2025年1月15日水曜日

【読書感想文】プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』 / 偏向報道を楽しむ人が大人

芸人式 新聞の読み方

プチ鹿島

内容(e-honより)
新聞には芸風がある。だから下世話に楽しんだほうがいい!おじさんに擬人化することで親しみが湧く朝刊紙。見出しの書き方でわかる政権との距離。世論調査の質問に表れる各紙の立場。朝刊スポーツ紙と芸能事務所の癒着から見える真実etc.…。人気時事芸人が実践する毎日のニュースとの付き合い方。ジャーナリスト青木理氏との対談も収録。

 東京ポッド許可局で(一部界隈では)おなじみのプチ鹿島さん。新聞を13紙も購読している、新聞好きでもある。

 そんな新聞好き芸人が「新聞の楽しみ方」を解説した本。これを読むと、自分も新聞の読み比べをしたくなってくる。とはいえ実際にはやらないのだが……。



 ぼくの実家では朝日新聞と日本経済新聞をとっていた(一時朝日から読売にかえたがまた朝日に戻した)ので、朝日新聞を読んでいた。大学生になって一人暮らしをしたときも、就活もあるから新聞を読んでおいたほうがいいだろうなとおもって購読していた。あれだけの情報量のあるものを毎日百円ちょっとで届けてくれるのは破格だ。

 仮に何も印刷されていない真っ白な紙だったとしても、「月に数千円で毎朝あなたの自宅まで届けます」と聞いたら「それでほんとに利益出るの?」と心配になるサービスだよね。ま、いらんけど。

 ぼくは新聞を読むのは好きなほうだとおもう。活字は好きだし、なんだかんだいっても新聞の情報はかなり信頼がおけるし、政治や社会情勢にもそこそこ関心を持っている。

 だが。現在、うちでは新聞を購読していない。

 いろいろ事情があってしばらく購読しない期間があり、それはそれで大して困らない、むしろ余計なニュースに心乱されることがなくて平穏だし、なによりあの「重い古新聞を束ねて捨てに行く」という作業から解放されるのは大きい!

 というわけで、そのまま新聞の購読しないままもう十年以上。特に困らない。掃除のときとか、雨で靴が濡れたときに「新聞紙が欲しい」とおもうことはあるが、メディアとしての新聞はなくても平気だ。

 しかし新聞を嫌いになったわけではない。「ニュースなんてネットメディアで十分」とはおもわない。ネットメディアもたいてい一時ソースは新聞社発信だし。実家に帰ったときはちゃんと新聞に目を通す。もしも「24時間たつと気化して消滅してくれる新聞紙」が発明されて“古新聞捨てるのめんどくさい問題”が解消されたら、また購読するかもしれない。



 プチ鹿島さんによる新聞評が実におもしろい。

 この人は新聞全般は好きだが特定の新聞だけを贔屓にしているわけではないので、それぞれの新聞の立ち位置をうまくとらえている。

 朝日は高級背広のプライド高めおじさん、産経は小言ばかり言ってる和服のおじさん、東京新聞は問題意識が高い下町のおじさん、読売新聞はナベツネそのもの、など、「キャラ付け」をしながら読むとわかりやすいという主張はまさにその通り。

 まだ新聞が紙だけだった時代は、基本的に一世帯一紙だった(日経とか地方紙とかを併せて購読している家庭はあったが)ので、その立ち位置の差はわかりにくかった。

 だが新聞記事がネット配信されるようになって誰でも手軽に「読み比べ」ができるようになり、その差は明確になった。新聞社としても、他社との差別化を図らないといけない、読者の反応がダイレクトにわかる、などの理由でよりエッジの利いたスタンスをとるようになったとおもう。朝日や毎日はより左に、読売は産経はますます右に傾いていったようにぼくには見える。


 新聞は偏っている! だからダメだ!

 と言う人が多いが、それは子どもの意見だ。この世に完全に公正中立のものなんてありえない。

 新聞は偏っている? その通り。だったらその偏りを味わえばいい、というのがプチ鹿島さんのスタンスだ。うーん、大人!

 たとえば朝日や毎日が「政権がこんなことをしました!」大きく報じている。一方、親政権である読売や産経はそのことにほとんど触れていない。ということは「これは政権にとって都合の悪いニュースなのだな」とわかる。偏っているからこそ見えてくることもあるのだ。


 インターネットの活用が当然となった今、新聞のことを「旧メディアの偏向報道」「腐ったマスゴミ」と馬鹿にする人たちもいる。だが、切り捨てるのはもったいないと思うのだ。旧メディアには旧メディアの役割や論理がある。今まで培われてきた伝統の作法がある。
 たとえば一般紙であれば、載せるからには誰かに裏を取っている。そのうえで新聞の思惑が反映されていることもある。だったら、「正しいか正しくないか」ではなく、「誰が何を伝えようとしたのか」を読み解くために、あるもの(新聞)は利用したほうがおもしろいではないか。「また朝日と産経が全然違うこと言ってるぞ」と覗き見するくらいの下世話な気持ちで、マスコミを「信用する」のではなく「利用する」という気構えでいればいい。新聞にも観客論が必要だと思うのだ。

 たしかに新聞には様々な問題がある。組織として大きくなりすぎたがゆえにいろんなしがらみが生まれたり、市井の人々の価値観とのずれが大きくなったり、とても公正中立とはいえない報道スタンスがあったり。

 とはいえ、「だから新聞は読まない」という人より、「その歪みをわかった上で新聞を読む」人のほうがはるかに知的だ。情報強者というのはこういう人のことを言うのだ。常に遅れている時計と常に進んでいる時計の両方を見れば、現在の時刻がなんとなくはわかるものだ。


 この本に書かれている例だと、政策に反対するデモが行われたが、主催者発表の参加者数と警察発表の参加者数が大幅に異なる。

「これだけ多くの人が関心を寄せています」と言いたい朝日、毎日、東京新聞などは主催者発表の参加者数を大きく取り上げる。読売や産経は、多くの人が反対していることになると(政権が)困るので警察発表のほうを大きく取り上げて少なく見せようとする。

 同じデモを伝えているはずなのに、伝え方によってずいぶん違う景色が見えてくる。同じ富士山でも、山梨側から見るか静岡側から見るかで姿が違うように。

 それを「おまえの見方は偏っている!」と糾弾して切り捨てる人よりも、山梨の人と静岡の人の両方から話を聞く人のほうが、物事を立体的に見ることができるはずだ。

(ちなみに先のデモの件は、近くの鉄道の利用者数から判断するかぎりでは、主催者発表のほうが実情に近かったそうだ。主催者発表は水増ししてるし警察は少なく発表してるんだけどね)


 また、「来日したオバマ大統領が寿司を残した」というどうでもいいニュースから、複数メディアの記事を読み比べることにより「安倍首相と寿司業界の結びつきによる寿司利権」にまでたどりついた(とおもわれる)章はものすごく読みごたえがあった。

 取材をしなくても、新聞や雑誌を読み比べているだけで、プロの記者でもなかなかわからないような情報にたどりつくことができるのだ。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のようでかっこいい。



 スポーツ新聞について。

 そんな「オヤジジャーナル」の中でも、とりわけ下世話なのが「夕刊紙・タブロイド」といわれるメディアだ。『東京スポーツ』『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』が代表選手でその最大の特徴は、「玉石混淆」であることに尽きる。
 朝刊紙(スポーツ紙含む)の場合、憶測や噂を報道することは許されないが、夕刊紙ではそれをどう扱うかが腕の見せどころになっている。
 ホントのことはズバリ書けないとか、まだ裏付けが取れないからぼかして書くしかないとか、いろいろな理由によって、わざと思わせぶりな書き方をするときがある。断定はできなくても、「匂わせる」ことで書けることは積極的に書いてしまうのだ。読者には、「行間を読む」という受け身の取り方が求められる。
 もちろん、ただの憶測であったり、バッシングだったりする記事もあるが、その中に、あとから振り返ってみるととんでもない「真実の宝」が落ちていたりするからおもしろい。ああ、ぼんやり「匂わせて」いたあの記事は、このことを言っていたのか、とわかることも多いのだ。たとえば有名人の覚せい剤疑惑の記事がそうだ。イニシャルでぼかしたり、わかる人にはわかる書き方をして「いいところまで」見せてくれる。

 正直、ぼくもスポーツ新聞のことはだいぶ低く見ていた。プチ鹿島さんは「スポーツ新聞をまともに読んでない人にかぎってスポーツ新聞を軽視している」と書いているが、まさにその通りだ。

 スポーツ新聞は、一般紙に比べると信憑性の低い情報の割合が高いのは事実だろう。だが、プチ鹿島さんのような新聞上級者になると、信憑性が低いことをわかった上で情報収集先として利用できるのだ。

 たとえば「X氏が覚醒剤をやっている」という情報があったとする。X氏に近い人物、それも複数が「あいつは覚醒剤をやってるよ」と語っている。十中八九、ほんとだろう。

 だが一般紙やテレビのニュースでは「X氏が覚醒剤をやっている」と報じることはできない。どれだけ怪しくても逮捕されるまでは一般人だからだ(ほんとを言うと起訴されて刑が確定するまでは推定無罪で一般人なのだがそれはまた別問題なのでこれ以上は触れない)。

 その「かなり確度が高いけど100%ではないので一般紙では書けない」ところを、スポーツ誌なら書くことができる。もちろん、訴えられないように「読む人が読めばわかる」レベルにぼかしたりはするけど。

 また「下世話すぎるから一般紙が書かないこと」を書けるのもスポーツ誌の強みだ。案外、その下世話なニュースがまじめな話につながることもあるのだ(上に書いた、大統領が寿司を残した話から業界の利権が見えてくるように)。

 とはいえ、このへんの「確実でないからまだ書けないこと」や「下世話な話」についてはSNSやYouTubeなどのほうが向いている気もするので、今後スポーツ紙は一般紙より厳しいかもしれないね。



 青木理さんとの対談より。

青木 同感。本当にマズい。一方で新聞も妙な方向に変わりつつあって、各社ともネット展開を盛んにやるようになったけど、やっぱりネットで一番アクセス数の多い記事は芸能関係なんだそうです。だからどんどん芸能記事も作るようになっていく。でも、新聞がそれでいいのか。僕がフリーになって痛感したのは、雑誌や書籍は売り上げ、テレビは視聴率という指標に良かれ悪しかれ右往左往させられているけど、新聞には基本的にそれがないんですよ。少なくとも現場の記者として取材しているとき、「記事を書けば売れる」とか、「この記事を一面トップにしたから売り上げが伸びた」なんて誰も考えていない。これは旧来型の新聞の美点でしょう。日本の新聞は問題だらけだけど、宅配に支えられて何百万部も売れているお化けメディアだったがゆえ一方でそういう美点も当たり前に存在したんです。

 データを可視化しやすいってのはネットメディアの利点だけど、欠点でもあるよね。インプレッション数、ページビュー数、直帰率なんかを調べていったら、芸能ニュース、ゴシップニュース、テレビ番組の文字起こしがいちばん成果が良いです、ってわかっちゃうのは決していいことではない。

 もしも新聞が「ページビュー数最優先!」に舵を切ってしまったら、そのときこそ本当に新聞が終わるときだろうね。


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2025年1月9日木曜日

どうしてテーマパークは変に凝ったメニューを作るのか

 テーマパークや動物園のレストランが嫌いだ。

 たぶんたいていみんな嫌いだろう。めちゃくちゃ高くて、買うのに時間がかかって、こんでいるからなかなか席がとれなくて、それでいてそんなにおいしくない。


 何がイヤって、「時間がかかって高くてうまくない」の三拍子そろっているところだ。「早い・安い・うまい」の逆だ。

 このうち二つなら許せる。個人的には「時間がかかる」がいちばんイヤだ。

 なぜならテーマパークや動物園には飯を食いに行ってるわけではないから。飯を食うのはトイレと同じで「生存のために必要だからやるがなるべく時間をかけたくない行為」だ。

 そこで儲けたい会場側の思惑もわかる。だから値段に関してはしかたないと諦める。まずくてもいい。ただ、「高くてまずくていい」と割り切ってしまえば、時間のほうはなんとかできるだろ、とおもうのだ。

 コンビニで売ってるようなおにぎりとかサンドイッチを仕入れて、市価の二倍で売る。こっちはそれでいいのだ。歩きながら食べられるし。

 会場側としても、施設や人を割かずに稼げる。悪くない話だとおもうのだが。


 なのに。

 どうして変に凝ったメニューを出すんだ。

 そのテーマパークのキャラクターをイメージしたハンバーグランチとか、動物園の人気のペンギンをあしらったプレートランチとか、余計なことをするんだ。

こんなのとか

こういうの


 その変に凝ったメニューを、調理に慣れてない学生バイトが一生懸命用意するのだ。時間がかからないわけがない。

 いや、そういうメニューがあってもいい。求めている人だっているだろう。

 ただ、それとは別窓口で(ここ重要)、市販のパンやおにぎりを売ってくれ。同じ売場にすると結局全部混むからやめてくれ。


 なに? 客単価? いっぱいお金を落とさせたい?

 わかった。じゃあ二倍と言わずもっととっていい。市販のおにぎり二個と市販の魚肉ソーセージのセットにして2,000円にしていい。その代わりすぐ提供してくれ!



2025年1月7日火曜日

名物・豚汁がうまい店(ただし氷点下)

 昼時に慣れない道を歩いていたら「名物・豚汁がうまい店」と書かれた看板を見つけたので店に入った。

 うん、こんな寒いときに食べる豚汁はたまらない。


 15人も入ればいっぱいのそう大きくない店。店員は四十代ぐらいの男性と四十代ぐらいの女性。一人客のぼくはカウンターに座った。さっそく塩さば・豚汁定食を注文する。

 店内には豚汁のいい香り。これは期待できそうだ。

 定食の到着を楽しみにしていながらカウンター内の様子をうかがっていたのだが……。


 どうも店員の男女の仲が悪いのだ。

 静かに喧嘩をしている。断片しか聞こえてこないのだが、


女「あ、それごはん大盛りです」

男「大盛りにしたつもりですけど?」

女「……」


というやりとりがあったり、


女「~って言いましたよね?」

男「主語がなかったのでわかりません。はっきり言ってもらわないと」

女「……」


と、丁寧語で喧嘩をしている。


 すごく感じが悪い。

 ふたりともいい大人なのでさすがに声を荒らげたりはしないが、ずっと押し殺した声で喧嘩している。


 そりゃあ、まあさ。店員だって人間だから腹の立つこともあるさ。働いていたらいろいろ言いたくなることもあるだろう。ぼくだって同僚相手に文句や嫌味を言ったこともある。

 でもさあ。


 豚汁のうまい店で険悪な空気出さないでよ!

 コンビニとか、国道沿いのチェーンのラーメン屋とかなら、まだいい。そういう店にあったかい接客なんて期待してないから。金髪ピアスのにいちゃんが気だるげにラーメン持ってくるみたいな接客でもいい。

 でも「名物・豚汁がうまい店」はちがうじゃない。にこにこした小太りのおばさんかおじさんが「はい、豚汁おまたせ! 寒いからこれ食べて元気つけてね!」と言いながら豚汁よそってくれるみたいな雰囲気を期待しちゃうじゃない。

 喧嘩するんなら豚汁の看板をはずしてくれ!



2025年1月6日月曜日

おこたとおバズ

「おこた」って言葉、いいよね。「こたつ」よりもあったかい。

 おばあちゃんが言ってるイメージ。実際、ぼくの母親(70歳近い)は「おこた」と言う。とはいえ実家は床暖房が完備されてもうこたつはないので母が「おこた」と口にする機会は二度とないかもしれないが。


「おこた」は「こたつ」に丁寧語の「お」をつけて、後ろの「つ」を省略した言葉だ。

 調べてみたら、女房言葉というそうだ。おかみさんではなく、宮中の女房が使っていた言葉。

 他にも、「おさつ(お+さつまいも)」「おでん(お+田楽)」「おにぎり(お+にぎりめし)」などがこの形だ。ほう、けっこうある。

 食べ物ばかりではない。「おでき(お+できもの)」「おなら(お+鳴らす)」などもそうだ。

 汚いものを指す言葉だからこそあえて上品に言い換えたのだろう。今ではあたりまえの「おなら」もかつては隠語だったんだな。

 名詞だけでなく、「鳴らす」のような動詞にまで「お」をつけて名詞化してしまうのはおもしろい。

「お」の力はなかなかすごくて、いろんな言葉をむりやり丁寧化してしまう。

 おニュー、おセンチのように英語につくこともあるし、おばか、おデブのように悪口にくっついて侮蔑的な意味を若干やわらげ、その代わりに皮肉っぽい意味を持たせたりもする。


 外来語を力技で丁寧化してしまう「お」、個人的にはけっこう好きなのだが残念ながらおニューもおセンチもほぼ死語だ。

 もっと流行ってほしい。

「ごインスタでおバズのおエモなおインフルエンサー」とか言いたい。


2025年1月2日木曜日

M-1グランプリにおいて個人的に重要だとおもうネタ10選

 M-1グランプリでこれまで披露されたネタは、決勝だけでも200本以上。

 その中で、個人的に重要だとおもうネタ10選。おもしろいかどうかというより、後のコンビに影響を与えたかどうかで選出。なので昔のネタが多めです。また、記憶をたどって書いているので細かいところで間違っているかも。



1.第1回(2001年)大会
  麒麟「小説の要素」

 M-1グランプリという大会においてこのネタが重要なのは、ネタの内容そのものよりも、この漫才に対して“松本人志が与えた評価”による。

 まったくの無名だった麒麟(超若手が集まるような関西ローカルの番組にすら出ていなかった)が全国ネットのゴールデンタイムで漫才を披露し、それに対して天下の松本人志が「ぼくは今まででいちばんおもしろかったですね」と評価を与える。当時を知らない人にはイメージしにくいだろうが、2001年の松本人志という存在は「唯一無二の天才」であり「自分以外の芸人は認めない傲慢な天才」であった(そしてそれが許される存在でもあった)。

 その松本人志審査員による「今まででいちばんおもしろかったですね」は最上級の褒め言葉であった。

 これは多くの若手芸人に「M-1グランプリに出場すれば松本人志から評価される」という夢を与えた。ある意味当時破格だった1000万円という賞金よりも価値のあるものだったかもしれない。


2.第2回(2002年)大会
  フットボールアワー「ファミレス」

 ポーカーフェイス&ローテンションで淡々とくりひろげられるボケに感情を乗せた強めのツッコミ、という典型的なダウンタウンフォロワースタイルのコント漫才。今でこそ多種多様な漫才スタイルがあるが、90年代~2000年代初頭はこのスタイルが本当に多かった。

 その中でも群を抜いて完成度の高い漫才を披露したのがフットボールアワー。このスタイルの完成形であり、かつオリジナリティもあった。フットボールアワーが優勝したのは2003年だが、凄みを見せつけたのは2002年のほうだった。

 これにより他のコンビは新たの道を探るしかなくなり、これ以降さまざまなスタイルが花開くことになる。


3.第3回(2003年)大会
  笑い飯「奈良県立歴史民俗博物館」

 M-1デビュー作である2002年の『パン』、究極バカスタイル『ハッピーバースデー』(2005年)、そして空前絶後の100点をたたき出した2009年『鳥人』など数多くの衝撃を生みだした笑い飯のネタの中でも、特に衝撃的だったのがこのネタ。テレビで観ていても会場が揺れるのが伝わるほどのビッグインパクトだった。

 歴史博物館というテーマの斬新さ(漫才史上、後にも先にもこれだけだろう)、見た目・音楽・動き・ナレーションすべてがおもしろかった最初の「ぱーぱーぱーぱぱーぱぱー」のシーン、くだらないのに何度見ても笑ってしまう「ええ土」の応酬、鮮やかなオチ、すべてが完璧だった。

 これ以降M-1予選には大量のWボケスタイルの笑い飯フォロワーが生まれたそうだが、他にも、間を詰めてボケ数を増やす漫才が評価されるようになるきっかけを作ったのもこの漫才だったかもしれない。


4.第5回(2005年)大会
 変ホ長調「芸能界」

 大会初(であり現時点で唯一)のアマチュア決勝進出者。

 正直ネタの内容については特に言うことはないが、(たとえ話題作りの要素が多分にあったとしても)プロでないコンビでも決勝に進めるという功績を作ったことは大きい。

 結果、多くのプロアマが予選にエントリーすることになり、大会の盛り上がりに貢献した。このコンビがいなければおいでやすこがのようなユニットコンビが生まれていなかった可能性がある。


5.第5回(2005年)大会
 ブラックマヨネーズ「ボーリング」

 発想力重視のコント漫才が主流だった前期M-1に王道しゃべくり漫才で登場して、そのしゃべりのうまさとパワー、そして人間味で優勝をかっさらったブラックマヨネーズ。奇をてらったことをしなくても会話だけでこんなにおもしろくなるんだと、漫才という話芸の底力を改めて突きつけた漫才。

 細かいネタの羅列ではなく会話を組み立てて笑いを積み上げていく漫才として、その後のオズワルドやさや香に影響を与えたのではないだろうか。


6.第10回(2010年)大会
スリムクラブ「塔」

 2007年~2009年頃のM-1は、キングコング、トータルテンボス、ナイツ、NON STYLE、オードリー、パンクブーブーのようにテンポを上げて細かいボケを詰めこむタイプの漫才が好成績を収めた。M-1グランプリで勝つにはフリを短くしてボケを詰めこんで笑いの量を増やす、後半にいくにしたがってテンポを上げて盛り上がり所で終わらせる……という必勝法ができかけていた。大会が最も競技化していたのがこの時代だった。

 もしかすると漫才にはこれ以上大きく発展する可能性はないんじゃないだろうか。なんとなくそんな諦めに近い空気が漂っていた。M-1グランプリという大会が2010年で終了することになったのも、もしかするとそれが一因だったかもしれない。

 そんな時代に風穴をあけたのがスリムクラブだった。信じられないほど長いフリ、脈略のないボケ、ツッコミを入れずに困惑するだけの相方……。すべてがセオリーの真逆だった。なのに爆発的にウケた。無言でも笑いをとれる。衝撃的な漫才だった。

 それ以前のM-1にも、おぎやはぎ、千鳥、東京ダイナマイト、POISON GIRL BANDのようなローテンション、スローテンポなシュール系漫才はあったが、軒並み点数につながらなかった。M-1でこういう系統はダメなんだと誰もが諦めかけていた時代にスリムクラブが定石を破った功績は大きい。

 2015年に復活後のM-1で多種多様な漫才スタイルが花開いたのには、スリムクラブの影響も見逃せない。


7.14回(2018年)大会
  トム・ブラウン(ナカジマックス)

 中島くんを五人集めてナカジマックスを作りたいという奇天烈な導入、徐々に加速してゆく異常な展開、どこまでもズレたツッコミ。無茶苦茶なのに、なぜだか論理を感じる。作り物ではない、本物の狂気を感じさせる漫才だった。

 その後もランジャタイやヨネダ2000のような奇天烈漫才が決勝に登場するが、その先鞭をつけたのがトム・ブラウンだった。ここでトム・ブラウンがある程度受け入れられなければ、その後の決勝の顔ぶれも変わっていたかもしれない。



8.14回(2018年)大会
  和牛「オレオレ詐欺」

 本来なら楽しいだけの漫才に「嫌な感情」を持ちこんで成功させたのが和牛。その集大成ともいえるのが「オレオレ詐欺」だった。

 嘘をついて老親を騙して、あげく騙された母親に向かってネチネチと説教する。ふつうならただただ嫌な気持ちになるはずなのに、なぜか笑える漫才にしてしまう和牛の技術はすごい。漫才におけるコントは「これは漫才中のお芝居ですよ」とあえてわざとらしい芝居をするものだが、和牛は声のトーンや表情など、全力で芝居に没入してみせた。

 極めつきがラストの「無言でにらみ合うシーン」。漫才は言葉に頼らずとも表現できることを示し、その枠組みを大きく広げてくれたネタだった。



9.15回(2019年)大会
 ミルクボーイ「コーンフレーク」

 強固なシステムを作り上げ、何年にもわたって研ぎ澄ませ、老若男女を笑わせることに成功したミルクボーイ。あのシステム自体はその数年前から完成されていたが、ひとつのシステムをつきつめるとここまで到達できると見せてくれたのは大きい。

 同じシステムを続けていたら飽きられそうなものだが、M-1優勝後もさらに同じシステムを進化させてウケ続けているのを見ると、本物はそんなにやわなものではないことを教えてくれる。

 漫才の中にはまだまだ金鉱脈が眠っていることを示したネタ。



10.16回(2020年)大会
  マヂカルラブリー「吊り革」

 このネタははたして漫才か否かという論争を巻き起こした問題作。冒頭とラストをのぞいて野田さんがほとんど言葉を発しない奇抜な設定ながら、ばかばかしさと身体性のみで爆笑を巻き起こした。

 細かいテクニックも構成も話術も吹き飛ばすようなダイナミックな動き。実際はしっかり考えられた漫才なのだが、尿をまきちらしながら転がる動きで計算だと感じさせないばかばかしさ。

 この18年前にテツandトモが決勝に進んだときには「おまえらここに出てくるやつじゃない」とまで言われたが、マヂカルラブリーは審査員にも観客にも受け入れられた。M-1グランプリという大会が大きく成長したことを体現したネタだった。おそらく今後はさらに誰も見たことのない形の漫才が出てくることだろう。



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