2025年9月1日月曜日

【読書感想文】鹿島 茂『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』 / 未来が見えていた人

小林一三

日本が生んだ偉大なる経営イノベータ

鹿島 茂

内容(Amazonより)
Amazonでも、googleでもない。
2020年、東京オリンピック後の日本社会を構想するヒント

阪急電車、宝塚歌劇団、東宝株式会社など、明治から昭和にかけて手がけた事業は数知れず。大衆の生活をなにより重んじ、日本に真の「近代的市民」を創出することに命を捧げた天才実業家の偉大なる事業と戦略とは?

 小林一三(1873~1957年)の評伝。箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝などの創業者であり、鉄道事業の運営と周辺の都市開発や商業施設の経営などの手法は、後の鉄道会社の運営にも大きな影響を与えている。


 小林一三氏は鉄道会社が沿線の不動産開発をおこなったり駅ビルを運営したりして利用者の満足度を高めつつ路線価を高めるという画期的な手法を確立した。どれぐらい画期的かというと、みんな真似して今ではあたりまえになって画期的には見えなくなった。それぐらい画期的だった。

 このように、箕面有馬電気軌道株式会社は、創立前から前途が危ぶまれるボロ鉄道だったわけだが、ひとり、小林だけはまったく違う見方をしていた。
 
阪鶴鉄道会社の本社は、現在の省線池田駅の山手の丘上にあった。そこでいつも発起人会や、会社の重役会が開かれてゐたので、私は、そこに出席する機会に、大阪から池田まで、計画の線路敷地を、二度ばかり歩いて往復した。その間に、沿道に於ける住宅経営新案を考へて、かうやれば屹度うまくゆくといふ企業計画を空想した。(「逸翁自叙伝』)
 
 そう、「沿道に於ける住宅経営新案」なのである、小林の頭にあったのは!この点はいくら強調しても強調しすぎるということはない。

 明治時代、大阪の人口は急速に増えており、住宅事情は悪かった。

 そこで小林一三氏は中産階級(サラリーマン階級)にターゲットを絞り、大阪近郊に住み心地の良い住宅地を供給すれば必ず売れると踏んだのである。

 私はかういふ広告文を書いた。『新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車』それがお家芸の一枚看板、電車正面の此広告が、阪神間の全新聞紙に載った時の私の嬉しさ、アア、ガラアキ電車!オールスチールカー、四輛連結、三十分で突走してゐるあの日本一の電車の前身である、たった一輛のガラアキ電車!(『逸翁自叙伝』)
 
 なんという驚くべきキャッチコピーであろうか! いかに大阪では自虐ネタが受けるとはいえ、念願の神戸線の電車を自ら「ガラアキ電車」と命名するとは! 小林は破れかぶれでこんなキャッチコピーをつくったのだろうか?
 もちろん、否である。深慮遠謀の末に出てきたコピーにほかならない。
 小林が灘循環線の買収にこだわったのは、一つには、それが大阪―神戸間の基幹鉄道を可能にするからであるが、もう一つの理由として、箕面有馬電気軌道で実証済みのように、沿線に優良住宅地を開発して不動産収入を得るということがあった。
 小林が鉄道事業に乗り出すに当たってターゲットとしたのは日清・日露の戦争を契機にして日本にも生まれつつあった都市部中産階級、すなわち自分がかつてそうであったようなサラリーマン階級であるが、このサラリーマン階級というのは、原則として住居と勤め先が分離しており、朝と晩にこの二つを往復するだけで、従来の大阪人のような地域密着型の生活ではない。接待でも自費での飲み会でも居住地域の店を使うことはなく、そうした場合には仕事の延長として北の新地を使うだろう。となったら、梅田から阪急電鉄に乗ったら、あとは一路、自宅のある駅を目指すしかないが、その場合には座席に座れてしかも短時間で着くのがベストである。
 つまり、小林は、阪急というのはサラリーマンたちのための電車であるという前提から逆算して、「新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」というコピーを考え出したのである。たしかに、自宅と勤め先を往復するだけのサラリーマンにとっては、ガラアキで道中、座って快適に過ごせ、しかも、緑の多い景色を見ながら爽快な気分で、短時間で目的地に着きたいと思うはずだ。小林のコピーはサラリーマンの願望をすべて言い表していたのだ。

 小林一三氏は箕面有馬電気軌道創業前に銀行員として十五年ほど勤務している。この経験があるからこそ、サラリーマンたちの求めているものがよくわかったのだろう。


 目を見張るのは、当時の箕面有馬電気軌道の路線はほとんどが田畑が広がる田舎だったことである。その頃近くにあった阪神(大阪ー神戸)や京阪(大阪ー京都)が大都市間を結ぶ鉄道であったのと対照的だ。そのため採算がとれないのではないかと予想されていたという。

 だが小林氏はそのデメリットをメリットに変えた。沿線が田舎ということは地価が安いということである。周辺の土地を買収して、それを住宅地として販売することで増収につなげた。鉄道事業としてはマイナスでしかない「ガラアキ電車」も、沿線に住宅を購入しようとする人にとってはプラスになる。鉄道運賃で利益が出なくても、他の事業で収益を挙げればいいと考えたのだ。

 さらに当時めずらしかった住宅ローンでの販売を導入した。

 なぜかというと、当時、計画されていた私鉄のほとんどが都市間鉄道か市内電車であったことからも明らかなように、鉄道経営を企てていた企業家の大部分が鉄道を利用する「乗客の数」だけを考えて採算ラインを計算していたのに対し、小林は沿線に住宅を構える「住人の数」を考えていたのである。土台、発想が違うのである。
 今でこそ住宅ローン方式は当たり前になっているが、日本での歴史は銀行家の安田善次郎が創立した東京建物が建物の建築費を五年以上十五年以下の月賦で支払うことを可能にしたのを先駆とするものの、実際面での適用ということであれば、この箕面有馬電気軌道の池田室町分譲地をもって嚆矢とする。
 では、小林はなにゆえに、住宅ローン方式を採用したのか? つまり、大阪にはまとまった現金を所有する富裕な商人たちがたくさんいたから、彼らを購買者と想定すればローン方式にする必要はなかったはずなのに、あえてローンを売り物にしたのはなにゆえかということである。
 答えは、資産は持たないが、学歴を有するがゆえに一〇年後、一五年後には確実に社会の中核を占めるであろう中堅サラリーマンを分譲地の住人として想定していたからである。言い替えれば、「今」ではなく来るべき「未来」に住宅を売ろうとしたのである。
 この発想は、三井銀行で足掛け一五年、サラリーマン生活を送ったものでなければ生まれないものである。

 今ある市場で勝負するのではなく、ない市場を生みだす。相当先見の明がある人でないとできないことだ。


 小林一三氏は人口学に基づいた考え方ができる人だったようだ。それを物語るエピソードがいくつも紹介されている。これからはこれぐらい人口が増える。するとこれぐらいの需要が生まれるのでこのぐらいの価格帯の商品を提供すれば年間の売上がこれぐらいになる。こうした計算をやっていたようだ。

 著者の鹿島茂氏は「人口学は未来をかなり正確に予測できる学問だ」と書いている。たしかに。戦争とかジェノサイドとか大量の難民発生とかがなければ、50年後の人口はだいたいわかる。




 他にも小林一三氏はあの手この手で電車との相乗ビジネスを成功させた。言わずと知れた宝塚歌劇団、劇場、ホテル、高校野球選手権大会(第一回は阪急沿線の豊中球場で開催。後にライバルである阪神の甲子園球場に奪われることになるが)、プロ野球チーム(阪急ブレーブス)、名門大学の誘致など、次々に「阪急」ブランドを高めることに成功した。


 ぼくは阪急沿線で生まれ育ったので身びいきも入っているのだが、阪急は上品だ。客層がいい。身なりもいいし、みんな静かに座っている。特に阪急今津線なんて閑静な住宅地と名門大学とかお嬢様学校とか宝塚音楽学校とかが沿線にあるので、なんとも優雅な雰囲気が漂っている(今津線に乗るとよく未来のタカラジェンヌの姿を見ることができる。みんな姿勢がいいし運転士にお辞儀をしているのですぐわかる)。会話をしている人もみんな物静かだ。

 それも、創業当初から中産階級をターゲットにしてきたからなのだろう。住民の生活レベルを引き上げることを目指した小林氏の取り組みが見事に成功している。


 ここで小林が述べていることは、基本的に三越などの既存のデパートに対して阪急デパートを対抗させたときの原理と同じである。
 すなわち、高品質の商品に対して一定のサービスを付けたらそれは高額な商品になるのが当たり前だが、しかし、それではその商品を買える消費者は限られた階層だけになる。しかも、いったん顧客の数が限定されてしまえば、その商品の価格が下がる可能性は低くなり、大衆は永遠にそうした商品にアクセスできない。
 小林のユニークなところは、こうした当たり前の原理を当たり前だと思わなかったところである。小林は、高品質商品でも、それを低価格でより多くの人々に届けてこそビジネスであると考えるのだ。
 では、なぜ、ビジネスはかくあらねばならないかというと、それは最大多数の最大幸福の原理のみが良き社会を保証するからである。ごく一般的な家庭の成員全員がよりよき商品を享受しうるのが良い社会であり、特権的な人々だけしかその利益を享受しえないのは良くない社会なのだ。それは商品に限らない。芝居や映画といった娯楽もまた同じ原理によるべきなのだ。なぜなら、娯楽は生活を潤し、人間性を豊かにするからである。より多くの人がよりウェル・メイドな娯楽に接することができるのが良い社会なのだ。
 つまり、小林の頭の中にはあらかじめ「より良き社会」という理想があり、いつでもその理想に照らして演繹が行われているのである。理想から具体的な現実に降りていったときに困難に直面したら、それをどう回避すればいいかが小林にとってのビジネスなのだ。小林が理念的な実業家であったというのはまさにこうした意味においてである。

 感心するのは「儲けすぎないようにする」という精神があふれていることだ。「儲けすぎない」を示す逸話が、この本の随所にあふれている。

 もちろん金儲けは考えるが、それと同じくらい「人々の暮らしを良くすること」を大事に考えている。小林一三氏が特異だったのか、それともこの時代のエリートはこのような意識を持っていたのか。

 今の時代にこういう考えをする経営者は絶滅危惧種だろうな。経営者が「儲けすぎないように」と考えていても株主がそれを許さないだろうし。


 小林一三という人は、まちがいなく日本人の暮らしを良くした人だった。彼がいなければ、日本はもっと階層社会だったかもしれない。

 なぜ彼は次々に革新的なビジネスで人々の暮らしを塗り替えることができたのか。逆に言えば、なぜ今の経営者にはそれができないのか。

  • 当時の日本社会がまだまだ未熟だったから
  • 人口がどんどん増えてゆく時代だったから
  • (株主含めて)当時の経営者が、金儲け、株価を上げること以外に使命があると考えていたから


 うーん、今後の日本でこういうスタンスを継続できる大企業が生まれる可能性は低いだろうなあ……。




 いい評伝でした。小林一三氏は未来をかなり正確に見通せていた人だったんだなと感じる。


【関連記事】

【読書感想文】高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』 / 誰もが楽しめるリゾートの時代は終わった

【読書感想文】半藤 一利『B面昭和史 1926-1945』 / 昭和もB面も遠くなりにけり



 その他の読書感想文はこちら