2023年2月3日金曜日

【読書感想文】奥田 英朗『ナオミとカナコ』 / 手に汗握るクライムサスペンス

ナオミとカナコ

奥田 英朗

内容(e-honより)
望まない職場で憂鬱な日々を送るOLの直美は、あるとき、親友の加奈子が夫・達郎から酷い暴力を受けていることを知った。その顔にドス黒い痣を見た直美は義憤に駆られ、達郎を排除する完全犯罪を夢想し始める。「いっそ、二人で殺そうか。あんたの旦那」。やがて計画は現実味を帯び、入念な準備とリハーサルの後、ついに決行の夜を迎えるが…。


この感想は一部ネタバレを含みます。


 百貨店勤務の直美は、学生時代からの親友・加奈子が夫からDVを受けていることを知る。自身の母親もDVを受けていた直美は、仕事で知り合った中国人社長、加奈子の夫に瓜二つの中国人不法滞在者、認知症の老婦人らを利用し、証拠を残さずに加奈子の夫を〝排除〟する計画を加奈子に持ちかける……。


 いやあ、手に汗握るクライムサスペンス小説だった。すばらしいエンタテインメント。

 犯罪小説としては、格別凝ったことはしていない。

 計画を思いつく → 殺す → 証拠が残らないように後始末をする → 追及をかわす → ばれそうになる → 逃げる

 あらすじを書いてしまうと、いたってシンプルだ。


 だが「はたしてうまく殺せるのか」「予期せぬ事態が起こって計画通りにいかないんじゃないか」「うまくごまかせるのか」「ばれそうになってからはうまく逃げられるのか」と、中盤以降はずっと緊張感が漂う。まるで、自分の犯罪がばれそうになるような気分だ。いやぼくには隠してる犯罪なんかないけどさ。マジでマジで。


 特に終盤の、徐々に捜査の手がせまってくるあたりや、追手から逃げるくだりは読むのをとめることができなかった。おかげで夜更かししちまったじゃないか!




 似た作品に、貴志祐介『青の炎』がある。

「自分の人生を守るためには殺すしかない」という状況に追い詰められた主人公が、綿密な計画を練り、殺人を決行する。

 うまくいったかに見えたが、些細なほろこびから疑いを持たれ、やがて捜査の手が伸びてくる……。

『青の炎』の結末がもの悲しくも「これしかない!」って感じだったので、『ナオミとカナコ』も同じような結末を迎えるのだとおもった。

 だが……。

 うーん、そうきたか。これはこれでアリだよなあ。倫理的には良くないのかもしれないけど、おもしろいもんなあ。こういう結末を許せない人もいるだろうけど、ぼくは嫌いじゃない。

 これはやっぱり男女の差かなあ。女主人公が『青の炎』の秀一くんみたいな結末を選ぶのは違和感をおぼえるし、男主人公が『ナオミとカナコ』みたいな道を選んだら読んでいてスッキリしない気がする。なんでだろうな。



 直美と加奈子は共謀して加奈子の夫を殺すのだが、「DV夫から逃れるため」という明確な目的があった加奈子とはちがい、直美のほうには殺人から得られるメリットがまるでない。

 直美をつき動かすのは、「親友がひどい目に遭っているのを許せない」という義憤だけだ。

 そんなことでほとんど会ったこともない人間を殺すかねえ、とおもうが、よくよく考えると案外そんなものなのかもしれない。いざとなったら損得よりも義憤のような感情のほうがずっと強いのかも。

 そういえば桐野夏生『OUT』でも、死体遺棄をおこなうのはまるで利害関係のない人物だった。

 意外と人間は、損得で動かない。



「殺されること」と「殺してしまうこと」はどっちがイヤだろうか?

 そうなってみないとわからないけど、もしかしたらぼくは「殺してしまうこと」のほうがイヤかもしれない。

「誰かに殺されそうになる悪夢」はまったく見たことがないが、「自分が何か悪いことをして捕まりそうになっておびえる悪夢」は何度も見たことがある。心のどこかに「殺してしまうこと」「逮捕されること」へのおびえがあるのだ。ずっと。

 殺されるのも怖いが、殺されたらそれでおしまいだ。その後はどうすることもできないし何も考えられない。でも殺すほうは、殺した後もずっと人生が続くのだ。悔やんだり、怯えたり、追われたり、糾弾されたりしながら。そっちのほうがおそろしい。



『OUT』を読んだときにもおもったが、完全犯罪(殺人)を成功させる上でいちばん大事なのは「死体が見つからないようにすること」だね。

 死体さえ見つからなければ、どんなに怪しくても殺人罪で起訴できない。そもそも大人が行方不明になっても警察はまともに捜査しない。

 そういえば推理小説でも「死体が見つからない事件」ってあんまりないよね。死体がなければ殺人事件にならないからね。アリバイだとかトリックとかより「死体を隠す」がいちばん大事なんだろうね。



 ものすごくおもしろい小説だった。おもしろくてページをスライドする手が止まらない(電子書籍で読んだので)という、近年あまりない読書体験だった。

 小説の登場人物に高い倫理観を求める人からしたら気にくわないだろうけど、そうじゃない人にはおすすめ。


【関連記事】

【読書感想】 貴志 祐介『青の炎』

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



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2023年2月2日木曜日

ツイートまとめ 2022年7月



適性検査

減税シンパ

カル中

服のセンス

誤解を招いた

ろくでもない

揚げ出し豆腐

言い方

政治と科学

デパート

できたて

鎮火

地獄

わんやんあぐだ

このボケ

ショートコント『アンパンマン』

自滅

国葬

2023年2月1日水曜日

【読書感想文】石神 賢介『57歳で婚活したらすごかった』 / ようやるわ

57歳で婚活したらすごかった

石神 賢介

内容(e-honより)
やっぱり結婚したい。57歳で強くそう思った著者は、婚活アプリ、結婚相談所、婚活パーティーを駆使した怒涛の婚活ライフに突入する。その目の前に現れたのは個性豊かな女性たちだった。「クソ老人」と罵倒してくる女性、セクシーな写真を次々送りつける女性、衝撃的な量の食事を奢らせる女性等々。リアルかつコミカルに中高年の婚活を徹底レポートする。切実な人のための超実用的「婚活次の一歩」攻略マニュアル付!


 三十代で離婚、その後婚活をするも成婚にはいたらなかった著者が、還暦手前にして再び結婚したい願望にとらわれ、再び婚活に挑戦したルポルタージュ。


 ぼくからすると「ようやるわ……」という気持ちだ。

 ぼくは十年ほど前に結婚したが、そのときは安堵感を味わった。「やれやれ、これでもう惚れたはれただのモテるモテないだのといった競争からおりることができる」と。

 世の中には恋愛が大好きな人もいるけど、ぼくはどちらかというと嫌いだ。そりゃあ楽しいこともあるけど、つらいことや恥ずかしいことやめんどくさいことのほうがずっと多い。さっさと一人のパートナーを見つけて、その人と長く付き合うほうがいい。そんなわけで、ぼくははじめてできた彼女と八年付き合い、その人と結婚した。そりゃあ目移りすることがないでもなかったけど、それより「めんどくさい」のほうが勝った。

 だから、57歳で婚活なんて聞くと「わざわざそんな試練に我が身を投じなくても……」と、極寒の山中で滝行をする修行僧を見るような目になってしまう。どう考えたって、得られるものより失うもののほうが大きそうだもん。




 婚活アプリで出会った女性の話。

 このメッセージを僕に送ってきたのは、婚活アプリで最初にマッチングしたマリナさんである。アプリに登録した夜に申し込んだ5人の女性のなかで一人だけレスポンスをくれた41歳の女性だ。銀行員で、離婚歴が一度ある。
 彼女にメッセージを送ったのは、顔が好みだったということ。そして、好きな映画が同じだった。(中略)映画の話題で3往復やり取りすると、「会いましょうよ」と言ってくれた。ビギナーズラックだと思った。
 待ち合わせは、表参道駅近く。青山通りから路地を一本入ったビルのカフェレストランだ。実物のマリナさんもきれいな女性だった。かつては地方のテレビ局でレポーターの仕事もしていたという。
 意気投合した、と僕は思った。というのも、LINEのIDを交換し、R&B系の来日アーティストのライヴを観る約束をして帰路に着いたからだ。しかし、僕の大きな勘違いだった。彼女は僕にいい印象を持たなかったのだ。
 約束したライヴの日程が近づき、LINEで連絡をしても、レスポンスがない。高価なチケットを用意していたこともあり、不安になった僕は2度、3度、連絡をした。すると、3度目でようやく、深夜に連絡が来た。
「しつこいです。もう連絡しないでください。無理です」
 しつこかったか? そうとも思えなかったけれど、嫌われたことは間違いない。小心者の僕は即撤退することにした。
「失礼しました。もう連絡はさしあげません」
 と送信して就寝した。
 翌朝起床すると「連絡すんなって書いてあんの読めないのかよ。老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」というメッセージが届いていたのだ。「失礼しました。もう連絡はさしあげません」というわびのLINEすら腹立たしかったらしい。ここまで言うということは、断りたいだけでなく、僕を痛めつけたいということだ。
 食事をしたときに、おそらく無意識のうちになにか僕に失言があったのだろうし、心当たりはない。気分を害するポイントは、世代によっても違いがあるものだ。

 LINEメッセージを一通送っただけで『クソ老人』……。

 まあ一方的な言い分しかわからないからね。ひょっとすると著者がめちゃくちゃ失礼なことを言ったのかもしれないけど。でも、それにしても「老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」ってなあ。

 もしかして、男性を罵ることで快楽を得るタイプの人なのかもしれない。だってほんとに嫌いな相手だったら、そんな長いメッセージを打つよりもブロックするんじゃないかなあ。そっちのほうがずっと早いもん。


 しかし、こんな目に遭っても(ほかにもいろいろひどい目に遭ってる)次々に相手を探せるなんて、著者はタフだ。ぼくだったら、意気投合したとおもった相手から「クソ老人!」と言われたら婚活を諦めて一年以上は落ち込んでしまうような気がする。

 就活でお断りメールを受け取るのですら全人格を否定されたようでけっこうな心的ダメージを食らったのだから、異性から「自分という人間」を次々にお断りされるのは、相当な心痛だろうな。でも、どんな痛みもそうであるように、やっぱり慣れていくんだろうな。慣れるというか麻痺するというか。




 結婚相談所のプロフィール写真について。

 女性の写真はみんな上品だ。しかし、目が慣れてくると、あれっ?と思った。なんとなく違和感を覚える。
 よく見ると、写真の多くは加工されていた。婚活アプリと同じ傾向が見られた。目鼻立ちがくっきり写るように陰影のあるメイクをしたり、しわが目立たないようにソフトフォーカスで撮影されていたり。おそらく画像上でも、頬をシャープにしたり、肌荒れをフラットにしたり、レタッチが施されているのだろう。
(中略)
「実際に会ったら、顔が違っていることもありますか?」
「七掛けくらいまではご容赦いただきたいと……」
 やはり写真は加工されているのだ。
 お見合いの場に別人のような女性が現れたら、チェンジはありですか?」
 またもや思ったことが口をついて出てしまう。
「いけません! 私どもはそういう種類のお店とは違いますので」
 電話の向こうは急に強い口調になった。
「そうですか……。ならば、写真をつくり込んでいるか、見破る方法はありますか?」
「それはご自身のスキルを磨いていただくしかないかと」
「スキルを磨く……」
「はい。あっ、一つポイントを申し上げましょう。モノクロ写真は加工されている前提で見てください」
 コジマさんはきっぱりと言った。


「いちばん写りのいい写真を選ぶ」ぐらいならわかるんだけど、レタッチソフトを使って加工する人の気持ちはわからんなあ。

 加工して実物よりよく見せた写真でお見合いにいたったとしても、どうせ顔を合わせるのだからばれてしまう。だったら会ったときにがっかりさせるより、素顔をさらしてそれでも申し込んでくれる人と出会ったほうがうまくいくんじゃないの? とおもってしまうんだけど。

 どうせすぐにばれるとわかっててもそれでもよく見せたいのが女性という生き物なのか、それともとにかく会うことまでこぎつけないと勝負にならないから五割増し加工でもしたほうが勝率が上がるのか。

 しかし美人局や営業職ならともかく、一生共に過ごしていこうというパートナーを見つけるための場なのに、だましあいから入るのは、なんかちがうんじゃないの? とおもってしまう。それで数十年つきあっていけるのかねえ。


 もうひとつ疑問におもうのが、「高級レストランじゃなきゃイヤ、男性のおごりでなきゃイヤ」って女性が多いらしいこと。

 この感覚、まったく理解できない。自分が食べるものに金かけないからってのもあるけど。

 そりゃあ一回こっきりの相手に食事をおごってもらうんなら高い飯のほうがいいけどさ。でも、結婚相手を選ぶわけでしょ? 贅沢な食事に惜しみなく金を使う男よりも、締めるとこはちゃんと締める経済観念のしっかりした男のほうがよくない? 浪費家と結婚しても苦労するのは自分だよ? 結婚相談所だったら会う前に相手の年収はわかってるわけだから、収入の割に高い店に連れていく男はやめといたほうがいいとおもうけどなあ。

 まあ今の中高年ってバブルを知ってる世代だったりするから「おごってもらってあたりまえ。安い食事に連れていく男は論外」って感覚が染みついちゃってるのかなあ。

 婚活をやってると、結婚後に円満な関係でいることよりも「婚活でちやほやされること」が目標になっちゃうのかもね。

 就活のときもいたよね。「いい会社に入って好ましい仕事をすること」じゃなくて「何社から内定をもらったか」がゴールになっちゃう人が。




 読んでいて感じたのは「この人たちほんとに結婚する気あんのかな?」ってこと。著者も、著者が会った女性たちも。

 この人もダメだった、あの人もダメだった、その人はそこが嫌だった、あの人とはあそこがあわなかった……。と、あれこれ理由をつけては見送っている(フラれてるケースもあるけど)。

 え? もししかして「世界のどこかにいるすべて私の理想通りの相手」を探してる?

 いねーよ! いたとしてもそいつはとっくに他の誰かと結婚してるよ!


 読んでいると、著者は結婚相手を探しているというより、なんとかして結婚しない理由を見つけようとしているようにしか見えない。

 理想通りじゃないのはあたりまえじゃない。まして「57歳で婚活する男」「57歳で婚活する男と会ってくれる女」なんだから、いろいろと問題があるのはあたりまえじゃない。容姿も良くて、高収入で、働き者で、性格が良い人がその市場にいるわけがない。そんなかんたんなこと、誰だってわかる。

 たぶん著者や、著者と会った女の人たちだってわかってる。他人になら「完璧な人なんていないんだからほどほどのところで手を打ったほうがいいよ」と言えるだろう。でも、こと自分のことになると、理想を追い求めてしまう。だから結婚できひんねんで。

 おもうに、婚活の仕組み自体が良くないんだろうね。何千人もの異性の写真やプロフィールを見て、何十人、何百人もの人に会って結婚を前提にした会話をする。そりゃあどうしたって目移りもするし、品定めする目になってしまう。「年収はあの人のほうが上だった」「顔は以前の人のほうが好みだった」「いちばん会話が弾んだのは彼だった」ってな感じで減点してしまうのだろう。


 つくづくおもうに、昔の「親が勧めてきた相手」や「上司の紹介」ってのはそれなりにいい制度だったんだろうな。それだと相手をあれこれ見比べることないから「わざわざ断るほどの理由もないし、まあいいか」ぐらいで手を打てる可能性も高かったのだろう。

『57歳で婚活したらすごかった』を読んでいると、婚活をすればするほど結婚から遠ざかっていくような気がする。だって〝過去の最高点〟がどんどん上がっていくんだもん。長く婚活していれば「もっといい人がいたのに、今さらこんなところで手を打ちたくない」って心境になるだろうし。

 仮に結婚したとしても、たくさんの人と結婚を前提にしたお付き合いをした後だと「やっぱりこの人じゃなくてあっちにしとけばよかったかなあ……」とおもうんじゃないかな。その点、ぼくなんかひとりの女性としかつきあったことないから、そんなふうに迷うこともない。あー、モテなくてよかった!(涙目でガッツポーズ)


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【読書感想文】老人の衰え、日本の衰え / 村上 龍『55歳からのハローライフ』

回転寿司屋でお見合い



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2023年1月31日火曜日

自分の心に正直に

 特急電車とかで、二人掛けの座席ってあるよね。


 あれ、困るんだよね。

 すいているときはいい。両方ともあいている席の、窓際に座る。

 混雑していてすべての席が埋まっている場合もいい。立っとくだけ。迷うことはない。


 問題は、ほどほどに混んでいて「両方ともあいている席はないけど、誰かの隣ならあいている」とき。

 どこに座るか。

 言いかえると、誰の隣に座るか。


 親しい友人でもいれば「おう、ひさしぶり。隣いい?」と隣に座るし、そんなに親しくない間柄なら隣に座ってもお互い気をつかうので気づかないふりをしてあえて避ける。

 でもまあそんな偶然はめったになく、ふつうは全員知らない人だ。


 おじさん、おばさん、おじいさん、若い男、若い女。おばあさんはあまりひとりで電車に乗っていない気がする。

 本音を言えば、若い女性の隣に座りたい。もちろんきれいな人に越したことはない。

 ことわっておくが、エロい気持ちだけが理由ではない(90%はエロい気持ちだが)。

 若い女性はたいてい細い。脚を広げて座ったりもしない。太っていて脚を広げて座るおっさんの隣よりも、どう考えても快適に座れる。

 だから肉体的にも精神的にも若い女性の隣がいい。


 が、ぼくにも見栄がある。

 おっさんがいくつもある座席の中からあえて若い女性の隣に座ったら、当の女性には「なにこのおっさん。いやらしいことするんじゃないでしょうね」とおもわれそうだし、周囲の乗客には「あのおっさん、わざわざ若い女性の隣を選ぶなんてエロいな。気持ちわりい」とおもわれそうだ。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。

 ということで、よほどのことがないかぎり、若い女性の隣には座らない。

 おじさんの隣や、若い兄ちゃんの隣を選ぶ。

 きっとぼくが横にきたおじさんや兄ちゃんは、「ちっ、おっさんかよ。どうせなら若くてきれいな女の人が来てくれたらよかったのに」とおもっているんだろうな。なぜそうおもうかというと、ぼくだったらそうおもうからだ。


 他の乗客を観察してみると、ぼくと同じように若い女性の隣を避ける男性はけっこう多い。

 どうせ電車で隣の席に座ったところで、ロマンスが起こるはずないのだ。だったら余計な気をつかう女性の隣よりも、無害そうなおじさんの隣のほうがいい。


 そんな中、一目散に女性の隣をめざすおじさんもいる。

 うわあ、あのおじさん、女性の隣に行ったよ。嫌がられるのわからないのかな。

 とおもうのだけど、心のどこかでそのおじさんをうらやましいとおもっている自分もいる。あんなふうに自分の心に正直に生きられたらいいな、と。



2023年1月30日月曜日

【読書感想文】パオロ・マッツァリーノ『サラリーマン生態100年史』 / 昔はマナーもへったくれもなかっただけ

サラリーマン生態100年史

ニッポンの社長、社員、職場

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「いまどきの新入社員は…」むかしの人はどう言われていたのか?ビジネスマナーはいつ作られた?忘年会、新年会はいつ生まれた?こころの病はいつからあったのか?いったい、この100年で企業とサラリーマンは本当に変わってきたのか?会社文化を探っていくと、日本人の生態・企業観が見えてくる。土下座の歴史をはじめ、大衆文化を調べ上げてきた著者が描く、誰も掘り下げなかったサラリーマン生態史!


 少し前に堀井憲一郎『愛と狂瀾のメリークリスマス』という、日本におけるクリスマスの歴史について調べた本を読んだ。知っているようで知らないクリスマスの話が盛りだくさんで、おもしろかった。

 戦争とか天災とかイノベーションのような出来事はよく調査されて語られるけど、クリスマスのような「身近すぎるもの」について、まとまった研究をする人は少ない。みんなそこそこ知っているから、わかった気になってしまう。今、自分のまわりに見えるものがすべてだとおもってしまう。

 だから、歴史の改竄(というより認識違い)は、戦争のようなビッグイベントよりも平凡な出来事のほうが意外と起こりやすいのかもしれない。


 で、サラリーマン史である。

 ものすごく身近な存在だ。今ではサラリーマン人口は全労働者の半数以上を占める。ほとんどの人は、サラリーマンであるか、サラリーマンであったか、これからサラリーマンになるか、家族にサラリーマンがいるかだ。

 そんな〝あたりまえ〟のサラリーマンについて、ふつうの人はわざわざ調べようとおもわない。もうだいたい知っているから。それをことさら調べるのがパオロ・マッツァリーノ氏。「歴史のあたりまえ」を疑うのが好きな自称イタリア人だ。




『サラリーマン生態100年史』を読んでいておもうのは、いつの時代も人間のやることはたいして変わらないのだな、ということ。

 戦前も、戦後も、高度経済成長期も、バブル期も、バブル崩壊後も、サラリーマンのやっていることは今と大して変わらない。もちろん仕事の内容や使う道具は変わるが、サラリーマンの生態はそんなに変わらない。

 食うために働き、隙あらばサボり、なんとかして会社の金を自分のものにしようとし、かといって安定を失うほどの大それた悪事はせず、上には文句を言い、下には小言を言っている。いつの時代も同じだ。

 たとえば、新入社員を表した言葉。今どきの新入社員は、教養がない、礼儀がなってない、えらそう、指示を待っているだけ、野心がない……。戦前も、戦後も、今も、言っていることはずっと同じ。いつの世もおじさんにとって若いやつは気に入らない存在であるらしい。こんなやつらで大丈夫かと憂いている。そしてその若いやつらがおじさんになって、また文句を言う。おそらく何万年もくりかえされてきた営みだ。

 もしもおじさんたちが口をそろえて「今どきの新入社員たちは立派だ! 安心して仕事を任せられる!」と言いだしたら、そのときはほんとに社会があぶないかもしれない。




 昔の満員電車はひどかった、という話。テレビでも昔の通勤風景を見たことがあるけど、そりゃあひどいものだった。今の満員電車の比じゃない。

 なにしろ『サラリーマン生態100年史』によれば、ほぼ毎日電車の窓が割れてけが人が出ていたとか、靴が脱げて行方不明になる人が多かったから駅ではサンダルの貸し出しサービスをして毎日利用者がいたとか、乗客が多すぎるときは車掌の判断で駅を飛ばしていたので駅によっては何十分も電車が止まらなかったとか、今では想像もつかないような話が出てくる。

 きっと死者だっていたんじゃないかなあ。おそるべし昭和。

 いま書店のビジネス書売り場では、「通勤電車で学べる○○」みたいな本がたくさん並んでます。その手の本が増えたのも八〇年代後半からでした。それ以前はほとんどありませんでした。というのは、あまりに電車が混んでいて本も読めない状態だったから。混雑が解消されたことで、化粧をしたり本を読んで勉強したりする余裕ができたのです。
 テレビでおなじみの脳科学者は、電車で化粧をするのは若者の前頭葉が退化したせいだなどと決めつけてましたけど、完全にまちがい。電車で化粧する女性がいることは、大正時代から昭和初期にかけても問題になっていました。それが戦後高度成長期に消えたのは、電車がむちゃくちゃ混んでただけのこと。日本女性の道徳心も脳機能も戦前に比べて低下などしてません。根拠もなく非科学的なウソを広める科学者にこそ、脳機能の精密検査をおすすめします。
 一九六〇年代には、通勤電車の混雑率が三〇〇パーセントを超えていました。新聞雑誌に、圧死アワー、酷電、痛勤、家畜車など、通勤地獄を描写するさまざまな表現が登場したのもこのころです。

 なるほどね。昔の人はマナーが良かったのではなく、電車が混みすぎてたから「電車で化粧をするOL」も「足を広げて座るおじさん」も存在できなかっただけ。そりゃそうだ。混雑率300%の電車でマナーもへったくれもない。




 ぼくは音痴なのでカラオケが大嫌いで、以前会社の宴会の後の二次会でむりやりカラオケにつれていかれてずいぶん嫌な思いをした。

 そんなわけでカラオケに対しては憎しみに近い感情を持っていたのだが、昔の宴会のことを知ってちょっとカラオケに対する印象が変わった。

 批判の声もあったものの、カラオケの登場によって無芸のサラリーマンが救われたのも事実です。カラオケはシロウトが歌いやすいようにキーなどを調整してあるので、多少のヘタはカバーしてくれます。ヘタでもとりあえず一曲歌っておけば、場をシラケさせることもありません。OLさんも以前のようなセクハラ宴会芸に悩まされることはありません(デュエットの強要をセクハラと見るかは議論がわかれますが)。

 カラオケ以前の宴会では、かくし芸や長唄や小唄など、一芸を披露させられることが多かったのだ。歌も、カラオケセットがないってことはアカペラで。

 うひゃあ。素人のへたな歌をアカペラで。歌わされるほうも地獄なら、聞かされるほうも地獄。

 いやあ、カラオケがあってよかったー。ま、宴会が悪いというより昔のパワハラ体質が悪いんだけど。




 戦前の出張について。

 ラクなのは視察が目的の出張で、これは報告書さえきちんと書けばいい。でも、なにかを売ってこい、買ってこいと命じられると、結果を出さねばならないのでなまやさしいことではない、とまあ、これはいまでもうなずける話。しかし、女工や鉱夫など、人を集めてこいって課題がもっともむずかしいというくだりは、ネットで求人できてしまう現在ではあまり聞かないかもしれません。
 人跡未踏の開墾地に行き、不景気で困っている百姓に声をかけたり、鉄道工事が終わったばかりの現場に駆けつけ、仕事が一段落した朝鮮人の人夫をもらい受けて炭鉱の鉱夫として連れて行くなんてのは、「その仕事のいわゆる下品なことお話に相成らぬ」とこぼします。大学を出て就職したのに、人買いみたいなまねをしなくちゃならないのは沽券に関わるとでもいいたいようで、露骨に差別的ではありますが、大量の肉体労働者を必要とした炭鉱が基幹産業だった時代ならではのサラリーマン物語。

 うわあ。こんなことまでしてたのか。「人買いみたいなまね」っていうか人買いそのものじゃねえか。

 まあそりゃそうだよな。求人サイトどころか求人誌もない時代だもんな。大量に人を採用しようとおもったら、人が集まるところに行って声をかけるのがいちばんだよな。

 でもこういう採用活動が成り立っていたってことは、当時は「誰にでもできる仕事」がたくさんあったってことだよね。だって外見以外何にもわからない人に声かけるわけだもんね。「力がありそう」とか「金に困ってそう」ぐらいしかわかんないもんね。

 一部の人以外は就活だとか自己分析とか面接想定問答とか無縁の時代だったんだろうな。ある意味、いい時代だったのかもしれない。とはいえそうやって就いた仕事がめちゃくちゃひどい労働環境だったりもしたんだろうけど。




 さっきも書いたけど、サラリーマンなんて、いや人間なんて、百年たっても中身はぜんぜん変わらないのだとわかる。行動原理も思考方法もたいして変わらない。

 でもまあ、あからさまな差別だとか、セクハラだとかパワハラだとか無意味な上下関係だとかはちょっとずつではあるけど減ってきているわけで、長期的には良くなっていってるなと感じる。

 怪我するぐらいの満員電車に詰めこまれて、接待や麻雀に遅くまでつきあわされて、宴会で一芸を披露しなくちゃならない昭和の時代にサラリーマンをやってなくてほんとによかった。精神を病んでいたとおもう。

 あ、この本によると精神を病んでいたサラリーマンは昭和時代も戦前もいっぱいいたそうだ。そりゃそうだ。「昔はこれがあたりまえだった。今の若いやつは甘えてる」なんて戯言を信じちゃいけません。昔だっていっぱい精神を病んで、いっぱい自殺してるんです。たまたま生き残ったやつがえらそうにしてるだけで。

 

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