2025年9月10日水曜日

【読書感想文】中島 隆信『障害者の経済学』 / 二兎を追う者は一兎をも得ず

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障害者の経済学

中島 隆信

内容(Amazonより)
障害者を作っているのは私たち自身である
制度の問題点を経済学で一刀両断にする

障害者本人のニーズに合わない障害者福祉制度でいいのか?
選りすぐりの生徒だけ受けられる職業訓練、
補助金目当てで仕事をさせない障害者就労施設、
障害者雇用を肩代わりするビジネス……。

脳性麻痺の子どもを持つ気鋭の経済学者が、経済学の冷静な視点から、障害者を含めたすべての人が生きやすい社会のあり方を提言

 障害者をとりまく状況について、経済学の立場からアプローチした本。

 障害者にまつわる本は「こうあるべき」という理念が中心になってしまいがちだが、この本は経済学的観点で語られているだけあって感情的でない冷静な議論が多い。こうあるべきなんだよね。

「こうあるべき」を語ることにはあまり意味がない。まったくとまでは言わないけど。

「障害者にもそうでない人にも分け隔てなく接しよう」でできるのならとっくにやっているわけで。

 理念と現実が乖離しているのはなぜか、どういった制度を設計すれば理念に近づくのか、を考えるほうが道徳を説くより効果的だろう。




 障害者が経済的に自立するのはむずかしい。単純に「金を稼ぐのがむずかしいから」だけではない。政策的な理由もある。

 よくあるのが、障害を持つ子が生まれた両親が離婚するパターン。育てるのに手がかかる→母親が子どもの世話にかかりっきりになる→父親が疎外感をおぼえる→離婚、というパターンが少なくないそうだ。

 人間は時間や手間をかけたものに愛着をおぼえる(IKEA効果と呼ぶそうです。自分で組み立てた家具のほうが気に入りやすいから)。手がかかる→愛情が深くなる→さらに手をかけるようになる、というわけ。こうなるともう共依存ですね。

 こうした状況で夫婦が離婚すれば、子どもは母親に引き取られることが多いのだが、父親の経済力が乏しければ満足な養育費も受け取れないかもしれない。子どもが成人するまでは、障害の程度に応じて親に支給される「特別児童扶養手当」と障害児本人に支給される「障害児福祉手当」が合わせて月5万~6万5000円ほどあり、成人後は障害の程度に応じて「障害基礎年金」「特別障害者手当」が月9万~11万円ほど障害者本人に支給されるので、それと母親のパート収入を合わせて家計をやりくりすることになる。家賃を払いながら親子2人で何とか生活できるレベルの収入であるが、病気や事故など何か突発的なことが母親に降りかかればたちまち困窮状態に陥るだろう。
 この状態から子どもを自立させることはほぼ不可能である。なぜなら、子どもが受け取る年金は母親の生活費にも充てられているからである。年金や手当以外にも、障害のある子どもと同居していれば、自動車税/自動車取得税の減免や高速道路の割引といった特別措置が受けられ、「駐車禁止等除外標章」により駐停車禁止場所や法定駐車禁止場所以外の路上駐車が認められる。子どもを自立させればこうした〝特典〟を手放さなくてはならないのだ。
 
 (中略)
 
 こうした事態を招いている最大の原因は、障害児を持つ親の経済力の弱さにある。経済力があれば子どもの福祉手当をあてにすることもないと思われるからだ。そして、親の経済力に決定的な影響を与えているのは退職と離婚である。障害児は貧しい家庭にだけ生まれるわけでもなく、また障害児が生まれたことだけで家計が苦しくなるわけでもない。障害児が生まれたことをきっかけに、仕事を辞めざるを得なくなったり、夫婦関係をめぐるさまざまな問題が表面化して破綻を招いたりしたことが貧しさの原因なのである。

 障害児が生まれたら世話をするために母親が仕事を辞める。仕事を辞めるから収入は減るが、手当がもらえるのでなんとかやっていける。だが手当によってぎりぎり家計が持ちこたえているので、子どもが自立すれば親も生活できなくなる。障害を持つ子も親から独立できないし、親もまた子どもから独立できなくなる。

 そういうのって外から見ていると不幸な状態かもしれないが、本人たちからしたらけっこう幸せだったりするんだよね。「自分ががんばらないと立ちいかない状態」って裏を返せば「自分が強く必要とされている状態」だからね。快楽だろう。



 障害児を持つ親を何人か知っているけど、すごくがんばる人が多い。特に母親。自分の全人生を捧げ、我が子のため、さらには世の障害児のためにボランティア活動や講演会にかけまわったりする。きっとすごい快楽なんだろう。「社会にとっていいことをしてる! 人の役に立ってる! 人から求められてる!」ってドーパミンがどばどば出るんだろう。

 悪いことしてるわけじゃないから周囲からも止められにくいし。「そのへんにしときなよ」って言ってくる人は悪いやつ認定すればいいだけだし。


 ぼくも子育てをしていたので「全面的に頼られる」ことのうれしさは知っている。自分と乳幼児のふたりっきりのときなんて「自分がしっかりしないとこの子は死んでしまう」とおもえて、すごく自己肯定感が高まる。自分が強くなったように感じる。

 気持ちいいから、なかなか抜けだせないのもわかる。多くの場合は子どもが成長するにつれ子どものほうから離れていくけど、子どもが障害や病気を持っていると「私がいないとだめだ」感はいつまでも消えないのだろう。

 共依存の関係から抜けださせようとおもったら障害者と同居することの“特典”を減らすことになるんだろうが、それはそれでむずかしいよな……。




 障害者のための学校について。

 一方、比較的軽度の知的障害者には、企業への一般就労という可能性がある。第6章で詳しく述べるが、民間企業には障害者を一定割合雇用する義務が課せられている。義務を果たさないと企業名が公表されることもあるため、企業には働ける障害者を雇う動機がある。そんな企業にとって、軽度の知的障害者は願ってもない存在といえる。
 こうした需要の高まりに敏感に反応したのが首都圏の教育委員会や教育庁である。それは当然の流れだろう。なぜなら、企業の本社は東京に集中しており、勢い障害者向けの仕事も首都圏に集まっているためだ。
 東京都はその中心的な存在である。東京都教育庁は、都教育委員会が3次にわたって策定してきた「特別支援教育推進計画」に従い、これまでに就労率100%を目指す職能開発科と就業技術科を7つの学校に設置してきた。その就職実績はめざましいものがあり、最初の卒業生が出た2009年以来、就労率は9割以上をキープしている。3年間のカリキュラムは、1年次に事務、清掃、介護などひととおりの作業を経験し、2年次には段階的に就労分野を絞っていき、3年次に就労先を定めて専門的な知識と技術の向上を図るというもので、3年間かけて職業訓練を実施する学校といえる。
 ただ、これらの学校には定員があり、誰でも入学できるわけではない。選考は調査書、適性検査、面接によって行われ、2017年度入試では460人の募集人数に対して590人の応募があった。そのうち、適性検査は漢字の読みや計算能力といった基礎的学力に加え、レシートの見方、小遣い帳の作成、ラベルの切り貼りなどの作業、作文からなり、問題量も半端なく多い。問われている内容も、企業での仕事をこなす能力を備えているか確かめるものがほとんどだ。つまり、入学を希望する生徒は、適性検査を見据えた試験対策をしておかなければ合格できないのである。
(中略)
 この状況を見れば、これらの学科卒業生の就労率が高いのは当たり前であることがわかるだろう。なぜなら、障害者枠で企業に採用されるために必要とされる知識を確かめるような設問が出題されていて、それを制限時間内にしっかり解ける生徒が入学を許可されているからである。つまり、ここでの〝適性〟とは"企業に採用されやすい”という意味なのである。
 果たしてこれが公教育のあるべき姿なのだろうか。都民の税金で運営されている公的機関において、就職率100%達成を目標に掲げ、軽度の知的障害者のなかでも選りすぐりの生徒たちだけを集めて特別な職業訓練を施すのは障害者という枠組みのなかで公然と行われている差別だろう。公的機関が実施する職業訓練ならば、最も就労が難しいと思われる生徒たちを集め、立派に就職させてこそ成果と呼べるのではないだろうか。

 就労率100%をめざして学科を作ったら、学校が「就職させやすい障害者」を採用するようになり、高い就労率を誇っているという話。

 民間の学校であればこの姿勢は正しい。入学試験によって企業が採用したがるような人だけを集め、卒業生を就職させ、高い就職率を実績として誇る。営利企業として正しい手法だ。

 でも、公的事業としては失敗だよね。民間でできる仕事を公が奪っちゃってるんだから。

 ある政治家が公務員の働き方について「民間じゃ考えられない!」と戯言を言っていたが、公務員が“民間の感覚”を持つとこんなひどいことになるといういい事例だ。「民間じゃ考えられない」ことをやるのが公務員の仕事なのだ。




 B型就労支援施設(障害が重くて一般就労が難しい人に働く機会を提供する施設)の工賃を上げることを行政が施設に義務づける、という話。

 厚労省の「障害福祉サービスの内容」によれば、B型が対象とするのは「通常の事業所に雇用されることが困難な障害者」となっており、そこにはA型での雇用が困難な人も含まれている。
 つまり、最低賃金の縛りのないB型には、軽重さまざまな障害を持つ人たちが集まっているのである。
 そうした特徴を持つB型で工賃向上を義務化すれば、生産性の低い障害者の通所を拒む一方、A型や企業での就労も可能な障害者を抱え込もうとするようになるだろう。これは障害者の満足を高めるとは思えない。
 働くことの喜びは給与を受け取ることのみから発生するわけではない。思いどおりの製品がつくれたときの喜びや自分たちのつくったものが売れたときの喜びは給与とは関係がない。最低賃金に見合う生産性をあげられない障害者にとって、B型は貴重な生産活動の場になっているのである。
 また、障害者のなかには生産性に縛られないB型での活動を通じて体調が改善し、一般就労に結びつく者もいるかもしれない。つまり、施設そのものの工賃をあげる必要はなく、生産性の向上した障害者が生産活動の場を移動すればよいだけの話なのである。

 賃金を上げようとおもったら生産性を向上させなくてはならない。だが重い障害を持つ人を抱えているとそれはむずかしい。どうすれば生産性が向上するのか。「軽い障害の人を増やす」「重い障害を持つ人を排除する」だ。本末転倒だ。


 かつて全国学力テストがおこなわれたとき、学力競争が過熱した結果、教師たちは「問題を事前に教える」「勉強のできない生徒をテスト当日休ませる」という行動に出た。本末転倒だが、「クラス全員の学力を上げる」よりもはるかにかんたんな方法だからだ。

 計測しやすい指標を目標にすると(そしてそれに対して高いインセンティブを与えると)人はずるをして表面的な数字だけを改善しようとするんだよね。




 現在、企業には一定数以上の障害者の雇用が義務付けられている。基準に達しない企業は障害者雇用納付金が徴収される。事実上の罰金だ。

 そのため、「障害者雇用」を代行するビジネスも存在する。

 東京都千代田区に本社があるエスプールプラスという会社は、千葉県に所有するハウス農園を企業向けに貸し出し、企業が雇用した障害者に農作業をさせている。企業は障害者を雇い、給料も支払っているので雇用率にカウントされるが、働く場は企業ではなく千葉の農園で、できた農作物は企業が福利厚生として社員に配ったり、社員食堂の食材に活用したりする。そして作業場提供の見返りとして企業から障害者1人あたり月額1万5000円の手数料を受け取るという仕組みだ。同社のホームページには、「業界・業種を問わず、上場企業、有名企業など約100社にご利用頂いております」と書かれ、企業のニーズが高いことを窺わせる。障害者雇用に苦労している企業にしてみれば、法定雇用率の引きあげに対処するため「背に腹は替えられない」というのが本音だろう。(中略)つまり、これ以上、障害者のために切り出せる仕事がない企業にとってみれば、厚労省から〝未達成企業〟の烙印を押されて評判を落とすくらいなら、賃金と手数料を払ってもエスプールプラスに障害者を引き受けてもらった方が得策と考えても不思議はない。
 形の上では農園での就労という位置づけになってはいるものの、農作物は無償配布しており、農作業の成果から給与を得ているわけでもない。企業側からのニーズがあり、法的に何ら問題がなければ、それに応えるのがビジネス界の常識だろう。とはいうものの、これが果たして障害者雇用のあるべき姿なのか疑問符がつく。

 納付金を収めるよりも手数料のほうが安いのでそっちを利用するほうが得、という計算だ。もちろんこれは違法でもなんでもない。


 こういった事例を読んでいておもうのは、上に政策あれば下に対策ありだな、ということ。障害者雇用を促進するためにいろんな制度をつくっても、企業側はあの手この手で表面上の数字だけをあわせようとする。

 これは企業側が悪いわけではなく、政策に無理があるということだ。無理のある方針を押しつけられると、なんとかごまかそうとするものだ。

 国が企業に求めているのは、障害者を多く雇用せよ、障害者に多くの賃金を出せ、障害者とそれ以外の労働者の垣根をなくして身近な存在として感じよ、ということだ。そしてそれら複数の目標を「生産性は落とさない」という目標を死守しながら達成しなければならない。求めているものに無理がある。同時に追い求められるものではない。

 目標の設定を誤るとどうがんばってもうまくいかないよね。あれもこれもと欲張るとすべてうまくいかない。


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