芸人式 新聞の読み方
プチ鹿島
東京ポッド許可局で(一部界隈では)おなじみのプチ鹿島さん。新聞を13紙も購読している、新聞好きでもある。
そんな新聞好き芸人が「新聞の楽しみ方」を解説した本。これを読むと、自分も新聞の読み比べをしたくなってくる。とはいえ実際にはやらないのだが……。
ぼくの実家では朝日新聞と日本経済新聞をとっていた(一時朝日から読売にかえたがまた朝日に戻した)ので、朝日新聞を読んでいた。大学生になって一人暮らしをしたときも、就活もあるから新聞を読んでおいたほうがいいだろうなとおもって購読していた。あれだけの情報量のあるものを毎日百円ちょっとで届けてくれるのは破格だ。
仮に何も印刷されていない真っ白な紙だったとしても、「月に数千円で毎朝あなたの自宅まで届けます」と聞いたら「それでほんとに利益出るの?」と心配になるサービスだよね。ま、いらんけど。
ぼくは新聞を読むのは好きなほうだとおもう。活字は好きだし、なんだかんだいっても新聞の情報はかなり信頼がおけるし、政治や社会情勢にもそこそこ関心を持っている。
だが。現在、うちでは新聞を購読していない。
いろいろ事情があってしばらく購読しない期間があり、それはそれで大して困らない、むしろ余計なニュースに心乱されることがなくて平穏だし、なによりあの「重い古新聞を束ねて捨てに行く」という作業から解放されるのは大きい!
というわけで、そのまま新聞の購読しないままもう十年以上。特に困らない。掃除のときとか、雨で靴が濡れたときに「新聞紙が欲しい」とおもうことはあるが、メディアとしての新聞はなくても平気だ。
しかし新聞を嫌いになったわけではない。「ニュースなんてネットメディアで十分」とはおもわない。ネットメディアもたいてい一時ソースは新聞社発信だし。実家に帰ったときはちゃんと新聞に目を通す。もしも「24時間たつと気化して消滅してくれる新聞紙」が発明されて“古新聞捨てるのめんどくさい問題”が解消されたら、また購読するかもしれない。
プチ鹿島さんによる新聞評が実におもしろい。
この人は新聞全般は好きだが特定の新聞だけを贔屓にしているわけではないので、それぞれの新聞の立ち位置をうまくとらえている。
朝日は高級背広のプライド高めおじさん、産経は小言ばかり言ってる和服のおじさん、東京新聞は問題意識が高い下町のおじさん、読売新聞はナベツネそのもの、など、「キャラ付け」をしながら読むとわかりやすいという主張はまさにその通り。
まだ新聞が紙だけだった時代は、基本的に一世帯一紙だった(日経とか地方紙とかを併せて購読している家庭はあったが)ので、その立ち位置の差はわかりにくかった。
だが新聞記事がネット配信されるようになって誰でも手軽に「読み比べ」ができるようになり、その差は明確になった。新聞社としても、他社との差別化を図らないといけない、読者の反応がダイレクトにわかる、などの理由でよりエッジの利いたスタンスをとるようになったとおもう。朝日や毎日はより左に、読売は産経はますます右に傾いていったようにぼくには見える。
新聞は偏っている! だからダメだ!
と言う人が多いが、それは子どもの意見だ。この世に完全に公正中立のものなんてありえない。
新聞は偏っている? その通り。だったらその偏りを味わえばいい、というのがプチ鹿島さんのスタンスだ。うーん、大人!
たとえば朝日や毎日が「政権がこんなことをしました!」大きく報じている。一方、親政権である読売や産経はそのことにほとんど触れていない。ということは「これは政権にとって都合の悪いニュースなのだな」とわかる。偏っているからこそ見えてくることもあるのだ。
たしかに新聞には様々な問題がある。組織として大きくなりすぎたがゆえにいろんなしがらみが生まれたり、市井の人々の価値観とのずれが大きくなったり、とても公正中立とはいえない報道スタンスがあったり。
とはいえ、「だから新聞は読まない」という人より、「その歪みをわかった上で新聞を読む」人のほうがはるかに知的だ。情報強者というのはこういう人のことを言うのだ。常に遅れている時計と常に進んでいる時計の両方を見れば、現在の時刻がなんとなくはわかるものだ。
この本に書かれている例だと、政策に反対するデモが行われたが、主催者発表の参加者数と警察発表の参加者数が大幅に異なる。
「これだけ多くの人が関心を寄せています」と言いたい朝日、毎日、東京新聞などは主催者発表の参加者数を大きく取り上げる。読売や産経は、多くの人が反対していることになると(政権が)困るので警察発表のほうを大きく取り上げて少なく見せようとする。
同じデモを伝えているはずなのに、伝え方によってずいぶん違う景色が見えてくる。同じ富士山でも、山梨側から見るか静岡側から見るかで姿が違うように。
それを「おまえの見方は偏っている!」と糾弾して切り捨てる人よりも、山梨の人と静岡の人の両方から話を聞く人のほうが、物事を立体的に見ることができるはずだ。
(ちなみに先のデモの件は、近くの鉄道の利用者数から判断するかぎりでは、主催者発表のほうが実情に近かったそうだ。主催者発表は水増ししてるし警察は少なく発表してるんだけどね)
また、「来日したオバマ大統領が寿司を残した」というどうでもいいニュースから、複数メディアの記事を読み比べることにより「安倍首相と寿司業界の結びつきによる寿司利権」にまでたどりついた(とおもわれる)章はものすごく読みごたえがあった。
取材をしなくても、新聞や雑誌を読み比べているだけで、プロの記者でもなかなかわからないような情報にたどりつくことができるのだ。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のようでかっこいい。
スポーツ新聞について。
正直、ぼくもスポーツ新聞のことはだいぶ低く見ていた。プチ鹿島さんは「スポーツ新聞をまともに読んでない人にかぎってスポーツ新聞を軽視している」と書いているが、まさにその通りだ。
スポーツ新聞は、一般紙に比べると信憑性の低い情報の割合が高いのは事実だろう。だが、プチ鹿島さんのような新聞上級者になると、信憑性が低いことをわかった上で情報収集先として利用できるのだ。
たとえば「X氏が覚醒剤をやっている」という情報があったとする。X氏に近い人物、それも複数が「あいつは覚醒剤をやってるよ」と語っている。十中八九、ほんとだろう。
だが一般紙やテレビのニュースでは「X氏が覚醒剤をやっている」と報じることはできない。どれだけ怪しくても逮捕されるまでは一般人だからだ(ほんとを言うと起訴されて刑が確定するまでは推定無罪で一般人なのだがそれはまた別問題なのでこれ以上は触れない)。
その「かなり確度が高いけど100%ではないので一般紙では書けない」ところを、スポーツ誌なら書くことができる。もちろん、訴えられないように「読む人が読めばわかる」レベルにぼかしたりはするけど。
また「下世話すぎるから一般紙が書かないこと」を書けるのもスポーツ誌の強みだ。案外、その下世話なニュースがまじめな話につながることもあるのだ(上に書いた、大統領が寿司を残した話から業界の利権が見えてくるように)。
とはいえ、このへんの「確実でないからまだ書けないこと」や「下世話な話」についてはSNSやYouTubeなどのほうが向いている気もするので、今後スポーツ紙は一般紙より厳しいかもしれないね。
青木理さんとの対談より。
データを可視化しやすいってのはネットメディアの利点だけど、欠点でもあるよね。インプレッション数、ページビュー数、直帰率なんかを調べていったら、芸能ニュース、ゴシップニュース、テレビ番組の文字起こしがいちばん成果が良いです、ってわかっちゃうのは決していいことではない。
もしも新聞が「ページビュー数最優先!」に舵を切ってしまったら、そのときこそ本当に新聞が終わるときだろうね。
その他の読書感想文はこちら
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