2022年7月22日金曜日

【読書感想文】久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』 / 求む、ドクター・キリコ

日本人の死に時

そんなに長生きしたいですか

久坂部 羊

内容(e-honより)
何歳まで生きれば“ほどほどに”生きたことになるのか?長寿をもてはやし抗加齢に踊る一方で、日本人は平均で男6.1年、女7.6年間の寝たきり生活を送る。多くの人にとって長生きは苦しい。人の寿命は不公平である。だが「寿命を大切に生きる」ことは単なる長寿とはちがうはずだ。どうすれば満足な死を得られるか。元気なうちにさがしておく「死ぬのにうってつけの時」とは何か。数々の老人の死を看取ってきた現役医師による“死に時”のすすめ。


 ぼくが子どもの頃(1990年代)は、まだまだ長寿はめでたいことだった。百歳の双子・きんさんぎんさんが国民的スターとなってテレビでもてはやされていて、百歳は素直に「いいねえ」と言われることだった。

 当時にも介護などの問題はあった。有吉佐和子の『恍惚の人』が刊行されて認知症が話題になったのが1972年のことである(ちなみに2004年に「認知症」という名称がつけられるまでは「痴呆症」あるいは「ボケ」と呼ばれていた。ぜんぜん悪意なく使っていたのだが、今考えるととんでもない呼び方だよなあ)。とはいえ介護はおおむね家庭の問題であった。「このままじゃ老人が増えて働き手が減って社会が立ちいかなくなるぞ」とは言われていたが、切迫した問題として真剣に憂慮している人は多数派ではなかった。

 その後、日本は1994年に65歳以上の人口が14%を超える高齢社会となり、2007年には21%を超える超高齢社会となった。低成長、国際的競争力の低下、増える税金や社会保険料、国家財政の悪化。多くの問題は「高齢者が多いこと」に起因している。




 祖父母の話。

 ぼくの祖父母は仲が良かった。経済的に余裕もあったので、半年に一度ふたりで海外旅行に出かけていた。

 やがて祖父が亡くなった。享年八十四歳。具合が悪くなって病院に行き、がんが見つかって通院。それでもプールに通ったりするほど元気だった。症状が悪化したので入院して、二週間ほどで息を引き取った。年齢も年齢だし、そう悪い最期ではなかったとおもう。親戚だけで葬儀をおこなったが、残された子や孫たちも「まあ天寿をまっとうできたんだから幸せな人生だったよね」という感じでしんみりしていないお葬式だった。

 だが祖母にとってはショックだったらしい。その後ずいぶん落ち込み、娘に対して「私も一緒に逝きたい」などと漏らすようになった。そして半年後、認知症を発症した。夫を亡くして気落ちしたことや、ひとり暮らしになって会話が減ったことなども原因かもしれない。

 祖母は、遠く離れた長男(つまりぼくの伯父)のところで暮らすことになった。それはもう大変だったらしい。介護をしている長男夫婦をなじったり、暴れたり。ものをなくし、長男夫婦に盗まれたとふれまわる。身体は元気だったので徘徊して迷子になる。ぼくにもよく電話がかかってきた。自分からかけてきたのに「誰?」などと言っていた。孫のことも忘れかけていた。

 それから十数年。祖母はまだ存命だ。九十八歳。孫のことはおろか、子どものことも忘れているらしい。こないだ倒れて意識を失ったが、病院で手当てを受けて一命をとりとめたらしい。

 その話を聞いてぼくはおもった。「死なせてやればよかったのに」と。

 ことわっておくが、ぼくはおばあちゃんが好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。祖母がぼくのことを記憶から失った時点で、ぼくにとっても祖母は過去の人になった。孫や子の存在を忘れ、周囲の人を泥棒呼ばわりする人はぼくの好きだったおばあちゃんではない。


 祖父母の死は対照的だ。まだ元気に動きまわれるときに癌になり、あっという間に亡くなった祖父。認知症になり、家族の記憶も優しい心も忘れた状態で二十年近く生きている祖母。長生きしているのは祖母のほうだが、どっちが幸せな晩年かといわれたら比べるまでもない。

 ぼくもすっかりおっさんになって、認知症も他人事ではなくなった。友人からも、認知症の祖母の介護に苦しんだという話を聞く。

 そうした話を聞くたびに、つくづくおもう。長生きなんてするもんじゃない、と。




『日本人の死に時』では、医師として終末医療に携わっている著者が見た残酷な現実が書かれている。

 脳梗塞で意識を失った八十代の患者。入院後、胃ろう(チューブで直接胃に栄養を送りこむ措置)をつけられたが意識は失ったまま。娘たちが自宅で介護をしたものの褥瘡ができ、手足の関節も曲がったまま固まり、髪の毛も抜け落ち、意識が戻らないまま八ヶ月が経ち、亡くなった。

 かけがえのない母親ですから、必死で看病するのは当然でしょう。しかし、私は診察に通いながら、痛ましい気持でいっぱいでした。胃ろうなどつけなかったら、もっと早く楽に逝けたのに……。でも、もちろんそんなことは口には出せません。
 むかしはものが食べられなくなれば、自然に静かに死んでいました。今は鼻からチューブを入れたり、胃ろうを作ったりしてさまざまな栄養剤を与えます。消化吸収ができなくなれば、点滴や高カロリー輸液で補います。
 食事だけではありません。呼吸も、循環も、排泄も、あらゆる生理機能が人工的に補助されるようになって、人間はなかなか自然に死ねないようになってしまいました。長生きへの欲望を無批判に肯定したため、命を延ばす手だてだけが飛躍的に増えてしまったのです。命はただ延ばせばいいというものではありません。どんなふうに延ばすかが問題なのに、医学はその視点をあまり重視してこなかった。

 結果論ではあるけれど、意識が戻らないまま八ヶ月看病を続けてそのまま亡くなるのであれば、「あのとき胃ろう処置をせずに逝かせてあげればよかったのでは」とおもうのではないだろうか。意識不明状態で八ヶ月活かされた当人も、意識のない人の介護を続けた娘たちも、どちらにとっても不幸な延命処置だとしかおもえない。


 著者は、多くの高齢者が「早く死にたい」とこぼすのを聞いている。身体の不調で痛く苦しい日々を送り、今後悪くなることはあっても良くなる見込みはない。けれど自ら命を絶つことはしたくない。

 本人は長く生きたくない。親身に看護・介護をしている家族も口には出さなくても「早く解放されたい」と願う。寝たきり生活がなくなれば医療費も抑えられる。長生きしないことは三方良しにおもえるが、たいてい口を挟むのは無関係な人だ。

 病院嫌いで本人が入院を望んでいなかったのに、半ば無理やり入院させられてしまった男性の話。

「病院へ行くと、すぐレントゲンを撮って、血の検査やら点滴やらがはじまりました。わたしは主人の苦しみを取ってほしいだけだったのに、こちらの希望は聞いてもらえませんでした。人工呼吸器だけはつけずにしてもらいましたが、酸素マスクはさせられました。主人はそれをいやがり、何度も自分で取るんですが、先生に叱られるのでわたしが無理やりつけなおして……」
 入院したかぎりは、病院側も治療をせざるを得ないのでしょう。苦しみだけ取って、あとは何もしないでというわがままは通してもらえないのです。良成さんはステロイドや抗生物質を投与され、強心剤の点滴もされて、死ぬに死ねない状態で二週間を過ごしたのでした。
 途中で意識がはっきりしたとき、良成さんは「帰る」と叫んで暴れたそうです。奥さんは連れて帰りたかったのですが、親戚が反対した。死にかけているのに、家に帰るなんて無謀だ、どうして最後まで治療をしないんだ。親戚に強くそう言われると、奥さんひとりではどうしようもなかったそうです。ふだん病気から遠いところにいて、現実を知らない人の善意は、なんと怖いものでしょう。

 当事者でない人は「かわいそうじゃないか」「まだ生きられる人を見捨てる気か」と口にする。言うだけならタダだから。金を出し、時間を割き、二十四時間体制で介護をするのは自分じゃないから。

 長く入院してもらえれば病院は儲かる。寝たきりで後は死ぬのを待つばかりの患者なんて、病院からしたらいいお客さんだろう。チューブにつないでおくだけで治療らしい治療はしなくていいし、もともと死ぬ間際なのだから死んだからといって病院が責められることもない。国からがっぽがっぽお金が入ってくる。

 多くの高齢者が、長生きをしているというより「長く生かされている」状況だ。




 もちろん、健康で楽しく長生きできるのであればすばらしい。だが現実には多くの長生きが幸福に結びついていない。

 現在、日本の健康寿命は、男性が七二・三歳、女性が七七・七歳。平均寿命は、男性が七八・四歳、女性が八五・三歳です(「世界保健報告」二○○三年)。その差、すなわち男性で六・一年、女性で七・六年が、介護を要する期間となります。-平均寿命と健康寿命の差を短くすれば、介護の需要は減るわけです。そのためにはどうすればいいか。
 平均寿命が延びたのは、医療のおかげであるのはまちがいないでしょう。しかし、医療は健康寿命は延ばしません。健康な人は病院へは行かないのですから。
 病院へ行って、無理に命を延ばすから、平均寿命が延びる。だから健康寿命との差が広がり、介護の需要が高まる。医療が延ばす命は、点滴やチューブ栄養、人工呼吸やさまざまな薬剤によるものです。そうやって延ばされた命は、決してよいものではありません(私が言っているのは、健康な時間を十分に過ごしたあと、老いて身体が弱った人の話です。若くして事故や難病に倒れ、医療の支えで生きている人はもちろん別です)。
 老いて身体の不具合が出てから、無理やり命を延ばされても、本人も苦しいだけでしょう。そこで私は、ある年齢以上の人には病院へ行かないという選択肢を、提案しようと思います。

 こういう提案を医師が提案するのは、たいへん勇気がいるとおもう。世の中には「医者は患者を少しでも長生きさせるものだ」とおもっている人がいる。きっと非難も浴びただろう(この本の刊行は2007年)。それでも、きれいごとでお茶を濁さずに長生きの悪い面をきちんと書いたことを称えたい。

 著者は「現代人は生きすぎなんじゃないか」と言う。ぼくもそうおもう。同じようにおもっている人は多いだろう。寝たきり老人が増えて得をするのは病院や介護施設の経営者ぐらいだろう。でもみんな「もっと早く死んだほうがいい」とは大っぴらには言わない。「高齢者にも安心して暮らせる国づくりを」ときれいごとを口にするばかりだ。

 死にたいのに死ねない人も、その家族も、介護をする人もみんな困っているのに外野が無責任に「尊い命を見捨ててはいけない」と言うせいで事態は改善しない。夫婦別姓や同性婚の問題と同じだ。困っている当事者がなんとかしてほしいと願っていても、まったく無関係な人間の「昔からのやり方を変えたくない」で潰されてしまう。




 延命治療はしたっていいけど、保険適用外にしたらいいのにね。やりたい人は自腹でやればいい。家族も「だったらやめます」と言いやすくなるし、病院だって無理な延命を勧めなくなるだろう。

 出産費用が保険適用外なのに、百歳の延命治療が保険適用なのは意味わからない。今は高齢者ほど自己負担比率が低いけど、逆にすべきだとおもうんだよね。若い人ほど負担を減らしてあげなきゃだめでしょうよ。

 医者の仕事は「健康にすること」であって「不健康な状態を長引かせること」じゃないとおもうんだけどね。


 漫画『ブラック・ジャック』にドクター・キリコという医師が出てくる。 「死神の化身」と呼ばれ、患者の求めに応じて安楽死させる悪役として描かれる。ぼくも子どもの頃は悪い奴だとおもっていたけど、今にしておもうとなんてすばらしい医者なんだろうとおもう。

 ドクター・キリコはむやみに殺すわけではない。治る見込みがなく、苦しんでいる患者で、かつ当人や家族の依頼を受けた場合だけだ。若い自殺志願者の安楽死は拒否するし、誤って毒を飲んでしまった人は緊急手術をおこなって助ける。助けた後は「命が助かるにこしたことはないさ」とつぶやく。彼は情がないから安楽死をさせるのではなく、逆に苦しむ患者を救うために安楽死という手段をとるのだ。その証拠に実父が難病に冒されたときにもやはり安楽死させようとするし、さらには自らが謎の菌に感染した際には菌の拡散を防ぐために無人島に己を隔離して安楽死しようとする。

 いやほんと、すばらしい医者だよ。金さえもらえればどんなやつでも(たとえその後死刑になることがほぼ確定している犯罪者でも)助けるブラック・ジャックよりよっぽど人道的だとおもう。

 今の時代に必要なのは、ドクター・キリコのような医者かもしれない。




 早いうちに自分の寿命を決めたらいいと著者は提唱する。七十九歳の人が「八十まで生きたら生にしがみつくのはやめよう」とおもってもむずかしいだろう。だが六十歳の人なら心の準備ができる。四十歳ならもっと。

 だからぼくも、自分の終わりを七十歳ぐらいに決めたいとおもう。それぐらいになったら孫もそこそこ大きくなっているだろう(順調にいけば)。孫に「近しい人の死」を身をもって教えるのが最期の大仕事だとおもっている。

 もっとも七十歳になってしまったら自殺するということではない。内臓の検査や治療をやめて、人生の店じまいの準備をすすめていきたいと考えている。

 まあじっさいその年齢になったら意地汚く生きることにしがみついてしまうのかもしれないけど。


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2022年7月21日木曜日

書かないことのむずかしさ

 このブログには特にテーマを決めず、書きたいことを好きに書くようにしているのだけれど、なるべく書かないようにしていることもある。

 それは、時事ネタ、特にいわゆる〝炎上案件〟だ。


 このブログの最優先読者は、まぎれもなく自分だ。自分が後日読んだときにおもしろいとおもってもらうために書いている。

 そのとき旬なテーマは後になると意味がわかりにくくなるし、特に炎上案件のように爆発的に注目度の上がったネタは冷めて忘れられるのも早いから後日読んでもつまらない。


 それよりなにより「炎上案件に首をつっこむのはみっともない」という意識がある。

 といっても今まで何度か首をつっこんだことはあるが、それは一応自分も当事者の端くれであったり、あるいはこの分野に関しては他人より深い前提知識を持っているはずという自負があったりする場合にかぎっている。

 やっぱりほら、みっともないじゃん。〝野次馬根性〟ってめちゃくちゃ醜悪じゃない。

 たとえば誰かが危険運転をしたときに、被害者自身とか、加害者を以前から知る人物だとか、道交法の研究者とかがあれこれ語るのはまあわかる。でも、YouTubeにアップされたドラレコの映像を見て「これは許せん!」とおもっただけの人は、不純物ゼロ、美しいほどの野次馬じゃない。

 いや、わかるのよ。野次馬が石を投げたくなる気持ちも。ぼくだって本心はそうだし。人間は社会的動物だから不正をはたらいて社会のメンバーに迷惑をかけるやつは迫害したくなる。そうやって攻撃的なやつやずるいやつを追いだして、社会秩序を維持してきた。だから炎上案件に首をつっこんで遠くから石を投げたくなるのは本能的なものなんだとおもう。

 でも、だからこそみっともないわけで。

 飯をがっついているところやセックスをしているところやウンコをきばったり惰眠をむさぼったりしている姿が本能に忠実であればあるほどみっともないのと同じで。そこを開陳してしまったら、もうえらそうな顔をできないじゃない。べつにえらそうにしなくたっていいんだけど。


 ま、これはあくまでぼくの個人的美学だ。

 首をつっこみたい人はつっこめばいいし、ただぼくは首をつっこみたくないというだけだ。

 だからこの問題についてひとこと言いたい、とおもったとしても自らブレーキをかけて書かないことにしている。


 問題は「書くのをやめたこと」は他人に伝わらないことだ。

 書いたことは他人に伝わるが、書かなかったことは他人には伝わらない。

 炎上案件についておもうところはあるし、それを文章化することもできるんだけど、あえて書かない。そこは伝わらない。

 ぼくとしては、人並みあるいは人一倍承認欲求があるわけだから「まあこの人は野次馬たちが集まっている下品な話題に首をつっこまないのね。やはりそのへんの凡百な連中とはちがうわ。なんて分別のある人なの」とおもってもらいたい。あわよくば賞賛されたい。

 でも、書かないから伝わらない。「私はこの問題について書きたいことがあるんだけど半端な知識でいっちょかみするのは下品なので、あえて首をつっこみませんでした」と書いてしまったら、それはもう首をつっこんだことになってしまうから、書けない。野次馬にはなりたくないが、野次馬でなければ他人から認識されない。野次馬のジレンマだ。


 こういうのはどうだろう。ぼくがある問題について書くのをやめ、ぼくが自作自演した別アカウントが「犬犬工作所はこの問題については沈黙を貫いている。なんと立派な姿勢だろう」と賞賛する。

 うむ、これがいちばんみっともないな!


2022年7月20日水曜日

【読書感想文】吉田 修一『犯罪小説集』 / 善良な市民による凶悪犯罪

犯罪小説集

吉田 修一

内容(e-honより)
田園に続く一本道が分かれるY字路で、1人の少女が消息を絶った。犯人は不明のまま10年の時が過ぎ、少女の祖父の五郎や直前まで一緒にいた紡は罪悪感を抱えたままだった。だが、当初から疑われていた無職の男・豪士の存在が関係者たちを徐々に狂わせていく…。(「青田Y字路」)痴情、ギャンブル、過疎の閉鎖空間、豪奢な生活…幸せな生活を願う人々が陥穽にはまった瞬間の叫びとは?人間の真実を炙り出す小説集。

 犯罪に巻き込まれた(あるいは引き起こした)人たちを描いた短篇集。

 いやあ、こういう嫌な気持ちにさせる小説を書かせたら吉田修一氏の右に出る人はそうそういないね。『元職員』も『パレード』も『怒り』も、じんわりと嫌な気持ちにさせられた。

『犯罪小説集』は、どこにでもいるような我々の隣人が、ある瞬間に〝犯罪者〟側に足を踏み入れてしまう様子を丁寧に描いている。フィクションとはおもえないほどの生々しさだ。




 下校途中に行方不明になり、遺体で見つかった少女。その地域の数十年後を描く『青田Y字路』

 目立たなかったかつての同級生が殺人事件を起こしたことを知り、専業主婦が彼女の気持ちに近づいてゆく『曼珠姫午睡』 

 大企業の経営者の子息として生まれ育った男がカジノにはまり、身の破滅へと沈んでゆく『百家楽餓鬼』

 限界集落でのちょっとしたいきちがいから村八分にされてしまった男が連続殺人事件を引き起こす『万屋善次郎』

 かつてのスタープロ野球選手が派手な生活を改められず、借金をくりかえしてやがては殺人事件を引き起こす『白球白蛇伝』


 どれも、モデルとなった事件がありそうだ。大企業の御曹司がカジノで会社の金を溶かしてしまう事件とか、限界集落での連続殺人とか、元プロ野球選手の殺人事件とかは、明確に「ああ、あの事件をモデルにしてるんだな」とわかる。

 いろんな犯罪者が出てくるが、みんな根っからの悪人ではない。たとえば『百家楽餓鬼』の主人公は、カジノで散在する一方で、仕事には熱心に取り組み、休みの日には妻と難民キャンプに訪れてボランティア活動に勤しんでいる。そして心からボランティアに歓びを感じている。

『白球白蛇伝』で描かれる元プロ野球選手も決して悪い人間ではない。家族の期待に応えるためプロ野球選手になり、家族の期待に応えるために引退後も華やかな生活を続けている。友人や後輩との付き合いを大事にし、自分の財布が苦しくてもおごってやる。稼ぎさえ伴っていればいい先輩だ。それを「身のほど知らず」「見栄っ張り」と切り捨てることはたやすいが、誰の心にも彼と重なる部分があるだろう。

 彼は、知り合いの中小企業の社長に借金を断られて撲殺してしまう。冷静な犯罪者であればもっと金持ちを狙い、もっと計画的に殺すだろう。だが彼は「その人を殺してもどうにもならないだろ」と言いたくなる相手を殺す。いかに追い詰められていたか。


 この小説に登場する犯罪者たちとそうでない人を分けるのは決定的な資質の違いではない。ほんのわずかなボタンのかけちがいで、平穏な生活を続ける人も向こう側へ行ってしまう。

 河合 幹雄『日本の殺人』によると、殺人事件の多くは家族間で起きていて、さらに「虐げられている側が強い側を殺す」ことが多いそうだ。まあそうだよね。強い側には殺す理由がないもんね。

 大きなニュースになったりフィクションで描かれるのは「快楽殺人」「金銭目的の殺人」「復讐のための殺人」なんかだけど、じっさいはそんなのは圧倒的少数で、ほとんどは「追い詰められた人がその状況から逃れるために殺してしまう」なのだそうだ。でもそれだと「なんてひどい犯人だ! 死刑にしろ!」というエンタテインメントにならないので、ニュースで取り上げられるのはひどい犯人ばかりだ。

 ふつうの性格のふつうの生活を送っている善良な市民が、些細なきっかけで犯罪に手を染めてしまいます。状況が変われば、殺人犯になっていたのは私やあなただったかもしれません。そんな正しい話はみんな聞きたくないんだよね。




「犯罪者に襲われる恐怖」と「自分が犯罪者になる恐怖」ってどっちが強いだろうか?

 ぼくは圧倒的に後者のほうだ(成人男性だかってのもあるだろうけど)。犯罪をして追われる夢もたまに見る。

 人によっては「自分は、犯罪被害に遭うことはあっても加害者にはぜったいにならない」と信じている人もいるとおもう。そう信じられる人は幸せだ。犯罪者に平気で石を投げつけられるだろう。

 でもぼくは犯罪をする側の気持ちもちょっとわかってしまう。ちょっとしたきっかけで自分もあっち側に行っていたかもしれない。彼らと自分がそんなに違う人間じゃないことも知っている。

 その自覚こそが、ぼくが(今のところ)犯罪者になっていない理由だ。


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2022年7月19日火曜日

【読書感想文】上原 善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』 / 攻撃的な変人

一投に賭ける

溝口和洋、最後の無頼派アスリート

上原 善広

内容(e-honより)
全身やり投げ男―1989年、当時の世界記録からたった6センチ足らずにまで迫り、WGPシリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位となった不世出のアスリート・溝口和洋。無頼な伝説にも事欠かず、まさにスターであった。しかし、人気も体力も絶頂期にあったはずにもかかわらず、90年からは国内外の試合にほぼ出なくなり、伝説だけが残った。18年以上の取材による執念が生んだ、異例の一人称ノンフィクション!ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作!(2016年度)。


 評伝かとおもって読みはじめたら「私が~」という文章が続くので戸惑ってしまった。なんだこれ、自伝なのか? だとしたら著者名と扱っている人物の名が異なるのはなぜだ?

 あとがきまで読んで、ようやくわかった。著者が二十年近く溝口和洋氏にインタビューしてその選手人生について書いたのだが、あえて一人称を使ったらしい。それならそれで最初に説明してくれよ。だいぶ戸惑ったぞ。




 ぼくは陸上競技にぜんぜん興味がないので、溝口和洋という人のことはまったく知らなかったのだが、いろんな意味ですごい人だ。

 まず、身長180cmという(世界で闘うやり投げ選手としては)小柄な肉体ながら、圧倒的に身体の大きい人が有利なやり投げで世界トップクラスの成績を残す。(再計測により無効となったが)世界新記録もたたき出している。彼の持つ87m60という日本記録は、30年以上たった今でも破られていない。若き日の室伏広治にハンマー投げの指導をした人物でもある。

 だが彼のすごさは、その記録よりもむしろ生き様にある。

 指導者はおらずほぼ独学のみで、尋常でないトレーニングを重ね、たった一人で世界の舞台で闘いつづけた。さらに、酒を飲み、本番前にもタバコを吸い、女遊びもする。他の選手や陸上協会に対しても堂々と批判し、マスコミ嫌いで気に入らない記事を書いた記者は捕まえて暴行をくわえる。引退後はパチプロとして生活をし、後に実家に帰って農家になる。

 まさに「無頼派」という言葉がぴったりだ。

 ぼくは小中学生のときに近藤唯之さんという人の本で昔(昭和)のプロ野球選手の逸話をよく読んだが、昭和のプロ野球選手の生活に近いかもしれない。昔のプロ野球選手にも「銀座のクラブで豪遊した」「夜通し飲んで、徹夜明けで出た試合でホームランを打った」なんて逸話が残っている。だが、彼らは無頼派とは異なる。そういう時代だったからやっていただけで、周囲が夜遊びをしていなければやらなかっただろう。

 だが溝口和洋は、あくまで我が道をゆく人だ。

 タバコも一日二箱は吸っていた。タバコはリラックスするために吸うので、「試合の前には必ず二、三本は吸っていた。
 代々木の国立競技場でも、できるだけ目立たないように外に出て限で吸っていたつもりだったが、見つかって「ミゾグチはタバコを吸っている」と非難されたこともある。これもまた、言いたい奴には勝手に言わせておけばいいと放っておいた。
 タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。
 また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。一生健康でいたいのなら、やり投げをやめた方がよほど健康的だ。練習中は集中が途切れるので吸わないが、試合前の一服は不可欠だ。
 陸上関係者やマスコミは、こうした私のことを「無頼」とか「規格外だ」とか言っていたが、やり投げ以外のことを、私の事情を知らない他人にとやかく「言われる筋合いはない。逆に「今に見てろ」と、闘争心をかきたてられた。

 タバコを吸うのはトレーニング……。すごい理屈だ。めちゃくちゃだが「どう考えてもやり投げの方が体に悪い」は笑った。はっはっは、たしかにその通りだ。そういえば大学時代の運動科学の先生も「体にいい運動は散歩程度で、あとは全部体に悪い」って言ってたなあ。

 そうだよなあ。趣味でやるレベルならともかく、部活やプロ選手がやるスポーツはほぼ例外なく不健康だよなあ。身体的にも精神的にも。苦しくなるまで身体を痛めつけるって、冷静に考えたらかなりの異常行動だ。ケガもするし。スポーツは体に良いとおもってしまいがちなので、気をつけねばならない。




 溝口氏がすごいのは、徹底的に考えたことだ。外国人選手に比べて小柄な身体というハンデを乗り越えるためにひたすら考え、疑った。

 まず「やり投げ」という競技について、一から根本的に考えてみた。
 これはそもそも「やり投げ」と考えるからよくないのではないか。「やり投げ」と考えるだけで、例えばこれまでのトップ選手のフォームが脳に焼きついてしまっているので、偏見から抜けきらない。「そこで私が考えたのは、「全長二・六m、重さ八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ということだ。
 こう考えれば、それまでの「やり投げ」という偏見を取り除くことができる。
 私がやるべきことは結局、「やり投げのフォーム」を極めることではない。「やり投げという競技」を極めることにあるのだ。
 具体的には「二・六m、八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ことができれば、世界記録を出し、オリンピックでも金メダルを狙えるところまでいけるのだ。そうして初めて「やり投げ」を極めることができる。

 言われてみれば当然のことのようにおもえるが、なかなかできることではない。スポーツの練習というのは基本的に形から入る。上手な人のフォームを真似るところから始まる。その時点ですでに先入観にとらわれている。

 溝口選手は、あらゆるものを疑い、フラットな状態から見つめなおした。

 こうした技術面での新発見に、コツというものがあるとしたら、これまでの常識を全て疑い、一からヒトの動作を考えることだ。
 短距離だったら、まずスタートから疑ってかかる。現在はオーソドックスとなっているクラウチング・スタートも、本当にそれが正しいのか、一から検証していくのだ。
 例えば、ヒトはなぜ「後ろ向きで走ると遅くなる」と思うのだろうか。わかっていても、その本当の理由を答えられる人は少ないだろう。もしかしたら、後ろ向きで走る方が速いかもしれないのに、誰も試そうとはしない。私は実際に、後ろ向きに走って確かめた。

 ここまで疑うのか……。

 たしかに「後ろ向きに走るよりも前向きに走ったほうが速いのはあたりまえ」とおもっているが、じっさいに確かめたことはない。障害物のない平地で、周囲に人がいない状況で、練習を重ねたら、ひょっとすると前向きで走るよりも速くなるかもしれない。やったことがないのだからぜったいにないとは言い切れない。

 走り高跳びがオリンピック種目になったのは1896年だが、アメリカのディック・フォスベリーが背面跳びを発明し、金メダルをとったのは1968年のメキシコオリンピックである。それまでの70年以上(オリンピック種目になる前も含めれば数百年にわたって)、誰も後ろ向きに跳ぶほうが高く跳べるなんて考えもしなかったのだ。

 常識にとらわれない発想をすることこそが、超一流選手とそれ以外を分ける点かもしれない。

とにかく他人の目など気にしないことが大事だ。
 しかし意外に、これが他の選手には難しいらしい。
 例えば学校の陸上コーチから「そんなフォームはやめろ」と言われれば、あなたならどうするだろうか。ここで自分を貫けば、コーチとの縁は切れてしまうかもしれない。しかし、やり投げの飛距離は伸びるかもしれない。
 実際に、世界レヴェルの選手で、記録ではなく恩師をとった日本人選手も少なくない。
 素質は世界レヴェルなのだから、本気で競技のために親兄弟をも捨て、本当の意味で命を賭ける覚悟があったなら、世界記録もオリンピックの金メダルも狙えただろう。しかし、それができる人の方が少ないのである。世界トップになるよりも、まず人であることを選んだのだ。
 それもまたいいだろう。人の生き方は、それぞれなのだから。べつに良いも悪いもない。
 だが、私は違う。
 やり投げで、世界トップに立とうと思った。
 だから肉親とか恩師とか女とか、そのような存在は無視すべきものであり、他人からどうこう言われようが、自分が一旦納得したら、それを貫き通した。素質のない私のような日本人が、やり投げで世界トップに立つためには、それくらいの覚悟が必要だった。もしかしたら、素質がなかったからこそ、馬鹿に徹し切れたのかもしれない。

 王、野茂、イチロー。いずれもそれまでの常識からすると常識外れの独特のフォームで活躍した選手だ。一本足打法、トルネード投法、振り子打法。多くの指導者が、そんなやりかたで成功するはずがないとおもっていただろう。だが彼らには理解ある指導者がいて、独自の道を貫いた結果大成功を収めた。

 溝口選手は理解ある指導者もなく、自分の思考だけで世界トップクラスで戦えるレベルまでたどりついた。とんでもない我の強さだ。

 ぜんぜん比べられるような話ではないが、ぼくも高校生のときに担任から「授業を聞かずに自分で教科書読み進めてええで」と言われてじっさいにその通りにしてから飛躍的に成績が伸びた。

 スポーツにかぎらず、初心者のうちは「他人のアドバイスに従う能力」が求められるが、ある程度のレベルまで達すれば逆に「他人の意見を聞かない能力」のほうが大事になるのかもしれない。他人から教えられたことと、自分で考えて試したことでは、定着力がぜんぜんちがうもの。




 溝口選手は、飲む・打つ・買うに代表されるその破天荒なスタイルに目が行ってしまうが、同時に誰よりもトレーニングをした選手でもあった。

 とはいえ懸垂も、もちろんMAXでおこなう。トレーニングは常にMAX、つまり限界になるまでやらなければ意味がない。
 何が限界なのかは、もちろん人によって違う。わかりやすくたとえると、他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。
 懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を一五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
 この懸垂ができなくなって初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
 ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
 しかしここで止めては、一〇〇%とはいえない。
 そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生たちは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。

 よくこれで身体を壊さなかったな……。

 ふつうの人の考える「いちばん厳しいトレーニング」は、できなくなるまで懸垂を続けることだろう。溝口選手は、懸垂ができなくなれば斜め懸垂、斜め懸垂ができなくなれば手を鉄棒にくくりつけてさらに懸垂……。よくもまあここまで自分を追い込めるものだ。

 ここまで努力していることを公言はしていなかったそうだから、周囲からしたら
「あいつは酒もタバコもやって、素質だけでやり投げをやってちょっと結果が出ているものだから調子に乗ってるやつだ」
ってなふうに見えていたんだろうね。


 ついつい「あいつはたいした努力もせずに〇〇できていてずるい!」とおもってしまいがちだけど、他人の努力なんて見えやしないんだから勝手に推し量っちゃいけないね。




 やっぱり変な人の話を読むのはおもしろい。現実にはお近づきになりたくないようなタイプの人(つまり攻撃的な変人)であるほど、本で読むのはおもしろい。

 やり投げをやったことも今後やる可能性もないぼくにとっては役に立つ情報はまったくなかったけど、そんなことはどうでもよくなるぐらいおもしろかった。


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2022年7月16日土曜日

【映画感想】『バズ・ライトイヤー』

『バズ・ライトイヤー』

内容(映画.comより)
有能なスペース・レンジャーのバズは、自分の力を過信したために、 1200人もの乗組員と共に危険な惑星に不時着してしまう。 彼に残された唯一の道は、全員を地球に帰還させること。 猫型の友だちロボットのソックスと共に、不可能なミッションに挑むバズ。 その行く手には、孤独だった彼の人生を変える“かけがえのない絆”と、 思いもよらぬ“敵”が待ち受けていた…

『トイ・ストーリー』シリーズの準主役であるバズ・ライトイヤーを主人公にした映画。続編ではなく、『1』の前日譚。前日譚といっても単純に『1』より昔の話というわけではなく、この『バズ・ライトイヤー』を観たアンディがバズ・ライトイヤーを好きになり、『1』の冒頭で誕生日にプレゼントされたという設定。つまり物語内物語になっているという……ややこしいね。まあ『トイ・ストーリー』を観た人ならわかるでしょう。

 ということで、『トイ・ストーリー』のスピンオフではあるけれど、『トイ・ストーリー』とはまったく別次元(というより低い次元)の話なので、『トイ・ストーリー』シリーズを観ていない人でも楽しめるはず。

 低い次元というとレベルが低いように聞こえるかもしれないけどそんなことなくて、むしろ技術が上がっている分だけ『トイ・ストーリー』よりもずっと精度の高い3D技術が使われている。高度な3Dなのに物語の次元は低い(ことになっている)という……ややこしいね。まあいいや。




 まず書いておかないといけないのは、ぼくは『トイ・ストーリー』ファンなのだが、ぼくの中では『トイ・ストーリー4』はなかったことになっている。記憶から消した。否、まだ消えていないが消したいと願っている。それぐらい『4』は嫌いだ。

 つまらなかったというわけではない。おもしろかったが『1』~『3』の世界観をぶち壊しにしてくれたから大嫌いなだけだ。まあこの話は書くと長くなるのでもうやめておく。前にも書いたし。

 そんなわけで、ぼくの中で『トイ・ストーリー』は『3』できれいに完結しているので、続編ではなく前日譚を書くという試みには諸手を挙げて賛成したい。ウッディが仲間を思う気持ち、ウッディの子どもへの愛、そして子どもからおもちゃへの愛。そういったものを『4』がすべて破壊しつくしてしまったので(書かないといいつつつい書いてしまう)、それより後の話はもう描きようがない。ウッディは「最後の最後で子どもを捨てたやつ」になってしまったので、今さらウッディを主人公にした話をつくっても白々しいだけだ。

 だから、バズを主人公に据えて、しかも『トイ・ストーリー』とは別世界の物語をつくることにしたのは大英断だ。そしてその試みは成功している。





【ここからネタバレあり】


 観終わった後の感想としては「あーおもしろかった」。ほんとにそれだけ。感動したとかためになったとか考えさせられたとかはほとんどなくて、ただただおもしろかった。これは悪口じゃなくて褒め言葉ね。

 だからストーリーについてあれこれ書く気になれない。だってただおもしろいだけなんだもん。ストーリーなんか知らずにとにかく観たほうがぜったいにおもしろいんだもん。


 いやあ、これぞエンタテインメントって映画だった。ピクサー映画も、ディズニー映画全般もそうだけど、ここ最近の作品ってやたら説教くさいものが多い。「こんなふうに生きなさい」「こういう生き方を認めなさい」という制作者のメッセージがいちいち感じとれる。そりゃあ創作物だから多少なりともメッセージ性があるのは当然だけど、ストレートすぎるんだよね。そういうのって観た人が思い思いに感じればいいものであって、「制作者のメッセージ」が前面に出てくるとうっとうしい。

『バズ・ライトイヤー』にはお説教くささがぜんぜんなくて、ただ単純におもしろいことを目指した映画だった。もちろん多少なりともメッセージ性はあったし、ぼくも何かしらは感じとったけど、それについてはあえて書かない。人によって受け取るメッセージはちがうのに、ぼくが答えのひとつを提示してしまったらつまらないもの。

 もちろん、メッセージ性が強くて、あれこれ考えさせられる映画もいい。ぼくだって純文学を読むこともあるし。ただ、ディズニー映画、ピクサー映画にはそういうのは求めていない。LGBTQやSDGsや多様性やポリコレを考えるきっかけにならなくていい(ちなみに『バズ・ライトイヤー』は同性愛者が出てくるけど、そこにも説教くささが一切なくて「そうだよ。それがどうした?」って描き方なのがいい)。

『バズ・ライトイヤー』の構造はとにかくシンプルだ。強くて正義感あふれる主人公がいて、主人公がわかりやすい目標に向かって努力して、けれど様々な障害や葛藤があり、強大な敵が現れ、頼りないながらも支え合える仲間が現れ、仲間との協力を通して主人公が自分に足りなかったものに気づき、それぞれが弱さを克服して成長し、最後は力を合わせて敵をやっつける。『オズの魔法使い』や『西遊記』など、昔からあるパターンだ。

 そんな、これまでに何度も目にした王道ストーリーでありながら『バズ・ライトイヤー』はちゃんと新鮮でおもしろい。シンプルな物語の強さ。さすがはピクサー。


 この、単純な骨子なのにおもしろいストーリーは『トイ・ストーリー』1作目に通じるものがある。ぼくがはじめて『トイ・ストーリー』を観たのはもう二十年以上前になるが、そのときの衝撃はまだおぼえている。

 当時ぼくは高校生。林間学校の帰りのバスの中で観た。多くの生徒が「高校生にもなってディズニーかよ……」という感じで、半ばこばかにしながら観ていた。だが、途中からはおしゃべりをする者もいなくなり、後半はぼくも含めみんな固唾を飲んで観ていた。笑いが起こり、手に汗握るシーンでは静まり返り、終わったときにはほーっと息を吐く音が聞こえたものだ。それほどまでにおもしろかった。

『トイ・ストーリー』も、いたってシンプルな物語だ。主人公にライバルが現れ、はじめは反目しあっていたのだが共通の目的のために一時的に手を組むことになり、数々の困難を乗り越えるうちに信頼関係が芽生え、それぞれが弱さを克服して成長し、悪い敵をやっつけ、最後はすべてが丸く収まるハッピーエンド。いわゆる「バディもの」の典型的なストーリーだ。子どもから大人までみんなわかる。

 当時新しかった3D技術以外に凝った仕掛けはない。それでも、映像、音楽、息もつかせぬスリリングな展開、普遍的な感情によって名作にしている。

『トイ・ストーリー』シリーズでぼくがいちばん好きなセリフは、『1』のラストでバズが口にする「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。かっこつけてな」 だ。いや、全映画中でナンバーワンかもしれない。あんなに見事に伏線回収をし、強く、そして弱く、美しいセリフがあるだろうか。あの短いやりとりに、物語を通してのウッディとバズの成長が凝縮されている。それぞれが己の弱さを認め、相手の良さを認め、そして相手の存在を必要に感じていることがわかる。

『バズ・ライトイヤー』を観て、ぼくはあのシーンをおもいだした。これはまだウッディと出会う前のバズだが(そしておもちゃのバズとは別人格だが)、彼もまた物語を通して、己の弱さを認め、仲間の良さを認め、仲間の存在を必要だと感じるようになったのだ。




『バズ・ライトイヤー』にはザーグという敵が出てくる。『トイ・ストーリー2』にもおもちゃのザーグが出てきて、バズの父親という設定になっているが(『スター・ウォーズ』のパロディ)、『バズ・ライトイヤー』に出てくるザーグはバズの父親ではない。そこだけが『トイ・ストーリー』シリーズとは矛盾しているが、そこ以外は『トイ・ストーリー』の世界観をまったく壊すことなく、新しい物語を構築している。すばらしい。これだよ、これ。おい、わかってるか『4』のクソ監督!(つい言ってしまう)


 八方丸く収まるのだが、気になったのが「エンドロール後に宇宙空間を漂うザーグが映る」シーンと、ザーグがタイムスリップなどの技術を誰から手に入れたのかが濁されていたところ。これはもしや、続編『ザーグの逆襲』につながる布石なのか……?


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