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2023年8月9日水曜日

【読書感想文】『くじ引きしませんか? デモクラシーからサバイバルまで』 / 多数決よりはずっとずっとマシなくじ引き投票制

くじ引きしませんか?

デモクラシーからサバイバルまで

瀧川 裕英  岡﨑 晴輝  古田 徹也
坂井 豊貴  飯田 高

内容(信山社HPより)
人生に対して運が作用することをどう評価するか。現代のデモクラシーの淵源は、古代ギリシアの公職者くじである。また、生存のくじ、臓器くじ、じゃんけん等による決定方法、いわゆる「くじ」について、〈運の平等主義〉と〈結果の不平等〉を多角的な視点から考究する。意外に「ましな決定方法?」くじ引きへの誘い。「知の糧」への企て(法と哲学新書)第2弾。

 最近「くじ引き民主主義」という考え方がちょっとだけ注目を集めている。

 くじ引き民主主義とはその名の通り、くじ引きで代表者を決める制度だ。ランダムに選ばれた有権者が国会議員となる制度。いってみれば裁判員制度の代議士版。

 そんな無茶な、とおもうかもしれない。ぼくもはじめて聞いたときはそうおもった。でたらめに選んだ人間を国会議員にするなんて。決して今の国会議員が優秀とはおもわないけど、少なくともランダムに集めた人よりはマシだろう。僅差だけど。

 だが、くじで代表を選ぶのは古代ギリシャなどでも取り入れられており、メリットも多い制度として昨今改めて注目されているというのだ。国内外の自治体などで導入され、成果も上げているという。



 くじで代表を選ぶことのメリットとしては、

  • 様々な人が議員に選ばれ、多様性を政策に反映しやすい
  • 少数派の意見も政策に反映される可能性が高まる
  • 政党、派閥、支援団体、利権のしがらみを受けにくい
  • 一般市民の政治への関心が高まる
  • 贈賄が起きにくい(票を買っても当選できるとは限らないので)

などだ。おお、いいじゃないか。

 もちろんデメリットもある。

 だが他方で、くじ引き投票制には少なくとも三つの欠点がある(Elster 1989:89)。 
 第一に、くじという偶然の要素が介在するために、代表が経験から学ぶことが難しくする。くじは、人間の継続的意志を遮断する効果を持つ。そのため、いかに多数の有権者が支持したとしても、くじによって覆される可能性が常に存在する。その結果として、選挙のたびにゼロからスタートすることになりかねない。
 第二に、くじ引き投票では、有権者に対する説明責任が果たされにくくなる。公共の利益に尽くし、そのことを大多数の有権者によって評価された政治家でさえ、くじ引きによって落選する可能性があるからである。大多数の判断が、くじ引きによって覆されかねない。
 第三に、くじ引き投票では、極端な意見の持ち主が選出されてしまいかねない。もちろん、極端な意見を支持する投票者が少なければ少ないほど、そのような代表が選出される可能性は低くなる。しかし、それはゼロではない。くじ引き投票制が長期間運用されるならば、極端で破滅的な代表が選出される事態がどこかの時点で生じないとはいえない。

 ま、このデメリットのうち「有権者に対する説明責任が果たされにくくなる」に関してはだいぶあやしいけどね。現在、投票で選ばれた政治家が説明責任を果たしているとはおもえないので。

「政策を誤ったときの責任の所在が不明瞭になる」ってのも指摘されてるけど、それも今だって誰も責任をとらないので同じだ。汚職にまみれて大赤字になった東京オリンピック誘致の責任を誰かとりましたっけ?


 よく考えてみたら、投票をして多数派が政権をとる、ってずいぶん乱暴な話だよね。小選挙区制みたいなゴミカス制度だと、現状有権者の二割か三割ぐらいの票をとれば当選できる。有権者の二割か三割ぐらいにしか支持されていない政党が、七割ぐらいの議席を得ることもある。むちゃくちゃ雑な制度だ。

 その雑さを当の議員たちが理解して謙虚にふるまっているならまだしも、「これが民意だ」なんてうそぶいている輩までいる。無知のふりをした邪悪か、それとも単なるバカなのかわからないが。



 

 代表者をくじ引きを選ぶことにはメリットもデメリットもある。投票制と同じように。

 ということで、選挙制と抽選制の併用を掲げる研究者が多いようだ。たとえば、衆議院はこれまで通り投票で選ぶことにして、参議院のほうは抽選で幅広い人材を集める、とか。

 これはいいね。親が政治家でなくても、金持ちでなくても、知名度がなくても、党のいいなりにならなくても、国会議員になるチャンスがある。これこそ民主主義国家だよね。

 今の参議院なんか何のためにあるのかわからないし、大きく選出方法を変えたほうがいいんじゃないかな。

 やべー奴が議員になってしまう可能性はあるけど、それは投票制でも同じだし、数パーセントぐらいはやべー奴がいたっていいかもしれない。現実の世の中を反映していて。

 こうした抽選制市民院の存在は、すでに示唆したように、選挙制衆議院の審議を実質化・市民化するのに寄与するであろう。与野党は、テレビ、新聞、インターネット中継などを媒体として有権者に訴えかけている。しかし、国会審議が個々の法案の採決を左右しているとは言いがたい。十分に審議していない法案であっても、一定の手続きを踏んだ後、多数決によって可決されることも少なくない。いわんや、国会審議が次の総選挙での政権選択に結びついているとは言いがたい。だが、抽選制市民院が存在すれば、どうだろうか。衆議院議は、その審議を注視している市民院議員を説得しなければならない。説得できなければ、ある法案を市民院で通過させたり、逆に阻止したりすることはできないからである。衆議院の審議は市民に分かりやすくなるとともに、法案の可決・否決をかけた真剣勝負になるであろう。そうなれば、市民院議員以外の市民も、これまで以上に国会審議に関心を持つようになるであろう。

 抽選で議員を選ぶことは、一部の特権階級議員の暴走を止めることにつながるかもしれない。




 選挙ではあたりまえのように多数決が使われているけど、多数決ってぜんぜんいいことないんだよね。

「小学校で使うからバカでもわかりやすい」「数を数えればいいだけなので集計が楽」ぐらいしかメリットがない。

 民意を反映させる上でぜんぜんいいシステムじゃないのに、あまりにも使われすぎている。


 同性婚や夫婦別姓選択制や基地問題や原発建設地問題のように「少数者にとっては深刻なテーマだが、多数の者にとってはとるにたらないこと」が、多数決だとないがしろにされがちだ。

 多数決を前提とした選挙制度だと、マイノリティにとっての重要課題がずっと後回しにされてしまう。人間誰しも、ある分野ではマイノリティになるのに。


「多数派の傲慢」を打ち破るくじ引き投票制、ぜひ導入してみてほしい。

 ただ問題は、多数決で選ばれた今の政治家が変えたがらないだろうことなんだよな。地盤やコネクションや票田がぜんぶ無駄になっちゃうもんな。特に参議院議員にとっては既得権益を手放すことになる。

 とりあえず小学校での「なんかあったら多数決」を変えるとこからかな。


【関連記事】

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選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】



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2023年7月31日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『レイクサイド』 / すっきりしない良作ミステリ

レイクサイド

東野 圭吾

内容(e-honより)
妻は言った。「あたしが殺したのよ」―湖畔の別荘には、夫の愛人の死体が横たわっていた。四組の親子が参加する中学受験の勉強合宿で起きた事件。親たちは子供を守るため自らの手で犯行を隠蔽しようとする。が、事件の周囲には不自然な影が。真相はどこに?そして事件は思わぬ方向に動き出す。傑作ミステリー。


 舞台は湖畔の別荘。中学受験の合宿で、四人の子ども、その両親、塾講師が泊まっている。そこに主人公の愛人が訪ねてくる。

 その夜、出かけていた主人公が別荘に帰ってくると、愛人の死体があった。妻が言う。「あたしが殺したのよ」と。受験前に騒がれることを嫌った保護者たちは、死体を隠して事件を隠蔽しようとする……。



 ミステリを読んでいると「そううまくはいかんやろ」とおもう作品によく出くわす。

 そんな万事計画通りに話が運ばんやろ、そうかんたんに人を殺さんやろ、そううまく目撃者が現れんやろ、そんなにたやすく本心を吐露せんやろ、そうかんたんに犯人がべらべらと犯行について語らんやろ。

『レイクサイド』がよくできているのは、中盤まではその「そううまくはいかんやろ」レベルのミステリなんだよね。

 そこにいあわせた人が死体遺棄に手を貸すのは不自然じゃないかな。いくら仲が良いといっても、他人のためにそうかんたんに犯罪に手を染めるか……? 死体隠蔽工作も順調に進む。目撃者が現れるが、それもうまく仲間に引き込むことができる。

 できすぎじゃない?

 ……という違和感は、ちゃんと後半で解消される。なるほどなるほど、ちゃんと読者の「そううまくはいかんやろ」を想定して、それすらも謎解きに利用している。さすが東野圭吾氏だなあ。押しも押されぬ大人気ミステリ作家に対して今さらこんなこと言うのもなんだけど、上手だなあ。


 また、単なる謎解きに終始させず、夫婦、親子などの関係が生み出す愛憎入り混じった感情もストーリーに盛り込んでいる。

 登場人物が多い(現場にいるのは14人)のにそれほどややこしさも感じさせないし、つくづくうまい小説だった。




 ちなみに、後味は悪い。登場人物は主人公を筆頭にみんな身勝手だし、保身ばかり考えていて行動もまったく道徳的でない。また、犯人の動機については最後まで明らかにされないし、犯行の結末も不明。つまり、まったくもってすっきりしない。

 でも個人的にはこういうのがけっこう好きなのよね。読んだ後にもやもやが残る小説は嫌いじゃない。

 悪い犯人が捕まりましたメデタシメデタシ、っていうわかりやすい物語が好きな人にはおすすめしません。


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2023年7月26日水曜日

【読書感想文】鴻上 尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』 / 死ななかった優秀な特攻兵

不死身の特攻兵

軍神はなぜ上官に反抗したか

鴻上 尚史

内容(e-honより)
1944年11月の第一回の特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい!」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた。

「世紀の犬死に」「ばかが考えた自軍の戦力を減らすだけの愚策」でおなじみの日本軍の特攻隊(あれをちょっとでも美化することのないようにきつめの言葉で表現しています)。

 そんな「死ぬまで還ってくるな」の特攻隊員として9回出撃命令を受けながら、くりかえし生還し、終戦を迎え、2016年まで生きた兵士がいた。それが佐々木友次さん。すごい。

 佐々木友次さんは何を考え出陣したのか、そしてどうやって生き残ったのかに迫ったルポルタージュ。



 まず知っておかないといけないのは、特攻(爆弾を積んだ飛行機での体当たり)は人命を軽視しているだけでなく、もっとシンプルな理由で効率の悪い作戦だったということだ。

 体当たりだと甲板しか攻撃できなくて戦艦の心臓部にはダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうがスピードが落ちるので衝突時のエネルギーが小さくなる、チャンスが一回しかないので敵艦への接近が難しくても無理してつっこまなくてはならない、などの理由だ。

 そのため特攻をやめるよう進言していた人たちもいた。命が惜しいからではない(それもあっただろうが)。戦術的に無駄だからだ。

 鉾田飛行師団の研究部の岩本大尉と福島大尉は、効果的な爆弾、つまり海軍のような徹甲爆弾を作るようにと再三、陸軍の航空本部と三航研(第三陸軍航空技術研究所)に求め続けた。けれど、三航研は効果的な爆弾を作る代わりに体当たり攻撃を主張し始めた。福島大尉は激しい怒りと共に、三度、航空本部と三航研に対して、「体当たり攻撃がいかに無意味で効果がないか」という理論的な反論の公文書を提出した。
 だが、三航研は、理論的に都合が悪くなると、「崇高な精神力は、科学を超越して奇跡をあらわす」と技術研究所なのに精神論で体当たりを主張した。福島大尉は三航研はずるいと憤った。効果のある爆弾が作れないから、体当たりをやるよりしかたがないと言っている。それはつまり、技術研究所の職務放棄だと。

 特攻はコストだけ大きくてほとんどリターンのない作戦だったのだ。まさにばかが考えた作戦。

 しかし、最初のばかが考えた作戦を正当化するため、初回の特攻の戦果は捏造されて実際よりもずっと大きく報告された。そのせいで「特攻は有効だ」という誤った評価が定着してしまった。

 また、ばかはえてして手段と目的をまちがえる。「勝つためには死ぬこともおそれない」だったのが「死ぬためなら勝たなくてもいい」になってしまう。特攻はその典型だ。

 これは現代でも同じだけどね。「売上を上げるために元気を出せ」が「元気を出していれば売上を上げてなくてもいいし、あいつは売上を上げていても元気がないからダメだ」になってしまうし、「試合で勝つために声を出せ」が「プレーに悪影響が出てもいいから声を出せ」になってしまう。

 陸軍参謀本部は、なにがなんでも一回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。
 そのために、技術優秀なパイロットを『万朶隊』に選んだ。
 けれど、有能なパイロット達は優秀だからこそ、パイロットとしてのプライドがあった。爆弾を落としてアメリカ艦船を沈めるという目的のために、まさに血の出るような訓練を積んだ。「急降下爆撃」や「跳飛爆撃」の訓練中、事故で殉職する仲間を何人も見てきた。鉾田飛行師団では、毎月訓練中に最低でも二人の殉職者を出していた。
 技術を磨くことが、自分を支え、国のために尽くすことだと信じてきた。だが、「体当たり攻撃」は、そのすべての努力と技術の否定だった。
 なおかつ、与えられた飛行機は、爆弾が機体に縛りつけられていた。参謀本部は、もし、操縦者が卑怯未練な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装したのだ。

 参謀本部にとって、特攻は何としても成功させる必要があった。勝利のためではない。自分たちが提案した戦術が有効だったと示すため。つまりは保身のために。

 だから経験豊富で優秀なパイロットを特攻兵に選んだ。優秀だから、特攻なんかしなくても爆撃に成功できるようなパイロットを。



「特攻なんかしなけりゃよかったのに」と今いうのはかんたんだ。誰だってそう言うだろう。

 だが、次々に兵士が死んでゆき、誰もが命を投げうって戦い、死を恐れるのはなによりもみっともないことだとずっと教育され、上官の命令は絶対だという軍隊の中にあって、「特攻は愚策だ」と言うのはとんでもなくむずかしいことだったろう。仮に言ったとしても何も変えられなかっただろう(変えられたのは昭和天皇ぐらいだろう)。


 だが、そんな時代にあってもちゃんと自分でものを考え、ばかな命令よりも道理を優先させた兵士もいた。

「もうひとつ、改装をした部分がある。それは爆弾を投下できないようになっていたのを、投下できるようにしたことだ」
 佐々木達は、思わず息を飲んだ。そして、お互いに顔を見合わせた。信じられない言葉だった。
「投下すると言っても、投下装置をつけることはできないので、手動の鋼索(ワイヤーロープ)を取り付けた。それを座席で引っ張れば、電磁器を動かして爆弾を落とすことができる。それならば、1本にしたツノは、なんのために残したかといえば、実際には、なんの役にも立たない。これも切り落としてしまえばよいのだが、それはしない方がよい。というのは、今度の改装は、岩本が独断でやったことだ。分廠としても、四航軍(第四航空軍)の許可がなければ、このような改装はできない。しかし、分廠長に話をして、よく頼み込んだら、分かってくれた。
 分廠長も、体当たり機を作るのは、ばかげた話だと言うのだ。これは当然のことで、操縦者も飛行機も足りないという時に、特攻だといって、一度だけの攻撃でおしまいというのは、余計に損耗を大きくすることだ。要は、爆弾を命中させることで、体当たりで死ぬことが目的ではない」
 岩本隊長は次第に興奮し、語調が熱くなった。
「念のため、言っておく。このような改装を、しかも四航軍の許可を得ないでしたのは、この岩本が命が惜しくてしたのではない。自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ。
 体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけではない。体当たりで、撃沈できる公算は少ないのだ。こんな飛行機や戦術を考えたやつは、航空本部か参謀本部か知らんが、航空の実際を知らないか、よくよく思慮の足らんやつだ」

 なんて勇敢で、なんて理性的で、なんとかっこいい人だろう。

 軍の上層部にいるのがこんな人ばかりだったなら、日本もあそこまで手痛くやられることはなかったんだろうな。

 残念ながら、軍の許可を得ずに特攻機から爆弾を切り離せるよう命じた岩本益臣大尉は、この後すぐに戦死してしまう。戦闘で、ではない。「司令官が宴席に岩本を呼びつけたのでそこに向かう途中で敵機に撃たれて死亡」である。司令官が戦地での宴席に招いたせいで優秀な隊長を失ったのだ。なんとも日本軍らしい話だ。



 この岩本隊長の機転や、整備兵や他隊員のサポート、本人の飛行技術、そして幸運にめぐまれて佐々木友次さんは何度も出撃しながらそのたびに生還した。

 敵艦の爆撃に成功するなど戦果をあげたが、佐々木友次さんの軍での立場はどんどん悪くなる。生還したからだ。

 戦果を挙げなくても命を落とした兵士が英霊としてたたえられ、戦果をあげても生きて還ってきた兵士はなじられる。

 どこかで聞いたことのある話だ。そう、だらだら仕事をして残業する社員のほうが、早く仕事をこなして定時に帰る社員よりも評価される現代日本の会社だ。

  第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃でなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
 天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。
 佐々木は答えた。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
 伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。

 完全に手段と目的が入れ替わっている。戦果をあげることではなく死ぬことが目的になっている。

 特攻で死んだと天皇に報告した以上、生きていられては困る。上官の面子のために優秀な兵士を殺そうとする。終戦間際にはなんとこっそりと佐々木さんを銃殺する計画まで立てられていたという。

「戦果をあげて無事で帰還する兵士」ってふつうならもっとも優秀な兵士なのに、それを殺そうとする軍。負けて当然だよな。



 佐々木さんはもちろんだが、この本を読むといろんな兵士がいたんだなということを知ることができる。あたりまえなんだけど。

 命令をこっそり無視する兵士、特攻命令に逆らった兵士、嘘をついて引き返した兵士、そして「自分も後に続く」と部下たちを出撃させながら自分だけ台湾に逃げた司令官……。

 小説なんかで「国や大切な人を守るためにと胸を張ってすがすがしい顔で出撃してゆく特攻兵」のイメージがあるが、当然ながらあれはフィクションだ。みんな生にしがみついていたのだ。死んでいった人たちももっと生きたかったと強い無念を抱きながら死んでいったのだ。

 じゃあなぜ「胸を張って出撃していった特攻兵」というイメージがでっちあげられたかというと、生き残った者たちの罪悪感をやわらげるためだろう。他人を犠牲にして生きていることに耐えられなかった者たちが「あいつらは誇り高く死んでいった」とおもいこむことにしたんだろう。今でもそういう小説がウケるからね。

  第四航空軍から特別に来ていた佐藤勝雄作戦参謀が話を続けた。「佐々木伍長に期待するのは、敵艦撃沈の大戦果を、爆撃でなく、体当たり攻撃によってあげることである。佐々木伍長は、ただ敵艦を撃沈すればよいと考えているが、それは考え違いである。爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりならば、確実に撃沈できる。この点、佐々木伍長にも、多少誤解があったようだ。今度の攻撃には、必ず体当たりで確実に戦果を上げてもらいたい」
 天皇に上聞した以上、佐々木は生きていては困る。後からでも、佐々木が特攻で死ねば、結果として嘘をついたことにならない。そのまま、佐々木は二階級特進することになる。上層部の意図ははっきりしていた。
 佐々木は答えた。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
 伍長が大佐や中佐に向かって反論するのは、軍隊ではあり得なかった。軍法会議の処分が当然のことだった。


 ぼくは、特攻兵が犬死にしたがるバカばっかりじゃなかったと知ってちょっと安心した。ちゃんと、生き残るため方法を考え、生き残るために自分ができるかぎりのことをしていたのだ。日本軍は組織としては大バカだったし参謀や司令官には大バカが多かったけど、命を捨てない賢人たちもちゃんといたのだ。

 佐々木友次さんや岩本益臣大尉のような人が多ければ、組織も社会もずっといいものになるんだろう。

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2023年7月20日木曜日

【読書感想文】マーク・W・モフェット『人はなぜ憎しみあうのか 「群れ」の生物学』 / なぜ自由を嫌う人がいるのか

人はなぜ憎しみあうのか

「群れ」の生物学

マーク・W・モフェット(著) 小野木明恵(訳)

内容(e-honより)
人間社会は動物の群れや昆虫社会とどこが似ていて、どこが異なるのか?先史時代における狩猟採集民の生活から現代のフェイスブックでのコミュニケーションまで、人と人が交わることで生まれるコミュニティの成立背景について、フィールド生物学者がチンパンジーの群れやアリの巣の生態と比較しながら探索する。


 生物学者による、ヒトがどのように群れを築くのか、という話。邦題は『人はなぜ憎しみあうのか』だが、憎しみについての話はあまり出てこない(原題には憎しみのことは触れていない)。誰だこのタイトルつけたやつは。


 群れをつくる生物は数多くいるが、そのほとんどが血縁またはつがいの延長だ。ミツバチなんかは巨大な群れを形成するが、あれはすべて一匹の女王バチから生まれているので実は核家族だ。サルなんかは比較的大きめの群れをつくるが、それでも数十頭~数百頭。メンバー同士はみんな顔見知り。田舎の集落、といった規模だ。

 だが人間はもっと大きな集団をつくることができる。

 生命の歴史において、人がコーヒーショップにふらりと入っていく場面よりも驚くべきものはほとんどない。常連客たちが全然知らない人ばかりというときもある――それなのに何も起こらない。うまくふるまい、まったく面識のない人たちに出会ってもうろたえない。このことは、他の四本の指と向かい合わせになった親指や、直立姿勢、賢さとは別の、私たち人類という種がもつ独特な点を示している。社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない。チンパンジーなら、知らない個体に出くわせば、相手と戦うか、恐れおののいて逃げ出すだろう。チンパンジーであふれたカフェに入るなど考えられない。誰かとにらみ合いになっても、戦いの危険を冒さずに生き延びる可能性があるのは、若い雌だけだ――ただしセックスを受け入れたほうがもっとよい。ボノボでさえ、知らない個体のそばを無関心に通り過ぎたりしないだろう。しかし人間には、見知らぬ人たちに対処して、彼らのあいだをすいすいと通り抜ける才能がある。私たちは、コンサートや劇場、公園、市場などで他人に囲まれていても楽しく過ごす。幼稚園やサマーキャンプ、あるいは職場で、互いの存在に順応し、気に入った何名かと親しくなる。

 家族ではない、血のつながりもない、それどころか顔をあわせたことがない。そんな個体がすぐ近くにいても許容できるのは、群れをつくる脊椎動物の中ではヒトだけだと著者はいう。

 ほとんどの生物にとって、ほかの個体は「身内」か「敵」のどちらかだ。だがヒトは、そのどちらでもない個体を許容することができるのだ。

 改めて考えたら、満員電車なんて異常な光景だよなあ。周囲は知らない人だらけ。その人たちが、話すわけでもなく、かといってけんかをするでもなく、おしあいへしあいしながらも、まるで周囲の人間など存在しないかのようにふるまっている。あれは群れというより魚群、って感じだよなあ。

 そういや「社会をもつ他の脊椎動物たちは、こうした行動を取れない」って書いてるけど、魚に関してはこうした行動をとれるんじゃないだろうか? イワシの群れなんかお互いに顔を認識してるとはおもえないけどなあ。


 とにかく、知らないやつがすぐそばにいてもつかずはなれずでうまくやっていけるのは、ヒトやアルゼンチンアリなど、ごくごく例外的な存在だけなんだそうだ。

 アルゼンチンアリは、仲間を見分けるのににおいを使っている。ヒトがにおいの代わりに様々な指標を使って仲間を認識している。言語、信仰、物語、髪型、服装、アクセサリー、タトゥー……。

 人がすぐに制服やおそろいのハッピやTシャツをつくりたがるのも、アリと同じだ。



 人間は集団をつくる。だが人間は、集団には属したいが集団に埋没したくないという奇妙な習性をもっている。 

 人間の定住地で集団志向が生じ、内部での競争が減り、社会的な刺激が、扱いやすく達成感の得られるようなまとまりへと分割されたのだろう。心理学にある最適弁別性という概念が、これを説明するのに役に立つ。人は、包含と独自性という感覚のバランスが取れているときに自尊心が最も高くなる。つまり、自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたいのだ。大きな集団のメンバーであることは大切だが、それだけでは、特別でありたいという思いはかなえられない。このことが、もっと排他的な集団とのつながりをもつことで大勢の集まりから離れる動機になりうる。遊動的な狩猟採集民の社会は小さかったので、このような問題は起こらなかった。半族やスキンなど少数の集団は別として、誰でも、自分に変わった部分や、社会のなかでの個人的なつながりがあるだけで、数百名からなる社会のなかにいても自分は独自の存在だと感じられた。たとえば、職業やクラブに帰属することでちがいを表す必要がなかった。実際のところ、ちがいを表すことは歓迎されなかったかもしれない。しかし定社会が拡大するにつれ、自分を他と区別したいという気持ちがますます強くなっていった。ここで初めて、他の人たちについて知りたい内容が「あなたの仕事は何ですか?」になったのだ。

「自分の属する集団の一部であると感じられるくらいには似ていたいが、それと同時に、特別でいられるくらいはちがっていたい」

 これはわかるなあ。「個性」は欲しいけど、でも「異常者」とはおもわれたくない。

 小さい集団では個性はいらない。個々の違いが十分目立つからだ。家族の中でことさらに奇抜な恰好をする人はいない。でも集団が数十人、数百人の規模になると、私は集団の中に埋もれてしまいそうになる。

 バンド社会で人口の上限値が低かったのは、人間の個性を表現することを抑制するような心理が働いていたからかもしれない。バランスを維持することが必須だったのだ。メンバーたちは、共同体意識を共有するくらいには互いに似ていて、それでいながら自分自身が独特であると思えるくらいにちがっていると感じる必要があった。第10章で、社会のなかのすべての人が数個のバンドのなかで暮らしているときには、自分を他者から区別したいという動機がほとんどなかったと説明した。だから、狩猟採集民のあいだで派閥が作られることがとても少なかったのだ。しかし、いったん人口が膨れ上がると、狩猟採集民も、もっと小さな集団として結びつくことで与えられるようなちがいをもちたいと望んだ。多様なアイデンティティを欲する心理が増大すると、派閥の出現が促進され、その結果、バンド間の対立が生じ、関係が断たれることになった。定社会では状況が異なり、最終的には人口が天文学的な値に達した。バンドに暮らす人々とはちがい、定住生活をする人々の大半は、社会的に容認され、ときには定住社会が機能するために必要とされるようなやりかたで、集団として結びつく機会を見つけた――仕事や職業別の団体、社交クラブ、社会的な階級や拡大された親戚関係のなかでのニッチにおいて。

 集団の数が数十から数百に増えると、集団が分裂したり、派閥が生まれたりして、小さな集団に属するようになる。

 ヒトは言語や信仰などのツールを開発することで大きな集団をつくれるようになったが、それでも動物は動物、やっぱり大きな集団は居心地が悪いのだ。



 ヒトが、社会とのつながりを求める力は、たぶんふだんぼくらが感じているよりもずっと強い。

人間の心は、自身が作り出した私たちと彼らとが対立する世界のなかで発達してきた。そしてその世界から出現した社会はつねに、その他のいかなる社会的な結びつき以上に、人々に意義や妥当性を授ける基準点となっている。このようなアイデンティティがなければ、人は、疎外され、根なし草となり漂流しているような感覚に陥る。これは心理学的に危険な状態だ。その適例が、母国とのつながりを失い、受け入れ国から冷たく拒絶された民族の人々が感じる寄る辺なさである。疎外されることは、宗教における狂信や原理主義よりも強い動機となる。多くのテロリストが、最初から宗教の信者であったのではなく、文化の主流から排除されてから信仰にすがるようになったことの背景にはこれがある。社会的なよりどころをもたない人にとって、信仰が隙間を埋めてくれ。カルト集団やギャングも同じである。社会ののけ者にブライドや帰属感と、さらには共通の目標や目的を授けることによって、社会を持続させるような属性のいくつかを勝手に奪い取っているのだ。

 海外に住む日本人が、日本についてあれこれ語っているのをときどき目にする。国外にいるのだから日本のことばっかり気にしなくても……とついつい考えてしまうけど、国外にいるからこそ日本のことが気になるのだろう。

 定年退職した人たちが、サークルや自治会などの形でどうでもいいことを口実に集まるのも、やはり「社会的なよりどころ」を求めてのことなんだろうな。

 べつにそれ自体はいいんだけど、問題は「社会的なよりどころを求めている人」はつけいる隙が大きいということ。非合法な組織や、カルト集団であっても、帰属感を与えてくれるのであればかんたんに飛びついてしまいかねない。


 人々は自身の自由を大切にするが、実際のところ、自由にたいして社会から課せられた制限は、自由そのものと同じくらい幸福にとって不可欠なものである。もしも人々が、自身にたいして開かれた選択肢に圧倒されたり、周囲にいる人々の行動に動揺したりするなら、自由であると感じることはない。それなら、私たちが自由ととらえているものには、つねにかなりの制約がかかっていることになる。しかし、制限を不当に厳しいものと感じるのはよそ者だけだ。こういう理由から、アメリカのように個人主義を推進する社会と、日本や中国のように集団主義的なアイデンティティを育む社会――共同体とそこから与えられる支援との一体感のほうにより大きな重点が置かれる――はどちらも等しく、社会から差し出される自由や幸福を享受することができる。社会が寛容であっても、もしも市民が、他者の安全地帯から外れた場所で行動する自由をもつなら(あるいはそうした自由をもって当然だと感じるなら)、それ女性がくるぶしを見せることであれ、LGBTQ団体が結婚の権利を主張することであれ、結束が弱まることになる。
 こうしたことが、今日の多くの社会を悩ませている弱点である。しかし、多様な民族がいることから、結束と自由の両方を追求することがいっそう複雑になっている。

「他人の自由に反対する人」っているじゃない。同性婚や夫婦別姓自由化に反対する人。

 ぼくは、ああいう人の存在がふしぎだったんだよね。「おまえが同性婚しろ!」って言われて抵抗するならわかるけど(ぼくも抵抗する)、「同性婚したい人はすればいい、しない人はしなくていい」に反対する理由なんてあるの? 選択肢が増えるだけだから誰も困らないのに?

……とおもってた。

 でも、このくだりを読んでほんのちょっとだけ理解できた。ぼくは自由(選択肢が増えること)はいいものだとおもっていたけど、世の中には自由が嫌いな人もいるのだと。

 自由と社会の結束の強さは両立しない。規律でがんじがらめの軍隊がばらばらになることはないが、「参加してもしなくてもいいよ。他人に強制せずにみんな好きに楽しもう」というサークルは容易に自然消滅する。

 だから所属する社会が変わることを容認したい人は、自由をおそれる。社会の結束が弱まれば、自分が「社会的なよりどころをもたない人」になってしまうかもしれないから。

 ふつうは家族や友人や地域コミュニティや職場や趣味のサークルなどいろんな組織に居場所を感じているものだが、どこにも居場所がなくて「我が国」にしか帰属意識を感じられない人にとっては、社会が自由になってつながりを弱めることはおそろしいことなんだろう。

 共感はしないけど、ほんのちょっとだけ理解はできた、気がする。


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2023年7月19日水曜日

【読書感想文】『大人のための社会科 未来を語るために』 / 電気代が高騰すれば経済成長

大人のための社会科

未来を語るために

井手 英策 宇野 重規 坂井 豊貴 松沢 裕作

内容(e-honより)
気鋭の社会科学者が、多数決、勤労、信頼、ニーズ、歴史認識、希望など12のキーワードから日本社会を解きほぐす。社会をよくしたい、すべての人のための「教科書」。


 社会科学者たちによる、日本社会を解きほぐすための本。「教科書」とついているが教科書のように初学者向けの内容ではなく、ふつうに社会科学の本だった。



 GDPについて。

 GDPの最大の特徴の一つは、あらゆるサービスの付加価値を、中立的に足し合わせることです。どのようなサービスも差別しないので、そのなかにはもちろん医薬も含まれます。だから花粉がよく飛散する年に、誰かが花粉症を発症して抗アレルギー薬を消費するようになったら、それはGDPを上げる効果をもちます。
 こうした「ネガティブな消費」にかんする付加価値をもGDPは含んでいます。係争が起きたときの訴訟費用、ボールが窓ガラスに当たり割れたときの修復費用、あるいは成績不良で留年したとき余分にかかる学費。いずれもネガティブな消費といってよいでしょう。このようにマイナスをゼロにするのも、あるいはゼロをプラスにするのも、「変化分」が等しければ、付加価値としては等しくなります。
 花粉症を発症した人が薬を飲むことで発症以前と同じ生活ができるようになるのは、付加価値の発生であり、GDPの向上につながります。しかし患者にとってはそんな付加価値など要しない発症以前の状態のほうが、好ましかったはずです。

 なるほどなあ。「経済成長」という言葉は主にGDPの伸びをもとに語られるけど、必ずしもGDPが増えれば市民の生活がよくなるというわけではないのだなあ。最近は電気代やガソリン代が値上がりしていて、結果的にGDPも伸びているわけだけど、あたりまえだけど電気代が上がったって暮らしはよくならない。物価上昇分以上に賃金が上がらなければむしろ悪くなる。

 そう考えると、経済成長ってなんなんだという気になってくる。経済成長は選挙の争点にもなったりするけど、国民みんな壮大な詐欺にあってるんじゃないか。

「経済成長」という呼び方がもうウソをはらんでいるよね。「経済膨張」ぐらいがいいんじゃないの。



 日本は高福祉の国というイメージもあるが、国民の意識はむしろ逆で、日本は「自己責任」という感覚が強い国なんだそうだ。

 もう少し具体的にみてみましょう。私たちは、子育てや教育、病気や老後への備え、そして住宅といったさまざまなニーズを、政府などの公共部門=おおやけに頼らず満たしてきました。たとえば、専業主婦が子育てやお年寄りの介護を担ってきたこと、あるいは企業が任意で行う福利厚生である法定外福利費が大きかったことを考えてみてください。さらにいえば、私たちは、これらのニーズを満たすために、政府に税を払うことではなく、自分たち自身で貯蓄することを選んできたのです。
 日本の財政の特徴は、ヨーロッパであれば「パブリック」なものと考えられたニーズを、自分自身の勤労・貯蓄と分離したプライベートである家族・コミュニティ・企業などの助け合い、つまり自助と共助に委ねた点にありました。こう考えますと、依然として自己責任に支えられた日本の財政をどうするのか、人々に共通の「パブリック」なニーズを今後どうするのかという問題に加えて、たんなる欧米の制度のものまねではなく、「生活の場」「生産の場」、そしてパブリックな「保障の場」の関係をどう立て直していくのかが問われることになります。

 教育はともかく、住宅や医療や介護については「個人の問題」という意識が強い。「あなたが住む家なんだから、購入費や家賃を負担するのはあなたでしょ」とおもうし、「あなたの介護が必要になったらそれをするのはあなたの家族」と考える。

 あまりに深く根付いている意識なので疑うこともないけど、改めて考えたら個人に還元すべき問題なのだろうか。住居は誰にとっても必要なものなのだから学校や道路や警察と同じようにすべて税金で負担したっていいんじゃないだろうか。医療や介護だって、誰だって必要となるものなんだから全額税金でまかなったっていい。

 ううむ。考えれば考えるほど、なんで個人で負担してるんだろ? という気になってきた。

 そりゃあ、超高級マンションに住みたい人は自己負担で買えばいいけど「最低限度の生活が送れればそれでいい」って人には格安で住居を提供したっていいよね。学生とかさ。今でも県営住宅とかはあるけど圧倒的に数が足りない。

 病院や介護施設だって、警察や消防と同じで「お世話にならずに済むならそれに越したことはないけどどれだけ気を付けてても必要になることはある施設」なんだから個人負担はもっと少なくていい。老人だけ負担率を低くする、みたいなわけのわからない制度じゃなく、一律数パーセントの負担にしたらいい(タダにしちゃうと必要ないのに行く人が出かねないのでちょっとはお金をとったほうがいい)。



 ジョン・フォン・ノイマン(コンピュータの生みの親)が生み出したコンピュータが優れていたのは、かんたんな仕組みでミスを起こりにくくしたからだという。

 コンピュータといえどもミスは起こる。だが「ひとつの計算を複数の回路でおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、ミスが起こる確率は激減する。

 たとえば100回に1回ミスを起こす回路がある。ミスを起こす確率は1%だ。
 だが「3つの回路でそれぞれ計算をおこない、多数派の結果を採用する」とすれば、3つのうち2つ以上が同時にミスをする確率は

(1/100)^2 × 99/100 × ₂C₃ + (1/100)^3 ≒ 0.03%

となる(だよね?)。回路の数をもっと増やせば、ミスが起こる確率は限りなく0に近づく。

 多数決は、基本的にこれと同じ考え方だ。

 ここで人間を電気回路に、集団をコンピュータに見立ててみましょう。するといまと同様の理屈により、個々の人間が「イエス・ノーどちらにすべきか」について正しく判断ができずとも、彼らのうち多数派の判断は正しい確率が高まる、ということになります。さて、これは多数決を安易に礼賛する話ではありません。むしろそれは多数決の「正しい使い方」とでもいうべきものを教え、安易な利用を牽制するものです。三人の有権者が多数決で意思決定する状況を例に考えてみましょう。

〈ボスがいてはだめ〉 三人のなかに一人「ボス」がいて、他の二人はこのボスと同じ投票をするとしましょう。このときボス以外の二人はボスのコピーなので、実質的な有権者はボス一人しかいません。電気回路を一本しか使わないコンピュータと同じで、よくエラーを起こします。これは過半数グループのなかのボスが存在しても同じです。二人の有権者のうち一方がボスだとすると、ボス一人の意見が多数決を経て集団の意思決定となるからです。

〈流されてはだめ〉 人々がその場の何となくの空気や、扇動に流されてはいけません。これは電気回路たちが、外部ショックで同じ方向にエラーを起こすようなことだからです。このときも複数の電気回路を用いるメリットが出ません。

〈情報が間違っているとだめ〉 有権者がひどく間違った情報をもっていてはなりません。これはごく当たり前のことで、「A」と伝えるべき電気回路に、最初から「notA」が入力されていてはなりません。

 こう考えていくと、多数決に求められる有権者の像とは次のようなものです。ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされない。自律して熟慮する個人といってよいでしょう。こうして考えていくと、多数決を正しく使うのが決して容易ではないとわかります。

 ボスはおらず、空気や扇動に流されず、デマ情報に惑わされずに完全に独立した意思に基づいて投票行動をおこなう市民……。ま、いないよね。どこにも。

 ということで多数決は理論上は有用な手段なのかもしれないけど、現実的には「影響力のでかい人間のおもいつきで決める」のと大差ない。まったくもって民主的じゃない手段なんだよね。

 だったら他の方法がいいのかというとそれぞれ一長一短があるから決定的な方法はないんだけど、問題は「多数決で選ぶ」=「民主的に選ぶ」と誤解されていることだよね。多数決、小選挙区制という歪んだルールのゲームを制しただけなのにおこがましくも「自分たちは民意で選ばれた」と勘違いしてるバカ政治家もいるしね。

「多数決は便宜的に用いている手段であってまったく民意を反映していない」という認識が広がれば、もうちょっとマシな政治ができるようになるのかもしれないね。


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2023年7月14日金曜日

【読書感想文】二宮 敦人『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 / ハンター試験をくぐりぬけ

最後の秘境 東京藝大

天才たちのカオスな日常

二宮 敦人

内容(e-honより)
やはり彼らは、只者ではなかった。入試倍率は東大のなんと約3倍。しかし卒業後は行方不明者多発との噂も流れる東京藝術大学。楽器のせいで体が歪んで一人前という器楽科のある音楽学部、四十時間ぶっ続けで絵を描いて幸せという日本画科のある美術学部。各学部学科生たちへのインタビューから見えてくるのはカオスか、桃源郷か?天才たちの日常に迫る、前人未到、抱腹絶倒の藝大探訪記。


 日本最難関の大学は東大ではない。東大入試の倍率は3~4倍。一方、東京藝大の倍率は学科にもよるが高ければ数十倍。入ることの難しさでいえば、圧倒的に東京藝大のほうが上である。しかも芸術的才能を開花させるには、勉学よりも遺伝・家庭環境・どれだけ早くから始めたかがものをいう。大人になって一念発起して数年間必死に勉強をして東大に入れることはあっても、大人になって必死にピアノを練習しても東京藝大には入れないだろう。

 宝塚音楽学校と並んで、日本で最も入るのが難しい学校と言っていいだろう。

 そんな、とにかくすごい大学。が、その中身はベールに包まれている。いやべつに包んでいるわけではないだろうが、ほとんどの人には縁のない世界だ。

 もちろんぼくにもまったく縁がない。そもそも芸術と縁がない。ド音痴だし、美術館にもほとんど行ったことがない。藝大生がどんな生活を送っているのか、まったく想像もつかない。美大や音大といっても『のだめカンタービレ』『はちみつとクローバー』程度の知識しかない。漠然と「変わった人が多いんだろうな」とおもうだけだ。




 そんな、変人が集う芸術系大学の中の最高峰・東京藝大の卒業生・在学生・教授へのインタビューを通して藝大生の生態を明らかにしたルポルタージュ。ものすごくおもしろい。


 藝大は大きく音校と美校に分かれているのだが、その二者は似ているようでまったく別物だそうだ。

 一方、音校卒業生の柳澤さんが教えてくれた、学生時代の話。
「私、月に仕送り五十万もらってたなあ」
「え、五十万?」
「音校は何かとお金がかかるのよ。学科にもよるけど。例えば演奏会のたびにドレスがいるでしょ。ちゃんとしたドレスなら数十万はするし、レンタルでも数万。それからパーティー、これもきちんとした格好でいかないとダメ」
 音楽業界関係者のパーティーは頻繁にあるそう。そこで顔を売れば、仕事に繋がるかもしれないのだ。

 うひゃあ。こんな人がごろごろしているのだそう。

 音楽センスに恵まれていて、本人も音楽が好きで、必死で努力して、でもそれだけでは入れない世界なのだ。家に経済的余裕があって、かつ毎月五十万円出してくれないと入れない。かつ、三歳ぐらいからずっと一流のレッスンを受けさせてくれる家でないと。

 しかしこれはこれでたいへんよなあ。生まれたときから音楽家になることが義務付けられているようなもんだもんなあ。皇室に生まれるのとあんまり変わらない。




 多くの天才が集う場所だけあって、藝大は入試も独特。

「人を描きなさい。(時間:二日間)」
 平成二十四年度の絵画科油画専攻、第二次実技試験問題である。二日間ぶっ続けではなく、昼食休憩の時間もあるため、試験時間は実質十二時間ほどだが、それでも長い。

 十二時間かけて人を描く……。とんでもない難問だ。ぼくなんか一時間ももたないや。

 勉強のほうでも、一流校は意外と問題がシンプルなんだよね。東大入試の数学の問題なんか、問題文は二~三行だったりするもんね。




 入試にはみんな画材を持ち込むので、スーツケースで会場入りしたりするらしい。それにもかかわらず……。

「入試当日は、エレベーターが使えないんです。そして困ったことに、油画の試験は絵画棟の五階とか六階で行われるんですよ」
 試験会場まで階段で上らなくてはならないのだ。さらに美校の教室は大きなサイズの絵を描いたり展示したりできるように、一階分の天井高が通常のビルの二階分ほどある。試験会場が六階であれば、実質十二階分、重い画材を担いで上ることになってしまう。
「試験当日、集合場所に集まるじゃないですか。すると試験官の方が現れて、「では、ついて来てください」と言うんです。それからいきなり、軽快に階段を上り始める。いきなりみんなで耐久レースですよ。ひいひい言いながら階段を上る、上る。女の子とか途中でへたり込んでしまったり……運動不足の人は顔真っ赤にしてますね。途中で離脱してしまう人もいると思います。『ハンター試験」って呼ばれてますね」

 重い画材を抱えて階段を上がる……。まさにハンター試験だ。あの体力自慢デブが自信をこっぱみじんに砕かれたやつね。




 入試、授業、学祭、卒業後の進路。どれもふつうの大学とはまったくちがっていておもしろい。藝大に入りたいとはおもわないけど(当然ぼくなんか入れてくれないだろうけど)、学祭ぐらいは行ってみたくなったな。


 本を読む愉しさのひとつが、自分とはまったくちがう異なる人生を追体験できることなんだけど、この本はまさにその愉しさを存分に味わえる本だった。こんな生き方もあるのか、と自分の視野がちょっとだけ広がった気がする。


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2023年7月5日水曜日

【読書感想文】鳥羽 和久『君は君の人生の主役になれ』 / 十代は手に取らない十代向けの本

君は君の人生の主役になれ

鳥羽 和久

内容(e-honより)
学校や親が重くてしんどい人へ。先生・友達・家族、そして、勉強・恋愛・お金…。いま悩める十代に必要なのは、君自身が紡ぐ哲学だ。

 学習塾も運営している著者から十代へのメッセージ。


 いきなりだけど、この手の説教本は嫌いだ。えらそうに人生訓を説くような本を読む人の気が知れない。でもビジネス書のコーナーなんかにはその手の本がたくさんあるから、好きな人もいるのだろう。

 説教本が嫌いなのになんで読んだかというと、当事者じゃないからだ。ぼくが十代だったらぜったいにこの本は手に取らなかった。なんで金払っておっさんの説教を聞かなきゃいけないんだ、と。

 でも今のぼくはすっかりおっさん。「おっさんが十代に向けた説教」はまるっきりの他人事だ。だから平気。自分以外に向けられた説教は素直に聞ける。

 ということで読んでみた。




「なぜ友達を大切にしないといけないのでしょう」というテーマを教師から与えられて討論をはじめた子どもたちに著者がかけた言葉。

 みんなは「友達は大切だ」という前提で話をしていて、中には面白い意見も出たけど、でも、本当にここにいる全員が「友達は大切だ」って思って話してるのかな? 今日、みんなは「どうして友達は大切か」をテーマに話しているけど、例えば、僕はそもそも友達が大切だとは思っていない、そういう子が一人くらいいても何の不思議もないと思うし、それが別に間違った考えだなんて思わないんだよね。
 私がそう言い終えると、ガラガラッと何かが崩れる音が聞こえた気がするくらい、教室内の雰囲気が一変しました。そして一分近く沈黙が続いた後、ある男の子が意を決したように立ち上がって、「僕は友達はあまり大切だとは思いません。自分の時間の方が大切です。友達がいなくても僕は楽しいです」と声を震わせながら発言しました。私は、わー、すごい子が現れた! と思いました。
 でも、驚いたことに、そのあと彼に続いて同じようなことを言う子が次々と現れたんです。わたしも、僕も、友達は別に大切じゃない……。そして、わずかその五分後には、教室全体が「友達は必ずしも大切ではない」という空気で満たされてしまいました。私は大いに戸惑いました。こんなはずじゃなかった……と思わず頭を抱えてしまいました。

 はっはっは。

 そうだよなあ。「友達は大切だ」も「友達を大切とおもう必要はない」も自分の頭で考えた意見じゃないんだよなあ。子どもたちはその場の空気を読んでいるだけで。前半は教師の、そして後半は著者を喜ばせる発言をしているだけ。

 まあでもそうなるよね。子どもにとっての正解は「自分で考えたこと」じゃなくて「そこにいる大人が喜ぶこと」だもんね。特に学校という空間ではそうなるだろうね。

 でもそれをもって「最近の子どもたちは~」なんて言うのは愚の骨頂で、古今東西子どもというのはそういうものだ。むしろ、自分の中に確固たる信念を持っている子どものほうが気持ち悪い。周囲の大人の顔色をうかがって、求められる正解を学ぶのが成長というものだ(学んだ結果に正解を出そうとする子もいれば、正解を学んだうえであえて不正解を出そうとする子もいるが)。




 学校になじめない子について。

 学校でうまくいかない子がいるとき、彼らの資質や適性に問題があると判断するのは早計です。うまくいかない理由は、学校のシステムの問題、クラスの環境の問題に起因することがほとんどで、後付けでその子の「弱さ」が発見されることが多々あるのです。変わるべきは本人ではなく学校側なのに、学校が頑なに非を認めることなく生徒側にその原因を押しつけるせいで、いつの間にか親までうちの子の方に問題があると考えるようになることも多々あるのです。
 でも、学校でうまくいかないというのは、いかに「弱さ」に見えようとも一種の意思表示なんです。彼らは辛いと感じたり不調を訴えたりすることでレジリエンスを発揮しようとしているのであり、つまり、学校のいびつさや人間関係の冷たさに対して全身で抵抗しているのです。だから、私は彼らの抵抗を全面的に支えたいと思うのです。彼らが十全に戦うことができるように、その砦をいっしょに築きたいと思うのです。

 ん-。

 ま、そうかもしれないけどさ。学校でうまくいかないのは、生徒のほうじゃなくて学校に問題があるのかもしれないけどさ。

 でも、それを言ったとしても学校でうまくいかない子の苦しみが和らぐかというとそんなことはないんじゃないかなあ。

 ぼくは仕事をするということがすごく苦手で、新卒入社した会社をすぐにやめて無職になってつらい思いをしたけど、そんなときに「君が悪いんじゃなくて社会が悪いんだよ」って言葉をかけられたとしても、ぼくの抱えている苦しみはどうにもならなかったとおもう。「社会が悪いから働かなくていいんだよ」って言って五億円くれるんなら苦しみが緩和されたかもしれないけど。


 ただ「問題は学校の側にある」と考えるのは、現に学校になじめない子にとっては救いにならないかもしれないけど、親がそう考えるのは間接的に子どもの救いになるかもしれないな。




 親としては、いろいろと反省する点もあった。

 小受の勉強で難しいさんすうの問題が解けてうれしくなった年長組のSくんは「さんすう、好きー!」とお母さんに言いました。お母さんもうれしくなって、「解けたのすごいねーお母さんもうれしーこれからもがんばろうねー!」と言います。そしてSくんは「がんばる!!」と満面の笑みで応えます。
 そのわずか一か月後にお母さんがSくんに吐いた言葉は、「あなた、さんすうが好きだからがんばるって言ってたよね?」でした。こうしてSくんの「好き」は死んでしまいました。子どもの「好き」を質に取ることほど残酷なことはないのに、それを平気でやってしまう親はたくさんいるのです。

 これはぼくもやってしまうな……。

 子どもの「好き」を質に取る、か。たしかになー。

 親としては、子どもの「好き」を伸ばしたい一心なんだよね。だから「あなたがやりたいって言ったんじゃない」とやってしまう。

 自分のことを考えてみればわかるんだけど、好きだからといって四六時中やりたいわけではない。ぼくは本を読むのが好きだけど、毎日必ず三時間読みなさいと言われたらイヤになってしまう。

 好きだからって一生懸命に取り組まなくてもいいし、サボったっていい。自分のことだとそうおもえるんだけど、子どものことになるとついつい「あなたがやりたいって言ったんだからやりなさい!」になっちゃうんだよなあ……。気をつけねば。


 このように、世の中のほとんどの親は子どもをコントロールしたいという欲望から逃れることはできません。だからこそ、いくら小手先の技術でそれを回避しようとしても、きまって欲望が回帰してしまいます。
 そして、そのコントロールの仕方はほんとうにえげつないんです。親は「あなたが○○しなければ、私はあなたのことを愛さない」というふるまいによって、あなたの存在のすべてを賭けた愛情を質に取ることで、あなたをコントロールしながら育ててきたのですから。
 そんな中で、あなたは親との関係を通して、自分がやりたくないことをやらされたり、逆にやりたいことをダメだと言われる経験を得ることで自我を目覚めさせ、良くも悪くもあなたの価値観の根幹を形成してきたのです。つまり、あなたの主体性の形成には、親が幾重にも畳み掛ける否定の働きが不可欠だったのです。
 この意味において、親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります。それによって、ときに存在を危うくされながらも、あなたはあなたになったのですから。

 ぼく自身、親から「勉強しなさい!」なんて直接的な説教をされずに育ったので娘に対しても言わないようにしている。でも、「勉強しなさい!」とは言わないけど、娘が勉強したら喜んで、勉強をしてほしいのに娘がしないときは冷たく接したりしている。それって結局「勉強しなさい!」って言うのと同じだよなあ。コントロールの方法が違うだけで、コントロールしようとしていることには変わりがない。

“親から与えられた否定性は呪いであり、同時に宝でもあります”という言葉は真実だとおもう。そうだよね。親の愛って呪いだよね。愛されているということは「あなたはこう生きなさい」っていう呪いをずっとかけられつづけるということでもある。

 ぼく自身、すっかりおっさんになった今でも「こういうことしたら父母は眉をひそめるだろうな」という考えが頭をよぎることがある。呪いは深い。


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2023年6月28日水曜日

【読書感想文】曽根 圭介『腸詰小僧 曽根圭介短編集』 / 予想通りのどんでん返し

腸詰小僧

曽根圭介短編集

曽根 圭介

内容(e-honより)
社会復帰したシリアルキラー“腸詰小僧”の独占インタビューに成功した西嶋の元を被害者の父が訪れ、本人に会わせろと迫る。一方、警察官をしている弟が浮気相手を妊娠させてしまったと泣きついてきた。追い詰められていく西嶋は…。(表題作)ジコチューな小悪人たちが、あっけらかんと起こす事件。まさかのどんでん返しに舌を巻くミステリー傑作集!


 ミステリ短編集。

 曽根圭介氏らしい、猟奇的、暴力的な題材を扱ったものが多い。


 七篇どれもそこそこのクオリティなのだが、まとめて読むと少々飽きてしまう。似たパターンが多いのだ。

 もう少し具体的にいうと、Aという人物のストーリーとBという人物のストーリーが交互に展開して、AとBをつなぐ一本のストーリーが見えてきた……とおもったら最後にひとひねりあってAとBがまっすぐにつながらない、というパターン。


『解決屋』では、解決屋という名目で殺人を代行する男と、売春宿で働く少年が描かれる。

『天誅』では、父親からの性的虐待に遭っている同級生を救おうとする少年と、性犯罪者を追う刑事が交互に書かれる。

『成敗』では、悪事をはたらく人物に私刑を与える快楽にとりつかれてしまう男と、前妻への復讐のために闇サイトで知り合った人物に前妻の拉致を依頼する男が交代で書かれる。

『母の務め』では、殺人犯として死刑を求刑された息子の減刑を望む母親と、職場の女性を殺してしまい死体処理に悩む男のストーリーが交互に展開。


 もちろん〝ひとひねり〟の手法はそれぞれちがうのだけど、さすがにこれだけ似たパターンが続くと「これはすんなりつながらないな」と展開がある程度読めてしまって辟易してしまう。




 その他『腸詰小僧』『父の手法』『留守番』を含め、どの短篇も読者を裏切るどんでん返しが効いているのだけど、どんでん返しが七回続くとさすがにうんざりする。どうせどんでん返すんでしょ、ほらどんでん返したー! とおもうだけで裏切りでもなんでもない。予想通りのどんでん返し、と言ったところか。

 七篇中一篇か二篇にそういう話があれば「まさかこう来るとは!」と感心したんだろうけどな。


 ところで曽根圭介さんの作品は、初期のころのブラックSFサスペンスみたいなやつが好きだったんだけど、もう書くのやめちゃったのかなあ。

 ミステリに寄っちゃったなあ。この人に限らず、そういう作家は多い。SFやブラックコメディなんかは書くのに体力を使うのかな。そしてミステリのほうが売れるからミステリばかりになってしまうのかもしれない。



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2023年6月26日月曜日

【読書感想文】志村 幸雄『笑う科学 イグ・ノーベル賞 』 / 役に立たない研究の価値

笑う科学 イグ・ノーベル賞

志村 幸雄

内容(e-honより)
「裏ノーベル賞」の異名を持つ「イグ・ノーベル賞」が隠れたブームとなっている。その人気を語る上で欠かせないのが「パロディ性」。「カラオケの発明」がなぜ“平和賞”なのかといえば、「人々が互いに寛容になることを教えた」から。さらに、芳香成分のバニラが牛糞由来と聞けば誰しも目を丸くするだろう。本書はイグ・ノーベル賞で世界をリードする日本人受賞者の取材をもとに、「まず人を笑わせ、そして考えさせる」研究を徹底分析。

 昨年、『イグ・ノーベル賞の世界展』という展覧会に行ってきた。




 イグ・ノーベル賞はノーベル賞へのパロディとして誕生した。「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究」に贈られる賞だ。

 日本はイグ・ノーベル賞大国で、過去に30回近く日本の研究がイグ・ノーベル賞を受賞している。『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したことに対して』心理学賞が贈られ、『床に置かれたバナナの皮を人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究に対して』物理学賞が贈られ、『火災など緊急時に眠っている人を起こすのに適切な空気中のわさびの濃度発見と、これを利用したわさび警報装置の開発』により化学賞が贈られるなどしている。

 その他、さまざまな独創的な研究に対してイグ・ノーベル賞が贈られているが、共通しているのはいずれも「研究した人は大まじめ」ということだ。まじめに変なことを研究している。その姿勢を評価するのがイグ・ノーベル賞である。


「そんなこと何の役に立つの?」「そんなこと勉強したって社会に出たら何の役にも立たないからやめろよ」と言う人がいる。そういう人間が人の役に立つ研究をできたためしがない。役に立たない研究の価値を理解しない人が、役に立つ研究などできるはずがないのだ。

 実際、ほとんどの偉大な発明は偶然から生まれている。エジソンは最初から蓄音機を発明しようと思って学んでいたわけではない。何の役に立つかはわからないけど学ぶことがおもしろいから学んでいたら、たまたま役に立つ発明につながっただけだ。

『ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させる』ことはそれ自体何の役にも立たないだろうが、この研究が別の研究の役に立つ可能性はある。その研究がほかの研究の役に立ち、それを生かした別の研究が世界を変える大発明になるかもしれない。


 イグ・ノーベル賞はノーベル賞のパロディではあるが、科学に対する向き合い方はノーベル賞に負けず劣らず真摯なものだ。アンドレ・ガイムという物理学者は、イグ・ノーベル賞を受賞し、その10年後に本物のノーベル賞を受賞している。

「たまたま役に立ったかか立たなかったか」の結果が異なるだけで、アプローチ自体はノーベル賞もイグ・ノーベル賞も大して変わらないのだ。

 日本の研究力低下はずっと叫ばれているが、日本人がイグ・ノーベル賞を受賞できなくなったときはいよいよ日本もおしまいかもしれない。




 そんなイグ・ノーベル賞について説明した本。

 といっても『イグ・ノーベル賞の世界展』ですでに同賞についての基礎知識は身につけていたので、あんまり新しい情報はなかったな(ま、この本が2009年刊行だしね)。


 知らなかったのは、誰でもイグ・ノーベル賞を申請できること。

 もっとも、ノミネートといっても、ノーベル賞の場合と違って、申請できる人物の資格は「不要」で、誰でも意の向くままに申請が可能である。また、ノーベル賞の場合は他薦だけで決められるが、イグ・ノーベル賞の場合は自薦が認められ、そのため全体に占める自薦の比率は一〇~二〇%に達している。ただし、自薦での受賞事例は二〇〇四年まででたった一件というから、あくまで他薦主導で、それだけ客観的な判断・評価が加味されていると受け止められる。ノミネートの「数」だけでなく、「質」にも配慮がなされているあたりに人気上昇の秘密が潜んでいそうだ。

 へえ。じゃあぼくでも「これはイグ・ノーベル賞に値する!」とおもえば推薦できるんだ。

 自薦でもいいが自薦での受賞はほとんど例がない、というのがおもしろいね。そうだよね。大まじめに研究している人に授賞するからおもしろいんだもんね。

「おれの研究はユーモアがあって独創的だからイグ・ノーベル賞にぴったりだ!」って人の研究はまずまちがいなくつまらないもんね。自薦で受賞にいたった一件が気になるな。


 この本ではイグ・ノーベル賞を受賞した日本人の研究についていくつか紹介しているけど、どっちかっていったら海外の例を紹介してほしかったな。日本の受賞例はすでに有名なものが多いし(たまごっちとかバウリンガルとかカラオケとか)、海外のほうが突飛なものが多いので。


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2023年6月12日月曜日

【読書感想文】新庄 耕『狭小邸宅』 / 自分は特別な存在

狭小邸宅

新庄 耕

内容(e-honより)
学歴も経験も関係ない。すべての評価はどれだけ家を売ったかだけ。大学を卒業して松尾が入社したのは不動産会社。そこは、きついノルマとプレッシャー、過酷な歩合給、挨拶がわりの暴力が日常の世界だった…。物件案内のアポも取れず、当然家なんかちっとも売れない。ついに上司に「辞めてしまえ」と通告される。松尾の葛藤する姿が共感を呼んだ話題の青春小説。第36回すばる文学賞受賞作。


 わりといい大学を出て、不動産屋の営業として就職した主人公の仕事っぷりを描いた小説。

 入社して間もなく、上司に呼び出された。
「松尾、未公開物件あるから、サンチャの駅前でサンドイッチマンやれ」
 すぐには意味が理解できなかった。まごついている僕を見て、上司は苛立ちを露わにした。
「あそこにある看板背負って、三軒茶屋行って客探してこいって言ってんだよ、大学出てそんなこともわかんねぇのかよ」
 営業フロアの隅に腰の高さほどの看板が二枚、紐で繋がれて立てかけられている。それを見て、サンドイッチマンがどのようなものかわかった。
 新宿や渋谷などの繁華街で大きな看板を前後にぶら下げて宣伝する人を見かけたことはあったが、それがサンドイッチマンと呼ばれることなど知らなかった。ましてや、自分が担うことになるとは思ってもみなかった。
 人混みの中、サンドイッチマン姿で声を張りあげるには勇気を必要とする。道行く全ての人が、自分に無遠慮な視線を向けてくるように感じられた。それでも、しばらくつづけていると、苦にならなくなってくるのは不思議だった。


 主人公が入社したのは、いわゆるブラック企業。パワハラが横行している。暴言どころか暴力もあたりまえのように飛び交う職場。なので従業員はどんどんやめていく。

 令和の今では「こんな会社あるのか」とおもうかもしれないが、ほんの十数年前まではこんなのはめずらしい話じゃなかった。というか今でもこれに近いことをやっている会社あるし(ぼくが知っているのは不動産業界じゃないけど)。

 なんせパワハラなんて言葉もなかった。言葉がなかったということは、それがいけないという認識もなかった。業務に関することであれば上司が部下をどれだけ口汚く罵ってもいい、というのが日本の社会のルールだったんだよ。ほんとに。

 ひどい時代だったなあ。21世紀初頭になっても日本はまだ野蛮な未開国だったんだよ。




 前半は会社のブラックっぷりの描写や不動産業のうんちくが語られるのでわりとよくあるお仕事小説かとおもったら、途中から毛色が変わる。

 まったく契約がとれなくてやめさせられる寸前だった主人公が、契約をとれたことや上司からのアドバイスを機に自信をつけ、売上を伸ばしていく……と書くと順調そうに見えるのだがそうでもない。

 睡眠時間を犠牲にし、酒量が増え、金儲けに邁進し、身につけるものに金をかけ、彼女を疎んじるようになり、周囲の人間をぶつかるようになる。

「仕事はできないけどいい奴」だった主人公が「仕事はできるがいやな奴」に変わってゆくのだ。

 こういう人、ぼくも見てきたなあ。ブラック企業の中で成功しようとおもったら悪いやつになって適応するのが最短距離なんだよね。




 中盤の「嫌な奴になる少し前」の主人公は過去の自分に重なる部分が大きかった。

「いや、お前は思ってる、自分は特別な存在だと思ってる。自分には大きな可能性が残されていて、いつか自分は何者かになるとどこかで思ってる。俺はお前のことが嫌いでも憎いわけでもない、事実を事実として言う。お前は特別でも何でもない、何かを成し遂げることはないし、何者にもならない」
 自分のことを特別だなど思ったことはないし、そのように思いたいとも思わない。そう無理にでも自分自身に言い聞かせることで、激しく動揺する胸奥を鎮めようとした。
「否定するのか、本当に否定できるのか。俺はそれでかまわない。だがな、お前は本当に自分が嘘をついていないと自分自身に言い切れるのか」

 ぼくもこうだった。書店で働いていながら、心のどこかで「ここが自分の本当の居場所じゃない」とおもっていた。そして周囲をうっすらばかにしていた。自分を特別だとおもっていた。まさにぼくだ。

 ま、その後別業界に転職したからじっさい居場所じゃなかったんだけど。


 多かれ少なかれそんなもんだよね。これが自分の天職だ! とおもいながら仕事をしている人なんてほとんどいないだろう。

 でも、ふしぎと歳をとると「本当の居場所がどこかにあるはず」という意識が薄れていくんだよな。なんでだろう。あきらめもあるし、ぼくの場合は家庭を持ったこともあるし。

 大きかったのは、じっさいに何度か転職をしたことかな。転職をしてみたら「どんな仕事をしてもいいこともあれば不満もあるし、嫌ならやめればいい」という心境になれる。

 そしたら「何の仕事をするか」が「今日はどの店で飯を食うか」ぐらいの問題におもえてくる。それはさすがに言いすぎか。


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2023年6月5日月曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『スペードの3』 / 換気扇の油汚れのような不満

スペードの3

朝井 リョウ

内容(e-honより)
有名劇団のかつてのスター“つかさ様”のファンクラブ「ファミリア」を束ねる美知代。ところがある時、ファミリアの均衡を乱す者が現れる。つかさ様似の華やかな彼女は昔の同級生。なぜ。過去が呼び出され、思いがけない現実が押し寄せる。息詰まる今を乗り越える切り札はどこに。屈折と希望を描いた連作集。


 あるスターのファンクラブの幹部を務める女性、小学校ではいじめられっ子だったが中学校で自分の居場所を見つけられた少女、華やかなキャラクターであるライバルと常に比べられてきたベテラン女優。三者それぞれの人生を描いた連作短篇集。


 彼女たちはそれぞれ心にわだかまりを抱えているが、直ちに人生に大きな影響を抱えるほどの深刻な悩みではない。さしあたっては。

 他人に自慢できない仕事についていることを隠している、ファンクラブ内での人間関係に不満を持っている、絵を描くのが上手いし好きだがプロになれるほどの実力はない、小学校時代の暗い過去を隠して中学生活を送っている、年齢を重ねるごとに女優としての限界を感じてしまう、古くからの友人のほうが芸能界で成功している……。

 彼女たちが抱える不満を解消するのはすごくむずかしい。おそらく不可能だろう。そして、抱えたまま生きていけないほどの苦しみではない。だからなるべく蓋をして、そのことについて考えないようにしながら生きていく。その程度の不満。きっと誰しもが抱えているだろう。

 換気扇の油汚れのようなもの。とるのはすごくたいへん。とらなくても換気扇は機能する。でもついているとなんとなくイヤ。だから見ないようにして、換気扇を使いつづける……。

 人生ってそんなものといってしまえばそれまでだけど、でも当事者にとってはやっぱりイヤなものだよね。いつかその汚れが深刻な問題を引き起こすこともあるわけで。




「父親がいない」「おもいもよらない行動で周囲をはらはらさせる」「難病で女優を引退することになった」という〝メディアが好きそうなストーリー〟を持ったライバルをうらやむ女優の語り。

 衝動のように思う。
 私にはどうしていじめや病気を乗り越えた過去がないのだろう。
 私にはどうして幼いころ離れ離れになった父親がいないのだろう。
 私にはどうして説得力を上乗せするだけの物語がないのだろう。
 さまざまなものを積み重ねる前にどうして、表舞台に出ることを選んでしまったのだろう。けれど、もう、引き下がることはできない。

 この気持ち、なんとなくわかる。ぼくは表現者ではないけど。

 作家の自伝を読んでいると、とんでもなく波乱万丈な経歴を持った人がいる。一家離散していたり、借金まみれでアル中の父親がいたり、警察の厄介になっていたり。そんな体験をおもしろおかしくつづっていて、「この人は表現者になるために生きてきたのだな」とおもわされる。

 花村萬月氏や西村賢太氏のように。

 そういう文章を読むたびに、「それに比べてぼくの人生はなんてつまらないんだろう」と嘆いたものだ。サラリーマンの父親とときどきパートに出る主婦である母親。まじめで友だちの多い姉。家はベッドタウンの一軒家。ヤクザな親戚も面倒な隣人もいない。成績も悪くないし、教師に怒られることはよくあるが警察のお世話になるほどではない。そんな人生を歩んできた。

 だから学生時代はいろんな奇行に走った。着物でうろうろしたり、民族衣装を着たり、わけのわからないものを持ち歩いたり、わざと寝癖をつけて学校に行ったり、生徒会長になって意味不明なスピーチをしたり。

 でも、やればやるほど自分の平凡さを痛感した。「変わってるやつだ」とおもわれるけど、著しく損をするようなことはしないのだから。どこまでいってもぼくは「奇人にあこがれてる凡人」だった。

 ま、花村萬月氏や西村賢太氏が作家になれたのは、別に彼らの経歴が独特だったからではなく、彼らに文才があり、またそれを活かすための努力をしたからなんだけどさ。昔はそういうことがわかっていなくて、表現者となるためには「その人のバックボーンとなるストーリー」が必要だとはおもっていたんだよな。

 問いを考えることに熱中しすぎて裸で街へ飛び出したとか、表現をつきつめるあまり自分の耳を切り落としたとか、そういうわかりやすい逸話がほしかったんだよね。


 想像だけど、朝井リョウ氏も〝説得力のあるストーリー〟を持たないことにコンプレックスを感じていたのかもしれないな。

 何しろ朝井リョウ氏は早稲田大学在学中に作家デビューし、デビュー作が映画化されるほどのヒットになり、23歳という驚異的な若さで直木賞を獲り、その後もコンスタントに売れている人気作家だ。その順風満帆すぎる経歴が、逆にコンプレックスだったのかもしれない。

 西村賢太氏みたいな「父親が強姦で捕まり、母子家庭で育ち、不登校になり、ほとんど本を読まず、中卒でその日暮らしを送り、喧嘩で留置場に入れられ、借金まみれの生活を送っていた」という経歴のほうが作家っぽくて「無頼派のかっこよさ」があるもんね。

 ま、数多の「経歴だけは西村賢太のようだけど作家になれなかった人たち」がいるので、その経歴にあこがれるのはまちがってるんだけど……。




 この本でぼくが好きだった文章。

 白いシャツのボタンを一番上まで留めたウェイターが、それぞれのグラスに水を追加してくれる。まだ少しだけ残っているコーヒーを片付けようとはしない。美知代はずっと前に、このウェイターが最寄りの駅前で煙草を路上に捨てるところを見たことがある。

 これ、本編とはあまり関係のない記述だ。このウェイターは作品の中でまったく重要な役割を果たさない。

 でも、だからこそこの描写が印象に残った。ストーリーに関係のないウェイターだから記号みたいな扱いでもいいのに、わざわざ「このウェイターが最寄りの駅前で煙草を路上に捨てるところを見たことがある」というエピソードを入れて立体的に描いている。

 なかなかできることじゃないですよ、こういう丁寧な仕事は。


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2023年5月29日月曜日

【読書感想文】ミハイル・ゴルバチョフ『我が人生 ミハイル・ゴルバチョフ自伝』 / ロシアは四面楚歌

我が人生

ミハイル・ゴルバチョフ自伝

ミハイル・ゴルバチョフ(著) 副島 英樹(訳)

内容(e-honより)
「私は、生きてきた歳月を後悔しない。」現代史の生き証人、東西冷戦終結の当事者が自らの言葉ですべてを語る。巻末にゴルバチョフ氏の最新の論考を収録!

 ミハイル・ゴルバチョフ。通称ゴルビー。

 ソビエト連邦最後の首脳。ソ連が崩壊したのがぼくが小学校低学年の頃だったので、リアルタイムではゴルバチョフ大統領のことはほとんど知らない。

 ただ、そのインパクトのある名前と、印象的な顔(「額にソ連の地図がある」なんていわれていた)が妙に印象に残っている。

Wikipedia「ミハイル・ゴルバチョフ」より

 かんたんに経歴を書くと、ミハイル・ゴルバチョフ氏は1931年生まれ。貧しい家庭で育ち、青年時代には独ソ戦も経験する(出征はしていない)。ソ連共産党の書記などとして活躍し、54歳でソ連のトップである書記長に就任。

 ソ連の建て直しを図った「ペレストロイカ」や情報公開「グラスノスチ」など、おもいきった改革を進める。書記長時代にはチェルノブイリ原発事故も起こっている。アメリカ・レーガン大統領と軍縮交渉をおこなうなど冷戦の終結に努める。

 1990年に大統領制を導入しソ連の初代大統領に就任するもクーデターの勃発などで政権は弱体化、1991年にソ連は崩壊し、ゴルバチョフは最初で最後の大統領となった。

 大統領辞任後もロシアの政治に関わりつづけたが、2022年8月に91歳で死去。


 そんなゴルバチョフ氏の自伝。

 2022年7月に刊行され、奇しくもその1か月後にゴルバチョフ氏は亡くなっている。こういっちゃなんだけど、タイミングいいよね。

 申し訳ないけど、ゴルバチョフ氏の訃報を目にしたぼくの感想は「まだ生きてたのか」だった。それぐらい、長く政治の表舞台からは遠ざかっていたので。




 ゴルバチョフ氏は、「おひざ元のロシアでは評価が低く、西側諸国からは高く評価されている」人物だそうだ。海外からのほうが高く評価される首脳というのはなかなかめずらしい。

 大きな理由のひとつが、ゴルバチョフ氏が推し進めたペレストロイカにある。

 ざっくり言うと、ゴルバチョフ氏はソ連を「アメリカや西ヨーロッパのような国にしようとした」のがペレストロイカだ。統制経済から自由経済へ。

 だから西側諸国からは歓迎されたが、既得権益を失ったソ連国内では人気がなかった。ゴルバチョフ氏のせいで既得権益を失った人がおおぜいいたからね。

 また民主化により失業者が出たり、物価が上がったりして、生活が苦しくなったりもしたそうだ。それまでは「ぼちぼち働いていれば食うに困ることはない。貧しいけどみんな貧しいからしょうがないよね」だったのが、「一生懸命働けば豊かになれるけど、一生懸命働かないと食っていけない」になった。どっちがいいかはかんたんに決められないけど、前者が突然後者になったら困る人はいっぱいいるよね。


 実際、国民所得の成長のテンポはこの15年で半分以下になり、90年代初めまでには事実上、経済的不況のレベルにまで落ち込んでいた。これまで精力的に世界の先進諸国に迫る勢いだった我が国は、明らかに後れをとりはじめていた。さらに、生産効率や製品の品質の向上、科学技術の発展、最新の技術やテクノロジーの開発・応用においても、これらの国々との格差は、我々に不利な方向に拡大していった。
「総生産量」を追い求めることがとりわけ重工業において「最高任務」となり、目的そのものとなった。同じことが、基本建設[工場や住宅など基本財産となるものの建設をめぐっても起きた。そこでは、施工期間の長期化によって、国家の富のかなりの部分が失われていた。高くつくだけで、最先端の科学技術の指標には貢献しない施設が増えていく。よき労働者、よき企業とは、労働力や原料や資金をより多く使い尽くすものだと認識された。そして消費者は生産者の権力下に置かれ、施されるものを使うしかない。
 我々は一つの製品に対して、他の先進国よりもかなり多くの原料、エネルギー、その他の資源を費やした。我が国の天然資源や人的資源の豊かさは、甘えを生んだ。荒っぽく言えば、我々を堕落させたのである。我々の経済は、量的拡大を目指す路線によって数十年のうちに発展を遂げる可能性を秘めていた。しかし、他者の援助を当てにする雰囲気が強まり、良心的で質の高い労働への威信が落ちはじめ、「平等至上主義」の心理が意識に根を張り出す。  簡潔に言えば、量的拡大を目指した成長の惰性が、経済的な行き詰まりや成長の停滞へと我が国を引きずり込んだのだ。

 ソ連がアメリカなどの国から遅れをとっていたことを考えると、国のトップとしては改革に舵を切らなくちゃいけないのもわかるけど。


 市場主義経済だと成果は市場で判定される(儲かる仕事がいい仕事)からわかりやすいんだけど、社会主義経済だと労働を「勤勉かどうか」で判定するしかなくなる。これはよくない。

「勤勉」ってのは成功するための手段のひとつであって(必須条件ではない)、「勤勉」それ自体を評価の対象にするとろくなことがない。「勤勉」を良しとすると、効率の悪い働き方をするのが最適解になっちゃうんだよね。「1時間で10作る人」よりも「10時間かけて10作る人」のほうが勤勉だからね。イノベーションが起こりにくくなる。

 またソ連には資源があった。これはいいことでもあり、悪いことでもある。

「オランダ病」という言葉がある。オランダでガス田が見つかったために他の産業が衰えたことに由来する言葉で、「資源があることでかえって産業が衰えてしまう」状態を指す言葉だ。

 ソ連もまたオランダ病に陥っていたのだろう。この病気に罹患すると、資源が尽きるまではなかなか方針を改めることができない。




 ゴルバチョフ氏より三代前に書記長だったブレジネフ氏の話。

 アカデミー会員チャゾフの記憶によれば、ブレジネフ書記長の病は70年代初めに進行しはじめた。脳梗塞と、鬱や無気力を誘発する鎮静剤の多用が致命的な影響をもたらしていた。みるみるうちに様子が変わっていった。かつてはよりエネルギッシュであったうえ、もっと気さくで、正常な人間関係を築いていた。審議を促したり、政治局や書記局会議の議論にさえ関わったりすることがあった。だが、今となっては根本的に状況は変わった。議論や、ましてや何らかの自己批判を彼のほうからすることなどもはやなかった。
 おそらく、ブレジネフの健康状態や知的な側面に鑑みて、進退問題を提起する必要があったのだろう。これは人として当然のことであり、人道的観点や国益から見ても妥当なことだった。しかし、ブレジネフと彼の側近たちは、権力を手放すことは考えたくなかった。そして、あたかもブレジネフの退任でそれまでの均衡が崩れて安定が損なわれるということを、自らにも、そして周囲に対しても思い込ませたのだった。つまり半死半生の人であってもやはり、「余人をもって代え難い」のだと。 政治局のある会議で、議長役〔ブレジネフ〕が「意識を失い」、議論の思考回路が飛んでしまったのを覚えている。全員が何事もなかったように振る舞ったが、やりきれぬ思いが残った。会議の後、私はアンドロポフ〔1914~84年。ブレジネフの後継のソ連共産党書記長〕と思いを語り合った。
「いいか、ミハイル」と言って彼は、以前私に語ったことを、ほぼそのまま繰り返した。我々はレオニード・イリイチ〔ブレジネフ〕のこの地位を維持するためにあらゆることをしなければならない、と。これは党や国家の安定の問題であるだけでなく、国際情勢の安定の問題ですらあったのだ。

 要するに、健康上の理由でまともな思考や判断ができなくなっていたのに、そっちのほうが都合がいいとおもう人が多かったので、側近たちは彼をそのまま書記長の座に留めおいたのだそうだ。

 うーん。気持ちはちょっとわかるけど。トップの人は変にしゃしゃり出るよりも、お飾りとして何もせず座っているのがいちばんスムーズに動いたりするけど。

 とはいえ、議論ができず、ときには意識や記憶を失ったりする人がソ連のような大国のトップを務めていたなんて……。おっそろしい話だなあ。案外こういうのが戦争の一因だったりするんだろうな。




 ゴルビーの自伝を読んでいると、はじめのほうは理性的かつ客観的に物事を見られる人物なのに、トップ(書記長)になったあたりから、急に謙虚さを失って「人のせいにする」ようになったという印象を受ける。

 軍縮会議がうまくいかなかったのは、こっちが妥協しているのにアメリカが譲らなかったせい。改革がうまくいかなかったのは、国内の反対派がじゃまをしたせい。国民の暮らしが悪くなったのは、後任者(エリツィン)のせい。

 手柄は自分のものにして、失敗の原因はすべて他人に押しつける記述が目立つようになる。

 実際はどうかわからないけどさ。周囲の邪魔があったせいでうまくいかなかったのかもしれないけどさ。でも、そこを乗り越えてなんとかするのが政治家の仕事でしょうよ。

 自伝だからゴルバチョフ氏側の言い分しかわからないけど、書記長になって以降はずいぶん勝手な人だなあという印象を受けた。まったく謙虚さがない。


 この傲慢な姿勢、何かに似ているなあとおもったら日本の政党だ。自民や維新が特に顕著だけど、失敗の原因はすべて他党に押しつけて、手柄だけは自分のものとして吹聴する。「我々がおこなったアレは失敗だった」なんて反省を口にしているのは一度も聞いたことがない。与党、権力者がかかる職業病みたいなものかもしれない。

 やっぱり国や社会体制にかかわらず、権力を持つと人は傲慢になっちゃうんだよね。「己の失敗を認める」がいちばんむずかしい。どこでもおんなじだね。




 あと、読んでいて感じたのは、被害者意識がすごいなということ。これはゴルバチョフ氏が、というよりソ連、ロシアが。

 自分たちは敵に囲まれている、周囲はすべて敵、心を許せる外国はない、そんな意識がずっと漂っている。たぶんこれはゴルバチョフ氏だけじゃなくて現大統領であるプーチン氏も持ってる感覚なんじゃないかな。ひいては、ロシア国民が共通して抱いている感覚かもしれない。

 まあ当たらずとも遠からずなんだけどさ。アメリカ、NATOにはさまれて。日本もアメリカ側だし、中国共産党とだって良好ではないし。四面楚歌と感じてもふしぎではない。

 冷戦中はもちろんそうだったけど、冷戦が終わってからも西側諸国はロシアを敵と見ている。日本人だって、中国や韓国は「いろいろめんどうなこともあるけどまあうまくつきあっていきたいアジアの友人」ぐらいの感覚を持っている人が多いが、ロシアに関しては「まったくわかりあえない国」って距離感だもんなあ。

 ロシアのウクライナ侵攻もそういう雰囲気が引き起こしたのかもしれないなあ。


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2023年5月15日月曜日

【読書感想文】澤村 伊智『ぼぎわんが、来る』 / 知らず知らず怨みを買っている恐怖

ぼぎわんが、来る

澤村 伊智

“あれ”が来たら、絶対に答えたり、入れたりしてはいかん―。幸せな新婚生活を送る田原秀樹の会社に、とある来訪者があった。それ以降、秀樹の周囲で起こる部下の原因不明の怪我や不気味な電話などの怪異。一連の事象は亡き祖父が恐れた“ぼぎわん”という化け物の仕業なのか。愛する家族を守るため、秀樹は比嘉真琴という女性霊能者を頼るが…!?全選考委員が大絶賛!第22回日本ホラー小説大賞“大賞”受賞作。


 母が読書家だったので実家にたくさん本があり、ぼくも母の本棚の本を手に取って読んでいた。ぼくが本好きになったのは母の影響が大きい。

 母の本はあれこれ読んだのだが、まったくといっていいほど読まなかったジャンルがある。それが、恋愛小説と(霊が出てくる系の)ホラー小説だった。

 恋愛小説に関しては男女で求めるものがだいぶちがうので、女性向け恋愛小説を男が読まないのも必然かもしれない。

 ホラーについては、なぜだかわからないけどぼくの琴線にまったく触れなかった。やはり母が好きだったミステリやサスペンスは好きになったのに、ホラーだけは読もうという気にならなかった。

 ホラーが好きじゃないというと「はあ、怖いからだな」とおもわれるかもしれないが、むしろ逆だ。

 ぼくがホラーを苦手とするのはちっとも怖くないからだ。

 幽霊だのお化けだのの存在は信じちゃいないし、「仮に人知を超えた存在が存在したとしても対策のしようもないわけだし怖がるだけ無駄」とおもってしまう。

 たとえばヘビが怖ければ草藪に近づかないとか細長いものがあれば避けるとか対策を立てられるけど、目に見えない神出鬼没の存在は対策の立てようがない。そんなものを怖がってもしかたがない。だからぼくは霊的なものは怖くないし、怖がらない。

 殺人鬼とか通り魔とか交通ルールを守る気のないドライバーとかは怖いんだけどね。




『ぼぎわんが、来る』は心霊系のホラー小説である。

 なぜか〝ぼぎわん〟なる存在につきまとわれる主人公一族。〝ぼぎわん〟が来ても返事をしてはいけない。もし返事をしたら山に連れていかれる。死ぬ寸前まで〝ぼぎわん〟におびえていた祖父と祖母。彼らの心配が的中するかのように、主人公の身の回りで次々に怪異現象が起こりはじめる。そしてついに主人公は〝ぼぎわん〟に襲われ……。


 一章を読みおえたときの感想は「ああ、やっぱり怖くないな」だった。

 身の周りで不吉なことが起こり、近しい人がけがをしたり命を奪われたりし、化け物にだんだん追い詰められ、化け物がやがてはっきりと姿を現したときはもう逃れようがなくて……。

 ホラーの王道パターン。怪談を怖がれる人にとっては怖い話なんだろう。でもぼくにとってはちっとも怖くない。「こんなやついるわけないし、もし存在したとしたら狙われたらどうしようもないから怖がってもしょうがない」とおもえる。

 が、二章を読み進めるうちにその印象が変わった。

 おお、これは怖い……。

 以下ネタバレ。


2023年5月8日月曜日

【読書感想文】津村 記久子『この世にたやすい仕事はない』 / やりがいがあってもなくてもイヤだ

この世にたやすい仕事はない

津村 記久子

内容(e-honより)
「一日コラーゲンの抽出を見守るような仕事はありますかね?」ストレスに耐えかね前職を去った私のふざけた質問に、職安の相談員は、ありますとメガネをキラリと光らせる。隠しカメラを使った小説家の監視、巡回バスのニッチなアナウンス原稿づくり、そして…。社会という宇宙で心震わすマニアックな仕事を巡りつつ自分の居場所を探す、共感と感動のお仕事小説。芸術選奨新人賞受賞。


 ちょっと変なお仕事小説。

 同じ会社で10年以上働いていた「私」だが、燃え尽き症候群のようになって退職し、人付き合いや文章を読むことや仕事にのめりこむことがイヤになる。「たやすい仕事」を求める私に紹介されたのが、「ある小説家の生活をひたすら監視しつづける仕事」「バスのアナウンスに入れる近隣の施設の広告の原稿作成の仕事」「おかきの袋の裏に書いてあるちょっとした豆知識を考える仕事」「『熱中症に気をつけよう』などのあまりメッセージ性のないポスターを貼ってまわる仕事」「広大な公園の中にある小さな小屋にいるだけの仕事」など、一風変わった仕事ばかり。

 どの仕事にもそれなりのやりがいとそれなりの楽しさがあるが、それなりの苦労やストレスもあり……。




 特におもしろかったのは第三章『おかきの袋の仕事』。

 労働環境はいいし、周りの同僚もいい人ばかりだし、仕事の責任も軽いし、でもそれなりにおもしろさもある。徐々にのめりこむ主人公。さらに自分の仕事がおもわぬ高評価を受け、会社の業績にも貢献する。

 だが仕事が認められるようになると周囲からの期待は高まり、同時にプレッシャーや責任感を強く感じるようになる。やりがいやおもしろさと感じていたことが次第に重荷に感じられるようになり……。

 この感覚、なんとなくわかるなあ。

 やりがいがないのはイヤだけど、やりがいがあるのもやっぱりイヤなんだよね。

「あんまり期待されていなかった仕事で期待以上の成果を上げる」とか「自分の仕事が会社の業績に大きく貢献する」ってそれ自体はすごくおもしろいことなんだけど、おもしろいがゆえに重荷になってしまうんだよね。重圧は増えるし、二回目以降は最初ほど評価もされないし。あんまりうまくいきすぎると、イヤになることが増えてしまう。

 プロ野球で三冠王を達成した選手なんて、翌年はすごくやりにくいだろうなあ。昨年より悪ければがっかりされるし、昨年以上の成績を出しても前ほどは評価されない。


 ぼくが書店で働いていたとき、ある人の業務を引き継いだ。担当売場にあれこれ手を入れたので、前年と比べて売上が大きく伸びた。で、ぼくはさっさと異動願いを出してその売場を離れた。なぜなら、1年目は前年比120%の売上を出せても、2年目は良くて100%ぐらいにしかできないとわかっていたから。

 これが理想の働き方だよね。新しい場所に行って業務を改善し、改善したらさっさとそこを離れて次の場所に移る。なかなかそんな仕事ないけど。




 ぼくは今までに四社で正社員として働いてきた。もうすぐ五社目に移る。

 幸いなことに転職を重ねるたびに労働時間は短くなり、給与は増えていった。どんどん働きやすくなっている。ぼく自身が多少スキルを身につけたこともあるし、時代という要因もある(ぼくが大学卒業した頃は景気も良くなくて人出も余っていたのでブラック企業全盛期だった)。

 でも転職がうまくいった最大の要因は運だ。どんな仕事もやってみるまでわからない。慣れてきたら仕事の内容についてはある程度想像がつくが、上司や同僚や顧客がどんな人かは働いてみないとわからない。

 だから転職を迷っている人にはどんどん転職を薦めたい。嫌だったらまたやめればいい。幸い、今の日本は働き手の数が減っている。また次の仕事が見つかりやすい状況だ。

 いろんな会社で二十年ぐらい働いてわかったのは、どの会社もそれなりに良さはあって、それなりに悪さがあるということだ。あたりまえだけど。

 就活生向けにR社やM社が「あなたに最適な仕事が見つかる! 適職診断」なんてやってるけど、最適な仕事なんてない。「わりと我慢できる仕事」と「これ以上我慢できない仕事」があるだけだ。きっと自営業や社長になったって、仕事に対する不満はずっと残るだろう。好きなことを仕事にしている人はいるけど(少ないけど)、好きなことだけを仕事にしている人はいない。

 どんなに給与が良くて楽でやりがいがあっても、不満の種は決して消えない。


 もしぼくが大学生に戻って就活をやり直すとしたら「やりがいとか仕事がおもしろそうかとか」は一切捨てて、雇用条件だけを見るな。業種はなんでもいい。長くなくて安定している労働時間とそこそこの給与。やりがいなんてのはどの仕事にもあるし、どの仕事でも完全には満たされない。でも労働環境がきついと生活すべてがだめになる。労働なんかのために人生を捨てることはない。

 就活したときは仕事選びを「終の棲家を購入するようなもの」って考えてたけど、「賃貸物件をさがすようなもの」ぐらいに考えたらよかったな。どの部屋を借りるかは大事だけど、ぜったいに失敗はあるし、大失敗ならまた引越せばいい。引越しによって失うものはそんなに多くない。「どんな部屋に住んでいるか」は私という人間を示す要素のひとつではあるけど、一生を決定づけるほど大事なことではない。

 二十年近く働いた今だからそうおもえるんだけど。




『この世にたやすい仕事はない』の主人公は他人にあまり心を開かない。ぼくもそういう人間なので、彼女の思考はわりとよく理解できる。

 私は改めて、同じ場所にいて話ができているということは、同じ場所にいて話ができているということは、心理的な距離もないということになる、という仮の定義をまったく疑わない人たちというものを目の当たりにした、ということに気が付き、ちょっと感動して震えた。どういうことなんだろう。団塊ぐらいの年齢の人ってみんなこんな価値観なのか。いやいやまさかな。

 わかるなあ。世の中には「私は腹を割って話したのだからあなたも当然そうすべきだし、そうしてくれているはず」と信じている人っているよなあ。

 たとえば「会社をやめます」って言ったときに「辞めるって決める前になんで相談してくれんかったん」って言った上司とか。安心して相談できる上司、相談して改善するとおもえる環境やったら辞めてへんで!


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2023年4月27日木曜日

小学四年生の問題を解いてみる

 長女が中学受験をするかもしれない。

 ぼく自身は小学校から高校まで公立、大学は国立と「私学」とはまったく縁のない人生を送ってきた。受験をしたことすらない。まあ田舎だったのでそもそもあまり選択肢がなかっただけなんだけど。

 なので娘も同じように公立に進ませるつもりだったのだが、聞くところによると今住んでいるところの校区の中学校はあまりお行儀のよいところではないようだ。

 ううむ。たしかに中学校って、なかなか過酷な環境よなあ。小学校までとがらっとルールが変わるもんな。急に上下関係が厳しくなり、教師も荒々しい人間が増え、(男子の世界では)「おもしろさ」「人の良さ」とかより「強さ(というより強く見えるかどうか)」が重視され、ガキのくせにやたらと大人ぶって背伸びをしあって、一気にすさんだ世界になる。

 ぼくが通っていたのは田舎のおとなしめの中学校だったけど、それでも小学校時代に比べればずいぶん粗野な雰囲気だった。小学校のときは不登校の子なんていなかったけど、中学校では常にクラスに一、二人は不登校(または保健室登校)の子がいた。当時は「なんで学校来ないんだろう」とおもってたけど、今にしておもえば「学校に行きたくなくなる気持ちよくわかるわ。むしろ毎日休まず通ってる子らがすごいな」と言いたくなる。


 ぼくは元気に登校していたし、いじめられたり殴られたりすることもなかったけど、それでも中学校にはあまりいい思い出がない。小学校時代に戻りたいとか高校生活をもう一度やってみたいとかおもうことはあるが、中学生に戻りたいとはまったくおもわない。

 ただでさえいろいろとややこしい中学時代なのに、通う学校が荒れているとつらいだろう。へたすると一生癒えないような傷を負う可能性もある。

 幸い、家から歩いて通えるところに私立の女子中学校がある。校風とかはよく知らないけど、そこに通学している子らはみんなお行儀もいいし楽しそうだ。外から見るかぎりでは悪い学校ではなさそう。


 娘に「中学受験してみる?」と訊いてみると「うん」との返事。きっとよくわかっていないのだろう。

 でも、保育園で仲の良かった子が小学校受験をして国立小学校に通っていることもあって、受験なるものにあまり抵抗を持っていないみたいだ。おかあさん(ぼくの妻)も私立中高一貫校に行っていたし。

 でも、塾に通うのはイヤだという。

 うん、わかるよその気持ち。ぼくもイヤだった。小学校のとき、仲の良かった友人が塾に通いはじめ、いっしょに行かないかと誘われたがぼくは頑として断った。

 勉強は嫌いじゃないけど、勉強を教わるのが嫌いだったんだよね。じっと授業を聴くという行為がとにかく苦手だった。

 高校生のとき、授業を聴くのをやめてひとりで教科書を読んでひとりで問題集を解く勉強法に変えたらぐんぐん成績が良くなった。ぼくには〝授業〟があわなかったのだとおもう。

 授業を聞かないほうが成績がよくなる

 たぶん長女も似たタイプだ。進研ゼミをやっているのだが毎日熱心に課題に取り組んでいる。でもオンライン授業とかは一切聞こうとしない。ぼくと同じで「耳から入ってくる情報を処理するのが苦手」なタイプなんだろうな。


 そんなわけで、はたして受験するかどうかはわからないけど、とりあえず「進研ゼミ中学受験講座」をやってみることにした。月一万円もしなくて、塾に比べるとずっと安いのもあって。


 ぼくが子どもの教育に対して心がけていることはいくつかある。

  • 自発的に勉強をする子になってほしい
  • そのためには、勉強はおもしろいんだということを知ってもらう
  • そのためには「勉強を強制しない」「親も勉強をする」

 勉強をしない親から「勉強しなさい!」と言われることほど腹立たしいことはない。ちゃんと勉強している姿を見せないと説得力がない。

 そこで、中学受験講座の教材が届いたら、まずぼくが読んですべての問題を解いてみた。

 娘の目の前で「あー、まちがえたー!」「うわ、これけっこうむずかしいな……」などとやっていたおかげで、娘も対抗意識を持って「おとうさんがまちがえた問題、正解してた!」「おとうさんに勝った!」などと取り組んでくれている。


 しかし。

 約三十年ぶりに小学生(四年生相当)の問題を解いてみたのだが、これはけっこうむずかしいな。

 さすがに国語や算数はほとんどわかる。とはいえ、三年生までの範囲とは明らかにちがう。

 算数でいうと「これまでの単元がきちんとできていることが前提」の問題が増える。

 たとえば、77×99を計算するにあたって、77×(100-1)としてから、77×100-77×1を解くやりかた。

 これを理解するためには、かけ算というものの性質をきちんと把握している必要がある。これまで出された問題を機械的に計算していた子には解けない。本質をわかっていないと「なぜ77×99は、77×100から77を引いたものなのか」を説明できない。大人でもできない人はいっぱいいる。

 たぶんこのへんではっきりと「算数が得意な子と苦手な子」の差がつくんだろう。

 また、低学年の範囲、たとえば九九が苦手であれば、ひたすら九九を練習すればできるようになる。

 ところが、三桁÷一桁のわり算ができない場合、どんなにわり算の練習をしてもできるようにはならない。かけ算がわからなければわり算は理解できないし、たし算やひき算ができなければ筆算はできない。

 言ってみれば、基礎から応用にさしかかるあたりが四年生。基礎ができていない子がここから成長することは非常にむずかしい。

 そういえばドラえもんののび太は四年生だ。彼はテストで0点ばかりとっている。つまり彼ができないのは四年生の勉強ではなく、もっと前、一年生とか二年生の勉強を理解できていないのだ。そして本人はそのことに気づいていない。

 だから一年生とかの問題集に戻ってやりなおさなくちゃならないのに、先生もママもドラえもんも目の前の結果だけを見て「宿題しなさい」「テストどうだったの」「一生懸命がんばれ!」なんてとんちんかんなことしか言わない。

 あれでは、たとえのび太がどんなにがんばったってできるようにはならない。のび太が気の毒だ。

 のび太が心配


 大人になって解いてみると、社会科はけっこうかんたんだ。もしかしたら小学生当時よりできるかもしれない。世の中のこととか、地名とか方位とか、長年生きていたら自然と覚えられる。都道府県名だって、小学生にしたらほとんど実感の湧かない地名だろうけど、大人になると「行ったことのある場所」だったり「知り合いの住んでいる場所」だったりする。ずっとイメージしやすい。地図記号はぜんぜん覚えてなかったけど。


 むずかしいのは理科だ。えっ、小四理科ってこんなにたくさんのことをおぼえなくちゃいけないの、と驚いた。

 トウモロコシとダイズの種子の違いとか。有胚乳種子とか幼芽とか幼根とかなんじゃそりゃ、という言葉ばかりだ。ぼくもかつて習ったのだろうか。まったく記憶にない。

 そういや中学でも理科2(生物・地学分野)は苦手だったなあ。高校でも化学しかやってないし。自分が、生物分野に関してはまるで知らないことに気づかされる。のび太のことをばかにできない。


 子どもに中学受験させようとおもっている親のみなさん。ぜひいっしょに問題を解いてみましょう。自分がいかにわかっていないか、子どもがどれだけむずかしいことをやっているかが理解できるようになるし。

 おもしろいよ。


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2023年4月26日水曜日

【読書感想文】サム・キーン『スプーンと元素周期表』 / 肉に鉛をトッピングするな

スプーンと元素周期表

サム・キーン(著) 松井 信彦(訳)

内容(e-honより)
紅茶に溶ける金属製スプーンがあるって本当?空調ダクトを清潔に保つ素材は?ネオン管が光るのはなぜ?戦闘機に最適な金属は?そもそも周期表の順番はなにで決まる?万物を構成するたった100種類余りの元素がもたらす不思議な自然現象。その謎解きに奔走する古今東西の科学者たちや諸刃の剣となりうる科学技術の光と影など、元素周期表に凝縮された歴史を繙く比類なきポピュラー・サイエンス。


 寝る前にKindleでちょっとずつ読んでたんだけど……。

 いやー、よく眠れた!

 この本を読んでいるとてきめんに眠たくなってくる。入眠前読書にぴったり。


 とにかくむずかしい。元素周期表にまつわるよもやま話がくりひろげられるのだが、たぶん素人向けに書いてくれているとおもうのだが、それでもよくわからん。

 化学は苦手じゃないんだよ。むしろ高校時代は得意だった。大昔とった杵柄だけど、センター試験の化学は満点だった。

 そんな「高校化学はざっと頭に入っているつもり」という自信をこの本はこっぱみじんに砕いてくれた。ほとんどわからねえ……。


 元素周期表の周辺のエピソードをこれでもかってほど書いているのだが、とにかくむずかしい。「ポピュラー・サイエンス」なんて書いてあるけど、とても素人向けとはおもえない。『Newton』『日経サイエンス』レベルでは太刀打ちできない。

 とはいえ断片的なエピソードの寄せ集めだから、部分部分では楽しめるところもあるんだけど。




 我々が目にする元素周期表をつくったのは、メンドレーエフというロシアの化学者だ。

 今ではあたりまえの周期表だが、つくられた当時は画期的なものだったようだ。

 第一に、メンデレーエフはほかのどの化学者より、元素には変わる性質もあれば保持され性質もあることを理解していた。ほかの化学者は、酸化(第二)水銀(オレンジ色の固体)のような化合物が、気体である酸素と液体の金属である水銀を何らかの方法で「格納している」と考えていたが、メンデレーエフはそうではないと気づいていた。むしろ、酸化水銀に含まれている二つの元素は、分離するとたまたま気体と金属になるのだ、と。変わらないのは各元素の原子量で、メンデレーエフはこの原子量こそ、各々の元素に特徴的な性質と考えた。これは現代の見方にきわめて近い。
 第二に、片手間で元素を縦横に並べようしていたほかの化学者とは違い、メンデレーエフ生涯を通して化学実験室で仕事をして、元素の感触や臭いや反応にかんするひじょうに深い知識を得ていた。(中略)そして、何より重要なのが次の事実だ。メンデレーエフとマイヤーは二人とも、表でまだ元素が見つかっていない位置を空欄として残したのだが、慎重に過ぎたマイヤーとは違って、メンデレーエフは大胆にも新しい元素が見つかるはずだと予言したのである。もっと真剣に探すのだ、化学者と地質学者の諸君、見つかるはずなのだから、と挑発するかのように。同じ列に並ぶ既知の元素の性質から類推して、メンデレーエフはまだ見ぬ元素の密度や原子量まで予言しており、そのうちのいくつかが正しいと判明すると世間からも大きな注目を集めた。さらに、科学者が一八九〇年代にガスを発見した際に、メンデレーエフの表は重大な試練に耐えた。新しい列を一つ足してガスを簡単に取り込むことができたのだ(メンデレーエフは当初、貴ガスの存在を否定したが、その頃になると周期表は彼だけのものではなくなっていた)。

 見つかっている元素を並べるのはメンドレーエフの他にも様々な人が挑戦していたようだが、メンドレーエフは「まだ見つかっていない元素を予言していた」というのだからすごい。なかなかできる発想じゃないよね。


 ところでこの本には「メンドレーエフは原子の存在を認めていなかった」という衝撃的な文章があるのだが、これホント? 原子の存在を認めていない人が元素周期表をつくったってどういうこと???

 さらっとしか書いていなくてさっぱり理解できない。ほんまかいな。

 


 

 元素はどこでつくられるのか。

 恒星(太陽のような星)がつくっているのだという。

 が、それは元素番号26(鉄)まで。それ以降の元素は、恒星でもつくられないという。

 ならば、最も重い部類の元素である二七~九二番め、コバルトからウランまではどこでつくられたのか? B2FH論文によれば、なんとミニビッグバンから出来合いの状態で出てくる。マグネシウムやケイ素などの元素を惜しみなく燃やしたあと、きわめて重い星(太陽の一二倍の質量)は、地球の一日ほどで燃え尽きて鉄の核になる。だが、果てる前に黙示録的な断末魔の叫びを上げる。大きさを維持するためのエネルギー(高温のガスなど)が突然なくなって、燃え尽きた恒星はみずからの途方もない重力によって内向きに爆発し、わずか数秒で数千キロメートルも縮む。核ではさらに陽子と電子がぶつかって中性子ができ、やが中性子のほかはほとんど残らなくなる。すると、この収縮の反動として今度は外向きに爆発する。この爆発が半端ではない。爆発した超新星は数百万キロにまで膨らみ、一カ月のあいだ華々しく、一〇億個の恒星より明るく輝く。そして、爆発中には、途轍もない運動量を持った何兆何億という粒子が毎秒信じられないほど何度も何度も衝突し、通常のエネルギー障壁を飛び越えて鉄と核融合する。これにより多数の鉄の原子核が中性子で覆われ、その一部が崩壊して陽子になることで新しい元素がつくられるのだ。天然に存在する元素とその同体の組み合わせはどれも、この粒子の嵐から吹き出てきたものなのである。

 んー、わからん! わからんけどすごい!

 さっぱり理解できないけど、このスケールにとにかく圧倒される。

 この現象、当然誰も見たことがなければ観測したこともないはずだけど、でも判明している。科学ってすごいなあ。わからんけど。



 

 化学は政治や経済にも大きな影響を及ぼしている。化学兵器がつくられたり、資源をめぐって戦争が勃発したり。

 1990年代、携帯電話を小型化するために密度が高くて熱に強くて腐食しなくて電荷をよく蓄える金属を求めた。それがタンタルとニオブで、多く取れたのがコンゴ民主共和国(当時はザイール)だった。

 当時、コンゴでは紛争が起こっていた。そこにタンタルとニオブが資金をもたらしたことで、軍に金がまわり、紛争が長引いた。また儲けを求めて農民が鉱物探しに乗り出したことで、食糧難に陥った。

 コンゴでの紛争は一九九八~二〇〇一年に熾烈を極め、ここに至って携帯電話メーカーは自分たちが無政府状態の社会に資金を提供していたことに気がついた。評価していいことだが、各メーカーは高くつくにもかかわらずタンタルやニオブをオーストラリアから買い始め、コンゴの紛争は少し鎮まった。それでもなお、二〇〇三年に停戦協定が公式に結ばれたにもかかわらず、同国の東半分、すなわちルワンダ近くでは、事態は今なおあまり沈静化していない。そして最近、また別の元素であるスズが戦闘に資金を供給し始めた。二〇〇六年、ヨーロッパ連合は一般消費者向けの製品に鉛はんだを使用することを禁じ、ほとんどのメーカーが鉛をスズに置き換えた――このスズもたまたまコンゴに大量に埋蔵されているのである。ジョゼフ・コンラッドはかつてコンゴで行われていたことを「人類の良心の歴史をすっかり汚した、最も下劣な金目当ての略奪」と呼んだが、この見方を変える理由は今のところほとんどない。
 こうしたわけで、一九九〇年代なかばから数えて五〇〇万を超える人が殺されており、第二次大戦以降で最大規模の人命損失となっている。かの地での争いは、周期表が数々の高揚の瞬間を演出するばかりではなく、人間の最も醜く残虐な本能にも訴えうることを証明している。

 間接的ではあるけれど、携帯電話が小型化したことで命を落とした人がたくさんいたんだなあ。

 化学が原因ではなく、化学が人々の中にある憎しみや凶暴性を増幅させているだけなんだけど。



 

 アルミニウム。一円玉やジュースの缶などにも使われているごくごく身近な金属だけど、かつてアルミニウムには金よりも価値があった時代もあるのだそうだ。

 二〇年後、フランス人が抽出法を工業用に拡張する方法を突き止め、アルミニウムが商業製品として手に入るようになった。とはいえ、ものすごく値が張り、まだ金より高かった。その理由は、地殻で最もありふれた金属 ―重量にして八パーセントもあり、金より何億倍も豊富である― なのに、まとまった単体としては見つからないからで、必ず何かと、たいてい酸素と堅く結合している。単体の試料を調達するのは奇跡に等しいとされた。フランスはかつて、王冠の宝石の隣にフォートノックス[訳注 金塊が貯蔵されていると言われているアメリカ陸軍基地]ばりにアルミニウムの延べ棒を展示していたし、皇帝ナポレオン三世は晩餐会で貴重なアルミニウム製食器を特別な客だけに出していた(それほどでもない客は金製のナイフやフォークを使った)。アメリカはというと、自国産業の技量をひけらかすため、一八八四年に政府の技師がワシントン記念塔の先端に六ポンド(約二・七キロ)あるアルミニウム製のピラミッド形キャップをかぶせた。ある歴史家によると、このピラミッドを一オンス削り取れば、この塔を建てた労働者全員の賃金一日分を賄えたという。

 アルミニウムを分離する方法を発見したチャールズ・ホールという化学者は莫大な財産を築いたという。

 夢があるねえ。ひとつの金属を取り出すほうほうができたことで大金持ちに。今、我々の身の周りにどれだけアルミニウムが使われているかを考えたら当然だけど。

 こういう化学者がちゃんと報われるのはいいことだ。そうじゃないケースが多いからなあ。



 

 元素のはたらきに関する説明は難解だが、化学者たちのエピソードはおもしろい。

 なかでも感服したのがド・ヘヴェシーというハンガリーの化学者の逸話。

祖国から遠く離れていても、ド・ヘヴェシーの身体は風味豊かなハンガリー料理に慣れており、下宿の賄いのイギリス料理が合わなかった。そこへきて、出される料理にパターンがあることに気づいた彼は、高校のカフェテリアが月曜のハンバーガーを木曜のビーフチリにリサイクルするがごとく、女主人が「新鮮な」と言って毎日出す肉が新鮮とはほど遠いのではないかと疑った。問い詰めたが女主人に否定され、彼は証拠を探すことにした。
 (中略)
彼はある晩、夕食で肉を多めに取ると、女主人が背を向けている隙に「やばい」鉛を肉に振りかけた。女主人はいつものように彼の食べ残しを回収し、ド・ヘヴェシーは翌日、研究所の同僚だったハンス・ガイガーの新しい放射線検出器を下宿に持ち込んだ。ド・ヘヴェシーがその晩出された肉料理に検出器を向けると、案の定、ガイガーカウンターはカリカリカリカリと勢いよく音を立てた。ド・ヘヴェシーはこの証拠を突き付けて女主人を問い詰めた。だが、科学の徒として、放射性現象の不思議の説明に必要以上に念を入れたに違いない。科学捜査の最新ツールを駆使して証拠を鮮やかに押さえられた女主人は、感心してまったく怒らなかったという。ただ、それを機にメニューを変えたかどうかは記録に残っていない。

「一度下げた肉を使いまわしているのではないか」という疑念を確かめるために、鉛とガイガーカウンターで検証……。化学者らしいクレイジーなエピソードだ。

 ちなみに鉛は人体に有毒ですからね。ぜったいに真似をしないように。


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2023年4月24日月曜日

【読書感想文】ロバート・ホワイティング『ニッポン野球は永久に不滅です』 / プロ野球界でいちばん大変なのは通訳

ニッポン野球は永久に不滅です

ロバート・ホワイティング(著) 松井 みどり(訳)

内容(e-honより)
近くて遠い“野球”と“ベースボール”―かつてニッポン野球を賑わしたすごいガイジンがいた。変なガイジンもいた。彼らの活躍を語りながら、滞日20年のジャーナリストの眼を通して見る“日米野球摩擦”の現場。そして、愛と皮肉をこめておくる刺激的なニッポン人論。

 1985年刊行。

 アメリカ人ライターが書いた、日本プロ野球論(なぜかメキシコ野球についてもページが割かれているが)。


 この著者がアメリカ人に向けて日本野球を説明した『和をもって日本となす』がめっぽうおもしろかった(昨年のナンバーワン読書だった)ので期待して読んだが、『ニッポン野球は永久に不滅です』のほうはコラムの寄せ集めで、かつ時代性が強いものだったので、今読むとわかりづらい。

 今から四十年前に活躍した外国人選手の名前があたりまえのように出てくる。さすがに40年近くたった今読むには無理があったか。




 選手について書かれたところよりも、通訳の仕事についての記述のほうがおもしろかった。

 とにかくたいへんそう。

「ガイジンの1年目、特に最初の2ヵ月間がきつくてね」と中島国章。ジョー・ペピトーンの頃からヤクルトの通訳を勤めている。「ガイジンが日本の生活にスムースに入っていけてるかどうか見守るのが僕の仕事なんだ。球場の中はもちろん、プライベートなことまでね。マンション捜しに始まって、家具の買い物を手伝ったり、奥さんにいろんな店を教えてやったり、子供達にいい学校を見つけて、通学が可能かどうか確かめたり……。まあ一日24時間待機ですな。真夜中に子供が病気にでもなれば、飛び起きて病院まで連れていかなくちゃならない」
 中島は言う。
「練習が長すぎるとか、コーチが口出ししすぎるとか、監督にけなされたとか、そういうアメリカ人の不平不満を聞いてやらなくちゃならないんだ。彼らと話しができて、情況を説明してやれる人間は、たいてい僕しかいないわけよ。とにかく何から何まで事情が違い過ぎるんだな。時には彼の心理学者、アドバイザー、時には友達……。アメリカ人の世界に入って行って、興味をもって話を聞いてやる。そうすれば孤立感を深めなくて済むからね。彼の考え方とか、困っていることを僕が理解できれば、監督だって手の打ちようがあるというものだろう? 精神的な悩みがあったら、とてもプレーどころじゃないからね。彼をハッピーにしてやること、うまくいくように手助けすること、それが僕の役目なんだと思っている」
「彼をチームに解け込ませるようにしなくちゃいけない。日本の選手が食事に誘ってくれたらしめたもんさ。ガイジンと付き合ってもいいな、という気になり始めた証拠だからね。もし僕が疲れていて断るとするだろ。そのとたんに行きたくないんだと誤解されて、もう二度と誘ってくれないんだ。その日本人選手とアメリカ人選手が知り合いになれるチャンスはそれっきりなくなっちゃう。 通訳ははにかみ屋じゃ勤まらない。チームのハーモニーを保つためにも、人なつっこくて気さくでなくちゃだめさ。(後略)」

 通訳という立場でありながら、通訳の何倍もの他の仕事がある。外国人選手の通訳となり、秘書となり、コーチとなり、友人とならなくてはならない。

 グラウンドの上だけでなく、ミーティング、休憩中、移動中、宿舎、オフの日にいたるまでずっと外国人選手の身の周りの世話を焼かなくてはならない。人によってはトスバッティングのボールを上げてやったりまでするという。

 球団関係者で、いちばんきつい仕事をしているのは選手でも監督でもなく、ひょっとすると通訳かもしれない。

 これで給料はふつうのサラリーマンぐらいというのだから、ふつうの神経ではやっていられない。能力、拘束時間、責任、ストレスなどを考えたら年俸数千万ぐらい出してもいい仕事だとおもうなあ。




 すべての通訳が口をそろえて「そのまま通訳してはいけない」と語っているのがおもしろい。

 監督が放った失礼な言葉、コーチが口にする的外れなアドバイス、外国人選手が叫んだ罵詈雑言。それらを逐一翻訳していたら、たちまち喧嘩になって選手たちは帰国してしまうだろう。だから「まったくべつの言葉に変換する」技術が求められるそうだ。

 延長12回の末、中日ドラゴンズをシャットアウトしたクライド・ライト。直後のテレビ・インタビューで「どんなお気持ですか?」という質問に、間延びした口調で答えた内容は、まったくもって日本的じゃなかった。
「そうだなぁ、実を言うとよぉ、勝ったか負けたかなんて俺にはどーでもいいんだわさ。早いとこ試合を終わらせて、さっさと家に帰って寝たかったなぁ」
 これを受けた田沼通訳の如才ない翻訳――
「僕は一生懸命やりました!勝てて本当によかったと思っています」。これで波風がたたなくてすんだ。

 と、こんなふうに。

 ここまで極端じゃなくても、〝日本的〟な発言を求められる場面は随所にある。

 たとえばヒーロー・インタビューで記者から「打席に立ったとき、スタンドはすごい声援でしたね。いかがでしたか?」と訊かれた場合、〝日本的〟な答えは「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」であって、他の答えはすべて不正解だ。まちがっても「集中していたので声援は耳に入りませんでした」とか「適度なトレーニングと休息のおかげで良いコンディションを保っていたからだよ」なんて答えてはならない。

 もちろん「ファンのみなさんが打たせてくれたヒットです!」が嘘であることは、選手も記者もファンもみんな知っている。それでもそう言わなくちゃいけない。それが〝日本的〟なふるまいであるから。

 ここで外国人選手の発言をそのまま訳せばファンや他の選手はおもしろくないし、「あんたのその発言はまちがってるよ」と言ったところで外国人選手は納得しないだろう(じっさい間違ってないのだから)。

 そこで、通訳がまず「英語→日本語」の翻訳をおこない、その後に「訳した日本語→〝日本的〟な日本語」に翻訳をするわけだ。めちゃくちゃすごいことやってるなあ。




 コーチ口出しすぎ問題。

 通訳が否が応でも直面しなくてはいけない「異文化の交差点」は、ウェイティング・サークルの問題だ。日本のほとんどの監督が、そこで打順を待つバッターに何らかのアドバイスをしなくてはいけないものだと思っている。(「低めのシュートに気をつけろ」とか「高めのカーブをよくねらえ」とか、その他もろもろのありがたい入れ知恵をする……)
 ところが、たいていのアメリカ人は干渉されるのが大嫌いときてる。アメリカで監督に放任されるのに慣れているからだ。
 ロッテのレロン・リーのコメントはそれをよく物語っている。
「バッターとして言わせてもらうけど、打順を待つ間に他の誰とも口なんかききたくないね。せっかく精神を集中してたのに、ひっかき回されちゃうからさ。俺が頭の中で『スライダー』を浮かべてるっていうのに、飛んで来た通訳に、『シュート』だなんて言われてみな。気になって打てやしないさ」
 サンドイッチマンの根本的なジレンマがここにある。監督の言葉を伝えるのは義務だし、アメリカ人には「こっちの身にもなれよ」とぴしゃりと言われてしまう。

 これは野球界、外国人に限った話ではないよね。

 たとえばプログラムのプの字も知らないのに、プログラマーに対して「こうすればもっと効率化できる」なんて言う上司、きっとあなたの会社にもいるでしょう?


「部下のやりかたに口を出すのが仕事」とおもってる上司が多いからね。今もなお。

 この本には「メジャーリーグで名内野手としてならした外国人選手に対して、ゴロのさばきかたをアドバイスしようとする外野手出身のコーチ」が紹介されているが、これに近い例はいくらでもある。

 プロ野球の世界なんて、何十年も前に引退したおじいちゃんがいまだにテレビでえらそうに「ああしろ、こうしろ」って言ってるからね。あいつらなんか仮に肉体が若返ってもぜったいに今のプロ野球では通用しないのに。

 だいたいプロ野球のコーチなんてほとんどが選手出身で、コーチとしての専門教育を受けてきたわけではない。そして野球のレベルは年々高くなっているのだから、ほとんどの場合は選手のほうがコーチよりもよくわかっている。そうでなくても自分の身体のことはコーチよりも選手のほうがわかるだろうし。

 それでも何か言いたくなる、言わずにはおれないコーチが多い。

 あれは、わからないからこそ言いたくなるんだろうね。自分がわからないから、疎外感を解消するため、あるいは権威を見せつけるために(じっさいは逆にばかにされるだけなんだけど)あれこれと口出しをする。


 そういやぼくが前いた会社でも、営業職出身の上司が、営業社員よりもプログラマや事務職の人間に対して、やれ効率化がどうだとか、仕事のやりかたがどうだとか、愚にもつかないことを言っていた。

 具体的なアドバイスはなにひとつできないから、やれ気合が感じられないだの、士気を上げろだのといったとんちんかんな根性論しか語れない。

 わからないからとんちんかんなことを言う → ばかにされる → ばかにされていることだけは感じ取って挽回しようとする → ますます権威をふりかざして口を出す → ますますばかにされる という流れだ。

 上司がやるべき仕事は「部下のやりかたに口を出す」ではなく「部下のやりかたに口を出さない」のほうが大事なんだろうね。そっちのほうがずっとむずかしい。

 ぼくも気を付けよう。




 プロ野球の話というより、日米比較文化論として読んだ方がおもしろいかもしれない。

 日本プロ野球界の話なのに、日本全体にあてはまることが多いからね。


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2023年4月12日水曜日

【読書感想文】有馬 晋作『暴走するポピュリズム 日本と世界の政治危機』 / で、結局ポピュリズムの何が悪いの?

暴走するポピュリズム

日本と世界の政治危機

有馬 晋作

内容(e-honより)
世界的に長い歴史と波を持つ運動であるポピュリズムは、いかにして日本に現れたのか。世界のポピュリズムの流れとの比較から、一九九〇年代の「改革派首長」(橋本大二郎、北川正恭、田中康夫ら)や小泉改革などに現代日本のポピュリズムの淵源を求め、「橋下劇場」「小池劇場」と呼ばれる「劇場型政治家」が地方政治に現れた政治力学を分析。今後日本でも国政レベルでポピュリズム政党が台頭する可能性があるのか、そうなった場合の危険性や対処法をリベラル・デモクラシー擁護の観点から幅広く論じる。


 ポピュリズム。そのまま訳せば大衆主義などになるのだろうが、日本では批判的なニュアンスを込めて大衆迎合主義や衆愚政治のように使われることが多い。

 この言葉を知ったときからぼくがずっとおもっているのは、「ポピュリズムって悪いことなの?」ということ。

 政治って大衆のためにやるものでしょ? 大衆に迎合するのが悪いことなの? そりゃあ大衆が誤ることは多々あるし、大衆に従った結果マイノリティが著しい不利益を被ることもある。でもそんなのはポピュリズムに限った話ではない。一部のエリートによる寡頭政治にも同じ問題はついてまわる。

 同じように誤るのなら、一部の権力者が誤るよりも大衆が誤った道に進むほうがまだマシなんじゃないかとおもうんだけど。




 ということで「ポピュリズムの何が悪いのかわからない」というぼくの疑問に答えてくれるんじゃないかとおもって『暴走するポピュリズム』を手に取ってみたのだが、結論から言うと答えは見当たらなかった。

 著者がポピュリズムを嫌いなことだけはよくわかったけど。


 たとえば、ポピュリズムが独裁を招くことがある、って書いてあるけど、独裁につながるのはポピュリズムだけじゃないよね。毛沢東とかスターリンとかプーチンはべつにポピュリストじゃないよね。

 だったら、独裁になるかどうかはポピュリズムとは別の問題だとおもうんだよ。

 それに、独裁による政治の暴走が起こるのなら、それはポピュリズムによるものではなく、そもそも憲法や司法によってそれを防止するシステムが機能してないからなんじゃないの?


「維新や希望の党はれいわ新撰組はポピュリズム政党」って決めつけて議論してるんだけど、そもそもポピュリズムの定義がはっきりしない。権力者への攻撃、一部の敵をつくって立ち向かう自分たちを演出なんてどの党もやってることだし。自民党だって下野してたときは庶民の味方のふりをして政権非難してたけどあれもポピュリズム?

 逆に「こういうのはポピュリズムじゃない」という定義をしてほしいんだけど、そのへんの説明は一切ない。

 結局、著者が気に入らない新しい政党はポピュリズム政党、昔からある党はポピュリズムじゃない、って分け方に感じられちゃうんだよね。


 それに、たしかに橋下徹なんて政界進出当初はポピュリストといってもよかったけど(自分でも認めてたし)、それから十年以上たった維新の会をポピュリズム政党と片付けてしまうのはちょっと乱暴な気がする。

 ぼくは大阪市民なので、維新が大阪にどれだけ根付いているかは肌身に感じて知っている(ぼくは支持しないけど)。市長も府知事も市議会も府議会も維新の議員だらけで、いいわるいは別にして、誰がどう見たって大阪では大衆側ではなく権力者側だ。十年以上市政や府政のトップの座にいて、二回も住民投票で反対された都構想をいまだ掲げている党が大衆迎合主義? その認識は現実とずれすぎてない?




 日本においてポピュリズムという言葉がさかんに使われるようになったのは、小泉純一郎の「小泉劇場」の頃からだと著者は指摘する。

 小泉劇場のポピュリズムを分析したものとしては、すでに紹介した大嶽秀夫が有名である。小泉は、金融機関の不良債権処理や公共事業の削減、「構造改革」に伴う倒産や失業などの「痛み」を、国民に甘受してもらわなければと訴えたが、それを「大衆迎合」のポピュリズムでなく、既得権益・抵抗勢力と闘うという「劇的」なものにして実現したといえる。すなわち、小泉のポピュリズム政治の特徴は、「善玉悪玉二元論」を基礎に、政治家や官僚を政治・行政から「甘い汁」を吸う「悪玉」として、自らを一般国民を代表する「善玉」として描き、勧善懲悪的ドラマとして演出するもので、政治を利害の対立調整の過程としてイメージしていないことである。

 この考えは今も生きているよね。

 ぼくが政治に興味を持ちはじめたのはちょうど小泉純一郎氏が自民党総裁選に出馬した頃だったので(そのときの総裁選では小渕恵三氏が勝った。「凡人・軍人・変人」のときね)、それ以前の政治がどんな雰囲気だったかは知らない。

 でも、とにかく今は政治を「敵を負かすもの」ととらえている人が多いように感じる。本来は「利害の調整を図る」ものであって、その根底には「意見の異なる者も認めて尊重する」ことが必要だとおもうが、そんなふうに考えている人は今では少数派なんじゃなかろうか。

 わが党の中にはいろんな考え方があり、他の党にも我々と異なる立場や思想がある。それらすべてを尊重して調整を図るのが私たちの仕事です。……なんて考え方をしている国会議員が今どれだけいるだろうか? 「敵をつくって分断をあおるのがポピュリズムだ」なんて定義をしたら、すべての政党がポピュリズム政党になっちゃうんじゃない?




 日本でもポピュリズム政党が政権奪取に近づいたことがあった。

 2017年に希望の党が結党されたときだ。自公政権の支持率が低下し、都議会で躍進していた都民ファーストの会が国政進出するのために希望の党が結成された。野党第一党であった民進党が希望の党への合流を決め、一躍最大野党となり、直後の衆院選の結果次第では結党わずか数ヶ月で政権奪取もあるのではないか……というムードが漂っていた。

 当時の希望の党には国政の実績はまるでなく、ビジョンだってほとんどなかった(あったのかもしれないが国民のほとんどは理解していなかった)。それでも希望の党はまちがいなく衆院選での大勝利に近づいていた。あれはまちがいなくポピュリズムといっていいだろう。


 が、民進党との合流を発表した直後の記者会見で小池代表が「(安全保障への考えや憲法観が異なる議員は)排除いたします」と述べたことで雰囲気は一転。民進党議員からも国民からも反発を招き、合流を拒否した議員たちによる立憲民主党結成があり、衆院選でも希望の党は政権奪取どころか立憲民主党の議席をも下回ることとなった。

 実は、中道左派の政党は、世界的に見ても混迷の状況である。その理由は、グローバル化が先進国に思ったほどの果実を与えず分配のためのパイが十分増えなかったからともいえる。つまり、グローバル化の進展によって再分配政策を十分展開できず、中間層の所得が伸び悩んでいる。また先進諸国では中道左派と中道右派の政党の政策が近づき、その差がなくなっている。日本でも安倍政権が、同一労働同一賃金など左派のお株を奪うような政策を実施しようとしている。しかし、日本の中道左派と中道右派の支持者の中には、既成政治への不信感をベースに長期政権を望ましく思わず非自民に期待する人々もいる。もともと保守で非自民に立つ小池率いる「希望の党」は、その受け皿になる可能性が十分あった。しかし、ポピュリズム的要素が強いだけに、「排除」という言葉によって一気に失速してしまった。そして、その結果、野党では分裂が一気に進んでしまったといえる。
 以上のことをみると、今回の「希望の党」の動きは、ポピュリズム戦略としては、あり得る動きといえ、もし成功していれば日本政治の歴史に残ったであろう。ただ、「排除」という言葉ひとつで情勢が大きく変わるのは、無党派層の風向き次第で勢いに差がつくポピュリズム故の結果だったといえよう。

 ほんとに「排除」の一言で政局がころっと変わってしまった。あの一言がなければその後の日本政治はまったく別のものになっていたんじゃないだろうか。

 あの発言は「たった一言で歴史を動かした」ランキングの中でも相当上位にくるんじゃないだろうか。


 今は自公政権が過半数の議席をとっているが、その支持基盤は盤石なものではない。国民の多くは不満を抱えている。その不満の受け皿となる党がないだけで。

 だから、今後も大衆のハートをうまくつかむ政党が現れたら、あっという間に政権交代を成し遂げてしまうかもしれない。少なくとも、既存政党が少しずつ議席を増やしていって……という展開よりは、新党が一気にまくるシナリオのほうがずっとありそうではある。




 読めば読むほど、ポピュリズムが悪いというよりは、ポピュリズムによって引き起こされるかもしれない出来事(三権分立の破壊とか少数派の弾圧とか民主主義の形骸化とか)が悪いだけで、ポピュリズム自体はべつに悪くないんじゃないかとおもう。

 そして立憲主義さえ担保できていれば、ポピュリズム政党がどれだけ議席を獲得しようと独裁につながることはない。

 逆にいえば、憲法、司法、報道に手を入れようとする為政者は徹底的に排除しなくてはならないということだ。そこを自分たちの都合のよいように変えようとしてるのって、今のところはポピュリズム政党じゃなくて歴史あるあの党だとおもうけど。


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2023年4月6日木曜日

ズッコケ三人組シリーズを全部読んでの感想

 那須正幹さんの『ズッコケ三人組』シリーズを全巻読んだ(『中年三人組』除く)。

 26作目までは小学生のときに読み、27作目からは大人になってはじめて読んだ。

 その上で、自分なりに全作をランク付けしてみた。


■S(児童文学史に残る大傑作)

  4. あやうしズッコケ探検隊
 11. 花のズッコケ児童会長
 13. うわさのズッコケ株式会社


 やはりこの三作は別格。『探検隊』は『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』と肩を並べる(どころか上回る)サバイバルものの白眉だし、『児童会長』は正義のあぶなっかしさについて教えてくれる、那須正幹氏らしい名作。そして『株式会社』は経営学の教科書としてもすばらしい。もちろんどれも物語自体がパワフルでおもしろい。

 子ども時代に読んでおもしろかったという思い出補正もあるが、大人になっても十分読める。

 おもしろい作品に共通しているのは、三人組が主体的に行動を起こすこと、努力や知恵で状況を打開するが最後はズッコケること。やっぱり最後にズッコケてこそのズッコケ三人組。


■A(おもしろい!)

  1. それいけズッコケ三人組
  3. ズッコケ㊙大作戦
  7. とびだせズッコケ事件記者
 10. ズッコケ山賊修業中
 17. ズッコケ文化祭事件
 19. ズッコケ三人組の推理教室
 20. 大当たりズッコケ占い百科
 22. ズッコケTV本番中
 36. ズッコケ三人組のダイエット講座
 42. ズッコケ家出大旅行
 44. ズッコケ怪盗X最後の戦い


『㊙大作戦』『山賊修行中』『事件記者』『TV本番中』あたりは子どもの頃は「そこそこ」の印象だったのだが、大人になってから読むと当時よりもおもしろく感じる。

『事件記者』は、派手さこそないものの三人のキャラクターの活かし方や起承転結のうまさは随一といっていいかもしれない。『TV本番中』も、少年の喧嘩を繊細に描いた秀作。

 人間の心の暗部を描いた『㊙大作戦』『ダイエット講座』『占い百科』、カルト団体を描いた『山賊修業中』、ホームレスの生活に飛びこむ『家出大旅行』など意欲的な作品は、賛否わかれるだろうが個人的にはけっこう好きだ(娘は『占い百科』や『山賊修行中』は怖いから好きじゃないと言っていた)。

 ただ少年が元気に活躍するだけじゃない、嫌なところや醜いものをしっかり描いているのも初期ズッコケシリーズの魅力よね。お化けや幽霊が出てくる怪談じゃなくて、人間の怖さを書いた児童文学ってあんまりないもんね。わかりやすく悪い人じゃなくて、思想や価値観が大きく違う人の怖さ。


■B(まずまず楽しめる)

  2. ぼくらはズッコケ探偵団
  6. ズッコケ時間漂流記
  8. こちらズッコケ探偵事務所
 12. ズッコケ宇宙大旅行
 15. ズッコケ結婚相談所
 16. 謎のズッコケ海賊島
 21. ズッコケ山岳救助隊
 23. ズッコケ妖怪大図鑑
 25. ズッコケ三人組の未来報告
 26. ズッコケ三人組対怪盗X
 27. ズッコケ三人組の大運動会
 28. 参上!ズッコケ忍者軍団
 31. ズッコケ発明狂時代
 33. ズッコケ三人組の神様体験
 37. ズッコケ脅威の大震災
 40. ズッコケ三人組のバック・トゥ・ザ・フューチャー
 41. 緊急入院!ズッコケ病院大事件
 45. ズッコケ情報公開㊙ファイル
 46. ズッコケ三人組の地底王国

 このあたりは、児童文学としては悪くないんだけど、ズッコケならでは、という感じがしない作品が多い。よくある冒険もの、という感じで。とはいえ登場人物たちが生き生きと動いているので十分おもしろい。


■C(ズッコケシリーズとしてはハズレ)

  5. ズッコケ心霊学入門
 14. ズッコケ恐怖体験
 24. 夢のズッコケ修学旅行
 30. ズッコケ三人組と学校の怪談
 32. ズッコケ愛の動物記
 35. ズッコケ三人組ハワイに行く
 38. ズッコケ怪盗Xの再挑戦
 39. ズッコケ海底大陸の秘密

 読みどころはあるものの、全体として見ると単調だったり話運びに無理のある作品。

 あと個人的に心霊ものが好きじゃないんだよね。怖いとおもえないから。「心霊学入門」や「恐怖体験」は単なる怪談じゃなくて蘊蓄や歴史の要素を盛り込んだりしている点は良かったけど。


■D(つまらない)

  9. ズッコケ財宝調査隊
 18. 驚異のズッコケ大時震
 29. ズッコケ三人組のミステリーツアー
 34. ズッコケ三人組と死神人形
 43. ズッコケ芸能界情報
 47. ズッコケ魔の異郷伝説
 48. ズッコケ怪奇館 幽霊の正体
 49. ズッコケ愛のプレゼント計画
 50. ズッコケ三人組の卒業式

 特に見どころのない作品。流行りに乗っかって書かれたであろうものが多い。ラスト四作がここに並んでいるのが切ない。



 こうして見ると、ズッコケシリーズが輝いていたのは20作目ぐらいまで、徐々にパワーダウンしてそれでも30作目ぐらいまでは十分におもしろい作品も多かった。

 30~40作目ぐらいはそのとき話題になったものを取り入れている(怪談、推理もの、震災など)のがかえって痛々しい。時代についていこうと必死になって、けれどついていけなかったんだろうな。パソコンが出てきたりするが「がんばって調べて書きました」という感じがする。当然ながらおもしろさにつながっていない。

 40巻ぐらいからは、世間の流行りに迎合せずに独自路線を進む兆しがみえはじめる。伝染病、ホームレス、情報公開、新興宗教など、ユニークなテーマを取り入れだす。が、大人にとってはわりとおもしろいテーマでも、やはり子どもにはウケない。最後のほうは「これは作者自身も楽しんで書いてないだろうな」とおもえる作品が多かった。


 ぼくにとっては、前半(26作まで)は小学生時代に読んだものの再読で、残りの24作は大人になってはじめて読んだ。ちょうどそのへんで小学校を卒業して児童文学を読む年齢じゃなくなったんだよね。

 今にしておもうと、半分ぐらいまででやめといてよかったのかもしれない。そのへんでやめたからこそ「おもしろかった児童文学シリーズ」として美しい思い出になっていたのだ。あのまま読み続けていたらその印象もずいぶん違ったものになっていただろう。

 人に勧めるとしたら20作目ぐらいまでかなあ。


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2023年4月5日水曜日

【読書感想文】笹沢 左保『人喰い』 / タイトルだけが期待はずれ。

人喰い

笹沢 左保

内容(e-honより)
熾烈な労働争議が続く「本多銃砲火薬店」の工場に勤務する、花城佐紀子の姉・由記子が、遺書を残して失踪した。社長の一人息子の本多昭一と心中するという。失踪から二日後、昭一の遺体は発見されたが、由記子の行方はわからない。殺人犯として指名手配を受けた姉を追い、由記子の同僚でもある恋人の豊島とともに佐紀子は必死の捜索を続けるが、工場でさらなる事件が起こる。第14回日本推理作家協会賞を受賞した傑作長編ミステリー。


 さほど古い本ではないのに、内容や文体が妙に古い。奥付を見ると、2008年刊。あれ? それにしちゃあ登場人物の考えや行動が古すぎるぞ? 銃砲店とか労働組合とか、あらゆる小道具が現代的じゃない。

 調べてみると、1960年刊行の本の復刊だった。あー、どうりで。




 1960年というと、今から60年以上昔かー。うわー、古典だなー。

 60年って長いよね。明治維新から昭和のはじまりまでがおよそ60年。ちょんまげ結ったお侍さんが歩いてた時代から、洋服着て映画館行って洋食食べる時代になるぐらいのスパンだ。とんでもなく長い。

 でありながら『人喰い』は今読んでもちゃんとおもしろい。使われているトリックも、推理の道筋も、ほとんど現代でも有効なものばかりだ。今だと無理があるのは「ライターがあるのにマッチを使うはずがない!」という推理ぐらいかな。

 まあ交際を反対された男女が心中するとか、会社と第一組合と第二組合が三つ巴でいがみあっているとかは今の感覚では理解しがたいけど。でもそれはそれで当時の人々の人生観をうかがい知れるものとしておもしろい。




 意外性のあるトリック、ほどよく意外な真犯人、論理的な謎解き、丁寧な心中描写など上質な本格ミステリ。まあトリックはかなり無理があるというか「いくら疑われないためとはいえそこまでやらんだろ……」という感じではあるのだが。また、かなり難しい連続した犯行をほぼノーミスでやり遂げているところも都合がよい気はするが、まあそれは小説なのでしかたがない。

 いちばん引っかかったのは、タイトル『人喰い』。一応最後でタイトルの意味が明かされるけど、あまりピンとこない。もっと猟奇的なストーリーを想像しただけに、肩透かしを食らった気分。『人喰い』だけに人を食ったようながっかりタイトルだった。


 ところどころ穴は目立つが、総じていえばちゃんとおもしろいミステリでした。60年以上前の小説ってことで期待せずに読んだのだけど、いい意味で裏切られた。


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