2025年9月30日火曜日

【読書感想文】藤井 一至『土と生命の46億年史 土と進化の謎に迫る』 / 土は生命

土と生命の46億年史

土と進化の謎に迫る

藤井 一至

内容(e-honより)
現代の科学技術をもってしても作れない二つのもの、「生命」と「土」。その生命は、じつは土がなければ地球上に誕生しなかった可能性があるという。そして土は、動植物の進化と絶滅、人類の繁栄、文明の栄枯盛衰にまで大きく関わってきた。それなのに我々は、土のことをほとんど知らない。無知ゆえに、人類は繁栄と破滅のリスクをあわせ持つこととなった。そもそも、土とはなにか。どうすれば土を作れるのか。危機的な未来は回避できるのか。土の成り立ちから地球史を辿ると、その答えが見えてくる。

 どうやって地球上に土ができたのか、土は菌・ウイルス・植物・動物とどう関わっているのか、人類の科学進歩によって土はどのような影響を受けているのか、そして土と共存していくためにはどうすればいいのか。

 タイトルの通り、土と生命の関わりについての46億年史をぎゅっと濃縮した本。すごく密度が濃い。おもしろかった。大地讃頌を歌いたくなる。




 まず文章がおもしろい。文章のおもしろさはこの手の本にとってすごく大事なことだ。専門家が素人に向けて書いた本って、書き手と読み手の知識の差が大きいから、往々にしてついていけなくなるんだよね。そんなとき、文章がおもしろければ、内容がいまいちわからなくてもとりあえず読む気にはなる。なんとか振り落とされずに済む。なんとか食らいついていけば、ちょっとずつわかるようになってくる。

 学校のグラウンドでキラキラと光って見えるのは砂粒であり、石英という造岩鉱物の結晶が日光を反射している。甲子園の黒土(火山灰土壌)もキラキラして見えるが、それはひたむきに白球を追う高校球児のまぶしさによるものではなく、園芸会社が混合した石英砂と火山灰(主に火山ガラス)の結晶が光を反射するためだ。手に取ってみるとどれも砂粒にすぎず、水晶玉のような輝きはない。球児のユニフォームを汚す黒土からは、縄文時代の人々の火入れによって残された炭が見つかることもある。炭の主成分は炭素だが同じ炭素からなるダイヤモンドのような輝きも経済価値もない。高校球児はそんな甲子園の土に特別な価値を見いだす。

「砂の中の石英砂と火山灰の結晶は光を反射する。土に含まれる炭素はダイヤモンドと同じ元素から成るが光を反射しない」だとぜんぜんおもしろくないけど、こう書いてくれるとがぜん興味が湧く。

 ひとりでも多くの人に土に興味を持ってもらおう! という著者の熱意がひしひしと伝わってくる。その想い、しかと受け取ったぜ! 土に関する記述も全部ではないけどなんとなく理解できたぜ!


 地学の話って鉱物の名前とか元素の名前がいっぱい出てくるのでかなりとっつきづらいんだけど、この本では少しでもイメージしやすいように、身近なものを使って説明してくれる。

 花崗岩+炭酸水=砂+粘土+ケイ素+塩(ナトリウム)
 
 この式は、何を意味しているのか。具体的な物にあてはめてみたい。愛知県には、織田氏の拠点となった濃尾平野、徳川氏の拠点となった豊橋平野の背後に花崗岩質の山がある。
 戦国大名の斎藤道三が押しのけた守護大名・土岐氏の名をいただく土岐花崗岩だ。花崗岩が風化すると、石英砂、長石、雲母の微粒子に分解し、重い砂は木曽川に運ばれ、まず山のふもと(扇状地)に堆積する。これが細長い大根(守口大根)を生む砂質土壌となる。
 長石が風化してできるカオリナイト粘土(白粉、ファンデーションの主成分)は水の力で運ばれて、かつて名古屋を含む下流域に広がっていた巨大湖(東海湖)に堆積した。それが陶器(瀬戸焼)に使われる粘土層となる。岩石から放出されたカリウムとケイ素は田んぼでイネに吸収され、米を育む。河口域・海へと流れこんだナトリウムは食塩となり、ケイ素は珪藻(植物プランクトン)の材料となってウナギ(椎魚のシラスウナギ)を育む。あわせると、名古屋名物のうな丼になる。
 山の恵み、海の恵みをもたらす山の神、海の神への感謝の思いを新たにする一方で、この反応武は一つ重要なことを教えてくれている。山の恵み、海の恵みは、岩石の風化速度に制限されているということだ。生命は土や海の栄養分の存在量よりも、その循環量によって支えられている。土や海に資源が無尽蔵にあれば気にならないが、循環量を超えて資源を利用すればやがては枯渇する。家計で収入と支出のバランスがとれていないと貯金が目減りし、やがて生活を維持できなくなるのと似ている。循環量を超えて地球は持続的に生物を養うことはできない。この原則に抗う地球史上唯一の生物が人類である。

 いい文章だなあ。理想的な教科書だ。この文章を読むだけで、我々の生活がどれだけ地層に依存しているかがよくわかる。土地ごとに名物があるけど、名物それぞれに自然環境要因があるんだねえ。大地を誉めよ頌えよ土を。




 土とは、鉱物が細かくなったものにくわえて、動植物の糞や死骸が分解されたもの(腐植)が混ざったものをいうのだそうだ。生物がいなければ土はできない。でも陸上生物は土がなければ生きていけない。鶏が先か卵が先か、みたいな話だ。生物が先か土が先か。

 うーん、おもしろいミステリだ。このスケールのでかい謎を、この本では見事に解き明かしてくれる。

 生物が次々に進化しているのと同じように、土もどんどん変化しているのだ。土が変化することで植物や動物が入れ替わり、動植物の行動が変わることでさらに土も変化する。このダイナミックな動きを紹介してくれるのだが、わくわくするほどおもしろい。


 ヒトは山に登るなどして、少し酸素濃度が低下するだけで高山病になるが、大気中のガス成分は地球史を通して大きく変動してきた。まず、酸性だった太古の海が中和されたことで、海には大量の二酸化炭素が溶けこめるようになった。今や海は地球最大の炭素貯蔵庫だ。次に陸上に進出した植物が炭素を固定し、土壌中に腐植として炭素を貯めこむ。土壌には、大気中の二酸化炭素ガスの約2倍、植物体中の約3倍の炭素が貯蔵されている。産業革命以前の地球では、大気中の酸素や二酸化炭素の濃度は火山、大気と海、そして植物と土のあいだの物質の循環によって決まっていた。大気組成はこれらの微妙なバランスに依存し、植物が光合成しすぎると大気中の二酸化炭素が減少してしまうし、微生物が土の有機物を分解しすぎると二酸化炭素が増加してしまう。
 これが杞憂ではないことは歴史が証明している。石炭紀には、リグニンの合成によって分解されにくくなった倒木や落ち葉が未分解のまま泥炭土として堆積し、石炭として化石化したこと大気中の二酸化炭素濃度が急減した。微生物による有機物の分解を上回るスピードで植物が光成をしたことで酸素濃度が上昇し、『風の谷のナウシカ』の世界のように節足動物は巨大化した。酸素濃度が高ければ、巨大化しても体中に酸素が行きわたる。しかし、やがてキノコの分解能力が高まると酸素濃度は低下し、巨大節足動物たちは姿を消した。

 土が変われば空気中の酸素が増え、節足動物が巨大化する。土が変わればまた別の生物たちが台頭する。『風の谷のナウシカ』で「土から離れて生きられないのよ」という台詞があるが、まさにその通り。土が変わったからあんな世界になったのだ。



 正直に言って、この本の内容をすべて理解できたわけではない。むずかしいので流し読みしたところもある。

 それでもおもしろい。文章がいいので断片的に読んでもおもしろいし、だいたいの流れを追っているだけでも地球のダイナミズムを感じられる。読めば読むほど、土と生命の違いってなんだろうという気になってくる。ほとんど生命と変わらないよな。

 実際、土の機能は、人間の脳や人工知能の自己学習機能と似ている。知性の源であるヒトの大脳は100億個以上の神経細胞それぞれが数万個のシナプスでつながることでネットワークを形成し、協働することで思考が可能になる。大さじ1杯の土に住む100億個の細菌もまたすみかと資源(エサ)を共有し、相互作用することで、有機物分解を通した物質循環、食料生産が可能になる。大脳を司る100億個の神経細胞の相互作用と大さじ1杯の土の相互作用。多様な細胞があたかも知性を持つように臨機応変に機能する超高度な知性を、私は脳と100億個の細菌の土しか知らない。


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2025年9月29日月曜日

フルグラを愛する者として実質値上げにおもうこと

 カルビーが商品の実質値上げをするらしい。

 実質値上げとは、お値段そのままで内容量を減らす「一見値上げに見せずに値を上げる」手口のことだ。


 ま、値上げはいい。原料とか輸送量とかも高騰しているからね。値を上げないとメーカーもやってられないだろう。

 お値段そのままで内容量を減らすのも、理解はできる。なんだかんだいってもやっぱり値が上がれば売上は落ちるのだろう。

 ポテトチップスなんか「もうあんまりおいしいと思わないけど半端に残すのもアレだし、後半はいやいや食べてしまう」こともあるので、内容量そのままで値段を上げるより、値段そのままで内容量を減らすほうがいい面もある(ただあんなに袋に空気をいっぱいに詰めるのはずるいけどな)。


 問題はフルグラだ。

 カルビーが出しているグラノーラ。我が家ではこれを毎朝ヨーグルトに入れて家族全員で食べている。

 あのさあ。フルグラは一回で食べ切るものじゃないわけよ。700gとか入ってるからね。大袋で買って毎日ちょっとずつ使うものなわけよ。

 そういうものを「お値段そのままで内容量を減らす実質値上げ」してごらんなさいよ。どうなるとおもう?

 そう、ただ単に「なくなるのが早くなって、買う頻度が増える」だけなんだよ。


 これまで4週に1回買ってたのが、3週に1回買わなくちゃいけなくなる。

「もうフルグラなくなったのか。この前買ったばかりなのに」とおもいながら。フルグラはけっこう高い。「また買わなきゃいけないのか……」とストレスになる。

 正直、ぼくは日用品や食料を買うときときにいちいち値段を見ていない。「だいたい前といっしょやろ」とおもって買っている。だからちょっとぐらい値上げされても気づかない。でも買う頻度が増えるのははっきりわかる。フルグラがそろそろ切れそうだとおもったら携帯のメモに「フルグラ」と打ちこむから。


 カルビーさんよぉ!

 ポテトチップスはともかくフルグラに関しては素直に値上げしてくれた方が気づかれにくいぞ! 100%の人が「値上げしてもいいから内容量減らすな!」とおもっていることが報告されているぞ(私調べ)。


【映画感想】『悪い夏』

 『悪い夏』
(2025)

内容(映画.comより)
第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞した染井為人の同名小説を北村匠海主演で映画化し、真面目に生きてきた気弱な公務員が破滅へと転落していく姿を描いたサスペンス。

市役所の生活福祉課に勤める佐々木守は、同僚の宮田から「職場の先輩・高野が生活保護受給者の女性に肉体関係を強要しているらしい」との相談を受ける。面倒に思いながらも断りきれず真相究明を手伝うことになった佐々木は、その当事者である育児放棄寸前のシングルマザー・愛美のもとを訪ねる。高野との関係を否定する愛美だったが、実は彼女は裏社会の住人・金本とその愛人の莉華、手下の山田とともに、ある犯罪計画に手を染めようとしていた。そうとは知らず、愛美にひかれてしまう佐々木。生活に困窮し万引きを繰り返す佳澄らも巻き込み、佐々木にとって悪夢のようなひと夏が始まる。

 Amazon Primeにて視聴。以下、ネタバレあり。


 中盤ぐらいまですごくおもしろかった。まじめなケースワーカー・佐々木が、子どもに同情したことをきっかけにシングルマザーである愛美と接近。徐々にひかれあう二人……。

 ただ、佐々木が愛美にひかれていることは映像からでも明らかなのだが、愛美の本心はわかりづらい。はたして本当に好きになっているのか、それとも“計画”のために惚れた芝居をしているのか。

 おそらく両方の要素があるし、愛美本人にもわからないのだろう。何度か「自分の気持ちがわからない」と漏らしている言葉のとおり。自分の感情を素直に出すことのできなかった生い立ちのせいで、理想を直視できなくなっているのだろう。

 このあたりの「愛美の本心はどっち?」が絶妙なミステリとなって、物語にぐいぐい引き込まれる。幸福そうな佐々木と愛美たちの姿が描かれた後に、冷や水をぶっかけるようなタイミングでさしこまれる監視カメラ付きくまのぬいぐるみが不穏すぎる。いやー、ひりひりする。

 映像から伝わってくるまとわりつくような暑さの描写も実にすばらしい。ねばっこい映像にこちらまでからめとられていくような気になる。


 善良かつまじめな公務員であった佐々木が、その善良さ、まじめさがゆえに徐々に悪の道に引きずりこまれていく描写はほんとに見事。底なし沼に向かっていると知らずにどんどん深みにはまっていく姿は見ていて胸が詰まる。

 善良な人間がプロの悪に狙われたらひとたまりもないのだということが伝わってくる。

 だって佐々木にはほんとに何の落ち度もないんだもの。佐々木の先輩職員・高野も同様に転落人生を送るが、こちらは自業自得な面も強いので、その対比で余計に佐々木がたどる運命の理不尽さが強くのしかかる。



 と、中盤までのドラマがほんとにすばらしかっただけに、終盤の雑な展開がつくづく残念だった。


 まず、「金本たちに脅されて佐々木が生活保護受給詐欺の片棒をかつぐ」裏付けが弱い。だって佐々木はこの時点で何の悪いこともしてないんだもの。たしかにケースワーカーが生活保護受給者と肉体関係を持つのは褒められたことではないが、法に触れることではない。

 ふつうに考えれば「金本に脅された時点で警察に駆けこむ」という選択肢もぜんぜんあるんだよな。というかそっちのほうが自然。だって佐々木は脅されるほどのことをしてないもの。愛美に裏切られて自暴自棄になった、と解釈することもできなくはないが、それならそれで余計に愛美のもとから逃げ出したくなりそうなものだし。金本が子どもを材料にして佐々木を脅すとも考えにくいし。

 どうやら原作小説では佐々木が罠にはめられてもうひとつ脅される原因をつくるらしい。なるほど、そっちのほうが納得できる。


 脅されて悪に手を染めるようになった佐々木が生活保護申請者にキレるシーン。あれって佐々木が変わったというより、「余裕がなくなったせいで自分でも気づかないように覆い隠していた部分が発露した」シーンだとぼくはとらえたんだけど、それだったら佐々木の「実は困窮者を見下している」面を前半でもっと描いてほしかったとおもう(冒頭の山田と対面するシーンだけでなく)。


 そしてひどかったのが終盤の全員集合シーン。まるっきりドタバタコントじゃん。笑っちゃったよ。シリアスなはずのシーンなのに。コメディっぽく描きたかったのかなあ。偶然が重なっていいのは二回まででしょ。


 とってつけたようなハッピーエンドも好きじゃなかったなあ。やるなら徹底的に絶望を見せてくれるほうが個人的には好み。最後だけハートウォーミングな感じにされても白けてしまう。

 中盤まではすごくよかったのであの嫌な感じのまま最後までつっぱしってくれたらとんでもない映画になったのになあ。残念。でも総合的に見てもいい映画だったよ。後味悪い作品が好きな人にしかおすすめしないけど。


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【DVD鑑賞】『悪の教典』

昔の曲を主題歌に使うドラマ

  とあるテレビドラマの主題歌にポルノグラフィティの『アゲハ蝶』が起用され、新しいドラマの主題歌に昔の曲が使われるなんてめずらしい! と話題になっている。

……という記事を読んだ。


 え、べつにめずらしくないよね?

 ぼくはテレビドラマをまったく見ない。最初から最後までリアルタイムで見たドラマはひとつもない。放送終了後にDVDや配信で観たものも片手で数えられるほどしかない。

 そんなぼくでも、いくつか挙げられる。

 古くは、1993年の『高校教師』に使われた森田童子『ぼくたちの失敗』(1976年発表)。

 1993年・1997年の『ひとつ屋根の下』に使われたチューリップ『サボテンの花』(1975年発表)。

 1996年の『白線流し』に使われたスピッツ『空も飛べるはず』(1994年発表)。あんまり古くないけど。

 調べたところ、他にもいろんな例があった。書き出すときりがないのでもう書かないけど、『ふぞろいの林檎たち』(1983~1997年)に使われたサザンオールスターズ『いとしのエリー』(1979年)とか。

 いずれも大ヒットした有名ドラマだ。上記4ドラマはどれも観たことがないけど、それでも誰が出ていたかとか、どんなストーリーだったかとかはなんとなく聞いたことがある。それぐらい有名な作品だ。

 マイナー作品も挙げていったら山ほどあるはず。


 ここからは完全に憶測の話になるけど、もしかすると「古い曲を主題歌にするドラマはヒットしやすい」のかもしれない。

・古い曲/すでにヒットしている曲を起用することで幅広い年齢層を取り込める

・曲をよく知った上で起用しているのでドラマの雰囲気と曲がマッチしやすい

・レコード会社が売りだしたい新曲を使わなくていい=しがらみにとらわれずにドラマを作れるぐらい制作側(監督、脚本家など)が力を持っている、すなわち実力のある人が余計な配慮をせずに作っているからおもしろい


 ということで、『アゲハ蝶』が主題歌のドラマもおもしろいはず! タイトルも出演者もストーリーもまったく知らないけど!



2025年9月25日木曜日

おじさんが助けてもらうには


 駅の構内でひとりのおじさんが座りこんでいた。五十歳ぐらいだろうか。赤いシャツを着て、地べたに座りこんでいる。靴が片方脱げている。

 眠りこんでいる、という感じではない。まだ17時過ぎだし、飲み屋の多いエリアでもない。


 これは……どっちだろう。

 迷うところだ。もしこれが若い女性だったら、ほとんどの人が「なんとかしてやらなくちゃ」とおもうところだろう。なぜなら、若い女性が自分の意志で駅構内の地べたに座りこむことはまずないだろうから。「のっぴきならない状況が発生して座りこまざるをえないのだな」とおもう。

 だがおじさんの場合は「自分の意志で地べたに座りこんでいる」パターンもけっこうある。「おれは好きでここに座ってんだよーほっとけー」パターンだ。特にここ、大阪市にはこういうおじさんがめずらしくない。

 だが、ほんとに具合が悪くなってしまったということも考えられる。立っていられないほどしんどくなり、座りこんでしまった。脱げた靴を履きなおす余裕もない。その場合ならすぐに救急車を呼んだほうがいい。



 ちょっと迷ったが、おじさんに「すみません、大丈夫ですかー」と声をかけてみた。救える命を救わなくておじさんが死んだら寝覚めが悪いし。

 まったく反応がない。ぴくりともしない。うつむいたままだ。ぐったりしている、ととれないこともない。

 医療の知識があれば何かわかるかもしれないが、あいにく子どものときに読んだ『ブラック・ジャック』の知識しかない。これでは無免許オペぐらいしかできない。


 うーん、どっちだろう。救急車を呼んだほうがいいのか。放っておいても大丈夫なのか。

 よしっ! こういうときは誰かに委ねよう!

 ということで駅長室へ行き、駅員さんに「すみません、あそこに座りこんでいる男性がいるんですが、声をかけても反応がなくてぐったりしていて……」と深刻そうに伝えた。

 実直そうな駅員さんは「わかりました。見に行きます」と言ってくれた。よっしゃ、これでぼくの手を離れた。あとは頼んだぞ、駅員さん!



 というわけでぼくのほんのちょっぴりの勇気のおかげで、ひとりの未来あるおじさんの命を救った(もしくは酔っ払いのために駅員さんの余計な仕事を増やしてしまった)わけだが、ぼくが気になったのは「みんなおじさんに冷たい」ということだ。

 靴が片方脱げて座りこんでいるおじさん。その前を何十人もの人が通っていたが、みんなちらりと見るだけだった。17時過ぎ。時間に余裕のある人だって多かっただろう。

 現代人は薄情だ、などと嘆く気はない。ぼくだって声をかけようか迷ったし。声をかけて酔っ払いのおじさんにからまれても面倒だな、とおもったし。



 だからぼくが言いたいのは、「おじさんに優しくしよう!」ではなく「我々おじさんが助けを必要としているときはどうするのが正解か?」ということである。


 さっきも言ったように、これが若い女性ならもっと多くの人が声をかけるだろう。

 若くなくたっていい。おばさんがたったひとりで駅構内の通路に座りこんでいる。これでも「大丈夫ですか?」と声をかける人はけっこういるだろう。おばあさんならもっと心配されるかもしれない。

 また、男でも高校生ぐらいだったら心配されそうだ。男子高校生がひとりで道端で座りこんでいたら「大丈夫?」と声をかけたくなる。

 声をかけづらいのは、おじさん、もしくはおじいさんだ。

 

 厄介なことに、おじさんやおじいさんは「自分の意志で座りこんでいる人」が多い。「単独行動をとっている人」も多い。

「自分の意志で座りこんでいるおばさん」はめずらしいが、
「自分の意志で座りこんでいるおじさん」はそんなにめずらしくない。公園とか繁華街にけっこういる。

 だから声をかけてもらいにくい。

 さらにその手のおじさんは危険物扱いされやすい。急に攻撃的になるんじゃないか、とおもわれる(ぼくもおもっている)。攻撃的なイメージがあるし、おまけにおばさんよりも攻撃力がある。だから近寄りがたい。


 だから道端で座りこんでいるおじさんに声をかけづらいのはしかたない。

 だが。おじさんにだって、ほんとに助けを必要とするときがある。熱中症だとか心臓発作だとか。すぐに救護を必要とするときもある。自分で救急車を呼べないことだってあるだろう。

 そんなときに見知らぬ人に助けてもらうにはどうしたらいいだろう。


 ひとつは「身なりを良くする」だ。

 なんだかんだいっても人は見た目で判断する。ぼろぼろの服を着ているひげもじゃのおじさんよりも、きれいなスーツを着ているこざっぱりしたおじさんのほうが、声をかけてもらいやすいだろう。

 きれいな身なりをすることで「突然攻撃してくるタイプのおじさんではなさそうだ」とおもってもらいやすくなる。


 だが残念なことに世の中には“酔っ払い”という人種がいる。ふだんはちゃんとしているのに、酔っぱらうと「自分の意志で座りこむ人」になるおじさんがいる。おまけに酔っぱらうと「攻撃的になる」おじさんもいる。

 スーツを着ていても、座りこんでいたら酔っ払いと判断されるかもしれない。特に夜は危険だ。そうなると助けてもらえる率が下がる。


 だからぼくは考えた。道端で急に具合が悪くなったときに、助けてもらえる確率を上げる方法を。

 それは「うつぶせに倒れる」だ。

 道端にうつぶせに倒れていたら、いくらおじさんといえども、“ただことじゃない”感がぐっと増す。なぜなら「路上で自分の意志でうつぶせに寝るおじさん」や「路上でうつぶせに寝るおじさん」はめったにいないからだ。

 急に気分が悪くなったときはうつぶせで。



2025年9月24日水曜日

【読書感想文】ラック金融犯罪対策センター『だます技術』 / 知れば知るほど詐欺を見抜けないことがわかる

だます技術

ラック金融犯罪対策センター

内容(e-honより)
「自分がひっかかるわけない」そう思ってる人が、なぜカモになるのか?被害者が年々増える一方の特殊詐欺で使われる手口を体系化。・本物と錯覚させる・美味しい話で惹きつける・話術と仕掛けで信用させる・考えられない状況に陥れる 被害例をもとに、だましのテクニックとだまされる心理の仕組みがわかる。あなたを、親を、子どもを、被害から守るための知識を金融犯罪対策のプロ集団が解説。

 様々な詐欺被害の手口を紹介する本。

 タイトルは『だます技術』だが、もちろん詐欺グループ向けの本ではなく、詐欺にだまされないようにするための本。


 数々の詐欺の手口を紹介しているのだが(ほとんどが振り込め詐欺やカード情報を引き出すフィッシング詐欺)、あたりまえだが過去にあった手口しか紹介されていない。ほとんどがニュースなどで見たことのあるやり口だった。

 なのでニュースや情報番組などを見ていたら得られる知識がほとんどだった。ただし知識があることと詐欺に引っかからないことはまた別なのでわかっていても冷静さを失って引っかかってしまうことはあるのだろう。


 当然ながら、いくらこういった本を読んだところで「これから登場する新しい手口」はわからない。まったく新しい手口で詐欺を仕掛けられたら、そして複数の人間が大規模に仕掛けてきたら、詐欺だと気づいて逃れることはむずかしいだろう。

 たとえばぼくはコンビニで買い物をするときにクレジットカードで支払いをするけど、もしそのコンビニ自体が詐欺のためにつくられた建物で、商品も店員も本物のチェーン店そっくりに配置していたら、何の疑いもなくレジでカードをかざしてしまうだろう。さすがの詐欺グループもそこまではやらんだろうけど(割に合わないだろうから)、でもこういう「そこまではやらんだろう」という思い込みこそが足元をすくわれる要因になるのだろう。


 たとえばこんな手口が紹介されている。投資セミナーなどから株式投資アプリをインストールさせるやり方。

 被害者が指定された口座に入金すると、犯罪者はそれを確認して、アプリ側にも反映し、儲けが出ているように見せかけます。
 被害者が投資で得た利益を引き出そうとした場合、犯罪者は引き出し金額を確認して、実際にその金額分を被害者の口座に直接振り込みます。
 犯罪者にとっては、アプリに表示している数字をいじるだけに比べて手間がかかることになりますが、被害者が実際にお金が動くところを目にする効果は非常に大きいです。特に、被害例のように、最初は本当に利益が出ているのか、アプリの画面を見ただけでは疑問を抱く被害者には効果的です。
 資金が引き出せることを確認した被害者は、「この投資にはなにも問題はない」と安堵します。場合によっては、「もっと投資すればさらなる利益が期待できるのではないか」と考えるようになります。犯罪者からすれば、より多くの資金をだましとることができる可能性が高まるわけです。

 本物の投資アプリそっくりのアプリまでつくって入金させ、さらには(最初だけ)出金もちゃんとできるようにしているのだ。ここまでされたらアプリが偽物だと疑うことはほぼ不可能だろう。




 この本には詐欺に遭わないための心構えも書いてあるが、結局「すべてを疑ってかかれ」しかないんだよね。

 電話への対応の基本は、「知らない番号からの電話には出ない」ということです。
 「電話ぐらい出ても大丈夫だろう」と思うかもしれませんが、犯罪者の会話術は日々進化しており、今後も新しい詐欺の手口が出現する可能性があります。そうした手口に引っかからないためには、犯罪者との接触を極力減らすことが大切です。
 「大事な電話を取り逃してしまうのではないか?」と不安に思われるかもしれませんが、知人や家族の連絡先は登録しておき、留守番電話の設定をしましょう。

 よくわからない人に近づくな、信頼できないサイトを見るな、余計なアプリは入れるな、あまり自分のことを話すな。

 つきつめていえば「何もしないのがいちばん」ということになる。

 うーん、まあそりゃそうなんだけど。でもそれって新しいものから得られるメリットも放棄することになるわけで。

 結局、どれが詐欺でどれがそうじゃないかなんて判断するのはむずかしいので(情報に精通した人でも引っかかることがあるので)、リスク覚悟で信じるか、リスクを重く評価してすべて疑ってかかるかのどっちかしかないことになる。

 詐欺だけを遠ざける方法なんてないということが改めてわかった。じゃあこの本の意義ってなんだったんだろう。


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2025年9月18日木曜日

【読書感想文】小川 哲『ゲームの王国』 / わからないがおもしろい。なんなんだこれは!

 

ゲームの王国

小川 哲

内容(e-honより)
サロト・サル―後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子、ソリヤ。貧村ロベーブレソンに生まれた、天賦の「識」を持つ神童のムイタック。運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1975年のカンボジア、バタンバンで邂逅した。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺―百万人以上の生命を奪い去ったあらゆる不条理の物語は、少女と少年を見つめながら粛々と進行する…まるで、ゲームのように。

 ううむ。わけのわからない小説だ。ほんとにわからない。だがおもしろい。なんなんだこれは!


 話があっちこっちにいく。登場人物も変わる。時代も変わる。それぞれがまじわることもあればそうでないこともある。テーマに一貫性があるわけではない。とにかくとりとめがない。

 小説というより神話を読んでいるような感覚になる。神話とか古い物語って「そのエピソードいる? それ本筋にはまったく関係ないからまるまるカットしても問題ないんじゃない?」みたいなエピソードがあるじゃない。ちょうどそんな感じ。枝葉末節だらけ。ほとんど幹がない。でもその枝葉末節がおもしろい。


 カンボジアの歴史についてすごく丁寧に調べて書いているくせに、史実にまじってとんでもない嘘も語られる。

 土を食べることで土の声を聴くことができて土を自在にあやつれる男とか、輪ゴムに触れることによって未来を正確に言い与えることができる男とか。罪のない人々が次々に理不尽な死を遂げてゆく(クメール・ルージュ支配下のカンボジアの話だからね)シリアスなストーリーなのに、ユーモアがあふれている。

 しかもそれらはストーリー上欠かせない要素というわけでもない。おもしろいからこのエピソードも入れてみた、みたいな感じ。なくても物語としてはぜんぜん成立する。だけどやっぱりそのエピソードこそがこの小説を魅力的なものにしている。

 手塚治虫『ブッダ』はぼくの好きな漫画なんだけど、それに通じるものがある。大胆な嘘と入念に調べられた史実が入り混じり、読んでいて虚構と現実の境目がわからなくなる。

 だけど、ぼくらが現実とおもっているものだって案外虚構なのかもしれない。記憶は容易に書き換わる自分が体験したとおもっていることだって作り話なのかもしれない。そう、自分の人生だって何が本当か何が嘘かわからない。

『ゲームの王国』を読んでいる気分は、まるではるか遠く昔の“記憶”をたどるような感覚だった。




 ひとつひとつのエピソードがおもしろい。たとえば。

 すべてを聞き終えたムイタックは「――まず、そもそも俊足ペンは足が速いわけじゃない」と言った。
「どういうこと?」
「言葉のままだよ。俊足ペンはむしろ鈍足だよ」
「何を言ってるの? 君は普段一緒に遊んでないからそう思うのかもしれないけど、覚えてる限りペンが捕まったのを見たことは一度もないよ」
「そう、問題はそこだ。ペンは、何よりもその『一度も捕まったことがない』という名声のおかげで、不当に鬼ごっこに勝利している」
「どういうこと?」
「つまり、鬼は『俊足ペンを追いかけても、どうせ勝てない』と考えて、最初からペンを追おうとしないんだ。君もそうなんじゃない? 自分が鬼のときを思い出してみてよ。いつも無意識にペン以外を追いかけてない? たしかにペンはそこそこの初速だけど、持久力はまったくないよ」
 クワンはこれまでの鬼ごっこの記憶を思い出した。たしかにその通りだった。
「ペンはそのことがよくわかっているから、常に誰かと一緒に行動するんだ。現にさっきも君と一緒に逃げていた。もし鬼に見つかったとしても、一緒に行動しているやつが狙い撃ちにされるから、自分は悠々逃げることができるってわけ」
「たしかにそうだ。ペンは常に誰かと一緒に逃げている」
「だからペンは自分の名声を守るために、他の誰かとサシの駆けっこをしようとしない。正直に言って、純粋に駆けっこをしたら君の方が速いと思う。距離にもよるけど」
「そんなことはないよ。僕はいつも捕まってしまうから」
「ペンが鬼ごっこに強いのは『足が速い』という評判のおかげだ。この話をひっくり返すと、さらに多くのことがわかる」
「何がわかるの?」
「つまりね、一度足が遅いと評判になった者は、不当に追われ続けるってこと。君は足が遅いわけではないのに、『足が遅い』という評判のせいで、集中的に鬼に狙われている。鬼ごっこは基本的に追いかける側が有利だから、一度狙われれば捕まりやすい。そのせいで足が遅いというイメージが強くなり、さらに捕まりやすくなるってわけ。君だって鬼のときは無意識に『足が遅い』とされている人を探してるはずだよ。豆フムとか、ルットとか、蟹ワンとか。蟹ワンは左足だけ拾った靴を履いているせいで、蟹みたいな走り方をしてるから目立つしね。あいつ、実は結構足速いと思うけど」
「なるほど。たしかにその通りだ。僕はいつも豆フムやルットや蟹ワンを探してる。それに実際には、いつも蟹ワンを捕まえるのに苦労してた」
「この話にはさらに続きがある。この世の中のなんだってそうなんだ。王様だってね。一度偉くなってしまえば、そのおかげでみんな彼が正しいと思いこむ。何か間違ったことをしているように見えても、自分の方が間違っているのではないかと思い直す。そうして王様の権威は増していき、本当の実力とは関係のない虚構のイメージが作り上げられていく。そしてそれは、たとえば俊足ペンみたいに、王様がひとりで作り上げるものではなく、周囲と連動して勝手に作り上げられていくものなんだ」

 鬼ごっこについてここまでじっくり考えたことがなかったけど、たしかに無意識のうちに「あっちは速い(らしい)からこっちを追いかけよう」という判断をくりかえしてるよなあ。子どもの言う「足が速い」は「初速が速い」とほぼ同義なので、足が速いとされている子でも長時間にわたって追い続ければ捕まえられるかもしれない。ただ鬼ごっこにはなんとなく「ひとりだけを集中的に追いかけると他の子がつまらないからやめよう」という不文律があるからみんなやらないだけで。

 こんなふうに、我々が意識の隅っこのほうでなんとなく捉えていることを言語化するのが小川哲さんはすごくうまい。


「オンカーは理想郷を作ろうとしている。そしてそれはとても危険な考えなの」
「どうしてですか?」
「理想郷は無限の善を前提にしているから」
「素晴らしいことじゃないですか」
「違う。最低の考えよ。無限の善を前提にすれば、あらゆる有限の悪が許容されるから。無限の善のために、想像以上の人が苦しみ、そして死ぬことになる。もっとも高い理想を掲げている人が、もっとも残酷なことをするの」

 うーん、端的にして的確。善行をしようとする人間が往々にして悪事に走る理由を簡潔に説明してる。その最たるものがポル・ポト。




 話があっちこっちにいくので先の展開がまったく読めなかったんだけど、巻末の橋本輝幸氏による解説を読んで腑に落ちた。

 実は、本書の執筆行為自体がゲーム的だった。この小説は「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」(小川哲による第三十八回日本SF大賞「受賞の言葉」、二〇一八年)というルールの下に書かれた。著者は最もありえざるルートをたどり、未知の先にある物語を目指した。小川は展開の分岐に差しかかると、思いついた中で一番先がなさそうな道を選んで続きを書いてみたという。
 そうすると何が起こるかというと、しばしば書き進められなくなり、詰む。そうして小川は、完成稿の三倍ほど書いては捨てる作業を途中まで繰り返した。物語の選択肢は「九〇パーセント死んで、一〇パーセントが生きた」(京都SFフェスティバルにおける小川一水との対談より、二〇一九年)という。数百枚書いて破棄したこともあるそうだ。

 なんと「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」というやり方で書いたのだという。なんでそんな苦行を……。

 道理で、せっかく構築した世界もすぐ壊れてしまうし、登場人物もようやく活躍しだしたとおもったとたんに死んでしまう。まるで意識的に読者を置いていこうとしているかのように。

 すごく粗削りなんだけど、「なんだかすごい小説を読んだ!」という気になる本だった。ひとりの人間がこれだけのものを作れるということに驚く。


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2025年9月16日火曜日

小ネタ40(お願いという言葉の意味を知らない人のお願い / 不倫デート / 例外の例外の例外)

 お願いという言葉の意味を知らない人のお願い


 不倫デート

 小学生の娘が友だちと遊園地に行ったところ、学校の先生(男性・既婚)と別の先生(女性・既婚)が歩いているところを目撃したらしい。

 不倫デート⁉ 見ちゃいけないものを見てしまった! とあわてた娘たちだが、その後、他の先生たちにも遭遇。話を聞くと、六年生の卒業遠足(毎年遊園地に行く)の下見に来ていたらしい。業務でした。


例外の例外の例外

 トゲアリトゲナシトゲトゲは例外の例外だ。トゲトゲの中の例外がトゲナシトゲトゲで、そのさらに例外がトゲアリトゲナシトゲトゲ。

 西暦2000年に2月29日があるのは例外の例外の例外だ。通常、2月は28日まで。その例外が4の倍数年で、2月29日まで。例外の例外が100の倍数年で、2月28日まで。例外の例外の例外が400の倍数年で、2月29日まで。

 例外の例外の例外というすごいことなのに、当時ほとんどの人はただの例外(つまり単なるうるう年)だと認識していた。2000年問題のせいでそれどころじゃなかったのだろう。


2025年9月10日水曜日

【読書感想文】中島 隆信『障害者の経済学』 / 二兎を追う者は一兎をも得ず

障害者の経済学

中島 隆信

内容(Amazonより)
障害者を作っているのは私たち自身である
制度の問題点を経済学で一刀両断にする

障害者本人のニーズに合わない障害者福祉制度でいいのか?
選りすぐりの生徒だけ受けられる職業訓練、
補助金目当てで仕事をさせない障害者就労施設、
障害者雇用を肩代わりするビジネス……。

脳性麻痺の子どもを持つ気鋭の経済学者が、経済学の冷静な視点から、障害者を含めたすべての人が生きやすい社会のあり方を提言

 障害者をとりまく状況について、経済学の立場からアプローチした本。

 障害者にまつわる本は「こうあるべき」という理念が中心になってしまいがちだが、この本は経済学的観点で語られているだけあって感情的でない冷静な議論が多い。こうあるべきなんだよね。

「こうあるべき」を語ることにはあまり意味がない。まったくとまでは言わないけど。

「障害者にもそうでない人にも分け隔てなく接しよう」でできるのならとっくにやっているわけで。

 理念と現実が乖離しているのはなぜか、どういった制度を設計すれば理念に近づくのか、を考えるほうが道徳を説くより効果的だろう。




 障害者が経済的に自立するのはむずかしい。単純に「金を稼ぐのがむずかしいから」だけではない。政策的な理由もある。

 よくあるのが、障害を持つ子が生まれた両親が離婚するパターン。育てるのに手がかかる→母親が子どもの世話にかかりっきりになる→父親が疎外感をおぼえる→離婚、というパターンが少なくないそうだ。

 人間は時間や手間をかけたものに愛着をおぼえる(IKEA効果と呼ぶそうです。自分で組み立てた家具のほうが気に入りやすいから)。手がかかる→愛情が深くなる→さらに手をかけるようになる、というわけ。こうなるともう共依存ですね。

 こうした状況で夫婦が離婚すれば、子どもは母親に引き取られることが多いのだが、父親の経済力が乏しければ満足な養育費も受け取れないかもしれない。子どもが成人するまでは、障害の程度に応じて親に支給される「特別児童扶養手当」と障害児本人に支給される「障害児福祉手当」が合わせて月5万~6万5000円ほどあり、成人後は障害の程度に応じて「障害基礎年金」「特別障害者手当」が月9万~11万円ほど障害者本人に支給されるので、それと母親のパート収入を合わせて家計をやりくりすることになる。家賃を払いながら親子2人で何とか生活できるレベルの収入であるが、病気や事故など何か突発的なことが母親に降りかかればたちまち困窮状態に陥るだろう。
 この状態から子どもを自立させることはほぼ不可能である。なぜなら、子どもが受け取る年金は母親の生活費にも充てられているからである。年金や手当以外にも、障害のある子どもと同居していれば、自動車税/自動車取得税の減免や高速道路の割引といった特別措置が受けられ、「駐車禁止等除外標章」により駐停車禁止場所や法定駐車禁止場所以外の路上駐車が認められる。子どもを自立させればこうした〝特典〟を手放さなくてはならないのだ。
 
 (中略)
 
 こうした事態を招いている最大の原因は、障害児を持つ親の経済力の弱さにある。経済力があれば子どもの福祉手当をあてにすることもないと思われるからだ。そして、親の経済力に決定的な影響を与えているのは退職と離婚である。障害児は貧しい家庭にだけ生まれるわけでもなく、また障害児が生まれたことだけで家計が苦しくなるわけでもない。障害児が生まれたことをきっかけに、仕事を辞めざるを得なくなったり、夫婦関係をめぐるさまざまな問題が表面化して破綻を招いたりしたことが貧しさの原因なのである。

 障害児が生まれたら世話をするために母親が仕事を辞める。仕事を辞めるから収入は減るが、手当がもらえるのでなんとかやっていける。だが手当によってぎりぎり家計が持ちこたえているので、子どもが自立すれば親も生活できなくなる。障害を持つ子も親から独立できないし、親もまた子どもから独立できなくなる。

 そういうのって外から見ていると不幸な状態かもしれないが、本人たちからしたらけっこう幸せだったりするんだよね。「自分ががんばらないと立ちいかない状態」って裏を返せば「自分が強く必要とされている状態」だからね。快楽だろう。



 障害児を持つ親を何人か知っているけど、すごくがんばる人が多い。特に母親。自分の全人生を捧げ、我が子のため、さらには世の障害児のためにボランティア活動や講演会にかけまわったりする。きっとすごい快楽なんだろう。「社会にとっていいことをしてる! 人の役に立ってる! 人から求められてる!」ってドーパミンがどばどば出るんだろう。

 悪いことしてるわけじゃないから周囲からも止められにくいし。「そのへんにしときなよ」って言ってくる人は悪いやつ認定すればいいだけだし。


 ぼくも子育てをしていたので「全面的に頼られる」ことのうれしさは知っている。自分と乳幼児のふたりっきりのときなんて「自分がしっかりしないとこの子は死んでしまう」とおもえて、すごく自己肯定感が高まる。自分が強くなったように感じる。

 気持ちいいから、なかなか抜けだせないのもわかる。多くの場合は子どもが成長するにつれ子どものほうから離れていくけど、子どもが障害や病気を持っていると「私がいないとだめだ」感はいつまでも消えないのだろう。

 共依存の関係から抜けださせようとおもったら障害者と同居することの“特典”を減らすことになるんだろうが、それはそれでむずかしいよな……。




 障害者のための学校について。

 一方、比較的軽度の知的障害者には、企業への一般就労という可能性がある。第6章で詳しく述べるが、民間企業には障害者を一定割合雇用する義務が課せられている。義務を果たさないと企業名が公表されることもあるため、企業には働ける障害者を雇う動機がある。そんな企業にとって、軽度の知的障害者は願ってもない存在といえる。
 こうした需要の高まりに敏感に反応したのが首都圏の教育委員会や教育庁である。それは当然の流れだろう。なぜなら、企業の本社は東京に集中しており、勢い障害者向けの仕事も首都圏に集まっているためだ。
 東京都はその中心的な存在である。東京都教育庁は、都教育委員会が3次にわたって策定してきた「特別支援教育推進計画」に従い、これまでに就労率100%を目指す職能開発科と就業技術科を7つの学校に設置してきた。その就職実績はめざましいものがあり、最初の卒業生が出た2009年以来、就労率は9割以上をキープしている。3年間のカリキュラムは、1年次に事務、清掃、介護などひととおりの作業を経験し、2年次には段階的に就労分野を絞っていき、3年次に就労先を定めて専門的な知識と技術の向上を図るというもので、3年間かけて職業訓練を実施する学校といえる。
 ただ、これらの学校には定員があり、誰でも入学できるわけではない。選考は調査書、適性検査、面接によって行われ、2017年度入試では460人の募集人数に対して590人の応募があった。そのうち、適性検査は漢字の読みや計算能力といった基礎的学力に加え、レシートの見方、小遣い帳の作成、ラベルの切り貼りなどの作業、作文からなり、問題量も半端なく多い。問われている内容も、企業での仕事をこなす能力を備えているか確かめるものがほとんどだ。つまり、入学を希望する生徒は、適性検査を見据えた試験対策をしておかなければ合格できないのである。
(中略)
 この状況を見れば、これらの学科卒業生の就労率が高いのは当たり前であることがわかるだろう。なぜなら、障害者枠で企業に採用されるために必要とされる知識を確かめるような設問が出題されていて、それを制限時間内にしっかり解ける生徒が入学を許可されているからである。つまり、ここでの〝適性〟とは"企業に採用されやすい”という意味なのである。
 果たしてこれが公教育のあるべき姿なのだろうか。都民の税金で運営されている公的機関において、就職率100%達成を目標に掲げ、軽度の知的障害者のなかでも選りすぐりの生徒たちだけを集めて特別な職業訓練を施すのは障害者という枠組みのなかで公然と行われている差別だろう。公的機関が実施する職業訓練ならば、最も就労が難しいと思われる生徒たちを集め、立派に就職させてこそ成果と呼べるのではないだろうか。

 就労率100%をめざして学科を作ったら、学校が「就職させやすい障害者」を採用するようになり、高い就労率を誇っているという話。

 民間の学校であればこの姿勢は正しい。入学試験によって企業が採用したがるような人だけを集め、卒業生を就職させ、高い就職率を実績として誇る。営利企業として正しい手法だ。

 でも、公的事業としては失敗だよね。民間でできる仕事を公が奪っちゃってるんだから。

 ある政治家が公務員の働き方について「民間じゃ考えられない!」と戯言を言っていたが、公務員が“民間の感覚”を持つとこんなひどいことになるといういい事例だ。「民間じゃ考えられない」ことをやるのが公務員の仕事なのだ。




 B型就労支援施設(障害が重くて一般就労が難しい人に働く機会を提供する施設)の工賃を上げることを行政が施設に義務づける、という話。

 厚労省の「障害福祉サービスの内容」によれば、B型が対象とするのは「通常の事業所に雇用されることが困難な障害者」となっており、そこにはA型での雇用が困難な人も含まれている。
 つまり、最低賃金の縛りのないB型には、軽重さまざまな障害を持つ人たちが集まっているのである。
 そうした特徴を持つB型で工賃向上を義務化すれば、生産性の低い障害者の通所を拒む一方、A型や企業での就労も可能な障害者を抱え込もうとするようになるだろう。これは障害者の満足を高めるとは思えない。
 働くことの喜びは給与を受け取ることのみから発生するわけではない。思いどおりの製品がつくれたときの喜びや自分たちのつくったものが売れたときの喜びは給与とは関係がない。最低賃金に見合う生産性をあげられない障害者にとって、B型は貴重な生産活動の場になっているのである。
 また、障害者のなかには生産性に縛られないB型での活動を通じて体調が改善し、一般就労に結びつく者もいるかもしれない。つまり、施設そのものの工賃をあげる必要はなく、生産性の向上した障害者が生産活動の場を移動すればよいだけの話なのである。

 賃金を上げようとおもったら生産性を向上させなくてはならない。だが重い障害を持つ人を抱えているとそれはむずかしい。どうすれば生産性が向上するのか。「軽い障害の人を増やす」「重い障害を持つ人を排除する」だ。本末転倒だ。


 かつて全国学力テストがおこなわれたとき、学力競争が過熱した結果、教師たちは「問題を事前に教える」「勉強のできない生徒をテスト当日休ませる」という行動に出た。本末転倒だが、「クラス全員の学力を上げる」よりもはるかにかんたんな方法だからだ。

 計測しやすい指標を目標にすると(そしてそれに対して高いインセンティブを与えると)人はずるをして表面的な数字だけを改善しようとするんだよね。




 現在、企業には一定数以上の障害者の雇用が義務付けられている。基準に達しない企業は障害者雇用納付金が徴収される。事実上の罰金だ。

 そのため、「障害者雇用」を代行するビジネスも存在する。

 東京都千代田区に本社があるエスプールプラスという会社は、千葉県に所有するハウス農園を企業向けに貸し出し、企業が雇用した障害者に農作業をさせている。企業は障害者を雇い、給料も支払っているので雇用率にカウントされるが、働く場は企業ではなく千葉の農園で、できた農作物は企業が福利厚生として社員に配ったり、社員食堂の食材に活用したりする。そして作業場提供の見返りとして企業から障害者1人あたり月額1万5000円の手数料を受け取るという仕組みだ。同社のホームページには、「業界・業種を問わず、上場企業、有名企業など約100社にご利用頂いております」と書かれ、企業のニーズが高いことを窺わせる。障害者雇用に苦労している企業にしてみれば、法定雇用率の引きあげに対処するため「背に腹は替えられない」というのが本音だろう。(中略)つまり、これ以上、障害者のために切り出せる仕事がない企業にとってみれば、厚労省から〝未達成企業〟の烙印を押されて評判を落とすくらいなら、賃金と手数料を払ってもエスプールプラスに障害者を引き受けてもらった方が得策と考えても不思議はない。
 形の上では農園での就労という位置づけになってはいるものの、農作物は無償配布しており、農作業の成果から給与を得ているわけでもない。企業側からのニーズがあり、法的に何ら問題がなければ、それに応えるのがビジネス界の常識だろう。とはいうものの、これが果たして障害者雇用のあるべき姿なのか疑問符がつく。

 納付金を収めるよりも手数料のほうが安いのでそっちを利用するほうが得、という計算だ。もちろんこれは違法でもなんでもない。


 こういった事例を読んでいておもうのは、上に政策あれば下に対策ありだな、ということ。障害者雇用を促進するためにいろんな制度をつくっても、企業側はあの手この手で表面上の数字だけをあわせようとする。

 これは企業側が悪いわけではなく、政策に無理があるということだ。無理のある方針を押しつけられると、なんとかごまかそうとするものだ。

 国が企業に求めているのは、障害者を多く雇用せよ、障害者に多くの賃金を出せ、障害者とそれ以外の労働者の垣根をなくして身近な存在として感じよ、ということだ。そしてそれら複数の目標を「生産性は落とさない」という目標を死守しながら達成しなければならない。求めているものに無理がある。同時に追い求められるものではない。

 目標の設定を誤るとどうがんばってもうまくいかないよね。あれもこれもと欲張るとすべてうまくいかない。


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2025年9月8日月曜日

小ネタ39(君が代はギャルが作った説 / シュレディンガーのボウリング / 少子化の原因)


君が代はギャルが作った説

ヤバww 古すぎてマジ巌www 苔むすwww


シュレディンガーのボウリング

得点を競うスポーツで、ボウリングの他に「現在の得点がわからない(過去にさかのぼって得点が決まる)」競技ってあるんだろうか?

ボードゲームだとけっこうある(麻雀の裏ドラとか)。


少子化の原因

あんまり言われてないけど、チャイルドシートの義務化は少子化の原因になっているとおもう。

ふつうの車の後部座席に置けるチャイルドシートは2つまで。3人目を生むのを躊躇しちゃうよね。



2025年9月3日水曜日

小ネタ38(魔改造の夜 / 後ろこうなってます / 犬の形)


魔改造の夜

夜会主催者「今回の生贄はこちら……」

メーカー社員たち「Word……!?」

夜会主催者「君たちにはこの文書作成ソフトを使って、原価管理表を作ってもらう……」

メーカー社員たち「めちゃくちゃだっ……!」


後ろこうなってます

 美容院で散髪後に「後ろこうなってます」と手鏡を見せられるが、自分の後頭部を見るのは「散髪直後」だけなので比べるものがない。いいのか悪いのかわからないから、「こうなってます」と言われても「はあ」としか言いようがない。

 散髪前にもちゃんと「切る前は後ろこうなってます」と見せてほしい。


犬の形

 娘と茨城県の話になったとき、「茨城県って犬の形やろ?」と言われた。

「ちがうよ、犬の形の県は千葉県やで。チーバくんの形やろ?」

「茨城も犬って習ったで」

 調べてみたところ、千葉県も茨城県も犬の形に似ていると言われているらしい。さらに、神奈川県や岐阜県も犬の形をしていると言われているらしい。

 しかしいずれも「そこに犬を見いだそうとすれば見えないこともない」レベルだ。人はどんなものにも犬の形を見出してしまう生き物なのだ。


 だが、「犬の形に似ている」と挙げられている自治体の中で、東京都日野市だけはどこからどう見ても犬だった。

日野市


 もはや「犬市」にしてもいい。


2025年9月2日火曜日

ちびまる子ちゃんとH₂O

 少女漫画雑誌『りぼん』に連載されていた漫画で、最も売れているのは『ちびまる子ちゃん』で3200万部だそうだ。2位の『ときめきトゥナイト』は2800万部 であるが、現在もテレビアニメを放送されている『ちびまる子ちゃん』のほうが今後も売れる可能性が高いだろうから、この差は開いていくとおもわれる。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』で最も売れた漫画であり最も有名な漫画だが、『りぼん』を代表する漫画かと言われるとそれはちょっと違う気がする。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』の中ではかなり異色な作品である。恋愛要素がまるでないし、絵も下手だし、美少女も美男子も出てこない。はっきり言えば『りぼん』っぽくない。邪道が王道を抑えて一位になってしまったのだ。

 蕎麦屋がカレーを出していたら一番の人気メニューになってしまったようなものだ。


 邪道がいちばん有名になってしまった例としては、他に水がある。

 そう、あの水だ。H₂O。

 水はダントツで有名な液体だ。「液体を思いうかべてください」と言われれば、99%ぐらいの人が水または水溶液を思いうかべるだろう。雨も海も川もお湯も泥水もお茶もコーラもビールもワインもほとんど水だ。エタノールとかベンゼンを最初に思いえがく人はほとんどいない。

 でも水は液体としては異端だ。固体になると体積が増えるとか、0℃から4℃までの間は温度を下げると体積が縮むとか、いろいろと変な性質を持っている。

 水は決して“代表的な液体”ではない。王道じゃない。たまたま時代にあったから売れただけ!



2025年9月1日月曜日

【読書感想文】鹿島 茂『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』 / 未来が見えていた人

小林一三

日本が生んだ偉大なる経営イノベータ

鹿島 茂

内容(Amazonより)
Amazonでも、googleでもない。
2020年、東京オリンピック後の日本社会を構想するヒント

阪急電車、宝塚歌劇団、東宝株式会社など、明治から昭和にかけて手がけた事業は数知れず。大衆の生活をなにより重んじ、日本に真の「近代的市民」を創出することに命を捧げた天才実業家の偉大なる事業と戦略とは?

 小林一三(1873~1957年)の評伝。箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝などの創業者であり、鉄道事業の運営と周辺の都市開発や商業施設の経営などの手法は、後の鉄道会社の運営にも大きな影響を与えている。


 小林一三氏は鉄道会社が沿線の不動産開発をおこなったり駅ビルを運営したりして利用者の満足度を高めつつ路線価を高めるという画期的な手法を確立した。どれぐらい画期的かというと、みんな真似して今ではあたりまえになって画期的には見えなくなった。それぐらい画期的だった。

 このように、箕面有馬電気軌道株式会社は、創立前から前途が危ぶまれるボロ鉄道だったわけだが、ひとり、小林だけはまったく違う見方をしていた。
 
阪鶴鉄道会社の本社は、現在の省線池田駅の山手の丘上にあった。そこでいつも発起人会や、会社の重役会が開かれてゐたので、私は、そこに出席する機会に、大阪から池田まで、計画の線路敷地を、二度ばかり歩いて往復した。その間に、沿道に於ける住宅経営新案を考へて、かうやれば屹度うまくゆくといふ企業計画を空想した。(「逸翁自叙伝』)
 
 そう、「沿道に於ける住宅経営新案」なのである、小林の頭にあったのは!この点はいくら強調しても強調しすぎるということはない。

 明治時代、大阪の人口は急速に増えており、住宅事情は悪かった。

 そこで小林一三氏は中産階級(サラリーマン階級)にターゲットを絞り、大阪近郊に住み心地の良い住宅地を供給すれば必ず売れると踏んだのである。

 私はかういふ広告文を書いた。『新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車』それがお家芸の一枚看板、電車正面の此広告が、阪神間の全新聞紙に載った時の私の嬉しさ、アア、ガラアキ電車!オールスチールカー、四輛連結、三十分で突走してゐるあの日本一の電車の前身である、たった一輛のガラアキ電車!(『逸翁自叙伝』)
 
 なんという驚くべきキャッチコピーであろうか! いかに大阪では自虐ネタが受けるとはいえ、念願の神戸線の電車を自ら「ガラアキ電車」と命名するとは! 小林は破れかぶれでこんなキャッチコピーをつくったのだろうか?
 もちろん、否である。深慮遠謀の末に出てきたコピーにほかならない。
 小林が灘循環線の買収にこだわったのは、一つには、それが大阪―神戸間の基幹鉄道を可能にするからであるが、もう一つの理由として、箕面有馬電気軌道で実証済みのように、沿線に優良住宅地を開発して不動産収入を得るということがあった。
 小林が鉄道事業に乗り出すに当たってターゲットとしたのは日清・日露の戦争を契機にして日本にも生まれつつあった都市部中産階級、すなわち自分がかつてそうであったようなサラリーマン階級であるが、このサラリーマン階級というのは、原則として住居と勤め先が分離しており、朝と晩にこの二つを往復するだけで、従来の大阪人のような地域密着型の生活ではない。接待でも自費での飲み会でも居住地域の店を使うことはなく、そうした場合には仕事の延長として北の新地を使うだろう。となったら、梅田から阪急電鉄に乗ったら、あとは一路、自宅のある駅を目指すしかないが、その場合には座席に座れてしかも短時間で着くのがベストである。
 つまり、小林は、阪急というのはサラリーマンたちのための電車であるという前提から逆算して、「新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」というコピーを考え出したのである。たしかに、自宅と勤め先を往復するだけのサラリーマンにとっては、ガラアキで道中、座って快適に過ごせ、しかも、緑の多い景色を見ながら爽快な気分で、短時間で目的地に着きたいと思うはずだ。小林のコピーはサラリーマンの願望をすべて言い表していたのだ。

 小林一三氏は箕面有馬電気軌道創業前に銀行員として十五年ほど勤務している。この経験があるからこそ、サラリーマンたちの求めているものがよくわかったのだろう。


 目を見張るのは、当時の箕面有馬電気軌道の路線はほとんどが田畑が広がる田舎だったことである。その頃近くにあった阪神(大阪ー神戸)や京阪(大阪ー京都)が大都市間を結ぶ鉄道であったのと対照的だ。そのため採算がとれないのではないかと予想されていたという。

 だが小林氏はそのデメリットをメリットに変えた。沿線が田舎ということは地価が安いということである。周辺の土地を買収して、それを住宅地として販売することで増収につなげた。鉄道事業としてはマイナスでしかない「ガラアキ電車」も、沿線に住宅を購入しようとする人にとってはプラスになる。鉄道運賃で利益が出なくても、他の事業で収益を挙げればいいと考えたのだ。

 さらに当時めずらしかった住宅ローンでの販売を導入した。

 なぜかというと、当時、計画されていた私鉄のほとんどが都市間鉄道か市内電車であったことからも明らかなように、鉄道経営を企てていた企業家の大部分が鉄道を利用する「乗客の数」だけを考えて採算ラインを計算していたのに対し、小林は沿線に住宅を構える「住人の数」を考えていたのである。土台、発想が違うのである。
 今でこそ住宅ローン方式は当たり前になっているが、日本での歴史は銀行家の安田善次郎が創立した東京建物が建物の建築費を五年以上十五年以下の月賦で支払うことを可能にしたのを先駆とするものの、実際面での適用ということであれば、この箕面有馬電気軌道の池田室町分譲地をもって嚆矢とする。
 では、小林はなにゆえに、住宅ローン方式を採用したのか? つまり、大阪にはまとまった現金を所有する富裕な商人たちがたくさんいたから、彼らを購買者と想定すればローン方式にする必要はなかったはずなのに、あえてローンを売り物にしたのはなにゆえかということである。
 答えは、資産は持たないが、学歴を有するがゆえに一〇年後、一五年後には確実に社会の中核を占めるであろう中堅サラリーマンを分譲地の住人として想定していたからである。言い替えれば、「今」ではなく来るべき「未来」に住宅を売ろうとしたのである。
 この発想は、三井銀行で足掛け一五年、サラリーマン生活を送ったものでなければ生まれないものである。

 今ある市場で勝負するのではなく、ない市場を生みだす。相当先見の明がある人でないとできないことだ。


 小林一三氏は人口学に基づいた考え方ができる人だったようだ。それを物語るエピソードがいくつも紹介されている。これからはこれぐらい人口が増える。するとこれぐらいの需要が生まれるのでこのぐらいの価格帯の商品を提供すれば年間の売上がこれぐらいになる。こうした計算をやっていたようだ。

 著者の鹿島茂氏は「人口学は未来をかなり正確に予測できる学問だ」と書いている。たしかに。戦争とかジェノサイドとか大量の難民発生とかがなければ、50年後の人口はだいたいわかる。




 他にも小林一三氏はあの手この手で電車との相乗ビジネスを成功させた。言わずと知れた宝塚歌劇団、劇場、ホテル、高校野球選手権大会(第一回は阪急沿線の豊中球場で開催。後にライバルである阪神の甲子園球場に奪われることになるが)、プロ野球チーム(阪急ブレーブス)、名門大学の誘致など、次々に「阪急」ブランドを高めることに成功した。


 ぼくは阪急沿線で生まれ育ったので身びいきも入っているのだが、阪急は上品だ。客層がいい。身なりもいいし、みんな静かに座っている。特に阪急今津線なんて閑静な住宅地と名門大学とかお嬢様学校とか宝塚音楽学校とかが沿線にあるので、なんとも優雅な雰囲気が漂っている(今津線に乗るとよく未来のタカラジェンヌの姿を見ることができる。みんな姿勢がいいし運転士にお辞儀をしているのですぐわかる)。会話をしている人もみんな物静かだ。

 それも、創業当初から中産階級をターゲットにしてきたからなのだろう。住民の生活レベルを引き上げることを目指した小林氏の取り組みが見事に成功している。


 ここで小林が述べていることは、基本的に三越などの既存のデパートに対して阪急デパートを対抗させたときの原理と同じである。
 すなわち、高品質の商品に対して一定のサービスを付けたらそれは高額な商品になるのが当たり前だが、しかし、それではその商品を買える消費者は限られた階層だけになる。しかも、いったん顧客の数が限定されてしまえば、その商品の価格が下がる可能性は低くなり、大衆は永遠にそうした商品にアクセスできない。
 小林のユニークなところは、こうした当たり前の原理を当たり前だと思わなかったところである。小林は、高品質商品でも、それを低価格でより多くの人々に届けてこそビジネスであると考えるのだ。
 では、なぜ、ビジネスはかくあらねばならないかというと、それは最大多数の最大幸福の原理のみが良き社会を保証するからである。ごく一般的な家庭の成員全員がよりよき商品を享受しうるのが良い社会であり、特権的な人々だけしかその利益を享受しえないのは良くない社会なのだ。それは商品に限らない。芝居や映画といった娯楽もまた同じ原理によるべきなのだ。なぜなら、娯楽は生活を潤し、人間性を豊かにするからである。より多くの人がよりウェル・メイドな娯楽に接することができるのが良い社会なのだ。
 つまり、小林の頭の中にはあらかじめ「より良き社会」という理想があり、いつでもその理想に照らして演繹が行われているのである。理想から具体的な現実に降りていったときに困難に直面したら、それをどう回避すればいいかが小林にとってのビジネスなのだ。小林が理念的な実業家であったというのはまさにこうした意味においてである。

 感心するのは「儲けすぎないようにする」という精神があふれていることだ。「儲けすぎない」を示す逸話が、この本の随所にあふれている。

 もちろん金儲けは考えるが、それと同じくらい「人々の暮らしを良くすること」を大事に考えている。小林一三氏が特異だったのか、それともこの時代のエリートはこのような意識を持っていたのか。

 今の時代にこういう考えをする経営者は絶滅危惧種だろうな。経営者が「儲けすぎないように」と考えていても株主がそれを許さないだろうし。


 小林一三という人は、まちがいなく日本人の暮らしを良くした人だった。彼がいなければ、日本はもっと階層社会だったかもしれない。

 なぜ彼は次々に革新的なビジネスで人々の暮らしを塗り替えることができたのか。逆に言えば、なぜ今の経営者にはそれができないのか。

  • 当時の日本社会がまだまだ未熟だったから
  • 人口がどんどん増えてゆく時代だったから
  • (株主含めて)当時の経営者が、金儲け、株価を上げること以外に使命があると考えていたから


 うーん、今後の日本でこういうスタンスを継続できる大企業が生まれる可能性は低いだろうなあ……。




 いい評伝でした。小林一三氏は未来をかなり正確に見通せていた人だったんだなと感じる。


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