からは一定の距離を置かれ、小学生からはからかいの対象になっている。

 変な女である「むらさきのスカートの女」を観察する〝わたし〟。

 たしかになあ。変な人って気になるもんなあ。

……とおもっていたら、ちょっと待て。〝わたし〟の行動は常軌を逸しているぞ。毎日毎日「むらさきのスカートの女」を尾行したり、それとなく自分の勤務先に「むらさきのスカートの女」が来るように仕向けたり、身なりに気を遣わない「むらさきのスカートの女」のためにシャンプーを送りつけたり……。

 やばいのはこっちのほうだ。「むらさきのスカートの女」もたいがいだが、〝わたし〟はもっと変だ。


「異常者が異常者を観察している」という体裁の小説、それが『むらさきのスカートの女』。

 徹頭徹尾うっすらと狂っている。読んでいるとこっちまで常識を忘れてしまいそうになる。


 こういう小説は好きなんだけど、ラストはあまり好きじゃない。

 最後にわかりやすいオチが提示されるんだよね。〝わたし〟の世俗的なところが見えてしまい、なーんだ、という気になる。他人の弱みを握って脅すような打算的な人だったんだ、つまんないの。

 最後の最後で失速しちゃったな、という印象。
 おもしろいんだけどさ。でもこの作品で芥川賞とらせるんなら、『こちらあみ子』のほうがずっといいとおもうけどな。




 だいたいどの町にも変な人はいるとおもうが、ほんとにヤバい人とか危害を加えるタイプの人は収監されたり隔離されたりするので、たいていは人畜無害か、「ちょっと迷惑」ぐらいの人だ。

 ぼくが子どもの頃いた〝町の変な人〟は、「演歌おじさん」。
 夕方になると犬を連れて公園に現れる。で、ベンチに座って演歌を熱唱する。それも、サッカーができる広い公園中に響き渡るボリュームで。レパートリーは一曲だけ。毎日毎日同じ歌。

 公園で遊んでいるぼくらからすると「また出た」だけで済んでいたのだが、近隣の住人からするとたまったものじゃなかっただろうな。毎日毎日近所で熱唱されたら刃傷沙汰になってもおかしくないぜ。

 あとは中学校の近くに出没した「おはようおじさん」。
 カゴに水筒を入れた自転車で走っていて、その名の通りすれ違う人全員に「おはよう!」とさわやかに挨拶をする。基本的には人畜無害なのだが、女子中学生に対してはひときわ大きい声で挨拶をしていた。


 かくいうぼくも、土日はたいてい娘+その友だちと遊んでいて「大人ひとりと子ども十人ぐらいで遊んでいる」という状況もよくあるので、近所の人からは「犯罪者一歩手前の変な人」と見られている可能性も否定できない。


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2021年9月17日金曜日

【読書感想文】森 達也『たったひとつの「真実」なんてない』

たったひとつの「真実」なんてない

メディアは何を伝えているのか?

森 達也

内容(e-honより)
メディアはすべて、事実と嘘の境界線上にある。それをまず知ろう。ニュースや新聞は間違えないという思い込みは捨てよう。でも嘘ばかりというのは間違い。私たちに不可欠となっているメディアを正しく使う方法とは?


 著者の森達也さんはドキュメンタリー映画などをつくっている人。

『1984 フクシマに生まれて』という本に森達也さんが出ていて語っていることがおもしろかったのでこの本を読んでみたのだけど、内容が薄かった。書いてることはいいんだけど、五十ページぐらいの分量をむりやり希釈して一冊の本にしたかのような。

 ちくまプリマ―新書という中高生向けのレーベルから出ているので浅めなのはしかたないにしても、それにしてもなあ。

「メディアの言うことを鵜呑みにするな」なんてこれまでにもさんざん言われてるわけじゃん。
「メディアの言うことは100パーセント真実だからそのまま信じよう!」とおもってる人なんてひとりもいないでしょ。いまどき中高生でも「新聞やテレビで言ってたから本当だ!」とはおもってないでしょ(逆に「新聞やテレビは嘘ばっかり」とおもってる中学生はけっこういそう)。ちくまプリマ―新書を読むような子なら余計に。

 メディアが間違えたり嘘をついたりすることなんてみんな知ってる。

 なのに「メディアもまちがえるんですよ」をくりかえし語っている。
 いやいや。そこはみんなわかってるから。わかってて騙されるんだから。

 書いてあることはすごくまっとうだっただけに、薄かったのが残念。

 



 20世紀前半に世界各地でファシズムが台頭したのはラジオと映画の普及によるものだ、という話。

 でも識字能力(読み書き)を要求しない映画とラジオは、それまでとは比べものにならない規模のプロパガンダを可能にした。この新しいメディアと、新聞やポスターなどの旧いメディアを縦横無尽に組み合わせながら、ゲッベルスは国民に対して、政治的なプロパガンダを行った。

 この説は眉唾だけど(それ以前にも独裁国家はいくらでもあったし)、瞬時に大量の情報を届けられるメディアがファシズムの勢力拡大に貢献したことは間違いない。
 少なくとも20世紀以降の世の中では、メディアを牛耳ることなく独裁を貫くことはまず不可能だろう。
 ディストピア小説でもまずまちがいなくメディアは権力者によって押さえられている。

 全世界で6000万人という膨大な犠牲者をだした第二次世界大戦は、1945年に終了した。ヒトラーやゲッベルスは自殺したけれど、残されたナチスドイツの幹部たちは、連合国側が主催するニュルンベルク裁判で裁かれた。かつてヒトラーから後継者の指名を受けていたナチスの最高幹部ヘルマン・ゲーリングは、「なぜドイツはあれほどに無謀な戦争を始めたのか」との裁判官の問いに、以下のように答えている。
「もちろん、一般の国民は戦争を望みません。ソ連でもイギリスでもアメリカでも、そしてドイツでもそれは同じです。でも指導者にとって、戦争を起こすことはそれほど難しくありません。国民にむかって、我々は今、攻撃されかけているのだと危機を煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すればよいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です」

 これは時代を超えて通用するやりかただよな。
 今でも「○○国が攻めてくるかもしれないから軍備を強化しなければ!」って声は弱くならないもん。相手国のほうも「このままだと日本が攻めてくるぞ!」という雰囲気になれば、すぐにでも戦争は始まってしまう。


 いじめや差別もそうだよね。
 ほとんどの差別って「あいつに嫌がらせしてやろう」という悪意から生まれていない。
「このままだとあいつらに安全を脅かされる」っていう防衛本能から生まれる。

 フィクションで描かれるいじめは「極悪非道ないじめっ子と、純粋無垢ないじめられっ子」という構図が多いが、現実のいじめはそんなに単純じゃない。いじめられっ子が嘘つきだったり攻撃的だったり嫌なやつであることが多い。
 だからいじめが止まらない。悪意を持ちつづけられる人はほとんどいないけど、正義感は持続できるしどこまでもエスカレートする。

 戦争も差別もいじめも、正義によって生みだされる。




 オウム真理教報道について。

 地下鉄サリン事件が起きた直後の日本のメディアは、まさしくオウム一色だった。新聞は毎日一面で事件の推移を伝え、号外はしょっちゅう出る。雑誌も毎週のようにオウム特集で、増刊号もたくさん出た。テレビはレギュラー番組の放送を休止して、朝から晩までオウム一色。それも1週間や2週間じゃない。何カ月もそんな状態が続いていた。
 この頃のメディアは、とても危険な宗教団体としてオウムを描いていた。確かに事件それ自体は凶悪そのものだ。でも、打ち合わせのためにオウム施設を訪れたとき、そこで出会った大勢のオウム信者は、一人残らず善良で、優しくて、気弱そうな人たちだった。僕は混乱した。世間ではマインドコントロールされた凶悪な殺人集団と思われている彼らは、殺生を固く禁じられ、世界の平和を本気で願う人たちだった。

 これねえ。
 当時を知らない人には伝わらないとおもうけど(ぼくも中学生だったからそこまでテレビ観てたわけじゃないけど)、すごかったんだよ。ずっとオウムの話やってた。

 新型コロナウイルスで騒ぐのはまだわかるんだけど。みんなの生活に直結する話だから。

 でもオウムはそうじゃない。たしかに地下鉄サリン事件は大事件だったけど、大半の日本人にとっては関係なかった。それなのにずっとオウムの話やってた。山梨県に上九一色村って村があったんだけど、当時の日本人はみんなその名前を知ってた。オウム真理教の施設があったから。教団内部で使ってた用語も幹部の名前もみんな知ってた。

 オウム真理教は異常な集団だったけど、今おもうと当時の報道も同じくらい異常だった。

 今からふりかえると「そこまで騒ぐことか?」ってことなんだけどね。
 まあ「おもしろかった」んだよね。得体の知れない宗教団体が謎のルールに従って暗躍している、って話が。

 しかも、ただ騒いでただけでなく、みんな同じトーンで語ってた。「異常な集団が起こした異常な事件」だと。
「いや彼らには彼らの事情があるんでしょ」とか「彼らにも人権はある」とか言う人は、少なくともテレビや新聞にはひとりもいなかった。

 あの熱狂ぶりを知っている者からすると、戦争に突き進むのもあっという間なんだろうなという気がする。
 オウム真理教がそこまで信者の数も多くない一宗教団体だったからあの程度で済んでいたけど、あれがもっと大きい団体とか国とかだったら、すぐに戦争になっちゃうだろうな。

 メディアの種類が変わっても、人間の性質はずっと変わらない。

 

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2021年9月16日木曜日

暴言ジジイ

 言っちゃいけないことの基準が甘い。

「これぐらいの悪口は言ってもいいだろ」の基準が人より甘い。
 面と向かっては言わないけど、冗談まじりに「あいつ○○じゃねえの」「これだから○○な人間は」みたいなことを言ってしまう。炎上こわいからここでは伏せるけど。


 あるとき職場の後輩の前で汚い言葉を使っていたら「すごいこと言いますね」と言われた。

 あっ、これ、危険なやつだ。


 後輩は気を遣ってくれたのだろうが、「言っていいこととダメなことの区別もつかねえのかよバーカ」をマイルドにしたのが「すごいこと言いますね」だ。

 ふと気づけばぼくも中年。
「そんなこと言うな!」と叱ってくれる人は、妻しかいなくなった。

 このままだと、あれだ。
「時代が変わったことに気づかず暴言を吐いてみんなから眉をひそめられるおっさん」ルートまっしぐらだ。

 政治家とか会社役員とかのえらいおっさんによくいるタイプ(えらくないおっさんにもいるが)。
 いらんことを言って周囲を不愉快にさせるタイプ。でも周りは誰も注意できないから当人は「みんなが言えない本音を言えちゃうオレ」みたいな感じでいい気になっちゃうタイプ。
 ほんとは「みんなが言えない」じゃなくて「みんなが言いたくないし聞きたくもない」なんだけど。

 若いころは「毒舌」「歯に衣着せぬ」「無鉄砲」「舌鋒鋭い」として気に入られることもあったけど、歳をとって権力を手にしたことで(この国では何も成し遂げてなくてもジジイであるというだけでえらくなってしまうのだ)単なる暴言ジジイになってしまう。

 いかんいかん。
 ぼくも気を付けねば。
 あいつやあいつのように口汚い言葉ばかり使う、×××ジジイにならないように(口汚い表現なので伏せ字)。