2022年4月1日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ文化祭事件』『うわさのズッコケ株式会社』『驚異のズッコケ大時震』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第六弾。

 今回は17・13・18作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら、6・11・14作目の感想はこちら、12・15・16作目の感想はこちら


『ズッコケ文化祭事件』(1988年)

 ズッコケシリーズの舞台は学校の外になることが多いのだが、この作品はめずらしくほぼ学校の中に収まっている。
 文化祭で劇をやることになった六年一組。ハチベエは、自分が主役になるべく、近所に住む童話作家・新谷氏に脚本執筆を依頼する。ところが新谷氏の書いた脚本は「幼稚」「古い」と六年一組の生徒からは評判が悪く、大幅に改作をおこなって上演。劇は成功に終わったが無断で手を入れられたことを知った新谷氏が怒りだし……。


 と、児童文学らしからぬ「大人の世界」が描かれる。特に宅和先生と新谷氏が酒を飲みながら口論を交わす場面は、子どもが一切登場しない。だが、こういう場面を明かしてくれるところこそズッコケシリーズの魅力なのだ。子どもは「ふだん子どもが目にしない大人の世界」を見たいのだ。ぼくは小学生のときにもこの作品を読んだが、強く印象に残っているのはやはり「おじさんとおじいさんの口喧嘩シーン」だ。

 この物語におけるハチベエ、ハカセ、モーちゃんは、〝文化祭を成功させようとがんばる子どもたち〟の中のひとりでしかない。とても物語の主役たりえない。主役は子どもたちの自主性を尊重するために陰ながら奮闘する宅和先生であり、執筆の苦悩を抱えた新谷氏である。

 このふたりが教育や児童文学について意見を戦わせるシーンは、著者である那須正幹先生の児童文学感が濃厚に反映されていておもしろい。ああ、きっと那須正幹先生もこういう批判を浴びたんだろうなあ、とか、こう言い返したかったんだろうなあ、とかいろいろ邪推してしまう。そしてそうした批判に対して、Twitterで口喧嘩をするのではなく(当時Twitterがなかったからあたりまえだけど)作品の中で見事に反論してみせるのがかっこいい。この『文化祭事件』こそが、古くさい批判に対する那須正幹先生の回答になっている。それは、〝新谷氏の最新作のタイトルが『ズッコケ文化祭事件』〟というメタなオチにも表れている。

「純粋無垢な子ども」という価値観は、現実を見ようとしない大人の勝手な思いこみにすぎない。「昔の日本人は思いやりがあった」の類といっしょだ。子どもは、大人以上に身勝手で、残酷で、小ずるくて、傲岸である。だからこそおもしろい。

 子どものときは特になんともおもわなかったが、今読むとおもしろいのは
「中学受験をする連中が、受験前は学校行事なんかどうでもいいという態度をとってたくせに、受験が終わったとたん最後の思い出づくりとばかりに出しゃばってくる」
シーン。

 ああ、いたなあ。こういうやつ。それまで誘いに乗らなかったくせに自分の推薦入試が決まったとたんやたら誘ってくるやつとか、学校行事なんてだりーみたいな態度とってたくせに中三の文化祭だけやたらと張りきって仕切ろうとしてくる不良とか。

 ああ、やだやだ。ふだん横暴にふるまって周囲に迷惑かけてるくせに映画のときだけ仲間の大切さを語るジャイアンかよ。



『うわさのズッコケ株式会社』(1986年)

 ポプラ社が2021年に企画した「ズッコケ三人組50巻総選挙」で見事一位を獲得した人気作。ぼく個人の中でも、三本の指に入る好きな作品だ(あとの二作は『探検隊』と『児童会長』かな)。

 イワシ釣りに出かけた三人。釣り客が多かったのに食べ物を売る店がないことをハチベエが父親に話すと「商売してみろよ。もうかるぞ」とそそのかされる。すっかりその気になったハチベエはハカセやモーちゃんを誘い、クラスメイトからも借金をしてジュースや弁当を仕入れ、釣り客たちに販売する。成功に気を良くした三人はさらなる出資金を集めるために株式会社を設立する……。

 何度も読み返した作品なのでだいたいおぼえていたが、それでもやっぱりおもしろい。
 上にも書いたが、これぞ「大人の世界を見せてくれる児童文学」だ。

 多くの大人は、子どもは純粋無垢な存在であってほしいと願っている。性や暴力や金儲けとは無縁な存在であってほしい、と。しかし残念ながら多くの子どもはそういったものが大好きだ。大人が隠そうとすればするほど覗き見たくなる。

『うわさのズッコケ株式会社』はその期待に見事に応えてくれる。この作品で株式会社の仕組みを知った人も多いだろう。ぼくもその一人だ。事業をやるために株式を売って出資を募る、事業が利益を出せば株主は配当金を受け取ることができる。この本で学んだ。そして、ぼくの株に対する知識はそのときからほとんど増えていない。

 今読むと、株券の価値が下がるリスクを説明していないのはずるいとか、勝手に商売してたら怖い人にからまれるんじゃないかとか、ジュースはまだしも暑いときに弁当を持ち歩いて売ったりラーメン作ったりするのは食中毒の危険があるとか、子どもが缶ビール売っちゃまずいだろとか(子どもでなくても資格なしに売ってはいけない)、いろいろツッコミどころはあるんだけど、そんなのは全部ふっとばしてくれるぐらいおもしろい。

 起承転結がしっかりしているし(釣り客がいなくなったときの絶望感よ)、終わり方も潔くて爽やか。無銭飲食をした人が高名な画家で……というのはややご都合主義なきらいもあるが、そのあたりをのぞけばすべて子どもたちだけの力で解決していて、児童文学としても完璧。

 そういえばこれ読んで会社を作りたくなって、宝くじ販売会社を作ったなあ。一枚十円で宝くじを売って……。たいへんだったのと、飽きたので一回だけしかやらなかったけど。



『驚異のズッコケ大時震』(1988年)

 子どもの頃に読んだときは「そこそこの出来」という印象だったが、今読むとひどいなこれは。

 ここまででいちばんの失敗作じゃないだろうか。クラスにひとりふたりいる歴史好きな子以外には、さっぱりわけがわからない。

 歴史に興味を持ったモーちゃんが『マンガ日本歴史』を買って読み、大いに感銘を受ける。翌日、学校帰りの三人組が歩いていると大きな揺れに遭遇する。気づくとそこは関ヶ原の合戦の舞台だった……という導入までは悪くないのだが、そこからがひどい。
 関ヶ原を抜けだした三人は、琵琶湖の近くまで歩く(これがもうむちゃくちゃ)。そこで出会った老人はなんと水戸黄門・助さん・格さんだった。さらに京都に行った三人は坂本龍馬に出会って新撰組に襲われたところを鞍馬天狗に助けられ、邪馬台国で卑弥呼のお告げを聞いた後はジュラ紀に行って恐竜に遭遇する……。

 もちろん、水戸黄門が諸国漫遊していたり、鞍馬天狗が実在していたりするわけはないので、最終的にはこれらは「三人の誤った認識のせいで時空がゆがんでしまったから」という理由が語られる。

 ……は?

 理由を聞いても意味がわからない。過去にタイムスリップしてしまうのはそういうお話だからいいとして、なぜハチベエが鞍馬天狗の実在を信じていたら鞍馬天狗が眼の前に現れるのか。まったくもって意味不明だ。

 ズッコケシリーズの魅力のひとつは「大胆なウソをもっともらしく並べたててくれる」ことにあるのだが、この作品にしてははなから整合性を放棄している。もっともらしいウソをつくことすらせず「とにかくこうだからこうなの!」という調子であっちこっちの時代に三人を連れていく。

 ストーリー展開にまったく必然性がないのだ。なぜ有名人にばかり会うのか、なぜ場所もあちこち移動するのか、どのタイミングでタイムスリップが起こるのか、時代が未来に行ったり過去に行ったりするのはなぜなのか、そういった疑問への説明がまったくなされない。

「歴史上のなんとなくおもしろそうな場面をなんとなく並べてみました」以上の理由がない。


 時間旅行ものは『ズッコケ時代漂流記』ですでに書いているから、差をつけるために何度もタイムスリップをさせたのかもしれないが、印象が散漫になっただけだ。それぞれの時代のうわっつらをなでているだけなので、歴史のおもしろさはまるで伝わってこない。その時代の風俗を語る余裕がない。

 八歳の娘にとってもちんぷんかんぷんだったらしい。まあ日本史をほとんど知らないから当然なんだけど、歴史をある程度知っている大人が読んでもまるでおもしろくない。

『ズッコケ財宝調査隊』がワーストだとおもっていたけど、あれは難しいし地味だけどストーリー展開はしっかりしていた。ワーストワン更新だな。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2022年3月31日木曜日

讃辞のおやつ

 人を褒めるのが苦手だ。

 本当にすごいとおもっていても、
「なんかおべんちゃら使ってるようでかっこわるいよな」
「『すごいですねー』って、上から褒めてるように受け取られるんじゃないかな」
「嘘くさいとおもわれそう」
とあれこれ考えてしまって、なかなか褒められない。

 本当におもっていても褒められないのだから、いわんや「おもってもいないのに社交辞令で褒める」なんてとうてい無理だ。


 その一方で、自分が褒められるとうれしいものだ。たとえお世辞が半分、いや百パーセントだとしても、「すごいですね」「頭いいですね」「おもしろいこと言いますね」と言われるとやっぱり悪い気はしない。

 だったら他人のことも褒めてやりゃあいいのに、と我が事ながらおもう。社交辞令だって、嘘くさくったって、褒められて悪い気はしないものなのだから。


 とはいえ、子ども相手なら素直に褒められる。

 たとえば三歳の娘がぬりえを見せてくれたとき。
「はみだしまくりだし、色づかいもむちゃくちゃだし、色調も汚いし、ひどいもんだな」と心の中ではおもうけど、それでも「うわーすごい! 上手だねー!」と褒めてあげる。照れも恥じらいもなく、全力で褒められる(さすがによその人がいる前ではやらないけど)。


 なぜ子ども相手なら全力で褒められるのか。

 それは、最初に挙げた「褒めるのをためらってしまう理由」を、子ども相手なら気にしなくていいからだ。


  おべんちゃら使ってるようでかっこ悪い

→ おべんちゃらではなく褒めて自信をつけさせる教育である。


  上から褒めてるように受け取られるんじゃないかな

→ そりゃそうだろ。三歳児相手に上から褒めて何がおかしい。


  嘘くさいとおもわれそう

→ 三歳児はそこまで見抜けない。


 てらいもなく褒められる。

 ということで、子どもをしきりに褒めていたら、大人相手にもちょっとは褒められるようになってきた。「すごいですね」「すばらしい」などと。何事も慣れだ。褒めるのが苦手な人は、子どもを育てたりペットを飼ったりするといいかもしれない。

 そういやアメリカ人はとにかく人を褒めるイメージがある。すぐにぐれーととかわんだほーとかまーべらすとか言う印象だ。あくまでイメージだけど。

 もしかして彼らは、周囲の人間をみんなガキんちょだとおもっているのかもしれない。



2022年3月30日水曜日

筋トレ発電

 フィットネスジムで発電できるようにしたらいいとおもう。

 ジムってものすごく無駄じゃん。エネルギーの無駄。なんせエネルギーを無駄にするためにみんな通ってるわけだもん。カロリー(=エネルギー)を消費するのが目的。

 SDGsだなんだと言われている時代に、こんなエネルギーの無駄遣いが許されていいのか! いいわけない。


 そこで発電ですよ。

 あいつらがバーベルを持ち上げたり、なんかがちゃがちゃやる器械を動かしたりするたびに、ちょっとずつ蓄電する。

 わかってる。そんなことしたって、得られる電力は微々たるものだ。たぶんジムに置いてある自動販売機分の電力量すらまかなえない。

 でも、問題は電力量じゃない。自分の行動によって何かを得た、という達成感だ。

 筋トレやってるほうだって身が入るとおもうんだよね。成果があったほうが。
「この運動をすれば〇cal消費」よりも、「本日のあなたのがんばりで電子レンジ10秒分の電力が得られました」とか「電気シェーバー30秒分まであとひとがんばりです」とかのわかりやすい指標があったほうがぜったいにいいとおもう。イメージしやすいもん。

 そして、必死に汗を流しても得られる電力量がわずかであることを思い知れば、「電気を大切に」という気持ちも自然と湧いてくるはずだ。

 使わないときは照明をこまめに消そう、アイドリングストップだ。なんせスクワット〇回分なんだもん。


 メリットは「発電できる」「省エネ意識が高まる」だけでない。

「あー今日ジム行くのだるいなー。あ、そうだ。テレビをいつもより五分早く消そう。これでジムでトレーニングしたのと同じ量のエネルギーを節約できたことになるわー」
という、〝自分への言い訳〟をひねりだしやすくなるのだ。



2022年3月29日火曜日

親孝行をしたくなるわけ

 月並みな話だけど、自分が親になって「親孝行しなきゃな」とおもうようになった。

 今できるいちばんの親孝行は孫の顔を見せること。
 なるべく、娘たちを連れて実家に帰ったりジジババと孫の食事会を開いたりしている(コロナでやりづらくなったけど)。


 ところで、「親孝行をしなきゃ」という心理はなぜ生じるのだろう。

 ぼくらが生きる目的は遺伝子を残すことだが、遺伝子を残すためであれば親に親切にしてもあまり意味がない。
 そのリソースを子育てに向けたほうがいい。自分の子や甥姪を大事にした方がいい(実兄・実姉の子の遺伝子は1/4が自分と同じだ)。

 しかし歳をとると親孝行をしたくなる。
 この心理はなんなんだろ。


 もちろん「親になってわかる、親の苦労」というのはある。

 でも、わかったところでもうどうしようもない。今さらぼくが孝行息子になったところで、さんざん苦労をかけた事実は変えられない。

 もっと早くに夜泣きをやめて、食べ物をわざとこぼすのをやめて、電車で大きな声で叫ぶのをやめて、家を出る前にどの服もいやだと言って泣きわめくのをやめて、自分の散らかした分だけでも自分で片付けて、学校に親が呼び出されるようなことをやめればよかったんだろうけど、もう遅い。全部やっちゃった。

 三十代のぼくはもう夜泣きをしないし、電車で大声で叫ばないし、食べ物はときどきこぼすけど自分で拾うし、部屋は汚いけどその汚さを甘受しているから親に掃除してもらうことはないし、職場で同僚とつかみあいの喧嘩をして親が呼び出されたことも今のところはない。
 だけどこれは親孝行じゃない。あたりまえのことだ。

 親の苦労を理解したところで、母の日や父の日に贈り物をしたところで、親の苦労はなかったことにならない。


「親孝行をしなきゃな」の背景にあるのは、罪悪感なのだろうか。

 さんざん迷惑をかけたうしろめたさがあるから、罪滅ぼしのために親孝行をしたくなるのだろうか。

 ちょっとは当たってるかもしれないけど、ちがう気もする。だったらもっと早く親孝行したくなりそうなものだ。子どもが生まれたこととは関係なく。


 うーん。

 子どもが生まれてから特に親孝行の意識が芽生えたということは、これは
「自分が将来親孝行されたいから、親孝行する」
じゃないだろうか。


 将来、子どもに見捨てられたくない。

 金銭的支援をしてほしいとか介護してほしいとまではおもわないけど、子や孫と良好な関係を築いていたい。何かあったときは助けあえる関係でいたい。死ぬときはできたら看取ってもらいたい。死んだ後もときどき思い出してもらいたい。

 だから、ぼくが親孝行をするのは、子どもに対して「親孝行のお手本」を見せているからだとおもう。
 我が子が将来親になったとき、おじいちゃん(つまりぼく)にはこう接するんだよ、という規範を示すために今、親孝行をしているのだ。

 そう、今ぼくは三十年後に〝親孝行〟を受け取るために、こつこつと〝親孝行貯金〟の積み立てをしているのだ。



2022年3月28日月曜日

【読書感想文】堤 未果『政府はもう嘘をつけない』 ~おもしろい話は要注意~

政府はもう嘘をつけない

堤 未果

内容(e-honより)
パナマ文書のチラ見せで強欲マネーゲームは最終章へ。「大統領選」「憲法改正」「監視社会」「保育に介護に若者世代」。全てがビジネスにされる今、嘘を見破り未来を取り戻す秘策を気鋭の国際ジャーナリストが明かす。


 次々に明かされる「意外な真実」。おもしろい、たしかにおもしろい。だが……。

 ぼくの頭の中で警鐘が鳴り響く。おもしろすぎる話は要注意だぞ、と。

 そういう目で見ると、この人の話はかなりあやしい。いや、大筋は事実なんだとおもう。でも細かいところを調べていないのが伝わってくる。


 この本に書かれている話は、ほとんどが伝聞だ。おまけに出典があやしい話も多い。〇〇はこう語る、みたいなたったひとりの証言をさも事実かのように書いてたり。たったひとりの証言でもあればまだマシなほうで、匿名の人物のコメントをもって「この裏のカラクリはこうなっている」と断じていたりする。

 そりゃあ取材源を秘密にしなきゃいけない事情はあるのだろうが、裏をとっていない話をそのまま鵜呑みにはできない。

 複数の人に話を聴いたり、立場の異なる人の意見を紹介したりはしていない。だが、この本をおもしろくしている。

 知に対して謙虚な姿勢をとっている本はおもしろくない。
「こんな意見もあります。それとは反対にこんな意見もあります。また別の〇〇だという人もいます。未来は△△になるという人もいますがもちろん未来のことは誰にもわかりません」
 こんな本はぜんぜんおもしろくない。
 堤未果氏や橘玲氏のように「〇〇は□□だ! なぜなら△△がこう言っているからだ!」とすぱっと断じたほうが読んでいて明快でおもしろい。橋下徹氏のような人が相変わらずメディアでもてはやされているのも同じ理由だ。不正確なことでも言い切ってくれる人、誤りを検証するよりも次々に目新しい説を呈示してくれる人のほうがおもしろいからだ。


 ことわっておくが、ぼくは堤未果氏の姿勢を批判しているわけではない。論文ならまだしも、知識の浅い人たちが手に取る新書、おまけにページ数も限られている。だったら深い考察や丁寧な検証よりも、キャッチーな言葉や断言でまずは興味を持ってもらうほうがいいかもしれない。

 だからこの本に向き合う姿勢としては、眉に唾をつけながら「こんな意見もあるんだ。他の人はどう考えてるんだろう」と考えるきっかけにするのがちょうどいい。

 実際ぼくもこの本をきっかけにアイスランドが経済破綻から立ち直った経緯について興味を持った。

 ただ問題なのは、この本に書かれているのは伝聞が多いので参考文献が少ないこと。せっかく興味を持ってもここから深掘りしにくいんだよなあ……。

 



 この本に限らず、堤未果氏が伝えているメッセージは一貫している。

 金の流れを見ろ、だ。
 ほんとに悪いのは政治家や官僚や経営者なのか? その裏で糸を引いているのは? 99%の人の暮らしぶりが悪くなる政策が推し進められるのは誰のためか?

 政治を批判する人は多いが、投資家を批判する人は少ない。政治を本当に動かしているのは政治家ではなく、彼らに資金を提供している連中ではないのか?

 彼らはやがて、資本主義が正常に機能する条件である「競争原理」を免れるための、素晴らしい抜け穴を発見した。
〈フェアに競争するよりも、規制する側に気前よくカネをつぎこみ、「政治」という投資商品を買うほうが、はるかに楽で効率が良いではないか〉
 政治家への献金額と企業ロビイストの数を大幅に増やし、規制は弱め、企業利益を拡大する法律をどんどん成立させるのだ。たっぷり献金した候補者が当選した暁には、自社の幹部を政権の中に入れさせ、法案設計チームや政府の諮問会議の重要メンバーに押しこんでゆく。任期を終えた政治家は企業ロビイストとして、元政府高官は取締役などの幹部として、優良条件で自社に迎え入れればよい。

 これはアメリカの話だが、当然ながらアメリカに限った話ではない。もちろん日本も同じだ。いや、もっとひどいかもしれない。

 国会議員に金を渡していいなりにすれば、都合の良い法律を作れる。法律を作れるということは、ゲームのルールを好き勝手に操作できるということだ。ルールを好きに変えてもいいサッカーをやるようなものだ。負けるはずがない。

 リーマンショックが起きた連中も、無茶なローンを推し進めた銀行の面々は結局責任をとらなかった。「Too big to fail(大きすぎて潰せない)」という屁理屈で、責任をとるどころか国から救済してもらった。もちろん、救済を決めたのは財界から資金提供を受けている議員たちだ。

 自分の作ったルールでゲームをやって勝った連中が「我々が勝ったのは実力のおかげだ。勝者はすべてを手に入れる権利がある」と言っているのが新自由主義だ。ええなあ。ぼくもそんな楽なゲームで勝利してでかい顔してみたいぜ。




 それから5年後の2015年5月。
 調査報道ジャーナリストのアンドリュー・ペレスとデイビッド・シロタの2人によって、ヒラリー・クリントン国務長官時代、彼女の財団にサウジアラビアから1000万ドル(約10億円)が寄付されていた事実が報道された。
 さらに、世界最大軍用機メーカーであり米国最大の輸出企業であるボーイング社からも武器輸出契約が締結される2カ月前に、10万ドル(約9000万円)というダイナミックな額の寄付金が振り込まれている。
 世界一の軍事大国であるアメリカ政府そのものが、超優良グローバル投資商品として想像を超えた価値を持っているのだと、ペレスは言う。
「サウジだけではありません。ヒラリーが国務長官だった時期、カタールやウクライナ、クウェートにアラブ首長国連邦など、20の外国政府が同財団に巨額の寄付をしています。その見返りに国務省が承認した武器輸出の総額は1650億ドル(約6兆5000億円)ですから、ものすごいリターンですよね。
 軍需産業だけじゃない、医療に保険に金融に石油、食料に農薬に遺伝子組み換え種子にハイテク産業……」

 2016年のアメリカ大統領選でドナルド・トランプ氏が勝利したとき、「あんな強欲そうな差別主義者を選ぶなんてアメリカ国民はアホなのか」とおもった。でも、こういった事情を知れば、また別の見え方が浮かび上がってくる。バラク・オバマもヒラリー・クリントンも財界から多額の寄付を受けていた。国民の味方のような顔をして清廉潔白なことを口では言うが、当選したら資金を援助してくれた金持ちのための政治をする。だったら、身銭を切って圧倒的に少ない資金で選挙活動をしているトランプのほうがアメリカのための政治をしてくれるんじゃないだろうか。多くの人がそう考えてもふしぎではない。ぼくも、『政府はもう嘘をつけない』を読んで「たしかにクリントンよりもトランプのほうがマシかも……」と考えた。

 なにしろ、大統領選でヒラリー・クリントンに献金された総額は1億8800万ドル、ドナルド・トランプは利益団体からの献金は拒否していたため献金は約2700万ドルだったそうだ。この数字だけ見れば、ドナルド・トランプのほうがよほど信頼できる人間に見える(それでもぼくはあの人を信頼できないけど)。




 日本の政治が悪いのは官僚が牛耳っているからだ、と言われていた。ほんの十年前までそんな話を聞いた。政治家が変わっても官僚は変わらない。官僚の力が強いからダメなんだと。

 ところが……。

 村上議員の言う「公務員法改正」(2014年4月の第186回国会で成立)は、約600人の省庁幹部人事を一元管理する「内閣人事局」を発足させ、これにより官僚幹部の人事には、全て首相官邸の意向が反映される仕組みになった。
 中央官庁の官僚にとって、出世競争の最終目標はトップである事務次官の椅子を得ることだ。通常は同期の中で事務次官になれるのは一人だけなので、横一列の中で皆が「あの(一番優秀な)人がなるだろう」と暗黙のうちに共有するという。
 ここに目をつけた賢い安倍政権は、早速、法律を変えて「最終人事権」を手に入れる。
 すると、どうだろう。それまでは皆が一番優秀だと認める一人が事務次官の座を手に入れるのが当たり前だった官僚たちの目の前で、全く新しい〈出世レース〉のゴングが鳴り響いたのだ。
〈もしかしたら、二番手の自分にも可能性があるかもしれない〉
 だが、そこには条件がつく。
〈人事権を握る官邸に気に入られれば〉
 TPPや税制など幅広い分析を続ける経済評論家の三橋貴明氏は、官邸が〈人事権〉を握ったことで、官庁内の空気は180度変わったと指摘する。
「これが全てを変えてしまいました。それまで官邸が進めるTPPや農協改革に反対していた一部の農水官僚たちまでが、手のひらを返したように推進に回ってしまったのです」

 官僚の力が弱くなってどうなったか。もっとひどくなった。官邸におもねって黒を白と言う人間ばかりが重宝されるようになった。

 大事なものはなくなってから気づく。「誰がやっても同じ」は日本の政治の欠点ではなく、長所だったのだと。憲法も知らない人間が総理大臣になったとき、誰も止める人間がいなくなるのだと。


 ぼくも昔は「政治システムは悪いことだらけだ。変えないと」と信じていた。

 だが、ここ二十数年政治を見てきて、ドラスティックに変えたものがことごとく悪い結果を引き起こしたのを目にした。長く使われているシステムは、たとえ不合理に見えたとしてもそれなりに有用なものなのだ。もちろん時代にあわせて微修正をくわえていく必要はあるが、大幅な改革は99%悪い結果を引き起こす。
 そりゃそうだ。修正に修正を重ねてきた現行制度と、誰かが頭の中でおもいついた改革案のどっちがいいかなんて、「現チャンピオン」と「デビュー戦のボクサー」が戦うようなものなのだから。

 どんな政治家がいいのか、どんな政治システムがいいのかなんてのは人類にとって永遠の課題だが、「劇的な改革を主張する人間を信用してはいけない」ってことだけは間違いない真実だ。一新とか改革とか維新とかは耳障りがいい言葉を並べる人ね。


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