2022年4月28日木曜日

有頂天とはこのことだ


 どういういきさつか忘れたけど、小学三年生のとき、家に一輪車が届いた。たしか親戚にもらったんだとおもう。

 で、ぼくは乗ってみた。あたりまえだが乗れない。何度も何度も乗ってみた。親も兄弟も知人も一輪車には乗れないから、乗り方を教えてくれる人なんていない。今だったらYouTubeとかで検索すればすぐに乗り方レクチャー動画が出てくるんだろうが、当時はそんなものない。ぼくは何度もこけてこけてこけて、ようやく乗れるようになった。内くるぶしが傷だらけになったのをおぼえている。


 ぼくが一輪車にすいすい乗れるようになった頃、ほんとにたまたま、小学校がベルマークで一輪車を二十台ぐらい購入した。そして、体育の時間に一輪車に乗ってみることになった。

 もちろん誰も一輪車には乗れない。先生だって乗り方を知らない。乗れるのはぼくひとり。クラスどころか全校生徒の中でぼくひとりだけだった。

「有頂天」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。

 優越感の極み。クラスの誰もができずに悪戦苦闘していることを、自分ひとりだけがたやすくできる。スポーツ万能のあいつも、けんかの強いあいつも、体操教室に通ってるあいつも、みんな必死の形相で一輪車から落ちないようにみっともなく鉄棒にしがみついているのに、ぼくだけが悠々と一輪車を乗りこなしている。進むのも曲がるのもできちゃう。

 おれはヒーローだ!


……と当時はおもっていたんだけど、今おもうとどう考えてもただの「鼻持ちならない嫌なやつ」だよな。ヒーローでもなんでもなくて。

 そして、ぼくが優越感を感じられたのはほんと数週間だけで、あっという間にクラス全員が一輪車に乗れるようになり、さらにはぼくもできなかった「バック」「アイドリング」といった技をできるようになるやつも現れ、ぼくの優越感は一瞬にして崩壊したのだった。

「鼻っ柱をへし折られる」とはあのときのぼくのことを指す言葉だ。


2022年4月27日水曜日

【読書感想文】『参上!ズッコケ忍者軍団』『ズッコケ妖怪大図鑑』『ズッコケ三人組の推理教室』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第七弾。といっても今回からは「読み返し」ではなく「はじめて読む」作品も。

 今回は28・23・19作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら、17・13・18の感想はこちら


『参上!ズッコケ忍者軍団』(1993年)

 カブトムシ捕りの穴場スポットに、隣の小学校の連中が基地を作り、エアガンやガスガンで戦争ごっこをしている。下級生が脅されたことに憤慨したハチベエたちは仲間を集めて喧嘩をしかけにいくが返り討ちに遭って恥をかかされてしまう。そこで復讐を果たすため、忍者軍団を結成して戦術を練る……というストーリー。

 うーん。これは、子どもの頃に読んでいたらもっと純粋に楽しめたんだろうなあ。ズッコケ三人組総選挙でも二位に輝いている人気作品だし。でもおっさんの目で読むと「そんなことしちゃだめだろ」「やめといたほうがいいって」と言いたくなることばかり。ぼくも老いたなあ。

 エアガンで撃たれたから仕返し、というのはわかる。「ロケット花火で攻撃」はまあいいだろう。エアガンで撃たれたならそれぐらいしてもいいとおもう。「トウガラシ爆弾で目つぶし」も、ぎりぎり許容範囲内だ。
 でも「パチンコで投石」「木刀で戦う」とかを読むと、「いやいやこれはしゃれにならんでしょ」とおもってしまう。一生残る傷を負わせたり、下手したら命にかかわるけがを負わせることになりかねない。そんなことになったらお互い悲惨だ。まして「敵の食糧に下剤を混入する」までいくと、子どもの喧嘩だからでは済まされない。警察沙汰だ。

 と、ついつい眉をひそめてしまう。子どものときに読んでいたらただひたすら痛快な物語だったんだろうけど、親の立場になると純粋に楽しめない。


 己の力を過信して敵をみくびったせいで、ろくに調査もシミュレーションもせずに楽観的なデータだけを見て敗退するってのは旧日本軍っぽくておもしろかったけど、そこを除けばストーリー全体が予定調和っぽい。 

 たとえば、くノ一の存在。中盤でクラスの美少女三人組が忍者の仲間になるのだが、このくだりはあまりに不自然。六年生の女子(それもクラスでイケてる側の子らで、私立中学を受験する子)が、男子たちが忍者ごっこで戦争をすると聞いて「わたしたちも仲間に入れて」なんて言うかね?
 この子たち、「塾の帰りに夜の書店に行ってちょっとエッチな女性週刊誌を立ち読みする」なんて描写もあるのに、そんな子が忍者ごっこをするとはおもえない。
 願望がすぎる。六年生の女子なんて、男子とは五歳ぐらい精神年齢に開きがあるけどなあ。

 初期の作品『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』『とびだせズッコケ事件記者』あたりでは、女子は明確に男子の(特にハチベエの)敵として書かれていたのだが、時代の変化もあるんだろうけど、ずいぶん書き方が変わったなあ。女の子の読者に迎合したのかなあ。あのくだりはリアリティがなかった。


 また、敵の描写も薄っぺらい。喧嘩に負けて恥をかかされたので復讐を誓うという構図は『花のズッコケ児童会長』と同じだが、『児童会長』のほうは相手には相手の正義があったのに対し『忍者軍団』のほうは敵は単純な悪者として存在する。彼らには彼らの言い分だったり心境の変化があったとおもうのだが、ほとんど表現されていない(最後にちらっと匂わせる程度)。
 まあ、人間の心情に思いをめぐらせることなくただ倒すべき存在として認識するのが戦争なのだから、ある意味で正しい書き方なのかもしれないが。とはいえ隣町の小学校と戦争しました、勝ちました、やったね、という書き方は文学的じゃないなあ。

 この隣町の小学校、夏休みにみんなで秘密基地に集まってカレーを作ってたべたり、中学生に勉強を教えてもらったり、めちゃくちゃ楽しそうなんだよなあ。隣の学校の子をエアガンで脅して追い払ったのは良くないけど、よく考えたらそれ以外はそこまで悪いことをしていない。緒戦は、ハチベエたちが仕掛けてきたから防衛しただけだし。まあハカセとモーちゃんの服を脱がせたのはやりすぎだけど、基地をぶっこわされるのはかわいそうだ。

 ズッコケシリーズって「クラスのイケてない子らが知恵と勇気で活躍する」話が多いけど、『忍者軍団』に関しては逆で「両親共働きで夏休みに退屈している子らが男だけで集まって秘密基地を作ったり飯盒炊爨したりで楽しくやっていたら、女の子と仲良くしている隣の学校のグループがやってきてめちゃくちゃにされてしまった話」なんだよな。

 どうしても、三人組たちよりも隣町の小学校側に肩入れしてしまう。むしろこっちを主人公にしたSIDE-Bストーリーが読みたいぜ。



『ズッコケ妖怪大図鑑』(1991年)

 雪の上に残った奇妙な獣の足跡、奇妙な物音、女の幻……。ハカセとモーちゃんの住む市営アパート近辺で次々と怪奇現象が起こる。真相を究明するためアパートの旧館を訪れた三人組とモーちゃんの姉さんは、巨大な火の玉に遭遇する。
 アパートが建っていた土地の歴史を調べていたハカセは、はるか昔にこの地にいた「権九郎」なる存在にたどりつく……。

『心霊学入門』『恐怖体験』などに続く怪異譚。
 おばけだの幽霊だのはまったく怖くないので怪談が好きではないのだが、この『妖怪大図鑑』は薄気味悪くてけっこう好きだ。この物語は「妖怪が出ました、怖い目に遭いました、退治しました」でおしまいではなく、〝妖怪を呼び起こした人間たち〟が描かれるからだ。しかも彼らは根っからの悪人というわけではなく、妬みやプライドを持ったごくごくふつうの老人たち。あまり裕福でなく、おそらくコミュニティとのつながりも薄い老人たちが、別の住人を逆恨みして妖怪の力を借りる……という構造になっている。

 これは不気味だ。たしかに「近所にいる、裕福でなさそうな老人たち」ってなんとなく不気味なんだよね。じっとこちらを観察してきたり、始終不機嫌だったり、やたら他人のことに干渉したり、悪意を漂わせている人もいる。この「不機嫌な老人たち」を悪意の元凶に持ってきたのはじつにいい。

 そして、三人組たちの活躍により騒動の原因である妖怪は退治されるわけだが、妖怪を呼び起こして地域住民たちを攻撃させた老人たちは何の罰も受けることなく、この地域に残りつづける。

 攻撃された住人たちの一部は転居を余儀なくされ、原因をつくった老人たちは怨念を抱えたまますぐ近所に住みつづける。おお、おそろしい。この後味の悪さ、ぼくはけっこう好きだ。


 伝え聞いた話が多いのでスピード感がないとか、モーちゃんの存在感がなさすぎるとかの問題はあるが、怪談系の話の中では好きな部類に入る作品。『大当たりズッコケ占い百科』もそうだけど、死んだ人の話よりも生きている人間の悪意のほうがずっと怖いぜ。

 好きなシーンは、市立図書館でハカセと宅和先生が話すくだり。宅和先生、教え子と対等に歴史の話ができてすごくうれしかっただろうなあ。



『ズッコケ三人組の推理教室』(1989年)

 シャーロック・ホームズの魅力にとりつかれたハカセたち。何か事件はないかと探していたら、クラスの美少女・荒井陽子の飼い猫がいなくなったという話を聞きつける。猫はまもなく見つかったが、見つけ主から高額な謝礼を暗に要求されたという。さらにモーちゃんの母親の知人もやはりネコの失踪にからんで謝礼を支払ったことが判明。一連の事件の真相を探るため、三人組は荒井陽子といっしょに捜査を開始する……。


 ぼくはズッコケシリーズを一作目から二十二作目までは所有していたし何度も読み返していたのでけっこう細かいところまでおぼえているのだが、なぜかこの作品だけは記憶がおぼろ。ところどころ読んだ記憶はあるから、図書室とかで借りて読んだのかなあ。

 この作品の特筆すべきは、なんといっても荒井陽子の存在。序盤から終盤まで三人組と行動をともにしていて、もはや四人組といってもいいぐらいの活躍を見せている。
『うわさのズッコケ株式会社』でも中森晋助が仲間に加わっているが、基本的に三人組についてくるだけで、物語を牽引することはなかった。この作品における荒井陽子の活躍はかなり異色だ。

 ズッコケシリーズって少年の話だったのが、1989年の『ズッコケ三人組の推理教室』、1989年『大当たりズッコケ占い百科』、そして1990年『ズッコケTV本番中』このあたりから急速に女子の登場シーンが増えてくる(まあ『占い百科』における女子は陰湿で怖い存在として描かれてるけど)。

 男女雇用機会均等法が施行されたのが1985年。中学校で男女ともに技術・家庭科を学ぶようになったのが1990年(知らない人も多いとおもうけどそれまでは技術は男子だけ、家庭科は女子だけだった)。1980年代後半は男女平等が声高らかに叫ばれるようになった時代だったのだ。ズッコケも時代の流れをしっかりとらえていたのだろう。


 ストーリーは児童文学のド定番、探偵ものだ。ひょんなことから事件に巻きこまれた子どもたちが知恵を出しあって犯罪事件を解決する話。『ぼくらはズッコケ探偵団』『こちらズッコケ探偵事務所』とほぼ同じ構成だ。ただ、『探偵団』は殺人事件・ひき逃げ事件、『探偵事務所』が誘拐・窃盗事件だったのに比べれば、こちらはペットの誘拐事件と犯罪のスケールは小さくなっている。その分身近に感じられるので、ぼくとしてはこっちのほうが好きだ。殺人や児童誘拐だと「警察に任せろよ」とおもってしまうけど、ペットの誘拐ぐらいだったら警察も本気で取り組まないだろうから小学生が捜査することに説得力がある。

 事件発生から、新たな謎が浮かびあがり、小さな手掛かりから徐々に犯人に接近し、最後は緊張感のある捕物帳。
 ハカセの推理、ハチベエの行動力、陽子の冷静さと社交性、モーちゃんの落ち着きと機転により犯人逮捕につながり、バランスもいい。全体的にうまくまとまっていて、お手本のような子ども向け探偵小説だ。

 気になったのは、猫誘拐犯が無罪放免されたこと。同情の余地はあるとはいえ、猫を誘拐して百万円以上を騙しとったのにあっさり許してしまっていいものか。
 被害者たちが猫をさらわれ、かつ十万円をとられたのに目をつぶってやるのも理解できない。せめて金は返させろよ。これで許してやったら、こいつら場所を変えてまたやりかねないぞ。


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2022年4月26日火曜日

【読書感想文】更科 功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』/すべての動物は不完全

残酷な進化論

なぜ私たちは「不完全」なのか

更科 功

内容(e-honより)
心臓病・腰痛・難産になるようヒトは進化した!最新の研究が明らかにする、人体進化の不都合な真実―「人体」をテーマに進化の本質を描く知的エンターテインメント。

 生物がどのように進化したのか、についての考察。

 更科功氏の本を読むのは『絶滅の人類史』に続いて二冊目だが、前作に続いてこちらも論旨が明快でおもしろい。




 我々は、ついついヒトが全生物の頂点に立つ存在だと考えてしまう。

 ユダヤ教やキリスト教の創世記でも、神は五日目に魚と鳥をつくり、六日目に獣と家畜を、そして最後に神に似せたヒトをつくったことになっている。

 創世記を信じている人は少なくても、ヒトがもっとも優秀な動物だと考える人は少なくないだろう。もちろん頭の良さとか手先の器用さとかコミュニケーションの複雑さでいえばヒトが一位だろうが(たぶんね)、だからといってヒトが進化の究極系であるわけではない。

 たとえば肺。哺乳類の肺は、息を吸うときも吐くときも同じ管を使っている。だから吸うのと吐くのを同時におこなうことはできない。だが鳥類の呼吸器は後気嚢から息を吸って前気嚢から空気を押し出す仕組みになっている。

 それらを繰り返すことにより、いつも肺には、空気が一方向に流れるようになっている。新鮮な空気が肺の中を流れ続けるようになっているのだ。一方、私たち哺乳類は、気管という同じ管を使って、空気を出したり入れたりしている。空気が逆方向に流れるので、呼吸器としてはあまり効率がよくない。
 さて、鳥類はこのような優れた呼吸器を持っているため、他の動物が生きられないような、空気の薄いところでも生きていくことができる。渡り鳥の中にはヒマラヤ山脈を越えて移動するものがいるが、空気の薄い上空を飛べるのも、この優れた呼吸器のおかげである。鳥類は恐竜の子孫なので、恐竜もこの優れた呼吸器を持っていた可能性がある。少なくとも烏類の直接の祖先となった一部の恐竜は、この優れた呼吸器を持っていた可能性が高い。
 哺乳類と恐竜は、中生代の初期のだいたい同じころに出現した。それにもかかわらず、圧倒的に繁栄したのは恐竜だった。哺乳類は中生代を通じて、日陰者だったと言ってよいだろう。その理由の1つが、この呼吸器の性能の違いかもしれない。同じ活動をしても、哺乳類より恐竜のほうが、息が切れなかったかもしれないのである。
 私たちヒトは現在の地球上で大繁栄しているので、つい自分たち人類のほうが、他の生物よりもすべてにおいて優れていると思いがちである。かつては、恐竜なんて体が大きいだけで、アホな生物だと思われていたふしもある。でも、そういう態度は恐竜に失礼だろう。

 たしかにね。ふだんはあまり意識しないが、長距離走をしているときや水泳をしているときには「吸う」と「吐く」を強く意識する。新鮮な空気を吸いこみたい。しかし肺の中に溜まった空気を吐きだしたい。同時にできたらどれほど便利だろう。きっと一流マラソン選手になれるだろう。

 鳥はそれができるのか。いいなあ。高性能の肺があって。




 生物は進化するのでどんどん機能が向上していくようにもおもえるが、そうかんたんな話でもないらしい。

 ちょっと別の例で考えてみよう。私たちは、喉の筋肉を動かしたりするために、脳から迷走神経という神経が伸びている。この迷走神経のうちの1本は、心臓の近くにある血管の下側を通っている。私たちの場合はそれほど問題ないのだが、キリンではかなり変なことになってしまった。
 キリンでも、この迷走神経は、心臓の近くの血管の下側を通っている。この血管は、キリンの首が伸びるのとは関係なしに、心臓の近くに留まり続けた。一方、迷走神経は、相変わらず脳と喉を結んでいる。キリンの首が伸びていくと、脳と喉はどんどん心臓から離れていく。しかし、迷走神経は心臓の近くの血管の下側を通っている。
 そのため、迷走神経は、脳から出発して長い首を通って心臓の近くまで下りていき、血管の下側をぐるりと回って、それから長い首を上っていって、喉まで到達しなければならなくなった。キリンの脳と喉は3センチメートルぐらいしか離れていないのに、迷走神経はおよそ6メートルも遠回りすることになってしまったのだ。
 何でこんなことになってしまったのだろう。一度だけ迷走神経を切って、血管の下側から上側に移して、それからつなぎ直せばよいのに。でも、そういうことは進化にはできない。進化は、前からあった構造を修正することしかできない。切ってつなげるとか、分解してから組み立てるとか、そういうことは無理なのだ。

 迷走神経は脳と喉をつなぐ神経だ。脳から喉に最短距離でつなげば数センチで済むが、心臓の下を経由しているためキリンの場合は6メートルもの遠回りをしているのだ。

 めちゃくちゃ無駄だが、修正することはできない。突然変異で「迷走神経が切れてるやつ」が誕生して、その後また突然変異で「迷走神経を最短距離でつなぐやつ」が誕生すればいいのだが、「迷走神経が切れてるやつ」が誕生しても生き残れない(=子孫を残せない)のでそれ以上進化することはない。

 言ってみれば、家に住みつづけながらその家をリフォームするようなものだ。壁紙を変えるぐらいならできるが、「トイレの位置を別の場所に移す」みたいなおもいきった改築はできない。そんなことしたら、改修中はトイレが使えなくなって住めなくなるから。

「100代後の子孫が便利になるために今のあんたたちは不自由を強いられるけど我慢してね」というわけにはいかないのだ(仮に我慢したとしても100代後がもっと良くなる保障なんかどこにもない)。

 というわけで、我々の身体はぜんぜん最適な機能をしていない。つぎはぎだらけのパッチワークをだましだまし使っているのだ。

 本来の脊椎は、四肢動物に見られるように、水平になっているものである。それなのに、私たちの脊椎は直立しているので、いろいろと不都合が起きる。だから私たちは、進化の失敗作なのだ。そんな意見を聞くことがあるけれど、本当にそうなのだろうか。
 考えてみれば、四肢動物の脊椎だって不自然な使い方をしている。だって脊椎は、本来、泳ぐためのものなのだ。いや、魚の脊椎だって、不自然な使い方をしている。だって骨は、本来、リン酸カルシウムの貯蔵庫なのだ。いや、そんなことを言ったら、そもそも脊椎があること自体が不自然である。だって、脊椎なんて、昔はなかったのだから。

「人類は直立歩行をすることによって腰痛に悩まされるようになった」と聞いたことがある。腰は本来直立歩行を支えられるようにできていないから、無理が生じて腰痛になるのだという。

 だったら四足歩行ならいいのかというと、そんなことはないようだ。犬も腰痛になるらしいし、結局のところ身体にガタがくるのは「長く生きすぎた」からなんだろう。四十歳ぐらいでほとんどの人が死んでいた時代であれば、腰痛なんてほとんど問題にならなかっただろうから。

 生物の身体はよくできているが、「いろいろ触ってたらよくわかんないけどなぜかちゃんと動くようになったプログラム」みたいなもんで、合理的に設計されたものとはまったく違う。絶妙なバランスの上に成り立っている奇跡のプログラムなので、ほんのちょっとしたことで壊れてしまうのだ。




 人類の祖先が四足歩行から二足歩行に進化した過程について。

 当然ながら、はじめから今のように上手に二足歩行ができたわけではない。当初は赤ちゃんのようにヨタヨタ歩きだっただろう。

 だがこのヨタヨタ歩きにはなんのメリットもない。そのうち慣れて歩けるようになるのかもしれないが、自然界においては慣れるようになる前に他の動物に食べられてしまうはずだ。

 ではどうやって二足歩行が進化したのか。

 かつては、直立二足歩行は、草原で進化したと考えられていた。だがその場合は、四足歩行から直立二足歩行へ移る途中で、適応度が低い中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし、適応度の高い四足歩行から、適応度の低い中腰のヨタヨタ歩きが、自然淘汰によって進化するとは思えない。
 ところが、木の上で二足歩行が進化したのなら、この問題は解決される。体が大きくなった人類の祖先が、枝先の果実を食べようとしている。四足歩行で1本の枝の上を歩いて、果実に近づいた場合は、枝が折れて地上に落ちてしまうかもしれない。しかし、中腰歩行で両手両足を使って複数の枝に摑まっていれば、果実に近づいても枝は折れずに、めでたく果実を食べられるかもしれないのだ。
 木から落ちなければ、果実も食べられるし怪我もしない。だから、木から落ちる回数が少ないほうが、適応度が高くなるはずだ。したがって、四足歩行より中腰歩行のほうが、適応度が高くなる可能性が高い。そうであれば、自然淘汰によって、四足歩行から中腰歩行への進化が起きる。
 四足歩行から直立二足歩行に進化するには、中腰歩行の段階を通らなければならない。しかし地上では、四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が低いので、直立二足歩行は進化しない。一方、樹上では、(体重が重ければ)四足歩行より中腰歩行のほうが適応度が高いので、直立二足歩行が進化する可能性があるのだ。

 歴史の教科書には、人類の進化のイラストが載っていた。

こんなやつ

 こういう絵を見ると最初から二足で歩いていたようにおもってしまうが、左のやつなんかはほとんど直立二足歩行をしていなかったんだろう。ほとんど樹の上にいて。

 たしかに樹の上にいるのであれば、四足歩行よりも二足歩行の方が圧倒的にいい。チーターやトラも樹の上にいるけど、落ちそうで不安になるもん。二足で立って一本の手で離れた場所にある枝をつかめば安定するし、残った一本の手を自由に使える。

 進化のイラストの左端は、枝につかまってる絵にすべきかもしれないね。


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2022年4月25日月曜日

【読書感想文】青木 淳一『ダニにまつわる話』/ダニは害虫ではない?

ダニにまつわる話

青木 淳一

内容(e-honより)
「ダニのような奴だ」とか「あいつは街のダニだ」など、嫌われものの代名詞のようにいわれるダニ。でも、ほんとうのダニってどんな生きものなのだろう。ほとんどのダニは自然界の中で生きている。豊かな森林の中では人が一歩歩くと2000匹以上のダニを踏みつけているという。ダニは自然界になくてはならない存在なのだ。彼らはどんな習性をもち、その生命を維持しているのか。

 ダニの研究者による、ダニ入門エッセイ。入門したくないけど。


 いやあ、しかしおもしろかった。ダニのことをぜんぜん理解していなかったことをつくづく思い知らされた。まあ四六時中ダニのことばかり考えている人生なんて嫌だけど。

 なんせダニが昆虫でないってことすら知らなかった。クモと同じ節足動物なんだって。よくひとくくりにされるノミは昆虫だけど、ダニは昆虫じゃない。

 そしていちばん意外だったのがこの事実。

 ダニも同様です。現在のところ、わが国から記録されたダニ類は約一八〇〇種ですがこのうちでしばしば人を刺して吸血するのは二〇種あまり。すなわち日本産のダニ類全体から見れば、一パーセントあまりということになります。ダニというものは、みんな人の血を吸うものと思いこんでいた人たちからすれば、まことに意外な数字でしょう。ほんのわずかな悪者のために、その種族全体が悪者あつかいにされるもっとも良い(悪い?)例です。

 なんとほとんどのダニは人の血を吸わない。知らなかったー。むしろ「人の血を吸う」ことこそがダニの定義だとおもっていた。

 しかも血を吸うダニにとっても、積極的に人の血を吸いたいわけではないようだ。

 家族の何人もが脇腹などがかゆいかゆいといって騒ぎ出すのは、ネズミ捕りをしかけて数日たってからのことが多いのです。それは天井裏にネズミ捕りをしかけたのをケロリと忘れてしまったことが原因です。ネズミ捕りにかかって死んだネズミの体温が下がってくると、ネズミの体についていたイエダニがゾロゾロとはなれて歩きだし、それ天井裏から居間や寝室に降ってくるのです。おいたイエダニはしかたなく、がんして人間の血を吸うのです。
 つまり、イエダニは本来ネズミの寄生虫なのです。ふだんはネズミの巣の中にいて、ネズミが巣に帰ってくると、それを感知して動きだし、ネズミの体にはいあがって吸血します。そして満腹すれば、巣の中に落ちます。ネズミが巣に帰ってきたことは、ネズミが吐き出す炭酸ガスによってわかるのです。ダニには目も耳もありませんから、そんな方法をつかうのです。

 ダニが吸いたいのはネズミの血。ネズミの血が吸えない状況になってはじめて人間の血を吸うようになるのだ。主食がなくなったからやむなくおいしくない非常食に口をつけるようなものか。

 まあねえ。人間の身体なんて隠れるところ(毛)は少ないし、服は着替えられるし、水に浸かったりもするし、見つかったらつぶされるし、ダニからしたらぜんぜん快適な住まいじゃないよね。ぼくがダニでもやっぱりネズミを選ぶ。

 そういや犬を飼っていたことがあるけど、室外犬だったからときどきダニがついていたなあ。薬を飲ませたりノミとり首輪をつけさせていても、それでも目の中とかおなかとかにいるんだよね。たっぷり血を吸って腹がぱんぱんになったやつ。犬はかゆそうにするんだけど犬の足ではダニはとれないから、あれも快適な住まいだったんだろうな。

 とったダニをつぶすのは気持ち悪かったけどちょっと快感でもあった。ダニをつぶすと必ず犬が見にくるんだよね。人間も取れた耳垢とか出したウンコとかをつい見ちゃうけど、犬も同じ気持ちなのかね。くさいもの見たさというか。




【警告】「できれば知りたくなかった」情報もたくさんあるので、ここからはダニが嫌いな人は要注意。まあたいてい嫌いだとおもうが……。



 我々の身近にどれだけダニがいるかを実験によって確かめた話。

 煮干し、かつお節、チーズ、小麦粉、ビスケット
 どれもダニが好きそうなものばかりです。これらの食品を台所の棚の上、棚の下、床下の三か所に放置しました。さらに彼女たちの発案で、ダニが自由にはいれるように開封したものと、奥さんたちがよくやるように、開封した袋の口を二、三回ねじってワゴムでギリギリとしばったものの二つをならべておきました。七月二日から八月二七日までの約二か月放置した結果は図のようになりました。それぞれの食品に見られたダニ数の合計です。
 まず、食品別にみると、煮干しがいちばん好きで、次がかつお節とチーズで、小麦粉やビスケットはそれほど好まないようです。とくに私の注意を引き、彼女たちも驚いたのは、保存方法のちがいとダニ数です。たしかに袋を開封したままのほうがダニは多くなってはいるのですが、袋の口をねじってワゴムでしばったほうにも相当数のダニが繁殖していたことです。

 開封した食品を輪ゴムでしばったぐらいだと、ダニは余裕で中に入って繁殖するんだそうだ。うげえ。知りたくなかった。もちろん無害なダニだし、仮に人を刺すダニだとしてもダニは人の体内では生きられないので心配する必要はないらしいけど。

 山や森の中だとヒトの足の裏ぐらいの面積にダニが1,000匹以上いることもあるらしく、我々が認識していないだけでこの世はダニだらけなのだ。

 我々の顔にもダニが棲息しているらしいしね。こいつらは細菌から肌を守ってくれるいいやつ。この本には、ダニが人の役に立っている例もいくつか紹介されている。とにかく悪い印象が先行しがちだが、トータルで考えるとダニはむしろ益虫なのかもしれない。




 著者が、建設会社の社長らといっしょに「なるべく自然の姿に近い森を残した公園」を市に寄贈した話。

 ところが、ごく最近ふたたび訪ねたときには、驚きと悲しさで胸が痛む思いでした。せっかく自然に向かってひたむきに育ってきた雑木林の林床の草や樹木の芽生えがきれいに刈りとられ、落ち葉もほとんどないくらいに清掃されてしまっているではありませんか。土はむき出しになり、かたく締まっています。これはいったいどうしたことか。この公園の管理については、落ち葉も掃かない、草も刈らないという約束だったはずです。
 私はすぐにY市の公園緑地課に電話を入れました。先方の話では、今年から枝打ちをはじめ、年二回草取りをし、落ち葉も掃いているということです。私は怒りをおさえ、
「この木もれ日公園を設計したときの趣旨は理解していただけなかったのでしょうか」
と聞いてみました。すると、現場の担当者という人が代わって電話口に出てきました。この人は設計当時はいなかった人で、私のいうことをよくわかってくれるらしく、
「先生のいわれることは、もっともです。私もお考えには賛成で十分理解しているつもりです。でも、住民の方々から苦情がくるので、しかたないんです。地面に紙屑やビニール袋が落ちてるじゃないか、犬の糞がたくさんあるではないかといわれ、それらを掃除する時に草もむしって落ち葉も掃除してるんです。草が生えていたり、落ち葉があると虫がわくというのです。落ち葉は火事のもとになるし、樋を詰まらせるので迷惑だ。倒木があるとシロアリがわくというんです。なぜ、掃除をしないのかと、とてもしつこくいってくるのですよ。それと、見通しの悪い木立ちがあると、痴漢が出ると心配するんです」
という答え。あきれてしまった私は、
「そういうことをいってくるのは、ほんの一部の人ではないのですか?多くの住民は少しでも自然にちかい小公園の出現を喜んでいると思いますがねえ」
といい返してみたものの、
「やっぱり、だめか。やれ、自然保護だ、やれ、生態系のバランスだと騒いでいるくせに、日本人の意識はまだこんなものなのかなあ」
と、悲しい思いになります。私の主張は十分に理解してくれているというY市の公園緑地課のAさんが最後にいったことばが、私の胸にぐさりとつき刺さります。
「もはや、都市の中の公園は安らぎの場ではありえません。公園公害とか、公園は悪の温床だとさえいわれているんです」

 ぼくも子どもが生まれて公園を利用するようになってよくわかったけど、公園って憩いの場どころかむしろ厄介なものとおもってる人が多いんだよなあ。

 ほんと、世の中には公園で子どもや若者が遊ぶことを蛇蝎のごとく憎んでる人がいる。そのせいでうちの近所の公園なんてそこそこの広さがあるのに「ボール遊び禁止」と書いている。以前、小学一年生とドッチボールをしていたら警察官がやってきて注意された。わざわざ通報した人がいるらしい。一年生のドッチボールまでもが「危険」なんだそうだ。
 そのくせ喫煙やポイ捨ては「ご遠慮ください」と書いてあるんだから、バカなんじゃないかとおもう。

 かくしてバカ市民のバカ苦情のせいで花火禁止、スケボー禁止、ボール遊び禁止となっている。「他の人のご迷惑になる行為はおやめください」でいいのに。

 だってさ、花火にしたってロケット花火を公園の外に飛ばしたり、深夜にでっかい音の鳴る花火をするのはそりゃいかんけど、水を持ってきて公園のすみっこで手持ち花火をしてごみをぜんぶ持ち帰る行為の何がいけないの? 結局ぜんぶ程度の問題なのに、思考停止してるやつが責任取りたくないばかりに全面禁止にしちゃうんだよね。ああ、やだやだ。


 この本に書かれている例、役所の人の気持ちもわかるけど、それにしたってあまりにも腑抜けた態度だとおもう。

 公園に犬の糞があるのも、痴漢が出るのも、落ち葉が火事になるのも、それ全部公園のせいじゃないじゃん。糞の始末をしない飼い主や痴漢やタバコのポイ捨てをするやつのせいでしょ。なのに公園から林をなくせってのは「電車は痴漢が発生するから電車を動かすな!」ぐらいの暴論なのに、相手が行政だとなぜかその暴論が通っちゃうんだよね。


 ぼくが子どもの頃、近所の公園はその下が急斜面になっていて雑木林があった。さらにその雑木林を抜けると川に出られた。なのでいつも雑木林や川で遊んでいた。あれはいい環境だったなあ。ブランコやすべり台で遊ぶのなんか五歳ぐらいまでで、小学生に必要なのは「だだっ広い広場」や「手入れされていない雑木林」なんだよね。

 ほんと、遊具を作る金があるなら、なんにもない土地を作ってほしいよ。


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2022年4月22日金曜日

【読書感想文】M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち ~虚偽と邪悪の心理学~』/意志の強い人間には要注意

平気でうそをつく人たち

虚偽と邪悪の心理学

M・スコット・ペック(著)  森 英明(訳)

内容(e-honより)
世の中には平気で人を欺いて陥れる“邪悪な人間”がいる。そして、彼らには罪悪感というものがない―精神科医でカウンセラーを務める著者が診察室で出会った、虚偽に満ちた邪悪な心をもつ人たちとの会話を再現し、その巧妙な自己正当化のための嘘の手口と強烈なナルシシズムを浮き彫りにしていく。人間の悪を初めて科学的に究明した本書は、人の心の闇に迫り、人間心理の固定概念をくつがえした大ベストセラー作品である。

 アメリカでの刊行が1983年、日本語訳の発表が1996年。精神科医による「邪悪な人たち」についての考察。

 ちなみに原書では宗教(キリスト教福音派)色が濃い内容だったが、邦訳時にそのへんは一部カットされたらしい。とはいえ、当然のように「神に背く行動」なんて言い回しも出てくる。多くのアメリカ人にとってキリスト教は切っても切り離せないものらしい。

 過去数百年にわたってキリスト教布教を口実に信者がさんざん邪悪なことをしてきたくせに信仰を絶対的な善としてとらえることができる(そして神に背く=邪悪とみなす)神経がぼくからすると理解できないんだけどなあ。キリスト教が悪とはいわんけど、時と場合によっちゃあ悪にもなりうるとは想像すらしないんだろうか?




 我々はついつい「世の中には悪いやつがいる」と考えてしまう。それは事実だが、正確な言い回しではないかもしれない。どちらかといえば「世の中には悪くないやつがいる」のほうが正確かもしれない。

 たとえば悪の問題は、善の問題と切り離して考えることがまず不可能なものである。この世に善がなければ、われわれは悪の問題を考えることすらしないはずである。私はこれまで、「この世になぜ悪があるのか」といった質問を患者や知人から受けたことは何度かある。ところが、「この世になぜ善があるのか」という質問を発した人はこれまでいない。これは奇妙なことである。あたかもわれわれは、この世は本来的に善の世界であって、なんらかの原因によって悪に汚染されているのだ、という前提に立って考えているかのようである。しかし、われわれの持っている科学的知識をもとにして考えるならは実際には悪を説明するほうが善を説明するよりも容易である。物が腐敗するということは、自然科学の法則に従って説明可能なことである。しかし、生命がより複雑なかたちに発展するということは、それほど容易に理解できることではない。

 何も持たない人が短期間で大金を稼ごうとおもったら「他人から(非合法または非合法すれすれな手段で)奪う」がほぼ唯一の解になる。
 だからひったくりや詐欺やネットワークビジネスはいつまでたってもなくならない。

 りんごの樹を育てて果樹がなるまで待つよりも他人のりんごを盗むほうがかんたん、自分のスキルを上げてプリマ・ドンナになるよりも主役の靴に画鋲を入れるほうが楽、何か月もバイト代を貯めるよりも盗んだバイクで走りだすほうがすぐにストレス発散できる。

「悪」はいちばん手っ取り早い手段なのだ。だからこそ人は「悪」に手を染めるし、「悪」は法によって取り締まられる。ごくごく自然なことだ。動物だって、エサが十分にないときは遠くにエサを獲りにいくよりも近くにいる愚鈍で弱いやつから奪うほうを選ぶだろう(そもそもそれを「悪」とおもうのは人間ぐらいだろうが)。

 だから、人間が「悪」に走るのはふしぎなことではない。どちらかといえば、「悪」を選ぶことで不利益がまったくない(または少ない)場合にも「悪」に走らない人間がいることのほうがふしぎだ。




 人間は多かれ少なかれ悪である。聖人の代名詞であるかのように語られるマホトマ・ガンディーだって若い頃は相当ヤンチャしてたらしいし。

 とはいえ限度はある。度を超えて邪悪な人というのも世の中には存在する。自分が10のものを得るためなら他人が100失ってもかまわないと考えるような人が。

 そういう人は心理療法でなんとかできればいいのだが、現実的にはむずかしいようだ。

 無念としか言いようのないことではあるが、心理療法の患者として最も治療の容易な人、心理療法の恩恵を最も受けやすい人というのは、現実には最も健全な人――つまり、最も誠実、正直で、思考パターンがほとんどゆがめられていない人である。これとは逆に、患者の症状が重ければ重いほど――つまり、その行動が不誠実、不正直であればあるほど、また、その思考がゆがんでいればいるほど―治療が成功する可能性は小さくなる。そのゆがみや不誠実さの程度が極端な場合には、治療は不可能にすらなる。(中略)心理療法の親密な関係においてこうした患者に働きかけようとした場合、膨大なうそや、ゆがめられた動機、ねじくれたコミュニケーションの迷路にわれわれ施療者のほうがひきずりこまれ、文字どおり圧倒されてしまうのである。こうした患者を病の泥沼から救いだそうというわれわれの試みが失敗するというだけでなく、われわれ自身がその泥沼にひきずりこまれかねない、という危険をきわめて正確に感じるのが普通である。この種の患者を救うにはわれわれはあまりにも非力である。われわれが迷いこむゆがんだ回廊の行き先を知るには、われわれはあまりにも無知である。彼らの憎悪に対抗して愛を維持するには、われわれはあまりにも小さな存在である。

 心理療法の成功には患者の協力が必要不可欠だが、悪意を持っている人の場合は協力しないばかりか、治療者を騙したり危害を加えたりする。
 それどころか、そもそも精神科医のもとに来てくれないという問題があるだろう。上司からのパワハラで心を痛めつけられた人は精神科に来てくれるだろうが、より治療の必要性があるのはパワハラで部下を精神的に追い詰める上司のほうだ。しかしこういう人は自分から精神科には来てくれないだろう。かといって無理やり連れてくるわけにもいかない。

 結局、他人に精神的に危害を与えるような人物のことは分析することはできても、考えを改めさせることはできない。「逃げる」が、そういった人物に対峙するためのほぼ唯一の答えのようだ。残念ながら。




「意志の強さ」について。

 悪性のナルシシズムの特徴としてあげられるのが、屈服することのない意志である。精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、あるいはほかのかたちの理想であれ、自分よりも高いものになんらかのかたちで屈服するものである。健全な大人であれば、自分が真実であってほしいと望んでいるものではなく、真実であるものを信じる。自分の愛する者が必要としているものが、自分自身の満足よりも重要だと考える。要するに、精神的に健全な人は、程度の差こそあれ、自分自身の良心の要求するものに従うものである。ところが、邪悪な人たちはそうはしない。自分の罪悪感と自分の意志とが衝突したときには、敗退するのは罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。
 邪悪な人たちの異常な意志の強さは驚くほどである。彼らは、頑として自分の道を歩む強力な意志を持った男であり女である。彼らが他人を支配しようとするそのやり方には、驚くべき力がある。

 なるほどなあ。意志が強い、って肯定的にとらえられることが多いけど、たしかにフィクションでも孫悟空とかルフィとかの強靭な意志の持ち主ってやべーやつ多いもんな。協調性ないし、人を傷つけることにまったく罪悪感おぼえてないし。

 ふつの人間は、迷ったり、後悔したり、諦めたりする。それは自己の信念と他者との間に軋轢が生じたときに、他者にあわせようとするからだ。
 ところが世の中には自己の信念を優先させる人間もいる。「意志が強い」とみなされる人間だ。自己の考えを優先させるということは、他者をねじまげることに躊躇がないということだ。他人を傷つけ、支配することになる。

「知能の高いサイコパスは経営者や組織のリーダーなど支配的立場に就きやすい」と訊いたが、つまりはそういうことなんだよな。

 もちろん「意志が強いなら邪悪である」ではないけど、「邪悪であるなら意志が強い」はわりと真だとおもう。


 この本には、やはり異常な(他人をふりまわすことに抵抗を感じない)女性が紹介されている。彼女は、新しい職場に不安を感じないという。

「私だったら、新しい仕事につく前の日は不安になるね。とくに、これまでに何度もクビになった経験があればね。こんどの仕事でうまくやれるかどうか、心配になるはずだ。というより、自分がよく知らない新しい状況に置かれようとしているときには、いつでも多少は不安になるもんだ」
「でも、私には仕事のやり方がわかってるんです」彼女はこう反論した。
 私はあぜんとして彼女の顔を見た。「まだ始まってもいない仕事のやり方がわかるはずないじゃないか」
「こんどの仕事は、精神遅滞の人たちの入る州立養護学校の助手の仕事です。そこにいる人たちは、みんな子供みたいな人たちだって、その学校の人は言ってました。私には子供の世話のしかたはわかってます。妹がいますし、日曜学校の先生もしたことがありますから」
 この問題をもっと深く探っていくうちに、シャーリーンは新しい状況に置かれてもけっして不安を感じることがない、ということがしだいにわかってきた。というのは、彼女には、つねに前もってやり方がわかっているからである。そして、そのやり方というのは、彼女が自分でつくった規則に従ったものだからである。それが自分流のやり方で、雇い主のやり方とは違っている、などということは彼女は意に介しない。また、それによって当然のことながら混乱が生じる、などということも意に介していない。あらかじめ自分が決めているやり方で仕事を進め、雇い主が望んでいるやり方はまったく無視する。同じ職場で働いている人たちがどうして自分に腹を立てるようになるのか、また、じきに、あからさまに怒りを表すことはないにしても、自分にたいしてうんざりしたような態度をとるようになるのか、彼女はまったく理解していない。「みんな意地悪な人たちだわ」彼女はこう説明する。彼女は、私もまた意地悪な人間だと何度も文句を言っている。シャーリーンは、親切、優しさというものに大きな重きをおいている。

 ぼくは「自信に満ちあふれた人」が苦手なのだが、その理由がこれでわかった。そうか。自信がみなぎっている人というのは、相手にあわせる気がない人なのだ。衝突してもおかまいなしに我を通す人。相手にあわせる気がないから、環境が変わっても不安に感じることもない。

 ほら、いるじゃない、クラス替え直後にめちゃくちゃ親しげに話しかけてくるやつ。最初は「気さくでいいやつ」とおもってたけど、日を追うごとにうっとうしさが鼻につくようになるやつ。ああいうのもこのタイプなんだろうね。




 自信たっぷりで、意志が強くて、初対面の人にも気さくに話しかけるタイプ。こういうのが、他人を平気で傷つけるやつであることが多い(もちろんそうじゃないのもいるけど)。

 卑屈で、意志薄弱で、おどおどして生きていくやつのほうが信用できるぜ! ……とはならんけどね、やっぱり。


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