2024年10月21日月曜日

【読書感想文】和田靜香・小川淳也『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。』 / こんなインタビュアーにも真摯に向き合わなきゃいけないなんて国会議員も大変だ

時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?国会議員に聞いてみた。

和田靜香(著)  小川淳也(取材協力)

内容(e-honより)
息が詰まるほど苦しい生活が続くのは「私のせい」? まったくの政治シロウトで50代のフリーランスライターが、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』の国会議員・小川淳也さんに政治の疑問と怒りについて直接問答した365日。話題の一冊にあらたな対談「私たちは敵対してしまった」を加筆して文庫化。誰もが政治参加できると実感できる必読の書!

 小川淳也という衆議院議員がいる。『なぜ君は総理大臣になれないのか』というドキュメンタリー映画の主人公になった人なので、野党議員の中では党首クラスを除けばそうとう有名なほうの議員である(ちなみにぼくはまだ『なぜ君は総理大臣になれないのか』は観てない。気にはなっている)。


 その小川淳也氏に、政治については素人に近い(政治の素人ってのも変な言い方だけど)フリーのライターである著者が、あれこれと意見をぶつけて議論を闘わせた本。

 なのだが……。

 著者のレベルがあまりにも低い。

 いや、政治の知識が乏しいことはべつにいいんだよ。政治は誰にでも関係のあることだから、政治の知識が乏しい人でも積極的に参加すべきだ。だから「あまり知識のない人代表」として政治家に意見をぶつけにいくというスタンスはすごくいい。

 ただなあ。知的謙虚さがまるでないんだよな。視野の狭さというか。

 たとえば、小川さんとベーシックインカムの話をしていて。

「国民ひとりあたり一人七万円を支給する。誰が必要か不必要か判断するのにはコストもかかるし不正する人もいるので、誰であれ一人につき七万円を支給する」という案を提示した小川さんに対し、著者は、自分は単身世帯でいろいろ割高だから、単身世帯だけは一人十万円にしてほしいと主張する。

 小川さんは反対。そうやって差をつけると、我も我もと増額を主張するので、余計なコストがかかるし不正の温床になる。だからとにかく全員同額。

 著者はさらに主張。自分はフリーランスで家を借りるのが大変だから、ベーシックインカムとは別で住居費を出してほしい。

 小川さんは反対。住宅政策はそれとは切り離すべきで、公営住宅などを充実させて全員が住むところに困らないようにするべきだと。シェアハウスをすれば単身世帯の割高も解消されるし、住宅問題も解消に向かう。

 著者の主張はこう。他人とは住みたくない。公営住宅や団地はイヤ。住むところは自分で選びたい。でも家賃を自分の財布から出すのはイヤなので、国が負担してほしい。


 ……こいつは何を言ってるんだ?

 徹頭徹尾自分の都合しか考えていない。不便なところや古い家には住みたくない。他人と暮らすのもイヤ。単身だから生活費が高くつく。だから国が単身者の面倒を見ろ。

 いや、べつにいいんだけど。個人の願望を述べたって。でもそれって「国民全員が俺に十円くれたら十億円もらえるから遊んで暮らせるじゃん!」レベルの話だ。政治でも何でもない。

 よくそんな恥ずかしい話を、国会議員に向かって臆面もなく主張できるな。


 とにかく想像力が欠如してるんだよね。単身者だけが大変だとおもってる。子どもがいてフルタイムで働きに出られない家庭、介護や看護を必要としている人のいる家庭、いろんな事情で持ち家に住み続けないといけない家庭。どっちが大変と比べることに意味はない。みんなが「うちだけが大変!うちだけ優遇してくれ!」と主張したらどうなるか、子どもにだってわかることなのに。

 著者はいろんなことに関心は持つけれど、自分と異なる立場の人のことはまるで考えようとしない。

 原発の話にしてもそう。小川淳也さんは「いずれは原発ゼロにするべきだから新設や増設には反対。だが今すぐ全停止しても稼働しているときと運用コストやリスクは大きく変わらない。また原発全停止になれば化石燃料を使った発電を増やさねばならず、環境負荷も大きい。だから原発は数十年単位で段階的にゼロに持っていく」という主張をしている。

 それに対して著者は「原発は怖いから今すぐ全停止!」の一点張り。

 いやそれはそれでひとつの立場なんだけどさ。実際そういう市民も多いし。

 でも、じゃあ原発全停止にする代わりに火力発電を増やして地球温暖化が進むことは許容しますとか、電力不足に陥って停電が頻繁に発生する国になることは許容しますとか、どっかで妥協しなきゃいけないわけじゃない。それが政治というものでしょ。

 著者の場合は、そういう譲歩が一切ない。原発は止めろ、地球温暖化には今すぐ全力で対処しろ、電力不足? そんなの知らん、どっかの誰かがすごい案出して何とかしてー!という感じ。

 あんたが求めているのは正しい政治じゃなくて魔法の力だよ。


 著者の知的レベルがアレな分、それに根気強く対話を重ねている小川淳也さんがすごい人だとおもえる。

 いやあすごい。議員もたいへんだよなあ。ぼくらが見る議員って国会でふんぞりかえっている姿ばかりだけど、実際は、こういう身勝手な人の相手をするのも仕事なんだよなあ。頭が下がります。

 ぼくだったら「それはだめですね」「何言ってるんですか、まじめに考えてください」「それだったら訴える先は国会議員じゃなくて神社ですね。神頼みしかないです」とか一蹴しちゃうけど、ちゃんと聞いて誠実に答えてるんだもん。

 しかも「そうですね、あなたのおっしゃる通り」と適当に調子を合わせてその場をやり過ごすのではなく、聞いた上で、きちんと否定している。もちろんぼくのように「は? あほちゃう?」などとは言わずに、(たぶん理解してもらえないことをわかった上で)懇々と主張を述べている。適当に合わせるほうが楽なのに。


 著者は自民党政治に反対の立場(というか敵視している。自民党議員やその支持者にもそれぞれの立場や生活があることなど想像しようともせず絶対悪のように扱っている)なんだけど、著者みたいに自分の都合だけ考えて身勝手な要求をする支持者がいて、身勝手な要望に応えていった結果が今の自民党政治であり、日本の惨状なんだとおもう。

 おらの村に道路を作ってくれ、おらの会社にだけ補助金を出してくれ、おらの業界だけ消費税の軽減税率を適用してくれ、おらのようなフリーランスで単身世帯で他人と一緒に住みたくない人にだけ手厚く税金使ってくれ。

 自民党を敵視している著者が、自民党支持者の悪いところを煮詰めたような思考をしているのはなんとも皮肉なことだ。



 ということで、主張が身勝手百パーセントで、文章もつまんねえので、途中から著者のお気持ちは飛ばして、小川淳也さんの話だけを読むようにした。

 うん、ここだけ読むといい本だ。

 戦後まもなくしてできた、日本の社会保障制度が問題になります。当時は現役世代が大勢いて、高齢者は少ない。年金の掛け金は1カ月100円から始まり、少ない負担で数少ない高齢者を十分に安心させることができた時代でした。それが現在では現役世代よりも高齢者の方が圧倒的に多い。そして子どもたちが少ない。さらに30年後には高齢化率は40%にもなります。一応ここで状況は落ち着くはずですが、人口構成で言えば、ほぼ逆三角形ですね。1カ月100円の掛け金の時代に作られた社会保障制度が、この逆三角形の時代に向かう中、もつわけがないじゃないか?と。そのことをどの政治家が、どの政党が、国民へ真摯に説明し、その責任をおっかぶる覚悟で、新たな提案をできるのか?
 この「人口問題」が社会や政治の行き詰まりを解消する根本だということの、それが基本的な認識です。

 これねえ。みんなわかってるじゃない。日本の抱える問題の大半は、高齢者が多すぎることだと。高齢者に使っている金が多すぎること。それ自体は誰のせいでもない。高齢者のせいでもない。逆に若者が多ければ、ずっと人口が増え続けているということなので、それはそれで別の問題が生まれるわけだし。

 良くないのは、問題をはっきり口にする政治家がいないこと。選挙で落ちるのを恐れて、高齢者への手厚すぎる保護を減らしましょうと言わない政治家だらけなこと。

 ぼくが政治家に求めるのは、耳に痛いことを言ってくれる人なんだけどな。耳に痛い事実を告げられて、ひどいことを言うやつだ、あいつは選挙で落としてやれ、となるほど高齢者も有権者もバカばっかりじゃないですよ、と言いたい(とおもってたけど少なくともこの本の著者はそっちのタイプだよなあ)。



 民主主義について。

  民主主義を殺す人は必ず敵と味方に分けるんです。民主主義は確かに紅組と白組のように分かれて競争し合うものですけど、お互いに正当な競争相手で、ライバルであり、リスペクトしあう前提がルールとしてある。だけどそれを踏み倒すんですよ、奴らは敵だ、敵は殲滅の対象だと。でも、そうする人たちのメンタリティの根本にあるのは自信のなさだと思います。ライバルの存在を貴べない、恐怖心からですよね。

 これね。ぼくが為政者に求める、最も重要な条件が「反対派の意見を聴き入れる」ことなんだけど、なかなかやれる人はいない。与党にも野党にもほとんどいない。はっきり言って「反対派の意見を聴き入れる」ことさえできるのであれば、どの人、どの党が政権をとってもかまわない。結果的に同じことになるわけだから。

 あげくには「我々は民意を得ている」なんて大きな勘違いをしてろくに国会審議もしないまま法案を通しまくった政党もあった。中学教科書からやりなおしてほしい。選挙なんて「俺たち全員が政治をするのは面倒だからとりあえず全員を代表して少数を選んでおくけどいつでも首をすげかえられるからな」というシステムだということをわかっていない。

 また坂井豊貴『多数決を疑う』あたりを読めばよくわかるけど、多数決というシステムはまったくもって民主的じゃない。相手より一票でも多く票を取ったほうが議席総取り、なんて民主主義の真逆みたいなやりかただ。

 多数決が他の選挙方法に勝っているのは、ほとんど「集計が楽」しかない。その「ただ集計が楽なだけで、民意をぜんぜんまともに反映できないシステムでその場しのぎの代表として選ばれた」のだとわかっている議員であれば、「選挙で勝利したのだから全権委任された!」という発想にはならないだろう。中学公民の知識さえあれば。


 経済政策。

 そうなんです、今はずっとデフレ経済が続いています。人口減少が続いて高齢化が進む中で「何かを買おう」という消費需要は減っているから、物価は上がらない。安定したインフレを持続していくことは難しい。むちゃな金融緩和をしたり、株を上げたり、不動産を上げたりしても物価は上がらない。とは言え、このまま物価が下がり続ける状況は放置できないので、人口減が続く100年間、毎年1%ずつ消費税を上げるのが、最も確実なインフレ政策なんです。

 ぼくは経済のことはよくわからないので、これがほんとにインフレ政策になるのか、人々の暮らしが良くなるのかはわからないが、この発言をする人は信頼できるということはわかる。

 あらゆることに反対の意見を語る右派も左派も、「増税=悪」という前提で語ることだけは一致している。いやいや、そうじゃないだろ。税金ってのは富の再分配機能なんだから、税金が高くなれば貧しい人ほど得をする。なのに貧しい人ほど増税に反対する。

 税金の問題は、高所得者を捕捉しきれていないことだったり、現役世代の負担が大きいことだったり、使われ方が適切でないことだったりすることであって、高い税金それ自体は悪ではない、むしろ君たちの味方なんだよとぼくは声を大にして言いたい。

 だから増税のメリットについてちゃんと語れる政治家を、ぼくは信用する。増税と聞いただけで考える前に拒否反応を示す人も多いけど(もちろんこの本の著者もそのひとりだ)、ちゃんと財政や貧困対策や経済政策について考えている政治家なら増税を語って当然だとおもう。少なくとも減税なんてもってのほかだ。

 たやすく減税を約束する政治家は、よっぽど無知か嘘つきのどちらかだとおもっている。


 日本は地球温暖化対策にしても、世界の先進国で最も遅れているでしょう。コロナ対策でも、検査の拡大に失敗したこともワクチンの開発に遅れていることも、いろんな意味で国際社会に乗り遅れた日本になっちゃいましたよね。それ、どっから来ているかと言うと、やっぱり昭和の成功モデルがみんなの頭の中にも構造的にもあるからで、社会の新陳代謝がうまくいかなくなってる。古いことを止めて新しいところにエネルギーを注ごうとすることができない。
 これは極端に言うと、再生エネルギーを進めたら電力会社に勤めてる人どうなるんだ、携帯電話を促進したら固定電話で仕事してきた人はどうなるんだ、電気自動車に変えていこうとしたらガソリン車作ってる人はどうなるんだって、日本は社会の構造変化が「雇用構造の硬直さによって阻止される」んですよ。
 それは一人の人生を、大企業を中心に一生しばりつける方向に働いているからで、そこを解いてやり、その人が会社を移ろうが、移るまいが、少なくとも社会制度上で不利や齟齬はない、その分、今勤めている会社が変わろうとする変化のダイナミズムに貢献することへの忠誠心を増やしてくださいと言いやすくなるんです。
 それぞれの人生の自由度と、正規・非正規の働き方の公平性と、社会の変化に対するダイナミズムと、3つの面からこれまで言ってきた様々な制度は見直さなきゃいけないと思っています。

「社会の構造変化が雇用構造の硬直さによって阻止される」という視点は興味深い。日本だけの問題かどうかはわからないけど。

 たしかに、会社という組織があり、そこに守るべき従業員がたくさんいる場合、会社のやっていること自体は古くなってきてもそうかんたんにつぶせない。たとえばガソリン自動車を作っている日本トップクラスの大会社があって、ガソリン自動車が時代に合わなくなっても、おいそれと方向転換をすることができない。今いる従業員を大幅に減らして、電気自動車に特化した人材を新たに採用します、というわけにはいかない。

 時代の移り変わりはどんどん早くなっている。十数年前の大学生が選ぶ就職先の人気業種は、銀行、電機メーカー、テレビ局、新聞社、出版社などだった。今やどこも斜陽産業だ。

 だけど数十年働くつもりで入った人はそうかんたんに辞めて別の業種に行くことができない。優秀な人が先のない業界で延命のために努力し、国もまた死に体とわかっていてもそれを支える。あまりにももったいない。

 終身雇用制はもうなくなりつつあるとはいえ、まだまだ大企業では一社で何十年の勤続する人は多い。そこを崩さないかぎりは社会全体が時代の流れについていくことはむずかしいだろうな。だからって安易に解雇規制緩和と言うつもりはないが。


【関連記事】

【読書感想】高齢者はそこまで近視眼的なのか? / 八代 尚宏『シルバー民主主義』

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』



 その他の読書感想文はこちら


キングオブコント2024の感想


ロングコートダディ (花屋)

 花屋に花束を買いに来た客。「花のことはよくわからないのでおまかせします」と言いながら、できあがった花束にケチばかりつけて……。

 花屋という設定、花束だけの必要最小限のセット、芝居の枠を出ない抑えめかつ辛辣なツッコミと、とにかくおしゃれなコント。おしゃれでありながらトップバッターで大きな笑いをとるパワーも隠し持っている。そして平気で人の神経を逆なでしそうなことを言いそうな兎さん、弱気そうな見た目でずばっときついことを言う堂前さんという当人たちのキャラクターにもあっているすばらしいコント。審査員をうならせるセンスと観客受けするベタさを兼ね備えている。

 とことんうざい客(でも現実にいそうなちょうどいいライン)の言動に対して、花屋の店員という立場を守ったまま花言葉で返す店員。それにもひるむことなく「こっちが譲ってやる」とばかりに偉そうな立場を崩さない客。目に見えない火花が飛び交うようなせめぎあいが見事。この客のような人間はどこにでもいて、誰しも「明確な指示を出せないくせにアウトプットにだけとにかくケチをつけるクライアント(あるいは上司)」に辟易した経験があるからこそ、花屋の店員の反撃に溜飲が下がる。不快でありながら胸がすっとする。

 終盤でドラマチックな展開を用意しながらも安易なハッピーエンドに持っていかず「まだマイナスです」と赤裸々かつ婉曲的な表現のオチ。一から十まですばらしいコントだった。


ダンビラムーチョ (四発太鼓)

 一曲で四発しか打ってはいけないという謎のルールのある伝統芸「富安四発太鼓」を披露する中年男性とそれを見物する若い男。

 四発しか打てないという謎設定もばかばかしければ、早々に三発打ってしまうのもばかばかしい。カッカッカッで使ってしまうのもばかばかしいし、うっかりバチが当たってしまうのもくだらない。とにかくばかばかしいコントでありながら音響スタッフに対して厳しい、そのせいで仲間が減っているなど背景が見えてくる細かい設定もニクい(審査員の山内さんが指摘していたけどイヤな腕時計もいい)。二人の顔や体形が田舎の祭りにいるおじさんと純朴な学生っぽい感じなのも高ポイント。

 終盤の観客が参加するあたりからは予定調和的な流れだったかな。本当は五発以上叩きたかったという心情を吐露するあたりは好きだった。

 ロバートの秋山さんが高得点をつけていたのが印象的。たしかにロバートのコントっぽい設定だよなあ。

 あまり頭を使わずに観られるネタだったので、序盤じゃなくて10本目とかの疲れてきた時間帯に見たかったな。


シティホテル3号室 (テレビショッピング)

 テレビショッピングで、商品メーカーの社長が止めるのも聞かずに司会の芸人が暴走してむりやり値下げをさせてしまう。とおもいきや、それすらも社長の書いた筋書きであることが明らかになり……。

 うーん。最近よく見る「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」だけど、その意外性のレベルが低かったな。正直、予想の範疇だった。「実はシナリオ通りでした」はキングオブコントの舞台だけでも、しずるやザ・マミィも披露しているし。

 本当の設定が明らかになった後の展開も「この設定だったらこれぐらいやるだろう」と観ている側が想像する範囲。審査員には芝居がうまいと言われていたが、種明かしが中心なので言動がすべて説明的でまったくうまいとおもえなかったなあ。

 劇中劇のシナリオについて言及するネタって、よく考えられている風に見せられる反面、台本の余白が少なくなっちゃうんだよな。


や団 (一万円札)

 職場の休憩スペースで、財布から一万円札がなくなっていることが発覚。正義感の強い同僚が犯人探しをはじめるが、正義感の強さゆえに海外の麻薬捜査官のような厳しい取り調べをしだして……。

 おもしろい。かなり無理のある設定なのだが、熱量とディティールの細かさで押し切ってしまう。つくづく力のあるトリオだ。三人のキャラクターも浸透してきて、受け入れられやすくなった。

 しかし、どうしてもや団がキングオブコント初登場時に披露した「キャンプ」のネタを想起してしまう。ネタの構造がほとんど一緒なんだよな。そしてキャンプでは伊藤さんの狂気にくわえて「埋められそうになっているのにネタばらしをしようとしない」中嶋さんの異常さも光っていたが、このネタでは捜査に協力的な中嶋さんはそんなに異常ではない。「自分の潔白を証明したい」という動機が理解できるから。このネタもいいネタなんだけど、「キャンプ」が印象的だったがゆえにどうしても比べてしまう。

 本筋だけでなく、子どもの描いた絵、誕生日といったディティールもうまく使い、ラストで真犯人が明らかになることでもう一度見え方がひっくりかえるという隙のない構成。トリオでしか表現できないコントだった。


コットン (人形遊び)

 公園で人形遊びをしている子ども。その演技があまりにも真に迫っているため、隣で聞いていた老人もだんだん引き込まれていき……。

 まず、今こういうネタをやるのか、と驚いてしまった。悪い意味で。人形劇ネタといえば、二十年以上前にFUJIWARAや次長課長がよくやっていた印象で、つまり「古い」。お医者さんコントと一緒で手垢にまみれているので、よほど新しい切り口がないと厳しい。それもいろんな人形劇コントを見てきた歴戦の芸人審査員の前で。

 で、新しい切り口があったかというと……。何もなかった。観ている人が劇中に入り込んでしまうのも予想通り(逆にそれをしない人形劇コントのほうがめずらしいのでは)。

 たしかに西村さんの芝居はうまい。が、劇中劇のシナリオのほうが目も当てられないほど平凡。幼なじみの男女、悪くてかっこいい先輩、実は女たらしで人の心のない最低なやつ、それに迎合する舎弟、何から何まで「どっかで何度も見たことある」ストーリーだ。みゆき、というヒロインの名前も含めてまるで知恵を絞った形跡がない(どうでもいいけどコントに出てくる女性の名前はみゆきが圧倒的に多いのはなんでだろう。ネルソンズとか毎回みゆきだ)。そして観客が人形劇の世界に入り込んでしまうという設定も、人形劇コントの定番。

 これは教養の問題だろうな。明るくて、見た目もよくて、芸達者で、周囲から愛されるコットンというコンビの最大の弱点といっていいかもしれない。

 よく知らないけど、たぶん彼らは努力家で、たくさん他の芸人のコントも見てきたのだろう。ただコント以外の教養が感じられない。たくさん映画を観たり、いろんな小説を読んだり、成功しなかった人と会って話をしたり、あるいは孤独の中で妄想を膨らませたり、そういうバックボーンが感じられないんだよな。だから「どこかで見聞きしたような話」しか展開できない。題材はテレビの世界の中にあるものだけ。

 一般審査だったらこのコントのウケはかなり上位だったんじゃないかとおもう。ただ「どうやったらこんな発想思いつくんだ」とうならされれるようなものをぼくはひとつも感じなかった。演者としてはすごい二人なんだけど。


ニッポンの社長 (野球部)

 強豪野球部に入ってきた新入生。守備もバッティングもピッチングも言うことなしだが、声が小さいという理由で監督にしごかれる……。

 上に書いた説明がストーリーのすべて。なのだが、めちゃくちゃおもしろい。むちゃくちゃだし、最初の「声小さいねん」以降は基本的に同じことのくりかえしで大きな裏切りもないのだが、なぜか笑いが増幅してゆく。

 声を張らない辻さんのツッコミ、風貌に似合わない野球センスとどれだけひどい目に遭ってもかわいそうに見えないという摩訶不思議な能力を持ったケツさんのパワーが存分に発揮されていた。いちばんゲラゲラ笑えるコントだった。

 そして風刺も感じる。野球部ってこういうとこあるもんな。どれだけいいプレーをしても、見せかけの元気がなかったら評価されない。勝利よりもフェアプレーよりも選手の成長よりも、監督や先輩の満足感のほうが優先される。ぼくがいた高校でも「バントのサインを無視して打ちにいって長打になったのに監督から叱られてスタメンを外された」部員がいた。うーん、野球部。


ファイヤーサンダー (毒舌ツッコミ)

 『毒舌散歩』という番組で待ちゆく人々に口汚いツッコミを浴びせた芸人のもとに刑事が訪ねてきて「警察に来てほしい」と告げる。刑事によると、芸人が番組内で口にしたツッコミがことごとく的中していて……。

 こちらも「開始1分ぐらいで意外な設定が明らかになるコント」。ただ、この手のコントを数多く手がけているファイヤーサンダーだけあって演出が見事。「警察に来てほしい」というミスリードでしっかりと緊張感を高めて「毒舌が過ぎて起訴されたのかな」と思わせておいて、「本当にそうでした」の一言で見事に裏切る。スカウトだったことを明かした後も「あの日の阿佐ヶ谷」「巡回」「たとえすぎた」などのフレーズでしっかりと笑いを重ね、刑事の裏の顔に迫る展開でファーストインパクト頼りにしない。とはいえ、それだけやってもこの手の種明かし系コントはどうしても尻すぼみになってしまうんだけど。

 構成がよくできてはいるが、惜しむらくはこてつさんの芝居。わかりやすさ重視のコントの芝居って感じで、どう考えても毒舌芸人として人気が出るタイプじゃない。

 ファイヤーサンダーの脚本をコットンが演じたら最強かもしれんな。


cacao

 部員二人しかないためグラウンドが使えない弱小野球部。しかたなく狭い部室内でキャッチボールをするがどんどん上達してゆき……。


 フレッシュで動きがあって見ていて楽しいんだけど、これはコントというより創作ダンスだよなあ。上手で楽しいダンスでした。


隣人 (チンパンジーと同居)

 チンパンジーと同居しているおじいさん。どんどん知恵をつけていって機械音声を使って人間くさい会話までできるようになったチンパンジーに恐怖を感じるようになったおじいさんが、チンパンジーに出ていくように命じるが……。

 ん-、どうも中途半端。じっさい賢いチンパンジーは人間とコミュニケーションとれるしなあ。機械音声を使ったら、チンパンジーがすごいのか機械音声のほうがすごいのかわかりにくくなるし。異常な世界でもなければ、すごくリアルでもない。

 そして、おじいさんが冷淡すぎる。長年いっしょに住んだチンパンジーをいきなりあんな感じで追いだすだろうか。目も合わせずに今から出ていってください、ってひどすぎない? 別れがつらいからわざと冷淡にふるまってる設定なのかとおもいきや、そういうわけでもなさそうだし。

 十年一緒に生きてきてはずの背景がまるで感じられない。誰もが認めるチンパンジーコントの第一人者にしてはちょっと細部をおろそかにしすぎてないか。


ラブレターズ (どんぐり)

 息子が引きこもって家から一歩も出ようとしないことを嘆く両親。だが息子の服のポケットからどんぐりが出てきたのを見つけ、息子が外に出ているのでは? と希望を持ちはじめる……。

 よくできた脚本だとはおもう。スリリングな展開に似つかわしくないどんぐりという小道具がいい味を出している。どんぐりは腐るかどうかで時間を使う必要はなかったんじゃないかとおもうが、ぶちまけられるどんぐりは見ごたえがあった。

 でもなあ。芝居がよくない。昨年の『結婚の挨拶』のネタもそうだったが、いきなりピークに達しちゃうんだよな、ラブレターズとジャングルポケットは。突然声を張り上げちゃう。0からすぐ100のテンションに達しちゃう。

 息子が聞いているかもしれない状況であんな大声を張り上げるわけないじゃない。疑惑が確信に変わったところでおもわず大きな声が漏れてしまって妻にたしなめられる、ぐらいにしてほしい。

 悪い意味で熱量がすごくて、何を言っているのか聞き取りづらい部分もしばしば。あの夫婦が背負ってきたはずの年月が感じられなかった。




 以下、最終決戦の感想。


ラブレターズ (海辺)

 海辺にいる女性に外国人男性が声をかけたところ、女性がスキンヘッドであること、ジュビロ磐田の熱狂的すぎるサポーターであることが判明し……。

 海岸、流木、スキンヘッドの女性、日本語がうまいことを鼻にかける外国人、ジュビロ磐田のサポーター、願掛けのバリカン、釣りで大物がかかる……と、とにかく要素詰め込みすぎなコント。たぶん意識的にやっているのであろう。

 あえてコントのセオリーからはみだすことで狂気的な世界を表現したかったのだろうけど、伝わってくるのは「狂気的なものを表現しようとしている姿勢」だけ。内面からにじみ出てくるような異常さはまるで感じない。

 昔、付き合いで大学生の小劇団の演劇を観にいったことがあるが、ちょうどこんな感じだった。わけのわからないものが次々に現れ、常識の埒外にある登場人物がわかりやすく己の非常識さを説明してくれる。「ああ、シュールレアリスムをやりたいんだな」とはっきりわかる演劇だった。


ロングコートダディ (ウィザード)

 呪いを解くために、石の魔物に宝玉を捧げる冒険者。だが魔物の腕にかけるのではなく、台座に置くのが正解。そのことを伝えようとする魔物だが、冒険者に言葉が通じず悪戦苦闘……。

 言葉が通じなくてもどかしい、という一点で勝負したネタ。魔物語が日本語と真逆の意味になる、日本語の音に近いなどの変化をつけてはいるが、どうしても単調な印象はいなめない。モニターを使うだけならいいが、観客がモニターを見て笑う形になってしまうのは、ロングコートダディの魅力を失わせてしまっている。

 一本目のネタが「シンプルなセットで表層に表れない複雑なコミュニケーション」を描いていたからこそ余計に、「大がかりなセットで単純なディスコミュニケーション」を笑いにしたこのコントが軽く感じられてしまった。せめて魔物が顔を出して表情を伝えてくれていたらなあ。


ファイヤーサンダー (全裸マラソン)

 九人しかいない野球部が甲子園を目指していることをバカにする不良生徒。「おまえらが甲子園に出られたら全裸でフルマラソン走ってやるよ」と笑う不良生徒だが、翌日から全裸マラソンに向けての練習をはじめる……。

 これまた「開始1分で設定が割れる」系コント。設定判明後も全裸マラソン用のフォーム、校長にかけあうなどの展開を用意してはいるが、ファーストインパクトよりは見劣りした。右肩下がりの印象。終盤の不良生徒がチームに加わる展開も、すでにいいやつであることが判明しているので驚きはない。

 一本目がサスペンス展開だった分、こちらは平坦なまま終わってしまった印象。




 審査に関しては……。まあ言いたいことはいろいろあるけれど、言ってもしかたのないことなので書かない。

 人間が審査してる以上、好みで結果が決まるのはしょうがない。

 初期のキングオブコントに比べれば、明らかに全体のレベルは上がっている。「わかりやすく変なやつが出てきて変な言動をする」みたいなコントはほとんど見られないし、うならせるアイディアを二つも三つも放りこむネタが増えている。

 上位に関してはもうほとんど差はない。ネタ順とかその日の客層とかでぜんぜんちがう結果になっていただろう。百点満点でシビアに点をつけることに意味があるのか、という気もする。各審査員が三組ずつ選ぶ、とかでもいいんじゃなかろうか。


 だから。もう勝敗はどうでもいいからネタ数を増やしてくれ。結局好みの問題でしかないんだから審査員コメントの時間を削ってネタ時間を増やしてくれ。

 特に今年は審査員コメントパートがひどかった。「コメント二周目」のやりとりを何回やるんだ。松本さんがいない分、浜田さんがボケなきゃと気負っていたのかなあ。

 あんなに時間があまってるならその分ネタ数を増やしてほしい。できれば初期キングオブコントのように全組二本ずつ。絶対に二本できる確証があれば冒険的なネタもできるし、強いネタを後半に置いとくこともできる。

 M-1のように競技性を高めるんじゃなくてお祭り感を強めるほうに向かってほしいな。二本目のためにセットを作っている大道具担当がかわいそうだし。二本目に用意していたのに披露できなかったネタ、芸人は他の場で披露すればいいけど、セットは日の目を浴びることなく壊されるわけでしょ。エコじゃない。


【関連記事】

キングオブコント2021の感想

キングオブコント2020の感想



2024年10月9日水曜日

【読書感想文】ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。 』 / 経済に関心の強い大人の娘向け

父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。

ヤニス・バルファキス(著) 関美和(訳)

内容(e-honより)
元財務大臣の父がホンネで語り尽くす!シンプルで、心に響く言葉で本質をつき、世界中で大絶賛されている、究極の経済×文明論!

 ギリシャの財務大臣だった経済学者が、娘のために書いた(という形の)経済の本。

 同じく娘を持つ父親として、お金について教える参考になるかと思って読んだのだが……。正直言って「娘に教える」という点ではほとんど参考にならなかった。てっきりうちの娘(11歳)ぐらいを想定しているのかとおもったが、この本の内容を理解できるのは少なくとも大学生以上じゃないかな……。まあ何歳になっても娘は娘なんだけど……。



 前半は少し退屈。

 というのも、世界的ベストセラーとなった『銃・病原菌・鉄』『サピエンス全史』あたりのただの要約だったから。

 お腹を空かせて泣きながら眠りにつく子どもたちがいることに、君は怒っていた。だけどその一方で、(子どもはみんなそうだが)君自身はおもちゃや洋服やおうちを持っているのを当たり前だと思っているはずだ。人間は、自分が何かを持っていると、それを当然の権利だと思ってしまう。何も持たない人を見ると、同情してそんな状況に怒りを感じるけれど、自分たちの豊かさが、彼らから何かを奪った結果かもしれないとは思わない。貧しい人がいる一方で、金持ちや権力者(といってもだいたい同じ人たち)が、自分たちがもっと豊かになるのは当然だし必要なことだと信じ込むのは、そんな心理が働くからだ。しかし、金持ちを責めても仕方がない。人は誰でも、自分に都合のいいことを、当たり前で正しいと思ってしまうものだ。それでも、君には格差が当たり前だとは思ってほしくない。

 大人になると慣れて麻痺してしまうんだけど、使いきれないほどの財産を持っている人がいる一方で、今日の食べ物がなくて飢えて死んでしまう人がいるのはやっぱりおかしい。べつに前者が優秀で後者が怠惰だったから、というわけでもない。世界の大富豪と呼ばれている人たちだって、生まれる国や時代が違っていたら、ずっと貧しいまま死んでいっただろう。

 なぜ格差は広がるのか。様々な研究が、農耕の始まりが貧富の差を生んだことを明らかにしている。

 狩猟採集社会では格差は生まれない。みんなで協力して獲物を狩り、みんなに分け与えるから。狩りで活躍した人は多めに分け前をもらうぐらいの差はあるが、大きな格差にはならない。なぜなら狩猟採集社会の基本は「今日明日食べる分を今日集める」であり、貯蔵可能な食糧や財はほとんどないからだ。

 人類が農耕をはじめたことで余剰の富が生まれ、それを交換するための貨幣がつくられた。そして貨幣経済の誕生とともに借金が生まれた。

 借金というシステムこそが、人々が貨幣を中心に行動することを決定づけたものだった。

 金融機関の役割とは何だろう?
 銀行は、貯金があってもすぐに使う予定のない人たちと、貯金がなくおカネを借りる必要のある人たちのあいだに立って、両者を結びつける。預金者からおカネを預かり、借り手にそのおカネを貸し付けて利子を取り、預金者には少しの利子を支払い、その差で儲ける。最初はそれが銀行の仕事だった。だが、いまは違う。
 たとえば、ミリアムという女性が自転車を製造しているとしよう。ミリアムは銀行に5年の返済期限で50万ポンドの借金を申し込んだ。炭素繊維でより軽く強い自転車のフレームをつくりたいからだ。
 ここで質問。銀行はミリアムに貸す50万ポンドをどこで見つけてくるのだろう?
 早合点しないでほしい。「預金者が預けたおカネ」は不正解。
 正解は「どこからともなく。魔法のようにパッと出す」。
 では、どうやって?
 簡単だ。銀行の人が5という数字の後にゼロを5つつけて、ミリアムの口座残高を電子的に増やすだけ。ミリアムがATMで残高を見たら、「50万ポンド」という数字がスクリーンに映し出される。ミリアムは飛び上がって喜び、すぐにそのおカネを材料の仕入先に送る。そんなふうに、どこからともなく50万ポンドがパッと目の前に現れるのだ。

 物々交換の社会ではこうはいかない。

 物々交換社会でも、貸し借りはできる。「腹が減ってるけど食い物がないからリンゴをくれないか。今度魚が取れたらあげるから」という約束は可能だ。だが、持っているもの以上には貸せない。リンゴを五個しか持っていない人が十個貸すことはできない。

 貨幣経済ではそれが可能だ。べつにコンピュータの誕生によってできるようになったわけではない。大昔から、貨幣ができたときから、信用によって持てる分以上の貸し借りができたと著者は説く。

 こうして財産は無限に増えることが可能になった。絶対に返してもらえるという信用さえあれば、何百億円という額の借金ですら可能だ。その人が一生働いても返せないぐらいの金を借りることもある。冷静に考えればすごく異常なことだが、すっかりあたりまえになっている。

 誰だったか忘れたが、事業で失敗して何十億円という借金を背負った人の話を聞いたことがある。その人は「何百万円の借金なら、働いて返せとか臓器を売って返せという話になるが、何十億も借金があるとどうせ返せるわけがない。返せないほどの金を貸したほうが悪い。だから小さい借金なら貸したほうが強気に『返さんかい』と言ってくるが、大きな借金を抱えていると立場が逆転して『お願いですから返してくださいよ』となる。殺すぞと脅されたって、殺したら金が返ってこなくなるんだから殺せるわけがない。気楽なもんよ」みたいなことを言っていた。

 なるほど、マイナスが大きくなりすぎると逆にプラスに転じるのかと感心したものだ。貨幣経済のバグ技だ。

 といってぼくにはそんな借金を抱えるほどの度量もないし、そもそも大金を借りられるほどの信用もないんだけど。



 「未来は機械が何でもやってくれるので人間が働かなくて済む」という未来予想がある。昔のSFによくあったやつだ。残念ながら2024年現在、まだまだ人間は働かないと生きていけない。

 いったいいつになったら働かなくても生きていける世の中になるんだ!

 現実には、次のような展開になる。借金で最新の機械に投資していた起業家は、あてにしていた利益が実現できないことに気づく。多くの製品価格が一斉にコストを下回ると、競争力がなく効率の悪い企業は大きな損失を出して倒産する。銀行に借金を返済できない企業が増えると、それが引き金になって先ほど話した一連の出来事が起きる。つまり、経済の循環が止まり、経済危機が起きる。経済危機が起きると、人も機械も余るようになる。不要になるのだ。この時点で生き残っている起業家はふたつのことに気づく。ひとつは、多くのライバル企業が倒産して、競争が減ったこと。生き残った企業は少し価格を上げることができ、事業が少し上向きになる。もうひとつは、機械を買うより人間を雇うほうが安上がりになること。人間は食べていかなければならないので、どんな賃金でも仕事につこうとする。不況の最中に、人間は雇用主にとって魅力的な労働力になり、機械に奪われた仕事をいくらか取り戻すようになる。実際に、2008年の金融危機に続く最悪の世界的不況の中で、人間の労働力は国際市場において大々的に復活した。

 ううむ。経営者が機械化・自動化が進めても、価格競争が起こるので大して儲かるわけではない。従業員の解雇が進み、残った従業員の負担が増え、経営者も儲からない。誰も得をしない。

 おまけに解雇が増えれば市場の購買力は落ち、商品は売れなくなる。企業はより儲からなくなる。倒産も増える。失業者も増える。

 すると、機械を使うよりも人間を使ったほうが安くなる。動作を止めて置いておける機械とちがって食っていかないと死んでしまう人間は、いざとなったら安い賃金でも働くから。そして雇用が増え、市場の購買力はまた回復してゆく……。

 ううむ。なんともせちがらいスパイラルだ。いろんな発明が生まれて世の中はどんどん便利になっているはずなのに、我々の暮らしはちっとも豊かにならない。機械があれこれやってくれるようになるほど、我々は必要とされなくなるのだ。必要とされるのは、機械より安く働く人だけ。つらい。



 技術が進歩しても、人々は幸福になれない。それはやはり社会の仕組みに問題があるからだろう。

 すべての人に恩恵をもたらすような機械の使い方について、ひとつアイデアを挙げてみよう。
 簡単に言うと、企業が所有する機械の一部を、すべての人で共有し、その恩恵も共有するというやり方だ。たとえば機械が生み出す利益の一定割合を共通のファンドに入れて、すべての人に等しく分配してはどうだろう?それが人類の歴史をどんな方向に変えていくか、考えてみてほしい。
 いまのところ、自動化の増加によって、全体の収入の中で労働者に向かう割合は減り、ますます多くの富が機械を所有するひと握りの人たちのポケットに入るようになっている。ここまでに説明したように、富の集中が極まると、大多数の人たちは使えるおカネが減り、ものが売れなくなる。
 だが、利益の一部が自動的に労働者の銀行口座に入るようになれば、需要と売上と価格の悪循環が止まり、人類全体が機械労働の恩恵を受けられる。

 すごく単純に言うと、金持ちが富を独占するのをやめてみんなに配るようにすれば、みんな等しく幸福になるということだ。

 むずかしいけど、決して不可能なことではないとおもう。

 少し前に読んだ『格差は心を壊す ~比較という呪縛~』によると、格差の大きな社会は、格差の小さな社会に比べてすべての階層で幸福度が下がるのだ。大きな格差は、貧しい人だけでなく、金持ちをも不幸にするのだ。

 格差が小さくなれば、社会全体の購買力も上がる、将来への不安が小さくなるので経済が回る、貧困層の犯罪が減って治安が良くなるなど、社会全体にとっていいことづくめだ。


 考えるべきは「どうやったら経済成長するか」じゃなくて「どうやったら格差を縮められるか」なんだろうね。


【関連記事】

【読書感想文】リチャード・ウィルキンソン ケイト・ピケット『格差は心を壊す ~比較という呪縛~』 / 格差社会は金持ちにとっても損

【読書感想文】ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』/悪い意味でおもしろすぎる

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』



 その他の読書感想文はこちら


2024年10月4日金曜日

【読書感想文】リチャード・ウィルキンソン ケイト・ピケット『格差は心を壊す ~比較という呪縛~』 / 格差社会は金持ちにとっても損

格差は心を壊す

比較という呪縛

リチャード・ウィルキンソン(著) ケイト・ピケット(著)
川島睦保(訳)

内容(e-honより)
「金持ち」だって幸せになれない。息苦しいすべての人へ。全英ベストセラー『平等社会』の著者、待望の続編。500超の文献と国際比較データを駆使した渾身の研究。


 タイトル通り、格差社会にどれほどのデメリットがあるかを示した本。

 様々な統計を元に、格差がもたらす弊害を明らかにしている。

 あたりまえだが、格差社会において下の階層(いわゆる負け組)は悲惨な思いをする。健康状態も悪いし、幸福度も下がる。そんなことはみんな知っている。意外なのは、上の階層(勝ち組)ですら、いい思いをするわけではないということだ。

 調査の回答者は「私は職業や所得のせいで周囲から見下されている」というステートメントにどれだけ賛成するか、それとも反対するかを尋ねられる。この文章は、各国の人々が社会的地位やそれを巡る競争を多少なりとも気にかけているかどうかを知るうえで、適切な示唆を与えてくれるように見える。
 研究者によれば、上記の文章に賛成あるいは強く賛成すると答えた人の割合が国によって大きく異なる。すべての国において、所得階層が下がるにつれて地位への劣等感が増大した。また予想されたことだが、所得階層の上位に属する人々は底辺の人々に比べ地位への劣等感が小さかった。
 しかし不平等な国では、地位への劣等感がすべての階層で大きくなっていた。私たちの想定通り、所得格差が拡大すればすべての階層で社会的評価への不安が増大していた。不平等の拡大によってすべての人々が、社会的地位や自分が他人からどう見られているかについて不安を強く感じるようになるのである。
 スターリング大学の心理学者であるアレックス・ウッドと彼の同僚は、社会的な地位の重要性について別の考察も行っている。彼らによれば、社会的な地位が心の健康にとって重要な役割を果たすのであるなら、地位の尺度や指標である所得も心の健康とも関連しているはずだ。所得の多寡は、主に社会階層のどこにあなたを位置づけるかという点で重要な指標である。
 彼らは英国の3万人という大規模なサンプルと統計モデルを活用して、所得の絶対水準と所得の序列を比較してみた。年齢、性別、教育、結婚状況、自宅所有の有無などの諸要因を調整した後でも、精神的な苦痛の代理変数としては所得の絶対水準より序列の方が優れていた。彼らはまたある時点での個人の所得の序列は、当初の精神状態がどうであれ、翌年の精神的な苦痛の変化と関連があることを発見した。自殺を考え試みた人についても、同じことが言えた。所得分布のどこにランクされるかは、どのくらいお金を稼いだかよりも重要だった。同様のことは、米国の研究でも確認された。うつ症状悪化の長期的な先行指標になるのは、所得の絶対的な水準よりも社会的な序列だった。

 同じような経済状況の国や地域同士を比べたところ、格差の大きい社会ほどすべての階層において地位に対する不安度や劣等感が高かったとのこと。

 格差社会であれば貧しい人はみじめなおもいをするし、中流以上の人間も「いつ下層に転落するかわからない」と不安になることで幸福度が下がる。下層はもちろん、中層も上層も誰も得をしない。


 特に研究者は、不平等な社会の人ほど他人に対して厳しい見方をしているのではないかという点を調べてみた。年齢、教育水準、都市化の進行度、平均所得、少数民族の比率などの違いを調整した後でも、調査の結果は事前の予想通りだった。他人に対する好感度では、米国の不平等の大きな州が小さな州を大幅に下回っていた。同様の結果は、オックスフォード大学の心理学者、マリー・パスコフの研究でも得られている。彼女によれば、欧州では不平等な国ほど、金持ちも低所得者も、近隣の住民、高齢者、移民、病人、障がい者に手助けをすることに消極的だ。パスコフと彼女の同僚たちはまた、不平等の大きな国では出世のために懸命に努力するよりも、不平等によって前途に大きな困難を感じた結果、やる気をなくしているようにみえるとも報告している。

 幸福度だけではなく、格差の大きな社会ほど健康状態が悪化する、子どものいじめが増えるなどの様々な弊害があるという。

 とにかく社会にとって悪いことばかりだ。

 しかしデータによれば、不平等が強まるにつれて地域社会の絆や生活は弱体化し、殺人発生率で測った犯罪は増加していく。南アフリカやメキシコのような不平等の激しい国では、いたる所で相互信頼や互恵主義が後退し、それに代わって人に対する恐怖心が高まっている。住宅は高い塀で囲まれ、塀の上にはカミソリワイヤーや電気柵が取り付けられている。窓やドアは鉄格子で覆われている。観光ガイドブックは旅行者に夜間の外出は控えるよう警告している。
 こうした人に対する信頼感から不信感への変化は、不平等が人間社会にもたらす害悪の本質を明らかにしてくれる。不平等はこうした破滅的な変化を人間の社会関係にもたらしている。それを示す全く別の研究もある。所得格差が広がるにつれて(警備員、警察、看守のような)警備〟サービス部門で働く労働者の割合が高まっているという。こうしたサービスは人を他人の脅威から守る仕事だ。不平等の異常な高まりが人間の社会関係に与える悪影響ほど、生活の真の豊かさにとって危険なものはない。

 格差が広がれば犯罪の発生件数は増える。これは、貧しい人はもちろん、金持ちにとっても大きな損だ。防犯にコストを払わねばならないし、どれだけ金をかけたって百パーセント防ぐことはできない。

 大きな格差のあるアメリカのような社会で持たざる者が持てるものに対して一矢報いようとおもったら、銃乱射事件を起こす、みたいなやりかたになってしまう。

 どれだけ金を持ってても無差別殺人に巻き込まれたら意味がない。ほどほどに格差を小さくしておくのが、すべての人にとって得策だといえるだろう。



 国家や州のような大きい単位だけでなく、会社、部署といった小さな単位でも格差は弊害を生むそうだ。

 労働者を少人数のグループに分け、各グループのメンバーの賃金をすべて同じにすれば、生産性が上昇することを示す証拠がある。インドで378人の労働者を対象とした実験では、グループのメンバーの賃金を同じにした場合と格差を付けた場合のパフォーマンスの比較を行った。それによると、賃金に格差をつけたグループは、格差のないグループに比べ、生産性が大幅に低下し欠勤も増えた。

 そりゃそうだよね。

 二十年ぐらい前は「成果主義」という言葉が流行っていた。もう今ではほとんど聞かれなくなったところを見ると、うまくいかないことにやっとみんな気が付いたんだろう。

 仕事によって給与に差をつけられて「この差を逆転できるようがんばって仕事をしよう」となる……わけがない。「なんでおれがこんな評価なんだよ。見る目のない上司の下でやってても無駄だから転職しよう」となるか「上司に気に入られれば給与が上がるのか。よし、利益を生むための行動じゃなくて上司に気に入られるための行動をしよう」となるかしかない。

 成果主義がうまくいくとしたら、社員のあらゆる行動を四六時中見ることができ、それが何をもたらすかを完全に理解し、一切の私情を挟まずに評価できる全智全能の神が上司になるしかない(そして上司が全智全能であることを部下は知っていないといけない)。もちろん上司は神ではないから(もしくは上司が神であることを我々が知らないだけか)、成果主義はうまくいかない。足の引っ張り合いにもなるし。

 ほんと、社員全員(理想を言えば経営者も)の給与を同額にして、業績が上がれば全員の給与を同じだけ上げます、ってのがいちばんモチベーションが上がるかもしれない。

「あいつは俺より仕事をしてないくせに同じ給料をもらってるなんておかしい!」ってなことを言いだすやつが、いちばん生産性を下げてるんだよな。



 格差は心身の健康に影響するけど、重要なのは、絶対的な裕福さ(衣食住に困らないかとか、高等教育を受けられるかとか)よりも相対的な格差のほうが影響するということだ。

 GDPが増えるとかそんなのは何の関係もない。市民にとって大事なのは「隣の人よりも著しく貧しくないか」なのだ。

 私たちが社会的地位の低下を何とか回避してきた経緯を考慮せずに、貧困や不平等の影響を正しく理解することはできない。私たちの進化心理学の立場からすれば、地位低下の恐怖は人類出現以前の順位制時代にまで遡るが、それは現代の不平等社会でも強く生きている社会的地位を維持することの重要性を正しく認識できていない人は、経済成長によって不平等や相対的貧困の問題は解決できると信じ続けている。しかし貧困がもたらす主観的なトラウマを考えると、他人よりも著しく貧しいことは強力なエピジェネティック効果を持っていることを忘れてはならない。

 人間は「地位が周囲より低いこと」にストレスを感じる。江戸時代の金持ちよりも今の生活保護家庭のほうが確実に(物質的には)いい暮らしをしているはずだが、強くストレスを感じるのは圧倒的に後者だ。


 国の所得総額が一緒だとして、ごく一部の金持ちが多くの富を独占するよりも、みんなが等しく所得を得るほうが、どう考えても国の経済にとってはいい。消費も活性化されるし、治安も良くなる。福祉に使う税金も減る。貧しさに起因する病気が減れば医療費負担は減り、労働力は増える。納税額だって増える。いいことづくめだ。

 ポル・ポトみたいな極端な平等主義は論外にしても、もっと平等になったほうがいい。たぶん、みんなうっすらわかっている。持たざるはもちろん、富裕層だって、政治家だって、きっとわかってる。もっと格差を小さくしたほうが社会全体にとってはプラスだと。

 ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』によれば、自由な競争が阻害された社会ではイノベーションが起きづらく、国力が衰退するとある。どう考えたって格差が小さいほうがいい。

 じゃあなんで格差縮小が実現しない(それどころか拡大する一方)のかというと、たぶんみんな不安なんだろう。他人を信用できないんだろうね。「不労所得、金融資産にたくさん税金をかけて、高所得者の所得税を引き上げて、相続税も高くして、課税逃れに対しては厳罰を科したほうがいい社会になる」ってみんなわかってはいるけど、でもそれをやったところで「俺以外の誰かは抜け穴を見つけていい思いをするんじゃないか」「うちの国がそれをやったところで他の国が金持ちを優遇して、金持ちや大企業はそっちに逃げちゃうんじゃないか」って疑心暗鬼になってしまい、結局格差を小さくできない。

 みんなびびってるんだよな。どうせ大企業や金持ちは逃げないのにさ(国外に逃げる金持ちもいるんだろうがそういうやつはどっちみちあの手この手で税金の支払いから逃れるから関係ない)。

 あと、格差を小さくするための最も効果的な方法は「税金による富の再配分」なんだけど、貧しい人ほど増税に反対するからなあ。税金が増えれば、貧しい人ほど得をするのに。

 悪いのは税金をとられることじゃなくて、使われ方が不平等なのに、なぜかみんな税金をとられることには文句を言うくせに使われ方はあんまりチェックをしないんだよな。


 ということで、格差の小さい社会になってほしいと心からおもう。とりあえず意図的な脱税や納税逃れの刑罰をもっともっと大きくするところから。だって税を納めないって国家に対する反逆でしょ。内乱罪なんだから、最大で死刑ぐらいの刑罰があってもおかしくないとおもうけどな。

 罪が軽すぎるから「ばれても追加徴税ぐらいだったらやってみたほうがいいや」ってなっちゃうわけだし。最低でも懲役、ぐらいにしとけば意図的脱税をするやつはほとんどいなくなるとおもうけどな。脱税って社会の仕組みをぶっ壊そうとする行為なんだから殺人級の重罪にしてもいいとおもうけど。



 主張自体には全面的にうなずける本だったのだが、参照されるデータがちょっと怪しかったのが残念。なんというか、データが恣意的に感じたんだよな。

 いろんなグラフが出てくるんだけど、こっちの国別比較データでは日本がない。こっちのグラフからはアメリカが欠けている。……というように、グラフによって国の数がだいぶ違う。

 事情があるのかもしれないけど、その事情を書いてないので「自分に都合のいい主張に持っていくために具合の悪いデータはわざと排除したのかな」とおもってしまう。これはよくないよー。


【関連記事】

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』

【読書感想文】自由な競争はあたりまえじゃない / ダロン・アセモグル & ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』



 その他の読書感想文はこちら


2024年9月30日月曜日

【読書感想文】浅倉秋成『六人の嘘つきな大学生』 / 白黒つけない誠実さ

六人の嘘つきな大学生

浅倉秋成

内容(e-honより)
IT企業「スピラリンクス」の最終選考に残った波多野祥吾は、他の五人の学生とともに一ヵ月で最高のチームを作り上げるという課題に挑むことに。うまくいけば六人全員に内定が出るはずが、突如「六人の中から内定者を一人選ぶ」ことに最終課題が変更される。内定をかけた議論が進む中、発見された六通の封筒。そこには「●●は人殺し」という告発文が入っていた―六人の「嘘」は何か。伏線の狙撃手が仕掛ける究極の心理戦!


 就活で大人気企業の最終選考に残った六人。みんなそれぞれ優秀でまじめでユーモアもあり人当たりのいいメンバーばかり。

「六人で話し合って内定者を一人選んでください」というテーマでグループディスカッションをおこなうことに。はじめはそれぞれお互いを讃えあっていたが、メンバーの過去を暴露する封筒が見つかったことで様相は一変。状況から考えて封筒を仕掛けたのはこの六人の中の誰か。はたして“犯人”は誰なのか。残りの封筒に書かれているのは何か。そしてこのグループディスカッションを制する者は誰なのか……。


 就活の場を舞台にしたサスペンスミステリ。以前に根本聡一郎『プロパガンダゲーム』の感想でも書いたけど、だましあいゲームの舞台として就活の選考はふさわしい。なぜなら、現実にいろんなゲームをやらされるから。ディスカッション、ロールプレイング、協力ゲーム。そして就活生は言いなりになるしかないから。

 安い漫画だと「さあここにいる皆さんで殺し合いをしてください」みたいに言われてすんなり話が転がり始めるけど、実際にはそううまくいかなくて、硬直状態が続くとおもうんだよね。デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によれば、銃を持っている兵士のほとんどが、自分の身に危険が迫っているときでさえ敵兵に向かって発砲しなかったのだそうだ。人間の「殺したくない」という意識はすごく強いので、急に加害的にはなれないのだ。

 でも就活という舞台があればけっこう変なことでもできちゃう。引っ込み思案な人が自分の美点について朗々と語ったり、温和な人がやたら攻撃的になったり。なぜなら就活生はほとんど狂っているから。狂わないとやってられないから。だって就活自体が異常な場なんだから。


 何も成し遂げていない学生を集めて「あなたは弊社にどんな貢献をできますか?」と尋ねるとか、どう考えてもおかしいじゃん。

 常識的な人間ならそう聞かれても「いやわかりませんよそんなの。まだ働いたことないんですから」「やってみないとわからないですけど、あんまりお力になれないとおもいますよ」とか言うでしょ。

 でも就活では「はい、私には行動力があり、深い洞察力があります。それを裏付けるエピソードとしては……」みたいな自慢が披露される。狂ってるから。

 新卒採用する側の担当者も頭おかしくなっちゃうんだろうね。何百人、何千人も応募してくるから、えらくなったとおもっちゃう。かぐや姫みたいに「私の心を射止めたかったら私の出す無理難題に答えなさい」と高飛車になっちゃう。



 ということで『六人の嘘つきな大学生』は異常な人が異常なことをしでかす小説なんだけど、人を狂わせる場である就活の舞台を用意することでけっこう調和がとれている。

 あー就活のときだったらこれぐらいおかしなことをやっちゃうかもなーって気になる。ぼくも就活をやっていたのでよくわかる。あのときはほんとに追い詰められてて気が変になってたからなあ。

 それにしても、就活って今考えてみても、本当にキモかったよね。え? 思わない? 私、死ぬほど不愉快だったな……。何って、就活の全部が。もちろん状況的に追い込まれてるから少し周囲に対しての目がシビアになっていたのはあると思うけど、でもたぶんそういうことじゃないよ。未だに思い出すと鳥肌が立つし、何ならね、電車で就活生を見かけるだけでもキモいなぁ、って思うよ。悪いけどね、でも、しょうがないでしょ。キモいもんはキモいんだから。
 あれとか最悪だった、ほら、あの、集団面接とか、グループディスカッションが終わった後に声かけてくる人。この後、ちょっとみんなでお茶でも行きましょうよ、ってやつ。死ぬほど気持ち悪かった。「人脈を作るのって大事ですよね。やっぱりこういう情報交換の時間が貴重ですから」って、ガキ同士でつるんで何が生まれるんだよって、本気で思ったよ。吐き気がしたね、本当。ああいう人たちって会社入ってからどんな顔して働いてんだろ。気になるわぁ。

 実際に就職して何年か経つとあの就活時代が異常だったと気づくんだけど、渦中にいるときはわからないんだよなあ。

 ぼくは何度か転職して面接を受けたし採用側として面接したこともあるけど、就職のときのような「我々があなた方を試します」みたいな雰囲気はあんまりなかった。「あなたはこういうことができるんですね。我々はこの条件を提示できます。お互いに納得すれば入社してもらうことにしましょう」という、いたってまともな“条件すりあわせの場”だった。就活だけが異常なんだよな。就活が金になることを発見した採用コンサル会社が一大イベントにしちゃったからかな。

 特に新卒採用やってる人事担当者がおかしくなっちゃうんだよね。

 当時、どうだった? 大げさに言うわけじゃなく、僕は人事っていうのは、会社の中でもエリート中のエリート、選ばれた社員の中の一握り中のたった一握りだけが配属されることを許される部署だと信じて疑わなかったんだよ。今思えば笑い話だけど、だって、そうだと思わない? 就活生を前にした彼らの、あの尊大な態度。そうでもなければ説明がつかないでしょ。入社してからびっくりしたよ、社内での人事部の立ち位置。誰一人として人事部を花形部署だとは認識していなかった、どころか──それ以上、敢えては言わない。でも、こんな無能どもに生殺与奪の権利を握られてたんだって思ったら、いよいよ殺意が湧いてきたよ。人を見極められるわけないのに、しっかりと人を見極められますみたいな傲慢な態度をとり続けてさ。当時、彼らは何を見ているんだろうって必死になって考えた。この間も言ったとおり、漫画の中みたいに画期的で、だけれども揺るぎようのない絶対的な指標があるに違いないって思い込もうとしてたんだ。間違いを犯さない、裏技があるって。
 でもさ、そんなもの、なかったんだ。あるわけがないんだ。
 すごい循環だなと思ったよ。学生はいい会社に入るために噓八百を並べる。一方の人事だって会社の悪い面は説明せずに噓に噓を重ねて学生をほいほい引き寄せる。面接をやるにはやるけど人を見極めることなんてできないから、おかしな学生が平然と内定を獲得していく。会社に潜入することに成功した学生は入社してから企業が噓をついていたことを知って愕然とし、一方で人事も思ったような学生じゃなかったことに愕然とする。今日も明日もこれからも、永遠にこの輪廻は続いていく。噓をついて、噓をつかれて、大きなとりこぼしを生み出し続けていく。そういう社会システム、すべてに、だね。やっぱりものすごく憤ってたんだ。

 そうだよなあ。ぼくがいた会社でも、新卒採用をする人事担当者って、会社の中でも“何をやってもだめな人”だった。営業で成績が出せず、広報でもとにかく問題を起こし、最終的に「新卒採用でもやらせとくか。どうせ最後は役員面接をするんだからあいつがヘマしても大きな問題にはならんからな」みたいな感じで人事に異動させられてた。考えてみれば当然で、仕事のできる人を利益を生まない部署に配置するはずないんだよね。まあ世の中には優秀な新卒採用もいるのかもしれないが、ぼくが見てきた中にはいなかった。


 人はとにかく人を見抜くのが下手らしい。管賀江留郎『冤罪と人類 ~道徳感情はなぜ人を誤らせるのか~』にこんなことが書いてあった。

 何故か根拠なく、自分は人の噓が見抜けるという〈自己欺瞞〉に掛かる者が多くいることが、心理学実験によって判明している。取調官がこういう根拠のない自信を持つと悲劇が生まれることになる。警察官や裁判官などは経験を積むほど自分は噓を見抜く能力があると思うようになるが、現実には素人と能力は変わらず、しかも噓を見抜く能力があると思っているほど逆に成績が下がることが実験によって証明されているのである。

 就活の場ではほとんどの学生が嘘をついている。その嘘を見抜ける人はいない。経験を積んでも嘘を見抜けるようにはならず、それどころか自信の強い人ほど己の自信に目がくらんで嘘を見抜けなくなるらしい。

 結局、優秀な学生を採用するのに必要なのは“運”ということだ。つまり誰がやってもほとんど一緒。当然、優秀な社員にやらせるわけがない。

 就活の選考方法は多種多様なのが「面接やテストなどで学生の資質など見抜けない」ことの何よりの証左だろう。もし本当に効果のある方法があるのなら、どの会社もとっくにそれを取り入れているはずだから。




 就活についての愚痴ばかり書いてしまった。『六人の嘘つきな大学生』の感想。

 うん、おもしろかった。ネタバレになるのであまり書けないけど。

「誰が封筒を置いた犯人なのか、誰が内定を勝ち取るのか」パートもおもしろかったが、選考が終わった段階で物語はまだ半分。後半は、前半に見えていたのとはまた違う景色が見えてくる。

 白に見えたものが黒であったことがわかり、そうかとおもったら意外と白くてうーんやっぱりグレー、みたいな感じ。


『六人の嘘つきな大学生』は起伏の富んだミステリとしても成立させつつ、はっきり白黒つけないという誠実さも持ち合わせている。すごくむずかしいことをしている。この人は悪い人に見えて本当は善人でした、こいつは実は悪人でしたーってやるほうがずっとかんたんだし、ミステリであればそれも許されるわけだし。

 すごく信頼のおける書き手だね。就活に対する醒めた見方も含めて。


【関連記事】

【読書感想文】このジャンルにしてはめずらしく失敗していない / 根本 聡一郎『プロパガンダゲーム』

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』



 その他の読書感想文はこちら