2025年7月28日月曜日

【読書感想文】高比良 くるま『漫才過剰考察』 / 表現者じゃないからこその強み

漫才過剰考察

高比良 くるま

内容(Amazonより)
M-1グランプリ2023王者・令和ロマンの髙比良くるまがM-1と漫才を完全考察!
分析と考察を武器に、芸歴7年目の若手ながら賞レースをはじめ様々な分野で結果を残してきた令和ロマン。そんな令和ロマンのブレーン・髙比良くるまが、2015年から昨年のM-1、さらには2024年のM-1予想に至るまで、考えて考えて考え尽くした一冊。
「現状M-1に向けて考えられるすべてのこと、現在地から分かる漫才の景色、誰よりも自分のために整理させてほしい。頭でっかちに考えてここまで来てしまった人間だ。感覚でやってるフリをする方がカッコつけだと思うんだ」(本文より)
史上初のM-1二連覇を狙う著者が、新型コロナウイルス流行や、東西での言葉の違い、南北の異なる環境が漫才に与えた影響、昨今話題の「顔ファン論争」に漫才の世界進出まで、縦横無尽に分析していきます。著者の真骨頂“圧倒的マシンガントーク”は本書でも健在です。

 M-1グランプリ2023、2024で史上初の連覇を成し遂げた令和ロマンの高比良くるまさんによる、漫才に対する“考察”。この本の刊行は2024年なので、初優勝をした後、連覇をする前に書かれたもの。


 まず本の内容と関係ない話をしておくと、電子書籍版はただの画像でレイアウトもクソもなくて超読みにくいので、読むなら紙版です。

 また、雑誌の連載を元にしているので時事性も強く、固有名詞やネタの話がばんばん出てくるが「当然みんな観てるしおぼえてるよね」という前提で話が進んでいくので、M-1とかキングオブコントとかをしっかり観ている人以外はついていけないんじゃないかなー。




 M-1グランプリの話もおもしろかったが、個人的により興味深かったのは寄席の漫才の話。

 そこで達人たちがやってることは何だろうって考えると、「顔」だと思う。顔芸。ただの変顔じゃなく「顔」の芸。
 寄席最強芸人の一角、中川家さんの漫才は細かいモノマネ芸の連発。車掌さんや大阪のおじさんなどの鉄板ネタの前に、まず「笑顔の切り替え」のくだりで「サラリーマンがエレベーターで先方と別れるときの顔」のくだりから始めてることが多い。これって自分や相方の顔を使って「画像で一言」大喜利をしてるみたいなことだけど、実はそれが最も情報量が少なく伝わりやすいんだよな。台詞や演技というのは、手足の動き、発言の意味などお客さんが注目しなければならないポイントがたくさんあって、大袈裟にいえばマルチタスクを強いちゃってるんだ。それによって船に乗れない人が出てきちゃったら、そのモノマネの内容がどれだけ面白くても意味がない。だからまず「顔」にフォーカスして笑いを誘えば、とりあえず顔だけは「理解」がクリアになってる状態。最初は全身モヤがかかってるみたいな状態で、まず顔が見えて、次に声のモノマネで喉が見えて、舞台を広く使ったボケで手足が見えてくる、って感じ。モンハンのマップみたいなさ、最初は「???」になってるけど、移動したらそこが見えてくるみたいなさ。これ「顔」の中でも目とか鼻とか「顔の上半身」な気もする。子どもって「顔の上半身」好きじゃない? やっぱり人間が本能的に見るのは話している人の「目」なわけで、そこが寄席お笑いのど真ん中、BULLなんだと思う。

 あとサラッと言ったけど、最後に舞台を広く使うってのは賞レースでもオススメテクニックとして語られるけど、こういう理屈だったんだ。見てるのは賞レースのお客さんだから初めからたくさん動いても「理解」してくれようとするだろうけど、演者の存在が鮮明に見えてからやると最大の効果が得られる技なのかも。
 ベテランのみなさんがやる「顔が芸能人でいうと○○に似ててー」とか「すみません○○みたいな顔して」というお決まりのツカミたちも、単純に顔を覚えてもらうためにはやった方がいいのかな、くらいに思っていたけど実は「顔」へのピントを合わせさせる技でもあったんだろうな。こういうお決まりのものって、若手から見るとクラシックに見えてしまうけど実際現代においても意味があるということだよ。だいたい人間なんそんな大きく変わってるわけじゃないもんな。

 何度か生の漫才を見たことがあるけれど、ベテランのほうがウケていたし、ベテランのほうが「ぼくらのこと知ってる人ー!」と客に手を挙げさせたり、客に話しかけたり、「漫才に客を引きこむこと」にたっぷり時間をかけていた。手を動かさせ、声を出させ、しょうもないけどわかりやすいボケでまず笑わせてから、ネタに入っていた。

 漫才というと「おもしろいことを言う」が最重要だと思いがちだけど、もっと大事なのは「まず聞いてもらう」「安心して笑える状況をつくる」ことなのだろう。その準備が整っていないうちにいくらおもしろいことを言ってもウケない。


 そういえばM-1グランプリ2023での令和ロマンの漫才も、「松井ケムリさんはあごひげともみあげがつながっていて……」と、まず顔に注目させるツカミをしていた。

 おそらくトップバッターだったから余計に、おもしろいことを言うより先に「話を聞いてもらう」状況をつくることに時間をかけていたのだろう。

 令和ロマンの漫才が高い点数を獲得したとき、テレビで観ていたぼくは正直「悪くはなかったけどそんなに高くつけるほどか?」とおもった。でもそれはテレビで観ていたからわからなかっただけで、「まだ場が整っていなかった舞台ですごいスピードでお客さんを引き込んだ」ことを含めた評価だったのかもしれない。数々のやりにくい舞台で漫才をやってきた審査員だからこそ、そのすごさがわかったのだろう。




「大阪弁は親しみやすく漫才に向いてる」というのは、よく聞く話。

 ただ高比良さんのすごいのは、「親しみやすいから」とか「もともと商人の言葉だから」なんて根拠のあいまいな話で終わらせず、ちゃんと理論立てて説明しているところ。

 それを漫才に落とし込むと、同じ台詞でも音的に短く済むため、間を取って喋ることもできるし、さらに違う台詞を詰め込むこともできる。アクセントが語尾にあるので、語順を少し端折っても伝わりやすい。「なんでだよ」は「なん」にアクセントがあるのでそこと前のボケが被ると分かりづらいけど、「なんでやねん」は「やねん」が大事なのでぶつかっても大丈夫。だから「っでやねん」くらいしか聞こえなくても平気。ダイアン津田さんとか常にそう。

 なるほど、アクセントか。「ボケる」→お客さんがお笑い終わるのを待つ→「なんでだよ」だと遅すぎるもんな。

 よく「漫才は掛け合いが大事」と言うけど、関西弁じゃなければ速いテンポでの掛け合いはむずかしい。言われてみれば、関西弁以外の漫才師は、遅いテンポでやるか、テンポを上げるのであれば細かくツッコまないやりかたをとっていることが多い。


 万事こんな感じで理論を持っているから、どんな場にもあった対応をできて、不利とされるトップバッターからのM-1グランプリ2連覇という偉業を成し遂げることができたのだろう。

 ほとんどのコンビが「そのとき自信のある2ネタ」を持って決勝に臨むのに、令和ロマンは何本ものネタを用意してその場にあったネタを選んでいたのだそうだ。すごい話だ。




 ぼくは漫才を見るのは好きだが、芸人の書いた本はあまり読まない。芸のプロではあっても文章を書くプロではないとおもっているからだ。

 特に令和ロマンのファンでもないぼくがこの本を買ってみたのは、高比良くるまという人が、芸人としてはあまりに特異な思想を持っていることに興味を持ったからだ

 M-1優勝後のインタビューで、高比良くるまさんは「自分が優勝した年のM-1は失敗だった。盛り上がりに欠けた」とか「大会が盛り上がることを最優先に考えている。盛り上がるのであれば自分たちが優勝でなくてもいい」といったことを何度も口にしていた。

 ほんまかいな、とおもう。そんなわけないだろ。番組プロデューサーが言うならわかる。でも漫才師としてずっと芸を磨いてきて、1000万円の賞金とそれ以上の名誉や肩書を手に入れることのできる大会の決勝に出て、「優勝は自分たちでなくてもいい」とおもえるだろうか? そんなモチベーションの芸人がそこまで勝ち進められるのだろうか?


 何度インタビューを読んでも「嘘じゃないの? 話をおもしろくするためにおおげさに語ってるんじゃないの?」とおもっていた。

 だがこの本を読んでみて、ほんとかもしれないとおもうようになった。

 とにかく表現者としての我が感じられない。

 芸人になろうとする人って多かれ少なかれ、「己のすごさを世に知らしめたい!」というエゴを持っているものだとおもう。そのエゴこそが(うまく世間の求めているものと合致したときは)世間を惹きつける力になる。

 だが高比良くるまさんの語りからは、そういうエゴがほとんど感じられない。「他の人に理解されなくてもおれはこれをおもしろいとおもう! だからおれはこれをやる!」という思想がまるでない。

 だが観察眼や分析力はとんでもなく長けているので、「どうやら世間はこれを求めているらしい」「こういうことを言えばみんなは笑うらしい」と察する力はすごい。他の成功している芸人にもそうした力はあるだろうが、エゴと「世間の求めているもの」の間で葛藤する。「こうしたらウケるだろうけどダサいからやりたくない」と。

 だがくるまさんにはそのエゴがほとんどないので葛藤がない。だから変幻自在に自分のスタイルを変えることができる。NON STYLEというコンビがその名前とは逆にがっちがちにスタイルを定めた漫才をやっているのとは逆に、令和ロマンには特定のスタイルがない。これこそノンスタイルだ。


 この本には、同じく若くしてM-1グランプリを制してよく並んで比較される粗品さんとの対談も収録されている。

 二人の対談を読むと、思想の違いがはっきりわかっておもしろい。粗品さんは「おれがいちばんおもろい! 世間がなんと言おうと、おれがおもろいと認めないやつはおもろない!」という強烈なエゴがある。

 これはむしろ芸人としてはふつうだ。ほとんどの芸人が多かれ少なかれそういう意識を持っているだろうし、成功した芸人ほどそれが顕著だ(例外はナインティナインだとおもう。あれだけ成功した芸人でありながらほとんどエゴを感じない)。

 バスケで言うと、粗品さんはスコアラーだ。自分が得点にからみたい。自分がシュートを打って決めたいし、そうでなくてもアシストをするぐらいのポジションでありたい。

 一方、くるまさんはシュートにはこだわっていない。チームの勝利、あるいはいいゲームを目指していて、そのためなら自分はディフェンスでもいいしなんならベンチでもいい。攻めることが必要と考えれば攻める。翔陽の藤真ポジションだ。

 ただしふたりとも戦術には絶大の自信を持っているので、納得のいかない戦術には従いたくない。


 世間一般の話をすれば、くるまさんみたいなタイプもめずらしくはないとおもう。ただし芸人界、それもメジャーになる芸人ではべつだ。裏方もやれるタイプはそう多くないだろう。

 くるまさんは、表現者というよりファンとしての立場で漫才に関わっているのだろう。YouTubeで分析動画を語っているくるまさんなんか、完全にファン目線だ。

 読んでいておもうのは、この人を漫才師にしておくのはもったいないということだ。もっと広い視野で物事を考えられる人なのだから。

 ちょうど所属事務所を退所したことだし、これを機に、何かもっと大きなこと(事務所をつくって漫才で海外に進出するとか)をやってほしい。


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2025年7月25日金曜日

【読書感想文】坪田 信貴『「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない』 / 買ってあげるかどうかを決めるのは金額じゃない

「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない

坪田 信貴

内容(e-honより)
「子どものために」と伝えた一言が未来の可能性を奪っている。「人に迷惑をかけないように」「今忙しいからあとで」「勉強しなさい」「宿題くらいやりなさい」…。ついつい言ってしまいがちな一言が、子どもにとって逆効果になっていることがある。大事なのは、制限をかけることではなく、その子に合った可能性を見せることなのだ。ミリオンセラー著者による大事な人の未来を奪わないための新時代の子育て論。

 元塾講師である著者による子育て論。

 多くの子育て書がそうであるように、自分の観測範囲で「短期的にうまくいった事例」を集めて紹介しているだけで、科学的再現性は乏しい。

 なんで子育ての本を書く人ってみんな「うちはこれでうまくいきました」レベルの話を、唯一の正解であるかのように語るんだろうな。「赤いシャツを着ていったら競馬で勝ちました」ぐらいの話なのに。




 タイトルにもなっている、「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけないという話。

「人に迷惑をかけてはいけない」と思い込む最大のデメリットは、「人に助けを求められなくなる」ことです。
 何か困ったことがあっても、助けを求めれば迷惑をかけることになる。だから自分1人でなんとかしようとしてしまうのです。
 生活保護にしても、「貧しいのは、頑張っていない本人のせいだ」と自己責任論を掲げる声もあり、経済的に困窮した人たちの中には、生活保護の受給になかなか踏み切い方もいます。自分の行動が社会的に迷惑になると考え、助けを求めることができないのです。
 日本人は先進国の中で自殺が多いことでも有名ですが、助けを求めることができず「人に迷惑をかけるくらいなら自分がいなくなってしまおう」と考えてしまうのだとしたら、あまりにも悲しいことです。近年10代の自殺が増えていると言われますが、もっと早く助けを求めることができれば、結果は変わってくるのかもしれません。

 まあ部分的にはうなずけるかな。

 ぼく自身、他人に相談したり頼ったりするのが苦手なので、「もっと若いうちは特に他人に甘えて生きたらよかったな」とおもう。完璧であろうとするよりも、だめなところをさらけ出すやつのほうがかわいいもんね。特に若い子だと。

 とはいえ「他人に迷惑をかけるな」ってのもいろいろあって、「道に迷ってしまったので人に尋ねる」ぐらいならぜんぜんいいけど、「小学生がレストランででかい声を出して走りまわる」だったら「人に迷惑をかけるな」と言ったほうがいい。

 現実にはその間にいろんな段階があって、どこに「迷惑をかけていいか」のラインを引くかはケースバイケースなので、正しくは「『人に迷惑をかけるな』と言ってはいけない状況もある」ぐらいかな。乱暴に本のタイトルにしていい話ではないかな。




 親として悩むことの多い、お金について。

「ほしいものはお小遣いを貯めて買いなさい」と言ってはいけない、という話。

 決められた予算の中で買う、予算を消化するというのと、自分からほしいものを手に入れようとするのとでは子どもの積極性は大きく変わるはずです。これはお金のみの話ではありません。お小遣いという枠の中で考えることが、あらゆる面で予算主義的な発想につながるのです。
 (中略)
 ほしいものがあるつど、プレゼンしてお金をもらう方式だと、適正な金銭感覚が身につかないのではと思われるかもしれません。確かにあれもほしい、これもほしいととりあえず主張するだけでは一方的に主張しているだけになります。お金を渡す側の事情も明かす必要があるでしょう。「今の家計はこうで、余裕があまりないのはわかっている。そのうえで、これがほしい」と主張できるなら、金銭感覚も身についていると言えるのではないでしょうか。

 たしかになあ。「高いから買えない、安いから買う」という単純な話ではないよな。

 生物が好きな子がいい顕微鏡を買ってほしいと言ってきたら少々高くても買ってやりたいけど、くだらないガチャガチャをやりたいと言われたら「自分のお小遣いで買いなさい」と言いたい。


 ぼくが高校生のとき。辞書を読むのが好きなので、広辞苑を欲しかった。いちばん分厚いやつ。たしか当時二万円ぐらいした。高かったので誕生日プレゼントで買ってもらったんだけど、今にしておもうと、誕生日じゃなくても「広辞苑買ってほしいんだけど」と言えば買ってもらえたんじゃないかとおもう。ぼくが親だったら買ってあげる。

「ガチャガチャやりたい!」「だめ!」とか「友だちとボーリング行きたい」「自分のおこづかいから出しなさい」みたいなやりとりの結果「自分の好きなもののために親はお金を出してくれない」とおもいこんでたけど、「博物館行きたい」とか「プログラミングの勉強したいから安いやつでいいからパソコン欲しい」とかだったら十分特別予算がついてた可能性があるんだよな。今ならわかる。


 親の気持ちとしては「ものによっては高くても買ってあげるけど、ものによっては安くても買ってあげない」なので、これを子どもに伝えていきたい。




 最初に書いたように「うちの場合はこうしたらたまたまうまくいきました」レベルの話が並んでいるんだけど、いちばん共感できたのは「親は完璧であろうとしないほうがいい。ダメなところのある親のほうがむしろしっかりした子に育つ」というとこ。

 そうね。だからこの手の本もあんまり真剣にとらえなくていい。ぱぱっと飛ばし読みして、うなずけるところだけをつまんで「オッケー、自分のやりかたで大丈夫」とおもうぐらいでいい。ぼくはそういう読み方をしました。


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2025年7月23日水曜日

ダブルインパクト2025の感想


 日テレ主催ということでぜんぜん期待せずに観たのだが、はたして日テレの悪いところが全面に出た大会だった。

 いや、ネタはおもしろかったんだけどね。でもとにかく大会の思想がなかった。今のシステムでは世に出ることのないこういう芸人を発掘したいとか、こんなネタが評価されないのはおかしいから評価する場をつくろうとか、そういう意義はまるでない大会だった。漫才の大会もコントの大会もあって、両方できる芸人は両方に参加して、それぞれで結果を残している。そんな中でこの大会を開催する意義はなんだったんだろう。「二刀流」って言いたかっただけなんだろうなあ。

 で、案の定M-1でもキングオブコントでもいいところまで行っているニッポンの社長とロングコートダディが上位。他の大会の劣化コピーになってしまっている。大会のセットや審査方式なんかも全部どこかで見たことあるような感じ。

 ただの劣化コピーならいいんだけど、良くないのが開催時期。キングオブコントの2ヶ月前、M-1予選が始まる時期に開催。下位互換のくせに生意気だ。邪魔するなよー。

 ということで、各コンビがM-1やキングオブコントの決勝で披露できなかった捨てネタを持ってくることになるのも必然。キングオブコントのほうは準決勝を観ていないけど、ほとんどのコンビがM-1予選でかけてたネタを披露してたよね。それはそれでネタ供養の場として有意義なんだけど、大会としては1ランク下であることを突きつけられてしまってる。M-1やキングオブコントでだめだったから来年のダブルインパクトに持っていけばいいや、ってすべり止めの大会になってしまいそう。


 ま、観てる側としては思想がなくても大会のランクが低くてもおもしろかったらいいんだけど、だったら審査に時間をかけないでもっとたくさんのネタを見せてほしい。「みんな2ネタずつ披露して、最後におもしろかったところに投票」ぐらいでいいんじゃないの? 重みがないのに、重みがある大会のシステムだけ真似しなくていいからさ。


 ということで大会の向いている方向には疑問が残るけど、これからも続いてほしいとはおもうよ。

 良かったところ。

  • すべてのコンビが2ネタ披露してくれるとこ

 キングオブコントから失われたものが復活したのがうれしい。でも漫才とコントの順番を選べるようにしたのはどうなんだろう。7組中6組がコントを先にしていたけど、そりゃそうなるよなあ。

「コントのほうが準備に時間がかかるので後がコントだと余裕がない」「漫才のほうがネタかぶりに対応したり、番組中に起こったことなどをアドリブで盛り込んだり融通が利く」と考えると、今後もコント先漫才後が多くなりそうな気がする。

  • 無駄なものが少なかった

 これまでの人生をふりかえるような長いVTRとか観覧ゲストとか。これでいいんだよ、これで。


 以下、ネタに関する感想。

かもめんたる

 コントも漫才もどっちも気持ち悪くてよかった。

「女性の部分に話しかけている」というなんともいえない(今の時代だと「気持ち悪いな!」と言いづらいけどやっぱり気持ち悪い)設定のコント。完全に否定するのではなく、とまどいながら徐々に受け入れていくのが演劇的。ただし丁寧に心の機微を描くには時間が短すぎた。心境の変化が急すぎたな。

 個人的には漫才のほうが好み。忘れていたけどぼくも「おじさんはおばさんをかわいく見えるのか?」って疑問におもってたなあ。でも誰にも言ったことはないし、自分自身でも忘れていた。絶妙な問いの立て方だ。

 槙尾さんがほとんどあいづち役でう大さんの独演会になっていたのは漫才としては物足りない面もあるが、でもそれこそがリアルなかもめんたるなので、ここを崩すかどうかはむずかしいところ。かもめんたるの関係性を知っているものからすると、槙尾さんがガンガンつっこんでたらそっちのほうが嘘っぽいわけで。

 他のコンビがほとんどコントに近い漫才をやっていた中、いちばん本格的な漫才を見せてくれた点はもっと評価されてもいいとおもった。


スタミナパン

 漫才は、麻婆さんがコントに入ってボケ続け、トシダさんが半歩だけコントに入って半分外からつっこむというめずらしいスタイル。半歩外に出ていることで、強いつっこみが可能になる(だって完全にコントに入って彼氏が彼女にキレまくってたらなんでデートしてるんだってことになるでしょ)。一方、半歩中に入っていることでストーリーを進めやすくなる。かなりむずかしいことをかんたんそうにしている。このスタイルでスタミナパンの漫才はまだまだ進化しそう。

 コントははじめて見たけど「ベルが三つある」という設定は良かったものの、その設定ならまだまだやれることはあったんじゃないかともおもう。違う音のベルがあったらどうなるんだろうとか、他の客はどうしてるんだろうとか、いろいろ考えたくなる設定ではある。


コットン

 コントはさすが。「バイト代わってくれません?」はわりと使い古されたネタだけど、確かな演技力と、母さんとか靴紐とかの積み重ねで魅せてくれる。裏の裏をかく「どうせ買い物につきあってくれでしょ?」「はい」とか。

 漫才はひどかったなあ。コットンの悪いところが出てたなあ。己の魂を出すんじゃなくて、他の芸人を表面だけなぞった感じ。2年目芸人みたいな漫才だった。今後はコントに専念でいいんじゃないかな。


セルライトスパ

 夜行バスを舞台にしたコント。派手すぎる展開に持っていかずに抑えたおもしろさをかもしだす、セルライトスパらしいコント。バスの座席だけで完結する狭い舞台なのに、前後の時間も感じられる上質な芝居だった。あの後この二人は仲良くなるのかなとか考えてしまうなあ。

 漫才も「得意分野で勝負しろ」というテーマの通り、自分たちの持ち味を十分に発揮していた。いちいち説明しないところがコント師っぽい。大須賀さんの魅力は昔から変わらないけど、肥後さんの異常性が強く出るようになったのはコンビとしていい変化。


ロングコートダディ

 謎の組織でコードネームをつけられるという大喜利色の強いコント。ただし名前の羅列ではなく、ダサいコードネームから、言いにくい名前、学習しない男、みんな対応しているのにやっぱり一人だけ学習しない男など、笑いのポイントが微妙に変化しているのがニクい。最後のは、映画のタイトルだとわからなかった人もいたのでは(一緒に観ていた妻はわからなかった)。けど説明しないところがオシャレだしなあ。

 漫才のほうは、だるまさんがころんだ2、おにごっこ5などの新しい遊びを披露するというネタ。ロングコートダディらしさもありつつ、ビジュアル的なおもしろさもあり、後半に盛り上がりもあり、ほんといいネタ。M-1予選でもやってたけど、なんでこれで決勝に上げなかったんだ。

 人間味を出さなくてもおもしろい漫才はできることを示してくれた。


ニッポンの社長

 コントは、「電流を浴びることによって扉を開けることができる」という設定が明らかになって時点でだいたいの展開が見える。そして予想通りの展開。なのに笑ってしまう。わかっていても笑わせる、ニッポンの社長の力強さが存分に出ていた。

 以前にも書いたけど、ケツさんってどんな目に遭わされてもちっともかわいそうに見えないんだよね。ずっとちょっと憎らしい。すごい才能だ。

 漫才は、コントよりもスケールダウンしていた印象。三つのシチュエーションがあり、そのたびに暴力性がリセットされてしまうからか。ただ「なー!?」の言い方であそこまで笑いをとるパワーはさすが。


ななまがり

 コントも漫才も徹頭徹尾くだらないネタ。ぶっとんだ発想ではあるがちょっとものたりない。何度もななまがりのネタを観てきた身としてはもうこれぐらいでは驚かない。逆にオーソドックスな漫才やコントをやってきたほうが衝撃を受けるかも。



 ということで、優勝はニッポンの社長。まあ優勝はどうでもいい。関西コント保安協会のニッポンの社長、ロングコートダディ、セルライトスパがトップ3を占めたのがめでたい。

 おもしろかったけど、「この大会でしか観られないもの」は感じとれなかったなあ。今後もあまり期待はできない。

 個人的には「他の大会で披露できなかったネタの受け皿」としての価値は見いだしているんだけど、それでも続けてやろうという気概があの放送局にあるかどうか。どうもあの局は芸人へのリスペクトを感じないんだよなあ……。


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2025年7月22日火曜日

そんじょそこらの人として生きる

 最近ふとおもう。

 昔の自分はおもしろいことを言おうとしてたなあ、と。


 逆に言えば、最近の自分はおもしろいことを言おうとしていない。

 たとえば、同僚から「脚痛いわ~」と言われたとき。


ぼく「どうしたんですか?」

同僚「昨日マラソン大会に出たんですよ」

ぼく「へえ。何km走ったんですか?」

同僚「フルマラソンです」

ぼく「フルマラソン? すごいですねー。普段から練習してるんですか?」


みたいな会話をする。ごくふつうのやりとりだ。順調に会話が進んでいく。


 でも若い頃はこうはいかなかった。

「昨日マラソン大会出たんですよ」と言われたら「1時間何分?」とか「なんで走らされたん?」とか「五輪選考会?」とか、“おもしろいこと”を言おうとしていた。いや、実際におもしろいかどうかはわかんないけど、とにかく“ふつうの人が言わなさそうなこと”を言っていた。いわゆる“ボケる”という行為だ。

 もちろん誰かれ構わずボケていたわけではなく気心の知れた相手に対してだけだが、とにかく「隙あらば笑いをとってやろう」と身構えていた。

 いや身構えていたというのは正確ではないな。なぜならべつに「笑いをとってやろう」と意気込んでいたわけではなく、デフォルトが「ふざける」で、これといったボケが思いつかないときだけ「ふつうに返答する」を選択していたから。それぐらいおもしろいことを言おうとするのがふつうだった。

 とにかく、おもしろい人間だとおもわれたかったのだ。そんじょそこらの人とはちがうとおもわれたかったのだ。



 そんなぼくも四十代になった。

 昨今では「ごくふつうの受け答え」が標準になった。聞かれたことに正面から答える。いちいちボケない。相手が望んでいるであろうリアクションをとる。

 よほど絶妙なタイミングでおもしろいことをおもいついたら口にすることはあるけど、基本は「どうってことのない返答」だ。とにかく、波風を立てないことが最優先。

 べつにおもしろい人とおもわれなくていい。そんじょそこらの人でいい。オレはチームの主役でなくていい。

 我執がなくなっているのを自分でも感じる。

 四十歳を過ぎて、この先自分が「特別な人」になる可能性がほぼなくなったから。

 結婚して、中年になって、もうモテる必要がなくなったから。

 子どもが生まれて、自分の人生が自分のためのものでなくなったから。


「そんじょそこらの人」として生きることにしてしまえば、人生はずいぶん生きやすい。

 なんせおもしろいことを言おうとしないのだからウケるタイミングを見計らう必要もない。スベることもない。「あいつおもしろいことを言おうとしてウケなかったな」とおもわれることもない。


 でも自分の変化に気づいてふっと寂しくなることもある。

 ふだんからおもしろいことを言おうとしなければ、反応速度も落ちる。だいぶん後になってから「さっきああ言えばウケただろうな」と気づくこともある。

 若い頃のぼくが今の自分を見たら、きっと「つまんないおっさん」とおもうだろうな。今のぼくには返す言葉もない。「そう、つまんないおっさんなんだよ」とつまんない返答をするだけだ。



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2025年7月18日金曜日

【読書感想文】黒井 克行『男の引き際』 / なぜ老害は身を引けないのか

男の引き際

黒井 克行

内容(e-honより)
一生のうちに同じ局面は二度とやってこない。たった一度の判断が、評価を大きく左右する。それが「引き際」だ。では、引き際を見事に飾れた人と誤った人は、何が違ったのだろうか。完全燃焼できるまで頑張る、一つのことを成し遂げたことでけじめをつける、過去の実績とは全く関係ない世界に新たに挑戦する―。六タイプ九人の引き際にまつわる物語をひもときながら、男にとって引き際とは何かを探る。

 2004年刊行。

 様々な分野で一流と呼ばれた人たちの“引き際”を書く。

 新書ブーム時に出された本だからだろう、正直あまり質は高くない。ばらばらなエピソードをむりやり一冊にまとめたという感じがする。一応“引き際”というテーマがあるが、全盛期の活躍にもけっこうページが割かれている。

 また、八百長疑惑をかけられてプロ野球界から永久追放された選手(池永正明)とか、それは引き際もクソもねえだろという人の項もある。

 あとボランティア活動に注力したくて検察官を辞めた堀田力とか、オリンピック選手育成のために仕事をやめた小出義雄とかも、それは引き際じゃなくてただの転身だろ、というのもある。新たにやりたいことが見つかったから辞めることに対して「引き際」という言葉を使うのはふさわしくないだろ。

 テーマはおもしろそうだったのに、内容がだいぶズレてしまっている。


 引き際が大事なのって組織の長なんだよね。時代の変化についていけない人、現場をわかっていないがトップに居座っていたら下はやりづらいし、組織は硬直化するし、やる気のない若手は外に出ていくし、ろくなことがない。現在の日産の凋落なんかを見ていると、上層部の引き際が悪いと大きな組織でもかんたんに傾いてしまうのだということがよくわかる。

 だからそういう話を読みたかったのだが、出てくるのはスポーツ選手とか芸能人とか。そういう個人事業主は好きにしたらいいんだよ。失敗したって迷惑を被るのは自分なんだし。実力の世界なんだから、能力が衰えてきたら待遇も悪くなるはずでしょ。

 個人事業主の項は削って、組織のえらいさんにスポットを当てた話をもっと読みたかた。




 おもしろかったのは、島原市長だった鐘ヶ江管一氏の項。

 雲仙普賢岳噴火が起こり、復興に尽力し「ヒゲの市長」として一躍有名になった。

 市長を3期務め、周囲からも続投を期待されていたが、市長選に対立候補(かつて自信の支援者だった人物)が出馬したことで引き際を考えるようになる。

 鐘ヶ江は悩んだ。選挙の行方に不安を抱いていたわけではない。このまま普通に戦っても、四選される自信は十分にあった。彼の悩みは自分の当落ではなく、選挙が行われることで行政に空白ができることだった。そしてもう一つ、町を二分してしまうことだ。無投票四選しか考えていなかった鐘ヶ江は、また新たな決断を迫られていたのだ。
 「住民とは賠償問題をめぐり、侃々諤々の議論をすることもありました。自然災害は自主救済が原則ですので、怒りのもって行き場が大変にむずかしい。住民が納得できないこともよくわかっていました。私は市の財政事情や国や県の支援体制を、市長室に押しかけてくる住民と膝を交えて時には怒鳴り合いながら話し合いました。警戒区域の設定時も、予想どおり反対してくる人がいました。その中に、本多議員の選対にまわった私の支援者もいたのです。みなそれぞれの思惑があります。正直なところ、町は一枚岩となって災害復興へ向かっているとはいえませんでした。でも、徐々にではありますが、時間をかけてじっくり議論していく中でいい方向に向かってきていたんです。
 それがここで選挙をやったらどうなるか? 今までやってきた努力がリセットされてしまいかねません。選挙の行われる十二月は、首長として陳情のために積極的に動き回らなければならない時期でもあるんです。だからこそ絶対に、選挙運動によって、復興の妨げとなる空白期間をつくってはいけなかったんです。立候補すべきかどうか、誰にも相談せず一週間悩み、眠れない状態が続きました」

 そして鐘ヶ江氏は市政の安定のため、不出馬を決意する。

 まあこれは本人の弁だからかっこつけてる面もあるだろうが、たとえかっこつけでもこれを言って、実際に身を引ける現職政治家がどれぐらいいるだろうか?


 成功した人ほど、潔く身を引くのはむずかしい。自分の能力に対する自信もあるだろうし、だから余計に若手が頼りなく見える。周囲も持ち上げてくれるので「おれはまだまだいける」という気になってしまう。

 若いときはみんな「年寄りは老害になる前に早く引退したほうがいい」とおもっているけど、いざ自分が年寄りになると権力者の座に居座ってしまう。かつて新進気鋭の若手として、古い体質に風穴を開けてきた人が、年を取って古い体質の象徴のようになってしまう。なんとも悲しいことだ。


 人の評価を分けるものは何だろうか。
 これまで、引き際が潔かった人たちを見てきたが、彼らに共通するのは、迷いがないことではないだろうか。長い一生の中で、何かを成し遂げるには、並大抵の苦労ではないだろう。苦労が多ければ多いほど、自負も大きくなり、後に続く人たちが不甲斐なく見える。すると、今の地位に未練が生まれ、権力に執着し、周りが見えなくなって独善に陥る……。
「自分はそんなことない、引き際ぐらいちゃんと見極められる」と思うかもしれないが、もしかしたら、そう思った時点で、すでに引き際を飾るタイミングとしては遅いのかもしれない。
 多くの晩節を見ていると、そんな気がしてならない。
 権力の座にいる人たちは、特に晩年の過ごし方が難しいようだ。苦労して上りつめた地位だからこそ、なかなかそこから下りられないのもわかる気がする。もちろん、居心地もいいのであろう。ただ、居座るのもほどほどにして、驕ることなく権力と付き合っていくことができれば、歴史に名を残せるかもしれない。が、その居心地のよさに甘んじておぼれてしまうと、ただの人以下になりかねない。この権力という魔物に取り憑かれ、翻弄される人は、昔も今も変わりなくいるように思う。
 特に、二ケタの当選回数を誇る政治家ともなると、腰がだいぶ重たくなってしまうらしい。なかなか地盤の選挙区から離れられず、後に控える人に道を譲ってくれない。老害などと後ろ指をさされる頃には、開き直り、聞く耳を持たなくなってしまい、せっかくそれまで築いてきた業績が泣いてしまう。

 ホンダ創業者であり一代で会社を大きくした本田宗一郎氏が六十代で社長職を退いているのを見ると、つくづくすごいことだとおもう。

 きっとまだやれたのだろうが、それでは後進が育たない。「今ばたばたしていることが落ち着いたら引退しよう」とおもっていても、「すべてが落ち着いて安心して引き継げる時期」なんて永遠に来ない。

 組織のトップに立つ者の最後にして最大の仕事は「後継者を育てて椅子を譲る」だ。そして最もむずかしい死後でもある。


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