2022年2月14日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ時間漂流記』『花のズッコケ児童会長』『ズッコケ恐怖体験』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第四弾。

 今回は6・11・14作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら


『ズッコケ時間漂流記』(1982年)

 今回の舞台は、過去。子ども向けの物語の舞台として定番だね。音楽準備室の鏡が過去とつながるトンネルになっており、三人は江戸時代にタイムスリップしてしまう。そこで出会ったのは平賀源内。三人は源内に未来から来たことを証明するが……。

 江戸の風俗などよく調べて書かれているなという気にはなるが、物語としてはややこぢんまりとしている。江戸にタイムスリップといっても二日だけだし、特に何をするわけでもなく戻る方法を探してうろうろしていただけ。
 ピンチを脱出したのも自分たちの活躍ではなく、ただ助けてもらっただけ。せっかくのSFなのに地に足がつきすぎているきらいがある。

 とはいえゴム飛行機を作って江戸の空に飛ばすところは痛快。きっと誰しも「過去に行ったら現代の知識でちやほやされるにちがいない」と考えるだろうが、いざ江戸時代に行っても困ってしまうだろう。現代人の持つスキルや知識なんて、現代の道具がなければほとんど何の役にも立たないわけで。

 三人もその問題に直面する。テレビやコンピュータの存在を知っているが、それを作ることはもちろん、原理を説明することすらできない。ゴム飛行機を作れただけでも上出来だろう(もっともハカセが三輪車の絵を描いて平賀源内をうならせているが、大八車もあった時代の人が三輪車の絵を見ただけでそこまで感心するだろうか?)。

 今作の主人公はなんといってもハカセ。関ヶ原の合戦の年号ぐらいは歴史に詳しい子なら覚えているかもしれないが、田沼意次の功績とか鎖国が解かれた年とかを(いくら前日に歴史の本を読んだからといって)記憶しているのはすごい。
 歴史好きの小学生はけっこういるけど、たいていは戦国武将とか新撰組とかで、天下泰平の江戸時代に詳しい子はめずらしい。ぼくが小学生のときなんか、水戸黄門と遠山の金さんしか知らなかったぜ。

 この物語の中で、平賀源内が殺人を犯してしまうのだが、史実でも平賀源内は殺人を犯して投獄→獄中死してるんだそうだ。小学生のときは知らなかったけど、このへんはちゃんと史実に基づいてるんだなあ。虚実交えたストーリーテリング、見事。

 ところで、この物語のキーパーソンである若林先生は「原子爆弾で死に絶えた若林家の血を後世に残すために江戸時代から二十世紀に行く」という設定だが、ズッコケシリーズで原子爆弾が出てくる作品は実はほとんどない。

『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』、『あやうしズッコケ探検隊』、『ズッコケ財宝調査隊』などでは戦争の影が描かれるのだが、原子爆弾については触れられない。
 三人組が住むミドリ市のモデルは広島市らしいので、原爆についての話題があまり出てこないのはちょっと意外な気がする。
 被爆経験者でもあった那須正幹氏にとって、原爆は小説の題材にするにはあまりに生々しかったのだろうか、と考えてしまう。
 まあそこまでたいそうなものではなく、原爆を出してしまうと「ミドリ市」が架空の町にならなくなるからってだけかもしれない。



『花のズッコケ児童会長』(1985年)

  津久田少年に喧嘩で負けたハチベエが、児童会長選挙で復讐を誓う
→ クラスの荒井陽子をかつぎだして後援会を結成。順調にメンバーを増やす
→ 後援会の選挙違反が明るみに出て陽子が出馬を辞退。メンバーが離れる
→ ハチベエが出馬を決意。はたして結果は……

と、起承転結がはっきりした作品。

 ブレイク・スナイダー『SAVE THE CAT の法則』という本( → 感想 )に、成功する脚本の構成パターンが紹介されている。
 悩み→ターニングポイント→お楽しみ→迫り来る悪い奴ら→すべてを失って→第二ターニングポイント→フィナーレ といったストーリーの定型が紹介されているのだが、『花のズッコケ児童会長』はまさにその王道パターン。


 ひさしぶりに読んで、改めておもう。名作だなあ。

 ぼくが小説を読んではじめて涙を流したのはこの作品じゃないかな。今回は娘に読んであげたのでさすがに泣かなかったけど、やっぱり涙を流しそうになった。

 今作のキーパーソンはふたり。スポーツ万能、特に柔道が強く、背も高くて顔もかっこいい、勉強もよくできる津久田少年。そして、運動が苦手で、引っ込み思案で、口下手な皆本少年。
 津久田少年には、皆本少年の気持ちがわからない。津久田少年だって何もせずに柔道ができるようになったわけじゃない。努力に努力を重ねて柔道が強くなったのだ。その自信があるからこそ、努力をしないやつが許せない。

 今でいうネオリベラリズムといったほうがいいだろうか。自由な競争を尊重し、公的機関による市場介入は最小限にする。極端にいえば、「負けたやつは努力が足りなかったのだからそいつが悪い」である。

 学校現場でもどっちかというとその考えが主流かもしれない。「がんばればなんでもできる」と教えることは、そのまま「失敗したやつはがんばりが足りなかったのだ」につながる。学校ではあまり「がんばってもどうにもならないこともある。生まれつき決まっていることも多い」とは教えない。

 だが、モーちゃんやハカセは津久田少年のネオリベラリズムに疑問を呈する。

「ぼく、モーちゃんのいいたいこと、すこしわかるな。つまり、モーちゃんは、児童会長になるひとは、勉強のできるひともできないひとも、力の強いひとも弱いひとも、みんなの気持ちがよくわかるひとがいいって、いってるんだと思うんだ。これは、ようするに、民主主義の問題だと思うよ。」
「民主主義? モーちゃん、いつから、そんな高級なこと考えるようになったんだ?」
 ハチベエが、目玉をむいた。
「べつにとくべつなことじゃないさ。民主主義って、みんなの意見をよくきいて、それにしたがうっていうことなんだから。」
「それが児童会長と、なんの関係があるんだ。」
「児童会長も、おなじことだよ。学校の子どもたち、みんなの意見を、じっくりきいて、それにしたがってくれなきゃあ。それも、とくに弱い立場のひとの意見をね。津久田くんは、正義館の子の意見や、スポーツの好きな子の意見は尊重するかもしれないけど、それいがいの子の意見を、ちゃんときいてくれるかなあ。」
(中略)
「問題は、心だよ。あの子は、たしかにたくましい花山っ子だよね。だから、たくましくない子や、たくましくなろうとしても、なれない子や、そんなにたくましくなろうと思わない子のことなんて、てんで相手にしないんじゃないかな。」

 この感覚、わからない人には一生わからないだろう。一億総活躍社会、なんていう人間には理解できないだろうな。活躍できない人や、活躍したくない人の心情は。

 そういう政治家がいたっていいとはおもうけど、あまりにも多すぎる。政治家になるのって99.9%は成功者なんだよね。家が金持ちで、勉強ができて、学歴が高くて、仕事で成功した人。努力できる人。だからそうでない人にはなかなか寄り添ってくれない。

 いっそ裁判員制度みたいに全国民から無作為に選んだほうがよっぽどマシになるかもしれない。

 話がそれた。そんなわけで、弱者として描かれる皆本くんにとって、いじめられているところを助けにきたハチベエは正義のヒーローである。だが、べつにハチベエはいいことをしたわけじゃない。ムカついたから喧嘩を売りにいっただけで、皆本くんを助けようなんて気はさらさらなかった。

 これがいい。ハチベエが人助けをしたりしたら、嘘くさいもの。己の欲望のままに行動したら、結果的に救われた子がいた。それでいい。「誰かのためにたたかう」なんて偽善だよ。


「ハチベエの児童会長選出馬」以外にも見どころの多い作品だ。

 ひとつは、女子との交流。放課後や休日に男子も女子も集まって、児童会長選挙に向けての作戦を練っている。こういうシーンはこれまでのズッコケシリーズではほとんど見られなかった(例外は『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』ぐらい)。
『探偵団』や『事件記者』でも女子は出てくるが、そこでの女子はあくまで〝敵〟だった。

 そう、昔の男子小学生にとって女子は〝別世界の住人〟もしくは〝敵〟だった。ぼくも、小学生のときに女子と協力して何かをした記憶がほとんどない。でも、だからこそたまに女子といっしょに何かをするときはテンション上がったものだ。劇の練習とか誰かの誕生日会とかで休みの日に女子と集まったときはわくわくしたなあ。

 ズッコケ三人組が女子と(一時的にではあるが)手を組むようになったのは、時代の変化のせいかな。あるいは女子の読者が増えたから、というもっと直接的な理由かもしれない。この作品以後、『株式会社』や『文化祭事件』など女子が味方になる作品が出てくる。

 しかし「陽子はかわい子ちゃんだから票が集まるはず」とか「かわいければ男子からの票が入るかもしれないが、あの顔では無理だろう」といった、今の時代の児童文学なら完全アウトな発言が随所に出てくるのは昭和だなあ。


 他にも、ハカセがアメリカ大統領選挙にも精通しているところを披露したり、事前運動を回避するために後援会を組織するといった本物の政治家さながらの悪知恵をはたらかせたり、組織が大きくなるにつれて末端が腐敗していってコントロールが効かなくなる様子を描いていたり、細部まで手を抜いていない。

 長いお話だとどうしても中だるみの部分が生まれる。それはズッコケシリーズも例外ではない。だけどこの作品に関してはどこをとってもおもしろい。めまぐるしく話が動くので退屈する暇がない。

 大人になって読んでも、子どものときとまったく同じように楽しめた。本当にすばらしい児童文学ってこういうもんだよな。



『ズッコケ恐怖体験』(1986年)

 ハカセのおじいちゃんの家に遊びに行った三人。ハチベエは不気味な老婆から「おたかの亡霊を呼び寄せた」と告げられ、さらに肝試しで道に迷った際に奇妙なな体験をする。
 町の人々は急に三人に対してよそよそしくなり、追いかえされるようにして家に帰ることに。だが家に帰った後も奇妙な現象は続き……。


 小学生向け物語の定番ジャンル「怪談」。書店の児童書コーナーを見ると、けっこうなスペースが怪談本に割かれている。

 ズッコケシリーズでも既に『ズッコケ心霊学入門』という作品があるが、あれは心霊写真という入口ではあったが、結果的には心理学や超能力の領域の話になり、しかも三人組がいない間に事件が解決してしまうという、怪談話を期待していた読者には肩透かしを食らわせる展開だった。

 その反省を踏まえてか、『ズッコケ恐怖体験』ではきちんと幽霊を登場させている。

 とはいえ、単に「はい幽霊出ましたよーこわいですねー」としないところが、さすがは那須正幹先生。冒頭からあやしい人物を登場させるなど周到に雰囲気づくりをおこない(まあその人は優しいおじさんなんだけど)、幽霊の正体を細かく設定し、幕末の長州征討の話にからめるなど虚実まじえて見事にもっともらしいほら話をつくりあげている。大人が読んでも、なるほどとおもわせる話運びで、子どもだましにしないところがいい。

 小学生のときにも読んだはずだが、細かい設定はほとんどおぼえていない。幕末の説明のあたりは読み飛ばしていたんだろうな。

 話としてはよく練られているが、怖いかというとあまり怖くはない。これは、幽霊の正体であるおたかさんという人物、死に至った背景、おたかさんの心残り、他の誰でもなくハチベエが憑りつかれた理由などがきちんと説明されているからだろう。結局、怖いという感情は「わからない」と表裏一体なのだ。わかってしまえば怖くない。その証拠に、幽霊嫌いの娘(八歳)も怖がらずに聞いていた。

 怪談としては失敗かもしれないが、幕末の悲劇として読めばよくできている。いわゆる子ども向けの怪談というより、落語や講談に出てくる怪談話に近い。

 ただ、児童文学として読むとはっきりいってつまらない。自然に憑りつかれて自然に解決してしまったのだから、三人組の活躍といえるようなものは皆無。『ズッコケ心霊学入門』と同じだ。

 もっと知恵や勇気や行動で困難を打開していく話が読みたいな。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2022年2月10日木曜日

【コント】不動産屋

「いらっしゃいませ」

「あの、物件探してほしいんですけど。急ぎで」

「承知しました。ではまずご希望の条件をお伺いできますか」

「トイレのある部屋!」

「はっはっは。今はたいていの部屋にトイレがついてますよ。逆に共用トイレの部屋を探すほうがむずかしいぐらいで。ほかに条件は」

「いや特には」

「場所はどのあたりをご希望でしょうか」

「なるべく近くがいいです」

「駅からですか」

「いや、ここから」

「ここから? お勤め先がこの近くとかですか」

「いやそういうわけじゃないんですけど。ねえ、早く紹介してもらえませんか」

「他に条件は……」

「ないです。とにかくトイレのある部屋ならどこでもいいんで!」

「そう言われても、条件がゆるすぎて逆に見つからないんですよね……」

「ああ! 早く! 早く!」

「あのー。もしかしてですけど、お客様」

「なに?」

「ひょっとして、今トイレを我慢されてるんでしょうか」

「そうですよ! だから早くトイレのある部屋を探してって言ってるんです!」

「やっぱり……。あのお客様、でしたら物件探しではなく、『トイレ貸して』とおっしゃっていただければ事務所のお手洗いをお貸しできますんで」

「え? そうなの!? もっと早く言ってよ! あっ、あっ、あっ……」

「えっ」

「……」

「ひょっとしてお客様……」

「あの……。やっぱり、トイレとお風呂のある部屋探してもらえますか……

「やっぱりもらしてるじゃないですか!」



2022年2月9日水曜日

子どものアンガーマネジメント

 長女はかんしゃく持ちだ。怒ると手が付けられなくなる。

 長女が一歳のときに撮った動画がある。
 積み木をふたつ重ねて押す娘。押すうちに、上に乗せた積み木がぽろりと落ちる。すると娘は「ぎゃー!」と泣いて床につっぷす。
 しばらくするとまた挑戦する。ふたつ重ねた積み木を押す。上に乗せた積み木が落ちる。また泣き叫ぶ。

 そのときは「ああおもうようにいかなくて怒ってるのか。かわいいな」とおもっていた。のんきに動画撮影をしていた。


 長女が二歳になった。世間一般にいう〝イヤイヤ期〟突入である。うわさには聞いていたが、すごかった。

 とにかく何をするのもイヤ、歩くのもイヤ、だっこされるのもイヤ、ベビーカーに乗るのもイヤ、置いていかれるのもイヤ、その場にいるのもイヤ、どないせいっちゅうねんとおもうが、イヤイヤ期とはそういうものらしい。機嫌を損ねると座りこんで泣きわめき、どうすることもできない。腹が減っているから怒るのだろうと食べ物やジュースで釣っても動こうとしない。怒ること火のごとし、動かざること山のごとしである。

 まあイヤイヤ期だからな、とおもっていたが、三歳になっても四歳になってもかんしゃくを起こす。さすがに回数は減ったが、それでも一度怒りだすと、何を言っても耳を貸さなくなる。怒りが怒りを呼んで、どんどん燃え盛る。
 他人を叩いたりものを壊したりといったことはほとんどないのが救いだが、一度機嫌を損ねると手が付けられなくなる。

 この頃にようやく気付いた。「あれ、他の子はここまでひどくないぞ」と。

 もちろん他の子も怒ることはあるが、うちの娘ほど長時間引きずらない。家の中ではどうだか知らないが、少なくとも外で遊んでいるときはほどほどのところで怒りを鎮めている。うちの娘だけが持続的な怒りを持っている。SDGsな怒りだ。
 しかも回数が多い。他の子の三倍ぐらい怒っている。


 小学生になっても、怒って怒ってすべてを台無しにしてしまうことがある。

 一年生のとき。登校前に「鍵盤ハーモニカを持って行かなきゃいけないのにちょうどいいかばんがない!」と怒りだした。
 こちらが「ちょっとはみだすけどこのかばんでいいじゃない」「紙袋ならあるけど」「袋に入れずにそのまま持っていけば」「それも嫌ならもう持って行かなきゃいいじゃない」とあれこれ案を出すも、すべて却下される。
 〝この鍵盤ハーモニカがぴったし入る布製のかばん〟を用意するまでこの怒りは鎮まらないのだ。むりー。
 たまたまリモートワークだったこともあって「だったら好きにしたら」と放っておいたら、まんまと学校に遅刻した。

 二年生になっても同じようなことがあった。登校直前になって「宿題のプリントがない」と言いだした。家を出る時間がせまっていたので「今日は忘れましたって先生に言って、明日持っていきなよ」と言っても聞く耳持たず。強引に家から連れ出そうとしたがてこでも動かず。結局、妻が仕事を休むことにし、一日家にいることになった。

 冷静に考えたら「鍵盤ハーモニカを忘れることと、学校に遅刻すること」「宿題のプリントを忘れることとと、学校をさぼること」のどっちがマシかは明らかだ。でも怒りだすとそういう判断ができなくなってしまう。


 娘が怒りだしたとき、ぼくは妥協しない。「怒ると要求が通る」とおもわせたくないからだ。
 だから娘が怒りだすと、譲歩するどころか逆にこちらの要求を吊り上げる。

 たとえば「本を読んで」という娘と、「今日はもう遅いから明日」のぼくが対立する。娘が怒鳴る。ぼくは「じゃあ明後日」と言う。娘はもっと怒って叫ぶ。ぼくは「じゃあ三日後」と言う。

 これを何度かやっていたら怒らなくなるかとおもったが、娘はぜんぜん学ばない。怒れば怒るほど不利になるのに、それでも怒る。なんてアホなんだ。犬のほうが賢いぞ。


 まあ子どもだからな、とおもっていたのだが、次女の姿を見ているうちに心配になってきた。次女は長女とちがって怒りが長期化しないのだ。
 もちろんかんしゃくを起こすことはあるが、数分で収まる。怒りだすと一切の譲歩を拒絶する長女と違い、次女は怒りながらも損得の計算をしているようで「ジュース飲む?」と訊くとあっさり譲歩してくれる。「Aは叶わなかったけど同等以上のBが手に入ったから良しとする」という判断をしてくれるのだ。長女はそれができない。


 おいおいどうなってるんだ。八歳の長女よりも三歳の次女の方がよっぽど感情のコントロールができてるぞ。

 子どもなんで怒りのコントロールができないのは当然かとおもっていたが(ぼくもかんしゃくを起こしやすい子どもだったので)、次女と比べると長女は感情のコントロールがへたすぎる。怒りをぶちまけたっていいことなんてひとつもない。うまくコントロールさせてやらなきゃあ。


 というわけで、名越康文氏監修の『もうふりまわされない! 怒り・イライラ』という本を買った。
 以前、名越康文さんの人の対談を聴きに行ったことがある。落ち着いたしゃべりかたをする精神科医だ。いかにも感情のコントロールがうまそうな人だった。

 この本は、子ども向けに「怒りとはなんなのか。なぜ人は怒るのか。怒りを落ち着かせるにはどうしたらいいか」を説明してくれている。アンガーマネジメントというやつだ。大人が読んでも「なるほどね」とおもう箇所もいくつか。

 特にシンプルですぐ実践できそうだったのが「腹が立ったら6秒かけてゆっくり深呼吸をする。深く吸って、ゆっくり吐く。爆発的な怒りは6秒までしか持続しないので、6秒立つと気持ちが落ち着いて冷静に話せるようになる」というものだ。

 これはいいとおもい、さっそく長女といっしょにこの本を読み、
「(長女)が怒ってるなーとおもったらおとうさんが『6秒深呼吸して』と言うから、そしたらゆっくり深呼吸して」
と伝えて練習をした。

 さあこれで大丈夫。


 数日後、長女が「丸付けして」と持ってきた漢字のプリントを採点していたら、「なんで×なん。あってるやんか!」と怒りだした。
 いよいよアンガーマネジメント術を使うべきときだとおもい「あっ、6秒深呼吸して」と言った。

 すると長女は「怒ってない! 怒ってないのになんで深呼吸すんのよ!」とますます怒りだした。

 えええ……。怒ってますやん……。

「まあまあ。まず深呼吸して。それから話そう」

「いやだ! 深呼吸の前に話す!」


ということで結局、6秒深呼吸術を使ってくれませんでした。

 アンガーマネジメントを使うためにはまず怒りを鎮める必要があるな……。


2022年2月8日火曜日

夜の学校

 たいへんまじめな高校生だったので、在学中に酒を飲んだことは二度しかなかった。なんてまじめなんだ。

 今の高校生はどうだか知らないが、ぼくが高校生だった二十数年前はまだまだ未成年の飲酒に対して社会全体がゆるく、コンビニでも年齢確認なしで酒が買えた時代だ。そりゃ飲むだろう。

「文化祭の打ち上げで○○先輩がファミレスでビールを飲んだのがばれて停学になった」という話も聞いた。近所のファミレスで飲むほうも飲むほうだし、明らかな高校生集団にビールを提供する店も店だ。まあとにかくそういう時代だったのだ。なのに二度しか飲まなかったというのは、えらいというほかない。あっぱれ。


 一度目は三年生の夏休み。友人三人と、夜中の小学校に忍びこんで缶チューハイをほんの少しだけ飲んだ。

(そのときの顛末は以前にも書いた。→ 死体遺棄気分の夏 )


 二度目は三年生の大晦日。ホームセンターでどきどきしながら缶チューハイを買い、高台にある小学校にしのびこんだ。テラスで寒さにふるえながら年を越した。寒すぎてまったく酔わなかった。

 酒を飲んだのは二度とも小学校だ。人が来ないので見つかりにくい、金がなくても行ける、少々大きな声を出しても大丈夫、という条件を満たしてくれるのは夜の学校ぐらいしかないのだ。

 これはぼくらだけではない。同級生の女の子は夜の中学校のプールで泳いでいて警察に怒られたと言っていたし、やはり別の友人は夜の高校の体育館で煌々と灯りをつけてバスケットボールをやっていたら警察に追い回されて走って逃げて転んだところを捕まった。

 田舎の高校生が人目を忍んで行くところといえば学校ぐらいしかないのだ。この支配から卒業するために行く場所が学校しかないというのは、なんとも皮肉なものだ。きっと尾崎豊が夜の校舎で窓ガラスを壊してまわったのも、教育制度に対する反抗心と言うよりは「他に行くところがなかった」が近いんじゃないだろうか。


2022年2月7日月曜日

【読書感想文】斎藤 美奈子『モダンガール論』

モダンガール論

斎藤 美奈子

内容(e-honより)
女の子には出世の道が二つある!社長になるか社長夫人になるか、キャリアウーマンか専業主婦か―。職業的な達成と家庭的な幸福の間で揺れ動いた明治・大正・昭和の「モダンガール」たちは、20世紀の百年をどう生きたのか。近代女性の生き方を欲望史観で読み解き、21世紀に向けた女の子の生き方を探る。

 原書は2000年刊行。

『モダンガール論』とあるが大正時代に限定した話ではなく、「明治以降の女たちはどういった生き方を目指し、どういった生き方を選択した(あるいは強制された)のか」を読み解いた本だ。


 ご存じの通り、女の生き方はここ百年で大きく変わった。就学も就職も結婚も自由にできなかった時代から、それらすべてほぼ自由にできるようになった時代へと。男の生き方も変わったが、もっと大きく変わったのが女の生き方だった。

 ではどのような経緯で女の生き方は変わっていったのか。




 転機の一つは「良妻賢母」だと著者は書く。

 そこで話はもとへもどる。一八九九(明治三二)年、女子教育の流れを決める大きな決定が下された。この年は、不平等条約の改正を受け、改正条約が実施された年でもあるのだが、日本が国際的な法権を回復したその年に、文部省は、女子教育に関する初の法令を発令した。「高等女学校令」、すなわち女学校を中学校と同じ正式な学校(高等普通教育機関)として認定する法令である。
 女学生数を急増させた「なにか」とはこれのことにほかならない。女子の教育目的として、そこには力強い一文が含まれていた。「賢母良妻たらしむるの素養を為す」
 この規定は、二〇世紀の望ましい女性像=女の子の出世の道をはじめて明らかにするものだった、といっていい。二〇世紀の望ましい女性像とは何だったか。行をかえて強調しちゃおう。
 良妻賢母!
 ええええっ、りょーさいけんぼお? とあなたは眉をしかめるだろう。そんなもんのどこが二〇世紀的だっていうのよお、と。封建的。前近代的。後進的。儒教道徳的。なんでもいいが、良妻賢母ということばには、カビのはえた男尊女卑の匂いがする。
 しかし、これ、ほんとはそんなに古い概念じゃないのである。前近代的どころか、良妻賢母は近代の発明品。しかも、びっくり仰天、こいつは男女平等の新思想だった。

 現代の感覚では信じられないが、「良妻賢母」こそが女性の地位向上に貢献した思想だというのだ。

 それまでは「女に教育なんて必要ない!」が一般的だったのが、「良い妻、賢い母となるにはきちんと教育を受けねばなりません。妻が家計を管理して家族の健康を支え、母親が子どもに質の高い教育を施すには、女にも教育を受けさせる必要があるのです」という口実を得て女性の進学率が向上した。

 さらに、やはり良妻賢母となるには社会経験も積んだ方がいい、ということで就職率の向上にも貢献した。もっともここでいう就職とは会社や百貨店や役所や学校に務めるホワイトカラー層のことで、農業や工場での労働をせざるをえなかった層のことではない(その層の人たちに働かないという選択肢はなかった)。


 男女等しく教育を受けることがあたりまえになっている現代の感覚のままだと見失ってしまいそうになるが、「良妻賢母」とは近代になって生まれた新しい思想だったのだ。「女は夫や家長に意見するな」が当然だった時代からすると、「良妻賢母」は飛躍的な進歩である。

 差別の解消や人権の確立って、まるで〝正解〟があっていっぺんにそれが叶えられたような気になってしまうけど(まあ戦後日本の場合は連合国支配時代に一気に改革が進んだから余計に)、ほんとは一歩一歩少しずつ変わっていくもんなんだよな。
「良妻賢母」は女性の立場の漸進的な変革において、重要なステップだった。「改革」「維新」といったドラスティックな言葉が好きな人にはなかなか理解できないかもしれないが。




 また、昭和に入ってから女性の社会進出に大きく貢献したのは「戦争」だったと著者は語る。

 日中開戦を機に、女学校の教育内容も心身一体の皇国民を育てるという方向に軌道修正された。それによって女学校は、中途半端な花嫁学校ではなくなった、といってもよい。
 女学校に課せられたのは、母性教育の強化と、目的意識のはっきりした奉仕活動である。(中略)戦地に送る慰問文や慰問袋の作成、戦没遺族の訪問、陸軍病院の慰問、街頭での募金活動、献金……。学校外での活動は、刺激的であり、誇らしくもあっただろう。ましてそんな活動が、新聞雑誌で派手に紹介でもされてごらんなさい。お嬢さん、いやな気がするでしょうか。
 女学生のボランティア活動のうち、特筆すべきは「勤労奉仕」というやつだ。男性労働力を失った農村におもむき、田植えや草刈り、子守り、炊事洗濯などを手伝う。あるいは工場で機械工や旋盤工のまねごとをする。いまから思えば「そんな農村婦人や労働婦人みたいなこと、よくやる気になったわねえ」だが、なにせ非常時。女学生という身分のままで働けるなら、たまにやる肉体労働も悪くない。「勤労奉仕」はすべての未婚女性に期待されたから、女学校を出て花嫁修業(結婚浪人)中だったお嬢さんの多くも、これに飛びついた。

 朝ドラなんかだと、「庶民(特に女)は、望みもしない戦争に国が突入したことで苦労を強いられた」という悲劇のヒロイン的な描かれ方をするが、そんなことはない。男も女も軍人も民間人も、喜んで戦争に協力したのだ。特に初期の頃は。

 そして実際、戦争は女性の社会進出に貢献した。労働力が足りなくなり、「女が働くなんて」から「働く女性が国を支える」になった。国家における女の重要性が増す。

「社会から求めらる」こんなうれしいことはない。

 良妻賢母と戦争、これこそが敗戦までの日本において女の社会進出に貢献したキーワードだった。




 戦前にも「育児と職業の両立」に関する議論はあった。だが、それはあくまで特権階級に限った話だった。

 母性保護論争で注目したいのは「育児と職業の両立」という今日的なテーマが大正中期の時点でもう議論されていたってことだ。というか、職場の待遇差別から主婦の自立論まで、現代の私たちが直面しているような問題は、戦前に、ほとんどすべて先取りされていたのである。当時の女学生や職業婦人や主婦の不満や要望は、いまのそれとかわりがない。しかし、彼女らの悩みは、個別には論じられても、大きな社会問題にまでは発展しなかった。なぜだったのか。
 最大の理由は、やはり階級(階層)の問題である。なんのかんのいっても、女学生や暗業婦人の愚痴などは、「ブルジョア婦人のぜいたくな悩み」でしかなかった。性差別よりも、階級的な矛盾のほうが、当時ははるかに深刻だったのである。貧しい農村から身売りしてきて重労働にあえぐ女工や女中や芸娼妓、あるいは農村婦人の惨状にくらべたら、女学校がつまらんとか職場で雑用をさせられるとかは、「プチプルねえちゃんのワガママ」と思われてもしかたがない。

 女は学問をするべきか、仕事をするべきか、仕事をするとしたらいつまで続けるべきか。そんなことで悩めたのは、アッパークラスの女性だけである。

 この本には農村の女性の暮らしぶりも書かれているが、

「出産後も横になっていられるのは、たった一日」

「農村婦人の死亡率は、出産子育て期にあたる二五~四四歳で特に高かった」

「決定権は一切なく、口答えもできず、舅や姑や夫の監視下で、早朝から深夜まで働きづめ」

といった暮らしが書かれている。しかもそっちが多数派である。こんな時代に、お嬢様の「女でも学問をしたいし仕事をしたいわ」が社会的な議論になるはずはないのである。




 さて。

 戦争も終わり、日本は豊かになった。女の進学率は飛躍的に向上し、就職する女性もめずらしくなくなった。現実的にはまだ男女の間に格差はあるが、少なくともタテマエ上は男女雇用機会均等が成立した。

 では、女は生きやすくなったのか。

 著者はこんなふうに書く。

「新しい女」も「リブ」も、運動という以前に「個人の生き方」を示す語だと本人たちは自覚していた。「じゃあ、どういう風になりたいわけ?」とは、女性解放論者にいつも投げかけられる質問だが、彼女ら自身も「わからない。でも、いまのままはイヤ」が本音だったのではなかろうか。
 このころの女の人たちは、もう「OL」にも「主婦」にも飽き飽きしていた。花の0Lも、夢にまでみた主婦の座も、いざ手にしてみたら、思っていたほど楽しくなかった。いや、もともとべつに楽しくなかったのかもしれないが、それが「選ばれた少数派のステイタス」であるうちは我慢もできた。しかし、いまや、世の中じゅうがOLだらけ、主婦だらけ。気がつけば、それは「ただのOL」「ただの主婦」と呼ばれる平凡の代名に成り下がっていた。
 敗戦から三〇年。おりしも七三年の石油ショックを機に日本経済は低成長期に入る。働きづめだった祖母や母の仇は、もう十分すぎるほど討った。というか、このころの娘たちにとって、母親はすでに生まれたときから専業主婦であるのが当たり前の人だった。
 娘はいつも母の生き方に反発する。ママみたいな平凡で退屈な人生、あたしはいや!
 それが幸せへの道と信じて主婦になった母たちも、娘に刺激されて考えはじめた。夫や子どものためにご飯を作りつづけるあたしって、なんなのかしら……。
 彼女たちは新しい目標をみいだした。「脱OL」「脫専業主婦」である。

 そうなのだ。

 ぼくは女の人生を送ったことがないけど「この道を選べば幸せ」なんてないことはわかる。専業主婦になっても兼業主婦になっても共働きで子育てをしてもDINKs(共働きで子どもを持たない夫婦)になっても結婚しなくても、不満は残る。仮に「男は女にかしづく奴隷になる」となったとしても、それはそれで不満が出てくるだろう。退屈だ、とかいって。

 結局、性別に関係なく、すべての人が満足のいく働き方なんてないのだ。


 昔は「こうなりたい」というビジョンがもっと明確にあったんじゃないだろうか。学校に行きたい。主婦になりたい。ばりばり働きたい。達成できるかどうかはさておき、今よりは明確な〝夢〟があったんじゃないだろうか。

 で、それらの〝夢〟はがんばれば手の届くところまできた。進学だって専業主婦だって正社員だって社長だって、「夢みたいなこと言ってんじゃないよ」ではなくなった。

 でも、どの道を選んでも、楽で、安定していて、刺激があって、達成感を得られるわけじゃない。ああ、人生はつらい。


 なんで女の働き方がことさら問題になるかというと、選択肢があるからじゃないかな。
 フルタイム労働者、専業主婦、パート兼業主婦。どれを選んでも「選ばなかった道」がちらつくから、余計に納得いかないんじゃないだろうか。

 男のほうは選択肢がないに等しい。そりゃあ専業主夫とか親の金で一生遊んで暮らすとかの道もあるにはあるが、99%の男はそんな道は選択肢にすら入らない。「働くか、働かないか」で迷うことはないのだ。それはつらいことでもあるけど、楽でもある。煩悩は選択肢によって生まれるのだから。

 自由は必ずしも人間を幸せにはしてくれないんだなあ。


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