2021年2月1日月曜日

【読書感想文】こういうの書いとけばイヤなんでしょ / 真梨 幸子『初恋さがし』

初恋さがし

真梨 幸子

内容(e-honより)
所長も調査員も全員が女性、「ミツコ調査事務所」の目玉企画は「初恋の人、探します」。青春の甘酸っぱい記憶がつまった初めての恋のこと、調べてみたいとは思いませんか?もし、勇気がおありなら―。あなたは、「初恋」のことを、思い出すのが怖くなる!他人の不幸は甘い蜜、という思いを、心のどこかに隠しているあなたに贈る、イヤミス極地点。


「三大イヤミスの女王」なる言葉があるそうだ。女王が三人もいるのかよ、というツッコミはおいといて、湊かなえ、沼田まほかる、真梨幸子の三人だそうだ。
 三者とも作品を読んだことがある。沼田まほかる氏の『彼女がその名を知らない鳥たち』はたしかにおもしろかった。湊かなえ作品は『告白』はおもしろかったが、それ以降は好きになれない。真梨幸子氏の【殺人鬼フジコの衝動』は粗削りだったがふしぎな魅力があった。続編の『インタビュー・イン・セル』は理解できなかったが。

 個人的に、嫌なミステリは好きだが、「イヤミス」をうたい文句にした作品は好きではない。書きたいものを書いたら嫌な味わいになった、著者のおもうおもしろさを追及したら嫌な結末になった。そういう作品が好きなのだ。「イヤミスを書こうとして書いた」作品はつまらない。出版社が「イヤミス」として売る作品はほぼ例外なくつまらない。




『初恋さがし』も「イヤミス」をうたっているだけあって、出来はよろしくなかった。

 たしかに登場人物はほとんどがイヤな人間だ。でもすごくうすっぺらい。「自分より目立つ女がいるから嫉妬して引きずりおろす」とか「いい暮らしをしたいから金持ちを騙す」とか、とにかくわかりやすい。五十年前の少女漫画に出てくる悪役みたいな人物造形だ(五十年前の少女漫画に詳しいわけじゃないが)。

 ザ・悪人みたいな感じなんだよね。だから読んでいて怖くない。吉本新喜劇にカラフルなスーツを着たヤクザが出てくるのを見てもぜんぜん怖くないのと同じ。
「自分も一歩まちがえればこうなるかも」「いつもにこやかな隣人も一枚皮をむけばこんな人かも」みたいな薄気味悪さがない。「悪人」という記号にすぎない。

 こういうの書いとけばイヤなんでしょ、って感じがぷんぷんしたな。




 ストーリー展開は悪くなかったとおもう。
 中盤はけっこう引きこまれた。「えっ、この人が中盤で死んじゃうの?」という驚きもあった。

 しかしその期待も中盤まで。驚きの真相も意外な真犯人もなく、むしろ「えっ、こんなに期待をもたせておいてその意外性のないオチ?」と逆に驚くぐらい。

 やはり「イヤミス」をうたった本には手を出さないほうがいいな、うん。


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2021年1月29日金曜日

【読書感想文】「定番」は定番の言葉じゃなかった / 小林 信彦『現代「死語」ノート』

現代「死語」ノート
現代「死語」ノートⅡ

小林 信彦 

内容(e-honより)
「太陽族」「黄色いダイヤ」「私は嘘は申しません」「あたり前田のクラッカー」「ナウ」…。時代の姿をもっともよく映し出すのは、誰もが口にし、やがて消えて行った流行語である。「もはや戦後ではない」とされた一九五六年から二十年にわたるキイワードを紹介する、同時代観察エッセー。


 戦後の流行語の中から、使われなくなった「死語」を拾い集めて著者(昭和7年生まれ)の解説をつけたエッセイ。

 死語というのはおもしろい。生き残っている言葉よりも確実にその時代を映している。

 たとえば1961年(昭和36年)の流行語。

 <女子学生亡国論>
 早大の国文学科に暉峻康隆という教授がいた。
 マスコミにも登場するいわゆる<名物教授>だったが、この人が「私大の文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校」と発言した。
 それじたいはどうということもないが、慶大教授でテレビタレントでもある池田弥三郎という人がいて、「女子学生亡校論」をとなえ、この二つが混じって<女子学生亡国論>になったといわれる。<亡国>とは<国をほろぼす>という意味だから、現在だったら冗談ではすまされない。

 すごい。著者は「それじたいはどうということもないが」と書いている部分も相当まずい(このへんの感覚が昭和7年生まれか)。
 今こんな発言したら退職に追いこまれるかもしれない。

 しかし今では「文学部は女子学生だらけ」なんてあたりまえすぎて誰も言わない。それだけ女性が高等教育を受けることがあたりまえになったということだ。




 1986年(昭和61年)の流行語。

〈定番〉
 ファッション用語で、流行に左右されぬ、常に人気のある商品のこと。商品番号が一定していることから出た言葉で、この年、各女性誌で広まった。
 現在ではファッション以外の世界でも用いられる。だから、死語ではないのだが、発生が珍しいので触れてみた。

 えっ。
「定番」ってそんなに最近の言葉だったの。驚いた。
 もっとも言葉としてはもっと古くからあったのかもしれないが、流行語として選ばれるぐらいだから1986年以前はあまり使われなかったのだろう。

 1986年まで「定番」が一般に使われていなかったのは、それまでは「定番」がなかったからではなく、逆に「定番」があたりまえだったからだろう。
 服は長く着るのがあたりまえ。流行を追って毎年のように買い替えるなんて考えられない。すべてが定番。だからあえて「定番」を使う必要がなかった。
 ところがバブル期(1986年といえばちょうどバブルがはじまった頃だ)から、ファッションは消耗品になった。だから「流行り物」ではないという意味の「定番」という言葉が生まれた。携帯電話が生まれたことで「固定電話」という言葉が生まれたように。

 こういうところにもバブルの片鱗が見てとれる。




 言葉には時代の空気が濃厚に反映されている。

 昭和三十年代は流行語も景気がいい。明るく楽しい言葉が多い。
 だが高度経済成長期ぐらいから暗い言葉が増えはじめる。公害、過労死など高度経済成長のひずみが目に付くようになったのだろう。冷戦の影響も大きいはず。

  1995年(平成7年)の流行語(死語)。

〈ジャパン・パッシング〉
 経済的に強い日本を叩く、いわゆる〈ジャパン・バッシング〉の時代は終り、安全神話の崩れた無力な日本を諸外国は黙殺しようとしている、とテレビで多くの評論家が語った。
 日本を〈パスする〉――これが〈ジャパン・パッシング〉だと言われたが……。

 bashing(非難)ではなくpassingね。「無視」みたいなニュアンスだろうね。
 バブル期に日本は叩かれていたが、今おもうと叩かれていたうちがハナ。すっかり歯牙にもかけられない国になってしまった。




 流行語・死語の移りかわりを見ていると、流行の担い手がだんだん若くなっているように感じる。戦後の流行語は大人の言葉が多い。政治経済用語だったり、小説や映画のフレーズだったり。
 次第に子ども向けテレビ番組や中高生発信の流行語が増えてくる。大人たちが文化の先導者でなくなってゆく。

 くだらない流行語が増えてゆくのだが、あながち悪いこととも言いきれない。社会が抱える深刻な問題が小さくなったからこそ、テレビやアニメの言葉の重みが相対的に増したのだろう。
 歴代流行語大賞(ユーキャン)を見ていると、ここ最近の流行語なんてテレビ・スポーツの言葉ばかり。ほんとにバカみたいだけど、2020年はほとんどコロナ関連だったことをおもうと(2021年もたぶんそうだろう)今となっては懐かしい。またバカな言葉が流行語になる時代になってほしい。


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【読書感想文】思想弾圧の化石 / エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』

レトロニム



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2021年1月28日木曜日

だらしない人


 自分でいうのもなんだが、ちゃんとしている人間だ。

 まあ部屋は汚いし、服はよれよれになっても穴が開くまで着つづけるし、風呂では適当に身体を洗ってすぐ湯船に飛びこんでしまうし、食べ物はよくこぼしてしまうし、だらしないところを挙げればきりがないんだけど、人に迷惑をかけないようにはしている。こぼしたものは拾うし。

 約束の時間に遅れるとか、人に金を借りるとか、できもしない約束をするとか、そういうことはしない。
 だらしないのは「他人に迷惑をかけない範囲で」だけだ。家族にはちょっと迷惑をかけるけど。

 これはもう性分だ。
 だらしない人がだらしなくするのが楽であるように、きっちりするほうが楽なのだ。心労が少なくて。

「遅くとも約束の時刻の五分前には着くように」とおもって出発するから、たいてい十五分くらい前に着いてしまう。
 たいていカードで支払いをするのに「何かあったときのため」とおもって財布には常に二万円は入っている。残金が一万円を切るとすごく不安になる。
「急に結婚祝いが必要になったときのために」とおもって新札の一万円札を常に数枚置いている。いらないのに。なぜなら結婚祝いを急に渡さなきゃいけないような状況はまずこないから。


 一方、世の中にはすごくだらしない人がいる。

「給料日前だから金がないんですよ。今月使いすぎちゃって」とか
「ごちそうさま。あっ、お金ないや。貸してもらっていいですか。この後ATMでおろして返すんで」とか言える人。
 すごい。ごはんを食べた後でお金がないことに気づけるなんて。それ、ぼくもお金をギリギリしか持ってなかったらどうするつもりだったんだ。

 あるいは、十五分も遅刻してきてるのに「ごめんごめん」と言っただけで泰然としてる人。ぼくだったら土下座するぐらい謝る局面なのに。

 ちょっとうらやましい。

 ひとつには、だらしない人のほうが楽しく生きているように見えること。余計な心配とか抱えていなさそうに見える。

 もうひとつは、そういう人ってたいていみんなから愛されるキャラクターであること。
 まあこれはあたりまえの話で「もうあいつはしょうがねえな」って許せるキャラクターだからこそ、だらしない行為を続けられるのだ。
 だらしないから愛されるのか、愛されるからだらしなくなるのかわからないが、とにかくだらしない人は憎めない。

「不愛想で、時間にルーズな人」とか「他人の欠点をねちねちと責めてきて、方々から借金してる人」とかいないでしょ。
 いや、いるんだろうけど、そういう人からはみんな離れてゆくから目につかない。

 だから、ぼくらの身の周りにいる〝だらしない人〟は、たいてい気のいい人だ。
 時間に遅れても、持ち合わせがなくても、「もう、しょうがねえなあ」で許されちゃう人。愛嬌のある人。
 うらやましい。


 ぼくのように愛嬌のない人間は、なるべく周囲に迷惑をかけないようにきっちりと生きるしかないのだ。



2021年1月27日水曜日

【読書感想文】食生活なんてかんたんに変わる / 石川 伸一『「食べること」の進化史』

「食べること」の進化史

培養肉・昆虫食・3Dフードプリンタ

石川 伸一

内容(e-honより)
私たちがふだん何気なく食べているごはんには、壮大な物語が眠っている。食材を生産、入手するための技術、社会が引き継いできた加工や調理の方法、文化や宗教などによる影響…。人間は太古の昔から長期間にわたって、「食べること」の試行錯誤を重ねてきた。その食の世界が今、激変してきている。分子調理、人工培養肉、完全食のソイレント、食のビッグデータ、インスタ映えする食事…。こうした技術や社会の影響を受けて、私たちと世界はどう変わっていくのだろうか。気鋭の分子調理学者が、アウストラロピテクス属の誕生からSFが現実化する未来までを見据え、人間と食の密接なかかわりあいを描きだす。

 テクノロジーの発展にともない、「食べること」はどう変わってきたのか、そしてこれからどう変わってゆくのかを大胆に予想した本。

 この手の未来予測本は大好きなので、読んでいて楽しい。五十年後ぐらいに答え合わせをしたい。




 我々がふだん「食と健康」について考えるとき、「食べ物」と「ヒト」についてしか考えない。こういう人はこれを食べるといい、というように。
 だが、ヒトの体内で食物を分解・吸収するために働いているのは腸内細菌だ。
 だから将来、腸内細菌をコントロールする方向に進歩すると著者は指摘する。

 腸内細菌の人体への影響、健康との関わりが明らかになるにつれて、次はその腸内細菌をいかにコントロールするかというテクノロジーに注目が集まっています。腸内細菌のマネジメントは、日常的に口に入れるもの、つまり食べものなどによって、自分の健康に良い微生物の集団として制御することが、一番簡単で効果的です。ふだん私たちは、〝自分〟にとって都合の良いごはんを考えますが、健康維持のためには、「自分にとってのごはん」と同様に、自分のお腹にいる「腸内細菌にとってのごはん」も入念に考えなければならなくなるでしょう。
 ある種のオリゴ糖などの「プレバイオティクス」のように、腸内の善玉菌を増殖させる成分もすでに明らかになってきています。が、年齢や性別、体調や病気、さらには自分の遺伝子によって、腸内細菌の種類と割合などをよりきめ細やかにコントロールする時代がやってくるでしょう。そうなると健康は、これまでの「食べもの」と「ヒト」の二者の相互関係を考えるだけでは不十分で、「食べもの」「ヒト」「腸内細菌」の関係を〝三位一体〟で考えることが必要となります。

 ふうむ。たしかに腸内細菌のマネジメントは欠かせないよな。
 健康を考える上で「食べ物」と「ヒト」のことしか考えないのは、国家を考える上で「領土」と「資源や輸出入などモノの流れ」だけを考えて、国民を無視するようなものだよね。
 ぼくらの身体の国民は細菌だ。

 ヒトの成人の脳と腸は、重量がどちらも1キログラム程度で、ほぼ同じくらいの重さです。それに対して、ヒトと同じ程度の体重の哺乳類の大半は、脳の大きさがヒトの約5分の1程度なのに対し、腸の長さが人間の約2倍あります。つまり、ヒトは相対的に大きな脳と、小さな腸を持っている動物といえます。
 このヒト特有の脳と腸の大きさの比は、最初の狩猟採集民の登場とともに始まった、腸から脳への一大エネルギー転換の結果だという説があります。初期ヒト属は、食事に肉などを追加することによって、大きな腸よりも大きな脳をもつ種へと変わっていきました。つまり、腸にエネルギーが以前ほど使われなくなった分、そのエネルギーを脳の成長と維持にまわすことができるようになったといえます。

 他の動物にはないヒトの特徴、といえばまずは「大きな脳」が思いうかぶが、「短い腸」もヒトの特徴だ。加熱調理をすることでエネルギーを効率的に摂取することができ、食事に長い時間をかけなくても大きな脳を維持できるようになったわけだ。
 ってことは生野菜やフルーツばっかり食ってる人って脳の活動が鈍いのかな。たしかに極端な菜食主義者って脳の活動が鈍いイメージが




 ヒトにはわずかな遺伝子の違いがあり、その個体差は「遺伝子多型」とよばれています。この遺伝子多型が、アレルギー体質や薬に対する効きやすさなどの違いを生み出しています。
 医療から始まった個別化、すなわちテーラーメイド化は、現在、栄養分野にも波及しており、個人個人の体質や遺伝子多型に合った栄養指導としての「テーラーメイド栄養学」があります。薬だけでなく、食品がヒトの身体に及ぼす影響の程度も、人によって違うことがあります。これは、遺伝子多型によって、栄養素の消化、吸収、代謝、利用などに個人差があるためです。
 食品の摂取にともなって起こる遺伝子発現を網羅的に解析する手法は、「ニュートリゲノミクス」とよばれ、個人の「体質」を調べるのに用いられています。個々人の遺伝子多型を考慮した適切な食事を摂ることで、「個の疾病予防」や「個の健康増進」に有効な役割を果たすことが期待されています。ニュートリゲノミクスによる遺伝子多型研究や、胎児期のエピジェネティクス研究などにより、ふだんの生活から、個人に最適な食のデザインを目指す「テーラーメイド栄養学」にますます注目が集まっていくでしょう。

 ぼくは太らない。
 炭水化物が大好き。甘いものも好き。たいして運動もしない。
 でも太らない。昔からずっと痩せ型で、四十手前になった今でもほとんど体重が変わらない。そういう体質なのだ。エネルギーの貯蔵ができないし消費カロリーが多い(=燃費が悪い)タイプ。
 現代ではお得な体質だが、食糧不足の時代には真っ先に死んでしまうタイプだ。

 だから「太らないためには糖質や炭水化物を控えましょう」なんて聞くと、アホじゃねえのとおもう。
 もちろんダイエットには運動や食事制限が重要だが、それ以上に「体質」も大きな要素だ。

 すぐ太るタイプと、ごはんや甘いものを食べても太らないタイプがいる。それを無視してダイエットや食事療法を語るなんて無意味。
 未来では、「21世紀前半までの人はすべての人にいい食事があるとおもってたんだって。ライオンとシマウマに同じ餌を与えとけばいいとおもってたのかな」なんて言われてるかもね。



 食生活が変わることに抵抗を感じる人も多いだろう。
 コロナ禍で会食を控えましょうと言われていても、なかなか変えられない政治家も多い。

 でも、人間の食生活なんてかんたんに変わるものだ。
 我々は「家族そろって食事をするのが正しい姿」とおもいこんでいるが、「家族そろって食事」の歴史はすごく浅い。

 家族関係学が専門の表真美氏は、日本の家族団らんの歴史的な変遷を調べています。その調査によれば、近代までの一般的な家庭の食事は、個人の膳を用いて家族全員がそろわずに行われ、家族がそろっても食事中の会話は禁止されていました。では、食卓での家族団らんは、どのように始まり、どのように普及していったのでしょうか。
 かつて、団らんの移り変わりには、「欧米からの借りものとしての団らん」「啓家としての団らん」「国家の押しつけとしての団らん」があったことが知られています。
 食卓での家族団らんの原型が誕生したのは、明治20年代でした。教育家・評論家の蔵本善治が、食卓での家族団らんを勧める記事を書き、キリスト教主義の雑誌にも同様の記述が複数登場しました。その後、国家主義的な儒教教育と結びついた記事により、家族そろって食事をするべきだという意見が広がっていきました。
 その後、家族団らんが、一般的な家庭の食事風景になったのは1970年代頃でした。NHKの国民生活時間調査によると、この頃、家族で食事している家庭は約9割に達しています。共食が常識だったこの時代の家庭科の教科書には、家族一緒の食事を促す記述はほとんどみられません。

「最近の家族は子どもの塾通いなどでみんなばらばらに食事をとっている! 個食だ! けしからん! 子どもの正常な発達が!」
なんて人がいるけど、一家そろって食事をしていた時期なんて日本の歴史からしたらごくわずかなのね。

「昔はよかった」系の人が理想とするのは昭和時代が多いけど、日本の歴史において昭和ってすごく異常な時代なんだよね。
 専業主婦が主流だったのは昭和だけ、自由恋愛で結婚するのが多数派になったのも昭和、自分で職業を選ぶようになったのも昭和、人口が増えたのも経済が成長したのも二十世紀だけが異常なスピードだった。そもそも「伝統」を意識するようになったのが近代以降。

 食生活なんか数十年でかんたんに変わる(その上さもずっと昔からそれが続いていたと信じこんでしまう)のだから、今世紀後半にはまったく別の食生活になっているかもしれないね。
 すでにコロナ禍のせいでずいぶん変わったし。


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2021年1月26日火曜日

【読書感想文】ご都合のよいスタンド能力 / 東野 圭吾『ラプラスの魔女』

ラプラスの魔女

東野 圭吾

内容(e-honより)
ある地方の温泉地で硫化水素中毒による死亡事故が発生した。地球化学の研究者・青江が警察の依頼で事故現場に赴くと若い女の姿があった。彼女はひとりの青年の行方を追っているようだった。2か月後、遠く離れた別の温泉地でも同じような中毒事故が起こる。ふたりの被害者に共通点はあるのか。調査のため青江が現地を訪れると、またも例の彼女がそこにいた。困惑する青江の前で、彼女は次々と不思議な“力”を発揮し始める。


(ネタバレ含みます)

「ラプラスの悪魔」という概念がある。
 ピエール=シモン・ラプラスによって提唱されたもので、「初期状態がすべてわかればその後何が起こるかわかる」という考え方だ。
 たとえば坂道の上にボールがあり、坂の角度、ボールの質量、摩擦の大きさ、大気圧、風向きと風速などがわかっていればボールがどこまで転がるかは事前に予測できる。それと同じように、宇宙誕生の瞬間の状況を理解できれば、未来も含めこの宇宙で起こる出来事すべてを言い当てることができる、というわけだ。

 たしかに理論上は可能かもねーという気になるが、この考え方は現在では否定されている。カオス理論なるものによって複雑な事象の未来余地ができないことがわかった(らしい)のだ。もっとも、カオス理論について書かれた本を何冊か読んだが、ぼくにはさっぱり理解できなかったが。


 まあそんな「ラプラスの悪魔」の能力、つまり物理的な動きを予見する能力を人間が手に入れたら……というSF小説だ。

 SFには説得力が必要だ。嘘をもっともらしく見せるハッタリ、といっていい。『ラプラスの魔女』は残念ながら、そのハッタリが弱かった。

 能力を獲得した経緯については冗長といってもいいほどの理由付けをおこなっている(はっきりいって能力が説明されるまでがものすごく長い。読者はとっくにわかってるのに)。脳の損傷、天才的外科医による手術、損傷した部位を補うための超常的な回復……。
 それはいい。「こういうわけで物理的な動きを予想できるようになりました」これは納得できる。たとえば一流アスリートは一般人よりもボールの動きを読む力に長けているわけだから、「それのもっとすごい版」を獲得するのであれば「まあそんなこともありうるかもしれないな」とおもえる。

 ただ、この小説に出てくる「ラプラスの悪魔」の能力は度が過ぎる。紙片の落ちる位置や気体の流れる方向を予測したりするのはいいとして、「人間の行動もだいたい予測できる」「その場にいない人間の行動まで読める」「話術によって他人の意思を操れる」といった能力まで付与されている。それラプラスの悪魔の能力をはるかに超えてるやん……!

 当初は「物理的な変化を予測する」能力だったのに、いつのまにか未来予知能力に進化しているのだ。能力が進化するってもはやジョジョのスタンドやん。
 あと「奇跡的に獲得した」はずの能力だったのに、あっさりと別の人物にコピーできてるし。エンヤ婆の弓矢かよ。




 そして……もっとも興醒めだったのは、ぼくが大嫌いな「真犯人が訊かれてもいないのに過去の犯行や自分の内面をべらべらとしゃべる」があること。『プラチナデータ』もそうだったけど。
 おしゃべりな犯人を登場させる小説ってダサいよね。最後に犯人が敵を相手に一から十まで言っちゃうやつ。犯人は冷酷非情で頭脳明晰なはずなのに、なぜか最後だけ親切なバカになって自分にとって不利なことをべらべらとしゃべっちゃう。火曜サスペンスか。

 ああ、やだやだ。もう「訊かれてもいないのにべらべらとしゃべる犯人」は条例で禁止にしてほしい!


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